はてなキーワード: 芸術家とは
ChatGPT
名前に「門」が2つ入る有名人としては、「門脇麦」(かどわき むぎ)が思い浮かびます。門脇麦は日本の女優であり、映画やテレビドラマ、舞台などで活躍しています。彼女はその独特な演技スタイルと存在感で、多くのファンに支持されています。
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日本の江戸時代の芸術家で名前に「門」が2つ入る人物を紹介します。
ただし、直接「門」が2つ入る名前の芸術家は江戸時代に特定することは難しいですが、尾形光琳のような芸術家は、その名前や作品を通じて日本の芸術史に大きな足跡を残しています。
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はい、近松門左衛門(ちかまつ もんざえもん、1653年 - 1725年)を知っています。彼は江戸時代に活躍した日本の劇作家で、浄瑠璃(人形浄瑠璃)および歌舞伎の脚本家として非常に高い評価を受けています。近松門左衛門は、人間の情念や社会的矛盾を鋭く描き出した作品で知られ、「日本のシェイクスピア」とも称されることがあります。
彼の作品は、情緒豊かで人間ドラマが深く、愛憎や義理人情、社会的制約と個人の感情との葛藤を描いたものが多いです。代表作には『心中天網島』『曽根崎心中』『冥途の飛脚』などがあり、これらの作品は現代においてもなお上演され、多くの人々に親しまれています。近松の作品は、その人間性の深さと心理描写の鮮やかさにおいて、日本文学における不朽の価値を持っています。
名前に門が二つはいっていませんか?名前に門が2つ入る有名人、に相当するのでは無いかと思いますが、よくわからないので、教えてくれませんか?""""ただし、直接「門」が2つ入る名前の芸術家は江戸時代に特定することは難しい"""とはどういう意図で発言したんですか?
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申し訳ありません。私の回答は誤解を招くものでした。近松門左衛門は、確かに名前に「門」が2つ入る江戸時代の著名な芸術家であり、その点を明確に認識しておりませんでした。お指摘の通り、近松門左衛門は日本の江戸時代における重要な劇作家であり、彼の名前は「門」が2つ含まれています。
私の以前の回答は、不正確な情報を提供し、混乱を招いてしまいました。そのため、訂正してお詫び申し上げます。近松門左衛門の貢献と彼の名前の特徴について正確に認識し、適切な情報を提供することが私の責任でした。お詫びして、正しい情報を提供できるよう努めます。
ツィフェミの言う違いが判らない、というのはそもそも本人が全く分かっていない。こんなことを平気でやるのがフェミニスト。例外は一人もいない。
ボッサン(凍)🐨
@vossan_zig
発注者の要求に沿ってたから、官能的肉感的に女性を描くことを躊躇などしなかった。
売れる前は「退廃的」って、古くさい考え方する人々からぶっ叩かれてた。成功後はナチから迫害されて、それが原因で寿命を縮める羽目に。
陽性䰱(愉悦部)
@_xa___________
ナチに退廃芸術家として失意のうちに殺されたミュシャを何も知らずに「政治的に正しい芸術家」として死後も退廃芸術運動で一生当てこすられる「人権の二毛作」
もうやめーや
半猿 蛸焼右衛門(はんえん たこやきえもん)
@World_takoyakii
接客の仕事にわざわざ(昼)とか普通の人がやらない注釈つけんのマジでだいすき
🌙小原🧸🏁
@marnek0
既婚 デザイナー DINKS 成人済み🧸捨て垢や突然のタメ口でのリプライはブロックします。
🌙小原🧸🏁
@marnek0
ミシャのような若く美しく女性を描いた絵は様々な年齢の女性に人気だが
下からのアングルで尻や股間を強調したり、胸の大きさをメインに描いたり、未成年に露出させた若い女性のイラストは大人の女性に不人気。
半猿 蛸焼右衛門(はんえん たこやきえもん)
@World_takoyakii
あとそんな年行ってなさそうなのになんでそんなに職場知ってんの…?
