はてなキーワード: てんでんばらばらとは
今回の衆院選で東京のとある選挙区の立憲民主党候補のボランティア支援をした。
数年に一回ただの紙っ切れに人の名前書くだけで国が変わるわけねーだろ、と最近思ったので少しでも政治に参加しようと思って立憲のホームページからボランティア登録して参加した。
そこで思ったことがいくつかある。
立憲の候補者は、基本的に「みなさん、自民党の○○がこう発言したことを知っていますか?」「安倍元総理が~と言いました。皆さん、これでいいんでしょうか」など、
特に聴衆に向かって言いたいことが思いつかなかった時に、英語のWell...やYou know..., のごとく「自民党は~」がつなぎ言葉にしてしまっている。
自民党、と最初に言うことでそこからすらすら連鎖反応的に言葉がつながっていって演説っぽい文章が口からでてくる、そんな印象を持った。
立憲民主党の候補者自体は、それぞれ個人個人色んなモチベーションがあって選挙に立候補しているわけだから、おそらく何も考えてないということはないと思う。
だけど、それにしても演説の度に「自民党」という言葉を使わないと演説にならない今の現状は明らかにおかしい。
これじゃまるで自民党がいなかったら自分達に存在意義が無いとでも言えるような状態だ。
もちろん、LGBTやワーキングプア問題、格差の問題など、自身が特に興味を持っている分野について訴えかけをしたいという本心はあるのだろう。
だけど、そういう個別の問題を駅前で訴えても、その問題の当事者以外は関心がないわけだからどうしても共通の関心ごとをテーマに演説を組み立てないと話を聞いてもらえない事情もあるのだろう。
それは理解できる。
それでも、「自民党」という言葉を使わなければ演説が成り立たない今の立憲民主党の現状は若干残念に思う。
維新を参考にしろ、とまでは言わないが、せめて国民の極一部ではなく大多数がこれは変えないといけない、と感じていることを掬い取って演説としてまとめられないものだろうか。
LGBTや、自民党政治では声を聞いてもらえないマイノリティの意見を私たちは聞きます!と演説でもよく言っているが、これはよくよく考えてみると、経済や外交、防衛等のメジャーな問題については自民党に言ってくれ、私たちはそういう問題ではないもっとマイノリティの少数派が抱える問題に対する意見を優先して聞く、ということだ。
立憲候補の辻立ち演説にも数回参加して話を聞いていたが、こうした印象はさらに補強された。
この態度が彼らの本心であるならば、むしろ今回の衆院選で立憲民主党は実は議席を余分に取りすぎているということになる。彼らは今回おおよそ衆議院の議席の1/5を獲得した。
だが、彼らが相手にしているLGBTや特殊な事情を持つマイノリティの数を考えたら、本来の適正議席数は衆議院議席の1/10に満たないのではないか。
国民の10%に満たないマイノリティの声を聞く政党、彼ら少数派の意見を国会に届ける政党が彼らの本分であるならば、彼らは自民党のライバル、最大野党になれるはずがない。
そういう意味で言えば、2大政党制を目指すのであれば自民党vs立憲民主党という構図にはなりえないと思う。マジョリティ政党vsマイノリティ政党などという構図が生まれる訳が無いからだ。
それでも1/5の議席を獲得したということは、それはつまり彼らが相手にしていない層からの票を自民党批判によって得たということだ。
マイノリティを重視する政党なのに、議席ではマジョリティを目指す。これはやはり構造的に矛盾している。
マイノリティ重視政党が議席でマジョリティを取りたいがために、自民党批判を繰り返すことによって、彼らが自身の党のターゲットとしていない層からの票をかさ増ししている、そう言われても仕方がないのではないか。
上にはつらつらと立憲民主党への批判を書きはしたが、立憲候補の選挙ボランティアを初めてやってみて、支援した候補には愛着というか、応援する気持ちは生まれた。
選挙ボランティアに参加するのも初めてだったし、最初は普段の生活では目にしないような濃い人たちがたくさんいて面白いかも、という好奇心が動機だったが、そういう意味では参加して良かったと思っている。
彼らの良いところを上げると、やはり他人に優しい人が多い点があげられる。自民党候補の演説と比較すると、自民党候補の場合は演説内容が若干攻撃的で危機感を煽り、いわゆる扇動するような印象が強かった。
そういう演説は傍から見ると心強くもあり、決意や覚悟を伺わせるものがある。こうしたことから基本的には自民党候補はエグゼクティブ、取締役クラスというイメージが強まる。
