はてなキーワード: ハードディスクとは
最初はゲーム作りの本の写経をやってみたりUnityなどに手を出してみた。
いろいろ手を出してみた結果、クリエイティブコーディングという、プログラム言語で絵を描くのを追求することに至った。
最初の数年間は「毎日1行でもプログラミングを書く」ことを目標に、
1泊2日の出張にも自前のMacBookを持っていくくらい熱心に書いていた。
(主に写経の改造)
そのうち自分で好き勝手書けるようになって、淡々と週末描き続けハードディスクが足りないくらいの量になった。
SNSにアップすると固定ファンがいいねをしてくれるようになり、
ますますモチベーションが上がるのと、自分で仕事以外に何かを作っているということが心の支えになっていた。
しかし、2022年、突然創作意欲が一切沸かなくなり、何も書けなくなってしまった。
他の人の作品にも興味を失いつつあり、鬱っぽかったのかもしれない。
今までは「趣味は週末プログラミングです」みたいに言っていたが、
他の趣味がなかったため週末はだらだら酒を飲むか庭園に散歩に行くくらいになってしまった。
そうして2022年も終わろうかというタイミングで、急にまたプログラムが書きたくなった。
最初はリハビリが必要で、書きたいものの記述方法が思い出せなかったり苦戦したが、
これは一時的な何かかもしれないし、ゆっくり休みが取れたから仕事脳がリセットされたからかわからないが、
今後もマイペースで続けられたらいいなと思った。
今何かに行き詰まっていたり、長年続けていた趣味に興味がなくなってしまった人にこの日記を送りたい。
何事もマイペースで、休んだり作ったりしていけば心の支えになるよ。
面倒臭い系腐女子何だけど、未だに20年前の薄い本読んだりするので、食べ物の『消費』のように消えたという認識がない。
消費って言いはしても、こういう『記録して配る』という形式のものは記録された時点で書籍類相当の扱いじゃない? 見たり使ったりしたら消えるものでもなければ、同じものを何回も見たらいけないものでもない。
それに比べたらミステリーのトリックやお笑いのネタの方が余程『消費』の感覚が強い。一度使ったら(他の誰かが使ってたら)但し書きなしに同じものを使ってはいけないし、そのトリックだけで何作も作れない。
あと卒論のネタ。卒論書いたことないから知らないけど、あれも他の人と同じネタ使ったらいけないと聞くので『消費』の感覚が強い。ただ人間が知らないことはまだ膨大にあるイメージなので、枯渇は遠いのかなとも思う。
それに比べて二次元エロの使い回しの多さよ。何が消費か。「どっかで見た」が「だから何」だ。BLの設定どんだけテンプレなのか知ってるか。男性向けに至っては同じものでまとめができるほど絵師違いの同じ絵と差分が大量にある。いくらでも再生産して良い。
だからバニ絵ポスター見て『性的消費』って言ってるのが分からん。性的扱いは分かる。抜き絵を公示すんなも分かる。需要があるから供給されるのも分かる。良し悪しは一旦置いとくとして、でも『性的消費するのが悪い』というのが分からない。次から次へ生産消費せず、出たもの全て保管するならいいのか。でも基本、次から次へと作った全てを企業側で保管してあるよね。後でグッズ作ったりイラスト集にして販売したりするだろうし。それでなくとも著作の保護はしてるだろう。
そら購入者はおしなべて消費者という括りだけど、二次元エロコンテンツは消費してなくないか? だって消えなくない? どっかの誰かのハードディスクに、部屋に、倉庫に残ってるよ。
「このエロ絵はもう見たからいいです」と言うのだってマジで個人差あると思う、バニ絵ポスターも刺さる人は写メ撮って保存して何度もお世話になってるだろうし。
二次元エロでの『消費』ってどういうことなんだろ。「性的消費すんな」って「消費じゃない行動ってどういうことか」を誰か教えて欲しい。
2022年の間にリアルタイムで視聴したテレビ番組は、年始の箱根駅伝、最近のワールドカップ日本戦(1試合だけ。他はABEMAで見た。)、紅白歌合戦だけだった。来年もそんな感じだと思う。
ハードディスク録画されている番組は、家族と食事する時だけ見ている。NHKやETVの猫番組、サラメシ、ファミリーヒストリーとか。安心無難なやつ。1回30分から1時間、年間で100-200時間か。けっこう見てるな。民放は疲れるから見ない。
ラジオはほとんど聞かない。たまに気まぐれでradikoアプリをつけるが、聞きたい番組がピンと来ないのでリピーターになっていない。PodcastはAppleのやつで、不真面目な英会話みたいなものとか、小真面目な哲学、カルチャー周りのやつを作業しながら聞いた。多分年間で50時間くらい。
新聞はとってないのでゼロ。ネットの記事になったやつは見ているが。そういえばテレビでニュース番組を見ていない。昨日の紅白歌合戦の合間のニュースだけだ。
情報一般はネット。スマートニュースアプリとかで適当に見る。はてブは時間潰し。とはいえ移動中とか見てるから、年間300時間以上見ているかもしれない。怖い。
雑誌は意外と見てる。サブスクのやつで、お気に入りに入れているファッション・カルチャー・ニュース系の雑誌。全部斜め読みだが、月に10冊くらい。年間30時間くらいか。
YouTubeはゲームのプレイ動画を見る。作業しながら見るのにちょうどいい。今年は特にエルデンリングのプレイ動画をよく見た。年間300時間以上は見てる(聞いてる)な。
あとは動画のサブスク複数で、映画・海外ドラマ・アニメを見ている。作業しながらの時が多いが、年間300時間はいってそう。
今年もきっと似たような感じだ。
CPUだったらintelとAMD、GPUだったらnvidiaとAMD、アメリカ企業は業界で基本的に2,3社、多くても4,5社に集約している
ルーターはシスコシステムズとジュニパーネットワークスとか、映像編集はAdobe、3D/CADはオートデスク、DBはオラクル,MS、クラウドはAWS,Azure,Google
寡占で儲けるのがアメリカ
それを頭に入れたうえでこれ見てほしい
自動車(トヨタ、ホンダ、日産、スズキ、マツダ、ダイハツ、スバル、三菱、日野、いすゞ)
造船(今治、ジャパンマリンユナイテッド、大島、三菱、名村、川崎、三井、定石)
複写機プリンター(フジ、リコー、コニカミノルタ、キヤノン、エプソン、ブラザー、京セラ、シャープ、東芝、富士通、NEC)
デジカメ(キヤノン、ニコン、ソニー、フジ、パナソニック、オリンパス、リコー(ペンタックス)、シグマ)
ミシン(ブラザー、ジャガー、ジャノメ、JUKI、ベビーロック、アックスヤマザキ)
化学(三菱ケミカル、住友化学、旭化成、信越化学工業、三井化学、昭和電工、東ソー、日東電工、三菱ガス化学)
どうですかこれ
どう思います?
同じ業界にいくつあるんだよって思いません?
日本企業だけでこれ。これに加えて海外の企業もあって競争してるわけだからそりゃ儲からない
まぁ化学に関しては一言で化学というのはかなり乱暴なんだけど、材料でみても結局同じことなのでわかりやすく化学にした
リストに載ってないけど、化学に関しては数千億円レベルに限っても、この倍くらい会社があって、再編が進んでない業界としてよく化学業界が挙げられる
https://gyokai-search.com/4-chem-uriage.htm
新しい産業がベンチャー企業でごった返してるっていうならアメリカでもあることだけど
成熟した業界でいつまでたっても再編が起きずに無駄な競争をしてるのが日本なんだよね
だから欧米企業が利益率10%~20%なのに、日本企業はいつも5%あたりでうろうろする
それが次の投資余力の差につながって成長に差が出てくる
何も知らない人が見たら7社もランクインはすごい!とか喜びそうなニュースだけど、
記事でも触れられているように、大手のほうが伸びが大きくて5位以下は伸びが小さい。
装置に関しては東京エレクトロンが大きいから例外ではあるけど、その他は「小さくて多い」だよね
パナソニック、東芝、三菱、日立なんでも屋の総合電機メーカーなんだよね
いわゆる複合型、コングロマリットってやつ
トヨタが冷蔵庫や洗濯機を作りだしたら、車の開発がおろそかになるだろってのは想像できると思う
無茶なたとえって思うかもだけど、今の日本にはそれくらい無茶がはびこってる
だから俺はソニーがホンダといっしょに車を作るって話を聞いたとき、まずいなぁって思ったよねw
ソニーって白物家電をやらないからほかの電機メーカーみたいに事業が「小さくて多い」問題がましだったんだけど、EVをやるのはどうだろうね
まぁ肝心の部分はホンダがやるからそこまでコングロマリット病を発症しないかもしれないけどね
文化が成熟し細分化された時代に、総合スーパーや百貨店やファミレスでは限界がある
服にこだわる人は原宿渋谷の店で買うし、そうでない人もユニクロみたいな専門店で買う時代
靴はABCマート、家電はヨドバシ、Appleにこだわる人はAppleストアみたいにね
家電量販店にしても郊外に店がぽつぽつある「小さくて多い」型のヤマダ電機より、駅前にでかい店たてて大量の客をさばく「大きくて少ない」型のヨドバシのほうが利益率がいい
ヤマダ電機 675店 売上 1兆6,005億8,300万円 経常利益 368億8,900万円
日本の家電は競争力がなくなったけど自動車はある程度競争力あるのは「小さくて多い」わけではないから
そしてホンダは2輪や船とか飛行機とかやってるからから4輪が不調なんだと思ってる
日本の電機業界は不調だけど、例外的にダイキンが好調なのは空調専業メーカーだからだよね
空調機器だけで3兆円という「大きくて少ない」をすれば十分戦えることがわかる
それに気づいて復活したのが日立
2012年
2014年
日立マクセル(電池、光学部品、理美容、磁気テープ、CD、DVD)をマクセルホールディングスに売却
日立機材をセンクシアに売却
2016年
日立物流(流通)を佐川急便に29.0%売却(追加売却の予定)
日立国際電気(通信機器、放送機器、監視カメラ)を米KKRに売却
2018年
クラリオン(カーオーディオ、カーナビ)を仏エナップ シス エスエーエスに売却
日立、日立物流を売却 KKRが6000億円超で買収へ - 日本経済新聞
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.nikkei.com/article/DGXZQOUC199XJ0Z10C22A4000000/
だけど俺はいい方向だと思っているんだよね。
ちなみに富士通はPFU売ったし、新光電気工業や富士通ゼネラルも売却するって言ってるから
日本の半導体産業は元気がないって言われるけど、元気な分野があって、それがパワー半導体なんだけど
1位 infineon(独) 48億ル
8位 nexperia(蘭)6.7億ドル
そして総合電機メーカーの事業が「小さくて多い」もあるので、二重の「小さくて多い」問題が発生している
にも書かれているけど、総合電機メーカーの一事業にすぎない半導体は投資額が大きくなると
事業バランスを気にして思い切った判断ができなくなり投資負けして撤退するというパターンを繰り返している。
早く三菱富士東芝の総合電機は半導体事業をルネサスやロームみたいな専業メーカーに売却するか、事業統合して別会社として切り出すべき
今絶好調といわれてるのが京都企業で、「京都企業はなぜ強いのか」なんて特集がされたりするんだけど
任天堂、村田製作所、日本電産、ロームに共通してるのは複合メーカーではないってことね
「この分野ではだれにも負けません」みたいな専業型が京都企業の特徴
かつては京都といったら京セラみたいな時代があって、一時期アメーバ経営が注目されたけどこの10年くらい停滞している
せっかくセラミックじゃ負けませんな専業の強みがあったのに、なぜかスマホとか電動工具とかプリンターとか始めて複合化してしまって(あの悪名高きバルミューダのぼったくりスマホも京セラ製)
そんなことやってるから案の定、村田製作所においつかれ、そして離され始めている
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUF205NV0Q2A620C2000000/
"谷本社長は10人程度の小集団で業務改善を競う「アメーバ経営」の見直しや、16に分かれた事業の再編などの改革を進めてきた。"
任天堂は亡くなった山内元社長が他分野に手を出すなっていってたらしいけど、最近アニメとかテーマパークとかに手を出し始めてて、ゲーム事業がどうなるか心配ではある
でも岩田社長が素晴らしいのは、家庭用と携帯機の開発を統合しして「小さくて多い」問題を解消したこと
2つしかないものを「多い」っていうのも変な話だけど、作る側も買う側も一つに絞ったほうが助かるよね
フロムソフトウェアも2005年~2010年ごろは社員数250人で年に5~10本のペースでリリースする「小さくて多い」状態だったんだけど
フロム・ソフトウェア#ゲームソフトウェア
逆に今不調なのがスクエニ
スクエニは社員数3000人で年30~40本もリリースする「小さくて多い」路線で失敗している
社員数が同じくらいで業績好調なカプコンが年に5~6本、任天堂は社員数7000人で年10本程度なので
スクエニはカプコン任天堂の7、8倍ゲームを出している計算になる
スクエニのリリース数って毎週ゲーム出してることになる。スクエニは社内に自社のゲームを把握できてる人いないのでは?w
アニメ業界といえば、アニメーターの薄給問題が有名だけど、それも会社が600社もある「小さくて多い」問題だからだよね。
そういう構造的問題を無視して、オタクたちはアニメは日本の文化だ!国が補助金出して支えろ!とか言ってるからホラーだなって思う。
製作会社自体が「小さくて多い」し、製作委員会方式のせいでアニメの権利者が「小さくて多い」からヒットしても利益が分散してしまうし
見る側にしても年200本もアニメが製作されたら可処分時間が分散する「小さくて多い」だし
鬼滅の刃は委員会方式やめたからリスクは大きいけど利益も大きいだろうから、いい見本にしてほしいよね
今回は特定の業界に絞って言ったけど、農業も病院も「小さくて多い」で、根本的な問題は解決せずに補助金で何とかしてる状態なのがアニメ業界と似ているよね
地方自治体の行政システム問題も1700もあるからだし、知床遊覧船のKAZU1の問題も結局のところ、日本に950社以上あって過当競争だからだし
銀行のオーバーバンキング問題とかもそうだけど、とにかくこの国は小さいものが多すぎる
「大きくて少ない」が日本の目指す方向
https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2208/23/news061.html
米巨大IT、複合企業化のツケ(The Economist)
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB060OR0W2A101C2000000/
どう考えてもたくさん飛行機を乗り継いでいるのに
数千円の運賃でスペインまで荷物が届く仕組みが不思議すぎるわ。
いや、
届くのは届くんだろうなのは分かるけど、
効率よね。
各国国々間毎日どのぐらいの荷物が行き来してるのかしら?って思うの
運送会社ってそんな荷物1つ扱って利益本当に出てんのかしら?って逆に心配になるわ。
心配したところで
私が運賃を多めにはずんで上げるわけにはいかないのは承知の助なんだけど、
駅の宅配ボックスに入れてもらうようにしたら、
最寄りの営業所から一旦また大規模集積センターに荷物が戻っていって、
またその駅の宅配ボックスの管轄の宅配便の営業所から配達して入れておくって追跡ルート密着24時!って感じなんだけど、
受け取りの手間を考えて、
駅の宅配ボックスにお願いすると
これも輸送のコストアップに繋がりまくりまくりすてぃーなんじゃないの?って思うの。
私の住んでいるところが営業所の境目のまたぎで
20時55分から始まる時間またぎの21時から始まるテレビ番組のようで、
遠回りをさせてしまったり、
一端また集積センターに戻っちゃったりと見ていたら大変そうだわ。
でも
いや届く事に不思議は無いんだけど、
収益をみてってなると儲かってんの?って何度も不安になっちゃうわ。
たとえばディーエイチエルとか
それこそ、
世界の裏に4ギガバイトのデータを送る一番早い方法はフェデックスでハードディスクを物理的に送るのが一番速いって言ってる現代落語もあって
要は固有名しか地名なのか全く分からないから当てずっぽうの山勘の助で明細を付けているんだけど、
あと困るのが本当に電話番号!
国毎に桁数が違ってたりするし適当に
日本ならさ
三三七拍子のように
電話番号が分からなくても三桁三桁七桁の節でゼロを桁数つじつまが合うように入れたら入力フォームが突破できるんだけど、
わりと真面目にリアルな電話番号を入力しないとフォームを突破できないのよ。
だからお客さんには
リアルな電話番号をガチで教えて!ってそのまま機械翻訳したらわりと的を得ているトンチンカンな英文になるけど通じているみたい。
でね
もう最初からガチでリアルな電話番号をプリーズ!って言った方がよっぽど通じるみたい。
とりあえず、
今んところ全部は届いているから
私たちが思っている以上にインスパイヤザネクストを凌ぐほどのソリューションがなんかスゴいことになってるのよね?
もうよく分かんないけど、
信じ合える喜びよね。
うふふ。
うーん、
これは朝の食べるきっとボリュームではないはと言うぐらいなんか立派なボリュームでお昼に食べたらヒーコーとあわせていただいたら美味しいかも!って思ったわ。
結構ヘビー級のボリュームのあるラインナップが最近多いみたいで、
軽めの朝の朝食のモーニングにはちと重たいすぎるわ。
お昼ならいいのかも知れないけど。
まあそんな鰯気な気分に浸らないで
気が向いたお昼にはそれにしようかなと思うレヴェルよ。
ほんのり甘い柚子ジャムをホッツプレーン白湯ウォーラーに投入した
あれもあれで一瓶買ってしまうと
消費が大変なので消極的だけど積極的に消化していきたい余したくはないからね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
具体的なことを箇条書きにして、改行もするなと。
もう昔の話だし、増田だったら、書いても良いよね?
また、大した話じゃないし。フィクションだと思って、読んで貰えば。
誰とは言わないが、彼から聞いた話を書くわ。
ガサ入れきてもよゆーっすw
・とりあえず、令状見せてもらえます?
・ニンテイ(任意提出)は一切応じません
・事情聴取は完黙
危ない奴、↑ 印刷して部屋に貼っとけよ。
苦汁を飲んだんだよ。
奴は論破に長けているだけじゃないんだよ。
Twitter?警察が、あんなでかい企業を相手にできるわけがない。
そこそこ天下り受け入れて、投稿者の情報を開示したり、適度に有害情報をバンしてくれれば、刺さないから。
仲良くやろうや。ああいうところには、下民にはわからない会話が成り立つんだよ。
一度もTwitter Japanが警察沙汰になってないだろ?
Twitterなんか、出会い系や無修正画像サイトに成り下がってるじゃねえか。マジで見やすいしお世話になってるわ。
世の中を常に疑え。
邪魔したな。あばよ。
2009年6月26日、法務委員会の児童買春・児童ポルノ処罰法改正案の答弁において、写真集「Santa Fe」について「児童ポルノかも分からないなという意識のあるものについては、やはり廃棄をしていただくのが当たり前だと思います」との発言を行った。後にこの件を振り返って「娘(3女の父)を持つ父親なら誰でもそう思うだろう」と言っている。また、改正案の定義について「芸術性は考慮しない」との回答を行い、その上で電子メールの添付ファイルを「開かなくても児童ポルノかわかる」、「警察が冤罪を起こすはずがない」という趣旨の発言を行ったため、同時期に問題となった足利事件との関連より、冤罪に関する認識の低さと改正案に反対する人々からの反発を受けた[13][14]。
メール、郵便、FAX、いかなる手段で児童ポルノを所持していても逮捕する。
電子メールに児童ポルノが添付されているかどうかは、ファイルを開く前に分かる。
今までの映画も本も写真も18歳未満のヌードが含まれる場合処罰する。
宮沢りえのサンタフェは見たことがないが、児童ポルノに該当する場合、法改正後の単独所持は処罰する(のちに衆議院法制局に確認した結果、サンタフェは規制対象外であるとされている旨を自身のホームページで述べている)。
ちなみにサンタフェ自体は18歳になって撮影されたとされており、販売規制がされている現在においても出版社からでも購入可能である。
過去作品のどれが児童ポルノかどうかは政府が調査して回答する。
童顔・制服着用のポルノは児童ポルノである。(この発言は18歳の高校生がいることと矛盾する。また同じ派閥に所属する岸田文雄は後に成人年齢を18歳に引き下げたので現在は制服を着た成人も存在する) 。
ハードディスクに入っている画像を何回開いたかで故意性を審査する。
写真や雑誌は、使い古されていたり手垢がたくさん付いていれば故意をみなす。
冤罪など起こらない。
自白は証拠の王様だ(これ自体は昔から使われている言葉である)。
捜査官は善良なので、自白を強いて冤罪を生じさせるようなことはないと信じている。
発言要旨
2009年6月26日の法務委員会で児童ポルノ禁止法改正案について以下のような趣旨の発言を行っている[19]。
- メール、郵便、FAX、いかなる手段で児童ポルノを所持していても逮捕する。
- 電子メールに児童ポルノが添付されているかどうかは、ファイルを開く前に分かる。
- 電子メールがきたら児童ポルノだと思えばいい。
- 今までの映画も本も写真も18歳未満のヌードが含まれる場合処罰する。
- 宮沢りえのサンタフェは見たことがないが、児童ポルノに該当する場合、法改正後の単独所持は処罰する(のちに衆議院法制局に確認した結果、サンタフェは規制対象外であるとされている旨を自身のホームページで述べている)。ちなみにサンタフェ自体は18歳になって撮影されたとされており、販売規制がされている現在においても出版社からでも購入可能である。
- 過去作品のどれが児童ポルノかどうかは政府が調査して回答する。
- 童顔・制服着用のポルノは児童ポルノである。(この発言は18歳の高校生がいることと矛盾する。また同じ派閥に所属する岸田文雄は後に成人年齢を18歳に引き下げたので現在は制服を着た成人も存在する) 。
- ジャニーズでも乳首が写っていたら児童ポルノだ。
- 児童ポルノの判断に芸術性は考慮しない。
- ヌードはすべてポルノである。
- ハードディスクに入っている画像を何回開いたかで故意性を審査する。
- 写真や雑誌は、使い古されていたり手垢がたくさん付いていれば故意をみなす。
- 冤罪など起こらない。
- 自白は証拠の王様だ(これ自体は昔から使われている言葉である)。
- 捜査官は善良なので、自白を強いて冤罪を生じさせるようなことはないと信じている。
- 冤罪の懸念なら、鞄に拳銃を入れられることだってある。
- マンガやアニメやゲームは悪影響があるのかどうかの研究する必要がある。
- 民主案は相続物に児童ポルノがあっても逮捕できないので困る。
ただし、当人は「誤解が先行している」として弁明を自身のホームページに批判に対する反論を行っている[20]。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%91%89%E6%A2%A8%E5%BA%B7%E5%BC%98
わいも聞きたい。みんなのところはどうなんだろう。
2022-07-25
原本保存が必要なので、クリアファイルに入れる。結局これがあるからペーパーレスのメリットがない
下請けがFAXで受信したものをPDFで送ってくる時がある。すげぇ見にくい。
これは完全に会社が悪いが、イレギュラーなものは案件管理システムで登録出来ない。
そんなにみんなペーパーレス出来てる?
2022-07-25
うちは一部ペーパーレスやけど、無理に完全ペーパーレスするのはアホやと思うで。
あと、結局長く使えば使うほどバックアップが必須になるのがな。
うちの会社、このハードディスクぶっ飛んだら仕事にならなくなるんだがどうなんや、と思いながらやってるわ。結局、電子より物理のほうが持ちはいい。狭い自宅なら兎も角、そこらの会社なら何冊も紙ファイルいれる本棚のほうがバックアップサーバーより安い。
ペーパーレスのいいところは、検索ですぐに資料が出てくるところやね。
それが必要なら是非したほうがいいわ。便利に使ってる。
うちは一部ペーパーレスやけど、無理に完全ペーパーレスするのはアホやと思うで。
あと、結局長く使えば使うほどバックアップが必須になるのがな。
うちの会社、このハードディスクぶっ飛んだら仕事にならなくなるんだがどうなんや、と思いながらやってるわ。結局、電子より物理のほうが持ちはいい。狭い自宅なら兎も角、そこらの会社なら何冊も紙ファイルいれる本棚のほうがバックアップサーバーより安い。
ペーパーレスのいいところは、検索ですぐに資料が出てくるところやね。
それが必要なら是非したほうがいいわ。便利に使ってる。
名著「UNIXという考え方 - UNIX哲学」は本当に名著なのか? 〜 著者のガンカーズは何者なのかとことん調べてみた - Qiita
この記事はよく調べてあるなぁと思う反面,事実関係の間違いも多く当時の空気感など欠けていると思う部分がいくつかある。事実関係に関しては追い切れないので参考文献を挙げるにとどめておくが,空気感のほうはいくつか書いておく。なお当該記事の「当時と今では状況が全然違うんだから,安易に『UNIX 哲学』とかいうな」という主旨には大賛成である。
初期の UNIX の歴史について興味がある向きには次の書籍をお薦めする。
Peter H. Salus『A Quarter Century of UNIX』(1994, Addison-Wesley Publishing)
和訳の『UNIXの1/4世紀』(Peter H. Salus, QUIPU LLC 訳, 2000, アスキー) は絶版のうえ訳も微妙なので薦めづらいが,原書は The Unix Heritage Society (tuhs) で PDF が無償公開されているので,英語が苦にならないのなら読んでみるといい。
また同じく tuhs で無償公開されている Don Libes and Sandy Ressler『Life with UNIX』(1989, Prentice Hall)を読めば80年代終りの UNIX の状況(XENIX についてもしっかり言及されている)や利用者目線での雰囲気もある程度判るだろう。
元記事で一番気になるのが「哲学」という語の捉え方。この言葉の強さに引きずられているように読める。でもこれ,当時は設計の基本的な考え方くらいの意味でわりとよく使われていた言葉なんだよね。たとえば米 BYTE 誌のアーカイブを “philosophy” で全文検索するとこんな感じ。
https://archive.org/details/byte-magazine?query=philosophy&sin=TXT&sort=date
ほぼ毎号のように出現していたのが判るだろう。
もっとも猫も杓子も「哲学」を振りかざしていたわけではないし,UNIX の開発者たちが「哲学」の語を好んで使っていたのも間違いないように思う。傍証の一つが AT&T の定期刊行物『The Bell System Technical Journal』の1978年7, 8月号だ。元記事で言及されているマキルロイの Forword の初出がこれで,ネットのアーカイブから PDF が入手できる。
この号は二部構成になっていて第一部が Atlanta Fiber System に関する論文12本(全172ページ),第二部が UNIX に関する(Preface や Foreword を含む)論文22本(全416ページ)となっている。さて前述の PDF は OCR されているので “philosophy” で全文検索してみると8箇所見つかる。これが見事に全部 UNIX の論文なのだ。もちろん論文の性質もページ数も違うからこれだけで確定的なことはいえないが「日常的に使っていたんだろうなぁ」という推測は成り立つだろう。じつはマキルロイの哲学とされている部分は “Style” であり “philosophy” の語は一切使われていないというのもちょっと面白い。UNIX の開発者たちがなぜ「哲学」という語を好んだか正確なところは判らないが,それまでにない新しい考え方に基づいた OS を開発しているという意識があれば,そういう言葉を選ぶのが自然な時代だったことは間違いない。
UNIX が認知され拡がっていく過程で「哲学」も知られるようになっていった。自分が好むものの良さを他人にも識ってもらいたい,あわよくば他人もそれを好むようになって欲しいという布教活動は今も昔を変らないわけで「哲学」はその便利なツールとなったわけだ。元記事ではガンカースの著作を「外部の人間が後から打ち立てた哲学」と表現しているが,そんなたいしたものではない。マキルロイの論文に影響を受けた布教のためのああいう説教は到るところにあった。たとえば前掲の『Life with UNIX』にもしっかり Philosophy の項がある。また日本で最初期の UNIX 解説本のひとつである,村井純・井上尚司・砂原秀樹『プロフェッショナル UNIX』(1986,アスキー)には冒頭次のような一節がある。
オペレーティング・システムは,コンピュータを使うものにとっての環境を形成する基盤であるから,そのうえで生活する者の個性を尊重し,より良い環境へと作り上げて行く課程を支援するような素材を提供するソフトウェアでなければならない。この主張こそが,UNIX のオペレーティング・システムとしての個性ではないだろうか。
「より良い環境へと作り上げて行く課程を支援するような素材を提供するソフトウェア」とはテキストを入出力フォーマットとする単機能のコマンド群のことで,これらをパイプでつなげたりシェルスクリプトでまとめたりすることで「そのうえで生活する者の個性を尊重し」た「より良い環境へと作り上げて行く」ということだ。こういった説教はありふれたものであった。たんにそれを「哲学」の語を用いて書籍にまとめたのが,たまたまガンカースだったというだけのことである。
そしてじつは UNIX の場合,布教活動とはべつに「哲学」を広めなければならない切実な理由があった。これを説明するのは非常に面倒くさい。当時と今ではあまりにも環境が違うのだが,その違いが判らないと切実さが伝わらないからだ。マア頑張ってみよう。
UNIX は PDP というミニコンピュータ(ミニコン)上に開発された。このミニコンを使うためには専用の部屋に行く必要がある。その部屋は,もちろん場所によって違うわけだが,マアおおよそ学校の教室くらいの大きさだ。長机が何列か並んでおり,そのうえにはブラウン管ディスプレイとキーボードを備えた機器が等間隔に置かれている。壁際にはプリンタが何台かあるだろう。通っていた学校にコンピュータ室などと呼ばれる部屋があったならそれを思い浮かべればだいたい合ってる。ただし置かれている機器はコンピュータではなくコンピュータに接続するための端末装置(ターミナル)だ。端末装置のキーボードで打った文字がコンピュータに送られコンピュータが表示した文字がそのディスプレイに表示される。現在 Unix 系 OS で CLI を使うときターミナルとか xterm という名のアプリケーションを用いるがこれらは端末装置のエミュレータで,もともとは実体のある装置だったわけだ。
さてコンピュータ室にたいていは隣接するかたちでマシンルームなどと呼ばれる六畳くらいの部屋がある。窓ガラスで仕切られたこの部屋には箪笥や洗濯機くらいの大きさの装置が何台か置かれている。これがコンピュータ本体だ。もっともコンピュータが何台もあるわけではない。この箪笥が CPU でそっちの洗濯機がハードディスク,あの机に置かれているタイプライタが管理用コンソールといった具合に何台かある装置全部で一台のコンピュータになる。どこが〝ミニ〟だと突っ込みたくなるかもしれないが「六畳で収まるなんて,なんてミニ!」という時代のお話だ。
端末装置それぞれから(USB のご先祖様の)RS-232 という規格のアオダイショウみたいなケーブルが伸び,マシンルームに置かれたターミナルマルチプレクサと呼ばれるスーツケースに台数分のアオダイショウが刺さってコンピュータとの通信を行う。コンピュータと多数の端末装置を含めたこれら全体をサイトと呼び,root 権限を持って管理業務を行う人をシステム管理者あるいはスーパーユーザと呼んだ。
結構上手に説明できたと思うのだが雰囲気は伝わっただろうか。ここで重要なのは一台のコンピュータを数十人が一斉に使っていたという事実だ。洗濯機とかアオダイショウとかは,マアどうでもいい。
当時の UNIX の評価を一言で表すと〝自由で不安定な OS〟となる。メーカお仕着せではなく自分好みの「より良い環境」を作りあげる自由。さらに他のメインフレームやミニコン用 OS に比べると一般ユーザ権限でできることが圧倒的に多かった。そしてその代償が不安定さ。今では考えられないが UNIX のその不安定さゆえにプロ用 OS ではないと考える向きは多かったし「でも UNIX ってすぐ落ちるじゃん」というのは UNIX アンチ定番のディスりだった。UNIX の落とし方,みたいな情報がなんとなく廻ってきたものだ。
こういった雰囲気を鮮やかに伝えてくれるのが,高野豊『root から / へのメッセージ』(1991,アスキー)だ。当時アスキーが発行していた雑誌『UNIX MAGAZINE』に連載されていた氏のエッセイの1986年11月号から1988年10月号掲載分までをまとめた書籍である。著者の高野氏は勤務先の松下電器で1980年ごろから UNIX サイトのスーパーユーザを務めており,日本では最古参の一人である。この本の中で高野氏は繰返し UNIX の自由さと不安定さに言及している。すこし長くなるが,その中の一つを引用しよう。
CPU は,システムにとって重要な共有資源であるが,この CPU を実質的に停めてしまうことが UNIX ではいとも簡単にできる。たとえば,cc コマンドを10個くらい同時に走らせてみたらよい。VAX-11/780 といえども,同時に実行できるコンパイルはせいぜい3つか4つである。それ以上実行することも当然可能ではあるが,他に与える影響が無視できなくなる。つまり,てきめんに vi のカーソルが動かなくなる。あるいは,すこし大きめなディレクトリ上での ls コマンドの出力が表示されるまでに煙草を1本吸い終えてしまったり,タイムアウトでログインが撥ねつけられたりといったバカげた現象が起きだすのである。こういった状態になると,UNIX は破壊されたに等しい。真夜中,独りで VAX を占有して使っているのなら何をやろうとかまわない。しかし,20人30人と多数の人間が使っているときに勝手をやられると非常に困るのである。当人の仕事が遅れるのは自業自得だとしても,そのとばっちりで他のエディタまで止まってしまうと,もはやどの仕事も進行しなくなる。
ディスクについても同様なことがいえる。UNIX では,ファイルシステムを使いはたすまで大きなファイルを自由に作ることができる。したがって,自分のプロセスがいったいどのくらいの容量のファイルを作り出すのか見当もつけられないようなアマチュアが使うと悲惨なことになる。ディスクを使いはたすと,コンソール・タイプライターにエラー・メッセージが出力されるが,夜中にそれが発生して,コンソール・タイプライターが一晩中エラー・メッセージを打ち続け,朝マシンルームに行ってみると紙を一箱打ち尽くしてしまい,ピーピーと悲しげな声を上げて人を呼んでいた光景を私は何度も見てきた。こうなると,それをしでかした本人のプロセスは当然のこととしても,同じディスクで走っている他のプロセスも先に進めなくなってしまう。すこしでも負荷を夜間にまわそうとする善意は逆転してしまい,わずかでも仕事を先に進めようとする意図も完璧に打ち砕かれてしまうのである。
そして,こうした不安定さが「哲学」を必要としたのだ。自分が利用しているサイトに「cc コマンドを10個くらい同時に走らせ」たり「自分のプロセスがいったいどのくらいの容量のファイルを作り出すのか見当もつけられないようなアマチュア」がいるとその累は自分にも及んでしまう。だからサイトの利用者全員に UNIX の設計の基本的な考え方を理解してもらうことが,自分のために必要だった。UNIX の伝道がより苛烈だった理由のひとつがここにあるのだ。
ミニコン上で誕生した UNIX は 4.3BSD(1986)で最高潮を迎える。注意したいのはミニコン時代の UNIX は Research UNIX と CSRG BSD みたいな区別をせずにまとめて UNIX として扱われていたことだ。実際『プロフェッショナル UNIX』も『root から〜』も UNIX と記述されてはいるが実際には BSD を扱っている。べつに当時の人が無知だったわけではない。なにしろ BSD を利用するためにはまず AT&T から UNIX のライセンスを購入し,そのうえでカリフォルニア大学バークレー校(UCB)から BSD を入手しなければならなかったからその関係は当然広く知られていた。ベル研で発明された UNIX を外部の人たちも含めみんなで改良し,それら全体が UNIX であるという考え方が自然だっただけである。『Life with UNIX』のような英語の文献によく登場する “Berkeley UNIX” という言い回しが当時の気分をよく表している。UNIX vs BSD みたいな捉え方は法廷闘争を経た90年代以降の感覚だ。
もっともそういう70年代風味の牧歌的風景はミニコン世界限定の話であった。BSD そのものはミニコン用のものしかなかったが,そのコードを受け継いだ BSD 系 Unix や AT&T が推し進める System V などがワークステーション市場を舞台に80年代中盤から激しく覇権を争うようになる。いわゆる Unix 戦争で,PC 用 Unix であるマイクロソフトの XENIX も当然参戦した。ミニコン世界が牧歌的だったのは,ぶっちゃけていえば先のない技術だったからだ。ただ Unix 戦争はあくまでも標準という聖杯を争う戦いであり,AT&T と BSD 系 Unix の Sun Microsystems が共同で System V Release 4.0 (SVR4) を作りあげたように後の法廷闘争とは趣が違う。
こうしたミニコン UNIX からワークステーション Unix への転変は Unix そのものや文化にも変化をもたらした。まず激しい競争は Unix の高機能化を加速した。商品として判りやすい惹句が「あれもできます,これもできます」なのは誰もが知っている。もちろん安定性を増すために quota のような利用者の自由を制限する機能も含まれていた。またワークステーション Unix は現在の Unix 系 OS と同様同時に一人が使うものであり前述の布教の必要性は大幅に減じた。達人たちのみの楽園から万人に開かれた道具に変ったのだ。こういった変化を体感したければ『root から〜』と水越賢治『スーパーユーザの日々』(1993,オーム社)を読み比べてみるといい。『スーパーユーザの日々』はワークステーション Unix のシステム管理の入門書だ。この本ではたんに知識を羅列するかわりに架空のソフトウェアハウス(開発会社)を舞台に新卒社員が先輩社員からシステム管理を学ぶという体裁をとっており,そのおかげで架空の話とはいえ90年代前半の雰囲気が堪能できる。出版年でいえば『root から〜』と二年しか違わない『スーパーユーザの日々』の落差は “dog year” と称された当時の激烈な変化まで体感できるだろう。
当時はよくいわれたのに今やほとんど聞かれなくなったものがある。マキルロイの論文の結論部分に書かれたそれは,1973年に出版されたイギリスの経済学者エルンスト・シューマッハーの著作の題名で,中学生の英語力があれば十分に理解できる平明な一文だ。
Small is beautiful.
マキルロイは『人月の神話』を引いて一定の留保をつけてはいるものの,これが UNIX 哲学の背骨であることに違いはない。機能をありったけ詰め込もうとして失敗した “kitchen-in-a-sink” な MULTI•cs のアンチテーゼである UNI•x にとって,これ以上のスローガンがあるだろうか?
ひるがえって現在の Unix 系 OS をみれば,ブクブクと肥え太ったシステムコール,全容を俯瞰するだけでも一苦労するライブラリインターフェイス,一生使うことのないオプションスイッチまみれのコマンド群。UNIX が仮想敵とした OS そのものだ。そのことについてとくになにも思わない。ハードウェアは長足の進歩を遂げ,コンピュータの応用範囲は途方もなく拡がった。UNIX が変らなければたんに打ち棄てられ,歴史書を飾る一項目になっただけだ。ただ現在「UNIX 哲学」を語るならそうした背景は理解していなければならないし,どれだけ繊細な注意を払ったところで〝つまみ食い〟になってしまうことは自覚すべきだ。
大好きな父が亡くなった
60歳代は早すぎる
今は何もかもが惜しい
ここ2ヶ月は毎日、父の様子を見るために家から電車を3回乗り継いで坂を登って実家に通っていた
容態が悪くなるにつれ、夜は泊まり込んで寝ずに父の様子を見ることもあった
話したかったことを話し、ベッドから起き上がりたい父の手を取り、トイレの付き添いをし、点滴をロックし、唯一口にできる水を何度も汲んで取り替えて渡した
ペットボトルから直で飲めていた水は、ストロー付きになり、コップになり、吸口になった
起き上がれなくなってからは排泄の手伝いをした
毎日帰り際に「また明日」と言って手を握ったら握り返してくれた
息を引き取る直前も手を強く握り返してくれた
二ヶ月間放置した家の中を片付けなければ
父と家族の写真をラミネートするために買ったフィルムと、出しっぱなしの父のラミネーター
いつ夜の番になってもいいように買った旅行用の携帯石鹸とオールインワンジェルと常用薬を入れたケース
父が書いた様々なメモ
昔の話がしたくて引っ張り出した数冊の日記帳
ガジェット好きの父からもらったUSBケーブル、タブレット、ポータブルスピーカー、大きなハードディスク、ポータブルフロッピードライブ
硬いところに当たって痛む体が少しでも楽になるように貸した柔らかめの枕
寝転んだままでも時間がわかるように貸したフック付きのアナログ時計
疲れ果てて帰ってきて捨てる体力すらなかった日の、空っぽのジンジャーエールのペットボトル
口が乾くから買ってきてほしいと頼まれたもののハッカが入っていて使えなかった口腔ジェル
湯灌の時に切ってもらった遺髪
まだまだある
片付けなければ、片付けなければと思うのに、今は片付けるどころか時間が経つのも惜しい
父が生きていた時の体から、父が亡くなって以降の体になっていくのが惜しい
父が生きていた日々からどんどん遠ざかっていく
前を向いて進まなくてはとよく言うけど、時計が進んで父がいた時間から遠ざかっていくのが寂しい
辛い