はてなキーワード: 長屋とは
小学3年の頃に急に引っ越すことになり、そもそも一軒家が賃貸だったことにショックを受けつつ、マンションへと引っ越す。
この辺りから転落していくんだが、
引っ越しの要因は父親が仕事を変えたらしく、家に居ることが増えた。
もともと何の仕事をしていたのか分からなかったが、引っ越してからはタクシードライバーをやっているようだった。
両親は不仲な感じで、自分は父の居るリビングに居づらく自部屋に籠もってスーファミをやった。
そこから何回か引っ越しを繰り返し、次々と住まいのグレードは落ちていった。
今思うと安家賃を求め引っ越しを繰り返す、引っ越し貧乏のような気もする。
父親はタクシードライバーを辞めバイトみたいな仕事、母はパートで働いていたが、
家は貧乏でお好み焼きに豚肉を入れることも躊躇われる程だった。
高校は行かせて貰えたがそこから進学するという選択肢は自分の中に無かった。
自分は勉強も出来ないのでランクの低い商業高校に入り、その高校内で当初は上位に居たものの、
遊び呆けて順位はみるみる落ちた。
とりあえず家を出たかったので遠方地が良かった。
知り合いの居ない東京は嫌だな、1,2時間もあれば友人に会える近場地方の製造業を選んだ。
ここが人生の転機だった。
リーマンショックも赤字転落しそうだったが何とか耐えきったようだ。
無学な高卒だが課長にまでなり年収は1000万円手前になった。
家も買い、妻子にも恵まれ、中学・高校時代の貧乏生活が嘘のようだ。
これは完全に運要素だ。自分に何かスキルがあるとは思っていない。
ケーブルテレビSTBでは見られない場合が多いようなのでBSパススルーとか
地域によってはSTBで見られるようになったかもしれないので最新情報要確認
・03 じゃのめ(でお迎えうれしいな
・04 ハナコ
・05 15(秒以内
・07 長屋晴子 ながやはるこ
・08 牛
・09 [近似値]23645
・13 呂布カルマ りょふかるま
・14 ドップラー効果
・15 午後8時40分
・16 [3択]サックス
・18 ポン・ヌフ
・21 バレーボール
・28 Vaundy
・29 『文藝春秋』
・30 テントウムシ
・31 [3択]46
・33e [2択]ピタゴラス
ワイの過去の就労先で就労先が代替わりしたやつで、繁華街の交差点角地という超一等地なんだが戦後くらいから借りてるだかで二十数年まえで月額に!じゅうまん円だった、超ボロ長屋造りの真ん中で狭小木造三階建だが、すでにして右肩下がり業績だったのでなんとか穏便にと就労先経営者が請願してたの思い出した
隣が初老の三兄妹が住み込みで経営している甘栗屋!で、とおもってたらあるとき初老だが割りと整った容貌の老婦人が三兄妹と談笑してるの見てたらワイの就労先経営者がアレあの四人は兄妹やねんとあの老婦人は実の妹という情報をブッ込んできて驚愕した
反対側の隣はコロコロ業務形態の変わる店舗で一時めちゃくちゃ適当な名称のイカ焼き屋だったことしかもうおぼえていない
話もどしてその時の就労先の代替わり前の創業者が戦前の大阪で写真機業を営んでいた(国産初の懐中時計型カメラの発売元)とこの兄弟()だかで店内で昔話にキミが一旗揚げる気があるならワシは○紅に知り合い居るから相談にノるでとよく(誰にでも)話していたのも懐かしい想い出
ちな後継ぎの婿の人は同窓会に写真機屋だからと写真係押し付けられて店頭在庫のなかなか売れない高額新品の古都陶磁器会社謹製ブランド(素材は八州光学)一眼レフを持ち出してた
そうそう、それの仕入先のエラい人が転勤上洛して来てしばらくして、建物の庭園?に水やりしてて元栓閉め忘れで帰るという大失敗やらかしたという話もきいた
・ランボー2
敵兵から泥の壁にピントが移ってぎょろりと目玉が現れるとこ
・スターウォーズ ep6
粛清シーンで警官に扮した殺し屋が膝立ちで狙いをつけて撃ち殺すとこ
箸でハエ捕るとこ
ロメロだよそんくらい観とけ
・ソナチネ
雀荘の店主沈めるとこ
高橋の乗った車に手榴弾投げ込んで「車燃やしちゃってどうすんだよ」ってどやされるとこ
昔服を交換した浮浪者に"nice coat"って声かけるとこ
