私は自分の方が少しでも優れている部分があると、自分より少しでも優れていないものへの怒りがおさえられなくなり、攻撃したくなってしまう。
それは、私が過去にいじめられたのを自分が底辺の劣った人間だからだ、という理由で納得させていたからだ。
しかし、劣った人間ではない、と思い込もうとすると世界の理不尽に耐えきれなくなるのでどうすればよいのか長年わからなかった。
同じような、世の中の理不尽を受け入れられない状況にいる人達のヒントになるといいなーと思ってこの文章を書く。
たぶん多くの人はこれに気付いているし、わざわざいうこともないから誰も言わないのだと思うが、私のような馬鹿は一生これに気づかず苦しみながら人生を終えることもあるかもしれないので、わざわざ言語化してみる。
いやたぶん人間は多かれ少なかれみなそうだと思う。
災害とかが起こって人が死んだり、飢えで苦しんだりするたびに、そのことを運が悪かったのだと自分を納得させることができなくて、神への崇拝が足りないんだ、とかって納得させるために宗教とか生まれたんじゃないかなあと思うし。
でも、今日読んだ本に書いてあったのだけど、世界って人間には操れないカオスなんだって。
いや薄々気づいてはいたけど、気づかないようにしてた。
そして、その自分の作った法則は実際には世界に法則なんかなくてカオスなので、歪みがうまれて自分のことをがんじがらめにしていたから上に書いた問題やそれ以外の諸問題をひきおこしていたんじゃないか?と思った。また、それって多くの人がそうなんじゃないか?とも思った。
例えば、どこの国か忘れたんだけど、黒人差別のひどい国では、白人が黒人の愛人との子供を可愛がる一方で、それとよく似た姿をした黒人奴隷は自分の大便を食わせたり、鞭で容赦なく叩いたりする、という理不尽があった。その理不尽を運が悪かったのだ、ということだけでは納得できず、いつしか黒人自身に少しでも肌が白いものは優れていて、少しでも肌が黒い劣った者を差別していい、という価値観をうみだし、黒人自身がそれより少しでも肌の黒い黒人を差別するようになったそうだ。
ネットの弱者叩きもそうじゃないかな、と思う。公正世界仮説と呼ばれているけど、世界はカオスだということを受け入れられず、世界は罪を犯したものにそれに値する罰を与えるという法則がある、と自分に言い聞かせているので、実際には世界はカオスで弱者には何の罪もないのにも関わらず、その法則にしたがって弱者を攻撃してしまう。
つまり、世界がカオスであるということを受け入れなければ、人間は幸福にはなれないのではなかろうか。
しかし、世界がカオスであるということを受け入れるだけでは、人間は生きる意味を見失ってしまう。
世の中は理不尽なんだから、何かをやってもすぐに失ってしまう。だから、なにもせず、世界のカオスに押し流されるまま生きて、死ぬのをひたすら待とう、しかしそれって生きる意味なんかあるんだろうか、と考えてしまう者たちがいる。たぶん、多くの人はそれに気づかないように適度に麻薬を与えマヒさせながら生きているのではないだろうか。そしてそれがうまくできない人が生きる意味を見失ってしまうんじゃないだろうか。
だから、人生を肯定するということは世界がカオスであるということを受け入れた上で、それでも自分の人生をコントロールすることを試み続けるという矛盾を繰り返すことなんじゃないだろうか。
頭が悪いので全然違うかもしれないけど、ニーチェの永劫回帰とか超人とかいう考え方もこれに通じるのではないかな~と個人的には思っている。
自分は何事にも理由や法則を求めてしまう愚かな人間なので、自分を世の中が提案するマヒの方法でマヒさせながら生きることができない。上記のような考察をしないと生きられない。
この文章は同じようなマヒさせながら生きることもできずどうすればよいのかわからなくなっているバカに、
まあとりあえず私は、世界がカオスな大海原であるということを受け入れた上で、なんとか自分の持っている船をこいで、何度も押し戻されてひどい目にあいながら、それでも行きたい場所を目指したいと思っている。そういう風に生を解釈してみてはどうだろうか、というマヒのさせ方を提案するものである。
少しでも私のような馬鹿が生きるのが楽になることを願う。
自分がバカだという自覚は、自分を改善するための第1歩となる。だからバカであるこ自体は悪いことではない。成長の途上なのだ。 自他の区別 世界を観察するとき、相対的な視点に...
帰ってきたんだ