はてなキーワード: 組織体とは
せやね
という事でいうとその通りだと思うわ
ただ、私は「他人の評価を他人の発言で他の事と評価している」という表現方法で
①自分が受けた恩恵に感謝するのはまず自分にそれを手渡しした直接対応者にしてもよいのでは
結果神がそう計らってくれたとして神に感謝すべきだとしても、まずはそれを手渡ししてくれたその目の前の相手に「ありがとう」と言っても「そいつはただの使者だから感謝しても意味がない」と言う必要、必要性がそこにあるのかという事
別に言ってもよくない?だめかそんなに?
その上、気づかなかったとかわからなかったしてなかったできなかった、それらが悪として悪を退治したのがどこかのだれかだとしても、その手の渡った施しは「その勇者のだれか」を個人が感謝する必要があるのかと
組織体系や社会としてその構造を良い物とするために偶像化したり構造に取り込むこと、勇者を表したり感謝の念を示すことは有意義で価値を再生産させる意味合いをもつとおもうけど「個人が勇者に感謝する」必要性があるのかと
またその組織の未熟さを個人として非難する必要があるとすればそれは「勇者」ポジションに名乗りを入れるわけでなければ「それをうまく利用して害悪をなそうとした」モンスターのポジションになるのでは
とりあえず、そういう構造性の指摘に例を利用したまでで、この情報を発信した私個人としては「市政がだめだと言ってくれた事に感謝」という言い方はどうなんだという事柄についてのみ発言した内容でした
真に感謝すべきはだれかとか公務員とかの話は知らないしそういう話ではないです
これあんまり掘り下げて話するようなことではないと思うのですが「桶屋の私が儲かったのは風が吹いてくれたからです」と発信して風を生んだ山や海の環境問題や既得権益の話をしたりポジションや情勢の話をする必要性が個人からどこに必要性などがあるかって話です
桶が売れて儲かったのは買ってくださったお客様のおかげですで止めてはいかんのか? 目をつぶしてくださった砂粒を巻き上げる風さまのおかげですっていうのが妥当なのかということで、そうだとしてもそれを発信するならば「目をつぶしてくれたのは事実だから、それは私じゃないし私は事実を言っただけだから」という態度で逃げれるとは思わないでほしいという事です
お客様ありがとうではなくてなぜ「目をつぶしてくれた風さま」とか選んだのかって事について、選ぶプロセス的にを加えたところがわかりにくさを伴っていたら申し訳ない
②いや例として価値観を例えたわけで
超えてたら申し訳ない
①の構造性を例えたらそうなった
③そう考えるのがおかしくないとしたら②も同じ用途で例えたものなので
よしとはしてくれんか
①の表現者や発想者がいてもおかしくはないと思うし、良いとも思う
ただそれが問題視されることがあるならば、発言者は「元ネタ・ソースをみて」といわず、自己で責任を取るべきだというのが私のスタンスなわけです
つまり偽物が何人いようと偽ソースを何人が出してこようと、結果影響を与える発言をした人間が「だってそういうソースがあったから」と言ってもその責任を負えばいいし負うべきだろうと思うわけです
──日本電産といえば、買収した五十数社すべてをほぼ1年以内に黒字化させてきた会社ですね。
再建に向かう際、永守重信社長から真っ先に言われるのが、意識改革、企業カルチャーを変えろ、です。再建メソッドに対する受容マインドをまず上げておく必要がありますから。そしてA3の紙を1枚ポンと渡される。日本電産芝浦の再建のときは「1年以内の売上高倍増」、そしてたった1行「営業マン1人当たり訪問件数月100件」と書いてあった。月20件だったのを100件に上げれば、引き合いは増え受注件数は増え、売上高は上がる。従業員全員をやる気にさせる、そこを徹底するカルチャーにするのです。
日本電産のスピード感覚はハンパなものじゃない。会社全体にスピード感が行き渡り浸透している。見積もり作成に1週間もかけるな、より早く、ライバルよりも断然早く。他社なら1カ月かかる試作品も1週間で仕上げろと。ライバルはついていけなくなり次々脱落していった。最終的には精密小型モーター世界シェア80%を達成するわけですが、競合が消えても手を抜くことがない。会社のDNAとしてしみ付いているわけです、スピード感覚が。
そして会社の機関車は営業、開発・工場は支援部署。市場にいちばん近い部門が会社を引っ張れと。
──本書でもその営業強化策に紙幅を割いていますが、中でもフォローの重要性を強調されていますね。
川勝宣昭(かわかつ のりあき)/1942年生まれ。早稲田大学商学部卒業後、日産自動車入社。中近東アフリカ事業本部部長、南ア・ヨハネスブルク事務所長など歴任。98年日本電産にスカウト移籍。取締役経営企画部長(M&A担当)を経て、日本電産芝浦専務、日本電産ネミコン社長歴任。2008年経営コンサルタントとして独立。(撮影:梅谷秀司)
トヨタ自動車がなぜあれほど強いか。トヨタは「カンバン方式」などメソッドの宝庫です。でもそれと同等以上にフォローの強さがある。未達に対して徹底的な再発防止策を講じる。日本電産にも未達を許さないカルチャーがある。未達しないための準備を重ねる。売上高計画達成が微妙なときに、未達は不可というカルチャーが浸透してると、どうしたらいいか必死で考えますよね。既存領域でまだ拡販余地はあっても、新規客の訪問をかけようとか。あるいはまったく違う提案をしてみようとか。営業マンがどんどん考える営業マンになります。それが大事で、それがフォローの重要性なんです。
