「長屋」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 長屋とは

2023-07-24

運のいい人生だった

まれときは庭付き一軒家だった。

小学3年の頃に急に引っ越すことになり、そもそも一軒家が賃貸だったことにショックを受けつつ、マンションへと引っ越す。

この辺りから転落していくんだが、

引っ越しの要因は父親仕事を変えたらしく、家に居ることが増えた。

もともと何の仕事をしていたのか分からなかったが、引っ越しからタクシードライバーをやっているようだった。

両親は不仲な感じで、自分は父の居るリビングに居づらく自部屋に籠もってスーファミをやった。

そこから何回か引っ越しを繰り返し、次々と住まいのグレードは落ちていった。

最終的には長屋のようなボロ借家自分中学生の頃だ。

今思うと安家賃を求め引っ越しを繰り返す、引っ越し貧乏のような気もする。

父親タクシードライバーを辞めバイトみたいな仕事、母はパートで働いていたが、

家は貧乏お好み焼き豚肉を入れることも躊躇われる程だった。

高校は行かせて貰えたがそこから進学するという選択肢自分の中に無かった。

自分勉強も出来ないのでランクの低い商業高校に入り、その高校内で当初は上位に居たものの、

遊び呆けて順位はみるみる落ちた。

就活学校に来る求人適当に見繕った。

とりあえず家を出たかったので遠方地が良かった。

東京金融業か近場の地方製造業の2つで悩んだが、

知り合いの居ない東京は嫌だな、1,2時間もあれば友人に会える近場地方製造業を選んだ。

就職氷河期と呼ばれる2001年だ。

ここが人生の転機だった。

入社してすぐにリストラが実行されたが新人には関係がなく、

リーマンショック赤字転落しそうだったが何とか耐えきったようだ。

無学な高卒だが課長にまでなり年収は1000万円手前になった。

家も買い、妻子にも恵まれ中学高校時代貧乏生活が嘘のようだ。

これは完全に運要素だ。自分に何かスキルがあるとは思っていない。

就職ガチャSSSを引いただけ。

東京金融業を選んでいたらどういう人生だったのだろう、とたまにふと思う。

ちなみに父親は不摂生他界した。

2023-07-20

anond:20230720213856

強烈な騒音源をクリアするには相応に広い家が必要で、地価が高いとそれが出来ないから増えない、みたいな感じなのかな?

貧乏長屋を全部超高層タワマンみたいにしたら一戸あたりの面積が増えて出産増えるとかそういう実験できないかしら。

2023-06-25

20230625[アタック25]Next 2023年6月25日 #67 20代大会 2023-06-25結果

BSジャパネクストで日曜昼などに放送

7月1日からの週の土日はお休みです

10月からの本放送は1時「25」分から

BS1からボタン2回とか

ケーブルテレビSTBでは見られない場合が多いようなのでBSパススルーとか

地域によってはSTBで見られるようになったかもしれないので最新情報確認

 

今日の答え(放送とは表現が異なる場合があります

・01 [ある果物名前]メロン

・02 ヴェルサイユ(条約

・03 じゃのめ(でお迎えうれしいな

・04 ハナコ

・05 15(秒以内

・06 [すべて]長崎県 北海道 鹿児島県 岩手県

・07 長屋晴子 ながやはるこ

・08 牛

・09 [近似値]23645

10ブルーロック』 ←追記

11 Governance ガバナンス

12 トマト(ジュース

・13 呂布カルマ りょふかるま

・14 ドップラー効果

・15 午後8時40分

・16 [3択]サックス

17 スプリット

・18 ポン・ヌフ

・19 [ふるさとクイズ][岐阜県養老町]養老)焼肉(街道

20 サンボマスター

・21 バレーボール

・22 [共通]メガネ

23 ざんぎり(頭を叩いてみれば

24 [AC]定石 じょうせき

・25 [AC2]オメガ

・26 [AC3]スイス

・27 リコッタ(チーズ

28 Vaundy

・29 『文藝春秋

・30 テントウムシ

31 [3択]46

・32 上手の手から)水(が漏れ

・33e [2択]ピタゴラス

・xx [ある人物名前]泉鏡花 いずみきょうか

2023-06-23

ワイの過去就労先で就労先が代替わりしたやつで、繁華街交差点角地という超一等地なんだが戦後くらいから借りてるだかで二十数年まえで月額に!じゅうまん円だった、超ボロ長屋造りの真ん中で狭小木造三階建だが、すでにして右肩下がり業績だったのでなんとか穏便にと就労経営者請願してたの思い出した

隣が初老の三兄妹が住み込み経営している甘栗屋!で、とおもってたらあるとき初老だが割りと整った容貌の老婦人が三兄妹と談笑してるの見てたらワイの就労経営者がアレあの四人は兄妹やねんとあの老婦人は実の妹という情報をブッ込んできて驚愕した

反対側の隣はコロコロ業務形態の変わる店舗で一時めちゃくちゃ適当名称イカ焼き屋だったこしかもうおぼえていない

話もどしてその時の就労先の代替わり前の創業者戦前大阪写真機業を営んでいた(国産初の懐中時計カメラ発売元)とこの兄弟()だかで店内で昔話にキミが一旗揚げる気があるならワシは○紅に知り合い居るから相談にノるでとよく(誰にでも)話していたのも懐かしい想い出