オープニングの出所で抱き合うとこ
逃げ回ってる内にGTAみたいになってくるとこ
川北後光でパワーローダーが出てくるとこ
ジョー・ペシの"Funny how?"でヒエッヒエになるとこ
お出迎えの人形が発火して溶けたのをねっとり映すとこ
ヒッチコックみたいなとこ
・妹が死んだ後青ざめまくった兄貴が取り敢えず寝るとこ
ドイツのおばちゃんが勝手に掃除して主人のおばちゃんにブチギレられるとこ
ジムキャリーが華爛漫踏むとこ
弾避け
避けきれなかった後にトリニティがエージェントの脳天にゼロ距離でぶっ放すとこ
手荷物検査でコートをガバッと開いた時に警備員が驚きすぎてすぐに反応できないとこ
feed me
・千と千尋
・BTTF
栓抜きの使い方をパパに教わるとこ
「あそこまでの色狂いは尋常のものじゃない。病気だから一度医者に診てもらうと良い。」
そこで紹介されたのが男衆の間で評判の夜鷹照経という医者で、お久が頼むと長兵衛の長屋に問診に来てくれた。
「なるほどこれは確かに治療が必要だ。ちょいと荒療治になるが、父親の情けない姿を見せるのも忍びない。お久さんはこの桶にぬるま湯を入れてくれたら、半刻ばかり余所に出ておいておくれ。」
お久が言われたとおり桶に湯を入れると、医者は薬を取り出し湯に溶かしはじめ、お湯はみるみるうちにどろどろとオクラかナメコの汁のようになった。
「さあお嬢さん、ここから先は医者の領分だ。なに心配は要らぬから出て行っておくれ」
そういうわけで、お久が半刻ほど街をぶらついて長屋に帰ると、ちょうど医者が帰り支度をしているところだった。
見れば長兵衛は憑き物が落ちたようにスッキリした顔をしている。
「お父さん、体は良くなったかい?」
「あぁ、あれは大した手管だ。今度からは吉原ではなくあの先生にお願いするよ」
お後がよろしいようで。
昨日だって早々に多分21時ぐらいには寝ちゃっていたんじゃない?
と言ってもそっから寝転がりながらタブレットでドラマなんか観て消化していたり、
子役編はどうにもこうにもこの先面白くなるのかしら?って思っていたけど、
一騒動ありそうな気がして
それなかったらもっと確実に早く寝られていたのにってところかしらね。
昨日とかも勝ててないから
でももうカタログは全部とりあえず1冊目はコンプリートできたから、
今シーズンは緩ーくってことでのプレイでバラエティーに富んだブキ構成よ。
と言ってもいつものお気に入りのブキを4つ気分転換に持ち替えてるって感じかしら。
平日はどちらかというと時間がないので、
やっぱり身体も快調ね!
そんでさー
もう暑くなってきたからまさに30℃せまりまくりまくりすてぃーな勢いなのよ。
急遽麦茶を買ってきた次第よ。
沸かすの面倒くさいしなーって思いながら
やっぱり夏場は飲むかっ!?って
この先の暑さに今から思いやられるわ。
そんでそんでよ!
これからの時期は地味ーに忙しくなるので
うかうかとゆっくり書いてられない次第でもあるのよね。
まあ忙しくないうちに書いてしまうわ。
刺激的な新しいトピックスが欲しいところね!
うふふ。
これも好きなのよねー
今度気が付いて覚えておいたら百貨店のおこわ買ってみて食べたいなってクチになっちゃうのよね。
まだ熱いの飲めるけど、
どんどんこれから気温が高くなると、
とにかく夏に向けて
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
致命的じゃん
医者でも永住前提の家を買えるか怪しい、開業医でも購入無理な家やマンション売られたりする東京ってイカれてるやで
あと豪雪地帯でもないにも関わらず、石油ファンヒーター使ってる人たちたくさんいるの(灯油売りが来る)地獄みあるし、
氷点下を下回らない地域なのに電気ストーブで火事起こしてるの地獄みある
まぁ都内の庶民の家は、建材うんこor資産価値なしの土地に建ってる長屋ばっかだが、
世の中にはとんでもない目利きがいて、5千万前後の物件でも利益出してる人はいるにはいるけどな
ないぞ。地価がクソ高いから絶滅していて、ネットスーパーかコンビニ見たいな大きさのスーパー利用がデフォやぞ?