強化策のひとつに、週次管理があります。1週ごとに月末着地見込みをにらんで、未達の可能性があれば挽回策を練る。着地をブレさせない。
私がいた頃の日産自動車の年度方針発表会は、業績未達の説明に精緻な図表を作成し、いかに納得させる他責要因ストーリーを組み立てるかに心血を注いでいました。ところが日本電産では、過年度説明は1欄、○△×のみ。簡潔クリアに説明して、大半は新年度目標に向かってどう戦うかの作戦説明に割かれていた。経営者の「未達をしない体質にする」という決意とマネジメントスタイル、組織の中にどれだけフォローの仕組みを組み込んでいるかの違いを見る思いでした。
1週ごとに全社で行うフォロー管理の仕組みが、社員の日常業務管理力を向上させ、後戻りしない体質を作っていたんです。まさに日本電産の看板である「すぐやる、必ずやる、できるまでやる」を体現している。言い換えれば、スピードの文化、必達の文化、フォローと徹底の文化が浸透していた。
組織体質を変える一番の早道は
その第一歩が、まず訪問件数を100件に上げろ、なわけです。整理・整頓・清掃・清潔・しつけの「5S」もしかり。まず実践の場で形、行動から入らせる。それを繰り返して固め、思考様式を変えていくことが、組織体質とカルチャーを変える一番の早道です。会社の改革は人の改革ですから、着慣れた服を脱いで新しい服に着替えてもらわなきゃいけない。それは着づらいし着たくないかもしれない。でもそれじゃ変化はない。韓国・中国のような、コピーも速い一点突破・集中型ガムシャラ経営が台頭するレッドオーシャン時代には、スピードと徹底を身につけないと蹂躙(じゅうりん)されてしまう。
そうです。本を書くに当たっていちばん思いを込めたのが企業カルチャーの変革についてでした。なぜ皆がこぞってトヨタをまねてもトヨタになれないのか。問題は企業カルチャーなんです。トヨタ流の「なぜ?」を5回繰り返すフォローの文化なしに、いくらカンバン方式を入れても定着しない。かつて日産も研究し尽くして導入したけどダメでした。GMもダメだった。どちらも苗が生き生きと育つための土壌改良をしていなかったから。それと同じことです。
どの会社にも必ず問題意識が高く改革に前向きな少数派の“火種社員”がいるものです。経営者は彼らをまず自陣に引き込みタッグを組んで、彼らを改革のモデルとすることでその他大勢のヒラメ社員に新しいカルチャーを浸透させていく。私の経験上この方法がベスト。社長がいくらガナリ立てても変わらない。
──明日から実践できる作戦満載の本ですが、特に重視した点は?
『日本電産流「V字回復経営」の教科書』(東洋経済新報社/318ページ)上の書影をクリックするとアマゾンのサイトにジャンプします
課題を図表で「見える化」し実践メソッドを紹介すること。日本電産時代に、病巣はどこなのか、どうメスを入れるべきか、レントゲン写真が欲しくて、多様なパターンの図表や見える化マップを独自に創作し用いてきました。見える化することで、改善への切り口がわかります。自社の現実を図表化して見せるとみんな乗ってくる。たとえば市場構造に対し当社の顧客構造はズレている、というのが1枚の図表で明らかになる。
最初は中小企業の経営者を念頭に置いていましたが、だんだんとマネジメントの進化を求める管理職にも伝わる本がいいと思うようになった。それで改革メソッドを提案する章は、オリジナルの2面パレート図などを駆使し厚みを持たせました。営業に回るべき100件をどう選ぶかもきちんと分析・抽出できるようにした。自分で言うのも何ですが、見えていなかった部分の見える化をハンパなく提案したつもりです。
「ここまでやれば必ず変えられる!」がこの本の宣伝文句。日本電産時代の買収先の再建、独立してからのコンサル活動を通して、会社は変えられるという変なクソ自信がついちゃいましたね。独立する際に永守さんに書いた「たった7年在籍しただけの日本電産で学んだものは、三十数年いた日産の数百倍以上だった」というのは本当の気持ちです。
今回の衆院選で東京のとある選挙区の立憲民主党候補のボランティア支援をした。
数年に一回ただの紙っ切れに人の名前書くだけで国が変わるわけねーだろ、と最近思ったので少しでも政治に参加しようと思って立憲のホームページからボランティア登録して参加した。
そこで思ったことがいくつかある。
立憲の候補者は、基本的に「みなさん、自民党の○○がこう発言したことを知っていますか?」「安倍元総理が~と言いました。皆さん、これでいいんでしょうか」など、
特に聴衆に向かって言いたいことが思いつかなかった時に、英語のWell...やYou know..., のごとく「自民党は~」がつなぎ言葉にしてしまっている。
自民党、と最初に言うことでそこからすらすら連鎖反応的に言葉がつながっていって演説っぽい文章が口からでてくる、そんな印象を持った。
立憲民主党の候補者自体は、それぞれ個人個人色んなモチベーションがあって選挙に立候補しているわけだから、おそらく何も考えてないということはないと思う。
だけど、それにしても演説の度に「自民党」という言葉を使わないと演説にならない今の現状は明らかにおかしい。
これじゃまるで自民党がいなかったら自分達に存在意義が無いとでも言えるような状態だ。
もちろん、LGBTやワーキングプア問題、格差の問題など、自身が特に興味を持っている分野について訴えかけをしたいという本心はあるのだろう。
