はてなキーワード: 観光とは
JR東、東海、西、四国はなぜサンライズを大々的に広告しないんだろう
駅のポスターやネットの広告では新幹線にスキー、Suicaのことばかり目にする
はじめに言うが、自分はVRChatをはじめて間もなく、他の先行者に比べて非常に遅いスタートで、何の経験値も技術も知識も有さず、高価なVR機器も所持していない。特別なことなどなにもない、ただの1ユーザーである。
VRChatの技術的な側面だとか、クリエイティブな側面、コミュニティツールとして、ゲームとしての側面。その特性や経験から得られる知見などについて語る記事はすでに多くある。だからあえて今、何もない自分が語れることを、始めたてのどこにでもいる普遍的なユーザーがVRChatで最初に感じれることだろうエモーショナルを、とても小さな発見と大きな感動を、美少女の姿になって頭をナデナデされるということを、ここに書き記そうと思う。
先日知り合いの教えてもらいながらはじめてVRChatをやってみた。steamで無料でダウンロードできる。VR機器も高スペックのPCも一切必要なく、steamである程度ゲームができる程度のマシンであれば問題なく起動が可能だった。UIは全て英語だが、操作に難しいところはなく、英語なんてできなくてもなんの問題もなかった。
worldのメニューにはたくさんのworldが表示され、正直よくわからなくて混乱しかけたが、ありがたいことにかわいいキャラの画像が使われているworldを直感的に選ぶと美少女のavatarを配布するworldにたどり着けた。置いてあるavatarをクリックしてメニューでfavoriteすると自分は美少女になった。といっても視点はずっと一人称なため、たとえ自分が美少女になったところで実感は薄い。PCの前にいるのは紛れもなく自分であり美少女ではない。美少女のいい匂いもやわらかい感触も耳に優しい声音もない。美少女のスキンをかぶっただけのおっさんだ。ほとんどのworldにはmirrorが設置されていて、それを通して自身の姿を見ることはできるが、現実の自分を客観視できないようにVRの自分を客観視することもできない。
ただなにはともあれ、美少女の皮を手に入れることはできた。さてどうするか、話すのだ。VR“Chat”である。そう、これはChatツールなのだ。いろいろできるらしいけど正直なにもわからない。とりあえず感覚的にavatarの状態で他人と交流できることはわかる。人が多いworldにいく。外人だらけだ。なにをいっているのかわからない。日本語が通じる相手がいるだろうworldをsearchする。検索ワード[JP]、[japan]、[japanese]。なかなかみつからない。なるほど、検索性はあまりよくないようだ。twitterで検索をかけた。
VRChat観光ガイド (@GuidesOfVRC) | Twitter / https://twitter.com/GuidesOfVRC
紹介されたworldを検索していく。やっと日本語が通じる相手を見つける。最初のコミュニケーションを取るまでこれだけのプロセスが要った。「なんのためにこんなことをしているんだろう」そんなことを考えつつ、初対面の人と会話をする。初対面の人にいきなりこちらから声をかけるのは失礼じゃないだろうかなんて馬鹿なことを考える前に誰かから声をかけられる。『ハロー』『こんにちわ』『こんばんわ』挨拶を交わすと自然に会話が始まる。リアルのコミュニケーションよりずっと手早い。avatar同士のコミュニケーションはVRChatがはじめてではない。今日までずっと遊び続けているMMOやFPSゲームででもキャラクターを介したコミュニケーションを日常的に行ってきた。会話の内容も特にかわった話はない。適当な雑談をして、なんとなくで盛り上がったりする。まるでそう、MMOにログインしてゲームプレイをせずにひたすら仲間同士で会話に興じているような感じだ。そうして自分は、そんなどこか懐かしいような不思議と落ち着くコミュニケーションをする最中、頭をナデナデされた。
今まで自分が体験してきたバーチャルのコミュニケーションでも、バーチャルな身体の接触を伴うものはたくさんあった。ハグのモーションで親交を深めたり、キャラクター同士にキスをさせたり、互いに銃口を突きつけ合ったり。ナデナデはそのどれでもなかった。一人称の視点の先にたしかに話している相手がいて、その相手の手が自分の頭へ伸びている。あらかじめ用意されたモーションではなくHMDのトラッキングにより、相手が自由に手を伸ばして、思うままにこちらの頭に触れている。頭の上で手が動いているのがわかる。相手は微笑んでいる。自分はその時、たしかに可愛がられていた。美少女としてナデナデされていた。相手が、美少女の自分のことを、かわいいと思って触れる。そのプロセスが圧倒的リアルな感覚を伴って伝わってくる。「いったいなんで!?」「どうして?」そんな驚きがある。バーチャルの自分もそんな顔をしていたかもしれない。自分が可愛がられているという理解がある。理解してしまう。自分のことをナデナデしてくれている相手を見ることが、mirrorを覗き見るよりも強く今の自分の姿がどうなっているかを感じさせる。自分がいまどうなっているのかを理解する。その時、自分はたしかにVRで美少女になった。自分の遺伝子の中に眠る、美少女だった可能性の情報が刺激され、目覚めてしまう。自分の中に眠る美少女が揺り起こされてしまう。かわいいって思われている。愛されている。ナデナデされている。それらの情報が、本能に眠っていた自分の中の美少女によって幸の感情に変換されていく。うれしい。恥ずかしい。気持ちいい。複雑な感情が激動して綯い交ぜになっていく。バーチャル空間に生まれたエゴと自らのイドが対面する。なにを書いているのかわからないがつまりそういうことだ。そうだ、自分は美少女になりたかったんだ。