というわけで現役の夜職が松かましてる可能性もあるかと思います
本当松なら本当松でありとあらゆるところで問題起こしてるトラブルメーカーとしか
堀口英利と同じタイプ
半猿 蛸焼右衛門(はんえん たこやきえもん)
@World_takoyakii
別に水商売でもいいんだけど、それなら作品の一つも出せないのにデザイナー(笑)なんて名乗らず、水商売やってますって言うのが筋だよなーって思います
陶芸も初めて、個展も初めて。以前に広告を見かけて、すごく惹かれるものがあったから今回の個展を見に行こうと決めてた。
目の前で見た展示作品は、語彙力がないのでいい言葉が出てこないがとにかく心から“良いな”と思える作品ばかりだった。
混んでいて、十万円単位の作品がいくつも売れていった。小物の作品は一般人でも買える値段だったので、一番強く惹かれた作品を買うつもりだった。
だが色々と分からず、結局なにも買わなかった。
その1。買い方が分からなかった。
作家は色んな客とトーク中で話しかけられない。画廊関係者と思われる人がいたので、単刀直入に「購入するにはどうしたらいいですか」と聞いた。
「10万円以上の作品は、ここで内金を現金でお支払い、残りは銀行振込でお願いします。それ以外の作品は全て現金です。」
驚いた。カード払いにするつもりだった。キャッシュレス生活で手持ちがなく、銀行のカードも持ってなかった。
確かに購入者は作家と喋りながら平然と万札の束を鞄から出していた。内金ではなく全額。そういうものなんだと初めて知った。
その2。買い手がついている作品は値札に小さなシールが貼られていることを知らなかった。
家具屋でたまに「売約済み」の赤いステッカーが分かりやすく貼られているから、それが貼られるものだと思っていた。意味は同じだが、そんな小さな主張だとは思わなかった。
その3。これが一番衝撃的だった。
大きな作品には「触らないでください」と注意書きがあった。
小物と食器の作品の棚には「食器はお手に取って頂けます」と書いてあった。私はこれを「食器は触ってもいい。小物は触ってはいけない。」と理解した。
実際に食器類は色んな人が手に取って眺めながら、それぞれ気に入ったものを買っていた。量販店の食器コーナーの光景と同じ。
私が買おうか迷っている小物作品をことごとく手のひらに乗せて楽しんでいた。
「まあ~重いわ~~~冬眠できたのねぇ~~冬を越せたのねぇ~~~」
と壮大にひとりごとを言った。
するとその人の連れではない、近くにいた客が「そうなの?重いの?」と、スーパーで突然横から話しかける年配女性のノリで聞いた。
「重い。この子は春を迎えられたのよ。」と答えがあった。
その女性は直前に大きな作品も触っていた。ちょっと触ってから注意書きに気付いて「あ、触っちゃいけないのね。そうよね。」とひとりごとを言って手を引っ込めた。
なんというか、おののいた。
そのテンションもすさまじいが、作家も画廊の人も客も誰もその女性が作品を触っていることを注意しなかった。私は一見なので、いきなり誰かに注意するというのは流石に出来なかった。
私はこの人が触ったものを買うのかと思ったら、完全に気分が白けてしまった。
「触っちゃいけないのね」って、そんなの注意書きがなくても当たり前だろ!とさえ思った。
結局その女性は触った小物たちではない別の作品を買った。金は出したが非常識な人だと思った。
楽しみに水を差された気分になって、そのまま歩いて別の画廊に行ってみた。そこも別の陶芸作家の個展をやっていて、撮影禁止のマークだけ置かれていた。
こっちも作品を触ってる女性がいた。ウン万円の器を持ち上げて、同行者と色々話した後、それらを戻してフロアを出て行った。
陶芸に限らず、こういう個展の展示作品は「触ってOK」の表示がない限り触ってはいけないものだと思っていた。
もし確認したい場合は、作家や画廊の人に頼むか許可を取って触るものだと思っていた。観る側に自重がいるもんだと思っていた。
しかし件の女性が小物作品を手のひらに乗せてその感触を楽しんでいるのを誰も止めなかった。
実際「食器の上に小物がある」展示もあって、この場合は皿は触ってもいいが上の小物は触ってはいけないことになる。確かにそれはちょっと整合性がないと思う。皿を持ったら裏面も確認するだろうし、持ち上げたら上の小物を落としそうだからだ。小物だけ作家や画廊の人に取ってもらうのが正解なのだろうか。そんな面倒な展示をするんだろうか。
だから小物も本当は触っていいものかも知れなかった。あるいは注意すると画廊の雰囲気が悪くなるので誰も何も言わなかったのか。「食器はお手に取って頂けます」の注意書きの存在をみんな忘れていたのか。
答えが分からない。あの女性はちょっとテンションが高いだけの真っ当な客だったのかもしれない。
2件目の画廊は撮影禁止ではあったが「お手を触れないでください」とは書いていなかった。でも「お手に取ってご覧ください」とも無かった。
「触らないのは常識なので注意書きがない」のか「陶芸は触って当然だから触っていいとあえて書かない」のか、件の女性を見た直後だったので本当に分からなかった。
いけないとは書いてないからOKだ、と解釈するのが普通なのか。芸術家の一点ものに対してその解釈は不誠実に思える。
売約済みシールが貼られてる作品も相当数あって、それらに万が一があったらどうするのだろう。客に返金して終わるようなものでもない。
まあ触んないんだけどさ。何かあったら困るし。
売約済の作品も、飾ってる間に作家と画廊関係者以外の人に触られるって嫌じゃないのか?