だけど、そういう個別の問題を駅前で訴えても、その問題の当事者以外は関心がないわけだからどうしても共通の関心ごとをテーマに演説を組み立てないと話を聞いてもらえない事情もあるのだろう。
それは理解できる。
それでも、「自民党」という言葉を使わなければ演説が成り立たない今の立憲民主党の現状は若干残念に思う。
維新を参考にしろ、とまでは言わないが、せめて国民の極一部ではなく大多数がこれは変えないといけない、と感じていることを掬い取って演説としてまとめられないものだろうか。
LGBTや、自民党政治では声を聞いてもらえないマイノリティの意見を私たちは聞きます!と演説でもよく言っているが、これはよくよく考えてみると、経済や外交、防衛等のメジャーな問題については自民党に言ってくれ、私たちはそういう問題ではないもっとマイノリティの少数派が抱える問題に対する意見を優先して聞く、ということだ。
立憲候補の辻立ち演説にも数回参加して話を聞いていたが、こうした印象はさらに補強された。
この態度が彼らの本心であるならば、むしろ今回の衆院選で立憲民主党は実は議席を余分に取りすぎているということになる。彼らは今回おおよそ衆議院の議席の1/5を獲得した。
だが、彼らが相手にしているLGBTや特殊な事情を持つマイノリティの数を考えたら、本来の適正議席数は衆議院議席の1/10に満たないのではないか。
国民の10%に満たないマイノリティの声を聞く政党、彼ら少数派の意見を国会に届ける政党が彼らの本分であるならば、彼らは自民党のライバル、最大野党になれるはずがない。
そういう意味で言えば、2大政党制を目指すのであれば自民党vs立憲民主党という構図にはなりえないと思う。マジョリティ政党vsマイノリティ政党などという構図が生まれる訳が無いからだ。
それでも1/5の議席を獲得したということは、それはつまり彼らが相手にしていない層からの票を自民党批判によって得たということだ。
マイノリティを重視する政党なのに、議席ではマジョリティを目指す。これはやはり構造的に矛盾している。
マイノリティ重視政党が議席でマジョリティを取りたいがために、自民党批判を繰り返すことによって、彼らが自身の党のターゲットとしていない層からの票をかさ増ししている、そう言われても仕方がないのではないか。
上にはつらつらと立憲民主党への批判を書きはしたが、立憲候補の選挙ボランティアを初めてやってみて、支援した候補には愛着というか、応援する気持ちは生まれた。
選挙ボランティアに参加するのも初めてだったし、最初は普段の生活では目にしないような濃い人たちがたくさんいて面白いかも、という好奇心が動機だったが、そういう意味では参加して良かったと思っている。
彼らの良いところを上げると、やはり他人に優しい人が多い点があげられる。自民党候補の演説と比較すると、自民党候補の場合は演説内容が若干攻撃的で危機感を煽り、いわゆる扇動するような印象が強かった。
そういう演説は傍から見ると心強くもあり、決意や覚悟を伺わせるものがある。こうしたことから基本的には自民党候補はエグゼクティブ、取締役クラスというイメージが強まる。
実際、立憲民主党候補と自民党候補の印象を眺めると、自民党候補の場合は会社員をやっていても役員クラス以上までのし上がりそうな我の強いタイプが多く、立憲民主党候補は組合員クラスというか、取締役にはいなさそうな人が多い、という印象になる。自民党候補のエグゼクティブ感は、正直言って洗練されていると感じた。やはり一定規模の組織で組織構造の上部にいるような人間はある程度のカリスマ性というか何等かのテクニックを持っているような印象だ。エグゼクティブ感のある強者をサポートしているジブン、取締役クラスの大物の子分であるオレ、というポジションは多くの小市民にとっては心地の良いものであるに違いない。
それとは異なり、立憲民主党候補は、言葉自体は強い言葉を使って批判したりすることは多いが、やはり「優しい」雰囲気がある。しかし、この雰囲気自体は私は非常に好きだと感じたし、こういう優しい人達がマジョリティである世界で生きていきたいと思う自分に気づいた。「取締役クラスの大物の子分であるオレ」というポジションとは異なり、他人に優しい、いわゆる弱い奴と舐められがちな候補を支援するジブンというのは人によっては受け入れられないだろうな、とも強く感じる。
学校生活で例えると、学年を牛耳っている大物がいるグループに入りたいか、そういう大物を批判して抵抗を続ける小グループに入って生活をしたいか、どちらを選ぶか、といった問題と共通すると思う。
その結果、後者のグループに入っても良いと考える国民の概数は1/5だったと考えると、なんとなくこの例えも的を遠く外しているわけではなさそうだとも感じる。
対案という言葉が流行しているので、建設的な意見も残しておきたい。
とにかく立憲民主党の議員と国民との接点をマスコミ以外の場で作ることが必要だ。現状大多数の一般国民にとって、国会議員というのはテレビでしか見ない存在だ。
だが選挙ボランティアに参加してみて思ったのは、国会議員も普通の人間、そこらへんの日本人と99.999%以上同じDNAを持った同種族のおじさんおばさんだということだ。
選挙演説では一方方向で候補者が自分の決意を流すだけだが、もし自分達の発言が直接議員に届く場があるならば、国民の選挙や政治に関する意識も私みたいに大きく変わる可能性が高い。
もちろん、そういう生の意見をフィルタリング無しに直接ぶつける機会を作るというのは、あらゆる意味で高いコストがかかるものだということは承知している。