ちな後継ぎの婿の人は同窓会写真機屋だから写真押し付けられて店頭在庫のなかなか売れない高額新品の古都陶磁器会社謹製ブランド(素材は八州光学)一眼レフを持ち出してた

うそう、それの仕入先のエラい人が転勤上洛して来てしばらくして、建物庭園?に水やりしてて元栓閉め忘れで帰るという大失敗やらかしたという話もきいた

2023-06-16

ランボー2

敵兵から泥の壁にピントが移ってぎょろりと目玉が現れるとこ

スターウォーズ ep6

ルークライトセーバーを投げ捨ててジェダイになるとこ

ゴッドファーザー

粛清シーンで警官に扮した殺し屋が膝立ちで狙いをつけて撃ち殺すとこ

エヴァAir

バッハBGMに弐号機と量産機が戦うとこ

ラストアクションヒーロー

現実世界で窓ガラス割ったシュワちゃんが痛がるとこ

カラテキッド

箸でハエ捕るとこ

桐島、部活やめるってよ

ロメロだよそんくらい観とけ

ベンチを空けられても橋本愛の横に座れない神木隆之介

ソナチネ

雀荘の店主沈めるとこ

ロシアンルーレット

エレベーター高橋鉢合わせして撃ち合いが始まるとこ

真っ暗なホテルで銃撃の光に照らされてたけしの顔が浮かぶとこ

高橋の乗った車に手榴弾投げ込んで「車燃やしちゃってどうすんだよ」ってどやされるとこ

ダークナイト

昔服を交換した浮浪者に"nice coat"って声かけるとこ

パイレーツ

ボートかぶって水中をトコトコ歩くとこ

ブルース・ブラザーズ

オープニングの出所で抱き合うとこ

逃げ回ってる内にGTAみたいになってくるとこ

税務署員のスピルバーグがひょこっと出てくるとこ

エイリアン2

川北後光でパワーローダーが出てくるとこ

・Vフォーヴェンデッタ

ナタリーポートマン丸刈りにされるとこ

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ

ラストデニーロアヘンでキマってトロトロになってるとこ

愛のむきだし

ゼロ教会西島隆弘が空洞ですを合唱してるとこ

グッドフェローズ

ジョー・ペシの"Funny how?"でヒエヒエになるとこ

スカーフェイス

アルパチーノがパラノイア発動して札束を一枚一枚勘定するとこ

チャーリーとチョコレート工場

お出迎えの人形が発火して溶けたのをねっとり映すとこ

パトレイバー

長屋の残る下町イングラムがポップして野次飛ばされるとこ

ヒッチコックみたいなとこ

ヘレディタリー

・妹が死んだ後青ざめまくった兄貴が取り敢えず寝るとこ

グリーンブック

ケンタッキーKFC食って車窓から骨を投げ捨てるとこ

アンタッチャブル

アンディガルシア乳母車を受け止めつつ狙いをすますとこ

バグダッド・カフェ

ドイツのおばちゃん勝手掃除して主人のおばちゃんにブチギレられるとこ

イエスマン

ジムキャリーが華爛漫踏むとこ

トイストーリー

バズがCMに出る自分を見てヤケになるとこ

モンスターズインク

マイクバカデカコンタクト入れるとこ

ノーカントリー

アントンシガー笑顔キモいとこ

マトリックス

弾避け

避けきれなかった後にトリニティエージェントの脳天にゼロ距離でぶっ放すとこ

手荷物検査コートガバッと開いた時に警備員が驚きすぎてすぐに反応できないとこ

スタンド・バイ・ミー

ちんちんヒルが張り付くとこ

・リトル・ショップ・オブ・ホラー

feed me

千と千尋

カエル男が厨房の窓開けてタバコ吸うとこ

BTTF

栓抜きの使い方をパパに教わるとこ

ママが車で酒とタバコやるとこ

2023-06-02

anond:20230601135211

本所達磨横町に住む、左官の長兵衛。

はいいが吉原に嵌り、仕事もろくにしないので家計は火の車。

吉原借金が五十両にもなり、年も越せないありさまだ。

これではいかんと娘のお久大親方に相談すると、思わぬ答え。

「あそこまでの色狂いは尋常のものじゃない。病気から一度医者に診てもらうと良い。」

そこで紹介されたのが男衆の間で評判の夜鷹照経という医者で、お久が頼むと長兵衛の長屋に問診に来てくれた。

「なるほどこれは確かに治療必要だ。ちょいと荒療治になるが、父親の情けない姿を見せるのも忍びない。お久さんはこの桶にぬるま湯を入れてくれたら、半刻ばかり余所に出ておいておくれ。」

お久が言われたとおり桶に湯を入れると、医者は薬を取り出し湯に溶かしはじめ、お湯はみるみるうちにどろどろとオクラナメコの汁のようになった。

「さあお嬢さん、ここから先は医者領分だ。なに心配は要らぬから出て行っておくれ」

そういうわけで、お久が半刻ほど街をぶらついて長屋に帰ると、ちょうど医者が帰り支度をしているところだった。

見れば長兵衛は憑き物が落ちたようにスッキリした顔をしている。

医者が帰ったあと、お久父親に聞いてみた。

「お父さん、体は良くなったかい?」

「あぁ、あれは大した手管だ。今度から吉原ではなくあの先生にお願いするよ」

お後がよろしいようで。

2023-05-17

寝ることが最近早い増田住まいや飯奇異さが床ルネ(回文

おはようございます

最近猛烈にもー眠いわ!

昨日だって早々に多分21時ぐらいには寝ちゃっていたんじゃない?