都内でも価値があるのは都市部と始発駅徒歩7分圏以内だけで、それ以外の地域ならいくらでもスーパー・コンビニあるが言うほどいるか?
地方と違って、土地の価値なし地域にはイオンモールやニトリやホームセンターみたいなのも無いんだぞ(あるのは基本的に駅前・駅近)
つか、スーパー・コンビニなら地方都市だっていくらでもあるやんけ。かつ下記を満たせるし
・山や海へ徒歩やチャリで行ける
・専門店、美味しい飲食店、気の利いたカフェへ徒歩やチャリで行ける
・スーパーが徒歩圏でかつ地域の生鮮食品と輸入食材を取り扱っている
・県産の野菜、肉、肉加工品(水飴とか使っていないちゃんとしたソーセージ・ベーコン・ハム)、チーズ(チーズ工房で作ったやつ)が買える
・上記の条件すべて満たした上で、2LDK〜3LDKが10万以下、1K・1ルームならSRC・RCの築浅で5万以下
身寄りのない高齢者 https://anond.hatelabo.jp/20230329152826 を書いた者です。ここ数日は朝晩先生のところに行き、おむつを替えたり水筒にお湯を汲んだりそうめんを茹でて届けたり恨み節を聞いたりしておりました。
コメントで、築50年、1970年代に作られたマンションの様相についてイメージしずらい(しづらい)方がいるようなので書いてみようと思いました。
このマンションは1970年ごろ、23区内の都心ではない地域に建てられた。8階建て、64戸。間取りは3LDK。私鉄の駅から続く商店街を徒歩五分といった立地だ。私は昭和55年、1980年くらいから住み始めた。幼稚園生だった。
小学校に入学するとなったとき、この地域には集団登校というものがあり、そこに参加することになった。マンションの一階のたまりに50メートル半径くらいに住む小学生が集まり、6年生の班長を先頭に行列して登校していた。下駄屋のせがれが班長、レストランのせがれが副班長。スーパーのむすめにはよくからかわれていた。この集団が30人ほどで、うち15人ほどがこのマンションの子供だった。統計を見るとこの区の当時の小学生の数は今の倍で、同級生が5人いた。幼稚園のころ、鉢合わせるといつもいじわるをしてくる「とおせんぼうのおねえちゃん」と私が呼んでいた子が、入学式で同い年だと判明した時の驚きは今も覚えている。親同士も入学式を機に急激に関係を深めていった。それぞれ多様なルーツと職をもつ家庭同士が「同級生の子育て」という繋がりで協力関係を築きはじめた。地元の零細土建屋の社長、理工系の技術者、保育士、共産党員、福祉従事者、学者など様々な職種の親たちだった。仕事の忙しい時は子供をあずけたり、おかずを分け合ったり、土建屋のおやじが釣ってきた魚をさばいて集まってみんなで宴会したり、うちの母が子供たちに勉強を教えたり、醤油や砂糖がないときは借りに行ったりというつきあいがはじまった。そういう関係性は同級生以外の世帯にも波及し、私が成人するまでは本当に長屋のような雰囲気があった。おばさまたちはたくましいコミュニケーション網で、マンションだけでなく地域の情報を過剰に共有していた。マンションが商店街に面していたこともあり、町内で起こったことはすぐに衆人の知るところになるような状態だった。救急車が来ればすぐに誰がどうなったかの情報が回り、火事が起きたら皆が集まり、私が近隣で悪さしようものなら、すぐに母の耳に入るような、そんな街だった。
おそらく80年代はほぼ全世帯が持ち家だった。新築で購入した住人ばかりだった。私の両親も、新築で買った父の弟が海外に赴任になり、譲り受けたものだった。なので高齢者はほとんどいなかった。近所にワンルームマンションというものができたという話が広まり、住民がいぶかしがるような時代だった。独身者はアパートに住み、地元民は一軒家に住み、新興の移民がマンションに住むという構造だったのだと思う。商店街にコンビニやレンタルビデオ店が出現したのは80年代後半だったか。街が進化しているという雰囲気があった。(しかし資料をみるとこの街の全盛期は遥か昔にあり、戦前から駅前には映画館や集会場があり、商店街はその枝葉の脇道にまで飲食店や遊興施設にあふれていたらしい。私が知る商店街はメイン通りだけだ。映画館なんて想像もつかない)90年代後半に私が実家を出るまでは、商店街には勢いがあったように思う。オリジン弁当のはしりのような店で私はバイトしていたし、中規模の本屋ができたり、中古ゲーム屋ができたり、インディーズのコンビニができたり、まあたらしい店舗が次々に出現した。外国人も増えていった。皆が東京の未来を信じていた時代だったのだと思う。
