はてなキーワード: 消費者とは
いきなり、メルカリで古着を買うことにはまり、調べまくって買いまくってるのだが
そのコメントが全部似たようなコメントだったのでなにこれ?メルカリ初心者だからなにも知らないけれどなんかパターンが決まってるの?と
YouTubeでメルカリ 古着の売り方について調べてみたら「100円仕入れ」という闇を見つけてしまった
100円仕入れの物販スクールにはいれば、スクール生にだけ特別に大きい古着の倉庫の商品を仕入れさせてあげるよ!どんな商品でも1着100円だよ!とのことだった
私はセカストに服を売ったことがあるのだが、商品にならない服はエコ買い取りで1円で買い取ってくれる
ブックオフとかセカストとかのこの商品にならないただの布を大量に買い取り、倉庫にいれて、スクール生に仕入れさせているらしい。この商品にならない服に有名ブランドの服を少し混ぜて、あたかも価値のある商品に見せかけている。
結論からいうと、100円仕入れは絶対に手を出してはだめらしい。
100円仕入れのスクール生はたくさんいるが、何十万~100万円するスクール受講費用をペイできてる生徒はほんの一握りで
スクール生の大半は途中で挫折とか、たいして儲からない商売をしているらしい
メルカリで古着屋さんを調べたら売れてない服の在庫を大量に抱えているアカウントがある。おそらくその売り主の自宅にはもっと大量の古着がある。おそろしい。
100円仕入れのスクール生は「安くて良いブランド服を手に入れたいなぁ」と思っている私たち消費者にとっては嬉しい存在ではあるが、自宅に売れない古着を大量に置いている古着屋さんのほとんどは地獄を見ている。スクール費用だけでも回収しようと思ったら長期間かなりの数を出品にしなくては行けないし
自宅が大量の古着だらけだし、メルカリで1日に出品できる数は制限されており、1日に大量に出品すると垢バンされることもあるらしい
推しが整形した。
ある日、Xの界隈がざわついていた。
たしかに久しぶりに見る動画ではなんとなく前と顔が変わっているように見える。でもそれ以上にすごく痩せたように見えるし、メイクとか光の加減で顔が違って見えるなんてこと当たり前にあるし、思い違いかもしれない可能性がまだ少し残されていた。
そもそも最初のうちはそんなことを推しの名前出してSNSで開けっぴろげに言う奴への反感が大きくて、特に「前の方が好きだったのに」とか「◯◯顔変わってない?」とか言う奴の気が知れなかった。究極的に言えばことの真偽は本人にしか分からないことだし、わざわざ名前つきでSNSに載せるようなことでもない。整形自体が悪とは言わないけど、芸能人である以上「整形した」という評判はあまり良いイメージを持たれないことの方が多いし、下手すればアンチの格好の攻撃材料にすらなる。
そういう前提があるにも関わらず自分の好みと違うというだけで推しへのマイナスイメージを名前つきで撒き散らし注意されれば「気持ちを吐き出す場を奪わないで」と被害者ぶる。そういう奴を見て腸が煮えくり返る思いだった。少なくとも不特定多数の人間に見える場でそれを言うことの意味が分からない。下手をすれば推し本人が見るかもしれない場で、もう済んでしまって取り返しのつかないことを「前の方が好きだった」と自分の気持ちを押し付ける。
本当にオタクってやつは救いようのない生き物だ。推し活とは誰かを消費しながら楽しむ娯楽であることはどうあがいても否定できない。だからこそ一人一人の線引きが重要で、どこで何を言うか、そして何を言わないかが本当に重要だ。それはいくら金を積んでいようが推しのためにどれだけ貢献していようが関係なく誰もが平等にわきまえるべき線引きのはずだ。消費者だから金を出してるやつは何を言ってもいいと考えてるオタクが多すぎる。オタクが決定できるのはそれに金を出すか出さないかだけで、意見を言ってもいいのはそれが改善される余地があることだけだ。(もちろん改善できるからといって推しに痩せろとか整形しろとかそういうことを言ってもいい訳では無い。待遇改善とかの話だ)それ以外の愚痴なら表に見えないところで同好の士と存分に語り合えばいい。誰かを消費している以上、少なくともその誰かの不名誉になることだけはすべきでない。それがオタクとしての最低ラインだ。
