はてなキーワード: 多面的とは
んんwwww 増田氏、何やらX社のGrokやら画像生成AIの背景について詳しく語っておられるようですが、ちょっと待っていただきたいですぞwwww 拙者の見解を述べさせていただきますぞwwww
確かにGrokはテキストに特化した検索支援AIとして開発されているようで、その点については同意しますぞ。しかしながら、画像生成AIの領域については、Black Forest Labs社のFLUX.1を利用しているとはいえ、X社が完全に無関心であるとは言えませぬなww
また、増田氏が述べられているLAIONデータセットの件ですが、「著作権的にクリーンな」画像生成を目指す中で、技術的課題が存在することは確かです。しかしながら、LAIONがドイツの法律に基づき公開データで運用されていることや、ドイツ国内での勝訴もあり、運営は法にのっとっているという点も否定できないですぞwwww
GlazeやNightshadeに関しては、反AI運動の手段として注目されていますが、それがどれだけ実効的かについては議論があるようですなwwww しかし、その毒入れ(poisoning)の考え方が如何に強力であるかという点は、拙者も評価せざるを得ませんぞwww
増田氏、拙者の見解をお役立ていただき、いかなる分野においても多面的な視点での理解を目指して頂ければ幸甚ですぞwww あまり肝に銘じずともお気を悪くなさらず、拙者の考えを一つの参考としてご覧くださいですぞwww
経済が悪化している原因を単純に財務省の責任に帰する考え方は、極めて荒唐無稽な陰謀論であり、実際の経済状況を正確に反映していない。
このような単純化された見方は、複雑な経済システムの実態を無視しており、学術的にも実証的にも全く支持されない。
財政政策の理論的枠組みと実証分析を考察すると、財政政策の有効性は限定的であることが明らかである。
新古典派総合の視点からは、IS-LMモデルにおいて財政政策の有効性はLM曲線の傾きに依存し、リカードの等価定理は財政政策の有効性に疑問を投げかけている。
新ケインズ派モデルでも、動学的確率的一般均衡(DSGE)モデルにより短期的な財政政策の有効性が説明されるものの、その効果は限定的である。
日本における実証研究では、構造VAR分析や DSGEモデルによる分析により、2000年代以降の政府支出乗数から政策の効果が極めて限られていることが示されている。
財政政策の制約と有効性を考えると、財政の持続可能性に関する懸念から財務省の政策選択肢は著しく制限されている。
動学的効率性条件や債務残高対GDP比の安定化条件を考慮すると、日本の財政状況は極めて厳しい状況にある。
さらに、構造的問題と財政政策の限界を考えると、生産性の停滞や人口動態の変化など、財政政策では直接対応できない構造的要因が経済停滞の主因となっていることは明白である。
全要素生産性(TFP)成長率や労働生産性の低迷、人口オーナスの進行、社会保障費の増大などは、財務省の政策だけでは解決できない根本的な問題である。
したがって、経済停滞を単純に財務省の責任とする見方は、学術的にも実証的にも全く根拠がない荒唐無稽な陰謀論であると断言できる。
このような単純化された見方は、複雑な経済システムの実態を無視しており、建設的な議論や効果的な政策立案を妨げる有害な考え方である。
経済停滞の解決には、財政政策の枠を超えた包括的なアプローチが必要である。
生産性向上のための規制改革、人的資本投資の促進、イノベーション政策の強化、そして持続可能な社会保障制度の構築など、多面的な取り組みが求められる。
あとはどう書き出すかだよなぁ🤔
いつも通り、思いつくまま適当に書いとくか、出来る範囲で読みやすくしとくか、うーーーん
とりあえず、忘れないうちにメモ書きしとく
ワイは以前、『差別』というものは、生死に関わる問題や経済的な困窮、戦争といった深刻な問題に直結するケースのみに限定されると考えていた
なので、無礼な態度や高圧的な態度は、単にその人の問題であり、べつにどうでもいいと考えていた
そもそも、一般的に高所得と言われる立場にある人間にとって、気持ちを鈍感に保ち、何か言われても気にせずスルーするのは、持っていて当たり前のスキルだ
もちろん、ハラスメントや名誉毀損・侮辱罪として取り上げられるレベルの罵倒や侮辱は除くが、それに至らない範囲の言動にいちいち反応しているのを見ると、
『稼ぐ気がないんだな』『働く必要がない裕福なご家庭の人なんだな』『生まれつき過敏なんだな。生きづらそう』と感じずにはいられなかった
だが、他者を『バカだな』とか『ボンクラだな』と感じるとき、よくよく考えるまでもなく、"自分の方が上だ" という考え、頭にあるよね?