と言ってもそっから寝転がりながらタブレットドラマなんか観て消化していたり、

朝ドラ朝ドラ

子役編はどうにもこうにもこの先面白くなるのかしら?って思っていたけど、

ここ長屋引っ越してきてからが楽しみね。

騒動ありそうな気がして

貯まってる分追いついてないけど3話連続で観てしまったわ。

それなかったらもっと確実に早く寝られていたのにってところかしらね

スプラトゥーン3もお休みね。

昨日とかも勝ててないか

ももカタログは全部とりあえず1冊目はコンプリートできたから、

今シーズンは緩ーくってことでのプレイバラエティーに富んだブキ構成よ。

と言ってもいつものお気に入りのブキを4つ気分転換に持ち替えてるって感じかしら。

平日はどちらかというと時間がないので、

これ睡眠時間に全振りしている感じが

やっぱり身体も快調ね!

そんでさー

もう暑くなってきたからまさに30℃せまりまくりまくりすてぃーな勢いなのよ。

冷たいもの冷蔵庫事務所にないので

急遽麦茶を買ってきた次第よ。

沸かすの面倒くさいしなーって思いながら

やっぱり夏場は飲むかっ!?って

この先の暑さに今から思いやられるわ。

そんでそんでよ!

これからの時期は地味ーに忙しくなるので

うかうかとゆっくり書いてられない次第でもあるのよね。

まあ忙しくないうちに書いてしまうわ。

刺激的な新しいトピックスが欲しいところね!

うふふ。


今日朝ご飯

久しぶりかも?な赤飯おにぎり買ってみたわ。

これも好きなのよねー

今度気が付いて覚えておいたら百貨店のおこわ買ってみて食べたいなってクチになっちゃうのよね。

デトックスウォーター

ホッツ緑茶ウォーラー

水筒に詰めていくついでの朝のそのホッツ緑茶ウォーラーね。

まだ熱いの飲めるけど、

どんどんこれから気温が高くなると、

緑茶ホッツもーって感じかしらね

とにかく夏に向けて

体調管理は崩れないようにしたいところを今から構えておくわ。


すいすいすいようび~

今日も頑張りましょう!

2023-05-11

実は200年ほど生きている

誰にも気づかれていないが、実は君らのお爺ちゃんやお祖母ちゃんよりも、長生きしている。

江戸長屋で生まれて、今の世まで生き残ってしまった。

2023-04-26

anond:20230425204721

長屋に住んで野菜くずを食べ、週に一回(ときにはもっと減る)銭湯で暮らせなくなったのは

勝手に「そんな暮らししたくない」と決めただけなんだよなぁ

ツギハギのお下がりを着て、ボロボロランドセル学校行くとかないだろ?

そんなの「最低限」ですらないんだろ?

知るかよ

2023-04-16

anond:20230416083142

東京が高いの家賃不動産だけだから

致命的じゃん

医者でも永住前提の家を買えるか怪しい、開業医でも購入無理な家やマンション売られたりする東京ってイカれてるやで

あと豪雪地帯でもないにも関わらず、石油ファンヒーター使ってる人たちたくさんいるの(灯油売りが来る)地獄みあるし、

氷点下を下回らない地域なのに電気ストーブ火事起こしてるの地獄みある

 

まぁ都内庶民の家は、建材うんこor資産価値なしの土地に建ってる長屋ばっかだが、

世の中にはとんでもない目利きがいて、5千万前後物件でも利益出してる人はいるにはいるけどな

 

数百メートル内にいくつもスーパーがある

ないぞ。地価がクソ高いか絶滅していて、ネットスーパーコンビニ見たいな大きさのスーパー利用がデフォやぞ?

 

都内でも価値があるのは都市部と始発駅徒歩7分圏以内だけで、それ以外の地域ならいくらでもスーパーコンビニあるが言うほどいるか

地方と違って、土地価値なし地域にはイオンモールニトリホームセンターみたいなのも無いんだぞ(あるのは基本的駅前・駅近)

つか、スーパーコンビニなら地方都市だっていくらでもあるやんけ。かつ下記を満たせるし

 

空港まで車やバス電車20-30分

大学病院まで車やバス電車20-30分

・中規模病院徒歩圏内

・山や海へ徒歩やチャリで行ける

シネコンミニシアターへ徒歩やチャリで行ける

大型書店があるへ徒歩やチャリで行ける

専門店、美味しい飲食店、気の利いたカフェへ徒歩やチャリで行ける

スーパーが徒歩圏でかつ地域生鮮食品と輸入食材を取り扱っている

・大型公園へ徒歩やチャリでいける

・県産の野菜、肉、肉加工品(水飴とか使っていないちゃんとしたソーセージベーコンハム)、チーズ(チーズ工房で作ったやつ)が買える

上記の条件すべて満たした上で、2LDK3LDK10万以下、1K・1ルームならSRCRCの築浅で5万以下

 

 

ただ、ワイは下記の認識はあるので『貧民かつ親類が助けにならない』なら逆に都内に住めって思ってる

2023-04-05

anond:20230405222433

東京ってもピンキリやん。そこにしかアイデンティティないの?

自分コンプレックスを人に押しつけるなよ~。

その日暮らしでもいいじゃん、ドアだらけの現代長屋住まいだっていいじゃない、楽しく生きろよ!

