はてなキーワード: 前説とは
- 本当に、性格が自分好みかどうかが”好きな異性のタイプ”の優先事項(聞かれて第一に答えるような要素)である人が大量にいる。【大量説】
- むしろ性格が自分好みかどうかが”好きな異性のタイプ”の優先事項に来ることは大前提過ぎて、あえてそれを言って済ますことで自分の本当の好みを言いたくない場合や自分でもわかっていない場合の逃げに使えるので言われるだけ。【逃避説】
- 性格が自分好みかどうかが”好きな異性のタイプ”の優先事項であることを表明することは、外見にとらわれない出来た人間に見られるか少なくともイメージは良いので、思ってなくても言う。【建前説】
- 性格を要求することは、好みの中でもハードルが低めなので、それを言うことで「私でも恋人になれるかも!」という幻想をみなに抱かせることができるため人気取りに多用される。言うなれば「ファンのみんな愛してるよ」と言うのと似たようなもの。【幻想説】
- 性格は内面情報のため、「外見」や「年齢」等以上に、変化した場合でも不明確だったり、街でもっと性格が好みの人を見抜いたりして自分への愛情が薄れてしまうのではないかと相手に心配を抱かせることがないので、そのような心配を避けたい相手に付き合いを遠慮される可能性がないため重宝される。【安心説】
大量説かな。
薄いな。
もしかしたら気分を害する話かもしれないのだが真剣な悩みなのでできれば聞いて欲しい。
最近気づいたのだが、俺はどうやら好きな異性のタイプというものは「性格が自分好みな人」らしい。
(揚げ足を取られる心配よりわかりやすさを優先すれば「性格が良い子」ということ)
これまでの付き合いでわかったことだが、他の人がギブアップしてきたような子も含めて、俺の場合、相手の外見に関しては、かなり酷いところまで許容できる。というか、いくら歪んだ顔面だろうが破天荒な体型だろうが相手の容姿や化粧はだんだん好ましいものに思えてきたりするのだが、性格だけは(うじうじ自己評価が低い場合)頑張っても好ましいものとは思えなかった(たとえその子がカウンセリングや増田で悩みを吐露して頑張っているのがわかっても)。
理不尽な太り方をされたり雪山の天気ほど変わりやすいバストサイズに振り回されたりヒダヒダの汚さに気付かされても、俺はだいたい萎えたりもせず真剣に突き合って抱きとめるのだが、そういうときに心に湧き上がっている思いは「こいつのこの外見さえ直ってくれればなー」ではなく、「こいつがもうちょっと性格良ければこういうことも苦じゃないのになー」という気持ち。醜い思いかも知れないがそれが正直な感情だった。外見自体には耐えることができた。耐えられなかったのはそういう外見への自己評価の低さからくる諍いなんだ。
逆に性格の良い子と付き合っていたときは、本当に何でも舐めてあげられる気持ちだった。上記と同じような目にあっても最初からおおらかな気持ちで抱きとめることができた(いつでもホイホイ挿れて真剣に愛撫していないとかではない)。
結局他に男ができて別れるはめになったりするわけだが(涙)。
※優しいだけでは女の子は感じないよとかいう話は本題ではないのでここでは結構。
性格が一番好きなところだと、真剣に好きなのだと思ってもらえないのだろうか。性格ってそんなにその人の性的魅力とは別物? 俺はそうは思えないのだが・・・。
「好きな異性のタイプは性格の良い子です」なんて言うとありふれた人間にみられてしまいそうな風潮があるのはなぜだろう。性格最優先で恋愛対象を選ぶことはそんなにありがちことなのか?性格ってそんなに軽薄な要素?
少なくとも今まで生きてきた中で見掛けて来た会話やインタビュー等で、好みのタイプを(冗談やネタも含めて)性格重視に答えている人にはことかかない。
その理由としては、
のうちのどれなんだろう。
「好きな異性のタイプは性格が自分好みな人です」ということは、本当にありふれたことなんだろうか。
別に相手の外見を見る気がないわけじゃない。外見は見慣れていけばあばたもえくぼに見える自信があるのだ。
だから聞きたい。
もしあなたの目の前に、「好きなタイプは良い子」「好きなタイプは良識人」というような人が現れたら、印象薄い?