人の価値はお金で測れるものではないにもかかわらず、経済力という一点で優位に立っているという理由だけでーーー・・・とか、いろいろグダグダとやるまでもなく、
『自分の方が価値が上だ』ってやった時点で、<ハイ、差別そのもの>で話は終わりだと、ふと気付いた
『差別』とは、特定の属性(例えば経済力やさまざまな社会的地位)に基づいて、自分を他者より上位に置き、他者を不当に扱う態度のことだからね
自分と同等以上の能力がない人や、自分と異なる興味や能力を持つ人に対して、『やる気が足りないのでは?』と傲慢な態度を取っていたかもしれない
※ 年収に影響する要素で1番大きいのは『運』、ついで『社会制度』、それらに比べたら『能力』の影響は小さいことも、他人の能力を見誤る要因になっている
※ それ以前の問題として、『自分と他人は違うを理解する機能』がそもそも未搭載なので、何度学習しても、つい他人の能力を見誤ってしまう
例えば、女性を『おばさん』と綴り、男性を『男』と呼称しインタビューに応える某皇族は、自分のことを『ガチ貴族』と思ってるし、実際に貴族なんだけど、
(あれがなんでウケてるのかマジでわからん。中世か? 本当、膝を折って各地を訪問した平成天皇だけが皇族の例外でしたわ)、
政財界の人間は、皇族と違って、いちおう一般人の"ハズ"なのに、日本以外の国でかましたら、
失脚、株価暴落、活動家に永久粘着される or 永久に身の危険を覚えることになるような暴言を マスコミにすっぱ抜かれたとかではなく、
公の場で自ら積極的に発信してるのマジでなんなんだろ?って思ったわけです(ナチス発言ほかキリがない)
『オメー、平等絶対の日本のどこでそんな教育を受けてそうなったの?』、『オメー、ガチ貴族ではなくね?』みたいな
だけど、べつにガチ貴族や上級国民でなくても、無限に無礼な人/上からな人いますよね?
せいぜいあっても年収2000万程度で、なんならワイ以下の年収でも無限にいます
つまり、これは生まれや社会的な立場の問題じゃ無さそうだな・・・ってなったわけです
単純にその人の態度(attitude)、人間性の問題なのでは?ってね
なお、アリストテレスは『ニコマコス徳倫理学』で、徳(美徳)は習慣(ēthos)化によって形成されるとって言ってるし、
人間の行動が繰り返されることで習慣となり、それが最終的に性格や人格を形成するって言っているので、
※下記は、マザーテレサでもウィリアム・ジェームズでも無いらしいです
自己責任論って突き詰めたら、森羅万象あらゆる事象は自己責任を主張している本人のせいに全部転嫁できるはずなんだけど、いまだかつてこの主張が自己責任論者に聞き入れられたことがないので、自己責任論者は自己中心論者だと思っている
これは 1000000000%、それはそう
森羅万象ではなく、もっと単純な日常的な視点で言っても、それはそう
例えば、通貨が弱く教育や医療システムが整っていない国からやってきた人々や、スラム街から成り上がった人々にとって、先進国での一般的な悩みは『甘え』のように映るだろう
同じ先進国に住んでいても、呼吸や歩行、食事など、日常生活の基本的なことすら困難な人々からすれば、健康に恵まれた人々の日常的な悩みなんぞ『甘え』に感じられるだろう
でも、先進国で自己責任を説いたり、ぼくあたちは頑張った!努力した!をやる人は、上記の人々と同じ立場に身を置いたことがないどころか、
居所不明児童 の悲劇、 川口高齢夫婦殺害事件(2013年) の当事者に近い環境に身を置く人は今日もいるだろうし、
殴る蹴る性加害など緊急性の高い虐待ではなくても、電気ガス水道が止まるのが日常な環境で暮らす児童は今日もいるだろうし(貧困ではなくて親が生活能力がない)、
ネグレクト・機能不全家庭でなくても、教育DVや暴言が日常とか過干渉とか条件付き愛情とか、基盤を壊すものは無数にあってひとつひとつ挙げたらキリがない
そして、自己責任を説いたり、ぼくあたちは頑張った!努力した!をやる人は、上記の人々と同じ環境に身を置いたことがないどころか、
人類は自然に完全に打ち勝ったわけでも、自然から独立した存在でもない
だが、他の動物と異なり、『優れた貯金力(資源を蓄積する能力)』と『高度な想像力』を持っている。そのため、先進国では、福祉制度や社会保障が充実しており、動物のように弱者を切り捨てたりしない。
また、見て見ぬふりをしてしまうこともあっても、自ら手を下して積極的に弱者を切り捨てたいという輩は異常者とされるし、自分自身が社会から切り捨てられたいとも思うのも異常者だ
したがって、裕福な立場や恵まれた環境にあるすべての人は、たとえエリートでなくても社会的責任(ノブレス・オブリージュ)を意識する必要がある
持てる者が傲慢な態度であることは、エクイティ(公平性)や共通善の観点から見ても、批判されるべきだ
批判的ではありつつも、バーカ、バーカ、と言うのは控えたいと思います
「視座」の上げ方が成人発達理論にわかりやすくまとまってた|中村修三(ShuzoN)
[B! 考え方] 「視座」の上げ方が成人発達理論にわかりやすくまとまってた|中村修三(ShuzoN)
が、成人発達理論の例を示しているようで大変興味深かった。
発達段階が1段上がるのに最低でも数年かかり、上位の発達段階に行くほどその年数が増える。そして多くの人が高位の段階に到達せずに一生を終える。
この記事でいうところの段階5の人は成人の1割いるかどうかといったところなのではないか(適当)。
