はてなキーワード: 鬼ごっことは
その道の人が喉から手が出る程欲しがる賞なんかも受賞して、
傍から見ると画家として順風満帆な人生を送ってきたように見えると思う。
戦争で家が燃え盛る中、貴重品には目もくれず画材だけ持って逃げたり、
駆け出しの頃余裕のなさからちょくちょくヒステリーを起こしたりとか、
そのせいでうちの家系はアート関係の仕事に対して風当たりが強い。
父が美大ではない一般の大学を出、一般企業にサラリーマンとして就職した際は
孫の私は小さい頃よく祖父の家に預けられていた。
(私も祖父も都内住みなので、母が忙しい時、面倒を見てもらっていた)
父が幼かった頃はまだ生活に余裕がなく、祖父が子供の面倒を見る事はなかったが、
絵が売れるようになってからできた孫の私の事はかなり可愛がってくれた。
祖父は私にお古の画材をくれ、好きに絵を描いていいと言ってくれた。
幼稚園児の絵なんてプロの目から見なくても下手くそだし、祖父から絵を褒められた事は一度もない。
それでも下手な絵を量産し続ける私を見る祖父の目がとても優しかったのは覚えている。
やがて私は外で鬼ごっこをするよりも絵を描く方が楽しいと思うような子供に育った。
放課後はその事一緒にスケッチブックを持って公園に絵を描きに行くのが定番のコースになった。
小学生の頃、近所のお絵かき教室に行きたいと何度頼んでも全部無視された。
でもテレビでみかけた新体操の選手を見て一言可愛いと言った次の日には新体操の教室を探してきてくれた。
数学が苦手だとぼやいたらすぐにそろばん教室に行かないかと勧められた。
家族は私が絵を描く事以外に興味を持ってほしかったのだと思う。
一回だけ口を滑らせて「美大とか美術系専門学校に行きたい」と言ってしまった事がある。
父は大激怒、あんな鬼のような形相をした父親を見たのは後にも先にもあの時だけだ。
「お前に祖父のような才能はない」
「美大に行くような奴はそれしか生き方を知らないろくでなしだけだ」
「お前は絵の為だけに人生を棒に振れるのか、そうとは思えない」という電話がかかってきた。
でも「美大楽しそう」は中学に入ったばかりの小娘の言葉だったのだ。
隠れてノートに絵を描いてはいたものの、普通の大学に入って普通にOLとして就職をする道を選んだ。
それでも社会人になっても絵を描きたい欲が抑えきれず画塾に通い始めた。
この頃になるともうこれから芸術の道に進む事はないだろうと安心したのか、家族から白い眼で見られる事もなくなったし、
祖父のコネでもらった展覧会のチケットも興味があるのなら、とくれるようになっていた。
画塾に通い始めた事も「社会人になって趣味を持つのは大事な事」と肯定的な目で見てくれるようになって、少し認められた気がして嬉しくなった。
ただ一言「お前、絵描くの好きだったんだな、知らなかった」と言われるまでは。
あぁ、幼稚園・小学生の頃あんなにお絵描き教室に行きたいと頼み込んだの覚えていないんだ。
後、大学で一人暮らしを始めてから同人漫画も描き始めた。もちろん家族には言っていないけど。
同人イベントで金銭のやり取りをするようになってから、絵一本で祖母、父、そして父の妹を食わせ、大学まで行かせた祖父のすごさを再認した。
親戚が私に才能がないと言った気持ちもわかる。私は祖父になれなかった。なろうとする事すらおごましい。
でもこの趣味で出会った友人達には美大とかアート系の専門学校に通っていた人も多くて、やっぱり羨ましくなってしまう。
そしてその人達のほとんどは家族の言う「芸術の道に進むしか能がないろくでなし」ばかりではないし、
卒業後普通のOLとして社会人をやっていけている人にもたくさん出会った。
祖父が自営業の画家として生計を立てていたように、フリーランスとしてやっている人もいる。
何より皆、人より絵を描くのが得意な「社会常識のある普通の人」だったのだ。
美術を専攻するとOLという道は閉ざされるから絶対に稼げないという親戚の言葉は
嘘だった。
そして思ってしまうのだ。
正直言ってしまうと同人誌はそこそこ売れているので、私に絵の才能が全くなかった訳ではないと思う。
もし美大に行けてたら…祖父の様に専業画家として大成功する事は無理でも、デザイン系のOLとかで生活できる程度に稼ぐ事はできていたのかな…と。
甘い考えだってのはわかっているけれども。
父の口癖はこうだった。
「本当に何かをやりたい人はどんなに反対されても勝手にやる。祖父は家が燃え盛る中、泣きながら画材を持ちだして死にかけた。手塚治虫は戦争中、絵の具がなかったから自分の血で絵を描いた。芸術の道に進むというのはそういう事だ。」
きっとそうなのだ。
私が本当に美大に行きたかったのなら、親戚中に反対された中学の時点で家出でもすればよかったのだ。
バイトをできる年齢になったらお金を貯めて、学費は自分で賄えばよかったのだ。
そうしなかったのは心の底から美大に行きたいと思っていなかったからなのかもしれない。
ないとは思うけど、明日北朝鮮のミサイルが東京に降ってきたら、私は真っ先に通帳とか印鑑とかを持って逃げると思う。
そして、足腰が弱ってあまり歩けなくなってしまった祖父は、それでも若かった頃と同じようにパニクりながらカンバスと絵の具を持って避難するだろう。
そういうところなのだ、親戚が「芸術家はろくでなしだ」と言うのは。
明日のおまんまがなくなって、家族全員打ちひしがれていても、スケッチブックが燃えなかった事を泣いて喜ぶような人だから。
本物のミサイルなんてそうそう見れるもんじゃないと喜び勇んでスケッチを始めるかもしれない。
因みによく一緒に公園へスケッチに行ってくれた幼馴染は高校から画塾に通う事を許され、無事美大に合格。卒業後は有名なゲーム会社に就職した。
彼女がものすごい努力をしていたのを私は知っているし、就職の報せを聞いて私も嬉しかった。
でも北朝鮮のミサイルに対して彼女はどういう行動をとるだろうか?
私が趣味の世界で出会ったデザイン系の仕事に就いている人達は?
紙と鉛筆を持って逃げるだろうか?