VRChatで美少女になって頭をナデナデされるという体験は強烈な感動を生み出す。この感動は大した用意も設備もなくともPCさえあれば、わずかな手間暇のみで味わえる。それが伝えられたのならば、この上ない。
寝台では浅く眠っただけだった。起きるとそこは横浜駅を発車したばかりで、車内は人々がまばらに朝の眠気を横たえていた。
金曜、仕事が定時を少し回って終わった。
エンジニアとして現場研修をしている私は、帰路につくためバスから電車へと乗り換える赤羽駅にいた。
――どこか遠くへ行きたい。
そう思いたち、改札を抜ける前にみどりの窓口へと向かった。
用意されたのは、琴平行きの座席特急券。それを手にしたあと、大宮にある自宅へ一旦戻って、身支度を始めた。
最低限の替えの着替えと、歯ブラシ、タオル、文庫本をリュックサックへ突っ込み、口座から少しだけ金を引き出し、気付くと東京駅9番線ホームでサンライズ瀬戸を待っていた。
入線してきた赤色と薄茶色の車体に乗り込み、間もなく発車したサンライズ瀬戸号の車窓へ目を向ける。
通過する品川駅にはまだ多くの通勤客が帰路を急ぐ。彼らを裏切るかのようにして、私は東京を離れた。
小学生の遠足のときのように、興奮で眠りは浅く、然し心地の良い揺れはまるで子守唄のようだ。
沼津を過ぎるまではそんな調子で、しかし体がいよいよ慣れたのか、それからは岡山で出雲市行きと分割するまでぐっすり眠った。
瀬戸大橋線に入り、車窓には瀬戸の島々が並ぶ。それまで横になっていた私は、その時を待っていたかのようにすぐさま体を起こし、洗面台で丁寧に顔を洗い、歯を磨いた。高松では多くの乗客が下車し、それから延長運転を行う琴平行きの車内は伽藍であった。
定刻で琴平に到着したサンライズ瀬戸は、しばらくホームに身を横たえ、旅を始める我々を見送っていたように思えた。
観光案内所も閉まっている。まだ9時前だった。
急ぐ必要もない私は、とりあえずその足で気の向くままに、初めて足を踏み入れた四国の道を歩き出した。
金比羅山の長大で急な階段参道はやはり足に堪えたが、御本宮からの眺めを見てそれも消えてしまった。
初詣からまだ数週間足らずで再びお参りをするのは変な気分だったが、この旅の無事を願い、参道列に加わり手を合わせる。
いきあたりばったりでこのあとの予定も何一つ決まってはいない。不思議とそれが心地よかった。
来た道をそのまま下り、琴平駅に戻る間に土産の品をいくつか買った。飴、手ぬぐい(今治のものだ)、饅頭。
すれ違う人々は意外にもスーツ姿の団体が多く、1人の私は割に目立った。それもまた不思議と気分を高揚させた。
予讃線に乗り継ぐ多度津駅で近くの食堂に入り、日替わりの昼食を注文した。
予想はしていたが、メニューにはナチュラルにうどんが設定されていた。かき揚げやおにぎりと一緒にいただく。もちろんとても美味しかった。
予讃線下り松山行きの特急いしづち、しおかぜの自由席は半分ほど埋まっていた。
空いている窓側席に腰を下ろし、金比羅山で蓄えた疲労をしばしの間、癒やす。
文庫本を開いてすぐ眠ってしまい、松山駅の到着案内で目を覚ますことになった。
松山駅を降りると、失礼ながら想定していた風景とはだいぶ違った街並みが広がった。
すぐそばに伊予鉄道の路面電車が走り、人々が休日らしい顔持ちで道を往きかっていた。
バスターミナルにて1Dayパスを購入し、中心市街である大街道電停に向かう。
大街道電停は松山城の目と鼻の先にあり、電停を降りる瞬間、目に入った。
琴平駅では松山方面に向かうか、高知方面に向かうか一寸悩んだのだが、松山に来て正解だったようだ。非常に立派な天守閣だった。
城を横目にマンホールカード収集のため坂の上の雲ミュージアムに赴き、1時間ほど観賞したのち、喫茶店に入りたばこを吸った。
道後温泉行きの時刻に合わせて喫茶店を出て、再び路面電車に乗り込む。
きっとこのまま温泉宿に泊まるのだろう。車内は温泉客でほぼ席が埋まっていた。
道後温泉街は本当に賑わっていて、改めて今日が土曜日だということを私に再認識させた。
――少し急がなければ。
人混みを縫うようにアーケードを抜け、道後温泉本館で湯に浸かった。
復路の寝台が高松駅を21時半前に発車する。
琴平駅のみどりの窓口ですでに確保していた、その列車のことを念頭に置きながら、再び路面電車に乗り、JR松山駅前電停で降りる。
駅前のキオスクで少しのビールとつまみを購入し、もうすぐ発車する高松行きの特急に乗り込んだ。
もうこの旅も終わりだ。
余韻と若干の寂しさを感じながら、日が暮れかかっている四国の風景を見て、ビールを飲んだ。
2時間以上瀬戸内海のふちを走りきり、降り立った高松駅は、高層ビルがいくつかそびえ立つ、立派な港町だった。
連絡船時代の面影をほんの少しだけ残したホームでまたうどんを食べ、キオスクでビールとつまみを買い足す。最後の晩餐ともいえるような光景だった。
もう少し、ここにいたかったな。
そんな気持ちを奪い去るようにして、寝台特急サンライズ瀬戸は高松を出発。途中の岡山で出雲市から来た列車と連結し、東京に私を運んだ。
<追記>
「座席特急券」と書いたのは、ノビノビ座席について、寝台券の必要がなく座席として発券される特急券というニュアンスを込める為です。
・高知について
今回でサンライズが大好きになったので、また近いうちに乗って、高知城も見てみたいです。
あと、四万十川も。
はてなポイントでメッセージをもらったことがきっかけでメールをやり取りするようになり、先日闇属性の人とデートをしました。