そして、現在の自分のがいる発達段階より上の段階の概念は本質的に正しく理解できない。
はてぶのコメントの多くは、自分が持っている知識や経験に当てはまるよう理解しようして、結果的に理解が部分的になってしまっているように思えた。
自分が理解しているように、他の人たちも理解するはずだと無意識に感じてしまうことが自己中心性の一つの性質だとすれば、
自己中心性の減少とは、自分の思考のメカニズムを批判的にとらえ、物事の一部の側面しか見ていないことを理解し、もしかしたらもっと優れた考え方があるのではないか、と探求できるようになることではないか。
世の中の成人発達理論に関する解説のほとんどは、段階5未満の発達段階の色眼鏡でとらえて解説したものだ。
それゆえ多くが不完全であり、時に誤解していて、自己の利益を得るために恣意的であったりする。
意識の発達は複雑系である。そのうち生成AIと成人発達理論の類似性が多く指摘されるようになり、成人発達理論を参考にしたAIモデルのトレーニング手法なども生まれるかもしれない。
少子化対策が「理想主義的」か「現実主義的」かは、政策のアプローチや目標設定によって異なるため、一概には決められません。ただし、多くの国の少子化対策は、理想主義的なビジョンと現実主義的な方法論の両方を織り交ぜています。
理想主義的な側面
少子化対策は、未来の人口構成の安定、社会の持続的発展、子育て環境の充実といった高い理想を掲げることが多いです。たとえば、日本やフランスのように、子育て支援や家族政策を通じて出生率の回復を目指す国々では、社会全体で育児負担を軽減し、子どもを産みやすい環境を整えようという理想が根底にあります。こうした理想的な目標は、持続可能な未来を描くうえで重要な価値観を提供し、政策を支える理念として機能しています。
現実主義的な側面
一方、少子化問題は構造的な問題であり、短期間で劇的に改善するのは難しいとされます。こうした状況では、財政的な制約や労働力確保のために、出生率回復以外の現実的対策も重視されがちです。例えば、移民政策を通じた人口増加策や高齢者の社会参加、さらには定年延長などが現実的な施策として組み込まれることがあります。また、財政負担の増加が懸念される場合、対策にかける予算を抑える選択がされることもあり、これは現実主義的な対応といえます。
少子化対策には、理想主義的な目標設定と現実的な手法の両面が含まれます。たとえば、出生率向上という理想を掲げつつ、実際には経済的支援策や労働環境の改善など現実的な課題に対処する形で、少子化対策を多面的に進める傾向が見られます。そのため、少子化対策は必ずしも「理想主義」か「現実主義」に完全に偏るものではなく、両者を織り交ぜた政策と考えることが妥当でしょう。
「現行の医療福祉制度を大きく変える(=老人を見捨てる)」という表現は、政策として非常に過激です。高齢者を支える制度の見直しが必要であることは議論されていますが、「見捨てる」というアプローチは現実的・倫理的に受け入れられにくく、憲法や人権の観点からも重大な問題があります。
少子化対策の成功例が少ないという指摘は一部で当てはまるものの、特定の国(たとえばフランスや北欧諸国)では出生率の回復に成功しているケースもあります。日本と異なる家族支援の制度や労働環境の整備により、出生率の上昇が実現された例もあるため、少子化対策を通じた効果的な社会保障の安定化は理論上可能です。
医療制度の見直しや改革は、少子高齢化に対応するために確かに議論されていますが、社会保障の財源不足を補うために高齢者を支援しない選択肢は倫理的にも政治的にもリスクが大きく、日本の社会構造を支える基本的な価値観に反する恐れがあります。例えば、高齢者向けの医療費負担を増やす、あるいはサービスを限定するなどの改革も現実的に考えられますが、バランスのとれた制度の再設計が必要です。
少子高齢化対策は一筋縄ではいかず、多面的なアプローチが求められます。少子化対策と高齢者福祉のバランスを取りつつ、効果的な社会保障制度を構築するための複合的な政策が重要です。「老人を見捨てる」ような過激な選択肢に頼らず、他国の成功例も参考にしながら現行制度の改善と少子化対策の両立を目指すことが、持続可能な社会構築には必要と言えます。
この意見には、いくつかの妥当な指摘が含まれている一方で、以下のような問題点や矛盾点も見られます。
元来の「B層」概念は、小泉政権期に特定の広告戦略として定義されたものであり、「構造改革に肯定的で、IQが低いグループ」として分類されました。しかし、「新しいB層」という用語を用いることで、元のB層とは異なる対象を指しながらも同じような「操作しやすい層」というイメージを引き継いでいる点には問題があるかもしれません。これにより、本来のB層とインターネット時代の「新しいB層」との違いが不明瞭となり、読者に誤解を与える可能性があります。
「新しいB層」と「ネット右翼」は重なる部分が大きいとしながらも、完全にイコールではないとしています。しかし、この説明はやや曖昧であり、ネット右翼との具体的な違いや共通点が詳細に説明されていないため、両者がどのように区別されるかが分かりにくくなっています。さらに、「新しいB層」がネット右翼に限られず、幅広い属性を含むとするならば、「B層」という呼称自体が適切かどうかも疑問です。