幼馴染とは今でも仲がいい。
同人活動を通じてできた友人の中にはジャンルが変わっても付き合ってくれ、一緒に旅行に行くような仲の人もできた。
積極的に美大とか専門の話はしないけれども、そういう話題になっても自分の知らない世界の話を聞くのは単純に楽しいし、新刊のネタになるかもとワクワクすることもある。
でも嫉妬心を全く覚えないと言ったら嘘になる。
日本が火の海になった中で、紙と鉛筆でなくて通帳と印鑑を持って避難するような人だったとしても、彼女達が美大進学を許された特権階級である事は変わりないのだ。
一時期このもやもや感から逃れたくて、絵を描く事を伴わない趣味を探した事がある。
スポーツをしてみたり、美味しいご飯屋さんを探してみたり。
このスポーツ団の制服が可愛いから模写したいとか、肉の「照り」の部分を絵の具でどう表現しようかとか気付くと考えてしまっていたけれども、頑張って思考の外に追い出していた。
お気に入りだったのが音大出身で抜群の歌唱力を売りにしている子。
彼の美しい歌声に乗った異国の言葉は心地よくて、生まれて初めて海外アーティストの曲を買った。
ある日、彼が番組の企画でファンの為にイラスト色紙を書いてくれる事になった。
その日の彼は機嫌が良かったのか、普段はあまりしないプライベートな話をしながら色紙を書いてくれた。
小さい頃から歌う事が好きだった事。
歌手を目指し挫折した経験を持つ母が、音大に合格した時泣いて喜んでくれた事。
色紙を書き終えた彼はそれを満足そうにカメラに見せ、言葉をつづけた。
「歌も好きだけど…絵を描く事も好きです。上手くはないけどね。僕の従姉妹がこの絵を見たら笑ってしまうかも、彼女は美術大学に通っているんだ。」
頭を鈍器で殴られたような感覚がした。
今までアイドルと言うのは自分とは全く別の世界に住んでいる人間だと思っていた。
この世に存在しないくらい見た目が美しくて、スタイルが良くて、歌やダンスが上手で。
だからどんなにイケメンのアイドルを見てもこんな人と付き合いたいとか、
どんな美人アイドルを見てもこんな風に美しい女性になりたいとか、そういう気持ちが湧いてきた事はなかった。
特に彼は外国人だったので、そうした傾向が強かったんだと思う。
でも彼の口から「美術大学」という言葉がでてきた瞬間、一気に身近な存在になってしまった気がした。もちろん悪い意味で。
音楽も芸術だという当たり前の事を思い出し、生まれて初めてアイドルに対して悔しいという気持ちが湧いてきてしまった。
彼は芸術家になる事を親から応援されてきたんだ。従姉妹さんも美大に通っているという事は、きっと一族の大半が協力的なんだろう。
美大に行きたいという言葉を発した時に、罵詈雑言を浴びせられるのではなく、彼の母親の様に応援してほしかった。
彼が歌うのが好きだと気付いた母が、彼を合唱団に入れてくれたように、お絵かき教室に行きたいとせがんだ私の事を父に認めてほしかった。
お絵描き教室が駄目なら新体操も駄目だろうと思って発した言葉だったのに、すぐに新体操の教室を探してきてくれた親に対してショックを覚えたんだ。
美大コンプレックスから離れる為に始めた趣味だったのに、またもや同じ気持ちを味わったあの日、結局このコンプレックスはどこに行ってもついてくるんだなという絶望感を覚えた。
もちろん、高校から画塾に通って美大進学をした幼馴染、趣味を通じて知り合った美大出身の友達。
皆親を説得するために苦労をしたんだと思っている。
そしてただでさえ狭き門である芸術系の就職活動を成功させる為に、
血反吐を吐く様な努力をして作品ポートフォリオを作り上げたんだろう。
きっと私には想像もつかないような辛い道のりだったに違いない。
大好きなアイドルと彼の従姉妹だって、日本よりさらに厳しい学歴社会と言われる韓国で音大・美大進学を決めるのには相当な覚悟があったはずだ。
音大に合格して彼の母が泣いたのだって、その一悶着があったからという事もあるかもしれない。
でも。本当に悪いけど。その内誰だって祖父のレベルに達しているとは思えない。
祖父が彼女達と同じ年齢だった頃に描いた絵を見ると、素人目から見ても月とすっぽんの差がある。祖父の様な天才じゃなくても美大に行かせてもらえる彼女達。特に幼馴染は「本当は美大に行きたかった母親が大賛成」してくれて、祖父の様な絵に対する執着心もないのにすんなり画塾に通わせてもらえて、本当に羨ましかった。
家出なんかしなくたって、絵の具の代わりに血を使わなくたって、北朝鮮のミサイルが降り注ぐ中、愛用の画材を泣きながら探し回らなくたって。
もしかしたら、私にも美大に行かせてくれと説得できたのかもしれない。
彼女達が本当に羨ましい。泣くほど羨ましい。
祖父の様に絵を描く事しかできないわけでもなく、(少なくともデザイン系OLをやれる程度のコミュ力はあって)、でも祖父の様な並外れた才能があるわけでもない彼女達が
祖父が天才じゃなければ。数回頭を下げただけで私も美大に行かせてもらえたかもしれないのに。
祖父の事は聞かれない限り他人に話してはいない。父の職業ならまだしも祖父の事を聞かれる事は稀だし、自分から言いふらすような事でもない。
でもごくたまにある。お祖父ちゃんは何をしている人なの?と聞かれる事が。
そして答えると大抵「だから増田さんも絵が上手いんだね!」と返ってくる。
(もちろんお世辞だ。私は下手ではないと思っているけれども、上手くもないと思う。ただ、そういう仕事をしていない限り社会人になってまで絵を描いている人は案外少なく、相対的にそう見えるだけだ)
絵を描く楽しさを教えてくれたのは祖父。
お金にならないのに、今まで絵を描き続けてこれた情熱を持てたのも、祖父の遺伝なのかもしれない。
でもそれを仕事にしなかったのも間接的には祖父が関わっている。
そして何より、私には祖父ほどの才能がなかったのだ。
外で怒鳴ってるおじさんを見ると、理由はどうあれとりあえずハリセンを取り出して「メルシーボクーーー!!」などと叫びながら全力で頭を張り倒したくなるのは僕だけじゃないと思う。
でもホントにやると殴り合いのケンカになったりしそうで、そしたら僕は自分でも驚くほどフィジカルが弱いので、そうなるともう僕には少し距離を取って周囲をフニャフニャと舞い踊るくらいのことしかできない。
回ったり踊ったり傘をクルクル回したりしていると楽しくなってくるので自然と笑顔になるのだけれど、昔から僕の笑顔は目が笑ってなくて怖いらしくてとても不気味だと言われる。
口角あがりまくった能面みたいな感じらしい。
鬼ごっこの鬼をしたら年下の子が漏らしたり、夢に出てきたとか言われて、結局鬼が回ってこなくなって、暇だから鬼を追走するようになったら鬼ごっこ自体開催されなくなったりした。
まあ、そんな顔のおかげか、毎回怒鳴るのをやめるまで続ける気概で気合を入れて挑むけど、まだ失敗したことがない。
とはいえ、中学生のころからやってるけど年に数回くらいなのでまだ通算50回もないと思う。