その後私は実家からそれほど遠くない、もうすこし大きな駅で自立する。歴史も規模も地元とは一味違った。そこではじめて都市生活者としての暮らしがはじまったように感じた。近隣に知り合いなどおらず、非常に個人的で閉鎖的な生活がはじまった。恋人と同棲していたのでそんな環境でも寂しさはなく、気楽で自由な暮らしを謳歌していた。文化的な地域だったのでアーティストやら文人やらといった有象無象とのつながりもでき、地元とは違うコミュニティでの生活は心地よかった。新興サッカークラブのファンの繋がりなどもあり、自立して新たな人生をこの地域で歩んでいるという満足感もあった。今思うとJR沿線と私鉄沿線では街の成り立ちが違っていた。どちらがいいのかはわからない。
そんな2000年代。わが地元のマンションは活気を失っていく。子供たちが出て行って高齢化したからだ。私が実家を見切った大きな動機の一つに衛星放送問題があった。マンションの世帯は四方にあり、衛星放送のアンテナを南西だか南南西に向けられる世帯は限られていて、我が実家はどうしても衛星放送が受信できなかった。90年代後半に普及したCS放送を見るためにどうすればよいのかと苦心していたとき、マンションの理事会が開かれるという。私は屋上に衛星アンテナを設置し、各戸に配線することによってどの向きに位置する住人でも衛星放送を視聴できる環境を実現するべきとの議案を提起した。私は住人のおじさまおばさまへ向けてプレゼンしたのだが、投票の結果は否決だった。そのとき、長老のひとりのおばさまの「わたし意味がよくわからなかったけど、反対にしちゃった」というつぶやきが耳に入り、ああもうここに住んでいてはいけないと思った。ここは朽ち果てるのだと本気で思った。この街には何の魅力も感じなかった。若い方には意味が分からない話かもしれない。固定電話でインターネットに繋いでいた時代の話だ。
「マンションの向かいの部屋」という記述がわからないというコメントがあったので、マンションの構造について記す。我がマンションはいわゆる「内廊下」である。エレベーターはマンション中央部にあり、廊下も完全に屋内にある。外から各戸のドアは見えない。ホテルのような構造だ。階段も内部にあり、非常階段だけが外部に設置されている。一階のロビー(といってもたまりと集合ポストがあるだけなの空間)に受付のようにガラス窓の事務室のような管理人室があり、そこは居住空間にもなっている。管理人は住み込みで管理会社が雇っている。部屋の所有者は管理会社だった。初代の管理人は私が物心ついたころにはおじいちゃんだった。気のいいおじいちゃんで、前述した「先生」もこの管理人とは懇意にしていたそうだ。彼が引退した後、何人か後任が変わり、今の管理人は勤続20年くらいか。気さくな夫婦で住民とは打ち解けている。数年前、管理会社の方針で住み込みでの雇用は打ち切るとなったとき、マンションの自治会が自治会費で管理人室を買い取り、管理人を雇用することになったとのことだ。そのときの声明文で「高齢者が多くなっているこのマンションにおいて住み込みの管理人は不可欠」といった文言があったそうで、先生はそれを根拠に管理人に介護を強いろうとしているところもある。管理人はそれを個人の裁量で判断する領域だと主張しており、それに対しては他の住民も管理人に同情的な態度でいる。介護するほどの給料は払っていない。