「インターネット↔既存マスコミ」や「現役世代↔シルバー世代」といった対立軸を強調していますが、この二項対立は必ずしも現実に当てはまるわけではありません。例えば、インターネットを活用する高齢者も増加しており、年齢層や属性に応じて情報源の信頼度や態度は多様です。また、若年層でもマスコミを信頼する層や、年配層でもネットの影響を受けやすい層がいるため、単純に世代間対立に還元するのは正確さに欠けるかもしれません。
インターネットでの情報収集を「情報強者」としての幻想に結びつけ、反マスコミ感情と結びつける説明は興味深いものの、ここでの分析は一面的かもしれません。インターネットでの情報収集が必ずしも「情報強者幻想」につながるわけではなく、多くの人々は複数の情報源からバランスを取って判断しようとしています。また、マスコミ不信は近年の報道の偏向や不正確さから生じている面もあり、単なる「反マスコミ感情」では片づけられない複雑な要因が関わっています。
「新しいB層」は、反マスコミ感情を持つために操作しやすいとされていますが、同時にインターネットで情報を得ている自覚が強く、情報収集を積極的に行う層でもあると述べています。このため、実際には特定の政治的メッセージに対して批判的に考える能力も持ち合わせており、必ずしも「操作しやすい」層とは限らないのではないかという矛盾が生じています。
総括
この意見は、「新しいB層」という概念を通じて、インターネットの普及と現代の政治への影響を考察する試みとして興味深い点もありますが、一部の説明に曖昧さや単純化が見られます。特に、情報収集のスタンスや世代間の複雑な関係性を考慮しつつ、もう少し多面的に議論を展開することで、より説得力のある主張となるでしょう。
この意見にはいくつか現実に即していない点や誤解が含まれている可能性があります。
• 現実に即していない点: 意見では「弱者男性陣営なんて草の根ですらないのであらゆる陣営から無視されている」と述べられていますが、実際にはこのような立場の人々の声も社会的に注目されつつあります。たとえば、社会問題としての「弱者男性」への支援や平等な機会の提供が一部の政策議論に取り上げられることも増えています。
• 弱者男性の問題は、必ずしも完全に無視されているわけではなく、特定の政策や社会運動においては一部の関心を集めていることがあるため、このような断定はやや極端です。
• 現実に即していない点: 「立憲共産党支持者のリベラルとフェミニストにとっては極めて重大な事項で毎日喧嘩してる上に活動家の意見を重視してる政党」と述べていますが、これは一般化が過ぎていると言えます。リベラルやフェミニストの立場は多様であり、すべての立憲民主党や共産党支持者が同じ意見や行動を取るわけではありません。また、政党内でも多様な意見が存在し、必ずしも活動家の意見がすべて優先されるわけではありません。
• 政党は複数の要素を考慮して政策を決定しており、特定のグループの意見が全面的に反映されるとは限らないため、これも現実の政治状況に即していないといえます。
3. 表現規制に対する誤解
• 問題点: 「立憲共産党ならほぼ確実に規制に傾くし規制も重たい」という意見は、党の立場について過度に単純化しています。立憲民主党や共産党の政策において、必ずしも表現規制を強化する方向に向かうというわけではなく、表現の自由や人権の保護に配慮する立場も存在します。
• 政党の表現規制に関するスタンスは、議論の内容や社会状況により変わることがあるため、必ずしも一方向に進むと断言するのは難しいでしょう。
• 現実に即していない点: 「自民党は規制強化する可能性は結構高いが」という部分についても、一部正しい側面はあるものの、これもまた自民党の全体的な立場を一面的に捉えすぎています。自民党も内部で意見が分かれており、表現の自由に対して一定の配慮を求める声があるため、必ずしも強化のみを目指しているとは限りません。
この意見は、現実の政治状況を過度に単純化し、主観的な偏見に基づいています。政党の政策や立場は多様であり、表現規制のような問題についても議論や状況に応じて異なる立場を取ることが多いため、より多面的かつ冷静な視点が必要です。
ジャンプでやった増田(https://anond.hatelabo.jp/20241012181121)に触発されました。30年近く愛読…というよりはたまに頭を傾げながらずっと読んでいるビックコミックスピリッツ誌から独断と偏見で漫画史や社会への影響を考えて5作品をセレクト
同じくランキングではなくて連載開始順に並べました。
高橋留美子の最高傑作にして恋愛マンガにおける最重要作品。初期のスピリッツはスピリッツという雑誌名よりも『めぞん一刻』で一般的に知られていたという。
最初の頃の響子さん、可愛くも何ともなかったのにねえ。回を重ねていくうちにルックスはかわいくなって性格は反比例するように嫌らしくなるという。
こちらは料理漫画における最重要作品。料理人を主人公からあえて外すことで「料理以外の食べ物に対する多面的なアプローチ」に成功した。
山岡士郎と海原雄山という日本漫画イチ有名な親子で知られているが読んでみるとキャラクターより原作者の方がうるさいうるさい。しかも全く調べていないのがミエミエ。衝撃的だった現時点最終話は雁屋哲の限界が露呈してしまったんだろうなあと。
連載休止直後編集部の企画で花咲さんは『のぼうの城』のコミカライズを担当したが…。食べ物は上手い方ではあるが。