車で2時間ほどの駅まで迎えに来てもらい、雪の残る山道をドライブ。
宿の近くの湖畔をドライブしながら街に出ました。
お酒を飲まずにこの時間に話せる場所がどこにもなくて、仕方なくカラオケ。
あんなにメールをやり取りしたのに、私たちは初めて会った人同士で、改めて正面に座るのがなんだか気まずい。
私は次々に曲を入れて、すごく恥ずかしかったけど、ひとりで歌って時間が経ちました。
「人前で歌うのは苦手」とはじめは聞くだけだった彼だけど、釣られてきたのかトイレへいって戻ってきたらこっそり1人で歌っているのを発見。
彼もすごく恥ずかしそうだった。
翌朝も宿のカフェで待ち合わせ。
昨夜走った湖畔を眺める高台へ連れていってくれて、湖から海に続く水面と晴れ渡る空をみました。
快晴。
そのあと彼は桜の木立に囲まれた近くのカフェに案内してくれたのですが、時間が早くてまだ開いていませんでした。
ちょっと残念そうな彼。
「最近出来たばかりのカフェチェーンにまだいったことがない」と彼がいうので一緒にいってモーニングを食べました。
それから「山がきれいに見えるところがある」としばらくドライブして海へ。
海辺の公園で遊ぶ子供たちを眺めながらとりとめのない話をして、浜辺に出て冬の波打ち際をみて、地元の史蹟の草原を並んで歩きました。
車に戻ってまたしばらくドライブ。
「この道を戻るとき山がきれいに見える」といわれ、高架をくぐり抜け元来た道を戻ると雪を頂いた雄大な山の峰が正面にあらわれました。
「天気がよくてよかった」とちょっと得意げに誇らしさでにこにこしているうれしそうな彼。
時刻は三時過ぎ。お昼を食べずにドライブしたので、少しお腹が空いてきました。
「珈琲の美味しいお店がある」と地元に昔からあるレストランへ。
彼はキャラメルモカを、私はハンバーグセットをいただきました。
「地元の人はみんなここへ来る。知り合いがいるかも」と彼はちょっとそわそわ落ち着かない様子。
実はカフェチェーンに入ったときも、カラオケへいったときも、彼はずっとどこかで知り合いに会うんじゃないかと何度も口にしていて。
そんなに気になるところへ、なぜ私を連れて来ちゃうのかな。
そろそろ日暮れになり、少し寒くなって来たのでお土産屋さんで浴用タオルを買って路地に並ぶ足湯へ。
冷たい風に吹かれながら並んで足湯へ入っていると、向かいに座ったおばあさんがちらちらこちらを見てくる。
「今頃のこの辺の名物といえば、やっぱり蟹ですか?」と話し掛けてみた。
「そうだね、やっぱり蟹だ」とおばあさんは応じてくれて「ここは美味しいものがたくさんある。私は長崎から嫁に来たけど、あなたもこちらへ来たらいいよ」と思わせぶりなことをいわれる。
彼の方を見れなくて、すぐに話を観光に戻して、どうでもいいのに地元の温泉について根ほり葉ほり聞いてしまいました。
すっかり温まって、ちょっと無謀なことをしたい気持ちになって、一緒に温泉へいこうと彼にいってみた。
彼はびっくりしていたけど、すぐに近くの温泉へ連れていってくれて。
彼は「人と待ち合わせして温泉に入るのは初めて」といっていて、彼のいろいろな初めてを一緒に経験できることがうれしかった。
二人でぽかぽかになったところで以前はてなでも話題になっていたお寿司屋さんへ。
彼の街はお魚が新鮮なことで有名。
握りも茶碗蒸しも、カウンターのお寿司屋さんに引けを取らない美味しさでびっくり。
店内は大混雑。彼は知り合いに会うんじゃないかとまた少しそわそわしながらも次々お皿を積み上げていきました。
それから朝の高台へ戻って、湖畔を囲む夜景と満点の星空を見ました。
誰もいない高台は静かで、雲の流れる音や星の瞬きさえ聞こえてきそうだった。
彼は星座の名前を調べるアプリでずいぶん長い間iPhoneの画面を眺めていて。
二人きりの車内で小さな画面を一緒に見ながら画面の中の星空と、真っ暗な夜空の本物の星空を長い間交互に確認し続けていました。
星空がそんなに気になるのか、気まずくてアプリに夢中なふりかのかわからなくて、でも聞けなくて
外は暗く穏やかな月明かりで何もかもやさしいのに、心の中には鼻先に暗幕を下ろされるような闇があった。
「『○○駅で僕と握手!』ってメールに書いていたのに握手してないよ」といったら握手してくれた。
「実は駅で両腕広げて待っていようかと思った」と笑いながらいう彼。
「ウケるかと思って」
三日目。
昨日の高台で昨日と少し違う水面を眺めながら、お互いの仕事の話や趣味の話やはてなの話をしました。
彼も私もxevraさんが好きで、xevraさんに会いたいねと何度も話した。
生きることが辛くて考えがまとまらなかったとき、「とにかく野菜と運動と瞑想と睡眠!」と思って乗り切ったこと。
いまもそれで結構助けられていること。
そこが私達の数少ない共通点。
お互いに書いた増田の話、好きなブックマーカーの話、ブクマや星が集まったときのこと、なくなってしまうはてなハイクのこと。
これもこの三日間で何度も繰り返された話題。
id でしか知らなかった人が目の前にいて、知らない山の高台で私を名前で呼んでいる。
そのあと昨日いけなかったカフェへ。インスタ映えしそうなリア充ビジュアルのケーキセットを二人で頼む。
彼は数量限定のパンケーキセットが売り切れでちょっとシュンとしてる。
ケーキを食べたら駅に出て、そろそろ予約した新幹線で帰らなければならない。
自由席だから慌てなくてもいいんだけど、彼も疲れていると思うし、ちゃんと元気にさよならしたい。
なんてこっそり考えていたら、「昨日いけなかった見晴らしのいい公園がある。いってもいいですか」といわれた。
いいけど、いいのかな。
いいの?