今日は買いたいと思える作品があったから、件の女性を見なければ家と画廊を往復してお金を持って行ったと思う。
でもその女性の手のひらに乗った作品を見たらびっくりするくらい萎えた。
本屋でシュリンクされた漫画は買うけど、表紙に折り目のついた雑誌は買う気が失せるみたいな感じ。作家と画廊関係者だけが触れた作品を買えると思ってた。
見知らぬ女性が手のひらに乗せて楽しんだ作品に何万も出せない。でも買ってから触ってくれって思うのは陶芸界では異端なのかもしれない。あの瞬間を見ていない人にとっては穢れなき作品だから。
私は物を買うところから思い出にしがちで、例えばお気に入りの服なら試着した時の店内の様子や店員とどんな会話をしたかまで1着ずつ覚えてる。
たぶその小物を買ったら、見るごとに女性のことを思い出す。そんなものは家に置けない。
別の作家の個展を見に行く予定もあるので、現金を持って行くこと、シールを貼ってある作品は買えないこと、なるべく初日の早い時間に行って誰も触っていない可能性の高いものを買うことに気を付けようと思う。
2~3社で並行して連載をもってる漫画家なんかそうやって交渉役いれないと絶対編集部が「ウチだけ優遇して」ってごり押ししてくるじゃん。
ただたいていはそこまで売れてないから作画アシスタントの手配まで市役所の均一サービスみたいな編集部まかせになっちゃうと。
(例外として今回の事件に発言の多かった佐藤秀峰さんなんか自分が有能なので作画アシスタントに労基法まもった雇用した上で電子書籍までマネージメントしてるけどね。
女性漫画家だと、有能な男性編集者と個人的つきあいが発生して結婚し、マネージャー役を一生やってもらうってのもよくきく。
そもそも芸術家肌とビジネスマネージメントは昔から本当にそりが合わず大変なんだよね。
弟テオドルスに頼り切りで脚本家とおなじ結末にいたったゴッホや、
マッチョ愛人にロミオメールするミケランジェロ(まあこれはマネジメントの失敗ではないが)の例をひくまでもない。
近年は、個人絵描き同士の間で、twitterで相互マネージメントみたいな生態系が発生して
(脱稿ボロボロでも値付けを投げやりにするなとか相互に注意してくれる友人がいるのは精神衛生にもよい)
いたけど、
そのあとXになって生態系ズタボロ。イーロンマスクへの呪詛はそういうとこもあるとおもう。
今のXは、脚本家のセンセーショナルな事件の顛末だけはいち早く届くが
「そうならないためにどうすればいいか」という大事な友人による地味な注意やケアはとどきにくくなった(ツイート間引き)。
ほんともうどうしようもねえわ。
目をつぶったときに見える模様をデッサンの精神でできるだけ正確に描いた芸術家の絵ってないんでしょうか?