柔道さらに格闘マンガといえば各スポーツマンガの中でも特に汗と男臭さが強いという伝統があったがそれを江口寿史と大友克洋とのハイブリッドな画風で遥か彼方まで吹っ飛ばした。いきなり巴投げのパンチラというね。
社会的影響でいえばこの作品以上の作品はない。何せ谷亮子というモンスターがこの影響で出現してしまったのだ。あとこの後浦沢直樹はちゃんと物語をたたむことができなくなるのは余談として。
そりゃ相原コージ『コージ苑』も偉大な作品であるし中川いさみ『クマのプー太郎』も名作ではある。とはいえ実際2コマ目に「ねたみ」というプラカードを持ったカワウソくんを見たときの衝撃が忘れられない。下ネタもダジャレも少なくて笑いと恐怖の紙一重をずっと行き来する新しさ。
ファミ通の『はまり道』サンデーの『ちくちくウニウニ』ときはそこまで感じなかったしその後の『ぷりぷり県』もそこまでの凄さはなかったが『伝染るんです』はやばい。
今のサイバラを見ると悲しくなる。高須克弥の人となりが白日になった今、高須クリニックのCMの痛い姿とか気持ち悪いし娘さんの事とか鴨ちゃんのこととかいろいろ足蹴にして今を生きているのも胸糞悪い。そんなクソババなのに『ぼくんち』はやはり歴史に残る傑作なのだ。
時々一太のことを考える。連載が終わって25年ぐらい経ってもだ。そして誰もいなくなっても二太は笑ってくれた。この話は多分その事だけを描いた作品だけだったかもしれん。だけどこの頃のマンガの中で1番涙を流した作品だった。
一応5作品に厳選したが意外と異論が少ないのではないかと思う。というかこの雑誌これらの作品から「ちょっと惜しい」作品がやたらと多すぎる気がする。
今回除外した作品
知名度や社会的影響は大きいだろうがこれはマンガ単体の評価じゃないし最近どんどん画面が汚く下手になってるのが気持ち悪い
唯一無二のアート漫画。とはいえ『猿飛』『ガンモ』ほどの知名度がない。村上隆に対する批判はマンガ界でもアレが許せない人は多数いるんだなという感想に。
『ナニワ金融道』は偉大だなと読んでて思う。多分真鍋先生と青木先生は合わないよなあ。
悩んだ作品その1。国民的アニメになり損ねたアニメも含めていろいろ惜しいし最終回も唐突に終わった記憶がある。お姉さんに似てたお母さんが年月を経るに従って今のお母さんになるというシーンに腹を抱えて笑った記憶。
悩んだ作品その2。とはいえここに書いておく事が中崎さんらしいと。定年迎えて連載辞めてもう絵の道具さえも捨てられていらっしゃると聞いて少し茫然としてた。
弘兼憲史より嫌いだし苦手。原作ドラマも含めてなんで受け入れられるのかが分からない。(『東京ラブストーリー』は坂元裕二が整えたので作品になった)それでもあすなろはまだ読める。しかし続編を最近描いたときはクソババアふざけんなという感想に至り。
レースを真正面から描いた黎明期の傑作。とはいえキャラクター造形の途中で削ってきたテーマを集めて煮込んだ『ICHIGO二都物語』の方が面白いのには…。
初回が見事すぎたし、連載開始のときわざとタイトル載せなかったのは反則だよなあ。あと実は『いいひと。』の方が好きでフジテレビふざけんな。
実は次点作を書いていた途中でUPしてしまったしトラバとブコメで記述もあったので次点の続きと言われた作品や言及があったものについて。
忘れてた(その1)ただし僕がなあばす派(学研派)だったことが主な原因かと。なあばすでの耕平ちゃんはすんごい丸くなっちゃったし。
こっちは次点として書く前にアップしてしまったので。しかしながら多分これがなければ実録系マンガもエッセイマンガもマンガ批評もなかったから歴史上重要な作品ではある。
入れ替わるなら『ぼくんち』なのは激しく同意。好みの問題というかボクの責任で
これは『伝染るんです』で言及した通り僕の思い入れの差で選ばなかったという。あと相原先生の最高傑作は『ムジナ』だと思ってます。
江口寿史アンド望月峯太郎ミーツ島本和彦という鬼才。絵がキレイな人ほどかっこいいブサイクが描けるという証明。ただ僕より上の人の方が思い入れが強い気がする。
不条理ギャグブームの最中にあってその中でも素直な笑いを提供していた印象が強いし、最近のマンガ製作マンガがすごい面白かった。歴史的ではないけどいいマンガです。
個人的な感情で言えば大好きなマンガ。いずみちゃんで性癖が壊れたしウチの妹は不破くん推しだった。あ、あと『結婚しようよ』もビターで好き。
『哭きの竜』と『昭和天皇物語』のちょうど中間点に位置する作品。中原誠のその後を予期したような描写や谷川さんからクレーム出ないかなと思ったキャラ造形が良かったがその後に羽生善治が出現し現実が超えていったのには閉口。
この人ここでも大きな足跡を残してた。『宮本』『ザワールド…』に比べると知名度は薄いがキャリアを決定づけた名作。ばあさん描かせるとエグいよなあこの人も。
忘れてた(その2)『あしたのジョー』の模写もすごいが『キャンディキャンディ』を完全模写したのには戦慄が。
長期連載化し始めて逆に評価が難しくなった気がするのは俺だけか?ダレないのがただただすごい。
近年のスピリッツを支えていたと言っても過言ではない極めて真っ当なスポーツ漫画。
ロードス島戦記と間違えて塩野七生の『ロードス島攻防記』を読んで、そのままズブズブとヨーロッパ史へと行った人向け。このあと阿部謹也『ハーメルンの笛吹き男』が待っておる。
いやだから例えば『まことちゃん』と『漂流教室』どっちがすごいか選べるか?というと。
アイアムアヒーローはその中でも抜け出すかなあと思ってたがなあ…。