別にカモフラージュで言っているのではなく、それが正直な気持ちだから今後そう言って過ごすべきかと考えているのだが・・・。
でも言うってことは、よっぽど自分に自信がある(俺なら許されると思っている)か、全てにおいて欲張りで傲慢でしかも自覚がないか。
うおお!すごく参考になりました。1件の事例とは言え、かなりしっくり来ます。そうか、そう思われるよなー。
他のみなさんのコメントも受け、元の
も
- 本当に、外見が自分好みかどうかが”好きな異性のタイプ”の優先事項(聞かれて第一に答えるような要素)である人は実はまずいない。【稀少説】
- むしろ外見が自分好みかどうかが”好きな異性のタイプ”の優先事項に来ることは大前提過ぎて、あえて言う必要が無いくらいなのが常識なので言わないだけ。【常識説】
- 外見が自分好みかどうかが”好きな異性のタイプ”の優先事項であることを表明することは、程度の低い人間に見られるか少なくともイメージは良くないので、思っていても言わない。【建前説】
- 外見を要求することは、好みの中でもハイレベルの要求過ぎて、思っていても畏れ多くて誰も言えない。言うなれば、「好みのタイプは年収ウン千万円以上の人」と言うのと似たようなもの。【高嶺説】(コメントを受け追加)
- 外見は視覚情報のため、「優しさ」や「気が合う」等以上に、衰えた場合に明確だったり、街でもっと好みの人を見掛けたりしただけで自分への愛情が薄れてしまうのではないかと相手に心配を抱かせてしまうので、そのような心配を避けたい相手に付き合いを遠慮される可能性があるため秘めておく。【心配説】(コメントを受け追加)
という風に下2つの説を追加してみました。ありがとう。
今のところの回答だと、【常識説】以外全ての混合ってとこなのかなあ。
悩みに関しては、
「俺、顔が好みだとなんでも許せちゃうんですよねー」
って感じの表明の仕方にしとくのが良さそうですね。ありがとう!
うん、そのイメージも考えたんだ。
の部分に、
4. 外見を要求することは、好みの中でもハイレベルの要求過ぎて、思っていても畏れ多くて誰も言えない。言うなれば、「好みのタイプは年収ウン千万円以上の人」と言うのと似たようなもの。【高嶺説】
というのも入れようかとね。
そういうことなんだろうかやっぱり。
もしかしたら気分を害する話かもしれないのだが真剣な悩みなのでできれば聞いて欲しい。
最近気づいたのだが、俺はどうやら好きな異性のタイプというものは「外見が自分好みな人」らしい。
(揚げ足を取られる心配よりわかりやすさを優先すれば「外見が可愛い子」ということ)
これまでの付き合いでわかったことだが、他の人がギブアップしてきたような子も含めて、俺の場合、相手の性格に関しては、かなり酷いところまで許容できる。というか、いくら歪んだ性格だろうが破天荒な性格だろうが相手の内面や考え方はだんだん好ましいものに思えてきたりするのだが、外見だけは(ブサイクな場合)頑張っても好ましいものとは思えなかった(たとえその子がおしゃれなどして頑張っているのがわかっても)。
理不尽な不機嫌などをぶつけられたり雪山の天気ほど気分屋な部分に振り回されたり裏表のある汚さに気付かされても、俺はだいたいキレたりもせず真剣に付き合って受け止めるのだが、そういうときに心に湧き上がっている思いは「こいつのこの性格さえ直ってくれればなー」ではなく、「こいつがもうちょっと可愛ければこういうことも苦じゃないのになー」という気持ち。醜い思いかも知れないがそれが正直な感情だった。諍い自体には耐えることができた。耐えられなかったのはその外見なんだ。
逆に可愛い子と付き合っていたときは、本当に何でも受け入れてあげられる気持ちだった。上記と同じような目にあっても最初からおおらかな気持ちで受け止めることができた(何でもハイハイ聞いて真剣に相手していないとかではない)。
結局他に男ができて別れるはめになったりするわけだが(涙)。
※優しいだけでは女の子は魅力を感じないよとかいう話は本題ではないのでここでは結構。
外見が一番好きなところだと、真剣に好きなのだと思ってもらえないのだろうか。外見ってそんなにその人の本質とは別物? 俺はそうは思えないのだが・・・。
「好きな異性のタイプは外見が可愛い子です」なんて言うと程度の低い人間にみられてしまいそうな風潮があるのはなぜだろう。外見最優先で恋愛対象を選ぶことはそんなに薄っぺらいことなのか?外見ってそんなに軽薄な要素?