2023-04-01

築50年都内マンション様相 身寄りのない高齢者の補足

身寄りのない高齢者 https://anond.hatelabo.jp/20230329152826 を書いた者です。ここ数日は朝晩先生のところに行き、おむつを替えたり水筒にお湯を汲んだりそうめんを茹でて届けたり恨み節を聞いたりしておりました。

 

 コメントで、築50年、1970年代に作られたマンション様相についてイメージしずらい(しづらい)方がいるようなので書いてみようと思いました。

 

 このマンション1970年ごろ、23区内の都心ではない地域に建てられた。8階建て、64戸。間取り3LDK私鉄の駅から続く商店街を徒歩五分といった立地だ。私は昭和55年1980年くらいから住み始めた。幼稚園生だった。

 小学校入学するとなったとき、この地域には集団登校というものがあり、そこに参加することになった。マンションの一階のたまりに50メートル半径くらいに住む小学生が集まり、6年生の班長を先頭に行列して登校していた。下駄屋のせがれ班長レストランせがれが副班長スーパーのむすめにはよくからかわれていた。この集団が30人ほどで、うち15人ほどがこのマンションの子供だった。統計を見るとこの区の当時の小学生の数は今の倍で、同級生が5人いた。幼稚園のころ、鉢合わせるといつもいじわるをしてくる「とおせんぼうのおねえちゃん」と私が呼んでいた子が、入学式で同い年だと判明した時の驚きは今も覚えている。親同士も入学式を機に急激に関係を深めていった。それぞれ多様なルーツと職をもつ家庭同士が「同級生の子育て」という繋がりで協力関係を築きはじめた。地元の零細土建屋社長理工系技術者保育士共産党員福祉従事者、学者など様々な職種の親たちだった。仕事の忙しい時は子供をあずけたり、おかずを分け合ったり、土建屋おやじが釣ってきた魚をさばいて集まってみんなで宴会したり、うちの母が子供たちに勉強を教えたり、醤油砂糖がないときは借りに行ったりというつあいがはじまった。そういう関係性は同級生以外の世帯にも波及し、私が成人するまでは本当に長屋のような雰囲気があった。おばさまたちはたくましいコミュニケーション網で、マンションだけでなく地域情報を過剰に共有していた。マンション商店街に面していたこともあり、町内で起こったことはすぐに衆人の知るところになるような状態だった。救急車が来ればすぐに誰がどうなったか情報が回り、火事が起きたら皆が集まり、私が近隣で悪さしようものなら、すぐに母の耳に入るような、そんな街だった。

 おそらく80年代はほぼ全世帯が持ち家だった。新築で購入した住人ばかりだった。私の両親も、新築で買った父の弟が海外に赴任になり、譲り受けたものだった。なので高齢者ほとんどいなかった。近所にワンルームマンションというものができたという話が広まり住民がいぶかしがるような時代だった。独身者アパートに住み、地元民は一軒家に住み、新興の移民マンションに住むという構造だったのだと思う。商店街コンビニレンタルビデオ店が出現したのは80年代後半だったか。街が進化しているという雰囲気があった。(しか資料をみるとこの街の全盛期は遥か昔にあり、戦前から駅前には映画館集会場があり、商店街はその枝葉の脇道にまで飲食店や遊興施設にあふれていたらしい。私が知る商店街はメイン通りだけだ。映画館なんて想像もつかない)90年代後半に私が実家を出るまでは、商店街には勢いがあったように思う。オリジン弁当のはしりのような店で私はバイトしていたし、中規模の本屋ができたり、中古ゲーム屋ができたり、インディーズコンビニができたり、まあたらしい店舗が次々に出現した。外国人も増えていった。皆が東京未来を信じていた時代だったのだと思う。

 その後私は実家からそれほど遠くない、もうすこし大きな駅で自立する。歴史も規模も地元とは一味違った。そこではじめて都市生活者としての暮らしがはじまったように感じた。近隣に知り合いなどおらず、非常に個人的で閉鎖的な生活がはじまった。恋人同棲していたのでそんな環境でも寂しさはなく、気楽で自由暮らし謳歌していた。文化的地域だったのでアーティストやら文人やらといった有象無象とのつながりもでき、地元とは違うコミュニティでの生活は心地よかった。新興サッカークラブファンの繋がりなどもあり、自立して新たな人生をこの地域で歩んでいるという満足感もあった。今思うとJR沿線私鉄沿線では街の成り立ちが違っていた。どちらがいいのかはわからない。

 そんな2000年代。わが地元マンションは活気を失っていく。子供たちが出て行って高齢化たからだ。私が実家を見切った大きな動機の一つに衛星放送問題があった。マンション世帯四方にあり、衛星放送アンテナを南西だか南南西に向けられる世帯は限られていて、我が実家はどうしても衛星放送が受信できなかった。90年代後半に普及したCS放送を見るためにどうすればよいのかと苦心していたときマンション理事会が開かれるという。私は屋上衛星アンテナを設置し、各戸に配線することによってどの向きに位置する住人でも衛星放送を視聴できる環境を実現するべきとの議案を提起した。私は住人のおじさまおばさまへ向けてプレゼンしたのだが、投票の結果は否決だった。そのとき長老のひとりのおばさまの「わたし意味がよくわからなかったけど、反対にしちゃった」というつぶやきが耳に入り、ああもうここに住んでいてはいけないと思った。ここは朽ち果てるのだと本気で思った。この街には何の魅力も感じなかった。若い方には意味が分からない話かもしれない。固定電話インターネットに繋いでいた時代の話だ。

