はてなキーワード: 前説とは
タイトル、ナントカ生放送を意識した結果、まるで数日前とかに初参加したかのような響きになってしまいましたが、何年間でのできごとです。(・∀・)
幼い頃から郊外に住んでいる自分は、ホームレスなんて全然身近な存在ではなく、
ダンボールで寝てる人、ビニールシートのおうちは、たまに親に連れられ都市部に出てきたときにだけ目にしていました。
親に見ちゃだめと言われて手を引かれるため、すました顔で通り過ぎるようにはしていましたが、心の中では興味津々、見ちゃだめなんて言われたらもうより関心が…
そして小学6年生になった私はある日、駅ビルでオムそばを買ったのですが(唐突)
それが思ったより口に合わなかったため半分くらいを残して駅のゴミ箱に捨てたということがありました。
すると…しばらくして知らないおばさんがゴミ箱を物色し始め、私のオムそばやその他の食べ物のゴミを持ち去ったのでした…
自分のきたない食べ残しを持って行かれた…それはそれは子供ながらにショックな出来事でした。
そんな物を食べないと暮らしていけない人がいるということへの実感も湧きましたが、正直、自分の食べ残しを人に食べられるという生理的な嫌悪感が大きかったです。
その感情を払拭するため、小学生の私が行ったことは、路上で寝ている人に、コンビニおにぎりを配るという妄想でした。小学生らしい意味不明さです。
それはもちろん妄想に留まり、私の第一次ホームレスへの関心期は終了したのですが、時を経て人生のモラトリアムに突入したとき、たまたまボランティア募集のビラに巡り合い、珍しい物見たさもあって
炊き出しに参加してみようと思い立ったのでした。
・NPO法人主催、週1で公園にて実施。(公園使用の許可は得ている。)
・200人前後の人が食べに来る。9割8分が男性で年配者が多い。(小学生の経済力ではコンビニおにぎりを行き渡らせるのは無理だったと改めて感じた。)
・若者は目立つため、列に並びにくいかも知れない。
・配るのはカレーライスと福神漬け。容器は使い捨てではない給食風のお皿。
・調理組と配膳組に分かれている。お昼に調理組が作ったカレーを、夜に配膳組が搬出して公園で盛る。(私はいつも後者。)
・食品に対しての衛生管理は頑張っている。三角巾、マスクに手袋の装備と消毒液が必ず準備されている。
・ホームレスがホームレスに見えない。ぼろぼろでロン毛の異臭を放つホームレスらしきホームレスというのはほんのひと握りで、小奇麗な服装をしているし、ひどい臭いもしない。
・主催者が「憲法第9条を守ろう」って背中に書いてあるジャンパーを着ている。(なんかいるよねそういう人たち。うん、たしかに憲法9条は大事だね。)
・ただのNPO法人の運営かと思ったらキリスト教の関係者がやっていた。キリスト教のNPO法人だった。しかし、聖職者と信仰者がボランティアをしている事実だけで、現場に宗教色は一切なし。
・ボランティアも残ったカレーが食べれる。炊き出しが終わったあとにボランティアのみんなで食べた。(ホームレスと同じ食器だったから本当はいやだtt…)
・立つ鳥跡を濁さず。公園を借り続けるためにも、現場のゴミ拾いには徹底している。
・てんやわんや。場所を借りる時間が定まっているのか、単に現場の人がせっかちなのか、準備から片付けまでがとても慌ただしい。(理由は今も不明。)
・行き当たりばったり。主催者による事前説明やミーティングなどの、本来組織が機能する上で執り行われるべきやりとりがされない。目が合った人同士などでの軽い自己紹介などはあれど、
全体的な挨拶などもないために誰がどういう立場でボランティアに参加しているのか判断できない。その日に何か変更がある場合は、配膳開始直前などの慌ただしい中で伝達され、
初心者は、わからない点どころか行う作業の一から十までを経験者に聞かなければならない。
不便だと思うのですが、何らかの意図があるのでしょうか。(問いかけ)
・並ぶのはホームレスだけじゃない。無料で洗濯や入浴できる施設や理容サービスが存在していて、これが小奇麗なホームレスのたち真相だが、列の中には普通に家のある生活保護や年金受給者も多い。
その結果、受給日前の月末にかけて列が長くなり、配膳数は1.2~1.5倍になる。
なぜ彼らはその取り分で生活できないかは謎である。アルコールやギャンブルに使い果たしてしまうのも一つの理由でしょうが、慎ましく生活していても足りていないのでしょうか。わかりません。
また、高齢者にとっての病院みたいに一つの社交場として実際そんなに困ってないのに遊びに来ている人もいるかと思われます。(笑)
・並ぶ人の中には、身体的、知的、精神的に問題ある人が多い。声をかけてもうまく意思疎通ができない人が多い。
・識字率が100%ではない。掲示物や配布されるお便りなどの全文がひらがな表記だったり全ての漢字にルビが打ってあったりする。
・空気的に身の上話は聞きにくい。彼らが今に至った経緯は貧困問題を理解する上で貴重な情報ですが現場が明るい雰囲気のために深刻な事情に踏み込むのは難しい。
・年配ゆえに少食な人がいる。わざわざ並んでたったそれだけでいいの、、、ってなる。
・ご飯をもらう側の人がボランティアを手伝ってくれる(笑)。多分本人が勝手にやってるんだけど並ぶ人の中にご飯を食べる傍ら車の荷物を運び出したりなど積極的に働かれる方がいます。
食器洗って返すまでが炊き出しで、食べ終わったお皿は公園の水道で汚れを落としてから返却します。カレー配りに専念していると、こういった周りの状況をすぐに知ることができませんでした。
・後始末の方法が汚い。
残飯処理や公園内の清掃時などに、若干ですが素手で汚物に触れなければならないタイミングがあります。触ったあとに手を消毒できるのであれば良いのですが、そのような環境は用意されていません。
いつもその作業を行っている方は気にしないのか効率を求めて割り切っているのかわかりませんが、私は基本違う作業に徹します。
・食品に対しての衛生管理は頑張っている。その2。一度でも外に運び出した食器類は、未使用でも全て洗う。
・年間の予算は約400万円。
・一番近くの路上生活者は並ばない。長く参加している間にだんだん常連さんなどの顔を覚えていくわけですが、なんとその中に、その公園周辺の路上に住まう方々の姿がないことに気づきました。スッテーン。
おうちを訪問してお話を聞くと、彼らは何らかの形で収入を得ており、「炊き出しや福祉のお世話にはならない」という強い自立心が養われているようでした。
中には安定した収入も貯金もあるにもかかわらず路上で生活している方も…。……。なぜ炊き出しを必要としない人ばかりがそこに集結しているのかはわかりませんが、いつも列に並ぶ人々は
みんな遠方からやって来ていたのでした。
・主催者がコミュ障…。主催者は、組織を束ねることができていることが驚きの器の持ち主。おそらくある一つの思想の下に人が集まってことが運ばれている。
・大半のボランティアが郊外出身。やはり同じ界隈に住んでいる都市部の人間は彼らの存在にうんざりしている模様。
・主催者が「脱原発」も掲げている。最初に憲法9条という言葉を見たときにいろいろ気づくべきでした。
・炊き出しに直接関係ないイベント…。主催者からフェミニズム的な会合へ半強制的に参加を求められる。ターゲットにされています。私が社会人ではないため、暇だと思われてるんでしょうか。
・無償の労働に対して直接感謝や労いの言葉は貰えない。例えば幼稚園、病院なんかへのボランティアではそこにいる方々から何かお言葉が頂けたりするが、
この現場ではそれがほとんどないと言える。周りの大人もみんなボランティアの括りで参加しているため、みんなが同じ立場であるからでしょうか。
並ぶ人たちにはそんな気配りはないし(笑)、もしかしたらお金をもらってやっていると思われているかもしれない。
そのためやり甲斐はその場では見つからないかもしれない。震災被災地でのボランティアも一部はそんな感じみたいですね。
「気持ち」というささやかな見返りすら求められない究極のボランティアである。
・カレーをもとめて数…里。食べ物を求めてすごく遠くから来たという方がいらっしゃいました。ずっと歩いていたため、真冬にもかかわらず全く寒さを感じないと言っていた。
・育たない自立心。「ただボタンを押すだけ」のような単純な操作をお願いされることがあり、たとえ押し方やどのボタンを押せばいいかを伝えても学習しようとしない。
彼らの場合、決して能力がないわけではないと思われるが…これが炊き出しには並ばない意識高い(笑)ホームレスとの違いでもあるのかなと思ったりする。
最終的にこの組織への参加によって私が学んだこと、それは、
共〇的思想の本質でしたwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
はい、まず日本での炊き出しというシステムが主に人権第一の共〇主義の思想から成り立っていることがわかりました!