とまあここまでグダグダ他のオタクについてさんざん説教して来たが、騒動から数日後、自分はどうなのかということを考えるようになる。
推しの整形自体はどうやら本当らしいことが後のコンテンツではっきりした。たしかに前とは顔が違う。個人の好みをここで書くことは避けるが、前とは顔が違うのだからどうあっても推しの顔に対する違和感は拭えない。違和感は見慣れないからであってしばらくしたら慣れて普通になるだろうと自分に言い聞かせることにした。だが、どうにも推しの新しい顔を見るとなんだか気分が沈む。かっこよくないとかかわいくないとかそういうことではなく、推しの顔が変わったという事実にそこはかとない悲しみを覚えるのだ。
整形自体は本人が納得していればそれでいいと思うし、それで本人がコンプレックスを解消して明るく生きられるのなら全く構わないと思う。事務所命令で整形させられるなんて話も聞くけど最終的に決断を下すのは推し本人である以上そこにオタクの意見が介入する余地はない。それらは大前提としてそれでも私の心境は複雑なものだった。
今の気持ちを紐解いてみると、あれだけ可愛いと伝えたのに届かなかったのか、という無力感がひとつ、整形などしなくても衣装とメイクの力でどんどんビジュアルを更新し続けていたのになぜ今更不可逆的な整形という手段を選んだのか、という整形という行為自体への忌避感、そして、今まで私の払った金がその行為へと(間接的にでも)使われたという憤り(そのままの推しが好きだから金を払ったわけであって推しの顔を変えるために金を払った訳ではない)の3つが大きな柱として存在しているようだった。
もちろんオタクに何を言われようが整形しようという決定を覆すほどの影響力がないのは重々承知しているし、勝手に理想を押し付けていたのはこちらだと言われればぐうの音も出ない。整形という行為自体のハードルや捉え方も個人や文化によって乖離があって当然だ。過去に金を払った云々もその分の金を払った時点で何かしらの対価を受け取っているはずで、その使い道に関してまで消費者が口を出すことは出来ないのは当然のことだということも分かる。
でも悲しい。見慣れた顔がいきなり知らない人になった。思い出の中にいる人物とは違う見た目の人がどうやら今の推しらしい。色々な気持ちを伝えて、それを受け取ってくれていたと思っていたのに繋がりが消えたようで悲しい。これは全部全部どうしようもない愚痴だ。他人には書くなと言っておいてお前はここに書いてるじゃないかと思われるかもしれないが裏で愚痴を言い合う友達がいないからここに書いているダブスタ野郎だ。
つくづく推し活向いてない。オタクも向いてない。推しのことが好きなのかどうかもなんだかよく分からなくなってきた。今すぐファンを辞めるかどうか判断するのはまだ早いと思うので、とりあえず少し推し活から距離を取って時間が経つのを待とうと思う。前の顔(嫌な言い方)のグッズはとりあえず目につかないところに片付けた。お気に入りのビジュのものも全部片付けた。推しを入れようと思って買ったトレカケースも新しいグッズが出るまでは寝かせておくことにする。新しい顔(なんかアンパンマンみたいな言い方だ)に慣れて、推しは推しだと開き直ることができたらその時に使うことにする。
ふと思ったんだが、推し活はテセウスの船に似ているのかもしれない。人間と人間である以上、推しもオタクも多かれ少なかれ変化していく。何をもって推すかというのも人によって千差万別で、いつ船を降りるかも自由だ。私がいつまでこの船に乗っていられるかは分からないが、推しが整形したオタクの独り言をここに残しておく。
最後に一つだけ、推しが誰か分かったとしても「これって◯◯ですか?」とかしょうもないことをコメントするな。XでRPして「◯◯?」とかも言うな。これ自体を黙ってRPしてもお前の推しが整形したのかと思われるからやめろ。よろしく。
――悪性のすべてを兼ね備えた最悪の食品