少なくとも今まで生きてきた中で見掛けて来た会話やインタビュー等で、好みのタイプを(冗談やネタ以外で)外見重視に答えている人はとんと見たことがない。
その理由としては、
のうちのどれなんだろう。
「好きな異性のタイプは外見が自分好みな人です」ということは、本当に程度が低いことなんだろうか。
別に相手の内面を見る気がないわけじゃない。内面は知っていけば好きになれる自信があるのだ。
だから聞きたい。
もしあなたの目の前に、「好きなタイプは可愛い子」「好きなタイプは美人」というような人が現れたら、感じ悪い?
別に傲慢な気持ちで言っているのではなく、それが正直な気持ちだから今後そう言って過ごすべきかと考えているのだが・・・。
友達の後輩をまぜて飲む機会があり、何の前説もなく「東大なんだよコイツ」と友達から紹介され、「ははあ。よく勉強したんだね」と言ってしまった。
なぜか皮肉っぽく聞こえたらしく、友達から後でたしなめられた。まあこの友達が気にしすぎなだけで東大の彼はたぶん気にしてないと思うんだけど。
どうも東大生(あるいは京大生)の扱いって難しいな。東大ネタで必要以上に褒めて盛り上げるのがいいのか、あんまり触れないでおくのがいいのか。
僕個人の価値観で「東大生」というと、あの苦しい受験戦争に勝ち抜いた強者、という印象しかなく、あまり「頭がいい」と褒めるのは当人にとっても辛いのではないか、と考えてしまう。
だから「東大」であることをネタにすることは控え、彼も自分からそういうことは言わなかった。
むしろ友達が「これだから東大生は」とか「ほんとこいつ頭の中身が俺らと違うからさー」とかで話を茶化す傾向にあり、その方がよっぽど場を揺るがしていたのだ。
東大生の扱い方が難しいというのは、複数人の場でどのように処理していいのかが難しいということ。
この友達のように「東大」ネタを持ち込まれると、それに応じて「やっぱ違うなー東大」とか言わなきゃ変に思われそうで。
現に紹介時のやりとりを友達は変に思ったようだし。
東大生に対する価値観は人それぞれで問題ないし、僕も修正を求めたりはしないのだけど、それだけに扱いが難しい。当人がどう思ってるかに関係なく。
#9/13 12:35時点での釣果 : 125ブクマ
もの凄い勢いでフェードアウトしつつある沖縄米兵少女暴行「疑惑」だが、そもそもレイプはあったのかどうなのか?
もちろん私は、「被害者の少女にも原因はあった」などというバカ右翼の意見には全く賛成しない。というか、むしろ全否定。少女に非は一切ない。
ただ、左翼マスコミやはてなサヨクの皆様の少なからずは、『レイプがあったことは間違いのない真実だが、慙愧に耐えぬことながら被害を受けた少女が告訴を取り下げたから訴追できないのだ』と少々おかしななことを言っておられるようだ。
朝日新聞に至っては、『だが、捜査は打ち切られても、疑いが晴れての釈放とはまったく違う。強姦(ごうかん)の容疑を否認し続けた米兵自身も、取り調べに対して「少女に関係を迫った」ことまでは認めた。米兵のしたことは決して許されない。』とトチ狂ったことをほざいている。
いやいやいや、そんなことを言い出したら、富山や鹿児島の冤罪事件だって、『無罪になっても、疑いが晴れての無罪とはまったく違う。被疑者も一度は取り調べに対して「私がやりました」と認めた。被疑者のしたことは決して許されない。』ってなりませんか??