そこからまた街を抜け、野山と木立をいくつも過ぎて、山の中腹にある運動公園へ向かいました。
助手席から眺める冬の道はまぶしいくらいで、遠くに見える焚き火の煙と掛けていく子供と枯れ草を集めて燃やす老人が絵のようだった。
運動公園で私達は子供たちに混じって長い長いすべり台を滑り、広々とした草原で凧揚げをしました。
凧揚げをしている子供をみて「凧揚げしたいな」とぼんやりひとりごとをいったら、彼が売店でゲイラカイトを買ってくれて、びっくりした。
凧揚げなんて子供のとき以来で、どうやって飛ばすのか思い出せなかったけど、彼は「親戚の子供のために去年あげてやった」と、すぐに軽々凧を飛ばしてくれた。
三日間何もかも楽しかったけど、芝生の上を走りながら凧揚げをしたことがとくに印象に残っています。
青空に真っ白な凧糸がくっきりと伸びて、舞い上がる凧は生き物のようだった。
あとのことがどうだとしても。
彼はどうしても私に白バラ瓶牛乳を飲んでほしいみたいで、何件かお店を回って最後は直売所へいきました。
もう新幹線が出る時間はとっくに過ぎていたけど、牛乳は美味しかったし、珈琲牛乳を飲みながら得意そうな彼はかわいかったです。
彼の帰り時間が心配で、最寄り駅で大丈夫といいましたが、帰りも彼は2時間かけて新幹線がでる街まで送ってくれました。
「私達、仲良くなれるかな?」
赤紫の夕映えを背に稜線が黒々と横たわる山道で愛車を走らせながら彼はいった。
駅について駐車場の前にあったカフェで茄子と豚の生姜焼き定食を食べました。
「これで野菜がとれた」
と二人で笑った。運動は凧揚げで解消されたんじゃないかと思う。
並んで改札口へ向かいながら、どんな風にさよならをいえばいいのか、まもなく訪れる瞬間を思って胸が痛んだ。
でも表示板に出ていた発車時刻が迫る新幹線に助けられて、私は軽々と改札を抜けて彼に手を振った。
彼も改札の向こうで、三日前まで知らなかったやさしい笑顔で手を振ってくれた。
席に着いてから「こだま」に乗ってしまったことに気がついた。気持ちが乱れていたことを思い知らされた気がして切なかった。
「ブログに書いていいですよ。僕は言及されたがりなんです」と彼はいうけど、こんなあまりにも個人的過ぎる話題はいつものエントリーから浮いてしまうと思う。
それに彼と違って私ははてなで目立つ方でもない。
というわけで、彼が大好きな増田に書きました。
ちなみに恋人としては見れないとシリアスに何度も念を押されたので、彼は引き続きみんなのアイドルだし恋人募集中です。
残念だけど、私のおっぱいが大きくないからいけないんだと思う。
思わせぶりに切ない感じで書いておいたので、遊び人として名を馳せて欲しい。
嘘。ほんと真面目でいい人なのでみんなカジュアルに誘ってみてください。
今回はすっぴん黒髪でしたが、大規模オフだったら金髪女装も考えるとのことです。
vlxst1224さん、お疲れのところありがとうございました。
シナリオ統括って肩書きで突っ込みどころ満載の資料上げてくんな
「書いて欲しいのは四国を舞台にした百合ものです!」ってさあ……四国って四県あって全然風習も方言も違うんだけど
もっと言うと藩ごとに違うんで四つじゃきかないんだけど
「具体的に何県のどこ地方ですか?」って聞いたら「どこでもいいんですけど……」ってだったら四国にする意味ねえだろ……
「じゃあ一番観光しやすい高知にしますね」って返したら「いやそこは瀬戸内地方でないと困ります」ってなら最初からそう言えよ!
どこを萌えていいのかわからないパンチラ乳揺れボディタッチまみれのシチュエーションだけを大量に送ってきて
「プロットできたんでシナリオお願いします」じゃねえよ話の筋がないんだよ
「この子は何を考えてこの子にボディタッチしたんですかね?」って聞いたら
「え…それを考える意味あるんですか?」
「ええと、ラッキースケベより恋愛感情のあるスケベの方が萌えますよね?」
そうしたら
「いえ、こちらの意図はあくまで『彼女の本当の気持ちを繊細に描くこと』にあるんです。スケベなんて考えていません」
おいおいおいおいおいおいおいお
特にこの時期は初詣で参拝にいらっしゃる方が多いため気になるのだけど、
ここ数年、メディアやパワースポットブームの影響を受けて賽銭箱の中心でお詣りするための行列が出来るようになった。
古来より神社寺院では横に広がってお詣りするのが通例であり、別に中央で一人で御参りする必要はないし、そんなことで御利益がどうこう変わることもない。
日本人の並ぶという行動がやたらに誉め称えられ続けたことにも関係あるのだろうか。
勿論、並ぶ精神というのは素晴らしいものではあるが、時と場合によってはそれが正しいとは限らない。
伊勢の神宮をはじめ多くのお社では「横に広がってお詣りください」と呼びかけてはいるものの、人員もそれほど充てることが出来ず、常に呼び掛け担当を置くことも出来ないため、結局のところ中央に行列が出来てしまう。
行列が出来ることで参拝を諦めてしまわれる方も多くいらっしゃるし、何より少しでも快く参拝していただくほうがより良いでしょうし、どうしたものか。。。
このことについて佐藤愛子氏が「かくて老兵は消えてゆく」の中で言及していたり、近頃はhttps://sirabee.com/2016/05/21/122682/ などのネットメディアにて取り上げられていたり、ブログにてお書きになっている方もいらっしゃるものの、やはり世の中にはまだまだ広まっていないようで、是非ともテレビ番組等では御利益や観光的観点ばかり着目するのではなく、そういったところも取り上げていただけたらなあと心から思う。
https://anond.hatelabo.jp/20190102174908
自分のことを思い出した。
もう20年前の話。
親の仕事の都合で引っ越しの多い幼少時代だった。そのせいか内向的で、休み時間には教室に置いてある児童文庫の学習漫画をよくよんでいた。地球が太陽の周りを回っていると書いてあったから、影が1日の間で移動する理由をテストで問われて「地球が太陽の周りを回っているから」と書いたら、正解は「太陽が動いているから」だと言われた。テストでは僕の答えも丸になっていたが、動いているのは地球の方で太陽は動かないはずだと僕はずっと首をかしげ続けていたと、母親は保護者面談で先生から言われたそうだ。なぜか母親にとってそれは自慢話のネタらしい。
