実際に映画を見る前には、ポリコレへの反動で受けているらしいと聞いていて。見始めた段階では主人公の少女ライリーの親友二人がアジア系とアフリカ系で、
主人公が憧れるホッケーチームのコーチは黒人、憧れの選手ヴァルも(おそらくは)アフリカ系の混血、チームメンバーにもアラブ系など有色人種が多数なので
実際に最後まで見て分かった。これは紛れもない反ポリコレ映画だ。白人至上主義者に受けるのも納得。
何故ならこの映画全体をもってして、
「白人は有色人種から物を盗んでも許される」「白人は有色人種よりも優れている」「有色人種は正しくなければ許されないが、白人は正しくなくても許される」
といった、白人至上主義的なメッセージを力強く発しているからだ。
話の作中で、主人公が参加した合宿の様子によって高校のホッケーチームに入れるかが決まり、コーチのノートにはその情報が書かれている事が分かる。主人公は夜中に抜け出して、コーチの部屋に侵入してそのノートを見ようとする。
普通はやめると思うでしょ!?実際、主人公の頭の中の感情達は止めようとして頑張っていたし。でも、感情達の奮闘空しく、ライリーはノートの中身を見てしまう。
で、見てしまった以上はその事実を告白して懺悔し、チーム入りは辞退するのかと思いきや……何と特にそういう事もなく、普通に高校に入学しておそらく選ばれたのであろうという所で終わり。
ノートを見てしまった事実は、エンドロールで両親に話そうかと迷う程度で終わり。えーー???他人の執務室に不法侵入して業務用のノートを勝手に見るという行為は、この子にとってその程度の認識なの?憧れの職業の中には最高裁判事もあったのに……?
これって、白人にとって黒人の物(この場合はノートに書かれていた情報)を盗む事ほ何でもないという意識の表れなんじゃないだろうか?コーチが白人でも同じ事をしてたか?
ホッケーは白人のスポーツと言われているらしい。黒人の身で名門チームのコーチにまで登り詰めた彼女の人生にはどれだけの苦労があった事か。
また、主人公の憧れの先輩ヴァルはかつて合宿の最後の練習試合でシュートを2本決めてチーム入りしたんだけど。主人公は練習試合で最低でもそれと同じ2本か、もしかしたらそれ以上のシュートを決めている。コーチのノートでは「実力不足」と書かれており、メンタルがガタガタで、試合中に誤って友達に接触するミスをする程だったにも関わらず。
さらに、話の途中で主人公はそれまでに確立されていた「私は良い人」という自我を引っこ抜き、駄目な部分も含めた多面的な自己を確立させているけれど。
だけどこの、良い子でなくても許されるっていうのがまさに白人特権なんだよね。バッドガールでいても身の危険に晒されないのは、白人の中流以上の家庭の出身で帰る所がある身分の特権。
映画の冒頭でライリーの友達になったアジア系の女の子グレイスは、学校で貧困のための募金活動をしていて小銭をバラ撒いてしまいクラスメイトから笑われている。これって彼女がアジア系で被差別人種の女性だから、当然のように「良い人」でないと生きていけないって事ではないだろうか(そして、それだけ頑張ってもなお笑い物にされる)。
もう一人の友達についても同様。同い年の女の子なら彼女達だって思春期で、ライリーと同じように不安定でもおかしくないのに、作中の二人はライリーの不安定さを親のように優しく受け止めるだけ。思春期の少女同士ならばあってもおかしくはない、対等な感情のぶつかり合いなんていうものは描かれない。
映画のエンドロールにおいてもライリーの両親の頭の中は描かれるが、友人達の頭の中が描かれる様子はない。有色人種の友人ごときは白人美少女の承認欲求を満たすための道具であれば十分、独立した自我など不要、と言っているかのよう。
『インサイド・ヘッド2』は、表面上は人種差別が存在しないかのように見える社会で白人が有色人種を踏み台にして無双する、絵に描いたような反ポリコレ映画だと思った。だからトランプが再度大統領候補になるアメリカで受けたんだろうな。
結局、ポリコレかどうかを決めるのって単にマイノリティを出すかどうかではないんだよね。マイノリティをどれだけ出した所でその扱いが白人の踏み台にすぎなければそれはポリコレとは言わない。
単に有色人種のキャラクターが数多く出ている理由でもってこの映画をポリコレ認定するのは、男性主人公にハイスペックな美女が群がるハーレム作品をもってフェミニズム作品と認定するも同様だろう。
増田のダメなところを教えてやる。 まず、増田の主張には矛盾が多い。映画を見る前に「ポリコレへの反動で受けている」と聞いていたのに、最初はそれが十分ポリコレだと感じたと書...