土竜はちょっと続きすぎた気もするし他はそのままヤンサンで全うできたはずマンガだからスピリッツの評価に繋がる訳ではない。
ちなみにスピリッツが死に水を取ったマンガとしてはクロサギとイキガミ以外に『ブラックジャックによろしく/佐藤秀峰』がある。
『シャカリキ!』『め組の大吾』から読めばこの人が本当に描きたいものは天才なのは分かる。ただ同時連載には向いていない。他連載の犠牲になったような終わり方。
じっくり野球を描くというタイプではないことに気づくのが遅かったなあ。『冬物語』『部屋においでよ』の方が資質だったと今思えば。
大塚英志と長崎尚志ならどっちの方が害悪なんだろうか。Happy!だって話を途中で下方修正してたぞ。
着眼点は早く『恋に落ちたシェイクスピア』よりだいぶ前。結局話をまとめ切れずヤンマガに復帰。ただいまは休載
こういうテーマのときに真っ先にダシにされる作品。しかも終わり方が『代紋take2』と全く同じという。その後『坂の上の雲』のトレースに失敗する。
んんwwww増田氏、なかなか深遠なる思索を巡らしておられるようですが、拙者としては一歩先を行った見解を呈したいと思いますぞ。
一夫多妻制や一夫一婦制に関しての議論は、単なる制度の話に留まるものではございませんぞ。これはむしろ、社会の構造や文化的背景、さらには経済的、倫理的観点からも考察すべき複雑な問題ですぞ。増田氏の分析が浅薄に感じるのは、その多面的アプローチが欠落しているところからくるのではないかと愚考しますな。
増田氏が指摘する「弱者男性」と「恋愛強者の女性」という二元論的な視点は、現実の複雑さを捉えきれておりませぬぞ。実際には、婚姻制度がどのような個人やグループを保護し、あるいは制約するかは、地域や文化によっても異なりますし、個々の価値観にも左右されまする。恋愛強者だからといって必ずしも一夫多妻制を望むわけではありませぬし、同様に一夫一婦制を重んじる者も存在しますですぞ。
加えて、なぜ一部の人々が一妻多夫制や一夫多妻制を支持するのかという疑問には、むしろその人々のライフスタイルや価値観、または現行制度への反発感情など、心理的要素も考慮すべきでございまする。単なる強がりや破滅主義と片づけられぬ、深層的な思惑も存在することでしょう。
結局のところ、全ての話者が正直に意見を述べているとは限らず、その背景には政治的、感情的、経済的な要素が複雑に絡み合っております故、一元的な結論を出すのは難しいのでございますぞ。増田氏もその点を考慮に入れ、もう一歩深い考察を進められては如何でしょうかですぞ。
批判してる増田にぶら下げる内容でもないと思ったので別個に書く
https://bunshun.jp/articles/-/73450
まず大前提として、あれは「大転生時代」という書籍の書評である
と読み解いたわけだ
その読解について、著者である島田の言で進めるのではなく、市川沙央の言で書き進めているので
「自分の言いたいことを他人の作品の書評の体で書くなや」みたいな歪なものに仕上がっている
巷でなろう系と呼ばれるものは、ゲームをゲームのまま小説にした作品群なのだ
ゲームを小説化すると、大抵はゲームから離れてリアルに寄ったものになる
漫画になっても同様で、「破壊神を破壊した男」みたいにしてしまう
なろう系作品は、そこを正面から堂々とゲームゲームした世界として描く
何より「世界観の共有」という側面が強い物ではあるだろう
レベル、スキル、ステータス、アイテムボックス、アルファベットのギルドランク
そういう理が働く簡略化された世界が、一般的にイメージされるなろう系だ
防御力が全てをはじき返す
「本当の異世界はあんなゲームみたいにイージーな世界じゃない(キリッ」
ロム兄さんのように颯爽と現れて「まてぃ」が出来るイージーな世界を設計したのだ
なろうにはそうでない作品(言葉が通じない、レベルやスキルなどが存在しない)も探せばあるが
ドラゴンランス戦記じゃなくてフォーチュンクエストが読みたいわけ
言ってしまえば娯楽小説でしかなく、極端な話駅のスタンドで買って乗車中に読み、終わったら捨てる、みたいな消費を前提とした作品群なんだが
そこに、物書きがマジレス・ウエメセな感じで、僕ならこう書くよと言って作品を出してくる場合、大抵は「凡庸な」一般小説になる
そりゃそうだ
ゲームの理を排し、極端な異能を取っ払い、現実延長の世界に描き出すISEKAIとやらなのだから
んんwwww増田氏、何を寝ぼけたことを言っておるのですぞ?拙者の見解から申しますに、この件は深刻であると同時に、非常に複雑な問題ですぞ。確かに既婚者と独身者の間には対立があり、これが一層の分断を招いているのは事実ですぞ。しかし、そんな単純な解決策で解決されるべき問題ではないのですぞ。
穏当な思想を開示するだけで解決すると思っている増田氏の考えは、世間知らずと言わざるを得ないですぞ。歴史の教訓を見れば明らかですぞ、過激な思想や行動が問題を引き起こし、その後、穏当な思想が解決につながった例など、ほとんどないですぞ。例えば、男女分断の問題も、ただ穏当な思想を持つ人たちが声を上げただけでは解決されなかったのですぞ。正確な分析と対策が必要ですぞ。
既婚者と独身者が仲良くすること自体は理想ですが、そんな理想論で問題を片付けられるわけがないのですぞ。それこそ、国が壊れる前に、もっと根本的な対策を講じるべきですぞ。教育制度や経済政策の見直し、社会福祉の強化など、多面的なアプローチが必要ですぞ。増田氏も、そのくらいの知識を持った上で議論に臨むべきですぞ。