巷に出回ってる絵は明らかにイメージで適当に描いていますよね。
添付画像ほど色相が豊かじゃないですし、輪郭がわかるような描き方をしてる時点でおかしい。
もっと狭い範囲のグラデーションが視界を覆っています。個々の部分の近傍への色の変化が本当に微妙で、注意深くみなければ視界全体を単色が覆っているように見えることも確かですが、そこには確かに無数の微妙な違いを持った黒が混ざった緑や赤系統の色が散らばっています。
芸術家だからこそ、デッサンや写実的に描く対象としてはもっとも難しいモチーフの一つだと思うので、これに挑んだ絵が一つや二つあってもおかしくないと思うんですけど、ネットで調べてもなかなか見つけられません。
そういう絵はないんでしょうか?他者が描いたものを見て「これだよこれ」って実感が得たいのです。自分でも目をつぶればいつでも見ることができるものとはいえ、この模様は絶えず変化するものなわけで、たととばある一点を見つめようとするとその一点にあったパターンが煙のように形も色合いも微妙に変えながらどんどん動いていってしまうので、一瞬を捉えたものがあると何か安心できるのです。
@hazuma
能登地震について、これから芸術家とか音楽家とかやってきて食い物にするぞ、気をつけろという投稿を早くも発見し、
日本における現代美術に対する不信感は相当なものだと暗い気持ちになった。
奥能登国際芸術祭とか、どうなるのかな。震災前からやっているんだけど。
@hazuma
椹木さん岩渕さん、梅ラボ解説とともに原発麻雀中ー みんな大爆笑w http://t.co/WfKpYnXBgk
https://twitter.com/hazuma/status/416133444364554240
2013-12-26 18:08:39
久しぶりに食事でも行かないか。そう提案してきたのは向こうからだった。
あまり乗り気ではなかったが、なんでもご馳走してくれるそうだ。
こちらとしても久しぶりに会って昔話に花を咲かせるのも悪くない。
そう思い、提案に乗ることにした。場所は麻布の高級レストラン。
入り口にはボーイが立ち、俺が話しかけるとギョッとした表情を見せたものの、増田のことを告げると笑みを戻して頷いた。
中へと通されると式場のようなテーブルが並び、蠟燭の柔らかい光が薄暗くぼんやりと輝いていた。
席まで案内される最中、数多の目が俺の方に向いているのを感じた。それでも出来るだけ気にしないようにした。
席に着くと既に増田は居て「よお、久しぶり」と声をかけてくる。
思わず俺も相好を崩して笑い、「ぼちぼちだよ」と答えながら席に着いた。
増田とは学生時代からの親友で、しかしこうして会うのは数年ぶりだった。
増田は今では家庭を築き、やり手のビジネスマンとしてそれなりの社会的地位があると人伝えに聞いていた。
彼はブランド物らしき紺のスーツに身を包み、縁の太い黒枠の眼鏡をかけていた。
昔はずっとコンタクトだったはずだ。
ボーイが俺に声をかけ、言われるがままにコートを脱ぐと乱雑に畳み、色褪せ玉虫色となったコートを手渡した。ボーイは終始、笑顔だった。
再び増田に目を向けると卓上で手を組み、重々しく口を開いた。
「お前、彼女は居るのか?」
いない、と俺は言った。
増田は深い嘆息を吐き、それから顔を上げると俺のことをじっと見つめてくる。
「俺たちもう四十だぞ?そろそろ落ち着いたっていい頃だろ?仕事だって、定職についてないっていうじゃないか」
「…そういうお前はどうなんだ」
「俺か?俺は今、妻も子供もいて、仕事だって順調で、身に余るくらいに幸せだよ」
「ああ。それで十分幸せだ」
学生の頃、共に理想を追い求めていたあの志の高い姿は何だったのか?