中学受験に向けて猛勉強する同年代の子どもたちの映像をテレビで見たことをよく覚えている。そのときは僕は「ずるい」と感じていた。みんなが学校で同じように平等に勉強の機会を得るべきで、塾で勉強するのは抜け駆けをするずるだと感じたのだ。そのせいか僕は塾に行くことなく大学受験まで過ごすことになる。
親は放任主義というかのんびりしているというか、子どものすきにさせるというスタンスで一貫していた。ファミコンをどんだけやっても怒られないし、勉強しろと言われたことは一度もなかった。そのせいか、どの高校や大学を受けるかにあたって僕が出した唯一の基準は「自由なところ」だった。
高校は県内でも自由で名高い公立を選んだ。私立優位な地域だったので、東大京大に受かるのは3年に1人くらいの高校だった。そんな高校で僕はずっと学年で「2番」の成績をとり続ける。どんなに頑張ろうと常に2番。1番の子は一体どんなやつなんだろうと思わないでもなかったが、実は顔も知らない。1学年10クラスもあって、どのクラスにいるのかを探すのも大変だったのだ。
高3に模試を受けてみると、京大の合格圏に入らないでもないくらいだった。調べてみると京大は、自由そのものの校風ではないか。それなら受けるしかない。塾には行ってなかったが、通信教育は受けていた。コースを京大向けに変更して、家で課題を解き続ける日々。子どもの頃に中学受験をずるいと感じたくせに、大学受験ではそのど真ん中に身を投じているのだから勝手なもんだ。つまりは自分が認識すらできない時点で人生に差をつけられてしまうようで、抵抗を感じていたのだ。
受験の当日、母親がホテルについてきた。「私は観光してくるから、あんたは受験頑張りね」と。どこに観光してきたかは知らないが、そのときの写真やお土産はひとつもなかった。どこにいたんだろね。
試験はよく集中できた。何問解けたのかはよく覚えてない。目の前にある京大らしい問題に、自分の知識と知恵で格闘した。いつも通りの自分でいられた気がする。
自分の番号を見つけた瞬間の感想は、あーそっかあという安堵のようなものだった。ここに受かるということは、親元を離れて暮らすということだ。その新しさへの不安と期待が少しずつだった。
噂によると、学年でずっと1番だった彼も京大に受かったらしい。が、いまだに会ったことも話したこともない。全く自由というか無頓着なのだろう、2人とも。
僕も親のように、人生の岐路になりうる場に子どもを平常心で立たせてあげることができるだろうか。まあきっとできるだろうと、ポケモンをやり続ける子どもを見ながら思うのだ。
時の流れというやつか。
もともと歌唱力で売っていたわけでもなし、むしろ楽曲の素晴らしさを再認識できたわけだが。
Stay with me 気にしてるの?
1984年だとこれが妙手たりうるのか?
「他の誰かから人気のある私」を演出すれば自分から去ろうとする男を引き止めておけるのか?
他の女に惹かれている男からすれば、あ、お前もそういうことなら渡りに船っすわ……というふうになるんじゃない?
スキーに行くわ
頭の中でこしらえた 彼と一緒に
このころのスキーはかなりオシャレなアクティビティだったらしい。
新潟県湯沢町の観光統計( https://www.town.yuzawa.lg.jp/kanko/kankou/kankou_toukei.html )によれば
1979年→1984年のスキー客数は約150万人増加、シーズンが4ヶ月と考えると1日1万人以上の増加である。
東京(主人公の想定居住地)からスキーに行くには泊りがけの必要があった*。つまりスキーに行くとはそういうことだ。
全て雪のせいなのである。
他の男の影をチラつかせてヤキモチを妬かせる、そして自分の価値を高めさせるという一番やってはいけない駆け引き。
そしてサビで現れる
優しく叱ってよ
*当時はまだ1990年のガーラ湯沢開業前。そもそも上越新幹線は1984年時点では大宮以北の部分開業、関越自動車道も全線開通は1985年だった。
https://anond.hatelabo.jp/20190102063518
読んだらわたしも書きたくなったので書く。もう10年以上前の話ではある。
元増田と違い中学受験や私立とは無縁で、片田舎の公立中学、公立高校を卒業して京大に入学した。
勉強なんてほとんどしてなかったけど、テストでは常に学年トップで完全にお山の大将だった。
一方で家庭環境的にいろいろあった時期でもあり、また自分自身もいろいろ拗らしてた時期でもあったので、私立組やいわゆる英才教育を受けている人たちへの異常なコンプレックスがあった。塾なんかに頼るやつは元々馬鹿、私立高に通って高いお金出さないと勉強できないやつに勉強する意味はない、などと誰彼構わず吹聴していた。今思っても最悪の性格だった。
将来の展望なんてこれっぽっちも見えてなかった。大卒の大人は周りに全然いなかったし、もちろん官僚なんて言葉も知らない。そんな中、ある日法事だかお盆だか正月だかで叔父に当たる人と久しぶりに会った。聞くと某地方総合大学の工学部を卒業し、自動車系メーカで開発をしているとのこと。元々機械は好きだったので、その仕事をすごくかっこいいと思った。そしてそれ以上に、その人の身なりや車(といっても今で言うアルファードみたいな上位国産車)、余裕、羽振りの良さなど、あらゆるところに今まで自分の周りになかった、ハイクラスな何かを感じ、衝撃を受けた。今思えば(叔父には悪いが)お金持ちのモデルとしてはずいぶん控えめではあるが、それでもこの衝撃は大きかった。自分の目の前に一つの道が示されたような気がした。
そんな自分に両親はとても優しかった。自分の選択や意見をいつも全力で肯定し続けてくれた。今思えば自分の可能性を広げるための最大限の配慮をしてくれていたのだろう。