想定外の質問にあたふたすることだってあるだろうし、個人的な怒りを個人情報織り交ぜてぶつけだすヤバい奴に絡まれる可能性だってある。
そうだとしても、タジタジになった姿を仮に見せることになったとしても、それでもそういう場を設けるべきだ。想定外の質問なんだから、痛いところを突かれることだってある。そうだとして、答えに窮するようなことになったとしても、
我々国民は国会議員という人間が遠い世界のアイドルではなく、我々と同じように高校や大学に通って同じ空気を吸って物事考えてきた人間だと実感することはできる。
彼らのエグゼクティブなイメージは、その偶像崇拝的なイメージ戦略によって支えられていることが多い。想定外の質問に窮する姿を支持者に絶対に見せられない大きな制約を抱えていると言ってもいい。
幸か不幸か、自民党議員と比較すると立憲民主党の議員には偶像崇拝的な「強い個人」というイメージが無い。これは長所と捉えて最大限活用すべきだ。
選挙ボランティアに参加してみて強く感じたのは、我々ボランティアは立憲民主党の議員達の目には名前も顔も知らないよく知らないおっさんおばさんとしてしか認識されていないんだな、ということだ。
ボランティアでビラを配ったりするのに使った時間は1日1~2時間程度だったが、いくら愛想よくビラを配ったり声掛けをしたりしても、通行人から悪態をつかれたり嫌な絡み方をされても基本は放置だった。
つまり良い仕事をしたら評価するという姿勢も無ければ、不慣れな仕事に対して指導やサポートをするといった体制が無い。
せっかくボランティアとして選挙のお手伝いをしに行ったのだが、正直これは何とかしてほしい。議員さんたちは議員さん達で話しかけられたり声を出したりするという自分の仕事があるのでそちらにある程度集中するのは
しょうがない。だけど議員はリーダーになるべき人物であるわけで、選挙ボランティアを集めておいて何の説明も無しにビラや立憲民主党のジャンパーを渡して、あとはいい感じによろしく、ではあまりにも仕事ができなさすぎる。まともな継続性のある組織であれば、新人がチームに入ってきたときは気持ちよく動いてもらえるよう丹念に説明をしてから仕事をしてもらうのが普通だ。この説明が無いと、新人はてんでんばらばらな仕事の理解のまま、組織の活動としてやっているのに個人の責任で活動することになってしまい、まともな組織にならない。
加えて気になったのは、ボランティアの数名が議員に名刺を渡していたことだ。つまりもしかしたら議員側の人達はボランティアというのはボランティアがコネ作りのために下心をもってやってきているのであって、議員に気をかけて欲しかったら自分達が議員になるためにしてきたように秘書として仕事をしたり無償ボランティアで名刺渡して顔を売って仲間に入れてもらえるようにそっちで努力しろ、と暗に思っているのかもしれないと感じた。
彼ら議員は無償で時間や労働力を提供しに来た選挙ボランティアに対して積極的に感謝の意を示すことはなかったし(※訂正あり。文末参照)、次回のボランティアもお手伝いお願いします!と言うことすらなかった。
特に選挙最終日の日の最後の練り歩きで、次回のボランティアについても協力をお願いするのでもなく、なあなあで自然解散して締めの挨拶すら無かった点は、政党活動を市民ボランティアから拡大していこうと日頃から口にしている態度とは大きく矛盾していると感じる。
これに関しては悪意があるというわけではなく、自分のことで精一杯でボランティアや他の重要でないスタッフに気をかける余裕が無かったのだと思う。しかしそれはそれで政党という一組織を作り上げる能力に少し欠けていると評価せざるをえない。せっかく支援しに来てくれている10人程度のボランティアすらまともに組織化できない国会議員が、どうやって政府与党になって何十万人もの官僚が属する組織を作り変えることができるんだ。
現在の立憲民主党は、サポートを言明している有権者の1/10にも満たないマイノリティ層+自民批判の浮動票という形で議席を獲得している。
立憲民主党が明日からでもやらなければいけないことは、この浮動票を順次立憲民主党の固定票へと変換していくことだ。そのためには、前者の特定マイノリティ層との対話だけを繰り返すのではなく、浮動票を立憲民主党に投票してくれたマス層に対して、党員になってもらうよう日頃から呼びかける活動をもっと積極的に行わなければならない。
そのためには外交や経済、国防についてのメジャーな政策についてだって国民一人一人と意見交換しなければならないが、立憲民主党がもしまだ少しでも与党として日本を率いていきたいと願う気持ちがあるのであれば、ぜひそうしてほしい。もし立憲民主党の議員が特定の少数団体の意見のみを重視しマス層の国民の意見を軽視するというのであれば、それは自民党に陳情した方がよっぽど自分達の意見が国政に反映されることになるので、俺は支持することはできない。
ビラ配り、練り歩き時に通行人のおっさんから「お前、立憲民主党の奴なのか?だったらもっと大きい声出してちゃんとやんなきゃダメじゃない。こんなんだから民主党はダメなんだ」と言われたことが強く記憶に残っている。
いや、俺は別に立憲民主党の党員でも支持者でもない通りすがりのただのボランティアなんだわ。お前はただ街に出て候補者にしょーもねーヤジ飛ばして投票するだけで終わりなんだろ?こっちは投票程度じゃ大して意味ねーと思ってるからこうやって政治活動にあくまで無報酬のボランティアで手伝いしにきてるんだわ。なんで自分では政治活動全然しない奴が無給ボランティアで政治参加してる俺らに高圧的に出るわけ?