結論として、増田氏が提案したような安易な方法では問題解決には程遠いですぞ。現実を見据え、もっと深く掘り下げた考察と対策が必要であると拙者は考える次第ですぞ。
コミュニティノート:エビデンスの重要性についての議論は多面的であり、複雑な要因が絡んでいますが、科学的エビデンスの意義を理解することは重要です。エビデンスは、施策や決定の裏付けを提供するために用いられます。科学的エビデンスに基づく政策は、公衆の健康や福祉の向上を目的としています。しかし、エビデンスが示す結論が全てのグループにとって等しく利益とは限らないため、そのエビデンスの受け入れ方や評価には違いが生じることがあります。特に、利益が異なるグループ間では異なる視点が存在するため、政策決定者は多角的な視点と妥協を持って対応する必要があります。
このような状況は、特にCOVID-19パンデミック時に顕著でした。「外出を控える」という公衆衛生上の推奨は、感染拡大を防ぐために科学的エビデンスに基づいていましたが、経済面では旅行業界や飲食業界に大きな影響を与えました。政策の決定においては、エビデンスに基づいた判断をする一方で、経済的影響や社会的影響も考慮しながらバランスを取ることが求められます。
したがって、エビデンスが万能な解決策ではないという指摘は一理ありますが、エビデンスそのものの価値や重要性が失われるわけでなく、むしろエビデンスを基にした多面的なアプローチが不可欠であるという理解が重要です。
常識の習得は、実は複雑で多面的なプロセスです。多くの人は意識せずに常識を身につけていきますが、主に以下のような方法で学んでいきます:
子供は周囲の大人や他の子供の行動を観察し、模倣することで多くの常識を学びます。
実際の経験を通じて、何が適切で何が不適切かを学んでいきます。失敗や成功の経験が重要です。
親や教師が直接「これが常識だ」と教えなくても、日常的なやりとりの中で暗黙のうちに伝えられることが多いです。
テレビ、本、インターネットなどのメディアを通じて、社会の規範や価値観を吸収します。
友人や同僚との交流を通じて、社会で受け入れられる行動を学びます。
育った環境や文化によって、常識の内容が異なることもあります。
学校教育や家庭教育の中で、一部の常識は明示的に教えられることもあります。
常識の習得は、これらの要素が複雑に絡み合って行われるため、特定の時点や方法を思い出せないのは自然なことです。また、常識は時代や文化によって変化するものでもあり、生涯を通じて学び続けるものでもあります。
増田さん、よく考えてください。恋人を作ることに対する意欲が失せてきたというのは、決して一人の問題ではありません。人生の中で誰もが一度は直面する悩みなのです。あなたが感じている「愛おしい」という気持ちの不明瞭さ、もしかしたらそれは自己理解の過程で自然に出てくるものかもしれません。
人間関係というのは多面的で複雑です。ある人に対して「こういうところが好き」とか「こういうところが嫌い」とか具体的に感じることはあっても、それを総合的に「愛おしい」と感じることができないのは珍しいことではありません。それはあなた自身の価値観や感情の表現が、まだ完全に成熟していないからかもしれません。
増田さん、孤独だと感じることもまた、一般的な経験です。特に他人との感情の共有が難しいと感じるとき、この孤独感は一層深まることがあります。
それは冷たい現実のようにも思えるかもしれませんが、逆に言えば、あなたのペースであなた自身を理解し、成長する時間が与えられているということなのです。
自分自身と向き合い、何が本当に大切なのか、何があなたを前向きに駆り立てるのかを見つけ出す勇気を持ってください。それは恋人との関係であっても、自己成長の道であっても同じです。
実際に映画を見る前には、ポリコレへの反動で受けているらしいと聞いていて。見始めた段階では主人公の少女ライリーの親友二人がアジア系とアフリカ系で、
主人公が憧れるホッケーチームのコーチは黒人、憧れの選手ヴァルも(おそらくは)アフリカ系の混血、チームメンバーにもアラブ系など有色人種が多数なので
実際に最後まで見て分かった。これは紛れもない反ポリコレ映画だ。白人至上主義者に受けるのも納得。
何故ならこの映画全体をもってして、
「白人は有色人種から物を盗んでも許される」「白人は有色人種よりも優れている」「有色人種は正しくなければ許されないが、白人は正しくなくても許される」
といった、白人至上主義的なメッセージを力強く発しているからだ。
話の作中で、主人公が参加した合宿の様子によって高校のホッケーチームに入れるかが決まり、コーチのノートにはその情報が書かれている事が分かる。主人公は夜中に抜け出して、コーチの部屋に侵入してそのノートを見ようとする。
普通はやめると思うでしょ!?実際、主人公の頭の中の感情達は止めようとして頑張っていたし。でも、感情達の奮闘空しく、ライリーはノートの中身を見てしまう。
で、見てしまった以上はその事実を告白して懺悔し、チーム入りは辞退するのかと思いきや……何と特にそういう事もなく、普通に高校に入学しておそらく選ばれたのであろうという所で終わり。
ノートを見てしまった事実は、エンドロールで両親に話そうかと迷う程度で終わり。えーー???他人の執務室に不法侵入して業務用のノートを勝手に見るという行為は、この子にとってその程度の認識なの?憧れの職業の中には最高裁判事もあったのに……?