最近、ポテトチップスなどのスナック菓子に「ノンフライ」をうたうものが多くなっていることに、あなたは気づいているでしょうか。
これは、「こんなものをつくっていてはまずい」と早くからわかっていたメーカーが、ようやく自主規制を始めたからだと、私は推測しています。
実は、ポテトチップスには「アクリルアミド」という発がん性の高い物質が大量に含まれています。アクリルアミドはAGEの1つです。
もともとアクリルアミドは工業用に広く使われていた物質で、がんや繁殖障害を起こすことが知られていました。そのため、あくまで「公害問題」として実態を調査していたスウェーデンで、食品中にもアクリルアミドが存在することが偶然にわかったのです。
このことは世界中に衝撃を与え、日本でも厚生労働省や農林水産省を中心に本格的な研究が開始されました。
その結果、とくに、120度くらいの高温で加熱した炭水化物(イモ類や小麦粉、米粉など)に大量に含まれることがわかりました。つまり、ポテトチップスやドーナツ、油で揚げたスナック菓子などには、アクリルアミドがいっぱい入っているということです。
こうした調査結果が出た段階で、スナック菓子のメーカーは相当な衝撃を受けたことでしょう。そして、「ノンフライ化」が静かに進められたのだと、私は考えています。
しかし、そういう一連の出来事を一般の消費者の多くはいまも知らずに、高温の油で揚げたポテトチップスを喜んで食べているのです。
絵を描かない連中が永遠に理解してくれないから、屋上屋を架すことになった。いい加減理解してくれ。
少しでもデジ絵を触ればわかるんだが、生成AIで出力しただけの画像は、見ればもうAI産だとわかる。なんもしてないんだなって。こいつ何も考えてないってわかるんだよ。手が3本生えてるとか、髪がめちゃくちゃとかじゃなくて。もうコンテキストがない。わかるかなぁ。
絵を描くときには基本的に目的があって筆をとってるわけ。そうすると、何処を描き込んで、どこを描き込まないかっていう、気圧の差っていうか、そういうのが産まれるわけ。
これは絵を描くことが楽しいバーサーカーでも同じ。そういうやつはだいたい、普通はそんなことまでやらんってことをしてくる。こいつやりおったって。そういう、画面の向かいのニンゲンの意思が伝わってくる。何を伝えたいのか、なんとなく伝わってくるわけ。これはなにも高尚なメッセージじゃなくても、「金髪のチャンネー最高!」とかでもいい。本当に何でもいいが、おれたちはそのメッセージと、メッセージの伝達方法の工夫を楽しみにネットの絵を見てるわけ。
でも、生成AIから「出しただけ」の絵はそうじゃない。そういうのはもう気圧がめちゃくちゃ。おまえこの絵のどこを見てほしいの?何を伝えたくて書いたの?何もわからない。その結果、おれたちはどうでもいい天井のシワを見つめて、お前たちが伝えたいのはこれなのか……?っておそるおそるプロフを見に行って、やっぱAIじゃねーか!ってなる。全く無駄な行為だったわけだ。そこに意図なんてなかった。誤解したおれが悪かった。そんなことを繰り返した結果、絵を見た瞬間に「それが生成AI産なのか」がわかるようになった。
最近はもう「その雰囲気」を感じ取っただけで見るのをやめてる。昔から知ってる神絵師だけをフォローして、新しいメッセージを、たまにしか降ってこない甘露を、延々と待つようになった。pixivをディグるのはもうやめた。イラストを凝視しても得られるリターンが担保されないので、虚しいからだ。
リターンがなければ、無視すればよろしい。それが黄金則だ。絵師と生成AI絵師は別世界に棲み分ければ良い。実際、生成AIにもメリットと独特の良さがある。それは認めるところである。
だがしかし、絵師には絵師なりの理由があって、今日まで生成AI許すまじと論争を続けている。ある問題があるからだ。
それは、生成AI丸出し、なんのコンテクストもない画像が、何故か一部民衆に受容されつつあるということだ。
他の、著作権がどうのという問題は、絵師が共通で抱えている嫌悪感のすり替えに過ぎない。無視したいが、なぜが周りの民衆が無視しないから、何かの理由を付けて批判せざるを得ないのだ。