「民主党はちゃんとやれよ」じゃねーんだわ。そう思うんならお前もなんか手伝えや。なんか、俺は税金払ってるお客様、お前らは俺らの税金で飯食ってる株式会社立憲民主党の社員、って勘違いして図に乗ってるオッサンに腹が立ってしょうがない。
お前は、アホか。
この件に関してもっと長文で思いの丈を吐き出してスッキリしたいのだが、本当に長くなりそうなのでここらへんでやめておく。
「彼ら議員は無償で時間や労働力を提供しに来た選挙ボランティアに対して積極的に感謝の意を示すことはなかったし」
この部分だが、これは「ボランティアに来てやってるんだからもっとありがたく思ってほしい」という私の主観、エゴが少なからず含まれている。
この部分に関して、立憲候補者側の落ち度のように書いてしまった点は訂正するとともに謝罪したい。
選挙当日の焦燥感や最後の一押しといった高揚感の中で最優先で気を配る相手は聴衆・通行人であって、ボランティアを最優先で丁重に扱うべきという主張は後から考えると書きすぎだった。
また候補者側のスタッフからは感謝の意は受け取っており、「感謝がない」というのは誇張でした。大変申し訳ございません。
どこか別の機会にまとめようと思うが、政党政治である日本の国会で選択すべき政党というのは、イデオロギーではなく「システムの優秀さ」なのではないかと考えつつある。
システムとは、国民が自分の意見を国政に反映するための組織体制、仕組みだ。そういう意味では、日本中から批判にさらされた自民党の二階元幹事長の構築した「陳情」という仕組みは
日本の国政史上かなり高いレベルで有権者(一部の、だが)の利益を実現する仕組みだったかもしれないと感じつつある。(具体的な検証はしていないので、誤りかもしれない)
あれが何であってもそういう過去があれば不特定多数の直接的に支持者でないものまで支持に回らねばならない公の場にでると批判は出るのは当然
アイコンとして人物をだすためには必要な脚色と不必要な過去の隠蔽があるべきであれは人選がもともと間違ってる
ただ便利なのが人選の間違いを人事の間違いといわれずアイコンの責任になすりつけることができるところ
顔がみえない運営よりも顔の見えてる代弁者を殴るのはクレーマーの当然の成り行き
店舗の運営について現金で殴りつけるのが不満の解消としては実質実体効果があるにもかかわらずバイトの店員に土下座をさせる
見えている不満点についてみえていない原因を偏差射撃できるような人間はいない みえている的を一生懸命叩き続ける
本当に失敗したと思ったのならあれを一旦引き下げて代替品の押しも押されぬ謎バンドを出すべきだろう
なぜそうしないのか まともにオリパラの話をすると肯定できない人間が多すぎる
オリパラでもなんでも程度になにも情勢を理解しておらず失うものもとくにない音楽関係者にオファーを出すにしても
この要素を理解している企画者がいれば乗り気な人間はまともな思考をしてないのでおかしなことをする
というかもとよりオリパラに名乗りをあげるアーティストのアートとかまともな気がしないはず
ではそいつをごり押しにねじ込んでやってのけるか となると時間で押すしかない もう替えが効かないのでと言い訳をする
これは下の下で小学生でも思いつく方法だ とはいえ実際にそうなっているので如何ともしがたい
もうすこしまともな神経があれば小山田圭吾を使うにしても あとから自分の担当だったと自慢してもらってかまわないが
いまは覆面プロデューサーとして新規の使いつぶせる未完成で開拓中のアイドルをつかってグループをプロデュースしてもらう
そういう方法もあったはず
今後の活躍はその裏のネタがばれて崩壊する危険性をはらみつつ運用はできないのでワンオフでも出たいなにかになりたいという
すこし考えれば素人でも考え付くそんな方法を選択せずにアイコン総叩きでねじこんでおわらせたら形だけはなんとかなるだろうという
企画にGOを出したのは相当に小山田圭吾を恨んでいる人間か もしくは人間そのものを消しゴムかなにかとしかおもってない人間だろう
小山田圭吾自身がおこなった非道な行いは到底許されるものではない それは犯罪全般にもいえるだろう
それらの人間にはチャンスはないのか といわれるともちろんある ただそこではないだけだ
男子禁制女人禁制 関係者以外立ち入り禁止 免許がなければできない行為 それらは差別なのか もちろん差別ではない
性別や身体的特徴は選んで生まれてきたわけではない それを区別するのは差別だ そういいたい気持ちもわかる
だが性別の特徴をどちらかにもっている人間は どちらかから回避不能な攻撃を受けることがある それを守るためには敵を遠ざける必要がある
おまえがでていけということではない 敵をとおざけるという意味で区別をするのだ
クスリをやって逮捕されたアーティストや交通事故で人をひき殺したことがある演出家や舞台セットや美術やプロモーションやその他もろもろ
それらはそれらを受け入れてもらえる環境を選ぶべきだ 自身が攻撃され被害をうけないために
今回はそれが足りなった 小山田圭吾は日光に弱いのに日の下にさらされたのと同じ だれがそこに引っ張り出したのかという事だ
小山田圭吾自体は日の光によわいとして それが日の光を克服するにはどうしたらいいか なんてことをどれだけ議論しても解決するわけがない
ただの人体実験をしているだけだ 本人と医学の進歩のためにみたいなことを言いながら不死身の吸血鬼を拷問にかけて研究と称しているようなものだ
おわりはない
実際にこの問題を解決するために必要なのはこの企画とともに死んでもいい音楽生命が危機に陥る可能性があるこの大会に
名乗りを上げてくれる実務関係者だろう
そんなアーティストがいない やるからにはやらせてもらうという音楽バカみたいな人間がいない
手札で一番名前がうれていたのが小山田圭吾だったのかもしれないし 普段から恨んでいて日の下で死ねと思われていたのかもしれない
むしろそっちのほうがこの引き際の悪さを納得させる
最近のひろゆきの話もそうだが場違いな晴れ舞台デビューをしてなにもかも足りていないことを晒され恥をかいて退場というのは
企画力の低下かセルフプロデュースの一般化 蔓延の象徴のように感じる
とりあえず小山田圭吾の5文字が出ている全てについて 許容層以外のすべては攻撃的になることは確実なので
それを下げるのが一番のはず
なぜそれをしないのか できないのか
どの層からも攻撃を受けても防げるアイコンを大衆の目の前にかざして本体へのダメージを軽減させる
そんな企画が必要なことくらいだれでもわかるはず それができない状況という組織体の内部は一体どうなっているのか