マンションのふもとには公園がある。サッカーコートくらいの広さに、20メートルほどの高さの木々がぽつぽつとたっている。子供の頃は木々をよけながら野球やサッカーをよくした。さして広くない公園なので、子供の打球でもしばしばボールは柵を超える。超えた先は民家や我がマンションの一階世帯だ。植木や窓や壁を破壊することもある。住人としてはたまらない。子供たちをどなりつけにくる。われわれ悪ガキはそんなこと関係なしだ。ホームランを打つと出てくるモンスターとしか思っていないので、どうやって攻略してやろうかという遊びの延長としてとらえ、慣れてくるとからかったりする。怒り心頭の大人は行政に働きかけ、公園には「サッカー野球等の球技は禁止です」の看板が立つ。そんなものも我々にはなんの効力もなかった。そんな折、被害にあっていた一階の住人である医師の夫人が、先生の師範学校の先輩だったそうで、先生に「あなた現役の教員なんだからここらの悪ガキに説教して頂戴」という指令が下った。先生はしかたなしにひきうけ、我が家に集められた子供たち親たちを前に話をすることになった。先生はそのとき、野球だサッカーだ窓を割るなとかいう話は一切せず、私が教えている学校には、いろいろな子供がいて、それぞれ固有の好奇心があり、自由時間には絵を描いている子もいれば、本を読んでいる子もいる、おしゃべりをしてる子もいるし、折り紙をしている子もいる。子供というのは自由な環境があってこそ成長するものであるという話をしたらしい。私は覚えていないのだが、聴いていた父はいたく感心したらしい。先生にはそういう一面もあったようだ。
たまに実家に帰るたびに衰退し活気を失っていったわがマンションも、2020年代から変化が訪れた。年寄りが死んで子育て世代が移り住んでくるようになった。私の幼少期とは数が違うが、小さい子供をよく見かけるようになった。外国人も増えた。賃貸の住人も増えた。私は離婚しひとり身になっていたところに、父の介護が必要になり再びこのマンションに戻ってきた。父を自宅で看取り、そのまま母との二人暮らしがはじまった。職場も近いし、近隣にはなじみの人々がいて、それなりに快適に暮らしている。スーパーのむすめも今となってはわたしをいじめないし、買い物に行けば談笑くらいはする。先生は最近どうなのという話題は常にあがる。先生はスーパーや下駄屋の軒先で店主をつかまえて延々と話し込むのが日常だったし、出歩けなくなってからは困るとスーパーにも電話してきて助けを請うので、みな戦々恐々としているのだ。なぜ先生のことをそんなに詳細に知っているのかというコメントもありましたが、こんな地域では先生の詳細なくらしぶりなど、個人情報というより災害情報のように扱われているのです。ケアマネもすぐにその輪の中に取り込まれる。そんな地域なのです。
以下のくだりが、とても印象的だった。
その時にわたしの出身地の名産が好きで、通販でたまに買って食べてるんだけど美味しいよね、とさりげなく話題をそらしてくれた年配の男性がいた。
その人が後から「あの人、悪い人じゃないんだけどごめんね、自分も神戸出身でさ」と言われた。
恥ずかしい話、「神戸出身だから」と言われて私は何も分からなかった。
私は自分が地震と津波の被災者で、東北で育った私たちが一番の被災者で、今後数十年はわたしたちが一番のかわいそうな立場だという感覚を持っていた。
「なぜ急に神戸?」とポカンとして「はぁそうなんですか…」と雑に返した気がする。
その後、関東に戻ってしばらくしてから、何がきっかけか覚えていないがオウム真理教の話になったとき、
上司が「あの年は神戸で大震災もあって、オウムの事件もあって日本は終わりだと思った」と言ってて
やっと気づいた。
ひとの災害経験というのは、ほんと様々で、一概にかわいそうな被害者としてのっぺらぼうな面をみるわけにはいかないよね。
自分だけが被害者面していたかも、という気づき。こういうちょっとワンクッションおいて、時間が経って考えること、こういうのが大切なんだと思う。
ただ、被害者という言葉で共通項を見出したとしても、阪神淡路大震災を経験したひとと、東日本大震災を経験した増田がこうして、何かのきっかけでお互いの体験の共通部分に触れようとしたときでさえ、お互いが経験したものの奥行や背景は全く違う。でもそれは、もっと言葉を交わさなければみえてこないもの。
多分、増田は上記の言葉を交わしたとき、その手前でふと立ち止まって考えたんだと思う。
ひるがえって自分の親戚の話。自分語りをトラバに混ぜるのはなんだかな、と思うところもあるが、テーマの性質上書かせてもらう。津波から数日後、東北のもっとも大きな漁港のひとつで、親戚が経営していた漁業関連会社と生産工場が全滅したとの一報を受けた。一方、杜の都に住む息子娘世代は全員無事だったという朗報にほっとしたことを思い出す。
しかし、それよりも震災から半年くらい経って、父が一言つぶやいた言葉のほうが忘れられなかった。
