続き物の本やドラマ、ゲームといった物語をたくさん消費している人の記憶って結構すごいと思う。
まあゲームはその作品内で一応完結しているものが多いから一概には言えないかもしれないけれど、一クールにたくさんのドラマやアニメを見る人とか、何冊も続きものの漫画や小説を読んでる人ってどうやって作品ごとの整合性をつけているのか気になる。
ツリーのつなぎかたを忘れた。ここに書く。私は大昔祖母に教わった。大便のとき前から拭かないほうがいいようだ。横からは勉強不足でわからない。後ろから拭く理由は「手が滑ったとき大便が肛門以外にもついてしまう」だ。ご存知のとおり大便にはいろいろな菌がついているらしい(ご存知のとおりと書きながら私はよくわからないんだが)。特に女子の場合は「ついてしまう」と侵入があるかもしれない。男子の場合はよくわからないのだがとにかく。ぐだぐだで済まない。では
どういう事だろうか
自殺は、きたなさに耐えられない結果なんじゃないかなと感じてる
逃げられなくて、思考停止もできなくて、見ない振りもできなくて
そんな何かに耐えられなくて
「死んでしまえば」に続く言葉は、その人が何から逃げたいのかが表現される
その何かにおいては、ある意味では潔癖なのだ
ただ、その綺麗を維持するために、他の部分を犠牲にする必要が生じてくる
疎かになった部分を、上手く機能しなくなった部分を汚いとするなら
きれいはきたない、なのだ
逆に、全体を維持するために一部分を疎かにするのであれば
きたないはきれい、なのだ
けど、不自然ではないんだ
ぎこちなくて、上手く機能してないのかも知れない
けど決して、不自然じゃない
そうせざるを得ない理由があるなら、不自然じゃないんだ
問題も、必要なことも何もない
「あるがまま、好きなようにすれば良い」なんて事を言う必要もない
既に、好きなようにしている
死にたいと思うのも、死ねないと思うのも、死んでしまったのも、それらを誰かに告げるのも
あるがままでいれないと思うのも、あるがままでいたいと思うのも、それで悩むのも苦しむのも
それがどの様に変化していくかについて、何か努力して効果はある
上手く言えないけど
それも含めて、なるようにしかならない
だから、何百回も死にたいとエントリを書くのも、その道程なんだろう
消したい、それだけ
最近の「うまくしゃべろう」と前に出てくる感じがまったくおもしろさを感じさせない。はがきコーナーでもその冒頭でまたしゃべって時間をつぶしていく。そのときに感じる苛立ちの理由は、もうずいぶんと前からはがきネタじゃないと笑っていないからだろう。
ちょっとまえのギャラクシータブレットのたとえでDVDケースとタクシーの中で思い至り悔しかった、という内容があったのだが、私は別にどうでもいいのだが本人としてはうまく言える機会を逃したのがずいぶんと残念そうな口調に、自分のもとめる伊集院ラジオと本人のそれとの距離を強烈に感じた。
面白い話ならまだ聞いて楽しいのだけれども、二時間近くをグチやら不平不満やらで埋められるととてつもなく辛い。
大勢が寄って集って反論してくれるのを期待して増田。
アーティストやプログラムをつくる側が、観客なりなんなりを教育するという視点が基本であることは、確かに言うまでもありません。
でもそういうものが無いからこそ、特徴的なエネルギーをもった/もっているというのも他方であると思います。
以前はマスコミが右習えしていたのが、どこの誰とも分からない人間ができるようになったという意味では、構造的に変化していないのでしょうが。
最近、職場を変わったのだが、それでわかった(?)ことがひとつ。
どうやらトイレでの尻の拭き方がまちがっているようだ。
そのトイレはケツを上げると自動で流れる機能がある。大人になっても流し忘れる奴が結構いることに驚くけど。
で、俺は拭く時にややケツを上げて横から紙をもった右手を突入させて目的を果たすのだが、この時点で流されるのだ。自分としてはこの機能は2回流すためどうにも不可解だった。しかしそれは「普通」一度しか、つまり最後にしかケツを上げないのではないだろうか? と思い至った瞬間に氷解した。