とりあえず小山田圭吾には自分の居場所に帰っていい感じにやっててもらったらと思う
オリパラに期待したりそういう場の質や気品を気にする連中がこない地下のそういう奴らのドレスコードがあるクラブにいれば
もしお上品な連中が現場に降りてきたら逆におなじしぐさを返してやればいいだけの話
小山田圭吾がどこまで といわれたらもう出てきませんと言うまでだろう
だれが彼をそこにずっと立たせているのか それが問題だ
増田の事をあまり知らないが就活の面接についてお節介ながらアドバイス。
しかしながら、リーダーをしていなかった増田は会社にどういう形で貢献出来るかという部分が表現出来ていないのでは無いかと思う。
アルバイトが一定期間以上続いていることも、大学のイベントの運営を行なった経験も充分就活で話ができるエピソードだとは思う。
しかし、その中で増田でないと出来なかった事や増田がいた事でどういう効果を出したかを結び付けないと意味がない。会社は組織体であるため、バイト先や運営団体という組織に対して、自分のどういう価値観からどういう判断を行い、どういう結果をもたらしたか。
そして、それは応募先の企業のどういう業務で具体的にどう再現出来るのかを説明するのが面接で求められる内容である。
リーダーが就活で優位なのは、エピソードの結果と自身の働きを結びつけやすいという点ただそれだけである。
会社においてリーダーと呼ばれる人材は多くなく、リーダーもまた上の上司からしたら構成員の1人になるため、別にリーダーシップが最も優先される能力ではない。
日本の就活はポテンシャル採用がほとんどの為、過去の経験から人間性と行動原理を確認する。
いいたいことはわかるけどそれは無宗教とかではなくて「無信仰」信仰の方法を自由(とりとめのない・まとまりのない・定型でない)にしてるということではないでしょうか
信仰と宗教は違うのかというとそれはもう文字も意味も違うので違うのだと思います
どの神様に、と選べる時点で無宗教、宗教の宗派に属していないといえると感じるのは、選択できる範囲や競合をできる組織体内にあるということでもないし完全に別団体に属したものを選べることを自由(無節操さ)だといえるところからです
宗教に属す宗派に属すということが「その教義の行動規範に則る」べきであるというところからになるでしょう
宗教は人の考えや行動を縛り自由を奪うものなのかといわれたら、言い方次第ではそうだといえるでしょう
自由を奪うことは罪であり悪であり宗教や道徳といった観念からは排除されるべきものととらえるのは早計でしょう
選択肢として明示し行動として示したものを許諾の例として言葉にしなければ実質制限されていることも自由の範疇におさめることができます
どんな宗教も悪事は自由ではなく制限され道徳や権利の自由からそれらを排除にむかわせるべきだとしていますが時に悪事とされる善行にあたることもあるでしょう
自己犠牲として自発的に損失を被ることについて、自己犠牲になりたいと思った本人の行動がどこからが本人の意思決定であったか、その根源たるを他の人の意思であるというところまでつきつめると洗脳による自害自損ともいえるでしょう
それがどこまで近い段階であっても言葉にしなければ「美しい自己犠牲」とも言えるわけです
自由で公平で自発的なのか、恣意的な他人の欲求だったのか、視野を自由にできるのならどれも自己責任でありますし、どれも他人の所為でもあります
この定義方法を、議論や考察、研究や文化の形成、生活の安全性や自発性に任せる部分を安全かつ効率的に使うためには関係者の認識を共通させる必要があります
Aの宗教ではこれをしていいが、この場面ではBの協議にしたがう、Cの教徒とおなじ慣習をもちつつ、Dの祝い事に参加する、これが問題なのは主催者の意に沿わない参加者が発生するということです
その土地では年齢や性別に大きく関係する分類や層づくりがあって行動様式がある、それは土地の形状や生産物、文化の継承方法について試行錯誤の結果できたものだとして、それをどの視野の範囲からかわからないけれども否定をする必要性や異なる文化への融合を促進する必要性など、人の欲求という根源以外にないわけです
これをもとに行動を個人が大きく他人を巻き込むと、独占的な判断で継承されるべき文化や人々の生活などがその人の基準のみで変化します
民主主義や多数決といった構造で全体的な存続と発展の利をとるために組織されている一つの目標団体が、多目的に他情報を積極的に取り込み侵食する必要はないのです
日本は結果として無宗教という無制限で垣根のない侵食を行える体制がありますが、これが陸続きの土地ならば過去の大陸を大幅に占領した戦争などに近いことになるのではないかと思いますが日本は島国で日本以外にその文化も習慣もひろまることがありませんでした
この自由という行動者にとってだけ都合がよくて状況を受ける側の圧倒的不利さをせき止める防壁として戒律などがあります
培ってきた文化や財産、知恵や技が家族や一族を存続させるために必要であるのに、ただ血脈のなかでも一人秀でた人がいたので対応できる新技術に乗り換えたとしたら、次の世代の一族はそれを継承できるのか、できなかった場合についての対策をしなくてはならないのではないか、その保守性などが宗教という組織体で自由を制限し自由を得るための礎となるわけです
自由と自由みたいなことになってしまう言葉の使い方が混乱を招くわけですが、選択権を握るためには選択できる手段をもっていなくては「自由に選択することすらままならなくなる」のです
両手にあまる自由をふんだんに持ち選んだりえらばなかったりすることができる、という状態を自由ともいえますが過剰な供給で十分に生活ができなくなり結果として選択ができなくなる状態においこまれることを自由とまた同じ言葉で表すのは、理解をもとめるためには効率的でもないし意味のないことでしょう
自由という状態を過剰に与えるということは選択しないという自由を与えることにもなってしまう、つまり自由を侵害するために自由を供給されているともみれます
選択肢を狭くすることで状況を予測しやすくする、想定した状況にあわせて対策を行い対処し乗り切る、その中にある判断や行動の種類の多さについて自由という言葉を使うべきなのではないでしょうか
さてお話を戻して宗教というのが行動を縛るということ、それは状況の発生予測を絞ることで行動の選択をしやすく解決をしやすい方向へ導くためのルール、規則の単位である宗教のあるべきところだろうと私は考えます