実際、立憲民主党候補と自民党候補の印象を眺めると、自民党候補の場合は会社員をやっていても役員クラス以上までのし上がりそうな我の強いタイプが多く、立憲民主党候補は組合員クラスというか、取締役にはいなさそうな人が多い、という印象になる。自民党候補のエグゼクティブ感は、正直言って洗練されていると感じた。やはり一定規模の組織で組織構造の上部にいるような人間はある程度のカリスマ性というか何等かのテクニックを持っているような印象だ。エグゼクティブ感のある強者をサポートしているジブン、取締役クラスの大物の子分であるオレ、というポジションは多くの小市民にとっては心地の良いものであるに違いない。
それとは異なり、立憲民主党候補は、言葉自体は強い言葉を使って批判したりすることは多いが、やはり「優しい」雰囲気がある。しかし、この雰囲気自体は私は非常に好きだと感じたし、こういう優しい人達がマジョリティである世界で生きていきたいと思う自分に気づいた。「取締役クラスの大物の子分であるオレ」というポジションとは異なり、他人に優しい、いわゆる弱い奴と舐められがちな候補を支援するジブンというのは人によっては受け入れられないだろうな、とも強く感じる。
学校生活で例えると、学年を牛耳っている大物がいるグループに入りたいか、そういう大物を批判して抵抗を続ける小グループに入って生活をしたいか、どちらを選ぶか、といった問題と共通すると思う。
その結果、後者のグループに入っても良いと考える国民の概数は1/5だったと考えると、なんとなくこの例えも的を遠く外しているわけではなさそうだとも感じる。
対案という言葉が流行しているので、建設的な意見も残しておきたい。
とにかく立憲民主党の議員と国民との接点をマスコミ以外の場で作ることが必要だ。現状大多数の一般国民にとって、国会議員というのはテレビでしか見ない存在だ。
だが選挙ボランティアに参加してみて思ったのは、国会議員も普通の人間、そこらへんの日本人と99.999%以上同じDNAを持った同種族のおじさんおばさんだということだ。
選挙演説では一方方向で候補者が自分の決意を流すだけだが、もし自分達の発言が直接議員に届く場があるならば、国民の選挙や政治に関する意識も私みたいに大きく変わる可能性が高い。
もちろん、そういう生の意見をフィルタリング無しに直接ぶつける機会を作るというのは、あらゆる意味で高いコストがかかるものだということは承知している。
想定外の質問にあたふたすることだってあるだろうし、個人的な怒りを個人情報織り交ぜてぶつけだすヤバい奴に絡まれる可能性だってある。
そうだとしても、タジタジになった姿を仮に見せることになったとしても、それでもそういう場を設けるべきだ。想定外の質問なんだから、痛いところを突かれることだってある。そうだとして、答えに窮するようなことになったとしても、
我々国民は国会議員という人間が遠い世界のアイドルではなく、我々と同じように高校や大学に通って同じ空気を吸って物事考えてきた人間だと実感することはできる。
彼らのエグゼクティブなイメージは、その偶像崇拝的なイメージ戦略によって支えられていることが多い。想定外の質問に窮する姿を支持者に絶対に見せられない大きな制約を抱えていると言ってもいい。
幸か不幸か、自民党議員と比較すると立憲民主党の議員には偶像崇拝的な「強い個人」というイメージが無い。これは長所と捉えて最大限活用すべきだ。
選挙ボランティアに参加してみて強く感じたのは、我々ボランティアは立憲民主党の議員達の目には名前も顔も知らないよく知らないおっさんおばさんとしてしか認識されていないんだな、ということだ。
ボランティアでビラを配ったりするのに使った時間は1日1~2時間程度だったが、いくら愛想よくビラを配ったり声掛けをしたりしても、通行人から悪態をつかれたり嫌な絡み方をされても基本は放置だった。
つまり良い仕事をしたら評価するという姿勢も無ければ、不慣れな仕事に対して指導やサポートをするといった体制が無い。
せっかくボランティアとして選挙のお手伝いをしに行ったのだが、正直これは何とかしてほしい。議員さんたちは議員さん達で話しかけられたり声を出したりするという自分の仕事があるのでそちらにある程度集中するのは
しょうがない。だけど議員はリーダーになるべき人物であるわけで、選挙ボランティアを集めておいて何の説明も無しにビラや立憲民主党のジャンパーを渡して、あとはいい感じによろしく、ではあまりにも仕事ができなさすぎる。まともな継続性のある組織であれば、新人がチームに入ってきたときは気持ちよく動いてもらえるよう丹念に説明をしてから仕事をしてもらうのが普通だ。この説明が無いと、新人はてんでんばらばらな仕事の理解のまま、組織の活動としてやっているのに個人の責任で活動することになってしまい、まともな組織にならない。