 「マンションの向かいの部屋」という記述がわからないというコメントがあったので、マンション構造について記す。我がマンションはいわゆる「内廊下であるエレベーターマンション中央部にあり、廊下も完全に屋内にある。外から各戸のドアは見えない。ホテルのような構造だ。階段も内部にあり、非常階段けが外部に設置されている。一階のロビー(といってもたまりと集合ポストがあるだけなの空間)に受付のようにガラス窓の事務室のような管理人室があり、そこは居住空間にもなっている。管理人住み込み管理会社が雇っている。部屋の所有者は管理会社だった。初代の管理人は私が物心いたころにはおじいちゃんだった。気のいいおじいちゃんで、前述した「先生」もこの管理人とは懇意にしていたそうだ。彼が引退した後、何人か後任が変わり、今の管理人は勤続20年くらいか。気さくな夫婦住民とは打ち解けている。数年前、管理会社方針住み込みでの雇用は打ち切るとなったときマンション自治会自治会費で管理人室を買い取り、管理人雇用することになったとのことだ。そのとき声明文で「高齢者が多くなっているこのマンションにおいて住み込み管理人は不可欠」といった文言があったそうで、先生はそれを根拠管理人介護を強いろうとしているところもある。管理人はそれを個人裁量判断する領域だと主張しており、それに対しては他の住民管理人に同情的な態度でいる。介護するほどの給料は払っていない。

 

 とりとめなくなってしまった。地域先生の話をひとつ

 マンションのふもとには公園がある。サッカーコートくらいの広さに、20メートルほどの高さの木々がぽつぽつとたっている。子供の頃は木々をよけながら野球サッカーをよくした。さして広くない公園なので、子供の打球でもしばしばボールは柵を超える。超えた先は民家や我がマンションの一階世帯だ。植木や窓や壁を破壊することもある。住人としてはたまらない。子供たちをどなりつけにくる。われわれ悪ガキはそんなこと関係なしだ。ホームランを打つと出てくるモンスターしか思っていないので、どうやって攻略してやろうかという遊びの延長としてとらえ、慣れてくるとからかったりする。怒り心頭大人行政に働きかけ、公園には「サッカー野球等の球技禁止です」の看板が立つ。そんなものも我々にはなんの効力もなかった。そんな折、被害にあっていた一階の住人である医師夫人が、先生師範学校の先輩だったそうで、先生に「あなた現役の教員なんだからここらの悪ガキに説教して頂戴」という指令が下った。先生はしかたなしにひきうけ、我が家に集められた子供たち親たちを前に話をすることになった。先生はそのとき野球サッカーだ窓を割るなとかいう話は一切せず、私が教えている学校には、いろいろな子供がいて、それぞれ固有の好奇心があり、自由時間には絵を描いている子もいれば、本を読んでいる子もいる、おしゃべりをしてる子もいるし、折り紙をしている子もいる。子供というのは自由環境があってこそ成長するものであるという話をしたらしい。私は覚えていないのだが、聴いていた父はいたく感心したらしい。先生にはそういう一面もあったようだ。

 たまに実家に帰るたびに衰退し活気を失っていったわがマンションも、2020年代から変化が訪れた。年寄りが死んで子育て世代が移り住んでくるようになった。私の幼少期とは数が違うが、小さい子供をよく見かけるようになった。外国人も増えた。賃貸の住人も増えた。私は離婚しひとり身になっていたところに、父の介護必要になり再びこのマンションに戻ってきた。父を自宅で看取り、そのまま母との二人暮らしがはじまった。職場も近いし、近隣にはなじみの人々がいて、それなりに快適に暮らしている。スーパーのむすめも今となってはわたしいじめないし、買い物に行けば談笑くらいはする。先生最近どうなのという話題は常にあがる。先生スーパー下駄屋の軒先で店主をつかまえて延々と話し込むのが日常だったし、出歩けなくなってからは困るとスーパーにも電話してきて助けを請うので、みな戦々恐々としているのだ。なぜ先生のことをそんなに詳細に知っているのかというコメントもありましたが、こんな地域では先生の詳細なくらしぶりなど、個人情報というより災害情報のように扱われているのです。ケアマネもすぐにその輪の中に取り込まれる。そんな地域なのです。

2023-03-11

anond:20230311085306

以下のくだりが、とても印象的だった。

その時にわたし出身地名産が好きで、通販でたまに買って食べてるんだけど美味しいよね、とさりげなく話題をそらしてくれた年配の男性がいた。

その人が後から「あの人、悪い人じゃないんだけどごめんね、自分神戸出身でさ」と言われた。

恥ずかしい話、「神戸出身から」と言われて私は何も分からなかった。

私は自分地震津波被災者で、東北で育った私たちが一番の被災者で、今後数十年はわたしたちが一番のかわいそうな立場だという感覚を持っていた。

「なぜ急に神戸?」とポカンとして「はぁそうなんですか…」と雑に返した気がする。

その後、関東に戻ってしばらくしてから、何がきっかけか覚えていないがオウム真理教の話になったとき

上司が「あの年は神戸で大震災もあって、オウム事件もあって日本は終わりだと思った」と言ってて

やっと気づいた。


ひとの災害経験というのは、ほんと様々で、一概にかわいそうな被害者としてのっぺらぼうな面をみるわけにはいかないよね。

自分けが被害者面していたかも、という気づき。こういうちょっとワンクッションおいて、時間が経って考えること、こういうのが大切なんだと思う。

ただ、被害者という言葉共通項を見出したとしても、阪神淡路大震災経験したひとと、東日本大震災経験した増田がこうして、何かのきっかけでお互いの体験共通部分に触れようとしたときでさえ、お互いが経験したものの奥行や背景は全く違う。でもそれは、もっと言葉を交わさなければみえてこないもの

多分、増田上記言葉を交わしたとき、その手前でふと立ち止まって考えたんだと思う。

ひるがえって自分の親戚の話。自分語りをトラバに混ぜるのはなんだかな、と思うところもあるが、テーマ性質上書かせてもらう。津波から数日後、東北もっとも大きな漁港ひとつで、親戚が経営していた漁業関連会社生産工場が全滅したとの一報を受けた。一方、杜の都に住む息子娘世代は全員無事だったという朗報にほっとしたことを思い出す。