冒頭で、審美眼がないと言った。それは一部の生成AI絵師もそうだが、何よりあれを「手書き並のクオリティ」と持て囃す消費者層を形容した言葉だ。
少しでも絵を触ったことがあれば、生成AIのファーストインパクトは「へーすごいね。でも仕事にはならないな。すげーおもちゃだ」だっただろう。それなのに一部の消費者層は、これを大変有り難いと言わんばかりに使い始めたわけだ。
おい待てと。これのどこがいいんだと。じゃあお前らはいままで俺たちが描いたもののどこを見てきたんだと。
当然、嫌悪感を抱く。だが、「だってそれ生成AIで出しただけじゃん!」と伝えても、彼奴等は首を傾げるばかり。
最近は、どうみても実写丸出しの自称「アニメ」がニュースに載った。何より驚いたのは、あれにゴーサインを出した報道陣である。絵に対する恐ろしいまでのリテラシーのなさだ。あれのどこが良いと思ったのか、まるで理解できない。仮にもアニメ制作会社と関係のある会社の振る舞いがこれかと、閉口したものだ。
どうせ伝えても伝わらない。そのうち、この嫌悪感を「そういう層」に伝わるような問題点にすり替えて問題を論ずるようになった。やれ著作権が、権利が、そういったものに。
だが、それらは理論上は手描きでも可能で、AI独自の問題じゃないということは、誰にだってわかる。だから平行線なのだ。
この感覚は、なかなか伝わらないらしい。だから、比較的広い層に伝わりそうな類例を持ってきた。
機械翻訳もまた著しい発展を迎えた界隈である。が、機械翻訳だけで全てが事足りるとは思っていないはずだ。
これはアカデミックに属したことがあればわかるが、英語の論文を機械翻訳して読む、という行為にはまったくの意味がない。著者が伝えたい事実を、機械翻訳は考慮しないからだ。そのうえ、業界の慣習を無視した翻訳がなされるので、その翻訳された文章に意味はない。なんとなく読んだ気になるだけだ。
小説もそうだ。ハリーポッターでもなんでもいい。あれらの「機械翻訳版」と「訳者監修の日訳版」どっちを手に取るか。当然後者だろう。
そうした現状にあるのに、海外製品の公式ドキュメントは多言語翻訳版を機械翻訳によって作成する。「機械学習により作成されたため、不正確な場合があります」と但し書きを付けながら。
これはビックテックであっても例外ではない。訳者を雇う金はありながら、正確な訳を提供しない。
なぜか?日本語話者なんてよく知らないし、どうでもいいからだ。
それでも有り難がる連中がいる。英語を読めない層だ。そんな不正確な日本語読んでる暇があったら英語勉強した方が早いよと伝えても耳を貸さない。それで満足している層に恐怖する。機械翻訳版を読んで何かした気になっているニンゲンの、その感性に恐怖している。それは天井のシミなんだって。そこに別の人間が伝えたかったメッセージは存在しないんだと、伝えても伝わらないことに恐怖している。
というわけだ。
現在抱えている嫌悪感のその本質は、「メッセージ性も何もない破綻した絵を持て囃す連中の審美眼が信じられない」ということになる。
さらに恐ろしいのは、彼らが生成AIの発達とともに、その審美眼と理性を失ったわけではないということだ。
彼らとて、三歳児の落書きと、絵の修練を積んだ人間の描いた絵の区別はついていた。だから、絵師たちは自分たちが絵に込めていたメッセージが市井に伝えられているのだと信じることができた。それを感じ取ってくれているからこそ、自分は市場に支持されているのだと信じることができた。
が、今は違う。
生成AIから出しただけの画像と手書きとの区別もつかない連中がいるのだと知ってしまったからだ。
だから、自分の支持者の中にそんな「肯定派」がいないか魔女狩りもしたくなる。それを肯定する気にはなれないが、その絶望は理解できる。
そうせざるを得ないのは、少しでも正気に戻ったら「生成AI丸出しの画像のクオリティでいいなら、おれたちこんなに心身削って絵を描く意味ないじゃん」と気付いてしまうのを避けているからだ。