朝から怒鳴りつけおじさんに遭遇してしまうとたまに会社に遅れるけど、ちょっと遅れますって電話しとけばセーフぐらいの範囲で済んでて助かる。
踊りながら怒鳴りつけおじさんと何度も目が合うと、怒鳴るのを止めるか、たまにこちらに向かって怒鳴ってくる人もいる。
でも怒鳴られても、踊るのが楽しいのでウフフ、オホホと曖昧な返事をしていると皆じきに立ち去ってくれる。
怒鳴られていた人と一緒に「なんだアイツヤベェよ」「ヤバイっすね」と言いながら去ってくれたりするととてもうれしくて背中を見送る口角が余計吊り上がる。
きっとそのあと再開されるお説教では、道端で怒鳴りつけていた先ほどまでほどの熱はこもらないだろうから、もう少し理性的に話し合いや指導ができているといいなといつも思う。
最近なにやら診断も下ったりしたが、どうやら僕は物事の捉え方とか、やるやらないの判断とか、衝動の抑制とか、そういうのがいろいろ多方面にズレているらしい。
とはいえ昔から自分では、どれだけ周囲と自分を幸福にしつつなるべく善良に暮らそうとしても、純粋な気持ちで「人を殺してみたかった」とか言っちゃったり、自分のしでかしたことをものすごく他人事のように淡々と語ったりするタイプの、ヤバイ犯罪者の言動にごくナチュラルに共感できてしまう、かなり紙一重な感じのキチガイであると思っていたのでその辺はさして変化はない。
好奇心に対する歯止めがかなり薄いのだと思う。
やらかしてしまって理由を問われても、自分としては「やってみたくなったから」「気になったから」以上の答えがあまり用意できない。
なのでたまに職質されると、よしよし日本の警察はちゃんと僕のような不審な人物を見抜けているのだな、ととても安心する。
まあ、グロいのとか血とか痛いのとかダメだから、他人に物理的に危害を加える系の方向にはそういかないとは思うのだけれど、人から「優しい」と称され倫理観ブレーキ的なものがあるように見えても、単に自分がしたくないから偶然それはしてないだけみたいなスレスレ感が常にある。
そして、お外で怒鳴りつけるおじさん各位はそうした行為が、奇怪な風体をしたミニマムスローダンスおじさんである僕を呼び寄せるくらいキチガイホイホイであることを自覚して、ちゃんと戒めて欲しいと思う。
彼の両親も、それぞれ23区ど真ん中にある一軒家で育った。
夫の親族のほとんどは都内に家があり、大半は大学出で、半数が東大か海外の大学を卒業している。
母方のひいおじいさんは大学教授、おじいさんは会社経営者で、父親は超大企業に勤めていた。父方の祖父は医者だ。
ど都心にある両親の実家はそれぞれ部屋数が10以上あり、庭は子供が鬼ごっこをできる広さがある。
ここまで聞くと、小町によくあるような夫自慢に思えるかもしれない。
夫は都内の私立の中高一貫校に進学し、専門学校(夫曰く、名前を書いたら入れるそうだ)を卒業してエンジニアになった。
年収は同世代の中央値のちょい上くらいで、1千万円を超えることは一生ないだろう。
一方私は、中堅地方都市にあるアパートで育った。うちはどちらかといえば貧乏寄りで、住んでいるアパートを同級生に見られるのが嫌で嫌で仕方なかった。
家は6人で暮らすには明らかに狭く、自分の部屋がある友人がとても羨ましかった覚えがある。
奨学金と親族からお金を借りて学費をやりくりしたのだが、曲がりなりにも大学に娘を通わせられたのだから、そこまで貧乏というわけではなかったと思う。
そんな私にとって、夫は今まで出会った人の中で最も育ちがいい人間だ。
夫は乱暴な言葉を決して使わない。いつも柔和で物腰も柔らかく、大きな声を出しているところも見たことがない。
躾が厳しいお祖母様が、ジェントルマンとしてのマナーや所作を教え込んだらしい。
夫は怒らず、驕らず、感情的にもならない。女性を見下すことも絶対にしない。
対して私の言葉遣いは乱暴だ。仕事中は丁寧に話すことを心がけているが、すぐ地金が出てしまう。
ホテルで食事をしたことも、きちんとしたフランス料理も食べたこともないからマナーもわからない。少ないお小遣いは本に費やしたため、趣味らしい趣味もない。
夫との育ちの違いを最も感じたのは、箸づかいだ。私は箸づかいがとても悪い。練習してもうまく使えるようにならなかった。
私とは何もかも違う人間だ。
夫に貧困の話をすると、明らかにピンと来ていないのがわかる。
驚いたのは、「うち(私と夫)は、中流の下くらいだよねえ」と言ったことだ。
うちは共働きでそれぞれ正職員として勤めていて、都内のマンションにすんでいる。
すくなくとも私の実家よりはるかに余裕がある暮らしをしている。
「じゃあ、君の実家はどのあたりなの?」ときくと、「僕の実家がちょうど真ん中(の生活水準)だと思う」と返され、二の句が継げなかった。
思い出したのは、義母との会話だ。義母の庭は定期的に職人に手入れしてもらっており、色とりどりの季節の花や木が植わっていて、とても見応えがある。
「こんな素晴らしい庭は見たことがない」と伝えると、「そんな立派なものじゃないわ。近所の方や、知り合いの家の方がよっぽどすごいわよ」と家族一同に全力で否定された。
その時は、「謙遜してるんだなあ」と思ったが、今思い返すと、あれは本気で言っていたのだろう。
私にとって一番凄い庭は夫の実家のものだが、夫の家族はもっと広くてもっと手入れされている庭をいくつも知っているのだろう。
私にとって一番凄い家は夫の実家だが、夫の家族はもっとお金持ちでもっと格式がある家をいくつも知っているのだろう。
夫にとっての「貧困」は、テレビで写し出されるアフリカの現状のようなものなのかもしれない。
存在は知っているが、リアリティを感じないし、遠すぎて自分の家と比較をしたりしない。
夫が大学に行かなかった理由の一つは、「行く必要がなかった」からではないか。
私は狭い家を抜け出し、自分の部屋で生きて行くためには絶対に大学に行く必要があった。
すくなくとも、18歳の私はそう思っていた。
しかし、夫にはそう言った飢餓感や、行かなければならない必然性がなかったのではないだろうか。
大学に行くと、様々な人がいた。
小学3〜4年の頃、いじめをしたことがある。俺がいじめていた「彼」は当時つるんでた仲のいい5〜6人の友人グループの一人だった。
友人グループとは言っても、一人のリーダー格とその取り巻きのような感じだったと記憶している。俺はそのグループ内ではNo.3くらいの立ち位置だった。
詳しい経緯やきっかけはもう覚えていないが、グループの中でもヒエラルキーが下の方だった彼には、普段の遊びの中で徐々に「リアクション芸」が要求され始めた。
特に彼に障害があるとか頭が悪いとかではなかった。何故彼がそうなったのかあまり覚えていないが、外で遊んでいる最中に転んだり、何かの拍子にボールが直撃したりした際に叫んだ言葉が面白かったとかそういう事だったと思う。当時見ていたテバラエティ番組の企画のように皆で公園で「ゲーム」をしたり、学校内で鬼ごっこや缶蹴りをする中で、彼には毎度のように何か知らの試練とリアクションが求められるようになった。