もちろん、不起訴処分だからといって、更には無罪になったからといって、必ずしも本当に罪を犯していないわけではない。それはその通りだ。逆に、有罪になったからといっても、必ずしも本当に罪を犯したとは限らない。
でも、それはそうと知った上で、司法制度から導き出された処分を甘んじて受入れるのが、良識ある市民のあるべき姿なのではないのでしょうか?それを無視したら、『犯人をつきとめるためには拷問も許される』という戦前の特高警察や現在のCIAと変わらんでしょう。
糾弾するために両手を振り上げてよし今から思い切り振り下ろそうというときに、被害者に告訴を取り下げられて、両手のやり場がないのはお気の毒ですが、だからといってレイプがあったことが前提という話は、根本的におかしいでしょう。
さて、前説が長くなりましたが、本題の『ところでレイプはあったのか?』に入ります。
というかね、まあ上で長ったらしくグチグチ書いているのでなんとなく推測はついたと思いますが、ぶっちゃけ私はレイプはなかったと思ってます。あったとして(悪質とは言いにくいレベルの)強姦未遂か強制わいせつくらいかな、と。
まず、ちょっと考えれば分かりますが、仮にレイプがあったとしても、おそらくは衝動犯であって計画犯でない可能性が高いです。なぜなら、そもそもはじめからレイプするつもりだったなら、帰り道にレイプっておかしいんですよ。
そもそも(レイプ後)生きて相手を帰すのであれば、自宅に連れ込んだら足がつくじゃないですか。もしレイプするつもりだったなら、自宅になど連れて行かずに、適当な人気のないところに連れ込んでレイプすると考えるのが自然です。
とすると可能性が高いのは、レイプするつもりはなかったか、もしくは帰り道に突然猛烈な性欲に襲われて衝動的にレイプしたか。
で、仮に衝動的にレイプしたとすると、非常におかしなことがあります。それは、米兵が現場の近くで逮捕されていること。レイプ現場に残る犯人なんておかしくないですか?捕まえてくれと言っているようなものじゃないですか。
更には、容疑者の『関係は迫ったが、暴行はしていない』という主張も妙です。普通なら『合意はあった』というはずです。なぜなら、合意があろうがなかろうが、セックスすればそれ相応の「証拠」が残るからで、「証拠」がみつかったら『関係は迫ったが、暴行はしていない』なんていう主張は通用しません。
だから、私はレイプはなかったと推測します。
ただ、米兵も認めているように、『関係を迫った』のは間違いないようで、何しろゴツイ兵士ですから、それを少女が「レイプされる」と感じたとしても当然でしょう。そうであれば『殺される』という通話の内容にも納得がいきます。
で、これは大変なことになったと思った、通話相手である少女の友人(&その親)が、警察に「少女が米兵にレイプされて殺されるかもしれない」という類の通報をしたとしても、当然です。
で、これは大変なことが起きたと思った警察官が、現場付近を探索していたら、泣きじゃくる被害者っぽい少女と、それからまた犯人っぽい米兵を発見したら、米兵を逮捕したとしても、当然です。
で、警察がよくよく話を聞いて、証拠を調べてみると、レイプがあったとは考えにくいということになって、被害者が告訴を取り下げれば、(強姦容疑に関しては)結果的に誤認逮捕をやってしまった警察が(あえて本当の理由を言わずに)それを理由に米兵を釈放することもまた、当然です。
じゃあ、米兵は冤罪の被害者かというと、それはちょっと違うでしょう。まず第一に、彼には少女が未成年(中学生)であることに本当に気が付かなかったのかという疑惑があります。第二に、「関係の迫り方」が(レイプすると思われるほど)強引だったという疑念があります。
それを考えると、『決して許されない』とは決して思いませんが、しかし数晩くらい拘置所で頭を冷やすくらいの責任はあると思います。