結局地元で2番目ぐらいの公立高校に行った。理由はいろいろあるが、自転車で通えるというのは大きかった。自宅からの公共交通機関のアクセスが最悪だったからである。
この高校は一応進学校とは銘打っているものの、毎年東大はゼロ、京大が1人いるかいないか、旧帝大に数人、といった感じだった。相変わらず高校でもお山の大将だったが、高校は全国模試があるので自動的に全国の高校生と比較される。片田舎の小さな小さなサル山で大将を気取っていた少年はここで初めて現実を知る。
1年生の夏、家族で京都に旅行に行った。古い街並みと近代的な景観が融合するこの街を、わたしはすぐに好きになった。さらに、この旅行の行程には京都大学観光が組み込まれていた。今思えば、両親がわたしのやる気を引き出すために連れて行ってくれたのかもしれない。ともあれ、権威のシンボルである時計台、自由を象徴する立て看板、鴨川と百万遍の街並み、どれもが自分の心を強く打った。
本気でそう思った。
そこから勉強を始めた。あんなに嫌いだった塾にも結局行った。恥を忍んで塾に行きたいと親に言ったときも、やはり親は快諾してくれた。塾は大手予備校講師のOBが地方でやっている個人塾だった。英語と数学を教えてもらっていたが、ここの先生方には現在に至るまでお世話になっている。勉強だけでなく、自分の見識を大いに広めてくれた恩人であり、今でも頭が上がらない。
高2の終わりぐらいまでは漫然と過ごした。学校の授業は地方国立やMARCH、関関同立といったところをターゲットにした内容であり、物足りなく思うことは頻繁にあった。しかし学校の授業でつまずいているようでは京大もクソもない、という信条があったため、まずは学校の授業で習った部分は確実に押さえることを一番に考えた。
高3になると全国模試のランキングに浪人生が入るので、順位や判定が一気に下がって焦った。先生方は「最初は下がるけと徐々に追いついてくる」と言っていたが、秋になっても成績は伸びずにただただ焦った。自分の立てたスケジュール通りにまったく勉強が進捗していないこともあり、更に焦った。焦りすぎてメンタルが不安定になり、何度も勉強中に発狂した。振り回したシャーペンは何本も折れた。親には意味不明な理由で八つ当たりを繰り返した。親はすべて受け止めてくれた。
高3の大晦日の夜、いつもどおり家の机で勉強していたのだが、うっかりそのまま寝てしまい、気づいたら新年を迎えていた。あまりの不甲斐なさに一人で泣いたのをよく覚えている。
受験勉強はチーム戦、という言葉がある。上でも書いたとおり、自分のいた高校は難関校の受験生が少ない。しかし逆にその分、似たような境遇の我々には妙に強い結束感があった。別に机を並べて一緒に勉強したりするわけではないが、模試の結果や参考書の話、志望校の話などをとりとめもなく話せる人が周りにいるというのはとても心強かった。模試の判定を見て落ち込んでいるときや不安でやる気を失いかけているときに鼓舞してくれたのは彼らであった。結果は人それぞれだったが、今でも年に一度は集まる良き友人たちだ。
【試験】
京大工学部はセンター試験の点数配分が恐ろしく低いので、気軽に受けた。特に数学は足切りラインを除くと全く評価されないのでろくに対策もせず、1A2Bともに85点程度だった。ただ周りの友人が満点を連発していたので妙な焦りだけが生まれた。
私立は早稲田と慶応を受けた。どちらも全く行きたいと思っていなかったが、練習だと思って受けた。初めての一人東京だったので異常に浮かれた。慶応の試験前日、下見ついでに少し街を散策したが、これがよくなかった。壮大に風邪を引いた。熱で全く頭が回らず、とうとう英語の試験の途中で医務室に運ばれた。医務室でひたすら泣いた。
京大2次試験の当日、出発前にわたしは親を呼び、これまで支えてくれたことへの感謝を伝えた。いろんな人に支えられてここまで来た。特に親の気苦労とサポートは計り知れない。そのことをどうしても当日伝えたかった。わたしも親も泣いてわけがわからんことになった。
当日は自分でも驚くほど冷静に試験に取り組めた。数学の試験は試験官に手紙を書いているような気持ちで答案を作成した。結果的に完答できた問題はなかったのだけれども。
ところで、新年を迎えたころから自分の中のルールとして「前期試験不合格を連想させるようなことは一切口に出さないし、心にも思わない」というものを設定した。「浪人したら…」「後期試験の対策は…」といったことを考えることも禁止した。発言の自由はおろか思想の自由まで侵害するという、今思えばドン引きするルールだ。バックアップを想定することは合理的であるが、その発想自体が心を弱くする、という根性論だった。今の自分は根性論が大嫌いだけど、ともかくその時はそれが最善だと思っていた。自分なりに必死だったんだろう。
合格発表の掲示開始時間には10分ほど遅れて到着した。すでに合否の熱狂から一段落しているところで到着した形だった。手足が震えていた。すがるような気持ちで掲示板を見た。番号があったので、また泣いてしまった。声を上げて泣いた。今までずっと無理をしてきて、辛かったんだということをその時理解した。その様子を見たアメフト部の人たちに囲まれて、胴上げされた。
【その後】
入ってから色々あったがここでは割愛する。卒業してからは某メーカで開発職をやっている。結局件の叔父と同じような道を選んだことになる。しんどいこともたくさんあるが、機械が好きなのでなんだかんだ向いていると思っている。
【さいごに】
一番お世話になった参考書の一つにチャート式があるが、この巻頭に記載されている「汗をかけ」という文章がわたしは世界で一番好きだ。短い詩なのでぜひ全文読んでほしい。
http://www.chart.co.jp/corp/00epitome/01what/asewokake/asewokake.html
「確実な道」を行く者は、「近道」を行く者よりも、汗をかかなくてはならないだろう。だが、その汗は、絶対に無駄にはらなない。君が、将来“かっこいい大人”“素敵な大人”になれるかどうか――それは、10代の時どれだけ「汗」をかいたかで決まるから。