何せ、こういった主義主張の下に生きている人々との出会いは初めてで、彼らもそれを強く表に出すわけではないので気づくのにとても時間がかかりました。
そして、調べてみると私の住んでいる地域では他にも様々な団体が炊き出しを行っているのですが、ほとんどの団体が、キリスト教系およびそっち系のいずれか、または両者でした。
全国的にも、そのようですね。本当に無知でした。炊き出しというものが、そういった思想に基づいているとは…。
気づいたときにはもう、この現場に思い入れを抱いてしまっていたのでそれは割り切ることにしました。
それに、自分の中のいろんな考えを刺激してくれた良いものであったとも思います。それがどんなものであったかは割愛します。
私はこれからも資本主義の残酷な点を見直しつつも、天皇陛下を敬うし、今の日本に期待したいものです。
以上、笑えない冗談でした。
そもそも、炊き出しですが、お腹が空いて死にそうな時に駆け込んだり、無職の間に炊き出しで食いつないその期間に新しい道に歩み始めてもらったりなど
短期的な支援として行っているものとしていますが、もう何十年も来ているという人が多かったりで、なんなのよってなります。ヽ(・∀・)ノ
でも彼ら、精神的、身体的、知的な問題、年の取りすぎなんかにより、社会復帰が絶望的という事情があったりで、生活保護受けていたり、福祉の世話になりたくないプライドがあったり、
単純に外が好きだったり、いろいろな人がいますがいますがそんな人たちみんなひっくるめて、彼らはこの世がこういう世であるために発生した社会不適合者であると考えることもできます。
(※思想的にではなく、社会学的に基づいた考えです( ;∀;))
あと人間にはどんなに努力しても元々素質がなければ困難なことがあると思いますが、彼らの場合、この世を渡り歩くための素質を持たない、もしくは失ったのだと見ることもできます。
そのような目線でいくと、彼らにとって炊き出しは、死ぬまで面倒をみてやろうというターミナルケアとしての機能も果たしていると言えます。
私が炊き出しに参加することに対して、「炊き出しの存在が路上生活者を生んでいるのでは?」と直球を飛ばされることもあります。
たしかに炊き出しの存在は、「働かなきゃごはんが食べれない」という人間の労働へのモチベーションが生まれる流れを遮っているかもしれません。
それに、収入のある人が炊き出しに頼ることで本来食費に充てるべきお金が遊興費に回されるなんていう現状もあるでしょう。
厚労省のホームレスの数は調査は今のところ減少傾向に見られます。http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r98520000027ptf.html(目視調査のため数字は不確実)
そして、現在の炊き出し来場者が200人前後と記しましたが、過去は今の2倍以上が通常であったとのことから、炊き出し来場者も同様に減少しているように伺えます。
やむを得ず路上生活する人々への支援という当初の目的の需要が減る中で、炊き出しというものが、一人歩きしてしまってる面があることは否めないと思います、、、
しかし私個人としては、食事は誰もが必要とすることであり、古代だったらそのへんの植物生物で食いつなげたろうけど現代人はそんなの食べれる免疫持ってない
っていうか今はそんな時代でもないし、ということで、
お腹が空いた時に誰でも無料でご飯が食べれるサービスがあっても良いんじゃないでしょうか
というシンプルな結論に落ち着きたいです。
恥の多い生涯を送って来ました。
自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。自分は東北の田舎に生れましたので、汽車をはじめて見たのは、よほど大きくなってからでした。自分は停車場のブリッジを、上って、降りて、そうしてそれが線路をまたぎ越えるために造られたものだという事には全然気づかず、ただそれは停車場の構内を外国の遊戯場みたいに、複雑に楽しく、ハイカラにするためにのみ、設備せられてあるものだとばかり思っていました。しかも、かなり永い間そう思っていたのです。ブリッジの上ったり降りたりは、自分にはむしろ、ずいぶん垢抜あかぬけのした遊戯で、それは鉄道のサーヴィスの中でも、最も気のきいたサーヴィスの一つだと思っていたのですが、のちにそれはただ旅客が線路をまたぎ越えるための頗る実利的な階段に過ぎないのを発見して、にわかに興が覚めました。(青空文庫)
自分は東北の田舎に生れましたので、ドコモショップをはじめて見た時に
ウィルコムじゃない携帯電話屋さんがあることに衝撃を受けました。
抱き合わせでYahooのADSLが売られていない、そんな馬鹿な。
大人の階段だとばかり思っていたのです。大人の階段を登って降りたら、
登って下った先にはアナザーワールドがあるとばかり思っていました。
もしくは、天国への階段だと考えていたのです。
ツェッペリンの音楽はわたしを飛行船へと誘ってくれないのです。
ギターのサウンドは天国まで登る煙のように幻想でしかありませんでした。
ギターソロの上ったり降りたりは、自分にはむしろ、ずいぶんと気の利いた反復運動に思え、それは世の中ののトラヴィスの曲の中でもでも、最も気のきいたチューニングギターの扱い方だと思っていたのです。
のちにギターソロはただギタリストの為のオナニー行為でしかないと気づいて、、
にわかに興が覚めました。
一葉は、その男の、幼年時代、とでも言うべきであろうか、十歳前後かと推定される頃の写真であって、その子供が大勢の女のひとに取りかこまれ、(それは、その子供の姉たち、妹たち、それから、従姉妹いとこたちかと想像される)庭園の池のほとりに、荒い縞の袴はかまをはいて立ち、首を三十度ほど左に傾け、醜く笑っている写真である。醜く? けれども、鈍い人たち(つまり、美醜などに関心を持たぬ人たち)は、面白くも何とも無いような顔をして、
といい加減なお世辞を言っても、まんざら空からお世辞に聞えないくらいの、謂いわば通俗の「可愛らしさ」みたいな影もその子供の笑顔に無いわけではないのだが、しかし、いささかでも、美醜に就いての訓練を経て来たひとなら、ひとめ見てすぐ、
「なんて、いやな子供だ」
と頗すこぶる不快そうに呟つぶやき、毛虫でも払いのける時のような手つきで、その写真をほうり投げるかも知れない。(青空文庫)
私は、その男の写真を三度、見たことがある。ガンジーでも三度見するレベルだったからね。
一回目は、その男の、幼年時代、とでも言うべきであろうか、Facebookでタグつけされていて多分彼と推定される。
その子供が大勢の女のひとに取りかこまれ、(それは、その子供の姉たち、妹たち、一つ飛ばして、ドドリアさん!!(フリーザ山本)と想像される
グランド花月の舞台の袖に、荒いエビズジーンズをはいて立ち、首を三十度ほど左に傾け、ピサの斜塔のように斜めっている
けれども、鈍い人たち(つまり、芸人などに関心を持たぬ人たち)は、面白くも何とも無いような顔をして、
といい加減なお世辞を言っても、まんざら空(から)お世辞に聞えないくらいの、謂(い)わば
ドドリア感もその笑顔に無いわけではないのだが、しかし、いささかでも、
前説の訓練を経て来たひとなら、ひとめ見てすぐ、
1.本作の主題?
大々的に宣伝されていたこの作品の主題は「家族の絆」であった。「時をかける少女」「サマーウォーズ」で、揺れ動く思春期の心情を細やかに描き出してきた細田守監督が、特殊な事情の母子家庭の波瀾万丈を通して、母と子の結びつきを表現する王道の家族劇であろう、と私は予想していた。
しかし実際には、冒頭でおおかみおとこと主人公の花が「哲学」の講義をきっかけに出会うことに示されているように、家族それぞれの社会的承認やアイデンティティの確立といった「生き方」への問いかけが大きなウェイトを占めている。いずれ花と結ばれ父になるおおかみおとこは、人間社会にひっそりと適応しながら、大学にもぐりソクラテスの「無知の知」についての講釈に耳を傾けていた。彼自身の特殊性と人間社会との融和点、すなわち「自分は何者なのか」を彼はまだ知らない。もっともそれは花も同様である。彼らが「真に何者であるのか」が判明するのは、その後の人生の中で、主観的にも客観的にもそうだと考えられる地点に辿り着いた時である。
13年という長い月日を描く作品であるため、一時期に割ける時間は限られている。花は前半の少ない上映時間の中で、おとぎ話のようなおおかみおとことの恋と別離から、残された二人の子どもの育児という生々しい現実へと転がり進んでいくこととなる。わざわざアニメーションという媒体で母子家庭の奮闘記を描くのであれば、母子家庭の「リアリティ」をどれだけ表現できるかが生命線となる。そのためにも花は一刻も早くおとぎ話から抜け出す必要があった。
しかし出産も子育ても、半ばおとぎ話の状態からなかなか抜け出せずに進んでいく。その一つの要因として、花がすでに片親の父を亡くしている(母は離婚、別居済み)、という極めて日本のアニメ文化的な手軽で便利な設定の中にいたことにある。したがっておとぎ話のような恋の終わりと厳しい現実の到来を告げるはずの「親との葛藤」のシーンはない。東京に下宿させていた女子大生の娘が、フリーター(?)の狼に食われて子どもを作り大学を辞め、しかも(おおかみこどもであることを知られるわけにはいかないため)全く子どもに会わせようとしないなど、並の親なら勘当ものである。両親が既にいないにしても、親戚や最悪の場合行政施設の関係者などの後見人や身元引き受け人もいない、では未成年の大学生が家を借りるにも何をするにも無理が出てきてしまう。しかし花は劇中ではほとんど言及されることのない両親不在設定を免罪符に、自由におおかみおとこと結ばれ雪を出産し、一年後雨を生んだ後におおかみおとこと死別するまで、誰と葛藤することもなく擬似的な新婚生活を満喫するのである。しかも医者にもかからず独学で自然分娩を行い、子ども達も一度も医者には連れて行っていないなど、事情はわかるが少し無理のある状況が続く。リアリティのある家族を描くためには、例え核家族であったにせよリアリティのある一族が描けなければならない。そしてそのためには、リアリティのある社会が描けなければならない。しかし作品の土台となる花の周りの人々との繋がり(親族関係、社会関係)が抜け落ちた「おとぎ話」のまま、二人はほとんど社会から孤立して描かれている。
親族や後に移住する田舎社会の人々に、意を決しておおかみおとこの血を引くこどもたちの秘密を打ち明けていたなら、物語は一風変わった方向へ進んでいただろう(行政や医療組織に打ち明けていたなら、悲しい話になってしまうかもしれないが)。しかしこれは二者択一の選択である。おおかみこどもの秘密を守り通そうとするなら、一家は孤立するしかない。秘密を打ち明けてある範囲の人々を味方に引き込んでいたなら、出産、子育て環境のリアリティはある程度担保されるが、おおかみこどもを受け入れる周りの人々、というまたまた別種のおとぎ話的な絵が出来上がってしまう。この部分のリアリティを保つのは並大抵のことではない。本作は前者、おおかみの本性を隠し通すことで、雨と雪の存在のリアリティを保つ代わりに、一家を孤立させて社会生活との折り合いのリアリティを失うことを選んでいる。
3.本作の根底を貫く3つの近代的概念:①選択権としての自由観
社会から孤立した者を待ち受ける宿命は、社会からの排除である。雨と雪を隠し続け、医者も児童相談所も拒み続ける花は、居場所を失い田舎への引っ越しを決意する。この辺りから見え隠れし始め、映画のクライマックスで明らかになるのが、取捨選択の権利としての自由を尊ぶ近代的な自由観である。花が田舎へ引っ越した主な理由は、人目を避けるためでもあるが、雨と雪が「人間か、おおかみか、どちらでも選べるように」したいということが大きなウェイトを占めている。そして学校や田舎の人々に対して秘密を守りながら姉弟は大自然の中で育ち、おてんばの雪と引っ込み思案の雨という当初の関係性を逆転させ、最終的に雪は人間として、雨はおおかみとして生きていくことを決意する、と読み取れるあたりでこの作品は幕を閉じる。二人の姉弟が(そして母が)どのような生き方を「選ぶ」のか、というアイデンティティの「選択」が事実上の主題となってくるのである。つまり、二人のおおかみこどもは、人間として生きる事も、おおかみとして生きる事も可能であり、その選択権を自分自身で持っているという考え方が根底に存在している。こうした権利概念や自由観は、歴史の悲劇から人類がようやく辿り着いた価値ある理念ではあるが、問題が無いわけではない。
「おおかみであること」はファンタジーではあるが、現実の例えとして捉えることも可能である。元来日本語の慣用句でも「一匹狼」などのように「狼」は単に動物を指すだけではなく、社会の周縁に生きるしかないアウトサイダーを指す言葉でもある(押井守監督の『人狼』に描かれているように)。そこから暴力的な存在という意味合いを除外して考えれば、「おおかみであること」は何らかの理由から迫害され、多数派と融和できない少数派に「非自発的に」刻まれた「抑圧のスティグマ」である。先の近代的自由観に基づけば、我々はあらゆることを強制されず、自発的に選択する権利としての自由を何よりも大事なものとして持っているが、実は選択していないにもかかわらず押し付けられているものもたくさんある。我々は男性として、あるいは女性として生まれることを選んだ覚えはなく、この国、この家族の元に生まれることも選んではいない。選択の自由を行使する以前に、強制的に親や社会から色々なものをもらって今の私たちは存在している。こうした、我々が意図せずに所属しているアソシエーションから抜け出すことは、それが被抑圧的アソシエーションであればなおさら、多大な困難を伴う。