他界した親戚一家は、さかのぼると、昭和8年の津波の前から漁港で生計を営んでいた。1933年の津波で多くの財産を失った親戚は一から再建する際に、同じ場所でやり直すのはやめるべきだと再三にわたって、周囲から助言されていたという。しかし、結局、同じ場所で人生をやり直し、次世代が引き継ぎ、そして次第に事業規模が大きくなり、津波の記憶が遠ざかっていくなかで、そのまた次世代の方々が財を成し、地元の名士として羽振りよく、親族のなかで存在感を持つに至る。そんななかで、半世紀以上前、東京に出て行った東北の令嬢が結婚前の父と出会う。
大切な令嬢(大地主の長女)をどこの馬の骨ともわからないよその県の小作人の末っ子風情に嫁がせるわけにはいかない、という大反対の嵐。本家筋からなにから親戚中の冷たい目線。結局、結婚は許されて、父は母の家系に婿として入ることになるのだが、その時に受けた屈辱を忘れられないらしく、東日本大震災で全滅した親戚に対して、天罰、という言葉で自身のつらみを含ませて表現したのだった。
父にとっては、かわいそうだね、では決して片づけられない感情。
個人的には、なにより、貧しい者も栄華を誇った者も等しくなぎ倒した大津波の、客観的な、物理的な力に圧倒せざるを得なかった。
たとえ、誰と震災の経験の話をするとしても、このようなパーソナルヒストリーの違いによる温度差は避けることができない。そう思っている。
震災を経験していようがいまいが、あるいは同じく焼け出された隣人でも同じではない。大地震大津波の破壊力を前には、あの家は無事だった、無事でなかった、そういうさまざまな経験がそれぞれにあるにすぎない。
こうしたファミリーヒストリーな視点でそれぞれの思いがある一方で、
上司が「あの年は神戸で大震災もあって、オウムの事件もあって日本は終わりだと思った」と言ってて
やっと気づいた。
という上司の言葉。そして、「やっと気づいた」という言葉。このつながり方は、大変興味深い。「あの年は~」というのは個々の経験の違いを超えた、歴史を振り返った俯瞰的な総括を含んでいるからだ。1995年という時代、そういったマクロな視点での気づきをもたらすのも災害だ。
そして、それが何かの理由で、自分自身のファミリーヒストリーや神戸出身者とのちょっとした会話と結びついたのだとすれば、それは自分のある意味「かわいそうな」私的な思いを、歴史の一コマのなかに着地させようとする、そういう覚醒だったのかもしれない。
実をいうと、よりマクロな視点で、それぞれの災害にはそれぞれの社会的な背景があり、その脆弱性が被害を増幅させている、という視点を最初に提起したのは、阪神淡路大震災だった。
1990年代以前は、災害被害者というのは、災害管理の文脈で救援対象として、比較的ステレオタイプに捉えられていた。しかし、その認識を大きく変え、都市の社会構造の脆弱性に関心が高まったきっかけが1995年の震災だった。こう書くとなにやら上から目線風だけど、阪神淡路大震災が自分が仕事として防災の世界に入るきっかけを作った。
神戸の都市としての成り立ちは、明治の初め、神戸港が開港された時から始まる。以降、港湾労働者が多く流入、低所得層が脆弱な埋め立て地や条件の悪い内陸部へ集住するようになる。他方で、20世紀の鉄道の時代に入ると、阪神間の交通網が充実し、六甲山ろくに高級住宅地が開発されるようになる。高度経済成長期には六甲の開発で切り崩した丘陵地に住宅地を建設、その残土で海岸が埋め立てられ、工場用地や港湾建設が進められていく。おりしも公害問題が深刻化した時代、都市の生活環境はますます深刻化していった。そんななか、オイルショックを契機に産業構造の転換という時代の変わり目を迎え、神戸の産業のシンボルであった造船、鉄鋼は停滞してゆく。それは関連する神戸の零細地場産業を苦境に陥らせ、今度は人口流出が起こり都市部の空洞化が始まった。都市部に残っているのは、流動性の低い層つまり高齢者、低所得者ばかりとなった(インナーシティの形成)。
これに対して1980年代、神戸市の政策的な対応としては、財政問題の打開が先行した。バブル前の当時の考え方では、大規模開発こそが地域経済の再生をもたらすと信じられていた。埋立地の利用による、ポートラインラド、六甲アイランド建設、物流機能強化のための明石大橋建設、最先端技術産業の誘致、ニュータウン建設など、新たな付加価値の創出が事態打開の切り札だった。