恋でもいい。グラウンドの上でもいい。
そして、エンピツを握ってでもいい。
フィールドは何であれ、思い切り「汗」をかく人であってほしい。
元増田にもあったが、受験はその構造上どうしても他者との競争の構図ができがちだ。しかし自分自身の弱いところや意地悪なところや卑怯なところと徹底的に見つめ合い、自分の力で一歩一歩進むことに最大の意義がある。
すべての人に受験勉強というプロセスが必要とは思わない。ただ、受験勉強を通して得られるものは決して少なくなく、ただの公式・知識暗記ゲームにとどまらない、自分にとって大切なことを教わる大変よい機会だった。大学ではすっかり落ちこぼれ学生だったが、多種多様の人たちに出会い、自分の見識を常に広げ続けさせてくれた京都大学には本当に感謝している。
母が亡くなってもう 5 年になるだろうか。
普段 tweet より長い文章を書くことはないけど、ふと浮かんだ誰にも言えない反省を増田に書き残したい。
紅白で話題だった米津玄師の Lemon を改めて聞いてみた。
歌詞について調べてみると、大切だった”あなた”の死の悲しみをレモンに例えた曲らしい。
米津玄師がレモンだと思うなら、私にとってのそれはあんずだと思う。
うざったくも優しかった母との思い出と、もう謝罪も出来ない心無い発言への後悔。
母は癌で死んだ。
母の意向により、母がステージ4の末期がんだということは父以外には伏せられていた。
今思えば、死が免れないものとなった母にとって最後の旅行となる可能性も覚悟していたのかもしれない。
結局、それから2年ほど闘病生活は続き、再び東京で会うこともあったのだが。
地元には無いたくさんの刺激に囲まれていた私にとって、母を連れての東京案内は正直気が進まないものだった。
曇りの日だった。スカイツリーの展望台から雲を眺めたあと、この後どこに行きたいかを母に尋ねた。
本場のもんじゃ焼きが食べたいとのことで、地下鉄を乗り継ぎ月島へ向かった。
日曜の8時ぐらいだったと思う。
その時間まで営業している店が少なくていらいらしていた私は、この時間になるとお店探しも厳しいんじゃない、そもそももんじゃ焼きなんてたいして美味しくないよ、といった冷たい発言をした記憶がある。
しばらく月島駅周辺を歩き、路地裏の店にたまたま入る事ができた。
店内でたくさん写真を撮る母を、店員に気さくに話しかける母を、私は煩わしく思った。
母と私で1枚ずつもんじゃ焼きを注文して食べたはずだが、どんな味だったかは正直記憶にない。
食後、母と仲良くなった店員の強い勧めにより、デザートとしてあんずをクレープのような生地で包んだものを注文した。
店員が目の前で焼いてくれた。2枚のヘラで器用にあんずを包んでいた。
これがすごく美味しかった。
あったかくほのかに甘い生地のと、冷えたあんずの酸味がすごく合っていた。
それだけはよく覚えている。
その後適当に解散して、私は当時付き合っていた彼氏の家へ行き、今日は母親の観光に付き合ってさ〜、と愚痴をこぼしていたことだと思う。
辛いとき、悲しいとき、母のことを思い出す。今でも月に1度は母の出てくる夢を見る。
起きた後、夢でどんな会話をしたかを思い出すとき、あのお店で食べたあんずの味も思い出す。
広開土大王艦事件について日本側の公開映像に関する件 - 誰かの妄想・はてなブログ版 http://scopedog.hatenablog.com/entry/2018/12/30/070000
船影が小さすぎてどの地方のものかは同定できないですが、この船は明治〜昭和期に朝鮮半島へ技術継承された(おそらく)伝統和船「カワサキ」をベースとした木造船です
カワサキは青森〜富山(後世に北海道)付近の沖合に漁業および海運に利用された大きな種別で言うところの北方舟で、その全長は三十〜四十尺(10メートル)前後、重さは二百五十〜二百七十貫(1トン)前後です
中国はシルクロードなどの歴史からペルシャやアラブとの交易の中で南方舟の技術を発展させ、現在FRPや鉄鋼などの新素材の採用をしても(小型船の)技術ベースは南方舟であり、朝鮮半島も造船技術は南方舟のもとにあったのですが、日本と併合した歴史のある朝鮮半島であるからこそ南方舟と共に北方舟が朝鮮半島に存在します
ちなみに日本は世界でも数少ない北方舟と南方舟が同居する造船技術体系を持っている。南北に国土が長いためですね
そして日本および朝鮮半島南地方に位置する韓国では知られているように現在は文化継承保存および学術的もしくは観光目的でしか木造船は製造されておらず、多くの小型船はFRPや鉄鋼などの新素材へ移行済みです
船影を見ても明らかに古い型式の南方舟でない北方船の(おそらく)カワサキと思われる木造船を採用する理由は、北朝鮮への経済制裁の影響により新素材が入手困難であるからだと思われます
北朝鮮では伝統木造船を建造できる船大工が今もなお多数存在することが示唆されており、艦船オタクとしてはそれはそれで非常に興味深い
まぁつまり何が言いたいかと言えば「9割9分9厘韓国の漁船ではなさそうですよ?」という情報を提供しようと思って投稿させていただきました
お年玉に500億貰うか、竹やぶで500億拾ったら、
集合住宅建てて、賃貸かりて、オンラインやって、田舎でIT支援して、タクシーとバスなんとかしつつSuicaをゴリ押す
家を買うお金
▼家1
場所:日本 > 地方都市 > タクシーで大学病院30分圏内 > ペット可の集合住宅を建てる
▼家2
住んでるところにある大学に完全オンラインの学部を立ち上げるお金
面倒そうなら新規で立ち上げてもええな
住んでる地域のちょっと錆びれた地域でなんかするお金
・小規模農家のIT支援(小売/飲食とのリアルタイムのやりとり、観光支援など)
・データセンター作るまでいかんでも出来そうな保守やヘルプデスク案件があればそういうの持ってくる(インフラが整っていれば)
・人と違うことがやりたいんです系の若者のに施設周辺に格安でテナント貸してみる(人寄せなので収益はどうでもいい)
住んでる地域のバスとタクシーをなんとかするお金