いわば「人間か、おおかみか」どちらかの生き方を選べ、というのは私に対して「日本人か、男性か」どちらかの生き方を選べと言うのに等しい。日本人であることも、男性であることも、やめること自体は可能であるが、多大な葛藤と苦労を伴うし、何より大半の日本人は日本人であることをやめたがっているわけではなく、大半の男性は男性であることをやめたがっているわけでもない。当然私は「日本人男性」として生きざるを得ないが、それを嫌がっているわけではない。「おおかみであること」は、私にとって「日本人であること」以上に雨と雪の二人のアイデンティティに深く絡み付いている。彼らは望んで「おおかみこども」として生まれたわけではなく、そして何より自己の不可分の半面としての「おおかみであること」を辞めることは不可能だからである。逆もまた然り。雨と雪にとっては、「人間であること」も捨てることはできない。したがって大多数の人間が、国籍や人種などの複数の非自発的アソシエーションに従属して生きざるを得ない以上に、彼らは「おおかみにんげん」としてしか生きられないはずである。人間としてだけ生きていてもおおかみの本能は満たされず、おおかみとしてだけ生きていても人間の知性は満たされない。一方を選択して他方を捨てることでは、幸福な真の自由は訪れない。というのも、私を含め大半の日本人男性が、日本人であることや男性であることを嫌がったりしておらず、むしろそれを誇りに思うことも時にはあるように、雨と雪も本心から「おおかみであること」あるいは「人間であること」を嫌い、やめたいと感じているわけではない。真相は逆である。雨と雪に限らず「抑圧のスティグマ」を持つ人間が求めているのは、それを捨て去ることではなく、周囲が抑圧的な処遇をやめ、そのスティグマが価値あるものとして社会的に承認されることである。黒人や女性は差別されるから黒人であること、女性であることをやめたがっているわけではない。彼、彼女らが求めているのは、差別をやめること、すなわち黒人であることや女性であることを誇らしく思えるような、他の人々と対等の処遇である。自分の非自発的なアイデンティティを差別や迫害を理由として捨て去ることは、雪がおおかみに変身することを必死に避けていたように、それ自身当人にとって新たな大きな抑圧となるだけであり、それを捨て去ることを強制することもまた、抑圧からの真の救済とはなりえない。
「人間であること」のみを選択した雪は、今後もおおかみの衝動に苦しめられ続けるだろう。「おおかみであること」のみを選択した雨は、おおかみとして生きるだけでは無力であり、人間から森を守ることはできないことにいずれ気がつくだろう。したがって雨も雪も、「人間であること」か「おおかみであること」のいずれかを選ぶ権利としての自由を持つ、のではなく、彼らはどこまでも「おおかみにんげん」として生きることを運命づけられている。そのため彼らを幸福な真の自由へと導くのは一面を捨て去る選択ではなく、両面を受け入れる承認、すなわち抑圧されることなくありのままの「おおかみにんげん」として生きていくことを人々、社会から認められることでなければならない。そしてその基点にして起点となるのは、二人の秘密を知る唯一の存在、母である花のはずだった。しかし雨と雪は選択権としての自由を行使し、「人間であること」、「おおかみであること」の一方を選んで他方を捨て去る。この彼らの選択は同時にもう一つの取捨選択となって現れている。それは、特に雨に顕著なように「個人」としての自己の生き方を選択する代償として、それまで所属していた「全体」としての家族を捨て去っていくことである。
取捨選択の権利としての自由観には、この近代的な自由観と表裏一体になって形成され、社会に受け入れられてきたある考え方が寄り添っている。取捨選択の権利としての自由は、何に帰属しているのかを考えればその考え方も見えてくる。「生き方」の選択の権利は、国家にあるのでも何らかの組織にあるのでも、両親にあるのでもない。近代的な自由は常に「個人」の手の内にある。「個人」は選択の権利を持ち、それを他者に妨害されない権利もまた持っている、というわけである。こうした個人観も尊重されるべき人類の英知だが、その発達によって我々人間は別の問題に現在直面している。「個人」の肥大化により、家族や社会等の共同体の絆を、そして古い慣習や信仰などに息づいていたいわゆる「大きな物語」や「宇宙的秩序」を破壊して、人類がただのバラバラの個人の寄せ集めになってしまう「アトミズム」に陥るという問題である。したがって家族という、人々の繋がりを描くべき物語の根底に、こうした個人観を置いてしまうと、家族は崩壊してしまう。雨は山へ飛び出したきりおおかみとして生活し、どういうわけか雪も全寮制の中学に入り、あとに残されたのはひとりぼっちの花だけ、というわけである。雨は個人としての自分を選び、家族を捨ててしまったのである。
家族を最小の社会であると考えたヘーゲルは、市民社会、国家、世界史へと繋がっていく人倫の弁証法のスタート地点を家族においている。そして王道的な家族の物語はおおよそ、仲の良い親子(正)に何らかのきっかけで対立が生まれ(反)、最後は和解して「雨降って地固まる」(合)という弁証法的なプロセスを辿るし、実際の子育てにおいても、子どもは両親べったりの幼少期から、反抗期を経て、何らかの和解を踏まえて真の自立へ旅立っていく。反抗期が自立そのものなのではない。このようなプロセスが多くの家族ドラマで踏襲されているのは、それが流行っているからでも面白いからでもない。人間が最初に個人として生まれるのではなく、家族という全体の一員として生まれることが不可避である以上、家族の絆を知るには、家族と対立して家族そのものを対自化、対象化しなければならないからである。毎日当たり前のように存在する両親と、本当に強い絆で結ばれているのかを知るためには、わざと両親に反発し、お互い真剣に向き合う期間が必要だというわけである。こうした視点から本作を見ると、ただただ雨と雪のためだけに「個人」としての自己を押し殺して子育てに奔走する花と、それをただただ当たり前のこととして享受する幼少期の二人は、弁証法の正の段階、無垢な統一としての家族である。そして二人が小学校の高学年に近づくにつれ、激しい対立、反の段階が現れてくる。雨も雪もお互いの違いを強く認識し、雨は特に自分を家族の一員ではなく個人(個狼?)として考えるようになる。花の言いつけに反しておおかみの力を使ってしまった雪や、徐々に自然の世界の魅力に飲まれ、家を空けがちになる雨、そして激しい姉弟喧嘩など、家族はそこかしこに対立の火花を散らすようになる。
しかしここまでである。その後一家は和解して家族の絆を再確認することはない。雨は嵐の山から母を助けはしたが、家を飛び出して以後母と会話をすることはなかった。雪は草平と嵐の学校の中で自立への憬れを語り合い、その後母が迎えにくる描写も、直接会話をする描写もない。花は山で気を失っている間、おおかみおとこと再会し、彼にそれまでの人生を肯定し承認される言葉をもらっている。しかしそれは夢の中の出来事に過ぎない。花は以後雨の遠吠えを聞き、祈りの中でおおかみおとこと対話することによって家族の絆を信じ込むのである。真理は主観と客観の統一にある。どれだけ心の中で絆を信じていようとも、花の現状は孤独である。そこには反発しつつも助け合うという家族の現実的な絆も、現実的な幸福もない。雨が個人(個狼?)として家族を捨てて旅立ち、残された花は母としてのアイデンティティを失い空虚に祈るしかない。この物語は家族ドラマの王道スタイルである弁証法の構造の反の段階以後を切り捨ててしまったような形になっているのである。だから少なくとも映画の終わりの段階では、家族がバラバラになり、皆、特に花は絆を失って見えるのである。そんな状況になっても、どんな時でも笑顔を絶やさない花の表情は不憫ですらある。この物語の家族が弁証法のプロセスにおける対立から総合の段階へと移行できなかったのは、無論、前説の自由観に付随する個人観が差し挟まれ、家族の再統一、和解を妨害しているからである。個人としての生き方を選択し、家族を捨て去ってしまうことが子どもの「自立」である、という錯覚がここにはある。個人(個狼?)として生きることが家族として生きることと両立不可能なら、雨にも花にも真の幸福は訪れない。家族がバラバラの個人に分解してしまうことも、幸福でもなければ自立でもない。
5.本作の根底を貫く3つの近代的概念:③価値を放棄する平等観
そして何よりも花を不憫に思わせてしまうのは、単に雨がいなくなってしまったからではない。雨が「おおかみとして生きること」を選んだからである。しかし劇中では、雨がおおかみとして生きることに、花は戸惑いはしたものの最終的には肯定したし、作品全体のスタンスとしても、別れの悲しさはあっても、「おおかみとして生きること」自体は肯定的に表現されている。ここには、前二節の近代的な自由観、個人観から導かれる第三の概念が潜んでいる。すなわち、生き方の選択権としての自由が個人には備わっており、それは何者にも妨害されてはならない尊重されるべきものである。したがって、「個人が生き方を選択する」こと自体が重要で価値のあることであり、その選択自体を尊重するために、政府や他者は個人の選択した生き方の「内容」にケチをつけてはならないという平等観である。これも近代以後の社会には欠かせない重要な概念である。職業に貴賤はなく、魚屋として生きる生き方と教師として生きる生き方はどれも同等に尊重されるべきである、というわけである。この概念も、極端に押し進めると、我々人類を文明的に発展させてきた一つの原則、すなわちチャールズ・テイラーがAuthenticity(ほんもの)と呼んだ理念そのものの破棄へと到達する。この理念は、「ある生き方は、別のある生き方より価値がある」として、人間の生き方には価値の序列があることを前提に、真に人間が生きるべき姿、「ほんものの生き方」を模索するというスタンスを形成する。近代的な平等観に慣れ親しんだ人々にとっては、生き方の優劣を価値付けることは、政府による不必要な介入や、職業身分による差別など危険な事柄を助長するようにも思えるだろう。しかし逆に急進的な平等観の元では、あらゆる生き方が平等の価値を持つと見なされる。言い換えれば、「生き方」の選択を重視してその内容を無視するということは、あらゆる「生き方」の内容が平等に論争点にはなりえないどうでもよいもの、すなわち無価値となる。偉大な学者の生き方も、高名な僧侶の生き方も、愚かなギャンブル狂の生き方も、みな平等に無価値なのである。
このことが本作においてはどのように現れてきているのかというと、「人間として生きること」が「おおかみとして生きること」と平等に価値ある選択肢として描かれている点である。そしてそれは裏を返せば、「人間として生きること」は「おおかみとして生きること」と同等に無価値であるということの表明に過ぎない。だから姉弟がどの生き方を選んで「決定」するのかということだけが重要視され、その選択した生き方の「内容」の善し悪しは一切吟味されないのである。人間の人生が理性を持たない単なる動物に過ぎないおおかみの Permalink | 記事への反応(2) | 08:36
141 ソーゾー君 [] 2013/02/05(火) 19:27:03 ID:zWjfUcfA Be:
まだ小吹が「公式」に独立党のNo.2時代のコシミズ動画を見てみ?
小吹が前説担当している動画を見てみ?「なんも理解してないから・・」
あのアホが独立党ブログを書いてたんだぞ?そんなわけないだろ?
五金騒動が有った当時に親子丼に俺が乱入して五金と小吹とやり合った時に
俺がこの事を指摘したら五金が面白い事を言っていた。
「独立党ブログを書いているのは小吹ではないから・・小吹と言うことにしているけど・・」となw
まー仕組みが解ると単純だ・・
まだ日本の産業界が完全に支配できなかった時代(小泉政権発足前)
「これをもって○×出版社き売り込もうと思うんですが貴社は幾らで買いますか?」と言うわけだ・・
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/movie/10043/1358943673/
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/movie/10043/1353851390/l50
324 名前:bobcoffee(白紙) ◆LOX0z7Scgs [sage] 投稿日:2012/09/06(木) 13:22:17.75 ID:HS/USpNg0
744 名前:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[sage] 投稿日:2012/09/06(木) 11:21:57.82 ID:bQ6LCpjq0
冷静に考えよう。
おまえらはいじめを受けたと思われる声優さん(市来氏)を助けるために
声を上げたのに
その声優さん(市来氏)が悲鳴を上げても叩くのをやめないんだね。
おかしくね?
そもそも市来の為ではないというのが
大半の意見じゃないの。
偽オーディションをやってオーディションという行為を貶めたり、
仕事だから後で思いついたように同意だからとか良かれと思ってとか
言って強要することがあれば
一般社会でも改められないと問題になる。
タダでさえ
みんな支えてくれると思うよ。
233 名前:bobcoffee(白紙) ◆LOX0z7Scgs [sage] 投稿日:2012/09/06(木) 12:59:24.47 ID:HS/USpNg0
(必死に役を取りに来る役者に対してあまりに失礼であり、全てのオーディションを貶める行為)
また、場所や力関係上断れない状況を作っている上、
その場にいた舞台上だよ!市来くんと言った寺島や水島大宙が仕事だぞ、仕事と言ってる部分などは
パワハラに当たる可能性がある。
(水島や他の声優の発言は与えられた立場によって出てるものなので責任に問えるかは微妙。企画立案者の責任が問題)
市来は過程が最悪やそれに対する不満(無理やりやらされた、納得してないなど)は言ってるが
自分はRPGで言うならメインジョブが声優でサブジョブが格ゲープレイヤー、
(ドッキリじゃなくて普通の依頼やドッキリでも事前説明があれば喜んで受けると思われる)
イエティ藤田(藤田隼人)エンターブレイン所属 がトチランダム名古屋編での宣伝部長に至る過程についての
よかれと思って発言も場面や立場によって圧力やパワハラと取られかねないので注意が必要。
公式逆切れ+声優の盾からの公式平謝りで声優へのハシゴ外しが酷い。
何度も言いますがネットの~の部分から分かる通り同一ライターが書いたものと思われる。
低周波治療器の罰ゲーム←アニメラジオ系だとよくある罰ゲームだが罰ゲームの説明がないから視聴者置いてけぼり
公式Twitterのフォロー数が目標に達しないと罰ゲームで晩御飯がういろうに
← 目標を事前に決めてないように見えるので唐突、地域の特産品だったはずが
今春スタートした「這いよれ!ニャル子さん」のアニメは好調なスタートをきったらしい。これにともなって、クトゥルフ神話TRPGへの関心をもつ人が出ているみたいだ。
ニコニコ動画では、2012年1月2日に投稿された「ゆっくり実況プレイOF THE YEAR 2011」(YJP2011)の影響もあってか、TRPGリプレイ(風)動画が流行ってきているように感じる。
他に細かいところだと、「めだかボックス」でTRPGのシーンが描かれたり、「放課後プレイ」のTRPG編が出たりとかが直近の出来事か。
Jコミでも★ TRPGの絶版ルールブックを、Jコミで無料公開する実験を行います - (株)Jコミの中の人ということになったらしい。投稿した後に知った。
一行にまとめると、
1)Q:TRPG動画ブームきてる? A:巨女ブームは来なかった。腹筋娘ブームくるで(バルメさん的な意味で)。
A:まだ見てない。
Q:ステマ?