他宗教というならば、複数の神の名の下つまりコードネームのようなものの定義にある行動規範にのっとり判断し行動するという手段が複数あるということになるかもしれません
それが戒律を越えなければ可能かもしれませんが、健康や文化による財産や生産を失う可能性があるものだとすれば到底受け入れられるものではないはずです
日本は調理方法さえまちがっていなければ牛でも豚でも鶏でも食べれます これは宗教によるものということでもありますがこれは宗教による教育と統率が必要ないからです
気温が50度を超える環境で冷蔵庫や家屋に扉が密閉できる状態でなく、電気も家庭に全てあるわけではなく、調理方法も保管方法も十分に洗浄された水が供給されていない状態で無宗教の日本とおなじ文化を必要とする人権を唱えたところで、人権を守るためにはその土地の戒律をまもったほうがより安全ではあるということがあります
これ豆知識としてこの土地では、という情報が何年間、どの範囲でどこまで残るものでしょうか
お布施などで共同運営しだれのところに優遇されることなく中立でいて安全のためだけに情報を継承する立場、聖人という代替概念でその尊厳を意味づけて形作っているのが宗教です
これを複数またいでいいとこどりをするのが、経済力などで圧倒的に安全性や保障を引き受けられる個人か団体、または暴力などで制圧した強制力でなければできないでしょう
その場ごとにルールがかわるのであれば、みな知恵などなくその場で判断した欲求をそれぞれに解消していけばよいだけです
日本が無宗教なのはほとんどの生活行動範囲が安全なため危険を回避するための教えが伝承される必要がなくなっているところです
交通安全や山登り川遊びで人は死にます これを避けるために必要な教えがあるはずですがこれらの発生原因をほとんど人に置き換えられるのが現状です
つまり神様によって救われたり悪魔によって害をなされたりするわけではないので概念ではなく「責任者に賠償を要求する」という解決方法が人のあつまりにおけるルールになっているのです
責任者不在の害を受けるところには近づかないという行動規範を定義づける必要がないため宗教に縛られることがなくなるのです
個人や団体において弱みや充分に練度の高まっていない部分にほかの人が了承を得ながら近づいてきて根こそぎもっていかれる、なんて詐欺や犯罪から身を守るための小規模な団体の積み重ねや知恵も裁判で公平に、などと考えているかもしれません
それぞれの個人の責任において自由という自分からみて選択肢が複数あること、それが他人からみて自分を奪い取る対象にしている人からもおなじ数があることが公平、といった形でそれらの安全を担保しているのが政府、国家がいざとなれば自分という個人をまもってくれる、その象徴が日本人にさえうまれれば日本人の象徴として存在している天皇が自分を日本人だとして人権と自由を国家を通じてまもってもらえるはずだ、と言葉にはしていませんが実質その構造をもっているのが日本人の宗教といえば宗教ではあるでしょう
その宗教に属しているからこそほかの宗教に属さないということはあるかもしれません
男性は女性は、と議論をするときにまず男性と女性の議論であればその人数から層や傾向を定義してその話をするべきでしょう
男性100人いればそのうち5人が、女性ならば8人が、という割合や、具体的に割合から引き出された数字で話すときは「でもそうでない人がいるでしょう」とはならないはずなのです
「それ、あなたの感想ですよね」ってそれは人が人の口から言っているのでその人の責任における言動はあきらかでしょう
その進めたい方向と目的にあわせて議論をすすめていくところに、ルールのことなる干渉があるとどうなるでしょうか
いまは「そういう例の人」という100人以外でかつ数例、1例ごとに全然ちがう数例をもちだして100人の構成と比較し議論する基準が「人であるから」というのではお話になりません
「それあなたの意見ですよね」というのは誰の意見ならば、どの意見ならば、意見とは何人がどこから出せば「その人の意見」ではなくなり、その発信者が責任を持つ言動以上に求められる言葉はなんの必要があるのでしょうか
裁判官が有罪と口にしたら「それあなたの意見ですよね」と言うのでしょうか そうではないとしたらどの口で言うべきなのでしょうか
裁判官は裁判所のルールにしたがって、国家のルールに従って定義されたその役職で行動をしているわけでその人が構成員であるということがそれらの代弁代行に意味をなすことができるわけです
一人が自己の責任と権利において他の人に干渉するのであればそれこそ借り物の権利でほかの人の守られるべきと大きな組織が定義している範囲を侵害されるべきではないでしょう
これらルールにのっとり、ルールの適用範囲ではルールに従った行動をし責任を果たし権利を得るという環境づくりが宗教というくくりであったり団体の定義方法なのです
日本では、海外では、といったところで海外でしていることが日本でしていいのか、といった境界を安全と繁栄の目的のために定義する最大が国家であり、そこから法的には自治体単位で、人のより能動的な生産や貢献活動の促進のために定義していない範囲だけれども、できるだけ広い範囲で知見を共有し無駄な闘争や議論を省き、豊かさへ行動するのに安心できるよう定義するのが宗教で、そこから地方ルールや家ルール、個人ごとの約束などがあるわけです。
つまり神様を何体コレクションするかということが宗教に属するということではなく、宗教ごとの福音をいくつ得たいかということが宗教に属すということではなく、自分が宗教に属することで行動範囲を限定し利益を最大化するということ、これについて多くの人が専属的に属しているか、もしくはしていないかということにおいて、無宗教という属さない人が比較的多くいるということです
自由時間を抑制しより賃金の収入を拡大し効率化するためにサラリーマンになったり、収入を最低限にして自由な時間を多く得るためにフリーターとなる、それらを選べる自由という選択肢の幅が宗教の自由といったところでしょうか
会社につとめながら、フリーターの自由さを味わい、フリーターの責任の小ささを同じ労働をしている人間なのだからと訴えるのは、その組織に属している他の人が迷惑するということなのでそれを避けるためのルールと戒律、罰則があるわけです
複数の神を信仰する自由は、個人の可能な範囲で自由を謳歌してもらって問題ないのですが、異なるルールをほかの定義からもってくるのを禁止し、その傾向をできるだけ排除することで安定性と安心感、長期にわたる組織体の維持にあてているわけです
いかがだったでしょうか?