私の両親は中国人です。しかし、私は日本で生まれ日本で育ちました。名前も完全に日本人のソレです。
中国に行ったことは小さいときに2回、観光で自発的に行った1回の合計3回しかありません。
なので、まさしく日本人として生まれ育ってきたんです。両親は中国人なのにも関わらず。(片方は日本人の血が混じってますけど)。
小学校、中学校の時の友達には両親が中国人であり、僕も実は中国人であることがバレています。学区の関係もあって家が近いからこれは仕方ない。
しかし、高校以降にできた友達には隠しています。中学校まではみんな国の事なんて深く考えませんから。
一回トラブルが起きた時に「これだから中国人は!」って言われたことがありましたけど、まぁそれぐらいです。
高校は自宅からかなり遠い位置にあるのでバレっこありませんでした。最初から隠すことを前提にそこにした感じはあったんですけど。
それで、高校から今までずっとそのことを隠してます。だって、僕は中国語を話すことができないし、日本人として生まれ育ってきたのだから。
中国人のおじさんにも言われました。「日本人は中国人を心の奥底で絶対に見下しているから、(親が中国人であることを)隠せ」、と。
本当の日本人でないことがバレるのが怖い。
帰化すればいいときましたが、僕は国籍日本でパスポートも日本のものです。
日本国憲法にはまぁ日本人として従ってます。君が代は歌うし、日の丸を掲げることもできます。
日本人として生きているんです。
▼家1
場所:日本 > 地方都市 > タクシーで大学病院30分圏内 > ペット可の集合住宅を建てる
▼家2
面倒そうなら新規で立ち上げてもええな
・小規模農家のIT支援(小売/飲食とのリアルタイムのやりとり、観光支援など)
・データセンター作るまでいかんでも出来そうな保守やヘルプデスク案件があればそういうの持ってくる(インフラが整っていれば)
・人と違うことがやりたいんです系の若者のに施設周辺に格安でテナント貸してみる(人寄せなので収益はどうでもいい)
https://www.google.com/amp/s/www.asahi.com/amp/articles/ASLDN5535LDNPLFA00F.html
見てみたけど言うほどか?
一番下意外はそんなに変なデザインでもないと思うが。
片桐被告はこの日、車椅子の母を連れて京都市内を観光し、2月1日早朝、同市伏見区桂川河川敷の遊歩道で
「もう生きられへん。此処で終わりやで。」などと言うと、母は
「すまんな」と謝ると、母は
「こっちに来い」と呼び、片桐被告が母の額にくっつけると、母は
この言葉を聞いて、片桐被告は殺害を決意。母の首を絞めて殺し、
冒頭陳述の間、片桐被告は背筋を伸ばして上を向いていた。肩を震わせ、
眼鏡を外して右腕で涙をぬぐう場面もあった。
裁判では検察官が片桐被告が献身的な介護の末に失職等を経て追い詰められていく過程を供述。
殺害時の2人のやりとりや、
条件のよい、って都市部の近くのこと?
.
ただっぴろい用地ってのは、世界のどこでも本州でも、普通は工業団地を立てるのに使う。
で、工業団地を立てるのに都合の良い用地ってのは、港とか高速ICとか空港の近くとか、交通の便がよいところのことなんだな。沖縄なんて海しかねーし実はどこなりと建てれるよ。
もっといえば、それで言ったら沖縄に「経済的に都合の良い土地」など存在しない。遠すぎるからだ。
グアムとか行ったことある? 軍隊関係者と観光関係者しかほとんど就職先ないのよ。
それで、でかいモールとかあるんだけど、日本の古い商店街みたいに暗くて寂れてる。
.
用地あればなんとかなるなんてのは、活動家のプロパガンダだから。
まじで補助金ひっぱといたほうがいいと思う。
私の話ではない。
いわゆる上級官僚の天下り先の仕事の一例として、たまたま知ったことだ。
また、コネの力と言っても「コネの力でイージーモードの人生を手に入れた」ではなく「コネの力があると人生はイージーモードにできる」が近い。
某切り込み隊長が「コネってのを誰からに気に入られると人生がイージーモードになる仕組みであると勘違いしている輩が多い」と言っていたが、その意味が飲み込めた。
しかし、やはりモヤッとしたものが払拭しきれないので吐き出させてもらいたい。
とある公共財産を社会的に役立つ形で活用したビジネスをしている会社がある。ちなみに創業者は元官僚とかではない。賢い人っているものだ。
さて、腐っている公共財産が役に立ち、税外収入を産むとなると基本的に自治体も断る理由はないのだが、下記のような問題がある
飛び込み営業が例えば県の部長クラスに「いい話があるんですよ!」で会ってもらえるか。
また「あの話どうなりました?滞ってないですよね?」なんて話ができるか。答えはNO(らしい)
「だれの損にもならず」「理屈としては誰が話しても推進する話」なのだが、まず話の場を設ける、それを継続的に設けるためにコネの力が必要だということだ。
そこで知人の登場である。彼は全国の地方公務員に知己がいる。というより多くは元部下、または元部下の部下だ。
そりゃ話聞くよね。
官僚の天下りってなんのために受け入れてるんだよ、て、これだよ。なるほどね。
さて、時給10000円のお仕事の内約はこうだ。
およその労働時間は1500時間(話から推定)程度なので年収は1500万ほどになる。
ちなみに彼の退官前の官僚ランクからすると天下り先の給与はやや高めらしい。
滞ってる、または新しい開拓先があればそこに務める知人をリストアップ、県内行事などを確認した上でアポを取る。
知人に会い、発破をかける。ついでに部下を紹介してもらいコネを広げる
もともとあまり旅行好きではなかった彼だが、1年で航空会社の上級会員になったと言っていた。コストはゼロ、全て経費だ。
いかがだったろう。
「誰が考えても良い話」を「行政の非効率に対して継続的に働きかけることで通せる」のがコネの力の一旦だ。
まさに、彼に類似した人間にしかできないことだ。人材の有効活用、適材適所である。
いや、それってなにかどこかおかしいんだけど。