しかし、それよりも震災から半年くらい経って、父が一言つぶやいた言葉のほうが忘れられなかった。

父は東北我が家家系からすると、よそから婿養子だった。

その父が他界した親戚をふりかえってぽつりとこうつぶやいた。

「あれは天罰のようなものだったんだろうね 」と。

期待していない予想外の冷徹つぶやきに私は動揺した。

他界した親戚一家は、さかのぼると、昭和8年津波の前から漁港生計を営んでいた。1933年津波で多くの財産を失った親戚は一から再建する際に、同じ場所でやり直すのはやめるべきだと再三にわたって、周囲から助言されていたという。しかし、結局、同じ場所人生をやり直し、次世代が引き継ぎ、そして次第に事業規模が大きくなり、津波記憶が遠ざかっていくなかで、そのまた次世代の方々が財を成し、地元の名士として羽振りよく、親族のなかで存在感を持つに至る。そんななかで、半世紀以上前東京に出て行った東北の令嬢が結婚前の父と出会う。

大切な令嬢(大地主の長女)をどこの馬の骨ともわからないよその県の小作人末っ子風情に嫁がせるわけにはいかない、という大反対の嵐。本家からなにから親戚中の冷たい目線。結局、結婚は許されて、父は母の家系に婿として入ることになるのだが、その時に受けた屈辱を忘れられないらしく、東日本大震災で全滅した親戚に対して、天罰、という言葉自身のつらみを含ませて表現したのだった。

父にとっては、かわいそうだね、では決して片づけられない感情

個人的には、なにより、貧しい者も栄華を誇った者も等しくなぎ倒した大津波の、客観的な、物理的な力に圧倒せざるを得なかった。

たとえ、誰と震災経験の話をするとしても、このようなパーソナルヒストリーの違いによる温度差は避けることができない。そう思っている。

震災経験していようがいまいが、あるいは同じく焼け出された隣人でも同じではない。大地震大津波破壊力を前には、あの家は無事だった、無事でなかった、そういうさまざまな経験がそれぞれにあるにすぎない。

こうしたファミリーヒストリー視点でそれぞれの思いがある一方で、

上司が「あの年は神戸で大震災もあって、オウム事件もあって日本は終わりだと思った」と言ってて

やっと気づいた。

という上司言葉。そして、「やっと気づいた」という言葉。このつながり方は、大変興味深い。「あの年は~」というのは個々の経験の違いを超えた、歴史を振り返った俯瞰的な総括を含んでいるからだ。1995年という時代、そういったマクロ視点での気づきをもたらすのも災害だ。

そして、それが何かの理由で、自分自身ファミリーヒストリー神戸出身者とのちょっとした会話と結びついたのだとすれば、それは自分ある意味「かわいそうな」私的な思いを、歴史の一コマなかに着地させようとする、そういう覚醒だったのかもしれない。

実をいうと、よりマクロ視点で、それぞれの災害にはそれぞれの社会的な背景があり、その脆弱性被害を増幅させている、という視点最初に提起したのは、阪神淡路大震災だった。

1990年代以前は、災害被害者というのは、災害管理文脈で救援対象として、比較ステレオタイプに捉えられていた。しかし、その認識を大きく変え、都市社会構造脆弱性に関心が高まったきっかけが1995年震災だった。こう書くとなにやら上から目線風だけど、阪神淡路大震災自分仕事として防災世界に入るきっかけを作った。

ざくっとまとめると以下のような歴史神戸にはある。

神戸都市としての成り立ちは、明治の初め、神戸港が開港された時から始まる。以降、港湾労働者が多く流入低所得層脆弱埋め立て地や条件の悪い内陸部へ集住するようになる。他方で、20世紀鉄道時代に入ると、阪神間交通網が充実し、六甲山ろくに高級住宅地が開発されるようになる。高度経済成長期には六甲の開発で切り崩した丘陵地住宅地建設、その残土で海岸が埋め立てられ、工場用地や港湾建設が進められていく。おりしも公害問題が深刻化した時代都市生活環境はますます深刻化していった。そんななか、オイルショックを契機に産業構造の転換という時代の変わり目を迎え、神戸産業シンボルであった造船、鉄鋼は停滞してゆく。それは関連する神戸の零細地場産業を苦境に陥らせ、今度は人口流出が起こり都市部の空洞化が始まった。都市部に残っているのは、流動性の低い層つまり高齢者低所得者ばかりとなった(インナーティ形成)。

これに対して1980年代神戸市の政策的な対応としては、財政問題の打開が先行した。バブル前の当時の考え方では、大規模開発こそが地域経済再生をもたらすと信じられていた。埋立地の利用による、ポートラインラド、六甲アイランド建設物流機能強化のための明石大橋建設最先端技術産業の誘致、ニュータウン建設など、新たな付加価値の創出が事態打開の切り札だった。

その一方、社会脆弱層への支援行政による市街地再生は後手に回っていた。

オイルショック後の産業構造の転換で取り残された低賃金労働者の町、老朽化の進んだ木造住宅密集地域長屋建ての住宅の占める割合の多い市街地長田区スラムのようなオールドタウン)は新陳代謝が進められなかった。地震対策の上でも洪水対策の面でも取り残された街となった。どのような地域であったか番町地区検索をしてほしい。

このような経済格差脆弱性が生み出された、マクロ構造変動のなかで襲ったのが1995年大地震であり、被害社会経済的脆弱な人々に集中した。暴力団員が懸命に救助活動していたエピソードを覚えている人もいるだろう。そういう街だった。