その一方、社会の脆弱層への支援、行政による市街地の再生は後手に回っていた。
オイルショック後の産業構造の転換で取り残された低賃金労働者の町、老朽化の進んだ木造住宅密集地域、長屋建ての住宅の占める割合の多い市街地(長田区のスラムのようなオールドタウン)は新陳代謝が進められなかった。地震対策の上でも洪水対策の面でも取り残された街となった。どのような地域であったかは番町地区で検索をしてほしい。
このような経済格差や脆弱性が生み出された、マクロな構造変動のなかで襲ったのが1995年の大地震であり、被害が社会経済的に脆弱な人々に集中した。暴力団員が懸命に救助活動していたエピソードを覚えている人もいるだろう。そういう街だった。
社会学的な視点でみれば、この地震の教訓として、被害が高齢者、低所得者に集中したのは、ある意味、歴史的必然だ。格差が生み出された背景などのマクロな政治的・経済的な動向と切り離せないということだ。
そして、このような格差や脆弱性という切り口でみる構造分析は先月発生したトルコとシリアの大地震でも、当てはめることができる。
このように、可哀そうな存在というのを社会学的に脆弱性として構造的にとらえる、ひとつのきっかけは、やはり他の災害を知るということであるし、昔の災害を知るということだと思う。
パーソナルヒストリーとしてお互いに触れあうことで、お互いに違うバックグラウンドにあることがうすうすわかってくる、それもまた、大切な気づきなのだと思う。
また、パーソナルなコミュニケーションが、例えばまさに「通販でたまに買って食べてるんだけど美味しいよね」みたいな会話、これが実はマクロな特性を知るうえでも、その人のパーソナルヒストリーをしるうえでに、もっとも重要なエントリーポイントだったりする。仕事上、ひとから話を聞くときにいつも気に留めていることでもある。
だから、トルコとシリアで現在進行形の震災について全体状況を大きな視点理解している国際機関よりも、よりミクロな視点で、特定の家族や地域の人たちにコンタクトがとれる小規模のNGOや支援団体に私自身は微力ながら支援金を送付している。たまたまシリア難民支援をしている人と知り合いの知り合いくらいの関係でSNSでつながっていたのがきっかけだ。アサド政権が物資を止めてしまう現状も現地の声としてより関心を持つようになった。そのほうが確実に、受け取った人の顔がみえ、困っている状況がミクロにもマクロにもわかってくる。自分が支援したお金が支援先の一家族あたりの支援額(しかも第一バッチ)の1/4にも満たないことを知る。こういうことも大切だと思う。
そのように、何かをきっかけに、他の災害に対して接点を持つ機会を大切にしたい。
というのは、居酒屋のトイレの洗面所とかで何気なくかわす会話、とか想像していたのだけど、そういうのが大切だよね。そういうのが心の残って覚えている、ということがさ。もちろん完全にひとのことを理解するなんてことはどんなに会話を交わしてもない。でも覚えてさえいれば、そのなぜか覚えていた思いを何かにつなげることができる。その「きっかけ」というのはとても大切に思う。
災害を忘れない、というのはそういうことだと思うので。
俺は小学校の頃親の都合で転校したことがあって、言葉の訛りが発端になって転向後しばらくいじめられていた
悪口言われるとか無視されるとかなら別にどうということはなかったのだが、隣のクラスの多動系クズの行為がエスカレートして、そいつが休み時間のたびに物差しで頭を殴りにくるという状況になっていた
最初は怒鳴り返すくらいだったが、あまりに頭にきて一度そいつの腕をカッターで切りつけてしまった
ちょっと血が出たくらいで大怪我させたわけでもないのだが、校内で問題になって「友だちと刃物でふざけていて怪我をさせた」ということで親も呼び出され、治療費も払わされた
俺は納得がいかず「相手は友だちでもないし、遊んでいたのではなくて自分の身を守るためにやったことだ」と何度も訴えたが、聞く耳は持ってもらえなかった
まあ学年が変わると担任も話のわかる人に変わって学校生活は安定したのだが、俺はその多動クソ野郎のことは許してなかったしいつか絶対に償いをさせてやると思っていた