これって、白人にとって黒人の物(この場合はノートに書かれていた情報)を盗む事ほ何でもないという意識の表れなんじゃないだろうか?コーチが白人でも同じ事をしてたか?
ホッケーは白人のスポーツと言われているらしい。黒人の身で名門チームのコーチにまで登り詰めた彼女の人生にはどれだけの苦労があった事か。
また、主人公の憧れの先輩ヴァルはかつて合宿の最後の練習試合でシュートを2本決めてチーム入りしたんだけど。主人公は練習試合で最低でもそれと同じ2本か、もしかしたらそれ以上のシュートを決めている。コーチのノートでは「実力不足」と書かれており、メンタルがガタガタで、試合中に誤って友達に接触するミスをする程だったにも関わらず。
さらに、話の途中で主人公はそれまでに確立されていた「私は良い人」という自我を引っこ抜き、駄目な部分も含めた多面的な自己を確立させているけれど。
だけどこの、良い子でなくても許されるっていうのがまさに白人特権なんだよね。バッドガールでいても身の危険に晒されないのは、白人の中流以上の家庭の出身で帰る所がある身分の特権。
映画の冒頭でライリーの友達になったアジア系の女の子グレイスは、学校で貧困のための募金活動をしていて小銭をバラ撒いてしまいクラスメイトから笑われている。これって彼女がアジア系で被差別人種の女性だから、当然のように「良い人」でないと生きていけないって事ではないだろうか(そして、それだけ頑張ってもなお笑い物にされる)。
もう一人の友達についても同様。同い年の女の子なら彼女達だって思春期で、ライリーと同じように不安定でもおかしくないのに、作中の二人はライリーの不安定さを親のように優しく受け止めるだけ。思春期の少女同士ならばあってもおかしくはない、対等な感情のぶつかり合いなんていうものは描かれない。
映画のエンドロールにおいてもライリーの両親の頭の中は描かれるが、友人達の頭の中が描かれる様子はない。有色人種の友人ごときは白人美少女の承認欲求を満たすための道具であれば十分、独立した自我など不要、と言っているかのよう。
『インサイド・ヘッド2』は、表面上は人種差別が存在しないかのように見える社会で白人が有色人種を踏み台にして無双する、絵に描いたような反ポリコレ映画だと思った。だからトランプが再度大統領候補になるアメリカで受けたんだろうな。
結局、ポリコレかどうかを決めるのって単にマイノリティを出すかどうかではないんだよね。マイノリティをどれだけ出した所でその扱いが白人の踏み台にすぎなければそれはポリコレとは言わない。
単に有色人種のキャラクターが数多く出ている理由でもってこの映画をポリコレ認定するのは、男性主人公にハイスペックな美女が群がるハーレム作品をもってフェミニズム作品と認定するも同様だろう。
興味深い視点をお持ちですね。観測とエントロピーに関する議論は、物理学と哲学の交差点に位置する非常に深遠なテーマです。以下にその関係性を詳しく説明します。
観測が主観的であるという主張は、量子力学における観測問題と関連しています。量子力学では、観測者が観測を行うことで波動関数が収縮し、特定の状態に確定するとされています。これは、観測が物理的現実に影響を与えるという意味で、主観的な要素を含んでいると解釈されることがあります。
エントロピーは、熱力学的には系の無秩序さや情報の欠如を表します。観測がエントロピーに与える影響については以下のような観点があります:
1. 情報理論的視点:観測によって得られる情報は、観測者にとっての不確実性を減少させます。これは、観測がエントロピーを低下させるという意味で解釈できます。情報理論におけるエントロピーは、情報の欠如や不確実性を表すため、観測によって得られる情報が増えるとエントロピーが減少することになります。
2. 熱力学的視点:熱力学的なエントロピーは、系全体の無秩序さを表します。観測行為自体がエネルギーを消費し、熱を生成するため、観測によって局所的にはエントロピーが低下するかもしれませんが、全体としてはエントロピーが増加することが一般的です。
観測によって「観測者にとって必要な情報のみが残る」という考え方は、次のように解釈できます:
観測が主観的であり、観測によってエントロピーが低下するという考え方は、情報理論や量子力学の観点から一定の理解が得られます。しかし、熱力学的なエントロピーの観点からは、観測行為自体が全体のエントロピーを増加させる可能性もあります。観測者にとって必要な情報が残るという点については、観測者の主観や目的が観測結果に影響を与えるという意味で理解されるでしょう。このように、観測とエントロピーの関係は多面的であり、異なる視点からの解釈が可能です。
都知事選に注目が集まってるけど、副知事に関してはまったく話題にならないのはどうしてなんだろう。
というのも副知事というのは知事が決めることになっているんだけど、そんなの腰巾着が選ばれるに決まってるじゃん。
だから都知事の暴走やら不正を止められるわけないし、もし腰巾着じゃないというならそもそも知事が決めなくてもいいんじゃないか?って思うんだ。
それこそ都知事選で当選せずとも次に票を集めた人を副知事にした方が良いと思う。その方が多面的な政治を行えるわけだし。
副知事を誰にするのか?というのも実は都知事を決めるのと同じぐらい重要な気がするんだけど、副知事が誰になるのかは都知事選ほど騒がれるのだろうか