マイルド化というかもう諦められたというか慣らされたという感じにも思うけど…
ネットの普及で結果的に匿名という良くも悪くも逃げ道としても使えてしまう道具と
大量かつ迅速に情報が流れる環境が同時にやってきちゃったものだからこんな状況になっている気はする
きゃりーぱみゅぱみゅについて大して知りもしない自分が思うのは、あれって、「海外で人気の○○」に弱い日本人のさがを活用したプロモーションが成功したんじゃないかということ。海外で人気であるという事実を半ばでっち上げに近いやり方で作り出し、それを起爆剤に、日本で本格的に売る、みたいな。飽くまで憶測なんだけどさ。
例えば、ざっくり言ってフィンランドの人口は500万人、ベルギーの人口は1000万人。日本より人口が断然少ない国のitunesユーザーの中のエレクトロ部門なら、サクラが買いまくればランキングは操作できそうだ。(仮にフィンランドの人口の1/10がitunesユーザーで、そのうちの1/10がエレクトロというセグメントのユーザーだとしたら、その数は5万人。5万人の半数の2万5000曲くらいダウンロードされればランキング1位は取れるんじゃなかろーか。欧州では1曲150円しない価格でダウンロードできるそうなので、150円×2万5000曲=375万円使えば、フィンランドのitunesエレクトロ部門でランキング1位を獲得できる…のかもしれない。)
他にも、例えば、youtubeには外国人がきゃりーぱみゅぱみゅをみて驚いたリアクションをする様子を映した動画があったが、うがった見方をすれば、あれは胡散臭い。著名人が推薦するという手法も広告の技法としてはありきたりで、"Limp BizkitのFredがツイートした"というのも、そういうのの一貫だったりしないのかなと。
>「親の教育の中身(塾とか大学に行かせる費用を出すとか)」は、
>分けようぜ、という指摘になりうるな、と勝手に解釈しました。
このあたり話が余計こんがらかって混迷してくるところです。
「親が施す養育・世話」と「親が施す教育」と「親がもってくれる金銭的負担」というのがあって、そのどれにおいても「親の苦労」は発生し得ると考えます。
といってもこの三者は子の成長に伴って連綿と連なって行くと思うので、分類自体あまり意味がないかもしれないです…。
養育・世話においては、例えば夜泣きをやめないミルクを飲まない熱を出すウンチおむつを振り回す、というような感じで、
それが大きくなると言葉が遅いおむつが取れない注意を引けない話を聞かない好き嫌いする、みたいな「養育」と「教育」の半々くらいに移行して、
さらに大人しくしてない大声で騒ぐ走る宿題しない、みたいなしつけ的な面での教育とか、
教室でお友達とトラブルになるとか弟妹を泣かすとかの対人的な教育を要するようになって…という感じですかね。いや対人教育はもっと早い段階でも出るか。
とにかくそんな感じで、はっきり言って親はどのステージでも苦労すると思います。いちいち現状はどうなのか見きわめて何が最適か検討して対処したり対処の仕方を教えてやらないとなりません。
しかも下手したら同じことを何度も何度もですから、疲弊することは容易に想像できます。
それらを「親の苦労」と一般的には呼ぶと考えられますし、実際これを耐えるのは尊敬に値するとも言えると思います。
しかし、それと「出来のいい子どもは親の手柄」とは直結しないんです。
「親の教育」として高等教育の例を出していらっしゃいますが、ちょっとちぐはぐな感じがします。
>「私は中卒です!家に帰ると好きなこと何もできませんでした。弟たちの面倒で手一杯でした!」
これなんて、親が関係ないとはとても言えないでしょう。弟たちの面倒は親が見るべきなので、「親は何やってたんですかね。大変でしたね」という話になります。
親のおかげで大学院まで出してもらいました、というのも、親が大学院で教えてくれたということではないと思われますので、親の影響というのが何なのかよくわからないです。
親の世話になって、ということですかね?