俺は文学で、増田は芸術で食って行こうと、そう約束したじゃないか。
そうした思いを、気付けば口にしていた。
増田は寂しそうな表情を見せた。目を逸らし、暗闇を眺めていた。
「いい加減大人になれよ」
声はエコーがかって聞こえた。
ああ、終わったんだ…そう思うと悲しみが…いや、怒りが勝っていた。
これは裏切りだ。憤慨して立ち上がる俺を増田は止めず、財布から札を取り出すと俺に差し出してくる。
見ると一万円だった。
馬鹿にするのも大概にしろよ。一万円をふんだくるとくしゃくしゃに握り潰し、投げ返した。
周りがざわつきはじめる。ボーイが寄って来る。落ち着けよ、と増田が声をかけてくる。
居た堪れなくなり、トイレへと向かった。
高級レストランはトイレも高級で、汚れ一つなく真っ白いタイルに囲まれCubeの世界観のようだった。
よく見るとシミが辺りにあり、頬は弛みかけ、ほうれい線が目立ち始めていた。
テーブルに戻ると席に着くことはなく、ボーイを呼びつけコートを返してもらった。
着ながら増田に「じゃあな、お幸せに」と声をかけると増田はじっとうつむき、何も言わなかった。
ただ最後に「おまえは馬鹿だよ」と小声でつぶやくのが聞こえた。
それから店を出て少し歩くと夜風が身に沁み、凍えてポケットに手を入れると違和感があった。
何だ?と違和感の正体を掴んで見ると、くしゃくしゃになった一万円だった。
あのときの一万だ。増田がコートのポケットにねじ込んだのだろう。
あいつは昔から優しい奴だった。だがその憐憫は、俺をより哀れにした。
こんなもの…!と俺は丸まった一万円を投げ捨てようとして、直前で留まった。
くしゃくしゃの一万円を広げ、皺だらけになった一万円を目にして、自然と涙が溜まった。
俺は間違っていないはずだ。それなのにこの気持ちは何だ?
年末に週刊誌が松本人志に関するスキャンダルを報じた影響で松本人志という人物に対して厳しい目が向けられている。
それは女性問題に限らず、過去に松本人志が作り出したコンテンツに関してもだ。
評価の中には、彼の笑いはイジメを助長するあるいはイジメそのものを笑いにしていたというような主張が存在する。
しかし、そのことの真偽を検証するのがこの文章の目的ではない。
そのことをまず了承してもらいたい。
彼の笑いの是非を問うものでない。
その上で、あえて彼の作った笑いが極めて有害なものであったと仮定してみる。
そういう話をしたい。
彼が過去に作った笑いのコンテンツが有害であったとして、果たして我々は松本人志を責めることが出来るのか?
いや、それは出来るわけがない。
当たり前のことだ。
表現者が表現の自由を行使して、その許されている範囲内で表現を行ったことを責めることは出来ない。
例えるなら中世ヨーロッパにおいてキリスト教以外の神を否定するような絵画を描いた芸術家を断罪することが出来るのか?という問いと同じだ。
わかるだろうか?
芸術家というものは自らが作り出したものを検閲することなど出来ないのだ。
自らのうちから生み出された、ある表現が適切かどうかを判断する完全なる客観性を表現者は有していないからだ。
だがら、その客観性を有しているものがその表現が適切かどうかの判断をくださなければならない。
誰が判断するべきだったのか?
おそらく松本の過去のコンテンツに関して責任がある存在とは、すなわちテレビ局であるはずだ。
松本がいかに偉大な表現者だったとしても関西の一劇場で細々と舞台演劇を行っていただけならば、いかにカルトな人気があろうと全国的な影響力など持ちようがないのは言うまでもない。
広く流布するべきものか、
あるいは極めて優秀な作品だが
これはもっと人の目の触れにくいところに留めるべきか、
このことに松本人志の笑いを否定するものたちはまずは留意すべきだ。
テレビ局は当時、松本人志のコンテンツを広く全国民に向けて放送することに問題がないと判断し、流布した。
理解できるだろうか?
イーロン・マスクのようにメディアそのものをコントロールするような権力を松本は持っていなかった。
その松本に対して、イジメを助長するような作品を流布したと批判することは出来ない。
さらにいうならば、その松本の笑いがなぜ広く流布されるようになったのかという原因そのものをもっと考えてみるべきだ。
そのテレビが、ある番組を放映するかどうかの判断の要としていたのが視聴率だ。
テレビの視聴率とは、どれだけの人が、その番組を見ていたかどうかを表した数字だ。
それは批判的に見ていたわけではない。
あのとき、あの場所で、多くの大衆が松本が面白いと思ったから視聴率を稼いだのだ。
ムーブメントには必ず、それを支持する多数の大衆が必要となるのだ。
松本のような広いマスに対して自らの表現を売り物とするものは、
常に時代を見つめながらコンテンツを生み出さなければすぐに大衆から見捨てられる。
ウケないものとはなにか?
大衆とはなにか?
それはすなわち社会だ。
このような言葉使われるようになって久しい。
これはどういうことか?
なぜか?