そのうち友人グループの間でどんどん遊びがエスカレートしていき、彼に対する仕打ちもどんどん過激になっていった。最もひどかったときはもはや単純な暴力だった。肩パンして痛がっているのを笑うような雰囲気になっていた。
そのなかで俺も、ヘラヘラしながら何度も彼に暴力をふるったことがある。所有物を隠した事もあった。多分もっと色々酷いことをしたと思う。確か良心が痛んだと思うが、その時は良心の痛みよりも仲間内で目立つことや皆が笑うことの方が大事だった。
今思っても本当にひどいことをしたと思うし、自分の中では凄く反省している。思い出すたび胸がズキズキする。
彼の母親が学校に殴り込みに来て、いじめは終わった(と思う)。
彼の母親はクラス全員の前で、息子が受けた仕打ちや家で落ちこんでいる彼の様子などを怒りを込めて話した。
俺は、少なくともグループ内で遊ぶときには彼は楽しんでいるものだと思いこんでいた。暴力を苦痛に思っていたことがショックだった。
俺はクラスの前で立たされ、怒鳴られて泣いて、涙ながらに彼に謝罪した。それまで人前で泣いた事が無かったのでそれもショックだった。
俺はそれ以降その友人グループとつるむのをやめた。怒られたのがきっかけでなんとなく空中分解したという言い方が正しいかもしれない。
彼の母親に怒られた日の帰り道に「これから人に優しくしよう」と決意したこと、帰宅してから事情を聞かされていた母親の前で大泣きしたことはよく覚えている。
今思えばこの経験がそれ以降の俺の人格形成に大きく影響した気がする。
中学に進学した俺はクラスメイトの中でも孤立している人や転校生と仲良くするようになった。いじめていた彼を同じ部活に誘った。そうすることが罪滅ぼしだと思っていた。
あれから20数年経っているが、俺がいじめていた彼は地元に帰ると必ず会う特に仲のいい友人の一人だ。
いじめていたことが良かったなんてこれっぽっちも思ってはいない。今でも思い出すと辛い気持ちになる。
他のトラバにある
というのはその通りかもしれない。
こういう「仕返し」でいじめをするパターンもあるのかもしれないけど、遊びの延長線上でいじめるパターンが多いのではないかと自分の経験から思う。
35歳になりいじめの記憶を辿るという、かなりどうでもいいことをなぜかしようと思ってしまった。そこまでハードないじめのではなかったのかもしれないがまぁ思い出してみよう
自分の中でいじめだったという認識があるのは保育園、小中?高の4時代、中学はそこまででもないが順に辿ってみる
▼保育園
保育園にはいじめっこが2人いた僕はジャイアンとスネ夫に見立てていたがさながら僕はのび太だった。
ジャイアンと僕は同じ女の子のことが好きだった。彼はいつも「女の子ちゃんは俺のモノだ」と言って誰も近寄らせようとはしなかった。多分、彼女も当時はまんざらでもなかったのだと思う。とてもうらやましかったのを覚えている。(これは嫉妬)
保育園に通っている間は、ほぼその2人に毎日殴られ、泣かされて帰った。これは保育園ながら結構辛かった。ジャイアンとスネ夫は僕とは違う小学校に入った。救われたと思った。
人間失格のくだりではないが同窓会などで保育園の時の話をすると、当時の僕を覚えている人がなぜかいない。存在感が薄かったのだ。写真にはよく写っているようで不思議がられる。
▼小学校
小学校は山側に住んでいる人と、谷側に住んでいる人にわけられた。小学校は20人で1学年1クラスしかない小学校だったが、僕は山側に住んでいた。山側に帰るのは僕ともう1人だけ。残りの18人は谷側に帰る人達だった。おかげで、登下校時の話題に乗り遅れ、ブームに乗り遅れた。また、下校後に山側と谷側で遊ぶ交流もほぼなかったし、おまけに僕はピアノを習っていたため女のようだと言ってからかわれる日々だった。
そのうち成長してくるとクラスにはボスが誕生した。もちろんボスは谷側の人であったため、しもべのような人を数人従えて必ず僕はのけ者にされた。ドッヂボールや鬼ごっこ、サッカー・班決め。チームになるような何かの時には必ずヒエラルキー通りのチームわけになった。なので、勝ったためしがない。多数決では、彼の意見にみんなが賛成したのでかなり不条理な決定がまかり通っていた。先生もなぜか不条理なことを受け入れていた。
あるとき、集団相撲というのが流行っていた。チームで分かれて全員をなぎ倒したら勝ちというルールで、特に土俵などは存在しない遊びだった。教室でやっていたらロッカーの角に頭をぶつけて頭から大流血した僕はすぐに病院に運ばれた。
手当をされて戻ると「あれ?生きてるの?」と言われた。後になってわかったが、僕が病院に行っている間に先生の指導のもと、黙祷されていたようだった。今でも信じられない。
しかし、小6の頃革命が起こった。クラスのリーダー格の女の子が隣の席になると一気に仲良くなった。
その女の子と仲良くなることで女子陣が味方につくようになった。無論、男子たちとは更に距離が開くことになったが、初めて友達ができた感じがして救われたのは間違いない。
▼中学校
中学校では走り出しは順調だった。新入生代表挨拶を自分が読んだためだ。
(とはいえ、新入生代表挨拶は、小学校の時誰もやりたくないということで、ボスが僕を指名したために決まったものだった。誇れるものではない)
入学して3ヶ月頃までは普通だった。しかし、突然風向きが変わった。それまで仲の良かったと思っていた人達が僕を外し始めた。僕が小学校時代の弱者であるという認識が広まったのかもしれなかった。そして、若干名の無視を受けていたものの、そこからいじめが発展したということは特になかったが、中学時代はそのくらいだったので、平穏無事に終わったと思ってもいいだろう
▼高校
高校も走り出し1ヶ月は順調だったが、クラスの人間関係では最悪の高校生活だった。少しづつ友達が増えてきたと思ったら1日にして孤立してしまった。
きっかけは、前の席に座っていた1人の男子だった。ある授業中、居眠りをするととても激怒する先生がいたのだが、彼は居眠りをしていたので、起きなさい的な意味で、冗談まじりに消しゴムのカスを後ろからなげつけた。そんなに深い意味はなかった。起きて振り向いたが、殺すぞくらいのキレ方をされた。
そのことにおいては僕も悪かったのかもしれない。
それからだった。何日もしないうちにみんながよそよそしくなって、気付いたら完全に無視される状況が出来上がっていた。これは高校3年の夏くらいまで続いたので、2年半くらいだろうか。
初期の頃は本当に1日が長くて辛すぎた。特に辛かったのは修学旅行だ。3泊4日の沖縄は最悪の思い出だ。オール無視されながらの班行動。これはいじめ人生の山場だった。