高精細なイラストなんていらなかった。市場がそれを求めていなかった。顧客は、一分で生成された「なんかよさげな画像」に吸い寄せられていく。なんだよ。それでいいなら、おれたちこんなに描かなくて良かったじゃん。
そして、この価値観が行き着く先は、「誰も作品に込めたメッセージを理解してくれない」「誰も自らの磨いた技術を評価してくれない」という絶望の世界だ。
それが繰り返されれば、当然続ける意味もなくなる。そして現在の伝統的製法によるイラスト制作技術は失われ、生成AIによる模造品が市場に氾濫することになる。廃業なんて話じゃない。業界自体の喪失だ。絵にメッセージを込めるという行為時代が廃れるのだ。
それ系垢のRTやら署名がどうたらやらが流れてきたらミュートってやってたら結構な数になっとるわ。
まあサークル側が大半だし、趣味でも成果で比較される環境で負荷がかかるとダメってだけなのかもしれないな。
消費者オンリーオタクが虚無らない様ってあんま想像できんけど、負荷が無い状態で飽きない限りはオタク趣味を頼りに弱男ロールモデルとか言ってられる可能性はワンチャンあるな。
キャパ130人くらいの劇場で公演をしているような劇団の中堅の役者のファンだった。
結婚していることは非公開にしているくせに
奥さんは私によく「匂わせ」をしてきていた。
そんなとこもなんかずっと気持ち悪かった。
推し(便宜上そう呼ぶ)は、20年前はたっくさんのファンがいた。
人目につくような仕事をしていたから、仕事から流れてきたファンがたくさんいて、私もその1人だった。
でもその仕事がなくなり、人目につかなくなると、ファンはすぐに離れていった。
若かりし頃、被りなんてみんないなくなっちゃえばいいのに、と思ったこともあったが
実際に居なくなるとなんとまあやりがいのないことか。
ファン同士で「私の方がいい対応してもらってる!」「私の方が可愛い!」「私の方がたくさん金を落としている!」など内心バチバチやることが楽しかったのだ。
今は、客は客だしお行儀よく金落とせば好かれる。とわかるけど、そういうことがわからないファンが(私含め)いっぱいいたしそれで承認欲求が満たされることが楽しかった。
淡々とした日々が続いた。
頑張ろうが頑張らなかろうが私は「唯一のファンで絶対的な存在」だから、頑張る必要がなかった。
その頃気づいたが、推しには役者としての魅力がなかった。演技も上手くないし、顔もスタイルも貧相。20年前は若くて華があっただけだった。
あとびっくりするくらいコミュ障で、面会でも会話が成立しない。
だから、役者としても別に好きではないし、人としては苦手だった。唯一のファンである心地よさと、他の劇団員がいつも良くしてくれるから辞められなくて、ずっとファンを続けていた。
ファンになって19年が過ぎた頃、状況が変わった。
その頃の私は怠慢も怠慢で、推しが出演する舞台でも、その団体の作風が嫌いなら観に行かなかった。
役者のファンとして推しが出るなら観に行こう、という気持ちより、消費者として観たくないものは観なくていいだろ、と思っていた。今もそれは正しいと思っているけど、ファンならなにがなんでも追いかけるのもまた正解だったのだと思う。
そんな間に、私が観に行かなかった舞台を「推しを目当てに見に行った人」をXで見つけた。
推しはXで、劇団のファンの中で唯一私だけをフォローしていた。
ごくたまに、酔った勢いで推しが芝居のことや仕事のことでDMをしてくることがとても嬉しく、私の中の自信となっていた。
別に全然いいしファンが出来て良かったねと思っていた。本当に。
でも、気づいたら、「新規」のツイートばかりいいねやリツイートしているな。とか
面会の際も「新規」とは長々話しているな、とか勝手に卑屈に感じるようになっていった。
今まで待ち望んでいた被りなのに、
「別に私じゃなくても誰でもいい」みたいな扱いを受けると
虚無感に襲われた。
推しにとっては、チケットが売れて席が埋まれば、誰が座っても変わらないことは頭では理解しているのだけど、ヲタクとしては感情が追い付かない。
「新規」は0:00に主語もなく「おめでとう」とだけXにポストしていた。
私も数時間後に同様につぶやいた。