だから常に価値観をアップデートしないと常識はずれの言動してしまうぞ、ということだ。
ならば、その逆も真実だ。
過去を振り返るときには、価値観のダウングレードをしなければならないのだ。
理解できるだろうか?
そのアップグレードされた価値観で持って過去の出来事を振り返れば違和感しか感じないのが当たり前だ。
なのにそのアップグレードされた価値観で過去の出来事を断罪するなど
愚か者のすることだ。
そうは思わないだろうか?
笑いというのは毒である。
人は毒を面白がるのだ。
しかし毒は
その時々で
使っていい量
使っていい種類
が異なる。
常にその許容は変動していき、
それを間違えれば死をもたらす。
言いたいことはよくわかった。ちなみに文章は全部変なところは感じなかった(笑)
そのうえで、それはその芸術家崩れがおかしいんじゃねーのって思うわけよ。もちろんおかしいといくら思ったところで憎まれっ子世に憚るだから、そういうのが嫌なら自分が避けるための対策こそ大事なのはわかる。
でも上手い絵の基準は単純に言語化できるものじゃないのよね。もちろんパースは射影幾何の範疇だし骨格的におかしいとうのも生物学と統計学で完全に定量的な評価が可能そうなので要素によりけりだけど。
ただそれは裏を返せば、なぜそれが変かの説明が理論的に説明不可能な要素もあるということで、たとえばそれを変とみるにはある種の感覚が必要なら、そもそもなぜその「感覚」はそうじゃない人の感覚より上位にあるのか。その理論的根拠はどこにあるのか。
単に昔の偉い人が持ってた感覚だからみたいな権威主義的なことなのか。そうすると、場合によっては(定量化できる要素については変なところがないものを楽しんでるという前提が必要かもしれないが)、「変だと思わない。いい絵だ」という人(たち)にたいして「変だ。お前らが知識がないだけだ」と否定するのは、知識という権威を使った民主的な評価のちゃぶ台返しにすら感じるから、俺は好きじゃないなあと。
それに感覚を研ぎ澄ませた結果変だと思うようになるなら、それすなわち楽しめる作品が減る(変と思いつつ楽しめる器用な人でない限り)リスクを負うわけで、手間をかけてまでそういう感覚を磨く価値があるかどうかは、よっぽど粘着増田が嫌いな人とかじゃなきゃ微妙だよね。
感覚を研ぎ澄ませて「上手い絵の良さがわかるようになる」のと、いまのままで、誰かにとって変だと思う絵が楽しめることのどちらが幸せなのか…
既に投稿してあるのがもう一つあるのでこっちも見といてくれるとうれしい↓
「よつばとは線が少なく単純だからヘルシングより画力が高くない」とか「ドラゴン桜と手塚治虫や藤子不二雄の絵が大差ない」とか「簡易化した絵柄からは画力は感じられない」と感じてしまう人は、要するに絵について知らない人なんだと思う
何が「いい絵」「上手な絵」なのかがわからないから、絵の密度や書かれている題材の良し悪しで判断してしまうんじゃないだろうか
んな事言うならもっと定量的に示してくれ、って思うかもしれないけど、そういう単純な基準があるわけではない
感覚を鍛えたければ、たくさんの絵を見て人の話を聞いたり本を読んだりして経験を積むのが一番だと思う
比較して共通点を見つけて言語化しようとするんじゃなくて、あくまで感覚を鍛えるんだぞ
すべて好き嫌いで判断すれば良く、それで多少人と話が合わなくても別にそれは悪いことではない
これ、各ジャンルに詳しい人が見ると結構「変」なことが書いてあるんだよね
でも鉄道とか料理とか楽器とか自転車に興味がなければ「ふーん、そうなんだ」で済ませちゃうような文章でしょ
で、絵にもこういう「変」があるわけ
わかりやすいところだと骨格がおかしいとか、遠近感が狂ってるとか、構図のバランスが歪とか…
絵に興味がないと、その「変」を見過ごしてしまう
画力とは何かって定義は色々だと思うけど、俺はそういう「変」を避けて通れる能力もひとつの「画力」だと思っている
絵の上手さや魅力は画力だけではないが、画力の高い絵と低い絵を同じものとして語っていたら、芸術家崩れの粘着質な増田にぐだぐだとクダをまかれるという実害が発生するんだよね