高3の夏に何が起こったかというと簡単で、ターゲットが俺ではなくなっただけだった。そこで、そのターゲットをハブるため、俺に声をかけてくるようになったのだ。しかし彼らと仲良くなろうなどという気も一切なく、うれしくもありがたくもなかった。新しくターゲットになった彼はとても辛そうにしていたが、僕の2年半にくらべたらどうってことないだろうと思ったし、そしてその2年半無視していた仲間がターゲットになったところで、どうでもよかった。
長年無視をくらって、それでも頑張ってくらしているととてもタフになる。もう全然1人でも楽しめるような自分が完成していた。暇さえあれば、写真を撮ったり、美術室で絵を描いたり、学校を抜けて映画館に行ったり、本を読んだりしていた。おかげでちょっと人とは違う感性の高校生になっていたのだと思う。
そして、予備校・大学と進んだがそこはなかなか良い友達ができた。
▼その後
23くらいの頃、高校の同窓会が1度あったので参加してみた。既に俺のことを忘れてしまっている人もいたが、よく参加したものだと自分でも思うがまぁよい経験だろう
きっともう同窓会はないと思うが、あったらまた参加すると思う。おかげさまで強くなったし、自分の感性が活きる仕事にもついた。結婚もしたし、今はよい友達もたくさんいる。
こうやって記憶を辿るのはなぜか自分はわからないけど、今はとても幸せだから、なんか見返せたような気がする。それを実感したくて書いたのかもしれない
無理やり鬼ごっことかやってる集団に混ぜられたのが苦痛だった。
彼女たちからすると、いつも一人で絵本を読むか積み木崩しをやるだけという態度がめんどくさかったのだろう。
昼寝やおやつの時間に抜け出したりとナチュラルに問題を起こす子どもだった。
人に合わせることはめんどくさいことなんだという気持ちを抱いた原体験はそのころにあるだろう。
今もやはり本を読んでクリエイティビティを持て余し、人をからかって規範的な生活にそぐわない態度で生きている。
それは長年積み重ねて熟成された自分の感性に従順な結果であり、
走るのが速かろうが、物知りだろうが、ルックスがよかろうが、立ち回りが悪ければ良しとされない。
ドッキュー
転校した先の山奥の小学校で、4人で陣地の境界線がわかるように十字線を地面に引いて、
ボールを自陣でワンバウンドさせてから他人の陣地に送り込む「ドッキュー」という初めて見る遊びをみんなでやっていた。
何らかのルールに沿ってボールを投げあって、負けた人は周りの順番待ちの子供と交代していくシステム。
他に遊びがなかったのか、子供は一緒に遊ぶものだと教育されていたのかわからないけど、
基本的に常に教室に残る一部の女子以外は、学年全員(20人ぐらい)が毎日毎日この遊びをしていた。
他人にボールを送る時は一旦自陣でバウンドさせないといけないという他に、
ボールを送り込まれた側がキャッチしたらだめとか、自分が触る前に自陣で何バウンドしたらだめだとか、なんかそんな感じだった気がする。
最初にルールを聞いたけど、周りでは「みんないつの間にか知ってる」「知らないヤツに会ったことない」系の遊びだったようで、
明確に説明はできないけどプレイを見れば「今のはアウト」ってなんとなくわかるから成立していたようだ。
そんな感じだったので、改めてルールを聞いても誰もちゃんとルールの説明ができなくて、結局今もルールがよくわかってない。
でも上級生も上級生同士でよくやってたので、その地域ではメジャーな遊びだったっぽい。
ただ、クラスの中心にいた運動の得意な男子とかはボールを割と保持してから、
相手に直接ぶつけるフリをして勢いよく地面にボールを叩きつけてビビらせたりするのが許されてたけど、
今でいう陰キャ系の子がボールをちょっと手に納めると即周囲から「「「はいアウトー!」」」と声がかかるような感じだった。
実は明確なルールに沿った遊びというより、ボールをお互いに投げ合うだけのキャッチボールの亜種で、
勝ち負けとかあんまり関係なかったけど、順番を回すために適当に中心人物に都合のいいルールを付け足していった遊びだったのかもしれない。
ルールがイマイチよくわからないし、順番待ち長いし、ほぼ一方的にボールを投げつけられるのも楽しくなかったので、
私はすぐに外には出るけどドッキューに呼ばれても「えードッキュー?イヤやわー」と言ってドッキューには参加しなくなった。
代わりに一人で全然使われてない遊具を存分に使って、SASUKEごっこしたり、登り棒を足を上にして登ってみたり、
ブランコをねじったり、砂場に水堀を作ったり、ジャングルジムで人喰いクモごっこしたり、フェンスに張り付いてヤモリごっこをしたり、
草花クッキングしてみたり、カマキリに決闘を挑んだり、小石を集めて塔を作っては壊す賽の河原ごっこをしたり、
ヘビになりきったり、校庭の端から端まで前転で移動して後転で戻ったりして一人で好き勝手に楽しく過ごしていた。
それを見ていた影響かはわからないけど、なんとなく「いやならドッキューやらなくてもいいんだ……」という感じでドッキューに参加しなくなる子が増えて、
それぞれに仲のいい子と数人で鬼ごっこやかくれんぼやケイドロやサッカーで遊ぶようになっていき、
私が転校してから数ヶ月で同学年でドッキューが遊ばれる機会が激減して、ドッキューはみるみる廃れてしまった。
というわけでいまだに私の中で割と謎なドッキュー、もしくは類似するボール遊びを知ってる人がいたら、どんなルールだったのか教えて欲しい。
誘ってもイマイチ食いつきがよくない。
サバゲー未経験の人、不安や疑問など敷居高く感じる理由あれば教えて。参考にする。回答できるものには回答する。
(追記)メモ
初期投資:全部レンタルできる。何も買わなくて良い。参加費込み5000円ぐらいで体験可能。曜日で安くなるサービスもたまにある。
何が面白いの?:射的ゲーム+隠れんぼ+鬼ごっこ+戦争ごっこ。日常にはないスリルがある。銃を撃つだけでストレス解消になる。
運動になる?:フィールドによる。狭い所だとあまり動き回れない。自分の戦闘スタイルにもよる。動いて攻めるかじっと守るか個人の自由。
どんな奴が多い?:おたく寄り。おっさん多い。女子は歓迎されるけど少ない。痛い人少ない。10人ぐらいいれば身内のみで貸切も可能。
初心者狩り:上手い下手はもちろんあるがゲーム始まると割とカオスなので腕だけでは決まらない。死んでもすぐ次のゲームが始まる。
遠いの?:広くて面白いフィールドは田舎にあるので遠い。千葉に良質のフィールドが多い。都内はイマイチ。
FPSじゃあかんの?:そらボルダリングとクレイジークライマーぐらい違うやろ
フリーランスの同業者を集めて、定期的にフットサル会を開いている。
「普段運動をしないので、軽く運動をして、その後に懇談会をしよう」という名目だ。
最初はそこそこ人が集まっていたのだが、回を重ねるごとに一次会であるフットサルの参加人数がどんどん減り、
そこでフットサルに参加しない人に参加しない理由を聞いてみたところ、
そこでフットサルを卓球やボウリングに変えてみたが、人数は減る一方だった。
汗を流すことが第一なので、点数などは気にしないように言っているが、