その日の夕方になり、「新規」のつぶやきにだけいいね がついていた。
私の気持ちが折れた。
こんなに長文を書いて。
いいねがつかなかったって。
しょうもな
でも、でも、タイムラインを見ていたら、「新規」のポストが目にはいったなら、私のポストも目に入ったんじゃないの?とか
いつも劇団に関するポストをすると即座にいいねしてくるんだから私のポストも絶対に見ているはずなのに、とか。
まあこれはきっかけに過ぎないのだけど
誕生日おめでとうのつぶやきに、被りはいいねされて私はいいねされなかったので、私は20年続けた推しのファンを辞めます
推しがXの使い方が上手ければこんなことにはならなかったのかも、と思うと悔しい。
客のポストをバカみたいに全部リポストするから、本当に見たい劇団員のポストが埋もれるし全員がリポストするから同じ客のポストが何度も流れてきて不快。
複数回観劇するヲタクがここぞとばかりに考察したり「今日はこうだった」とポストするのに嬉々として反応するので、ライトヲタは肩身が狭くなり行きにくくなる。
まじで頼むから当日券情報とか楽屋での様子だけポストしててくれ。
いまだにヘッダーを私が撮った写真にしてくれていることだけが唯一の私の自信です。
バイバイ元気でね。
インターネット広告を巡る議論は、常に賛否両論を呼んできた。広告は情報の流通に不可欠な存在である一方、ユーザー体験を損ねるものとしても認識されてきた。近年、広告ブロッカーの普及により、この議論に新たな火種が投じられている。
広告の本来の目的は、広告主の商品やサービスについて、ユーザーに有益な情報を提供することにある。それは、ユーザーと広告主の間のコミュニケーションの一環であり、両者にとってWin-Winな関係を築くことが理想とされる。しかし現実には、多くの広告が本来の目的を見失い、ただ単に広告収入を得ることだけを目的としているように見受けられる。
特にブログやアフィリエイトサイト上の広告は、質の低下が顕著だ。ユーザーを騙してクリックさせるような広告ばかりが目につき、ユーザー体験を大きく損ねている。これらは一時的には収入を得られるかもしれないが、長期的にはユーザーの信頼を失い、広告主のブランドイメージも傷つける。広告収入というシステムから利益を得ようとするあまり、本末転倒な状況に陥っているのだ。
特に深刻なのが、SNS上でのAIを利用した詐欺的な広告の蔓延だ。巧妙に作られたこれらの広告は、ユーザーを欺いて個人情報を盗み取ったり、偽のサービスに誘導したりする。健全な広告というよりは、もはやサイバー犯罪の一種と言っても過言ではない。プラットフォームの信頼性を根本から揺るがす由々しき事態と言えよう。
こうした状況下で、広告ブロッカーの存在は無視できない。ユーザーの立場に立てば、質の低い広告をブロックするのは正当な権利だと言える。しかし、媒体運営者にとっては死活問題だ。広告収入に依存するビジネスモデルは、存続の危機に直面している。だが、ユーザーによる広告ブロックを「不当」で「利己的」な行為と決めつけるのは短絡的だろう。問題の本質は、広告収入のみに依存し、広告の質の向上よりも単価の上昇で対応してきた媒体運営者側にあるのではないか。
さらに、広告主の視点から見ても、課題は山積している。詐欺的な広告主と正当な広告主の区別は容易ではない。ユーザーからすれば、どの広告が信頼できるのか判断しづらいという実情がある。そしてこの問題の背景には、広告業界全体の不透明な構造がある。広告代理店やアドネットワークが介在することで、広告主とユーザーの距離が離れ、悪質な広告主が紛れ込む余地が生まれてしまう。広告主側も、自社広告の配信状況を十分に把握できていない可能性がある。
結局のところ、問題の本質は利権の問題に行き着く。質の低い広告や詐欺的な広告を野放しにしているのは広告提供業者であり、その広告提供業者を公に許しているのは各種大型プラットフォーム(SNS及び動画サイト)や中小ウェブサイト経営者だ。そしてこの中で、詐欺的広告や質の低い広告を自主的に制限可能なのは、提供業者と大型プラットフォーム経営者のみ。特に大型プラットフォーム経営者は、広告主と消費者を結ぶ重要な結節点であり、交渉力を持ち合わせる業界のルールメイカーとしての立場にある。