院まで行かせてくれたということは親の理解と援助があったということにはなりますが、それで親の批判をするなんてずうずうしいとかいう話にはなりません。
親はカネ出さないけど院に行きたい場合、奨学金を取るか勉強しつつバイトするか、思い切って一度就職して院に入ることも絶対できないってことではないですので。
なお、文才自体はあまり高等教育と関係しない可能性もあります。
基本的に義務教育を終了すれば本は誰でも読めますし文章も一通り書けるようになります、という意味でも、大学出てても文章組み立て苦手な人はいる、という意味でも。
僕もしばらくまとまった量を書いてなかったのでリハビリしています。
あまりゴールをもって書くというよりは、自分が思っていること感じていることをできるだけ正確に丁寧にとらえるようにするのがいいのでは?と思います。
結果としてそれが人に受けるかもしれないし、そうでもないかもしれない。
でも、まあ、書き続けるという行為の反復を実現するには、あんまり気にしないでどんどん書いて、思いついたらそのうち気に入ったのを推敲、書きたし、場合によっては追加で取材すれば良いと思います。
筋トレだと思って。
こうなりたいとかこうしたいっていう未来の展望みたいなものがないと人間は行動できないのではないか
この先もずっと安定した収入を得る気がなければ、車なんかローンで買えないし、買っても意味ないし
毎日酒を煽ってテレビやネットで時間を潰してパチンコなどの享楽に溺れる日々しか送れない
彼らに希望を与えることはできるのだろうか
いや無理だろう
ドラマやニュースの登場人物たちの不幸な境遇に感情移入してみる。
たとえば恋人が事故で大けがをしてしてしまったら? 妻が認知症になったら? 生まれた子供が障害を持っていたら?
ドラマの登場人物たちは、時に困難を乗り越える。打ち負けて闇に落ちる。
自分だったらどうするか、どうなるか考える。
恋人が事故で大けがをしたら、きっと自分なら支えきれないだろう。
子供が障害を持っていたら逃げだすだろう。
もっと若いころなら、乗り越えられる気がしていたけれど。
今の俺は、乗り越えた経験よりも、乗り越えられなかった経験の方が多い。
頑張れば決して不可能じゃないことでも、逃げ道があれば逃げてきた俺だった。
現実に不幸な境遇に苦しんでいる人には、俺には頼らない方がいいって言える。
書いてみて思うのは、「まあそんなに面白くないな、おれの文章」ってこと。
いくら社会が大変で「ああしたほうがいい、こうしたほうがいい」と言っていても、文章に魅力がなければ伝わらない。
それは言葉の力というのを過小評価しているせいだと、ふと思ったわけで。
この文章が受け入れられるためには、受け入れてもらいたい人たちに向けて、その人達のプロトコルを使って書かなければいけない。
おれが書いている文章はひとりごとの域を出ない。自分の考えをそのまま書いているだけだから。誰にも受け入れられない。
そしてもうひとつ。もし誰かにこの文章が届いたとして、その人になんらかのアクションを取ってもらわなければ意味が無い。
ふーん、で済んでいい文章というのは、書かなくても同じ。
一番は感動させるとか笑わせるとか、反省させて明日からの行動を変える、とかそういう類のやつかな。
その次は、悲しい思いをさせるとか、怒りをかきたてるとか、そういうやつ。
次はブクマさせるみたいなやつ。
そのどれにも当てはまらない文章は書いてて意味が無い。そして、そういう文章の一つがこれ。
まあいいんだ。精神状態がこんな感じでは、書きたくても書けるわけがない。
とにかく、書く感覚さえ失わずにいれば、いつかまたちゃんとした文章が書けるようになる。
たぶん。