社会学的な視点でみれば、この地震の教訓として、被害高齢者低所得者に集中したのは、ある意味歴史的必然だ。格差が生み出された背景などのマクロ政治的経済的な動向と切り離せないということだ。

そして、このような格差脆弱性という切り口でみる構造分析は先月発生したトルコシリア大地震でも、当てはめることができる。

このように、可哀そうな存在というのを社会学的に脆弱性として構造的にとらえる、ひとつきっかけは、やはり他の災害を知るということであるし、昔の災害を知るということだと思う。

パーソナルヒストリーとしてお互いに触れあうことで、お互いに違うバックグラウンドにあることがうすうすわかってくる、それもまた、大切な気づきなのだと思う。

また、パーソナルなコミュニケーションが、例えばまさに「通販でたまに買って食べてるんだけど美味しいよね」みたいな会話、これが実はマクロ特性を知るうえでも、その人のパーソナルヒストリーをしるうえでに、もっと重要エントリーポイントだったりする。仕事上、ひとから話を聞くときにいつも気に留めていることでもある。

からトルコシリア現在進行形震災について全体状況を大きな視点理解している国際機関よりも、よりミクロ視点で、特定家族地域の人たちにコンタクトがとれる小規模のNGO支援団体に私自身は微力ながら支援金を送付している。たまたまシリア難民支援をしている人と知り合いの知り合いくらいの関係SNSでつながっていたのがきっかけだ。アサド政権物資を止めてしまう現状も現地の声としてより関心を持つようになった。そのほうが確実に、受け取った人の顔がみえ、困っている状況がミクロにもマクロにもわかってくる。自分支援したお金支援先の一家族あたりの支援額(しか第一バッチ)の1/4にも満たないことを知る。こういうことも大切だと思う。

そのように、何かをきっかけに、他の災害に対して接点を持つ機会を大切にしたい。

その人が後から「あの人、悪い人じゃないんだけどごめんね、自分神戸出身でさ」と言われた。

というのは、居酒屋トイレ洗面所とかで何気なくかわす会話、とか想像していたのだけど、そういうのが大切だよね。そういうのが心の残って覚えている、ということがさ。もちろん完全にひとのことを理解するなんてことはどんなに会話を交わしてもない。でも覚えてさえいれば、そのなぜか覚えていた思いを何かにつなげることができる。その「きっかけ」というのはとても大切に思う。

災害を忘れない、というのはそういうことだと思うので。

2023-02-02

罪を犯した

俺は小学校の頃親の都合で転校したことがあって、言葉の訛りが発端になって転向後しばらくいじめられていた

悪口言われるとか無視されるとかなら別にどうということはなかったのだが、隣のクラスの多動系クズ行為エスカレートして、そいつ休み時間のたびに物差しで頭を殴りにくるという状況になっていた

最初は怒鳴り返すくらいだったが、あまりに頭にきて一度そいつの腕をカッターで切りつけてしまった

ちょっと血が出たくらいで大怪我させたわけでもないのだが、校内で問題になって「友だちと刃物でふざけていて怪我をさせた」ということで親も呼び出され、治療費も払わされた