加えて気になったのは、ボランティアの数名が議員に名刺を渡していたことだ。つまりもしかしたら議員側の人達はボランティアというのはボランティアがコネ作りのために下心をもってやってきているのであって、議員に気をかけて欲しかったら自分達が議員になるためにしてきたように秘書として仕事をしたり無償ボランティアで名刺渡して顔を売って仲間に入れてもらえるようにそっちで努力しろ、と暗に思っているのかもしれないと感じた。
彼ら議員は無償で時間や労働力を提供しに来た選挙ボランティアに対して積極的に感謝の意を示すことはなかったし(※訂正あり。文末参照)、次回のボランティアもお手伝いお願いします!と言うことすらなかった。
特に選挙最終日の日の最後の練り歩きで、次回のボランティアについても協力をお願いするのでもなく、なあなあで自然解散して締めの挨拶すら無かった点は、政党活動を市民ボランティアから拡大していこうと日頃から口にしている態度とは大きく矛盾していると感じる。
これに関しては悪意があるというわけではなく、自分のことで精一杯でボランティアや他の重要でないスタッフに気をかける余裕が無かったのだと思う。しかしそれはそれで政党という一組織を作り上げる能力に少し欠けていると評価せざるをえない。せっかく支援しに来てくれている10人程度のボランティアすらまともに組織化できない国会議員が、どうやって政府与党になって何十万人もの官僚が属する組織を作り変えることができるんだ。
現在の立憲民主党は、サポートを言明している有権者の1/10にも満たないマイノリティ層+自民批判の浮動票という形で議席を獲得している。
立憲民主党が明日からでもやらなければいけないことは、この浮動票を順次立憲民主党の固定票へと変換していくことだ。そのためには、前者の特定マイノリティ層との対話だけを繰り返すのではなく、浮動票を立憲民主党に投票してくれたマス層に対して、党員になってもらうよう日頃から呼びかける活動をもっと積極的に行わなければならない。
そのためには外交や経済、国防についてのメジャーな政策についてだって国民一人一人と意見交換しなければならないが、立憲民主党がもしまだ少しでも与党として日本を率いていきたいと願う気持ちがあるのであれば、ぜひそうしてほしい。もし立憲民主党の議員が特定の少数団体の意見のみを重視しマス層の国民の意見を軽視するというのであれば、それは自民党に陳情した方がよっぽど自分達の意見が国政に反映されることになるので、俺は支持することはできない。
ビラ配り、練り歩き時に通行人のおっさんから「お前、立憲民主党の奴なのか?だったらもっと大きい声出してちゃんとやんなきゃダメじゃない。こんなんだから民主党はダメなんだ」と言われたことが強く記憶に残っている。
いや、俺は別に立憲民主党の党員でも支持者でもない通りすがりのただのボランティアなんだわ。お前はただ街に出て候補者にしょーもねーヤジ飛ばして投票するだけで終わりなんだろ?こっちは投票程度じゃ大して意味ねーと思ってるからこうやって政治活動にあくまで無報酬のボランティアで手伝いしにきてるんだわ。なんで自分では政治活動全然しない奴が無給ボランティアで政治参加してる俺らに高圧的に出るわけ?
「民主党はちゃんとやれよ」じゃねーんだわ。そう思うんならお前もなんか手伝えや。なんか、俺は税金払ってるお客様、お前らは俺らの税金で飯食ってる株式会社立憲民主党の社員、って勘違いして図に乗ってるオッサンに腹が立ってしょうがない。
お前は、アホか。
この件に関してもっと長文で思いの丈を吐き出してスッキリしたいのだが、本当に長くなりそうなのでここらへんでやめておく。
「彼ら議員は無償で時間や労働力を提供しに来た選挙ボランティアに対して積極的に感謝の意を示すことはなかったし」
この部分だが、これは「ボランティアに来てやってるんだからもっとありがたく思ってほしい」という私の主観、エゴが少なからず含まれている。
この部分に関して、立憲候補者側の落ち度のように書いてしまった点は訂正するとともに謝罪したい。
選挙当日の焦燥感や最後の一押しといった高揚感の中で最優先で気を配る相手は聴衆・通行人であって、ボランティアを最優先で丁重に扱うべきという主張は後から考えると書きすぎだった。
また候補者側のスタッフからは感謝の意は受け取っており、「感謝がない」というのは誇張でした。大変申し訳ございません。
どこか別の機会にまとめようと思うが、政党政治である日本の国会で選択すべき政党というのは、イデオロギーではなく「システムの優秀さ」なのではないかと考えつつある。
システムとは、国民が自分の意見を国政に反映するための組織体制、仕組みだ。そういう意味では、日本中から批判にさらされた自民党の二階元幹事長の構築した「陳情」という仕組みは
日本の国政史上かなり高いレベルで有権者(一部の、だが)の利益を実現する仕組みだったかもしれないと感じつつある。(具体的な検証はしていないので、誤りかもしれない)