ここで問われるのは、消費者が大型プラットフォーム経営者に対して、質の低い広告や詐欺的な広告を載せるなと要求する権利があるのかどうかだ。言い換えれば、消費者の利益のために、プラットフォーム経営者の「しない自由」を制限する正当性があるのかという問題だ。
この問いに対しては、肯定的な答えが導き出せるだろう。今やインターネットは公共の場であり、現実のビジネスの場となっている。プラットフォーム経営者には、その公共性を維持する責任がある。そして何より、消費者が実際に被害を受けているという現実がある。詐欺的な広告による経済的損失や、プライバシー侵害への懸念は看過できない。にもかかわらず、プラットフォーム経営者がその要望に真摯に対応してこなかったのは問題だ。
この状況を打開するには、消費者、広告主、プラットフォーム運営者の三者が協力し、具体的なアクションを起こしていく必要がある。
まず、プラットフォーム運営者は、消費者からのフィードバックを積極的に活用し、広告審査体制を強化すべきだ。AIを活用した自動検知と並行して、人間の目による確認を徹底することが求められる。また、広告主の身元確認を厳格化し、広告内容の事前審査を義務付けることも重要だ。広告ポリシーを明確に定め、違反広告には厳正に対処する姿勢を示さなければならない。
広告主側にも、自社広告の配信状況を適切に管理し、質の高い広告を提供する責任がある。業界団体などと連携し、自主規制のガイドライン作りを進めることも有効だろう。
そして消費者は、問題のある広告を積極的に通報し、健全な広告環境作りに主体的に参加することが求められる。プラットフォームに対しても、改善を粘り強く要請していく必要がある。
プラットフォーム経営者には、「しない自由」よりも、「すべき責任」がある。業界をリードする立場である以上、消費者の信頼に応える努力を怠ってはいけない。もちろん、行き過ぎた規制は表現の自由や市場の健全な発展を阻害する恐れもある。だからこそ、消費者、広告主、プラットフォーム経営者の三者が対等な立場で議論を重ね、バランスの取れたルール作りをしていくことが大切なのだ。行政にも、この取り組みをサポートする役割が期待される。
ここで、インターネットの本質的な位置づけについても考えてみたい。インターネットは、当初は「市場原理に任された自由な場」という性格が強かった。規制は最小限に留め、自由な競争を促すことが重視されてきた。しかし、インターネットが社会に不可欠の基盤となった現在、その公共性は著しく高まっている。フェイクニュースやヘイトスピーチ、プライバシー侵害など、弊害への対策が急務となっている。
こうした認識の下、各国で法規制の動きが強まっているのは事実だ。だが、だからと言って行き過ぎた規制は避けなければならない。インターネットのイノベーションや表現の自由を阻害しないことが肝要だ。市場原理と公的規制のバランスをいかに取るかは、社会全体で知恵を出し合うべき課題である。
今こそ、従来の広告依存のビジネスモデルを見直し、新しい価値交換の形を模索すべき時だ。サブスクリプションモデルや有料記事など、ユーザーに直接的な価値を提供し、対価を得るビジネスモデルへの転換も一つの選択肢となるだろう。情報に対する価値観も変化し、良質なコンテンツには対価を払うという意識が広がりつつある。
また、広告収入の一部を広告審査の強化に充てる仕組みを作ることも検討に値する。広告の質を高めることが、結果としてプラットフォームの収益向上につながるのだという認識を、業界全体で共有することが重要だ。
健全な広告業界の発展は、ひいては健全なインターネットの発展につながる。広告主、メディア、ユーザーの三者が協力し合い、透明性と信頼を高めることで、より良い広告の在り方を模索していくことが求められる。広告ブロッカーの普及は、そのための重要な転換点となるはずだ。