「運動が下手だから」という理由に対する解決策がなければ、どうにもならない気がする。
ブコメ付いているので追記
総合すると
・点数とか実力の差がはっきりわかるような要素がなくて、
・道具も現地で安く借りれて
・山の手線内などのみんながアクセスしやすいところでできるスポーツ
がいいのかもしれない
サバゲはいいかもって思ったけど、装備とフィールドのレンタルに結構お金がかかるのが難点
中居がいてどうなるかと思ったけど割とよかった。
さすがにハゲネタを直接いじることはしてなかったけど、バンダナを巻いてどうこうっていうところは少しヒヤヒヤした
ただメタネタを突っ込んでくるのは興ざめだからいただけなかった。
テレビ局の暗黙のルールとかでかぶっちゃダメとかですぐにいなくなったからちょっとがっかり。
蛭子能収が下ネタとか汚いネタじゃなくて基地外キャラですぐ出てきたからよかった。
堀北すげーかわいく見えた。
柳楽優弥参戦だったけど特にセリフがあるわけでもなく空気だった。
方正がスタッフの意向通りに進めさせようとしてるのがやたら目についてちょっと冷めた。
やるならもっとうまくやってほしいわ。
変顔作るってのだったけど、あんなにチームメンバーいらないよね。
芸人とか決まった人数出さないといけないっていうルールあるらしいけども。
いつもどおり。
ただ大御所きよしがいたからその絡みとネタが少しおもしろかった。
でもさすがに同じようなネタ多すぎて途中からソッコー飽きたけど。
浜田でのフェイクがあってからのーだったから例年よりかはよかった。
いまいち。
ネタの数も少なかったし
やっぱり台本にない天然にこそ笑いの種はあるんだなと改めて思った。
浜田の替え歌にみんなが次々とネタをかぶせて笑いのネタにしていってるのはすげえと思ったし面白かった。
例年通り無駄に笑ってたけどかわいかった。
http://anond.hatelabo.jp/20151108234357
1)ゴール系球技
敵味方に分かれて、方形や円形に仕切られた空間にボールを通すことを目的にする球技。
たまに線上をボール保持した選手が通過しただけで点になるヤツもあるが、あれも元は「通過することでボールを通す権利を得る」ことだった。
ボールを通すことを妨害するために強力なコンタクトが発生するのが特徴で(例外として、相互コンタクトを一切禁止するゴール系球技も存在する。競技名は「玉入れ」という)、その派手さとチーム戦術のダイナミックさゆえに最も人気のある球技。
相手方の対応可能な範囲に、ボールを空中に浮かせて送り込み、それを相互に返し続けることを目的にする球技。
勝敗を絡める場合は、対応可能なボールを送れなかった、対応可能な範囲のボールを処理できなかった、一定の高さを越えられなかった(この定義のためにネットが競技場に存在する場合が多いが、例外として「羽子板」というネットの無いラリー系球技もある)、という失策に対するペナルティを得点として換算するので「相手に打たせない」ことが目的に見えるが、本質的にはラリーが続くことを理想状態とするのが、ゴール系球技との大きな差異である。また、1対1でも試合形式を行うことが可能で趣味として簡便だが、見世物としてはゴール系より若干地味。
ボールに対する操作をルールとして定義し、それを達成することに対して相応のポイントを獲得することを目的にする球技。
時に達成の定義として円形に仕切られた空間にボールを入れることを伴うが、手球へのコンタクトは競技者間で完全に独立してかつ止まった状態からの操作に限定され、ボールを争うことはなく、むしろ精密性が問われる、かなり地味な競技である。その他、ボールを当てる数のみを競うパターン、ボールを特定エリアに置く数を競うパターンなど競技バリエーションは割と多い。対人ルールで行われる際は、精密さと同時に駆け引きが重要となり、チェスに擬せられることもある。
傾向として(ラリー系競技とは逆に)ボールを転がすものが多いが、例えば大玉転がしのように浮かせるプロセスが入ったりゴルフのように長距離の場合はボールを飛翔させることもある。
相手方に対して狙撃としてボールを射出し、殲滅したり敵の数を減らしたところで旗を奪ったりすることを目的にする球技。
遊戯としては戦闘行為としてプリミティブなきらいがあるため、メジャー競技であることは少ないが、単純明快遊戯として子供を中心に楽しまれる。
ドッジボールと雪合戦が代表的だが、ある意味ペイントボール辺りも有資格者ではあるか。
これらの球技はある意味、鬼ごっこという余りボールと関係のない遊戯にラリー系球技の要素を付加したものとは言えよう。
しかし、上にラリー系球技の特徴として「相互に返し続ける」ことを目的にしていると書いたが、これらの競技では投球に対する打撃という形で、非対称な形態を取るので「ラリー」にはならない辺りが、根本的に逆行している。にもかかわらず、ある種の「打ち返せなかったペナルティ」としてのアウトや、「打球を処理できなかったペナルティ」としてのヒットにより試合が進むという点では、ラリー系球技の得点パターンを踏襲している面もあるのだ。
また、例えば校庭で女子中学生が輪を作ってバレーボールのトス上げたり、蹴鞠で貴族がボールを蹴り合ったりするようなものと近い感じで、野球ではキャッチボールなどが「ラリー的なもの」として基礎練習において尊重されるのは、こうしたラリー系の精神を引き継いだものではあるのだろう。
その意味では、広義のラリー系球技に野球は含まれるべきなのだが、一方で完全に「ラリー系球技の鬼子」と言うべき立場であるのが、特異性であるとは言える。
ただ、その特異性ゆえに、多くの球技において禁じ手となっているところの「手でボールを操作する」行為に対して非常に自由度が高いのも特徴であろう。この手のまだるっこしさを排除したスポーツとしてはアメリカンフットボールも相当に自由度が高いが、あれはあれで前パスは各ダウン1回しか出来ないし未登録レシーバーがダウンフィールドでボールを獲れないとか制約はあり、野球の自由度よりは低い。
その「投げる」自由さの代償として、その自由さを定義する中での競技者の関係の特殊性やルールの複雑さが存在する訳だが、ともかくも手という最も人間が頼りにする部位でボールを掴んでプレーしたりそれを相手に走り回ったりすることが、野球の「球技」としてのエッセンスではあろうな、とも。
http://b.hatena.ne.jp/entry/270713387/comment/shields-pikes
TreeMemoでいいじゃん。抜群に使いやすくて20年前から愛用してる(これのおかげでロジカルシンキングが身について戦略コンサルに入れた)けど、バージョンアップが遅いのが問題。Macやクラウドに対応してもらいたい。
99文字
http://b.hatena.ne.jp/entry/270703910/comment/shields-pikes
池井戸潤の原作ドラマは、時代劇でいうところの水戸黄門だから、考証を議論するのがバカバカしいレベル。サラリーマンが共感するムカつくシーンと、ギャフンと言わせてスカッとするシーンを交互に繰り返してるだけ。
100文字
http://b.hatena.ne.jp/entry/270698247/comment/shields-pikes
もはやSNSという括りじゃなく、Web上を流れる血液のような情報インフラとして、今のところ代わるものが無い稀有なサービスだし、大好きだから長続きしてほしいんだよなあ。APIへの取り組みは残念なので改善して欲しい。
100文字
http://b.hatena.ne.jp/entry/270717993/comment/shields-pikes
ていうか、比較対象のFacebookは経営が神がかり的に巧すぎるんだよ。よく見た目から誤解されがちだが、ザッカーバーグはサービスを作ったりビジョンを生み出す天才じゃなくて、30年に1人レベルの経営戦略の超天才。
98文字
http://b.hatena.ne.jp/entry/270693007/comment/shields-pikes
ブコメで大人の趣味について語ろうかと思ったが、全体的にベタ過ぎるほど至極真っ当な意見の記事で、部分的には賛同しかねる点もあるがわざわざ指摘するほどでもなく、特にコメントがなかったのでクソリプしてみた。
100文字
http://b.hatena.ne.jp/entry/270691881/comment/shields-pikes
早く母上を子育てから卒業させてあげて下さい……。『学校の頃に子どもに混じって鬼ごっこしてた母親がスポーツクラブでヨガにハマって「あなたも運動しなさい」とか煽っているのを見て「老いたなぁ」と僕は思った』
100文字
http://b.hatena.ne.jp/entry/270666327/comment/shields-pikes
古くは江戸時代の葛飾北斎「蛸と海女」、昭和のにっかつロマンポルノなど、巫女などと同様に古来より性的なコンテクストで消費されて来た職業なので、こういう視点には敏感だと思うし、あの絵で公認化は無理筋。
98文字
http://b.hatena.ne.jp/entry/270655432/comment/shields-pikes
よく分かってない温暖化のために、一兆円規模のガス排出権取引が行われるのって、どうなんだろね。みんなで気をつけるのはいいことだと思うんだけど、国家間の取引にするなら、もっとリサーチすべきだったのでは?
99文字
http://b.hatena.ne.jp/entry/270654898/comment/shields-pikes
炎上PVで小金を稼ぐために、こういうのを平気でネタにして書ける品性の下劣さが、本当に気持ち悪い。どんだけプライド安売りしてんの。それでも面白ければまだネタとして消化出来るけど、笑いのセンスも無いし……。
100文字
さすが社長というべきか、100文字枠を目いっぱい使って言いたいことを言う姿勢が明確。経営資源の有効活用ってやつだ。
しかも、群小のブコメにうずもれると分りにくいが、ブコメの内容をよく読むと経営者視点からの実に鋭い斬り込みを連発してないか?
継続して読んでいると、下手なビジネス書を読むよりも経営者センスが身につきそう。って言うかおいらも社長になれないかな?w
他の増田ブックマカー達とウフウフキャッキャつるんで遊ぶタイプではないが、キャラ立ってるし着目しないで見過ごしているともったいなさそうな一人である。
http://tm2501.hatenablog.com/entry/2015/11/05/213000
・「若作りうつ社会 」なんて新語をしたり顔で作って、「社会」なんて新しい時代の話であるかのように煽りながら本まで出してしまうブロガー(笑)まで出てきて、本の帯には「熟成消失時代」なんて煽り倒してる。
・いやいや、人は自分が老いを感じたり、気力の低下を感じたり、味覚や趣向が変われば、自然と熟成しますよ。
・小学校の頃に子どもに混じって鬼ごっこしてた母親がスポーツクラブでヨガにハマって「あなたも運動しなさい」とか煽っているのを見て「老いたなぁ」と僕は思った。あるいは、自分がガッツリ系のラーメン屋さんよりも自分で自炊した厚揚げステーキと、ふりかけの定食にありがたさ感じた時、「あんなに学生時代は外食したかったのに、今は外食分を節約して使いたいことができた」という自分に熟成を感じますよ。
http://megalodon.jp/2015-1105-2205-59/tm2501.hatenablog.com/entry/2015/11/05/213000
「若作りうつ社会 」なんて新語をしたり顔で作って、「社会」なんて新しい時代の話であるかのように煽りながら本まで出してしまうブロガー(笑)まで出てきて、本の帯には「熟成消失時代」なんて煽り倒してる。
小学校の頃に子どもに混じって鬼ごっこしてた母親がスポーツクラブでヨガにハマって「あなたも運動しなさい」とか煽っているのを見て「老いたなぁ」と僕は思った。
あるいは、自分がガッツリ系のラーメン屋さんよりも自分で自炊した厚揚げステーキと、ふりかけの定食にありがたさ感じた時、「あんなに学生時代は外食したかったのに、今は外食分を節約して使いたいことができた」という自分に熟成を感じますよ。
さすがに三回連続で誤字してるしタイプミスではありえない。まさか大学卒業してるのに成熟と熟成の区別をしらないわけもない。これは意図的な芸であると断言できる。しかも恐ろしく高度。俺でなきゃ見逃しちゃうね。この記事を読んでシロクマDISとして読んでしまう人間はただの素人。ファンなら誤字による自虐芸に命をかける芸人の熱い魂が読み取れるはずだ。
この記事は一見僕らが知ってるシロクマ先生の著作をDISっているように受け取れるかもしれないが違う。よりによって記事の中心と成るべき重要なキーワードを間違えることで自分が豪快に滑ってみせるという高等な芸だ。しかも自分のあだなが豚まんじゅうであることをかけて「熟成」という単語をチョイスして自虐してみせるセンス。自分に熟成を感じますの破壊力ときたら。この誤字芸を披露するためだけに2000字OVERの記事を書くという情熱。文中に「爆死」などのキーワードをちらつかせ、あたかも他人を攻撃しているように見せかけ、最後には自分が全部それを受けきってみせる熱いプロレス魂。そういったもろもろがすべて集まって出来上がっている。シロクマがなにか反応するまでもなくこの記事の中ですべてが完成している。
すばらしい完成度だった。きっとこの誤字を思いついていてもたってもいられなくて記事を書き上げたのだろう。ここまで誤字芸に命をかける熱い男が他にいただろうか、いや、いない。孤高の誤字芸人青二才先生の次回作にご期待ください。
小さい頃から、まったく運動のセンスがなかった。友だちと鬼ごっこをすれば、すぐに捕まって鬼になってしまったし、一度鬼になったが最後、いつまで経っても他の人を捕まえることができなかった。結局、そんな僕を見かねた友だちがわざと近くまで捕まりに来たり、僕だけ有利になるようなハンデをつけてもらったりしていた。
小学校の授業でドッジボールをしたときは、最後の方まで残ることが多かったように思う。僕はほとんど戦力になっていないので、ボールを当てるのは後回しにして構わないからだ。運動が得意な子たち同士の激しい応酬が一段落した頃合いに、遠慮がちに投げられたボールを避けそこねてコート外へ出るのが僕の日常だった。野球やキックベースをしたときも、僕は守備の役には立たなかったし、打者になったときには投手がかなり手加減をしてくれていた。
男の子にとって、運動が上手にできないというのは、人間としての価値がほとんどないのに等しい。そんな空気を感じ取っていた幼い頃の僕は、自分はみんなよりも劣った存在なのだと信じて疑わなかった。
そんな自分自身のことが恥ずかしすぎて、特別親しい相手以外とはコミュニケーションを取るのが苦痛だった。できる限り他人との関わりを避けているうちに、自然と、社交性に欠ける今の人格が形成されていったのだと思う。
こんな僕だけれど、勉強だけはすごく良くできた。授業を聞いて理解できないという経験は一度も無かったし、大して勉強をしなくても試験ではいつも上位に入っていた。受験でもまったく苦労をせず、地元で一番の進学校へ入学し、日本の誰もが知っているようなトップレベルの大学に合格した。
いまの歳になるとこういう話は自慢だと受け止められるけれど、思春期の頃の僕にとっては、勉強ができることなんて自慢でもなんでもなかった。勉強ができたって、世の中の役には立たないし、かっこよくは無いし、女の子にはモテない。そう思っていた。
もし、できることならば、あの頃の僕に言ってあげたい。
近い将来、学ぶことが楽しくてたまらない毎日が訪れること。研究という、かけがえのない仕事に出会うこと。昼ごはんを食べるのも忘れて、海外の数学書を読みふけるような大人になること。まる一日、方程式と向き合って、解けるまで家に帰らないと意地を張ったりすること。客員研究員という肩書きをもらって、ヨーロッパの大学に滞在すること。研究でいろいろな賞を貰ったりすること。周りの人たちから期待され、また、尊敬の眼差しで見られること。
なにより、もうすぐ童貞のまま30歳を迎えるということ。
オンラインゲームでついていけないなーと思ったのはしばらく遊べないときとかトイレに行くにも許可が必要なのがもう本当全然意味がわかんない。
私家事しながらだからチャイム鳴ったり洗濯終われば途中でやめるしもっといえばつまんなかったら電源ボタン押す。
つまんないというのは一方的なゲームになったときね。煽る人いるじゃない。やられたほうが不愉快になるのわからないかな。
息抜きに楽しく遊ぼうと思ってる時間を台無しにする人に付き合う必要ないでしょ?
遊びで嫌な気分になって現実の周囲の人に八つ当たりするようじゃ本末転倒だと思う。
小さい子だって鬼ごっこの鬼ばっかになったらもう遊ばないじゃん。ふつう遊び仲間の間で誰か調整役がいるものだけどオンラインゲームはあまり考慮されてないみたいよね。
(大人の遊ぶものだからという見方もあるかも知れないけど自分はWiiUの話をしています)
ネットでは「途中で電源を切る」ことが非難されているようなのでやっぱり今の子たちは頭おかしい。そりゃいじめがおこるはずだよ。でも世相を反映しているのかな。
私はさ、農家の人が市場じゃ米が安すぎて赤字になるなら売ることないと思うし、ブラックバイトだって時給安すぎるならやめるべきだと思う。
選択肢の多い人生が豊かに見えるかもしれないけども選択肢そのものを疑った方がマシな人生送れると思う。
なんか、「やる」前提に選択肢があって、選ぶ余地のある者とない者で争ってるように見える。
才覚がない⁽ように見える⁾者でも生きていけるようにするのが豊かだと思うけどね。
小学校の時は、外で男子とドッヂボールとか、鬼ごっことか全然しなかった。僕の運動神経が悪く、疲れるから、すぐに捕まってしまうから。少しは参加したと思うが、僕がタッチされ、鬼になった瞬間に、他の全員がゲームから外れることを宣告され、ぶちギレた記憶がある。
僕は三つ子で、姉と弟がいる。ふたりは家に帰ったら毎日遊んでいたが、僕はそんな友達も多くなかったし小4と小6の一時を除いては殆ど学校から帰ったあとにランドセル放り投げて、すぐに遊びに行くなんてことはなかった。
ポケモンとか、遊戯王カードとか、その時は流行ってたらしいけど全然興味が持てなかった。
携帯ゲーム機や据え付けゲーム機は1台しか買ってもらえず、殆ど弟が使っていたのが原因だろう。
弟は何にしても僕より優れていたし、今でもそうである。運動も、勉強も、プラレールの配線も、ゲームの腕も何もかも。
姉や弟にちょっかいを出され、激昂し手を出した僕が親に怒られるということが度々あった。祖母は「負けるが勝ち」と、僕が悪いことを前提にたしなめ、さらに親が姉や弟を叱った記憶はなく、腹が立った。
また、同じ習い事もやらされた。姉や弟は習い事に行く前に行きたくないと騒ぎ、やっと護送された先では借りてきた猫のように大人しくしているのが腹が立った。
「おそらく」小4のときに仲のよかったFくんとは、Fくんの家で競馬のテレビゲームをしたり、メンコをしたり、親に持たされたお菓子を一緒に食べたのを覚えているが、記憶が曖昧になっている。
小6のときに遊んだNくんは、鉄道の話をよくした。大学入学前の教習所の同乗研修で同じ車だったが、もしかして忘れているかもしれないと声をかけられなかった。中学生になる前に転校してしまい、わざわざ親子で家まで来て、菓子折りをいただいたのを覚えている。
そのときのアニメも、ポケモンとか遊戯王カードとかやってたらしいけど、全然見てなかった
小1くらいまでは鉄道が好きだったが、鉄道趣味なんて恥ずかしいよね、という結論に小2~3ころに至った。やはりこの頃から僕は他人の目を気にしていたらしい。
小6くらいから前述の友達の影響もあり再開した。親に鉄道模型を買ってもらったりもしたが、やはり配線をするのは弟だった。
休み時間も外で遊ばない分、女子と多くの時間を過ごしていたと思う。特に3年生の時は、Oさんと一緒に担任の先生の追っかけをしたりした。
夏休みの自由研究を一緒にした記憶がある。その歳では男女が付き合うとか、そういう概念はなく、たぶん浮いていたと思うが男女から奇異の目で見られることはなかった。
翌年はクラスも違くなり、その先生も転校してしまったため、何となく気まずくなってしまった。
運動をしない分、あやとりとか、一輪車とか、そういう女子が好むこともできた。あと、変に男女平等の意識があって、一般的には小学校2~5年くらいは男女別々の行動をとるという意識が強いが、僕は努めて分け隔てなく接するようにしていた。