A:<目星>か<心理学>でロールして下さい。成功したらSANチェックを。失敗すると1d3の正気度喪失です。続いて<アイデア>ロールも。成功したら1d6正気度を減らして下さい。5以上減った方は一時的な狂気として「疑心暗鬼」を得ます。有効期限は誰かの<精神分析>が成功するまでです。
Q:「ダンジョンズ&ドラゴンズ」「ロードス島戦記」ほか色々について言及しないとかにわかだな。
A:はい。
いい機会なので、YJP2011がきっかけでTRPG動画を見るようになった新参の一人として、ニコニコのTRPG動画について自分なりにまとめてみようと思う。統計的にどうこうではなく印象論だ。統計はありらいおんさんにでもお願いすれば良いのだ。
ちなみに、こちらのニコニコ動画の5年間の歩みを分析してみた ‐ ニコニコ動画(原宿)によると、再生数の中央値は全体が566、ゲームで410だそうだ。これを超える動画がばんばん出ていれば、(統計的にどうかは別として)直感的にはニコニコ動画で流行っていると見てもいいんじゃなかろうか。あと、再生数なら1,000も壁の一つとして前からいわれてたと思う。
試しに、後述する「ゆっくりTRPG」タグの動画を投稿日時が新しい順に見た時、2012-04-12 22:40の時点で1ページ目の32動画(4月5日19時投稿分から)中25動画が全体の中央値566以上だった。
ニコニコのTRPG動画には、大きく分けると2種類ある。一つが紹介・解説、もう一つがリプレイ(風)動画だ。
紹介・解説はTRPG自体の解説・紹介と、特定のシステムの紹介・解説がある。
リプレイというのは実際に人間がTRPGをプレイした過程と結果を再現したもので、リプレイ風は作者が小説などと同じく会話まで考えてサイコロだけその都度振ったものだ。この中でも、セッションに参加するPLが初心者であるという体だと、最初にTRPGの解説が行われることがある。
それぞれには音声ありと音声なしがある。
音声ありのは、「SofTalk」に代表されるテキスト読み上げソフトを使ったいわゆる「ゆっくり実況プレイ」と、人間による普通の「実況プレイ」の2種類にさらに分けることができる。「ゆっくり実況プレイ」は実況とついているがアフレコだ。ビデオゲームの実況プレイの一種として人気があり、それでYJPのようなランキング動画がある。 <
紹介・解説 | リプレイ(風) | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
音声あり | 音声なし | 音声あり | 音声なし | ||||
ゆっくり実況 | 実況 | - | - | ゆっくり実況 | 実況 | - | - |
TRPG動画の特徴かはわからないが、解説やリプレイ(風)は既存のキャラクターを利用した二次創作であることが多いように感じる。もちろんオリジナルキャラクターを使っている動画もあることはある。
二次創作では特に、いわゆる御三家のうち、東方プロジェクトのキャラクターを利用したものが「東方卓遊戯」、アイドルマスターのキャラクターを利用したものが「卓ゲM@Ster」というタグで統一されている。これらはTRPG動画に占める割合が大きい(ようだ)。数は少ないものの、残りの御三家の「ボカロRPG」もある。「東方卓遊戯」では「人間界で流行ってる遊びがある」「魔導書みたいなものを拾った」、「卓ゲM@Ster」では「TRPGが流行ってるのでリプレイCD売ろう」「演技レッスンを兼ねた息抜き」が導入になりやすい。
それらに含まれないもの(あるいはそれらの上位概念)は「二次創作卓リンク」が付けられている。元作品は「まどか☆マギカ」「ヘタリア」、「シュタインズ・ゲート」、「カードファイト!!ヴァンガード」「恋姫†無双」などがある。それぞれ、「卓ゲ少女まどか☆マギカ」、「卓ゲ系APヘタリア」、「シュ卓ゲ」「イメージ卓リンク」、「卓姫†無双」という専用タグがあり、「二次創作卓リンク」と並行またはより優先して付けられている。
この他、オリジナルキャラクターの場合は「オリジナル卓リンク」、MUGENの場合は、「MUGENTRPGリプレイ」タグがある。
あと、「卓ゲM@Ster」は「iM@S架空戦記シリーズ」の下位概念だが、それに次ぐタグ数の「らきすた架空戦記シリーズ」にはTRPG動画が(みつけられ)ないのは個人的に不思議だ。
元ネタ別ではないTRPG動画のタグとして、「ゆっくりTRPG」もある。これは比較的新しくできたタグだ。「ゆっくり実況プレイ」の一種であるため、登場するキャラクターは東方プロジェクトから派生した「ゆっくり」達が基本だ。「ゆっくり」は頭だけの饅頭だ。「ゆっくりTRPG」の「卓ゲM@Ster」はほとんどない。これは、元ネタに中の人が既におり、別の声を当てると違和感が生じやすいためだと思う。しかし、最近は「やる夫」やアイドルマスターのキャラも混ざったゆっくり実況プレイも見受けられる。というか、最初の「ゆっくりTRPG」が「やる夫」と「ゆっくり」の混在だ。「やる夫」は胴体がついた白饅頭だ。
これらタグの詳しい解説はリンクしたニコニコ大百科をみればいい。投稿年別に動画がまとめられていたりする。
補足として、「卓」が含まれるタグはいずれもTRPG以外の卓上ゲーム、すなわちボードゲームやカードゲームを扱った動画が含まれていることがあるので、探す際には注意しておいたほうがいいと思う。
TRPG動画の形式は、ADVゲームでよくみるような紙芝居タイプが主流だ。
このタイプでは、まず画面全体に一枚の背景絵がある。そこへかぶさるように画面下部に枠が取られている。この台詞枠に登場人物(PL、PC、GM・KP・DM、NPC)のセリフと状況描写の文章(GM・KP・DM、乗っ取りPL)が表示される。
登場人物は立ち絵で表示される場合もあれば、セリフ枠の左端にアイコンで表示される場合もある。スパロボみたいな感じでわかるだろうか。
具体例はニコニ・コモンズの「台詞枠」タグや「紙芝居クリエーター」タグをみるといいだろう。
PC発言とPL発言の区別は、PC発言時は「PC名/PL名」PL発言時は「PL名」と表示したり、立ち絵・アイコンを入れ替えるなどして表現しているのが多い。
ゲームのルールに関する情報などは画面全体を使って表示されることが多い。この時、それを表示する前に「ルールを10秒間表示」といった予告もよく行われる。「卓ゲM@Ster」の場合、登場するキャラクター(のバストサイズ)によって秒数は変化することがある。例えば、如月千早がPLとして登場するなら7.2秒や7×2秒、三浦あずささんなら9.1秒といった具合だ。アイマス2の成長したサイズを採用するかはP(アイマス動画の作者の呼称)次第になっている。「東方卓遊戯」の方でこういったことが行われているかは知らない。
戦闘シーンになるとPCの体力等のステータスが画面上部か画面右に表示され、PCの姿も立ち絵からSDタイプの全身像に移るというサイドビュー形式(昔のFFやロマサガのアレ)が一般的のようだ。これは位置関係が影響するからだろう。「世界樹の迷宮SRS」のように元々のゲームがフロントビュー形式(Wizや昔のドラクエ、メガテンなどのアレ)の場合はそれに準ずる。この戦闘描写の都合上、PRGツクールの素材と相性が良いみたいだ。
サイコロを振る場面では、上方ロールでも下方ロールでも、達成値と基準値を並べて表示することがほとんどだ。メリハリをつけるためか、他のSEに比べサイコロの音はしっかり付くことが多い。
シナリオを重視して、上記の場面転換や表示をほとんど明示的に行わない例も一部にみられる。
動画の中身は色々なので一口には言えない。これまで見た限りでは、どの卓も「ブロント語」が出やすいのはあるんじゃないかな。他には「elona」というフリーゲームのネタもまれによくみる。
ここまでが大雑把な現状理解になる。一行で表すと、
1)TRPG動画、特にリプレイは二次創作のBGM・SE付き紙芝居がほとんどだよ。
現状に至った経緯を追ってみた。
とりあえず、現時点でそれぞれのタグが付けられてる動画のうち、投稿日時が最も古い作品を並べてみる。
2007年05月23日。「TRPG」タグの最古。ニコニコ動画(γ)時代。
2007年09月22日。「東方卓遊戯」タグの最古。ニコニコ動画(RC)時代。
[この間に実際のリプレイ動画が投稿されていたらしいが、現存していない。]
2008年06月14日。「卓ゲM@STER」タグのついたリプレイのうち再生数が10,000を超えた動画で最古。
2008年09月19日。「卓ゲM@STER」タグのついたリプレイのうち再生数が50,000を超えた動画で最古。
アイドルたちとクトゥルフ神話の世界を楽しもう!第00話 前説編
2008年11月26日。「二次創作卓リンク」タグの最古。同タグのついたリプレイのうち再生数が10,000を超えた動画で最古。
2009年10月08日。「卓ゲM@STER」タグのついたリプレイのうち再生数が100,000を超えた動画で最古。
2009年12月06日。「東方卓遊戯」タグのついたリプレイのうち再生数が10,000を超えた動画で最古。
2009年12月06日。「東方卓遊戯」タグのついたリプレイのうち再生数が50,000を超えた動画で最古。
[空白期というか安定期。一部の作者の作品が長期連載になり、人気を獲得・維持してきた。新規参入もたくさんあった。]
2011年03月31日。「ゆっくりTRPG」タグの最古。同タグのついたリプレイのうち再生数が10,000、50,000、100,000を超えた動画で最古。
2011年08月16日。「二次創作卓リンク」タグのついたリプレイのうち再生数が50,000を超えた動画で最古。
次いで、それぞれのタグで再生数、コメント数、マイリスト登録数が最も多い作品を並べてみる。
2012年02月02日
【ゆっくり実況】ふたりでクトゥルフ!(1)【クトゥルフTRPG】
【卓M@s】続・小鳥さんのGM奮闘記 Prologue【ソードワールド2.0】
2011年04月04日
【卓M@s】続々・小鳥さんのGM奮闘記 Prologue【迷宮キングダム】
【ゆっくり実況】ゆっくり妖夢と本当はこわいクトゥルフ神話Part9
以上の代表的な関連タグがついている作品群をおおざっぱに見てみると、大体の流れが見えてくるはずだ。
2)御三家の二次創作動画の一ジャンルとして2009年には確立されていた。
3)2008年後半から2010年にかけては「卓ゲM@ster」の独壇場で、2010年から「東方卓遊戯」が伸び始めた。
4)2011年に入り、初の「ゆっくりTRPG」である「ゆっくり達のクトゥルフの呼び声」がYJP2011で1位を獲るほどの人気作となった。
5)4の結果、TRPG動画が再注目され、これまでにないタイプの作品も投稿されるようになった。特に「ゆっくりTRPG」が。
というところだろうか。もちろん異論はあると思う。一応、考察っぽいことをしておくと、「ゆっくりTRPG」の人気は、御三家の二次創作に比べて元ネタを詳しく知らなくても見やすいからじゃないかと思う。あと、画面を見なくても聞きながら別の作業ができるし。
ついでに、それぞれ上位の作品のニコニコチャートへのリンクを貼っておく。増減を見ると、「ゆっくり達のクトゥルフの呼び声TRPG」はYJP2011以降に倍増しているのがわかる。そして、「ゆっくり達のクトゥルフの呼び声TRPG」より投稿日時が新しい作品の伸びはそうでない作品より急になっているようにみえる。
ニコニコチャート - ゆっくり達のクトゥルフの呼び声TRPG 0話
ニコニコチャート - ゆっくり達のクトゥルフの呼び声TRPG 9話
ニコニコチャート - 【ゆっくり実況】ふたりでクトゥルフ!(1)【クトゥルフTRPG】
ニコニコチャート - 【ゆっくり実況】ゆっくり妖夢と本当はこわいクトゥルフ神話Part9
ニコニコチャート - 【卓M@s】続・小鳥さんのGM奮闘記 Prologue【ソードワールド2.0】
ニコニコチャート - 【卓M@s】続々・小鳥さんのGM奮闘記 Prologue【迷宮キングダム】
ニコニコチャート - 【アイドルマスター】機動戦士ガンダムi 0-1【ガンダム】
ニコニコチャート - チームQ4でクトゥルフ神話をイメージしろ!! 1
新参の一人が今(でも繰り返して)見ているTRPG動画の第1話(ウソm@s・失踪・打ち切り・全裸含む)を並べておく。
A:はい。
Q:なんであれがないの?
A1:まだ見てない
A2:音楽性の違い
【iM@S×SW2.0】レーゼルドーンの開拓者たち:00-01【卓ゲM@Ster】
【卓m@s】ζ*'ヮ')ζ<SW2.0どうでしょう?0-0【SW2.0】 ‐ ニコニコ動画(原宿)
【DX3rd】ゆっくり勇者達がTRPG◆Part1【ゆっくり実況プレイ】
【パラノイア×アイマス】第0話 ちひゃー的パラノイアの幸福な解説
ニンジャヘッズ向け。
【ウソm@s】初めてわかった真実のニッポン アイドル・ウィズ・カタナ
多分、一般人が大いなる存在に怯えつつ問題の解決と生き残ることを目指すホラー系TRPG、のはずなんだけど自信がない。
【ゆっくり実況】ゆっくり妖夢と本当はこわいクトゥルフ神話Part1【TRPG】
説明不要。
【ゆっくり】 汝はつぶ餡なりや? 0日目 【汝は人狼なりや?】
説明不要。
先日、オタな友人が人生初の合コンに行くことになり、僕はその友人から「見た目を改造(俗に言う脱オタ)したい」との相談を受けました。
(というのも、かくいう僕自身が(自称)脱オタ歴9年であり、見た目改造に関して、色々と試行錯誤してきたからです。)
今回、友人の見た目改造計画が、思いのほか成功を収めたので、その記念に方法をまとめてみることにしました(僕なんかがファッションや脱オタを語るのは10年早いですがご容赦ください)。
行動に移しやすいように、方法はできるだけ具体的になるように心がけたつもりです。脱オタを目指す方に少しでも参考になれば、(あるいは、目指し始めるきっかけになれば、)幸いです。
さて、見た目改造(脱オタ)では、服装改造と髪型改造が2大要素となりますが、ここでは服装改造方法に絞ってまとめようと思います。
これから具体的な戦略説明に移ります。が、その前に、1点だけ事前説明させてください。
紹介する服装は、2chの某板住人や、あなたの周りの本物のおしゃれさんには、笑われるかもしれません (セレオリ(笑)、大学デビュー(笑)とか)。
でもOKです。目指す方向は、あくまで無難。僕達は、服にはこだわりが無い人なのですから。
むしろ、今回ターゲットとする女性がどう思うかが大事です。その点、今回ターゲットとする女性は、そこまで気にしないと断言できます。下手すれば、オシャレさんと勘違いされる可能性だってあります。
セレクトショップと呼ばれるお店で買いましょう。ユニクロとブランド品の中間くらいの服を扱っているお店と思ってください。セレクトショップとしては、ユナイテッドアローズ(United Arrows)、シップス(SHIPS)あたりが有名です。
セレクトショップは、駅ビル型ショッピングセンター、例えば、ルミネの中に入っています(新宿駅だと、東南口のルミネやFLAGSあたり)。
セレクトショップに入ると、店員が話しかけてきます。臆せず「XXを探してるんですが、良いのありますか」と聞いてみましょう。(持論ですが、脱オタにおいて、店員のセンスを借りることは重要だと思います。)
「無難で合わせやすいもの」をおすすめしてもらえば、ハズレは無いでしょう。もし、すすめられたものが、よくわからなかったら、「検討します」とか「あとでまた来ます」と言って逃げましょう。
相手から見えない部分は、お金をかけても無駄なので、極力ケチりましょう。ユニクロや無印良品で購入すれば十分でしょう。ユニクロなら肌触りも良いので一石二鳥です。
まず、肌着の選び方です。 肌着はシャツの下に着るインナーとして使います。肌着は、ユニクロのVネックシャツ(無地)を買いましょう。色は、ピンク、黒、グレーあたりが良いでしょう。
肌着は、極力外から見えないようにしてください(そのためのVネックでもあります)。もし見えてしまう場合、肌着の色が、シャツや上着の色と同じにならないようにしてください。
次に、靴下です。靴下は黒系のくるぶしソックスを買いましょう。
最後に、下着(パンツ)と、ベルトは、正直、何でも良いです(つまり、新たに買う必要は無いです)。相手に見えないように気をつけさえすれば。
アクセサリー類(ネックレスや指輪、ブレスレット)などは、仮に持っていたとしても、身につけないほうが良いです。センスの良い代物なら良いんですが、少しでもダサい要素があると、それだけで相手の減点対象になります。逆効果になるくらいなら、つけないほうが無難です。時計やバッグ、財布、眼鏡も同様です。ブランド品だったり、強いこだわりがあったりしない限り、家に置いてくるのが良いでしょう。
とはいえ、バッグ、財布、眼鏡については、身につけていないと無いと困るという方も少なく無いと思います。その場合には、以下の対応を取るのが良いでしょう。
今回紹介した方法では、服装だけで合計予算\60000とコストはかかります。それでも、かけたコストに見合った価値は得られると思います。
実際、冒頭の友人は、この方法で、無事見た目改造をし、合コンに参加した女子から、「爽やか系男子」の称号を得ることができました(後日こっそり聞いた話によると)。
また、友人は見た目改造で自信を持ったらしく、普段は奥手な友人が、合コンでは驚くほど饒舌となり、 本人的にも楽しいひとときを過ごせたようです(外面の変化が内面にも、好影響をもたらしたようです)。
以上です。みなさまが実りある秋を過ごすきっかけになればうれしいです。拙文を最後までいただき、ありがとうございました。
自分の文章を晒す訓練として、駄文を垂れ流しただけだったので、正直ここまで反応いただけると思っていませんでした。(少々戸惑っています。)
自分の考えに対して、率直なご意見をいただく機会はあまりないため、非常に勉強になりました。(厳しいご意見は、正直胃にくるのですが、どれもおっしゃるとおりだと思いました。)
反応・コメントくださった方に感謝いたします。
いただいたいくつかのコメントに対して、追記させて頂きます。(また長くなってしまうのですが)
もっともなご意見だと思います。ただし、今回の方法は、ある程度お金をかけることも重要なポイントです。
こちらもごもっともです。僕自身、最近はチノパンを履くことが多く、ジーンズはめったに履きません。
でも、個人的に最初のうちはどうもチノパンを使うのに抵抗があった(難しかった)ため、今回はジーンズを挙げています。以下、理由です。
髪型や眉毛も重要な要素ですが、服装よりも失敗のリスクが高い気がします。そのため、今回は服装について買いました。
ただ、個人的には、ワックスの使い方やら紙質で相当悩んだので、機会があれば、そのあたりを含めてまた書いてみたいと思います。(戦略自体は服とだいたい同じですが。)
どなたかがコメントしていたのですが、服装を検討する上では、僕の文章よりも、それに対する他の方のコメントをご覧になったほうが、参考になると思います。(色々、勉強になりました。)
私は性同一性障害・・・一般的にはニューハーフという立場の人間です。
豊胸と整形類はまだしていない(今後もする予定はなし)
決して美人ではないが女としては見られてる(らしい)
お金さえ貯まれば、いつの日は性別適合手術(いわゆる性転換)も行うつもり。
本名もいつか改名するつもりだけれど書類・時間が必要なのでまだ本名のまま。
1人暮らしで24時間女として生活してます。名前はいずれ改名予定の通名を使ってます。
(公式書類関連だけは通名使えないけど、それ以外は通名で通ってる)
仕事は名字で呼ばれるか、または仕事上で親しい人には通名で呼んでくれたりしています。
最近は病院などでも呼び出しの際は名字で呼んでくれるか、事前説明をすれば通名で呼んでくれる事もあり。
さて自己紹介はこの辺りにしておいて、最近は(というより今も)ネット上では
セクシャルマイノリティに対しての誤解は多い。
好きか嫌いか、受け入れるか否かは個人個人の嗜好なのでとやかく言えない。
同じセクマイでも人それぞれですが、自分と自分の周りの人を例に挙げての実態をいくつか説明。
・ただのネタなだけかもしれないが、掘られるだのアッーだの。
→恋愛対象は当然男性だけど、こちらが男性を攻めるなんてありえない。いつもされる側です。
(女の立場として攻めるのは別)
・見境ない
→好みもありますし、普通の女性と同じように一目惚れしたり片思いしたりもします。
そして、好きになった相手からそういう気はないと言われたら潔く諦めるし、
・ニューハーフと付き合える男には、そのケがある
→これはどうなんでしょうね。私は、少なくとも私がお付き合いしてきた男性は
みんな共通して「普通に女が好きだし男は恋愛対象じゃない。お前と付き合ってるのも
女に見えるし、例え妊娠できずに、あそこの造形が多少違えど女だと思ってるからだよ」と言ってもらえてた。
結婚を見越した恋愛じゃなく、付き合うだけの恋愛だったからなのかもしれませんが。
(バツイチの方とかもいたから、割合的に結婚の経験ありの方ほど受け入れてもらいやすい傾向があったと思う)
・セクマイの人間とは人付き合いもしたくない
→ネットでは関わりたくないという意見がよく目につくのですが、
実際には恋愛感情抜きにして、知人・友人関係なら性別関係ないという方は多い。自分の周りには。
本音と建前というものなのかもしれませんが、本音から関わりたくないと思われていれば、
そもそも友人関係にすらなれないですしね。
それでも本音で関わりたくないと思ってる人は実際にも多いでしょう。
しかしそこは、「性別抜きにしても個人個人の相性というものがあるから、相性が合わなかっただけ」
と自分に言い聞かせてる。
プライベートでの人付き合いは受け入れてもらえた人だけに限定しているので、
幸い現実で避けられているという思いはしていない。
・仕事
→私は非正規だけれど、それは自分の性別が原因なのじゃなく、
今はセクシャルマイノリティでも国会議員もいればモデルもタレントもいる。
また、公務員や大手企業に勤めている知人もいるので、職業と性別の関連性は今は小さくなってると思う。
・結婚、子作り
→これだけは最大の難問ですね。
純粋に子供を持つという事に関しては、先に子供を作ってからとか
養子を迎えたり・・という事例もありますが、今はまだ、あくまで少数派。
多くは子無し人生が一般的。
結婚に関しては、日本においては戸籍性別変更が済めば結婚はできるので、
その後でパートナーと籍を入れる人もいる。
また、子無しなら籍を入れる必要性も小さいので、ずっと同棲・・・つまり事実婚の人も多い。
セクマイの多くの人はこのことを最初から覚悟しているし、パートナーも「子無し人生を覚悟した人」か、
「過去に結婚・離婚経験があり、子供を持った事もある人」が多いんじゃないでしょうか。
老後云々に関しては、今の時代はセクシャルマイノリティに限定した話じゃないでしょうから
なんとも言えません。
・親類との軋轢
→これは人それぞれです。
家族や親類に受け入れてもらえてる人もいれば、
縁を切られた人もいるし、衝突中の人もいる。
:::前説:::
ここ最近ネット界隈の著明な人の発言において「キュレーション」の重要性が語られるのをよく目にします。
それを読むたびに、とても共感していたのですがふと気がついたら、昔に自分がメモして考えていた事と同じだと気づきました。
以下の文章を書いたのは2009年11月23日。ふふふ、これって俺が前から考えてた事じゃん!って自己満足もきっと入っていると思いますが、
自分で読み返してもあらためて、考える所があったので、始めてはてな匿名ダイアリーに投下してみます。
みなさんの、考えるきっかけになりましたら幸いです。
■情報化社会(インターネット社会)における「学芸員」もしくは「DJ(ディスクジョッキー)」的存在の重要性について
近年のインターネットの普及に伴って、
個人が触れることの出来る情報の総量は指数関数的増加の一途を辿っている。
この事は「世界のフラット化」あるいは「情報格差の是正」という言葉で語られる事もあり、
基本的にはそれぞれの個人レベルの存在にとっては歓迎すべき事である。
しかしながら、現状のインターネットにおける
真の意味での情報化社会の完成された形態であるとは言えないのではないか。
潜在的なパフォーマンスを完全に活かしきれていないという事である。
インターネットを生かし切れない具体的な一例としては、
「情報過多」とい事が、まずあげられる。
■社会に存在する情報量が多すぎる為に、本来必要とする(ユーザーにとって価値のある)
情報を見分ける事が難しくなっている事。
この事柄の解決策として飛躍的な進歩を遂げたのが
いわゆる「検索システム」である。
現在の検索システムの主流といってよいGoogleの独自のアルゴリズムによる検索システムである。
特にGoogleによる検索システムの登場はインターネットの活用という面において
その優秀なアルゴリズムによって、ユーザーが求める情報に対する
検索の精度・効率は飛躍的に向上したのである。
インターネットの潜在的なパフォーマンスは完全に引き出されたのだろうか?
答えは『否』である。では現状で足りていない要素とは一体何であろうか?
まず検索システムが持っている基本的な特性として
「ユーザーの能動的な行動」を必要とする点があげられる。
能動的でないユーザーに対してより効率的に情報を提供する方法はないか?
(これまでのマスメディアによる一方的な手段でなく)
☆そこで必要になってくるのではないかと思われる新たな情報収集・提供システムの候補が、
『学芸員』あるいは『DJ』的位置づけの存在、あるいはシステムである。
「キュレーター」などとも呼ばれる。
学芸員に求められる役割は第一に、
各分野における専門知識をもって対象の管理・監督を行う事であり、
第二に持ちえた専門知識を元に普及・教育に努める事である。
情報化社会での役割として考える場合、特に重要になってくるのは、
第二の役割の「専門知識を基にした情報の普及・教育」という点である。
つまりある事柄における専門家とそれ以外の人々を橋渡しする役割である。
彼らは美術における専門家であると同時に美術自体の実践者、生産者でもある。
それぞれの職業や専門分野、あるいは生活を行っており、
それゆえ、生活時間のほぼ全てを美術にあてている専門家(つまり美術家・芸術家)
しかしながら、専門家(この場合は美術家)が生産したモノや情報の持つ
価値を享受する為にはある程度の専門知識を必要とする。
その際に必要となるのが両者の中間に位置する「学芸員」である。
しかしながら、その専門知識を持って、美術の専門知識を持たない人間に対して、
本来の情報を分析・咀嚼して、専門家でなくとも理解できる(その価値を享受できる)
「非・美術専門家」達はその気になれば(能動的意思を持てば)、
自ら専門書や、インターネットを使用して専門知識を得ることも可能であるが、
能動的意思の有無や、時間的制約からそれを完全に実行するのは難しい。
そこで学芸員(中間的位置づけのシステム)を間に挟む事により、
より効率的に、より短時間で対象の情報を得、理解し、その情報やモノの価値を享受する事が可能になるのだ。
必要とされている事ではないだろうか。
従来の考え方とはまったく別のシステムに変わっていくであろう。
(あるいは変わるべきである)
つまり従来の広告システムとは、販売主体が多大な広告(販促)費用を計上し、
【デメリット】
この従来の「広告」という考え方自体を
わざわざ広告という費用やマーケティングを考える必要はなくなるのではないか?
つまり、ユーザーが求める情報を完全にフラットに、効率よく提供・共有するシステムがあれば、
企業はいかに価値のある製品をつくるか?という本来の役割だけに集中できるのではないだろうか?
事前説明もほとんど受けられず、企業も新卒者も制度を把握しないまま続いてるカオス制度。
聞けば教えてくれるけど、聞かなければほとんど何も教えてくれない。
ほんとお笑い。
二ヶ月間くらい肉体労働系の会社に行ってたけど、まるで駄目だったので、このまま続けても仕方がないかと思って辞めようと派遣会社に連絡したら、担当の人から「企業を変更することも可能なんですよ!」なんて素晴らしい台詞を頂いた。
今度は卒業した学校の関係でIT企業(Web系)を受けてみたのだけど、企業担当者と話すときに社員数や熱意とかを聞かなかったせいで中々酷い目にあった。
後でわかったのだが、社長と副社長しかいないらしい、そりゃこねーわwww
事務所は貸してあげるからウチの業務を好きに勉強してね☆ミって方針。
出来る子ならいいんだろうけど、生憎俺にそこまでの気力はなかった。
(なんで、その企業を受けたの?って話ですけど、甘い考えですけど、僕はてっきりある程度までは教えてくれるんだと思ってたんですよ。)
つーか、前からいたインターン生の一人が何やら仕切っているのだが、大してわかってないくせに妙に仕切ってるからなんだかムカつくし…。
言動とかも妙に癪に障るし。
しかも、あと少ししたら気味にも実務を担当してもらうから必死に勉強してね!とかそのインターン生が言うもんなんで挫折した。
もうここではやっていけないっていう確信を持った。
プレッシャーが凄い。やるかやらないか、やれないなら出て行けって感じ。
確かにその通りなんだけど、その通り過ぎて出ていくしかないっていう。
正直、前の企業にいた方が随分とましだった(役には立てなくても籍だけは置けたから)
このIT企業で唯一学べたことはベンチャーは糞だってことだった。
丁度最近のGIGAZINEとかみてもそうだし、全部が全部ではないとはいえ、第一印象は糞だった。
取り敢えずはWeb系=ベンチャーってことにしておこう。少なくとも地雷。
取り敢えず、今日でこのIT企業は辞めようと思うのだが、記憶が確かならもう企業は選べないらしい。
親元を離れて単身の僕はこれからどうするべきだろうか?
精神的に親元には帰りたくないし、実質帰れない。
(実家に帰ると精神障害者がいるので自分まで池沼になりそうだし、
今住んでるところを出ると契約の関係で高額の違約金を払わないといけないので)
選択肢としてはアルバイトくらいだろうが、生まれてこの方やったことがないというね。
このあいだネカフェのバイトにネットから応募して面接受けに入ったら、店の人から「いやいや、そんなのしらないし、聞いてませんよ」とか白い目で見られたし。意味不明だし。
俺が間違ってたのかと思って、家に帰って求人情報見たら面接日時も場所も合ってたし、マジ意味不明。
勿論、次のバイト先も探して応募するけど、果たして雇ってもらえるのか?という疑念はある。
早くしないとお金もないから辛いし。
まぁ、雇ってもらえるかどうか気にしてたら埒が明かないから、応募しまくるしかないんだけど。
落とされなかったら可能性があるってことだろう多分!って信じてる。
若いうちは何でもやった方がいい気がするんだ。挑戦だ!
一番は、新卒者応援プロジェクトで別の企業の斡旋を受けられることなんだけど、多分無理だからね。
新卒者応援プロジェクトを続けられれば就活もスムーズにできるんだけど(今まではやってなかった)
それが無理ならバイトしながら就活するしかない…となると結構厳しそうではある
バイト先に就職とかもしてみたいけど、バイト募集してるのって将来性がなさそうな場所ばっかなんだよね
果たして僕はどこへ進んでいけばいいのだろうか…。
因みに学生時代の就活は40社程度受けました。全部落ちました。
警備・食品・廃棄物・清掃・小売・営業・流通・IT・飲食他にも色々受けました。
選り好みしなさすぎですね。介護だけは受けませんでしたが。
まぁこれが就活に失敗した要因の一つであることは間違いがないんですが。
漠然と持っているのは、事務職なら勤まりそうっていうのと、ネットワークとかサーバーの運用管理に興味があるってことくらい。
(具体的に企業名は挙げませんが、興味のある鯖屋が一社だけあります。もとい、その企業のせいで興味が芽生えたに近い。)
趣味はこういう感じで長文をグダグダ書いたり、ラノベを読んだり、ひたすらネット上の情報を読んだり、漫画を読んだり、RPGやったり、ネトゲしたり、オタショップを渡り歩いたり、買い物することです。
長く続けていることは自己サイトの運営、もう9年目です。老舗とかそういう部類に入ってる頃ですね。
ここ数年では時代の波(笑)にのってブログ形態に移行してます。
PC歴は年齢-3年。そこらの餓鬼が絵本読んでた頃にはブロック崩しとかインベーダーやってました。PC-9801で。MS-DOS3.2だったかなぁ?
専門学生になるまでインベーダーゲームはパソゲーだと思ってました。まさかゲーセンのゲームだったとはw
でも別にコアゲーマーでもないし、アニメもそこまで見てません(1クール1,2作)
変態ベクトルは大分逝ってると思います。そんじょそこらの変態に負けない自信はあります(キリッ
ピザではなくガリの部類です
特技は特にありませんし、得意科目と言えるものもないです
「高校の情報」なら学年トップだった気はします
大したもんでもないですが、情報活用二級程度は何もせず取れました。
基本情報技術者は問題の1割くらいしか解けません。
だけど何故か有識者から結構解ってる人と誤解される事があります。
なんかどうでもいい御託をつらつら並べましたけど、誰か僕みたいな人間ほしいトコありませんか?
子供の頃、よく子供向けのクラシックのコンサートを聞きに行った。
何度か行ったうちの一回の前説で、心に残っている事があった。
高学年にはなってたけど、流石に覚えきってないので、大体こういう事を言った、という記憶。
少しでも子供にクラシックに触れてほしいから、普通だったらありえない金額でやっています。
だからこそ、絶対にクラシックを”面白い”と思ってほしいんです。
今から、「XXX」と「YYY」と「ZZZ」という曲をやります。
多分、みなさん「ZZZ」の曲で寝ます。
お父さん、お母さんも寝ると思います。これは眠るために作られた曲ですから、是非寝てください。
そこで次に「###」という曲を演奏します。
みなさん、ここで起きます。
母親は、クラシックには疎くて、それでも折角の機会だからと何度も連れて行ってくれていた。
見事に母親は眠って、言ったとおりに目を覚ました。
当たり前といえば当たり前なんだけど、
試行錯誤して考えているんだとすごく感動した。
曲の背景の話があったり。
演奏の裏話があったり。
普段はやらないような演奏の仕方をしてくれたり。
お上に取り締まってもらうのが一番の早道ということか。
ネットは法整備が追いついていないから、やったもん勝ちの世界。
グーグルは勢いあるから、開き直ってるけど、誠意のない対応といい、ろくなもんじゃないな。
インターネット上で街並みの画像を閲覧できるグーグルの「ストリートビュー(SV)」を巡り、プライバシー侵害が指摘されている問題で、グーグル日本法人の担当者が3日、東京都の情報公開・個人情報保護審議会に出席し、「プライバシーについて詰めが甘かった」などと釈明、今後は画像を公開する前に該当する自治体に知らせる方針を初めて示した。
同審議会では、全国的に「無断で自宅の画像を公開され不安だ」などの訴えが相次いでいることから、同法人の担当者を呼び、説明を求めた。担当者は、海外では画像を公開する前に官庁や自治体に説明していながら、日本では事前説明をしていなかったと明かした。住宅地の撮影についても「我々の想像力が足りなかった。今後は、各国の事情に配慮したい」と説明したが、具体的な改善策については「社内で議論を進めている」と述べるにとどまった。
SVは一昨年5月、米国で始まり、日本では昨年8月に開始、現在10都道府県の街並みの画像が閲覧できる。都にはこれまで約40件の意見や苦情が寄せられている。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090203-OYT1T00808.htm
まあ従姉妹夫婦に問題あるのは理解できる。ただその反対に何も告げずに一方的に骨拾いをさせないってのもどうなんだろうか。もし俺なら強く恨むけどなあ。いくら幼少とはいえ人が死んだ後にどうするのか理解できない不安な心を抱いたまま小学校低学年を過ごすのってどうなんだ?「秘密結社アダルトンが死んだ人を秘密裏に消し去った」そんな心象で過ごすのもいかがなものか。ここで「小学一年生にそんな真面目なことを」と思うやつは叱ってやりたい、どんな幼い子供だろうと既に日々真剣に生きようともがいている子供はいるものだ、そうじゃないやつもいるけど。
http://anond.hatelabo.jp/20090126
むろんひとの心というものの受け入れる幅はひとによって違うので、姪御さんに見せるべきであったかどうかというのはわからないが、ただ、見せない・見せるという議論の前に姪御さんに説明すべきことがあったのではないか?
自分は5歳で祖母を亡くした。確かにそのときは焼き場には連れて行かれなかったと思う。ただ、そのあと小学生のときに叔父を亡くしたときには焼き場にも一緒に行ったし、投稿者と同じ19歳になるころには両手の指を超えるだけの通夜・葬儀に出ていた。
うろ覚えではあるが、そのとき周囲の親戚たちは、くどいほどわたしにいろいろ教えてくれたと思う。これから叔父はお骨になること、(我が家には仏壇もあったので)今後は仏壇のなかから自分を見てくれているということ、これから出てくる骨は「おじちゃんの」骨である、ということを、だ。
確かにこども心に、いろいろと衝撃はあったが、これはあくまでも「おじちゃんの」骨である、怖いものや悪さをするものではないということがわたしを怯えさせなかったのは間違いない。
見せるということをその姪御さんの親が決めたのであれば、その親御さんに足りなかったのは、姪御さんへの気遣いやフォロー、そういった「怖いものではない」という説明だ。
お化けやガイコツ、というものは怖いものだと刷り込まれているこどもに、なんの前説明もなくリアルに骨を見せたら、怯えるのは当たり前だと思う。突然自分の生活に「骨」が現れたのだ。そのガイコツが一体何者で、どんな悪さをするのか、こどもの想像力には限度がない。トラウマになることもありうるかもしれない。わたしたちが生活のなかで突然他人の遺体を見せられたら衝撃を受ける、それと同じではないだろうか?
けれど、それは身近にいたひとのものであり、決して怖いものと同義ではないということを十分に教えてあげれば、すこしは和らぐのではないだろうか。害をなすものではない、守ってくれるものである、というように説明をしてあげれば。(今からでも少しは和らぐかもしれないがそれはわからない)
遺体や骨、がショックなのではなく、自分の生活の範囲内に、物語などでオソロシイ、オバケだと教えられたものが目に見えて近づいてきたことが一番衝撃なのではないか、わたしは、そう思う。(あくまでも個人的に思うこと、ということだが)
カメラのキタムラに対して、公開質問をしたので匿名ダイアリーに書いておこう。
カメラのキタムラ側からの返答があれば、また掲載したいと思う。
平成21年1月3日 カメラのキタムラ 代表取締役会長兼CEO 北村 正志 様 顧客担当責任者 (仮) 様 ****店店次長 **** 様 以下、甲とする ****(私の住所) ****(私の名前) 以下、乙とする 店頭におけるデジカメプリントに関する公開質問 ・事前説明 乙は、平成21年1月3日カメラのキタムラ****において店内のデジカメプリント受付機において、メモリカードよりA4サイズ3枚のプリントを注文した。午後5時10分にレジにて受付を済ませ店員に午後6時頃の仕上がりになることを告げられる。乙は一度退店し午後5時50分に再入店し、プリントが完了したかを店員に尋ねた所、完了した旨伝えられ確認を求められる。乙が確認をすると写真の一枚が自宅のパソコンで調整した色より大幅に暗く印刷されており、また色の一部の階調が抜けたようなざらざらした質感になっていたので、店員に質問すると、甲が呼び出され「補正を掛けているので、明るさを調整しているんです。調整して欲しくないのならレジで事前に補正なしを指定しなければならないんですよ。」「20分ぐらいで良いですか」と乙に説明する。乙はまた退店する。 ・本説明 乙は20分以上経過したのを確認した後、再入店する。プリントの仕上がりを確認し、問題となった1枚がまだオリジナルの色と掛け離れた色となっているが補正なしとのことで、これ以上は無理であると判断し代金990円を支払い、甲に質問をする。甲には、以下に示す質問を繰り返ししたが、「はあ、ええ」や「申し訳ございません」、「デジカメとは、内部で色を・・・(乙が遮った)」などの返答を繰り返し、然るべき返答を得られなかったため、この公開質問をする。 ・乙が甲にした質問の要約 実際は何度も繰り返して質問したものもあるが、的確な返答が得られなかったため、まとめて書く。 乙「補正は自動でしているのですか?」 甲「補正は、あちらの機械で見てしています。」 乙「私に、プリントする写真に補正がかけられることを説明しましたか?」 甲「いいえ。補正をしないのであれば、レジで補正なしと指定していただく必要があります。」 乙「では、なぜ私に補正すると説明していないのに最初のプリントが仕上がった際には 『補正を掛けているので、明るさを調整しているんです。調整して欲しくないのならレジで事前に補正なしを指定しなければならないんですよ。』『20分ぐらいで良いですか』 と言ったのですか?これでは私に非があるようですが、説明されていないものを指定するなどというのは無理なことであり、なぜ事前に説明しなかったのですか?」 甲「」乙の質問には答えず本説明で前述した返答を繰り返す。このため、乙は何度もゆっくりと同じ質問を繰り返したが、全く返答が得られる様子では無かったので質問をやめる。 乙「あなたは、自分をプロだと思っていますか?」 甲「」無言である。 乙「人間だから失敗があるといって許されるのは素人であり、プロは失敗したらそれなりの責任がついてくるものですが?どう思いますか?」 甲「はあ」 乙「それでは、名刺をください。」 甲「は」 乙「名刺をください」 甲「」名刺入れから名刺をとりだし乙に渡す。 乙「しかるべき返答を得られなかったので、それなりの対応はさせていただきます。」 乙が甲にした質問は以上である。 ・質問 以上のことを踏まえ、以下の質問に対するカメラのキタムラとして公式見解となる回答を求める。 乙は謝罪は要求していない。 1 デジカメプリントを注文する際、事前に補正が掛けられることを乙に説明していないのに、仕上がりを見てから乙が色の問題を指摘すると事前にレジで補正なしを指定しなければならない旨発言したのはなぜか? 2 カメラのキタムラは乙が事前に補正なしを指定しなかったことに落ち度があると考えるか? 3 2を否定する場合、甲およびカメラのキタムラの店員はなぜ、乙に事前に補正のことについて説明をしなかったのか? 4 3にて事前に補正が掛けられることを説明しなかったのがカメラのキタムラ側の落ち度であるとする場合、今後はすべてのデジカメプリントを注文する客に事前に補正を掛けるかどうかの質問をするか? 5 今回のような事態が起きたのは、カメラのキタムラ内部においてどのような点が問題であり、今後はどうしていくと考えるか? 以上、1,2,3,4,5の個別の項目において、それぞれの質問をまとめて返答するなどとせず、5項目それぞれの質問についての返答を求める。不備があった場合は、再度質問する可能性もある。 以上。
http://anond.hatelabo.jp/20081108194131
もしかしたら気分を害する話かもしれないのだが真剣な悩みなのでできれば聞いて欲しい。
最近気づいたのだが、俺はどうやら好きなマイミクのタイプというものは「プロフィール画像が自分好みなマイミク」らしい。
(揚げ足を取られる心配よりわかりやすさを優先すれば「プロフィール画像が可愛いマイミク」ということ)
これまでの炎上でわかったことだが、他のマイミクがブロックしてきたようなマイミクも含めて、俺の場合、相手のコメントに関しては、かなり酷いところまで許容できる。というか、いくら歪んだ解釈されようが破天荒な妄想されようが相手のコメントやメッセージはだんだん好ましいものに思えてきたりするのだが、プロフィール画像だけは(ブサイクな場合)頑張っても好ましいものとは思えなかった(たとえその子が画像加工などして頑張っているのがわかっても)。
理不尽な紹介文つけられたり雪山の雪崩ほど弾幕なエコーに他の人のエコーが流されたり裏表のある公開範囲限定日記に気付かされても、俺はだいたいマイミク削除したりもせず真剣に付き合ってレスを返すのだが、そういうときに心に湧き上がっている思いは「こいつコメントスルーさえしないでくれればなー」ではなく、「こいつがもうちょっと可愛ければコメントスルーされても苦じゃないのになー」という気持ち。醜い思いかも知れないがそれが正直な感情だった。コメントスルー自体には耐えることができた。耐えられなかったのはそのプロフィール画像なんだ。
逆に可愛いマイミクとマイミクし合っていたときは、本当に何度でも足あとつけたい気持ちだった。上記と同じような目にあっても最初からおおらかな気持ちで受け止めることができた(日記を読みに来てさえくれないから諍いがおきようが無いとかではない)。
結局他の男に先にサシオフされて以来よそよそしくなったりするわけだが(涙)。
※足あとが頻繁につくとマイミクにキモがられるよとかいう話は本題ではないのでここでは結構。
プロフィール画像が一番好きなところだと、真剣に興味があるのだと思ってもらえないのだろうか。プロフィール画像ってそんなにその人の素顔とは別物? 俺はそうは思えないのだが・・・。
「好きなマイミクのタイプはプロフィール画像が可愛いマイミクです」なんて言うとヤリ目にみられてしまいそうな風潮があるのはなぜだろう。プロフィール画像最優先でマイミク対象を選ぶことはそんなにいかがわしいことなのか?プロフィール画像ってそんなに猥褻な要素?
少なくとも今まで生きてきた中で見掛けて来たプロフィールやバトン等で、好みのマイミクを(冗談やネタ以外で)プロフィール画像重視に答えている人はとんと見たことがない。
その理由としては、
のうちのどれなんだろう。
「好きなマイミクのタイプはプロフィール画像が自分好みな人です」ということは、本当にヤリ目なことなんだろうか。
別に相手の日記を読む気がないわけじゃない。日記は読めば好きになれる自信があるのだ。
だから、俺はプロフィール画像が自分好みなマイミクがタイプとしか言えない。
だから聞きたい。
もしあなたの目の前に、「好きなマイミクは可愛いプロフィール画像のマイミク」「好きなマイミクはプロフィール画像が美人なマイミク」というような人が現れたら、感じ悪い?
別に傲慢な気持ちで言っているのではなく、それが正直な気持ちだから今後そう言って申請すべきかと考えているのだが・・・
via http://anond.hatelabo.jp/20081108194131
via http://anond.hatelabo.jp/20081105135432
もしかしたら気分を害する話かもしれないのだが真剣な悩みなのでできれば聞いて欲しい。
最近気づいたのだが、俺はどうやら好きな女医さんのタイプというものは「プライドが高い女医さん」らしい。
(揚げ足を取られる心配よりわかりやすさを優先すれば「超が付くほど負けず嫌いな女医さん」ということ)
これまでの手術でわかったことだが、他の人がギブアップしてきたような女医さんも含めて、俺の場合、手術の技量に関しては、かなり酷いところまで許容できる。というか、いくら歪んだ縫い目だろうが破天荒な手術痕だろうが術後の結果や経過はだんだん好ましいものに思えてきたりするのだが、プライドだけは(低い場合)頑張っても好ましいものとは思えなかった(たとえその女医さんが金融系の資格も取ろうとして頑張っているのがわかっても)。
理不尽な手術費を見積られたり雪山の天気ほど気分屋な診断結果に振り回されたり謝礼金授受の汚さに気付かされても、俺はだいたい病院を変えたりもせず真剣に入院して手術を受けるのだが、そういうときに心に湧き上がっている思いは「この女医さんのこの不正さえ直ってくれればなー」ではなく、「この女医さんがもうちょっとプライド高ければこういうことも苦じゃないのになー」という気持ち。醜い思いかも知れないがそれが正直な感情だった。出費自体には耐えることができた。耐えられなかったのはそのプライドの低さなんだ。
逆にプライドの高い女医さんが担当になったときは、本当にどこでも切らせてあげられる気持ちだった。上記と同じような目にあっても最初からおおらかな気持ちで手術を受けることができた(何でもハイハイ聞いて真剣にインフォームドコンセントしていないとかではない)。
結局他に急患がでてきて担当を外されるはめになったりするわけだが(涙)。
※重病なだけでは女医さんは執刀欲を感じないよとかいう話は本題ではないのでここでは結構。
プライドが一番重視するところだと、真剣に信頼を寄せていると思ってもらえないのだろうか。プライドってそんなに手術の腕前とは別物? 俺はそうは思えないのだが・・・。
「好きな女医さんのタイプはプライドが高い女医さんです」なんて言うとM男にみられてしまいそうな風潮があるのはなぜだろう。プライド最優先で執刀医を選ぶことはそんなに危険なことなのか?プライドってそんなに軽薄な要素?
少なくとも今まで生きてきた中で見掛けて来た会話や口コミサイト等で、好みの女医さんを(冗談やネタ以外で)プライド重視に答えている人はとんと見たことがない。
その理由としては、
のうちのどれなんだろう。
「好きな女医さんのタイプはプライドが高い女医さんです」ということは、本当に危険なことなんだろうか。
別に相手の腕前を見る気がないわけじゃない。腕前は体にメスを入れられればわかる自信があるのだ。
だから聞きたい。
もしあなたの目の前に、「好きな女医さんはプライドが高い女医さん」「手術して欲しい女医さんは西川史子」というような人が現れたら、頭悪い?
はっきり言ってオススメな気持ちで言っているのではなく、それが正直な気持ちだから今後そう言って過ごすべきかと考えているのだが・・・
もしかしたら気分を害する話かもしれないのだが真剣な悩みなのでできれば聞いて欲しい。
最近気づいたのだが、俺はどうやら好きな異性のタイプというものは「魂が自分好みな人」らしい。
(揚げ足を取られる心配よりわかりやすさを優先すれば「魂のステージが高い子」ということ)
これまでの付き合いでわかったことだが、他の人がギブアップしてきたような子も含めて、俺の場合、相手の容姿や性格や収入に関しては、かなり酷いところまで許容できる。というか、いくら歪んだ性格だろうが不細工だろうが借金もちだろうが相手の欠点らしきものですらだんだん好ましいものに思えてきたりするのだが、魂だけは(ステージが低い場合)頑張っても好ましいものとは思えなかった(たとえその子が修行などして頑張っているのがわかっても)。
理不尽な不機嫌などをぶつけられたり多額の借金を肩代わりされたり顔面や肌の汚さに気付かされても、俺はだいたいキレたりもせず真剣に付き合って受け止めるのだが、そういうときに心に湧き上がっている思いは「こいつのこの欠点さえ直ってくれればなー」ではなく、「こいつの魂のステージがもうちょっと高ければこういう欠点も苦じゃないのになー」という気持ち。醜い思いかも知れないがそれが正直な感情だった。欠点自体には耐えることができた。耐えられなかったのはその魂なんだ。
逆にステージの高い子と付き合っていたときは、本当に何でも受け入れてあげられる気持ちだった。上記と同じような目にあっても最初からおおらかな気持ちで受け止めることができた(何でもハイハイ聞いて真剣に相手していないとかではない)。
結局他に男ができて別れるはめになったりするわけだが(涙)。
※お前の魂のステージが低いんじゃね?とかいう話は本題ではないのでここでは結構。
魂が一番好きなところだと、真剣に好きなのだと思ってもらえないのだろうか。魂ってそんなにその人の本質とは別物?俺はそれこそが本質と思うのだが・・・。
「好きな異性のタイプは魂のステージが高い子です」なんて言うと程度の低い人間にみられてしまいそうな風潮があるのはなぜだろう。魂最優先で恋愛対象を選ぶことはそんなに薄っぺらいことなのか?魂ってそんなに軽薄な要素?
少なくとも今まで生きてきた中で見掛けて来た会話やインタビュー等で、好みのタイプを(冗談やネタ以外で)魂重視に答えている人はとんと見たことがない。
その理由としては、
1. 本当に、魂が自分好みかどうかが”好きな異性のタイプ”の優先事項(聞かれて第一に答えるような要素)である人は実はまずいない。【稀少説】
2. むしろ魂が自分好みかどうかが”好きな異性のタイプ”の優先事項に来ることは大前提過ぎて、あえて言う必要が無いくらいなのが常識なので言わないだけ。【常識説】
3. 魂が自分好みかどうかが”好きな異性のタイプ”の優先事項であることを表明することは、程度の低い人間に見られるか少なくともイメージは良くないので、思っていても言わない。【建前説】
4. 魂を要求することは、好みの中でもハイレベルの要求過ぎて、思っていても畏れ多くて誰も言えない。言うなれば、「好みのタイプは年収ウン千万円以上のやさしいイケメン」と言うのと似たようなもの。【高嶺説】
5. 魂は霊的情報のため、「性格」や「外見」や「年収」等などと違って不明確だったり、相手のステージが低いと自分へのステージが正確にわからないのではないかと相手に心配を抱かせてしまうので、そのような心配を避けたい相手に付き合いを遠慮される可能性があるため秘めておく。【心配説】
のうちのどれなんだろう。
結論
「好きな異性のタイプは魂が自分好みな人です」ということは、本当に程度が低いことなんだろうか。
別に相手の内面外見などを見る気がないわけじゃない。そういうのは知っていけば好きになれる自信があるのだ。
だから聞きたい。
もしあなたの目の前に、「好きなタイプは魂のステージが高い人」というような人が現れたら、感じ悪い?
別に傲慢な気持ちで言っているのではなく、それが正直な気持ちだから今後そう言って過ごすべきかと考えているのだが・・・。
http://anond.hatelabo.jp/20081108194131
もしかしたら気分を害する話かもしれないのだが真剣な悩みなのでできれば聞いて欲しい。
最近気づいたのだが、私はどうやら好きな異性のタイプというものは「外見が自分好みな人」らしい。
(揚げ足を取られる心配よりわかりやすさを優先すれば「外見がカッコイイ人」ということ)
これまでの付き合いでわかったことだが、他の人がギブアップしてきたような男も含めて、私の場合、相手の性格に関しては、かなり酷いところまで許容できる。というか、いくら甲斐性のない性格だろうが暴力的な性格だろうが相手の内面や考え方はだんだん好ましいものに思えてきたりするのだが、外見だけは(ブサイクな場合)頑張っても好ましいものとは思えなかった(たとえその男が床屋から美容院に変えて頑張っているのがわかっても)。
パチンコの出玉の不機嫌などをぶつけられたり競馬で予想屋に振り回されたり裏表含めた借金に気付かされても、私はだいたい泣き崩れたりもせず真剣にお金を用意して受け渡すのだが、そういうときに心に湧き上がっている思いは「こいつのこの性格さえ直ってくれればなー」ではなく、「こいつがもうちょっとカッコ良ければこういうことも苦じゃないのになー」という気持ち。醜い思いかも知れないがそれが正直な感情だった。金策自体には耐えることができた。耐えられなかったのはその外見なんだ。
逆にカッコイイ彼と付き合っていたときは、本当にいくらでもあげられる気持ちだった。上記と同じような目にあっても最初から大盤振る舞いな気持ちでお金を用意することができた(いくらでもハイハイ渡しているうちに金銭感覚がおかしくなったとかではない)。
結局他の女に子供ができて別れるはめになったりするわけだが(涙)。
※かいがいしいだけでは男の子は魅力を感じないよとかいう話は本題ではないのでここでは結構。
外見が一番好きなところだと、真剣に好きなのだと思ってもらえないのだろうか。外見ってそんなにその人の本質とは別物? 私はそうは思えないのだが・・・。
「好きな異性のタイプは外見がカッコイイ人です」なんて言うと程度の低い人間にみられてしまいそうな風潮があるのはなぜだろう。外見最優先で恋愛対象を選ぶことはそんなに薄っぺらいことなのか?外見ってそんなに軽薄な要素?
少なくとも今まで生きてきた中で見掛けて来た会話やインタビュー等で、好みのタイプを(冗談やネタ以外で)外見重視に答えている人はとんと見たことがない。
その理由としては、
のうちのどれなんだろう。
「好きな異性のタイプは外見が自分好みな人です」ということは、本当に程度が低いことなんだろうか。
別に相手の借金の額を見る気がないわけじゃない。借金は返済していけばゼロにできる自信があるのだ。
だから聞きたい。
もしあなたの目の前に、「好きなタイプはカッコイイ人」「好きなタイプはジャニーズ系」というような人が現れたら、バカっぽい?
別に自己陶酔な気持ちで言っているのではなく、それが正直な気持ちだから今後そう言って過ごすべきかと考えているのだが・・・
もしかしたら気分を害する話かもしれないのだが真剣な悩みなのでできれば聞いて欲しい。
最近気づいたのだが、私はどうやら好きな異性のタイプというものは「年収が自分好みな人」らしい。
(揚げ足を取られる心配よりわかりやすさを優先すれば「高給取りな男」ということ)
これまでの付き合いでわかったことだが、他の人がギブアップしてきたような男も含めて、私の場合、相手の性癖に関しては、かなり酷いところまで許容できる。というか、いくら歪んだ性癖だろうが破天荒なプレイ内容だろうが相手の体臭やSEXの相性はだんだん好ましいものに思えてきたりするのだが、年収だけは(少ない場合)頑張っても好ましいものとは思えなかった(たとえその男が残業などして頑張っているのがわかっても)。
理不尽な体位を要求されたり雪山の天気ほど早漏な部分にイッた振りさせられたり包茎の汚さに気付かされても、私はだいたいキレたりもせず真剣に乳繰り合って抱かれるのだが、そういうときに心に湧き上がっている思いは「こいつのこの性癖さえ直ってくれればなー」ではなく、「こいつがもうちょっと高給取りならこういうことも苦じゃないのになー」という気持ち。醜い思いかも知れないがそれが正直な感情だった。プレイ自体には耐えることができた。耐えられなかったのはその年収なんだ。
逆に高給取りと付き合っていたときは、本当に何でも受け入れてあげられる気持ちだった。上記と同じような目にあっても最初からおおらかな気持ちで抱かれることができた(何でもイクイク言って恥じらいの素振りすら見せなかったとかではない)。
結局他に愛人ができて捨てられるはめになったりするわけだが(涙)。
※従順なだけでは男の子は征服欲を満たせないよとかいう話は本題ではないのでここでは結構。
年収が一番好きなところだと、真剣に好きなのだと思ってもらえないのだろうか。年収ってそんなにその人の器とは別物? 私はそうは思えないのだが・・・。
「好きな異性のタイプは高給取りな男です」なんて言うと程度の低い人間にみられてしまいそうな風潮があるのはなぜだろう。年収最優先で恋愛対象を選ぶことはそんなに薄っぺらいことなのか?年収ってそんなに軽薄な要素?
少なくとも今まで生きてきた中で見掛けて来た会話やインタビュー等で、好みのタイプを(冗談やネタ以外で)年収重視に答えている人はとんと見たことがない。
その理由としては、
のうちのどれなんだろう。
「好きな異性のタイプは年収が自分好みな人です」ということは、本当に程度が低いことなんだろうか。
別に相手の性癖を見る気がないわけじゃない。性癖は知っていけば虜になる自信があるのだ。
だから聞きたい。
もしあなたの目の前に、「好きなタイプは高給取り」「好きなタイプはお金持ち」というような人が現れたら、感じ悪い?
別に傲慢な気持ちで言っているのではなく、それが正直な気持ちだから今後そう言って過ごすべきかと考えているのだが・・・。