インターネットは、「市場原理に委ねられた自由な場」から「公共性を帯びた社会基盤」へと変貌を遂げつつある。そして、我々はその変化の只中にいる。だからこそ今、インターネット広告の在り方を問い直し、健全なインターネットの未来を築くために行動を起こす必要がある。広告ブロッカーが投げかける問いは、そのための重要な一歩なのだ。私たち一人一人が、その問いを自分事として捉え、できるアクションを起こしていくこと。それが、より良いインターネットの未来を切り拓く鍵となるだろう。
市場調査の主な目的は、新製品が市場にどのように残るのか、そして消費者が新製品とどのように関わっているのかを調査することです。したがって、市場調査レポートは、市場と消費者を理解するのに大幅に役立ちます。
消費者の満足度は、あらゆるビジネス設定の成功にとって不可欠です。市場調査は消費者の行動を解明するための最良のツールの 1 つであり、消費者の満足度を高める手法の導入に役立ちます。したがって、消費者調査は市場調査に直接リンクされているか、むしろ市場調査の一部です。
以下のリンクからすべての情報を見るには、ここをクリックしてください:https://www.sdki.jp/blog/how-to-understand-your-market-and-consumer-using-market-research-report/30
市場調査の主な目的は、新製品が市場にどのように残るのか、そして消費者が新製品とどのように関わっているのかを調査することです。したがって、市場調査レポートは、市場と消費者を理解するのに大幅に役立ちます。
消費者の満足度は、あらゆるビジネス設定の成功にとって不可欠です。市場調査は消費者の行動を解明するための最良のツールの 1 つであり、消費者の満足度を高める手法の導入に役立ちます。したがって、消費者調査は市場調査に直接リンクされているか、むしろ市場調査の一部です。
以下のリンクからすべての情報を見るには、ここをクリックしてください:https://www.sdki.jp/blog/how-to-understand-your-market-and-consumer-using-market-research-report/30
女向けだの男向けだのにやたらと執着する人間ってアタマおかしいと思う
作り手とか他者が自分を理解してくれることを要求しすぎというか
もちろん自分の好みがあってそれに従うのは前提だとしても
これは誰向けだとか厳密に型にはめたりせずにまず作り手が表現したいもの、世界観とかそういう総体的な大枠を尊重してあげられる人間じゃないと
こういうカルチャーに触れていく資格がない、とまではいわないが、モンスター消費者になりがちだと俺は思っている
そもそも現実の世の中と同様フィクションの世界だってあらゆるものが混ざってるのが当たり前
自分の嫌いな要素が入ってたら全部ダメかのように言って貶せるほどナイーブな人間が、物事を妥当に把握すること、まして論じることなどどだい不可能
他人がどうではなく作品の中で自分にとってのスイートスポットを楽しむという関わり方を習得できてない人はなんでこうも声が大きいのか
それは作品に触れれば触れるほど孤独を感じてしまって喚きたくなるからだろう
適応力を高める方向にいけるのがオタクだが、喚いて「なんだこんなもの」と当てつけをしてしまうのが残念な人間の思考回路なのだろう
https://www.sdgs-ship.com/premium_corporate_member/jp_subject_detail/20171002-1
しかし、物流システムや道路等のインフラ整備が整っていない事から、収穫後の農産物の大半が失われています。 例えば、ナイジェリアはアフリカでトマトの生産量が2番めに多く、年間150万トンを生産していますが、収穫後50%は傷んで破棄されています。主な原因として、収穫の際にトマトの入ったバスケットを重ねている点、収穫後のトマトを保管しておく倉庫が足りない点、そして低温流通体系(コールドチェーン)が無いため長距離移動の際にトマトが傷んでしまう点があります。