それが30年前の話だ
小学校粗卒業してから、そのクソ野郎とは大学生の頃一度だけ顔を合わせた
すると二人はクズ男の両親と合流して、女は彼女じゃなくて妹だということがわかった
ほっとしただけじゃなく、あの妹をめちゃくちゃに犯されたらあいつはどう感じるかなとか考えてしまった
次の日から俺は卒業アルバムからそいつの住所を調べて周辺をうろつくようになった
そいつの家は低所得者向けの市営住宅で、便所も汲取式のみすぼらしいものだった
庭では年老いた犬がいつも寝ていた
別になにかしようと思っていたわけじゃない
実際、そいつら一家と鉢合わせたことはなかったし、正月休みが終わると俺はそのまま東京へ戻ってきた
それからも実家に帰ると俺はなんだかんだと理由をつけて家を抜け出し、自転車でそいつの家の周りをぶらついた
俺は先日40歳になった
ちょうどその誕生日とかぶる日程で父親が海外に出かけることになり、見送りにいった
時が流れたんだなと思った
いい歳してあんなことはもうやめようと思った
そう固く決意して実家へ戻ったが、いつも使ってたママチャリが目に入った瞬間に決意が溶けて消えた
ただ、本当にこれで最後にしようという気はあった
いつものように何事もなく、周囲をふらついて、あいつが出てきたら殺してやるのに、妹が出てきたら犯してやるのにという呪詛を内心で唱えて、ただ帰ってくる
鉢合わせと言うか、すれ違っただけだ
妹は小さい男の子の手を引いて自宅に向かって歩いていた
喪服姿だった
俺は数十メートル走ってから自転車を停め、徒歩で背後から妹を追った
それを取り出して右手に持った
不思議なことに興奮も緊張もなかった
俺は歩調を速めながら、幼児の速度でのんびり歩く妹との距離を少しずつ詰めた
息を潜め、チェーンを握り直す
しかし俺は妹に追いつくことはなく、彼女はあのみすぼらしい長屋に入っていった
薄そうな木製の玄関ドアを俺はしばらく見つめていた
妹が残したものか、それとも家の中からなのか、線香のにおいが漂っていた
犬はまだ生きていた
薄汚れて毛並みも悪く目も濁っており、どこからどう見ても老犬だ
あまり散歩に連れて行ってもらえていないのか庭の済に放尿した跡があった
俺はチェーンを振り上げ、その一端を汚い犬の頭に振り下ろした
「あふっ」とかなんとか声を出したので、やばいと思ってもう一度、思いきり殴りつけた
急に怖くなって周囲を見回した
俺は早足で現場を離れ自転車に飛び乗り、投げるように実家に自転車を乗り捨ててタクシーで駅に向かった
新幹線で東京に向かう間、ついにやってやったぞと思うとにやけ顔が抑えられなかった
遅れて来た興奮で震えるほどだった
それが良くなると同時に犬に申し訳ないことをしたという罪の意識が俺を支配した
https://anond.hatelabo.jp/20220702233906
100%ではないけど個人的には↑の増田に同意してて、子どもが上手く社会でやれなさそうなら生活保護の申請くらいまでは付き添ってやれと思う。
あとこれ読んでて自分の両親は運が良かったほうだと思う。
親ガチャ子ガチャの表現は好きではないが、うちの両親はレアくらいは引いたんじゃないかと思う。
自分の実家は両親が高卒、世帯年収300万、長屋、男3人兄弟ではてブ基準でも若干厳しい環境で過ごした。
当然文化資本も低く、家にあった本は母親の料理本と父親のエロ本だけだった。
ませた子どもだった自分は小学生の頃に3人は産みすぎだろと思っていた。
こんな環境だったら1人くらいはグレると思うが、3人とも大学を出て独立して働いている。
兄にいたっては昨年親に車を贈ってた。
20年近く乗っていたオンボロのミニバンが新車に代わって、父親も喜んでいた。
ちなみにこの父親も変わっていて、子どものクリスマスプレゼントに現金を渡す人だった。ガチャガチャでデジモンカードを2000円分引いてガチャの虚しさを学んだ思い出。
あと子どもの学資保険を競馬に賭けて母親にガチ説教されてた。勝ったらしいけど。
書いてて思い出したけど、子どもの頃「家行って遊びに行っていい?」と聞かれるのがすげー嫌だった。
家に呼べるわけがないので、色々言い訳考えるんだけど、段々面倒くさくなって最後らへんは「呼べるわけねーだろ、あんな狭い家に!!」と言ってた。