俺は納得がいかず「相手は友だちでもないし、遊んでいたのではなくて自分の身を守るためにやったことだ」と何度も訴えたが、聞く耳は持ってもらえなかった

それ以来そいついじめはなくなった

しか担任から問題児として見られるようになってしまった

まあ学年が変わると担任も話のわかる人に変わって学校生活は安定したのだが、俺はその多動クソ野郎のことは許してなかったしいつか絶対に償いをさせてやると思っていた

それが30年前の話だ

小学校卒業してから、そのクソ野郎とは大学生の頃一度だけ顔を合わせた

正月帰省したらサティを女連れで歩いていた

あんな男に彼女が居ると思うと許せなくて、こっそり後をつけた

すると二人はクズ男の両親と合流して、女は彼女じゃなくて妹だということがわかった

ほっとしただけじゃなく、あの妹をめちゃくちゃに犯されたらあいつはどう感じるかなとか考えてしまった

次の日から俺は卒業アルバムからそいつの住所を調べて周辺をうろつくようになった

そいつの家は低所得者向けの市営住宅で、便所も汲取式のみすぼらしいものだった

庭では年老いた犬がいつも寝ていた

別になにかしようと思っていたわけじゃない

実際、そいつ一家鉢合わせたことはなかったし、正月休みが終わると俺はそのまま東京へ戻ってきた

それから実家に帰ると俺はなんだかんだと理由をつけて家を抜け出し、自転車そいつの家の周りをぶらついた

習慣になってしまってそれを10年以上続けた

俺は先日40歳になった

ちょうどその誕生日かぶる日程で父親海外に出かけることになり、見送りにいった

空港のゲートへ向かう父の背中は間違いなく老人のそれだった

時が流れたんだなと思った

自身もも子供でも若者でも青年でもない

いい歳してあんなことはもうやめようと思った

そう固く決意して実家へ戻ったが、いつも使ってたママチャリが目に入った瞬間に決意が溶けて消えた

何も考えずにまたあいつの家に向かってしまった

ただ、本当にこれで最後にしようという気はあった

いつものように何事もなく、周囲をふらついて、あいつが出てきたら殺してやるのに、妹が出てきたら犯してやるのにという呪詛を内心で唱えて、ただ帰ってくる

そのつもりだったのに、その日は奴の妹と鉢合わせしまった

鉢合わせと言うか、すれ違っただけだ

妹は小さい男の子の手を引いて自宅に向かって歩いていた

喪服姿だった

俺は数十メートル走ってから自転車を停め、徒歩で背後から妹を追った

俺のリュックにはたまたま鎖が入っていた

原付用のチェーンロック

それを取り出して右手に持った

不思議なことに興奮も緊張もなかった

何度もシミュレーションしてきたからかもしれない

俺は歩調を速めながら、幼児の速度でのんびり歩く妹との距離を少しずつ詰めた

息を潜め、チェーンを握り直す

しかし俺は妹に追いつくことはなく、彼女はあのみすぼらしい長屋に入っていった

薄そうな木製の玄関ドアを俺はしばらく見つめていた

妹が残したものか、それとも家の中からなのか、線香のにおいが漂っていた

犬はまだ生きていた

薄汚れて毛並みも悪く目も濁っており、どこからどう見ても老犬だ

まり散歩に連れて行ってもらえていないのか庭の済に放尿した跡があった

俺はチェーンを振り上げ、その一端を汚い犬の頭に振り下ろした

「あふっ」とかなんとか声を出したので、やばいと思ってもう一度、思いきり殴りつけた

急に怖くなって周囲を見回した

かに見られてはいないようだった

かになった犬がどうなっているか見るのも怖かった

俺は早足で現場を離れ自転車に飛び乗り、投げるように実家自転車を乗り捨ててタクシーで駅に向かった

新幹線東京に向かう間、ついにやってやったぞと思うとにやけ顔が抑えられなかった

遅れて来た興奮で震えるほどだった

東京に戻ってからは体調を崩して高熱を出し何日も寝て過ごした

それが良くなると同時に犬に申し訳ないことをしたという罪の意識が俺を支配した

多分俺はおかしいんだろう、おかしいかいじめられたんだと思う

俺はこれから自首する

死ぬ勇気もないか

2023-01-08

anond:20230106104845

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9

へえテラスハウスってのがあるのね~(長屋

便秘気味の女性たちが喧嘩にならないようにしたシェアハウスだったのかね???それかそういう性嗜好?

いずれにせよ、二階にあるというから、あたらしく排水管つなげるの大変だったろうにな~

二階トイレしかないみたいな… 一階は駐車場か?

 

そういえば安部元総理大臣ときに参列者が民家にまでめっちゃトイレをかりにおしよせたというけど

そこも初詣ときトイレ貸してほしくなる立地だったりして。!?

2022-12-02

anond:20221202202820

江戸時代人権とかないから、彼氏に服を全部はぎ取られて長屋から叩き出されて泣きながら夜歩いてた女性もいたはず

2022-11-23

anond:20221122235230

ほえ~~~全然違うもんやねえ

個人的にはなんかその辺は観光地っぽいカテゴリに入っちゃってるわ

京都みたいに綺麗じゃない木造長屋に住んでたことはあるけど、そっちはそっちで幼少の思い出フォルダに入ってる

2022-10-30

anond:20221030182857

高校の時のファンキー家庭科教師が言っていた「江戸長屋フリーセックスの場だった」が記憶に残っているのだが、明治時代近代化してキリスト教貞操観念を取り入れてみたけど、あまり定着しなかったって感じよねジャパンキリスト教信仰者の多い国家でも、69年あたりのヒッピーらによってフリーセックス時代になっていったわけだしね。

2022-10-27

江戸時代町人長屋とかのセッ久事情

壁はレオパレス以下だし入口からして木と紙の引き戸だし

あんなとこでどうやってヤるんだよ

絶対筒抜けだろ

2022-10-24

anond:20221024020609

そもそもお外でセックスの話できゃっきゃする感覚がわからないし

長屋でおおらかにセックスに勤しんでた江戸しぐさ()な人たちなんだよならともかく、

子どもネタ・おうちのお財布事情ネタコミックポルノネタ・(男性から女性に対する)セクハラネタジェンダーネタ

トンチキ発言しているブクマカたちなのできゃっきゃしている姿は非常に地獄みある

wjnの方が不快感も闇も少ない(なおwjnは無くなった模様)

2022-07-04

ガチャに当たったうちの両親

https://anond.hatelabo.jp/20220702233906

100%ではないけど個人的には↑の増田同意してて、子どもが上手く社会でやれなさそうなら生活保護申請くらいまでは付き添ってやれと思う。

あとこれ読んでて自分の両親は運が良かったほうだと思う。

ガチャガチャ表現は好きではないが、うちの両親はレアくらいは引いたんじゃないかと思う。

自分実家は両親が高卒世帯年収300万、長屋、男3人兄弟はてブ基準でも若干厳しい環境で過ごした。

当然文化資本も低く、家にあった本は母親料理本父親エロ本だけだった。

ませた子どもだった自分小学生の頃に3人は産みすぎだろと思っていた。

こんな環境だったら1人くらいはグレると思うが、3人とも大学を出て独立して働いている。

兄にいたっては昨年親に車を贈ってた。

20年近く乗っていたオンボロのミニバン新車に代わって、父親も喜んでいた。

ちなみにこの父親も変わっていて、子どもクリスマスプレゼント現金を渡す人だった。ガチャガチャデジモンカード2000円分引いてガチャの虚しさを学んだ思い出。

あと子ども学資保険競馬に賭けて母親ガチ説教されてた。勝ったらしいけど。

書いてて思い出したけど、子どもの頃「家行って遊びに行っていい?」と聞かれるのがすげー嫌だった。

家に呼べるわけがないので、色々言い訳考えるんだけど、段々面倒くさくなって最後らへんは「呼べるわけねーだろ、あんな狭い家に!!」と言ってた。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん