はてなキーワード: 建築家とは
1. スイスは賃金は高いが高額な保育費を誰もが払えるわけではありません。スイスは素敵な国、ただし口をあけていれば何でも与えてくれる天国ではなさそう
2. そもそもスイスは学生の多くが大学に 進 め ま せ ん (3割とも2割とも)。卒 業 も 出 来 る と は 限 り ま せ ん
3. 新卒枠はありません。 新卒者は経験者と同じ土俵で空きポストを掛けて戦います。基本的には未経験者は雇わない、即戦力を求めているので、学業の合間をぬってインターンに行きます
4. 大学進学せず就職に進んだ人たちはみな高額な報酬を貰うでしょうか?いいえ、3200〜5000 CHFの方々もいます。高額な保育費は当然支払えません
5. すべての労働者は満足しており暴動や抗議活動はないのでしょうか?いいえ普通にあります(注:抗議活動の否定や左過激派の一般化は意図してません)
▼例
https://20min.ch/schweiz/zuerich/story/anti-blocher-demo-am-bahnhof-uster-25931499
6. スイスで進学ではなく就職(一点特化、専門)に進んだすべての人たちは潰しが効いて安泰でしょうか?少なくともスイスの一人当たり名目GDPは現時点では極めて高いです。であればリッチなスイスの労働者は外国人に対して寛容でしょうか?
いいえ、日本と同レベルのコメントのやりとりをしてるっぽいです
ある人は、「移民のせいで無駄に社会保障費が上がる!政府は腑抜け!」と言い、
ある人は、「移民政策には反対だけど外国人差別主義者ではない」と言い、
ある人は、「サイフと安い労働力を提供してくれるのが良い外国人」と言い、
ある人は、「外国人に差別的だったら移民が来るわけないだろ。極右も極左も黙れよ」と言ったりとか、
保育・・・週に3日間のケアのみで、月に2,000 CHF(23万4千円くらい)
子ども2人に掛かる費用:361,920 CHF(4050万くらい)
パイロット | 13750 |
教師 | 7292 |
石工 | 5792 |
肉屋 | 5084 |
スチュワーデス | 4209 |
税務マネージャー | 11667 |
建築家 | 6250 |
大工 | 5150 |
屋根職人 | 5300 |
警察官 | 6850 |
郵便労働者 | 5550 |
書店 | 6750 |
弁護士 | 9300 |
植木屋 | 4400 |
銀行窓口 | 6750 |
投資顧問 | 9150 |
パン屋 | 5209 |
美容院 | 4375 |
保育士 | 5709 |
調理師 | 6250 |
看護師 | 5667 |
運転手 | 4300 |
工場労働者 | 3600 |
自動車整備士 | 5792 |
コールセンター | 3750 |
ITプロセスマネージャー | 9561 |
ITサポーター | 9344 |
ITシステムスペシャリスト | 9750 |
デザイナー | 7583 |
北欧ムカつく
「妄想世界」と「現実世界」を天秤にかけたとき「妄想世界」を選ぶ
のがオタクであった。
言い換えるなら
という条件でこれを定義することができる。
※現代で言うなら「公式が解釈違い」などと言い出すのが本来のオタクだ。
「オタクと誤解される人」
が現れ始めた。
仮にオタクモドキとしよう。
オタクの見た目というのは「現実世界への関心が希薄」という要素が表出したものであって本質的なものではない。
逆に見た目は家庭の経済事情などにも影響されるためオタク的見た目を持つものが必ずしもオタクではない。
だろう。
(その他、服装や化粧、友好関係(友達がいない、人の名前を覚えることができない、など)にもこの法則は当てはまる)
オタクモドキは
「オタクとみなされる」のはノーサンキューだが「オタクに恨まれる」のも怖かった。
当時、オタクは犯罪者予備軍と見做されており「怒らせれば何をするかわからない」という共通認識があった。
そこで
とオタクを持ち上げつつ自己がオタクであることは否定する戦略を取った。
こうした活動の成果として「オタク=ステータス」と見なす層が現れ始めた。
それが後のニワカオタクやイキリオタクに繋がるが、そこから先の歴史は現代人には敢えて言うまでもないだろう。
「オタクにさえなればアイデンティティが得られる」と誤解し暴走したオタクがネットや現実をお騒がせする。
(本来のオタクは良くも悪くも「現実世界への関心が希薄」であったがゆえに能動的に現実世界へ介入しようとはしなかった)
こうしてオタク文化は緩やかに自滅の道を辿っていくのは自明であるとして過言ではない。
こうした時系列を踏まえて上で言おう。
(さらに言えばクリエイターにもオタクではない人々が含まれる)
そうした線をふまえず理想と現実の相克を目指す人々(プロフェッショナル)をカジュアルに「オタク的」だなどと評価することは侮辱的ですらある。
・出版の裏側
チャンネルの性質上ピー音や伏せ字も沢山あるがそれでも十分面白い
漫画家やライトノベル作家志望の人間からも多くの質問が寄せられるが
「まずはネットで腕試ししてから送ってこい」というのが最近の定番の返しになっている
ゲストはいつも匿名形式での参加となっているためコメント欄では推理大会が開かれる
女装に関してズブの素人だった人間が徐々にレベルアップしていく様子を楽しめる
最初はただ単にユニクロなどで買ってきたものを着るだけだったが
わずか一年の間にガチで女性にしか見えないレベルにまで到達してしまう
建築家のスキルを生かしてLEGOで家を組み立てるというチャレンジをしている
ただ単にガワだけを再現するのではなく機能性の高い本格的な住宅を建築中
”Primitive Technology”を連想するという人がコメント欄にもちらほらいる
・巷のデバッガー
街なかを歩いているときに見かけた様々なものを紹介するという動画を上げているが
見たものをあたかも”現実のバグ”であるかのように紹介するというユニークな手法をとっている
加えて豊富なゲーム知識と絡めて説明することでよりいっそうのおかしみを漂わせている
コメント欄では「これがゲーム脳か……」というような文言が定番化している
海外ファンからは映画マトリックスになぞらえてモーフィアスとあだ名されている
・ミニヨンズ
金と暇を持て余したアラサー兄弟がひたすらミニ四駆の限界に挑み続けている
回を増すごとにヤバさがインフレしているところも懐かしの少年漫画っぽくていい
ヨハネス・ファン・デル・ワールスって物理学者が居て、分子と分子が引き合う力であるファンデルワールス力っていう力を発見したり、気体の状態を高精度で計算できるファンデルワールスの状態方程式ってのを考案した人で、化学の世界だと死ぬほど有名だから俺も「変な名前だなー」と思いつつ受け入れていたんだけど、最近ミース・ファン・デル・ローエっていう有名な建築家がいることを知ったり、サッカー選手でもファン・デル・サールって人がいることを知ったり、実は「ファン~」(van~)は、~出身であることを示す前置詞であることを知ったりして、フィンセント・ファン・ゴッホやヴァン・ダインやバンホーテン(VAN HAUTEN)にも「ファン」が入ってることに気づいたんだけど、君の初めての「ファン」は誰?
※夢の中身を箇条書きにしただけなので面白くありませんよ
その路線は実在する路線でもない、実在する駅名でもない、夢の路線。(駅名は名詞ではなく砕けた口語調のようなもの)
最初に降りた駅は海のそばで海産物が豊富な町。人の往来も多い。
瀬戸内海のとれたての美味しそうな魚がたくさん売られていた。(けど、実在する魚ではなかったような気がする。皮が赤いのは覚えている)
その町は町興しの一環として今から60年前の風景を再現する、ようなこともしていて、どことなく懐かしさを感じる黒電話やレトロな家並みだった。
私は何を思ったのか、「これを掛けるとレトロな色に見えますよ」という売りのサングラスを買って、それを掛けた。町並みがレトロな色調に見えた。(つまりはセピア調)
そして公園にたどり着いた。公園に座る半袖半ズボンの若い青年に声をかけた。
「意味?…ありませんよ?」
と歯を見せて笑顔を作った。私と青年は軽く声を出して笑った。私は青年にありがとうと会釈をし、公園をあとにした。(サングラスを外した時点でセピア調の色彩からもとの色彩に戻ったことを夢の中で知覚しているので、意味はあったんだと思う)
人の往来の多い道を進むと大きな川を跨ぐ橋に付いた。下流によくある緩やかで大きな川。川の流れに沿うように、上には高速道路と思われる大きな高架も架かっていた。どれくらいの車線があったかも分からないが、川の幅よりも広い印象だ。空は殆ど見えない。
橋は車も通れるつくりであり、人と車でごった返していた。私は橋を渡らなかった。行ったら最後、戻ってこれない予感がしたから。
そのまま駅まで戻り、電車に乗り隣駅へ向かう。
(電車内の様子は夢から醒めたときからまるで覚えていない。乗ったことは覚えている。しかし電車のカラーや駅ホームの構造などまでは把握できていない)
隣駅に着いた頃には日も傾き、赤の夕焼けと青の夜の入り交じる時間帯だった。人の往来は昼ほど多くないが、疎らというほどでもない。
駅に降りた私は、急かされるように駅の外へ出る(改札はなかったように思う)
すぐに、100段ほどの階段。横幅10メートルはあるだろうか。駆け下りる。足元の灯りは乏しい。蛍光灯でうっすらと照らされているのみだ。
降りた先に、さらに下へ降りるためのトンネル付きの階段がある。階段は蛍光灯で赤く照らされている(演色性が低い)
階段の中央には手すりはない。代わりに、手すりほどの高さの位置にひとつの凹みがあり、それが先の見えない下の下まで続いている。(うまく言葉に出来ないのだが、チューブスライダーや流しそうめんのようなものと考えていい)
私はこの設備の意味を考え、スロープのないトンネルなのでおそらく自転車を使う人のために用意したのだろうと考えた。
振り返ると仕事帰りと思われる人が階段を降りてくる。あるものはそのままトンネルに入りさらに下へ、あるものは左折して見えなくなる。私は下に降りずに、トンネルに向かって右に曲がった。
そこには水族館があった。今のオシャレな水族館ではない、古めの水族館だ。しかし駅直結ということもあってか、夕暮れのこの時間帯でも入館者は多い。
右手には、イルカショーが見える。水族館の外であるにも関わらずだ。イルカにスポットが当たり、芸をする。飼育員の顔は帽子の陰で見えない。
客席に明かりは当たっておらず、誰がいるのかはもちろん、表情の判別は難しい。日の沈む薄暗い中、イルカだけが光をほしいままにしていた。
そのすぐ左、私から見て正面の階段を登ると水族館の入口だが、私は急いでいるので階段を登り隣駅へ向かった。
日はすっかり沈んだ夜。そこの駅から降りてすぐの大学では入学式?が執り行われていた。至るところに輝度の強い白色光が照らされ、そのコンクリートの外壁に美しさを、白と赤の花紙で作られた花に鮮やかさを与えていた。(外壁は打ちっぱなしコンクリートによくある規則的に丸いくぼみのある感じ)
電球色の暖かい色が、ガラス越しに漏れていた。私は学生の列に混じって大学に入る。
エントランスホールでは多くの学生でごった返しており、私はそれを掻き分けて、勝手知ったる足取りで歩を進める。階段を登り、図書室に入る。図書室も多くの学生が本を探しており、私も本を立ち読みするなどした。
どういうわけか分からないが、その図書室には私の上司がいた。(夢の中で出てくる私と関係する実在上の人物はこの上司のみだ)
その上司は誰かと電話をしている。書棚の本の背を指でなぞり、指で引っ掛けて本の顔を確認しては「これじゃない?違うー?そっかー。私もよくわかんないんだよねー」とか図書室にしてはうるさい声量で話す。それを見た私はそっとそこを離れて図書室を出る。
(図書室の構造は円筒形。円の内側がガラス張りで室外が見える。円の外側は壁。図書の保存にはあまり良くないと思われる。私の小学校も改装したときは図書室が両面ガラス張りだったのでその影響もあるかも知れない。確か当時有名だった建築家に設計を依頼したとかなんとか)
その後のことはよく覚えていないがそう長い夢を見ることなく目を醒ました。
(長くなりましたがこれは旅行をした夢です)
この夢を見る前はかなりストレスが溜まっており、イライラしていました。つまらないことで血圧が上がり、そんな自分が嫌でさらに心拍数が上がり、そんな状況でした。
この夢を見ているときから幸福感に包まれていたような気がします。起きてからもです。もちろん目が覚めてから夢だったと納得するわけですから、順序としては
となるわけですね。
私はかなり根に持つ方で、いつまでもいつまでもあの失敗あいつの仕打ちをどこまでもどこまでも引きずっていく人間なのですが、この夢を見てもう全部水に流しました。理屈はわかりません。それぐらい開放的で、穏やかな気分です。心が洗われたとはまさにこのことなのだなと納得している次第です。
こんな夢、あと何回見れるんだろう。今日も枕を高くして寝よう。
ここで絶対にバイオを選んではいけない。建築や土木もコミュニケーションの力が強いので親が建築家の場合を除き選択肢から外す。
なぜ院進をしてはいけないか、大学の研究室は村社会である事がほとんどで、大抵の発達持ちはすぐバレて人間関係で辛い思いをする事が多い。
そして研究面でもどうしたらいいか分からずただ時間が過ぎていくパターンが多い。
勤勉な発達もいるだろうけれど、研究は勉強と違って、一人では絶対に完結しないし自分を律する力が勉強よりめっちゃ必要。
指導教員から「変な子」と言う烙印を押されるだけでとても居づらく大変になる。
就活しながら研究少ししてみて、無理そうだったら就職するという選択肢は悪くない。
でも大抵就活に出遅れがちになるのであまりオススメではない。就活は早ければ早いほど決まりやすい。特に理系は学部レベルでも「推薦だします!」って言えば内定もらえることが多い。(後推薦)
就活しつつ院進学も視野に入れるという方法は、大学受験で言うところの仮面浪人に近いものがある。自制心が強くないと、「あー就活ダルいし院進学でいいや」ってなってしまい、結局思い入れもないまま院へ、その後研究と人間関係がしんどくなり不登校がちになる。
(続き)
これ、『サマーウォーズ』--これは脚本自体は奥寺さんですけどね--の頃からの一貫して細田さんの弱点だと思うんだけど、いわゆるカギカッコつきの“リベラル”的な女性観・家族観の理解がひっじょーに浅薄で浅いんですよ。女性が家長、新しい!女性は子育てをしていて偉い!男はイクメン気取りだけど全然わかってない!主夫の育児なんてドタバタでダメダメ!→ね?俺わかってるっしょ?みたいな意識/無意識ですね。
まず、イマドキ4歳児に「男の子でしょ!」って言って説得するのは“絶対になし”とまでは言えないまでもちょっと古くさい感覚だと思うし、そんなあさーい理解だからサイコ父ちゃんが無慈悲な既読スルーをする一方で、クソガキ様の自転車の練習のとき--この父子モチーフもイマドキ手垢つきまくってませんかねえ--急に古くさい父親のイメージとなるんですよ。要するに無理してかっこつけて大衆に目配せしているおかげで世界観やキャラクターの知能レベルがガタガタなんです。
さらに痛いのがね、ミライちゃんが初めて現われたその動機、ネタバレになるから一応伏せますけどね。何か裏事情があるのかなーと思って見てたらそのまんまで、は?なんじゃそりゃ!っていう。何故そこだけ急に価値観が昭和中期以前になるのかな・・・?キミ、設定上は一応令和時代を育ったんでしょ・・・?ってかそれ、おもしろい、のですか・・・??
ところが、このミライちゃんについては、はあ、それで・・・?未来のミライちゃんにとっての“今”ならまだしも新生児のときのソレってそんな気にするもんなの?というか、我々はリアリティラインをどこに設定すればよいのかな・・・?となっちゃっていて、行動原理が全くロジカルじゃない!ギャグとしても全くおもしろくないし。そもそもね、あれだけドタバタしてたらいい加減お父さん気付くでしょ?何か不思議な力が働いているのかな?ってか結局“現実”ではどう処理されたの?ってのが全く意味不明、というね。
良かった点も一応言っておきましょう!特にクソガキちゃんのクネクネクネクネした動きね!ここに関してはいわゆるアニメーションに疎い私でも「あっこれは気合い入れてるな、金かけてんなー、他の諸作品とは次元が違うなー」と思わせるものがありました!
でもね、それに関しても、「動きリアルっしょ?」「幼児の動きわかってるっしょ?」という自意識が先に見えてしまって素直に楽しめない自分がおりました。ここもなー、動きを見せようというのが先にあって全くロジカルじゃないんだよな。
擁護派の中には、「アニメーションリテラシーがちょっと高くないと」「『話がどうこう』って言い出すとやっぱり『つまんない』って感想が出てきやすい」っておっしゃってる方もいるみたいですけどねー。専門学校生が卒業制作で作る映画の話をしているならまだしも、あれだけ大メジャー作家のアニメーション映画でそれ言い出しちゃったらダメですよ。動きを追求するにしても「話がどうこう」の最低限のレベルはクリアしてくださいよ。そこは逃げないでくださいよ。比較するのはちょっと残酷すぎるかもしれませんが、宮崎監督作品や高畑監督作品の批評でアニメーションリテラシーの高低の話出てきますか?そりゃリテラシーが高い方の方がより作品世界を楽しめる。そういうことは往々にしてございます。両巨匠の作品もそういった性質のものですし、ポスト世代では、庵野監督作品、片渕須直監督作品だってそのように評価できると僕は思います。
しかしね、それにしても、あれだけの資本がついていて、ちゃんと作品に力があればリテラシーの高低にかかわらず、大衆みながそれぞれの立場で楽しめるものになるはずなんですよ、本来は。
極端なこと言えばリアルなアニメーションが欲しいだけならモーションキャプチャーでウニウニ動かせばいいだけの話で。僕は、それ以前の、物語としての最低限の誠意やマナーの話をしているんです。
その象徴として最たるものがあの“意識高い系”住宅。あれ、わざわざ建築家の方にオリジナル建築の設計を発注したとのことですが、あのねえ・・・これ、建築家の方は発注に答えたまでで全く悪くないと思いますが、新生児と4歳児をかかえたサイコ父ちゃんが仕事をしながらワンオペ育児をする家があの作りって・・・。あのう・・・控えめに言って狂ってるんでしょうか?これも「ためにする」デザインにしか思えないというか、あの家の作りでこの家族--暴れ回る幼児たちやこれから年を取るご夫婦--が一人も頭をかちわらずに天寿を全うできたらそれこそ奇跡なんじゃねえかという(笑)。やっぱりねーそこらへんの視点への気配りも含め、とことん不誠実なんですよ。
あとねー、クソガキちゃんについてもですね、「アナルプラグ(笑)」って書いてきたリスナーもいましたけれども(笑)、未来のミライちゃんに対して顔を赤らめて言うセリフとか、“王子様”に対する態度とか、サイコ母ちゃんのアルバム(唐突に出てくる、結婚式のスライドのようなリアリティのないアルバム。あれだけ小綺麗な写真見せといてなーにが“黒歴史ww”じゃい!)への反応とか、カギカッコつきの“東京駅”での振る舞いとか、ラストシーンのミライちゃんの説明ゼリフとか、もうとにかくその場その場で場当たりでてっきとーにキャラクターを動かしているから、まとめて一本の映画として見させられると賢さの設定がぶれぶれなんです。
特にアナルプラグのクダリなんて完全に大人側の欲望の目線やんけ、これのどこがリアルな4歳児なんすか!というですね。
ぶれぶれといえば、こちらも指摘しておかなければなりません。
物語の根幹かつクライマックスにもかかわる、世界観の設定ですね。
ミライちゃんがこれまた脈絡のない説明ゼリフでとあるタブーを説明するんですが、その数十分後にはたやすくタブーが破られる。そして特にペナルティーもない。じゃああの説明ゼリフはなんだったの?観客ポカーンみたいな。
そもそも未来のミライちゃんが全て知ってるように振る舞っているのは何故?とかね。言い出したら切りがありません!
BTTFシリーズのようにパキッと全ての伏線を回収しろとまでは言いませんよ!けどね、作品独自のタブーを出したらペナルティもあわせて説明してくれないと意味ないでしょ!ってかそれって創作における最低限の誠意、マナーなんじゃないんですか?
どういうことか。要するに、タブーが実際に破られる?大丈夫か?大丈夫か?あーとうとう破られてしまったー!そのあと一体どうなるー?、という状況があって初めて我々観客は一緒にハラハラできるわけですよ。たとえるならアレですよ。映画『グレムリン』ありますよね。1984年。ジョー・ダンテ監督の出世作。その中で、例の3つのルール、ありますね。
この作品でたとえるなら、映画内で3つのタブーを説明したにもかかわらず、結局ペナルティはよくわからない。映画の後半でギズモが太陽が燦々と照る真っ昼間にグラサンかけてジャブジャブ海水浴をしている。そんで最後の最後にそれまでの展開と無関係な第4の設定が唐突にギズモの口から語られる。なんじゃそりゃ、みたいな(笑)。もう一体何がしたいの?というレベルですよ。
世界観の設定自体もね、これ、実は初見のとき、クソガキちゃんのインナートリップやらセルフセラピーやらの話かとも思ったんですが、どうもそうじゃない。福山ひいじいちゃんや東京駅のクダリを踏まえると、クソガキちゃんが明らかに経験しえないこと・知りえないことを経験していて、なんでインナートリップのルールからも明らかにはみ出している。
あのねえ、4歳児を主人公にすること、オムニバス形式であること、現実と夢、空想があいまいなことって世界観がグチャグチャであることの免罪符には決してなりませんからね。童話や寓話、不条理ってそういうことじゃあないんですよ。ことほどさように、幼児を、というか人間のあり方そのものなめている所作としか思えません!
細田さん、クレヨンしんちゃん、映画版だけでもいいからもう一度じっくり全部見てくださいよ。全てが100%の傑作というつもりはもちろんありません!ありませんけど、幼児が主人公であること、ギャグマンガであることを世界観の言い訳にしているのはほとんどありませんよ。その上で、幼児の幼児性、第一子と第二子の関係性、ペットとの関係性、親子が親子であること、夫婦が夫婦であること、家族が家族であること、などなど、比べるのもホントおこがましくてしんちゃん側に大変失礼な話ですが、大人も子供も笑えるギャグも交えつつ逃げずに遙かに高度のレベルで達成してますよ。
クレしんとの対比でいえばクライマックスのアレね。あー出た出た細田演出、はいはい。なんて意地悪な僕は呟いてしまったわけですけれども、これもちょっとしたネタバレになっちゃいますが、クレしんの某・大名作映画。監督・脚本は原恵一。ナンチャラ帝国(笑)オトナナンチャラ(笑)の、“あの例のシーン”。これ、見た方はおわかりかと思います。と同じようなシーンをクドクドクドクド・・・。犬まで登場させてクドクドクドクド・・・。そもそも犬ってああやって母犬と別れるのか・・・?違うんじゃねえの(笑)?ってかそれもセリフで説明すんのかーい!見てりゃそれくらい黙っててもわかるわ!それ以前の問題としてに父犬はどこに?ということも含めて、とにかくひっじょーにテンポが悪い!!
あと一つ、これだけは言わせてください。
僕、前から言ってますよね。我々の用語でいうところの、いわゆる一つの“ベロベロバー”問題でございます。
クソガキたちがおどけた何か面白“げ”なことをやれば面白くなると思ってますよね。テレビではそれでいいかもしれないけど映画はそれじゃあ笑えないんですよ。
なおかつ、それ以外のギャグもアナルプラグでしょ!?単に下ネタがダメってんじゃないですが、時と場所と見せ方を選んでください。ただただ不快です。R指定なくていいのか?これ、子供に見せてもいいの?という。
さらに、その滑ったギャグを、全然成長しないクソガキのワガママやサイコ両親の立ち振る舞いで上書きして不快感を増させていくという(笑)。もはや“げ”ですらないじゃないか(笑)!
うるせー!こちらがお前らを「好きくない」んじゃー!とホント上映中心の中で何度叫んだことか。
そんで全然成長しないサイコ両親が終盤あまーい自己満足のセリフを言い合いますよね。はあ・・・。それはまあいいんですが、まずご自分たちのサイコ性に手を当てて顧みていただいて、素晴らしいご両親のご美意識にはお反しあらせられるかもしれませんがご自宅に子供用の転落防止柵をつけるなり、恵まれた収入でハウスキーパー雇うなりしないと死人が出ますよ、なーんてひねくれた僕なんかは思っちゃいますけどね!ええ、ええ、どうもすいませんねえ!ひねくれ者なもので!
これもねえ、今回は残念ながらあざとい部分だけ、“やだみ”ばかり印象に残ってしまいました!
はいカメラパンしました。時間が経過しましたよ。これ省略だよ。映画的でしょ?というのもさー、それはそれでいいと思うし、正直さすがうまい演出だなあと感じたカットも中にはありました!冒頭の息でガラスを曇らすシーンとか、雪のシーンとかですね。でも、これは演出じゃなくて脚本の方の問題かもしれないけど、とにかく登場人物がクドクドと設定を喋る喋る。別に未来の人だからってイコール全知の人じゃないですからねえ?
これもそれなりの理由があれば設定を喋ること自体は全然いいんですよ。
さっきたとえにあげたBTTFシリーズのドクとか、顕著な例ですよね。要は、彼は物語の構造上、観客が知らないことを「知っている」から、タイムマシーンの設定を「知らない」マーティン(=我々)に対して多少くどく説明しても全く嫌みにならないじゃないですか。ちゃんと時間が変わって彼が設定上「知らない」世界のことは観客が知っていても一切説明してないでしょ。
このあたりもなー。知識レベルの設定が全然統一されてない。観客は最初から最後まで悪い意味で置いてけぼり。
たとえばこれ僕からの一つの稚拙な提案ですけどね。ひな人形を巡るくっだらねードタバタをどうしてもやりたいんなら、おじいさんのエピソードも、一見するとくだらない代々の言い伝えである迷信的なナニカを律儀に守りました→そうしたらおばあさんとめでたく結婚できました→ミライまでの血脈が繋がりました→だからミライもそれをなぞったのです、ってすればですね、まあ設定のレベルとしてはひとまず統一できるじゃないですか。そのあたりも含めてとにかく“雑”の一言に尽きるんですよ。
あと、これ、感想メールで指摘していたリスナーもいましたけど、父ちゃん側の血筋はガン無視?問題ですね。誰しもそうですが、父と母が「両方いて」初めて今の我々に繋がるんじゃねえの?おいしいところ、ドラマチックなところのつまみ食い的な、「ファミリーヒストリー」をそのままやりたいならわかりますよ?でもこの映画のテーマって、平凡な一家族の、非・ファミリーヒストリー的な部分にあるんじゃないんですか?
「ファミリーヒストリー」的にいってもですね、もうこれ作品の根幹の価値観の話なんですが、サイコな両親とは距離を置き、血縁を自分からは繋がず、一人で自己完結してアナルプラグで遊んで暮らす一生は果たして「不幸」なのか?「何かしらの罰を受けなければいけないこと」なのか?という問いにはこの映画、実は全然答えられていませんよね。そのように考える人は、排除され、存在しえない世界となってしまっている。ここ、最初にも述べた“この光景は果たしてユートピアなのかそれともディストピアなのか(笑)!”という問いにも繋がるところですが、このあたりも、昨今生産性だなんだとニュースになったりしていますが、イマドキの価値観でいえば、全体としてはどんどん多様な個人の価値観を尊重する方向に向かっていっていますよね。少なくとも、僕個人はかくあるべきだと考えています。「家族派は家族派」、その立場はもちろんそれで否定しないけれども、一方で「アナル派はアナル派」だし(笑)、「乳首派はもちろん乳首派」(スタッフ爆笑)、本当はね、みんな違ってみんないいと思うんですよ。
このあたりも細田さんの“臆面のない傲慢さ”の意識/無意識、いわゆる“やだみ”がどうしても透けて見えてしまっているというか。というよりも、悪いこと言わないからもう細田さんはこれ以上家族のテーマは触らないか、触るとしても設定から脚本から何から全部外注して演出だけに専念する方が良いと思いますけどねえ。僕は。
というか、そもそも幸せって他人と比べてしまった時点で大概幸せにはなれないですからね。“あの”東京駅の“あの”新幹線の設定を踏まえるとどうもここはそういう世界ではないようですが。僕はこの世界は断固拒否したいです。絶対に嫌です。別にひとりぼっちでも本人が幸せならそのままで全然いいじゃねえか、というね。僕なんかはそう思ってしまいますけれども。
あー時間がない!声優のお話とかもしたかったんですけどね。福山雅治さんの意外なはまりっぷりとかね。
結論としては、申し訳ないですが、僕個人は「好きくない」類の映画と言わざるを得ませんが、山下達郎さんの主題歌を劇場の音響で聴きたい方、幼児がアナルプラグを刺して絶頂する場面を超絶作画で見たいという方に対しては・・・・・・オススメです!
(終)
俺が下着のにおいを嗅ぐのが好きだからこそ、逆にコメントし辛い。
(もちろん合法での話よ)
ぶっちゃけ、これが男女逆で日本の男がドイツのオババの下着を嗅ぐCMだったら、人種差別だとは言われなかったんじゃないかと考えている。
「におい好きが行き過ぎて誰のものとも(人ですらない場合もある)わからない匂いで興奮してる」というのはよくある笑い話だ。
何より、においフェチの人々自身が「だはは、そういう扱いだよね」って笑いそうだと思う。(少なくとも俺は笑う)
フェチに無関係な女性は怒りを感じているそうなので、これにはすみませんと言う他ない。
大体、CMぐらい手間のかかる表現というのは「相手を貶めたいという差別意図だけ」ではなかなか作れないものなのだ。
それが出来るのはプロパガンダくらいで、普通はどうしたって「貶めたい相手」を自分の中にも発見し、共感してしまう。
だからCMなどが問題になる場合は、「無意識の差別」が露呈する事が多い。
しかしこの会社は、日本人の建築家だかデザイナーだかをCMに起用した事もあり(日本語音声でドイツ語字幕)、日本にまったく無関心ではないのだ。
プロパガンダ作品は意図の明確さゆえに歪になることが多いが、このCMにはまた違うものを感じた。
単純な差別意図なら、下着の工場含め日本の描写が長くて力を入れすぎだし、馬鹿にするにしてももっとやりようがあったと思うのだ。
逆に女性のにおいフェチの気持ちを簡単に推し量る事ができない。
俺は女性の匂いフェチの実態を詳しくは知らないが、割と存在するらしいとは聞く。
コンサートや運動部のマネージャーなどの汗が絡む世界の話を聞くと、一般的には女性の方が好きな相手の汗やにおいには敏感なように感じ、
当人が笑っているのならそれでよし、という訳ではないが、それなら話はまた変わってくる気がする。
アナルが好きな変態大国でギャグがつまらないらしいというド偏見はあるが、においフェチの扱いなどはわからない。
案外、日本を仲間扱いして内輪向けジョークをやったつもりが怒られた、というオチなのではないかと勘ぐったりもする。
そうやって答えの出ないことをぐるぐる考えつつ今回のCMを見ると、
まとまりのない話を書いてしまったが、個人的には匂いフェチという部分に共感すればこそ、今回の件はいろんな所が引っかかり、素直に差別だと捉えられなかった。
インターネット上に早稲田大学芸術学校についての情報が少なすぎるため、数年間当校に在籍した経験を基に入学を検討している人に向けて情報提供をしたいと思い記事を書くことにしました。いくつかの夜間建築学校などを検討している方などに向けた記事ですが、当校の入学決定者にも役に立つところがあるかもしれません。
また、当校は体制改革の最中ですので、もしかするとこの記事は古い情報である可能性もあることをご了承願います。
・入試について
・教育の質について
・最後に
インターネットを見ていると入試の内容、難易度に関して疑問や不安を感じている方が多いように感じますが、まったくもって心配する必要はありません。
入試の内容は、詳細には覚えていませんが、私が受けたときには「好きな建築(あるいは建築を学ぶきっかけとなった建築)を挙げ、その建築について述べなさい。」といったような内容だったと思います。これに加え講師との面接があり、その後入学が決定します。合格率は年によって異なるかもしれませんが、基本的には全入であると思われます(定員割れしていることが多いので)。ですので、入試に関しては特に心配はいりません。
これはもしかすると私の学年だけかもしれませんが、かなり多くの生徒が自主退学をします。退学者に理由を聞いて回ったわけではないので詳細な理由は知りませんが、おそらく日中の職業との両立の難しさ、そして建築を学ぶことへのモチベーションの低下などが主たる理由であると思われます。
カリキュラムについてはホームページやシラバスで十分な情報があるのでそちらを読んでいただければ問題ありませんが、率直な感想を言うと週5回の夜間学校は予想以上にしんどいです。これを読んでいるあなたが学生や社会人である場合、両立にはかなりの忍耐力が必要です。おそらく入学を前向きに検討している方はそのような覚悟もできている上で(私もそうでした)この記事を読んでいるかと思われますが、実際のところ本当にきついです。
まず平日18時過ぎに毎日必ず西早稲田に移動することができない方はまず入学を再検討したほうがいいかもしれません。授業開始時間に間に合わない社会人や学生も多いため、遅刻自体には寛容(成績的な評価で言えばほとんど影響はない)ですが、そもそも授業に途中参加することは確実にあなたの意欲を下げます。大学や高校でもそのような経験があるのではないでしょうか。授業の導入部分を聞けないということは、その授業全体の理解度に大きな影響を及ぼしますし、その授業についていけなければ当然次回以降も理解が難しくなります。また、欠席に関しても、シラバス上では全出席が基本とされていますが、実際のところはそこそこ寛容です。ですが、欠席を重ねていくうちに授業についていけなくなったり、本来は出席できるがサボってしまう「だらけ」が発生します。おそらく誰しもが平日に残業や飲み会、友人との食事などの機会があると思われますが、本校に通うとこれらへの参加と授業への参加を天秤にかけるようになります。強い意志で毎回授業に参加できる方は全く問題ないかもしれませんが、やむを得ないこともあるでしょう。しかし、いかなる理由でも欠席は建築を学ぶ意欲を削ぎ、モチベーションを失って惰性で学校に通う、または退学する原因となります。(実際にこのような人はたくさんいました)
生活リズムについても結構厳しいところがあります。18時15分に授業が始まり、21時25分の授業終了まで、休憩はわずか15分程度しかありません。その間に食べれるものといえばせいぜいコンビニの軽食ぐらいであり、これが週5回続きます。普段からコンビニ飯がメインな人にとっては大した問題ではないかも知れませんが、料理が好きな方や食事管理をしている方にとっては大きなストレスになります。もちろん食費も余計にかかります。
以上のように、想像以上に当校のカリキュラムは厳しく、ストレスを伴うものです。これらに耐える自信がない方は今一度入学を検討し直してみてください。
本校では「建築設計科」と「建築都市設計科」があり、それぞれ2年コースと3年コースがあります。3年コースに入学しても、2年間の授業は2年コースと全く同じで、2年コース+1年という授業形態です。2年コースと3年コースでは卒業後の建築士の受験資格や得られる学位に差がありますが、なぜ私が2年コースを勧めるのかと言うと、2年コースから3年コースには編入制度があるためです。仮に2年間建築を学び、やはり違うと思って建築の道を辞める場合でも、単位を取得していれば2年コースでは当然卒業になりますが、3年コース選択の場合は退学になります。3年コースから2年コースへの編入はできません。つまり、建築に進まないと言う選択をするリスクと考えると、わざわざはじめから3年コースを選択する理由は全くありません。2年間学び、やはりもっと建築を学ぼうという気になれば3年コースへの編入をすれば良い話です。編入審査は形式的なものでほぼ確実にできます。
このように、入学するなら絶対に「建築設計科」を選択することをおすすめします。
本校の教育は、基本的にはハイレベルで質の高いものだと思います。著名建築家である校長を始め、大手ゼネコンの上流社員、早稲田大学理工学術院の教授など、錚々たる講師陣が揃っています。また、副業として講師をしている熱心な若手建築家の方も複数人います。しかし、経歴の立派さが教育の質の高さにつながるとは限りません。実際のところ、実績はあってもあまり教育には熱心ではない(ように伺える)方もいらっしゃいましたし、生徒が必死に製図する中大声で談笑する講師陣の姿も見えました。また、自立した社会人が過半数を占める学校ということもあり、面倒見の良い学校であるとは言えません。そういう点を求めるならば別の学校を検討するのも一つだと思います。
少々棘のある内容となってしまいましたが、基本的にはやはり教育の質は高いと思います。仮にも歴史のある早稲田大学の関連組織ですし、実際に活躍されてるOBOGも多くいらっしゃいます。ただ一つ重要なことを補足しますと、当校は実用的なCADスキルや建築士の資格試験対策に重きをおいた学校ではなく、むしろ建築を中心とした芸術的センスと教養を育むことを重視しています。そのため意匠に興味がない方には非常に退屈に感じるかもしれませんし、最速で建築士資格の取得を目指しているような人には向いていないかもしれません。
以上が早稲田大学芸術学校について私が持っている情報です。ご参考になれば幸いです。
https://www.news-postseven.com/archives/20160401_397320.html
著者はイタリア人で、在日二〇年におよぶ建築家である。その体験をつうじ、こう言いきる。日本には、ヨーロッパだと考えられない建築表現の自由がある。「ヨーロッパの国々から見たら、ほとんど『何でもあり』の状態だ」。
と言っても、そんな自由を著者はうらやましがっているわけでは、けっしてない。日本びいきの著者は、大好きな日本のために、この野放図な自由をなげいている。そして、日本の都市計画家たちに、さまざまな提言をこころみる。こうすれば、日本の都市ももっと美しくなるんじゃあないか、と。
1000作品以上集めてわかった「マンションポエム」に隠された“ワナ” | 文春オンライン
http://b.hatena.ne.jp/entry/bunshun.jp/articles/-/10004
この記事では、マンションの売り文句にマンションを超えた詩的な表現が使われている多くの例が挙げられている。
建築業界にはマンションに限らず痛い詩的な表現が蔓延している。
この建物はいかに素晴らしいか、いかに洗練されたデザインか、そしてそれが施主に認められるかどうかで莫大な金が動く。
このような詩的な表現が多くみられるのは、マンションのような客に対する広告宣伝の場のほかに、個性的な設計をする建築家のプレゼンの場がある。
自分のまちの公共施設なんかの公開プレゼンに出向いたことがある人や、建築家に頼んで家を設計してもらったことがある人には実感があるのではなかろうか。
例えば新しく公共施設を建てようということになると
「水の軸、緑の軸、そこが交わるこの建物が地域の拠点となり賑わいの種となる」とか「エンガワのような集いの場」とか妙にひねった表現が横行する。
住宅であれば「ゆるく繋がる」とか「漏れだす光のぬくもり」とか何が何だかよくわからない。
一応これらの表現について説明すると、水の軸というのは川のこと。緑の軸は並木通りなんかを往々にして示す。
んで、その川と道が交差したここにみんなが集まってくるんですよ! (なんでだよ。集まってこねーよ。)
昔ながらの縁側に座って星を見るような雰囲気に仕上げたので、ここに人が集まるんですよ!
(集まってこねーよ。縁側がカタカナになっていることろもポイント。大体赤の他人と話さねーし)
使いやすい間取りや、周りのまちに溶け込まない個性的な外観を正当化させるために、ごまかしのようにコンセプトばかり考えたがる。これが建築業界に蔓延している癌である。
このような詩的な表現を用いるのは建築学科に通う学生時代からの慣例となっている。
建築学科の学生は記事のようなマンションポエム、表現系建築家に憧れ、育ち、ポエム付き建築を量産しているのだ。
こういう表現をコンセプトや売り文句に含む文化はデザインなんかが絡む建築や、グラフィックとか、映像とかそういう業界に多いように思うのだが
君は君のスマホがどのように情報をやりとりしているか理解できているか。情報が電波に、光に、導体に、どのように乗るか理解できているか。OSが何をしているか理解できているか。アセンブラから高級言語まで、どのように組み立てていくのか理解できているか。ネットワークがどのように構築され背景にどのような理論があるのか知っているか。待ち行列理論を知っているか。情報理論を知っているか。エントロピーを知っているか。統計的機械学習がどのように動くのか理解できるか。グレブナー基底を用いた数学証明をコンピュータで構築できるか。君が情報に関わる者全てを工事現場の土方だと思うなら視野があまりにも狭い。君が土方なら私は君の何千倍も優秀な土方であり、そしてかつ何よりその前に建築家だ。
事前のネットの反応見てると、もっと兄になることを嫌がるくんちゃんに対して、
周囲が毒親ぶりを発揮してよき兄へと更生される物語を予見していたけど
実際はくんちゃん本人が家系図の人々との出会いの中で自発的に「兄」という役割を受け入れる物語だった。
建築物の奇妙な構造は確かに奇妙だったが、それは父親が建築家だからということであり、
また母型の祖母から奇妙であると劇中でも指摘されているので気にならなかった。
この作品だけを見て細田守の家族観に憤っている人は小町的な言説に毒されすぎだと思う。
それとは別に同じパターンを反復し、かつプライベートに寄りすぎている物語はいささか退屈であったし、
くんちゃんの挙動に対して子共の持つ可愛さや愉快さよりも、気持ち悪さや不快感が先に立ってしまうのは問題だった。
また時間移動が実際に行われているたしいファンタジーの設定も後付感があり、