元増田です。みんなありがとう。やっぱブラックだよなーそうだよなー。んでもってやっぱ働き過ぎか。でも、ストックオプション貰ってたらこの忙しさもしょうがないって感じなんだね。
希望的観測だけど、年収は額面で今年600万、来年1000万を目指してる。
PMやら組織体制の整備やら含めて仕事として色々手広くやり過ぎてるので器用貧乏になりそうな感じは怖いけど、今まで通り仕事して勉強してを続けてれば自然と金は貰えるようになる気がする。
ストックオプションは今年貰えるのかな?一応社長と口約束で2.5%くらいって話にはなってる。ただ諸事情によりMandAする予定でIPOまで行くつもりはないらしい。過度に金銭的な期待はできないかな。
とはいえ、年収1000万とストックオプションで個人的には満足だから、2年頑張ったらちょっとゆっくりしたいな。
もうちょっとプログラミングとか仕事全般好きな人間だったら良かったんだけど、こればっかりはどうにもならない。定期的にどっかに愚痴吐き出しておかないと潰れる気がして、つい増田ってしまった。
辞めた今でも「あいつのせいで、あいつのせいで」と辞める原因となった色々な顔が頭に浮かんできて、された事や言われた言葉を思い出す。恨みで頭が一杯になって何時間もずっと同じことを考えている。
「過去のことなんて考えるだけ無駄だ」と頭で分かっていても恨みを頭から追い出すことは出来ない。
「俺より能力が低いくせに楽な部署に行って楽しくやりやがって」「経験も無いくせに偉そうな事言いやがって」「俺よりも給料低いくせに給料高いアピールしやがって」「大した仕事でも無いくせに粋がりやがって」「俺より辛い思いしてないのに仕事辞めやがって」挙げたらきりが無いが、気付くと仲の良かった同期や友達、果てはテレビで見た知らない人やTwitterでツイートが流れてきた人など、ありとあらゆる人に対して無意識に恨みを抱くようになり、その度に「何故自分はそんなことを考えてしまうのか」と自己嫌悪に陥っていた。
そんな時に沼田和也さんと言う方の一連のツイートを見た。以下に引用させて頂く
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教育ってすごいな/怖いなと思うのは、小中での「とりあえずぶん殴る」というシゴキ教育のなかで育ち、高校の剣道部でも先輩からこってりやられた体験が、未だに自分のなかで、理性的なものとは別次元で、「年功序列や鉄拳制裁でどうにかできるのでは?」という身体的誘惑になっていることである。
園長をしていた折、職員室に入って来て騒いだ子どもたちに「やかましい!外に出んか!」と怒鳴ったことがあり、副園長から「(子どもだけでなく)職員が萎縮するからやめてください」と注意されたことがある。子どもの頃あれほど嫌だった力技を自分がしていると気づき、悲しかった。
だから、「体罰はよくない」「組体操は危険である」等の批判がなされるとき、理性では「まったくその通りだ。それが正しい」と理解しているのに、身体が苛立ちを覚えてしまうのである。悲しい苛立ちである。時代遅れの苛立ちである。
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沼田さんのツイートの主旨とはずれるだろうが最後の「理性では理解しているのに、身体が苛立ちを覚えてしまうのである。悲しい苛立ちである。」の一文を読んだ時、言語化できていなかった自分の「恨み」という感情は「悲しい苛立ち」だったんだと、少なくともこの世に一人は自分と同じ「悲しい苛立ち」を感じた人がいるんだと、自分だけでは無いんだと救われた気持ちになった。
考えてみると人生で会った人の中で本当に嫌な奴というのは少数で、殆どの人は良い人だった。今まで多くの人に助けられてきたことを忘れ、あまつさえ恨んでいた自分を恥じた。何と神に愛されぬ生き方だろうと。
自分がこれからどうするのか考えた。今まで与えて貰い、返していない恩をどうしようと。もう会えない人もいる、それならまだ会える人と、生きていく上で会う人に恩を返そう。良い人にも、嫌な奴にも
そう決めると頭の中に嫌な顔や思い出が出てこなくなった。