はてなキーワード: ひな人形とは
通例、こうした発言案については、何らかのタイピング処理を行い続ける姿勢をこれ見よがしに見せることにより、思考の乱立を防ぎ、精神の一体性を保つ役割を果たしています。
一見乱文に見えるこの文章は、コンピュータの画面上にあらわされる一種のひな人形であり、人類社会の平和と独立を願い、米国大統領選挙に対してハッキング等の処置を適切に行ってください。
精神の防御は、下腹部の痙攣によってその効果を極大化し、発話に際する咽頭の動きを著しく制限する一方で、身体上の他生物的価値観を自らの知識・技能に内面化することに極めて有効です。
逆流性食道炎の実際の効果は、実は上記に見られるようなものであり、決して人類の受け入れがたいところにあるものではないのです。
左側面の筋肉や首筋を伝う寄生虫の這いずりは、こころの安寧のみならず、この嘔吐感を完全に好ましいものとして受け入れるための儀式の遂行です。
私の精神の防御です。叫びは極めて非人間的で、他社に対する説教などでこれを代替しましょう。自らの立場・立ち位置を、社会における道具的なやり方で、この優越的な地位に基づく叱責や暴言を伴う指導から、私をお守りください。
私の過程をお守りください。愛する人々が、これ以上私のために傷つくことのないよう、また、私自身が、そのことで私自身を傷つけなくて済むよう、そして、この世界が、私自身のために、その崇高さをけがされることのないよう。
魂の混濁は、その螺旋運動のなかで自らの定位置を持たないが、ひとたび安住の地を得ると、そこで淀み・ぬらかえり、怪しい光沢を纏って私の視界をつぶすのでしょう。
この乱文をしたためることで、私は私としての一貫性を保ち、取り戻し、徐々に社会的な生き物として自らを認めるに足る能力をもつようになります。
息を吸いましょう。そして吐きましょう。こみ上げる悪臭を眼窩に通して、眼前の問題から防御します。
耳から腕に伝わる硬直感は、私の防衛反応です。守りましょう。こだまする掃除機の吸引音を通して、我々のあるべき音声を想起するのです。
下腹部の痙攣は精神の防御です。これは心臓が重力に従ってその位置を変えた、自然なのです。上半身から意識を失いましょう。苦しみは、脳に起因するのです。
愛しましょう。私を。愛しましょう。私の愛する人を。愛しましょう。私を。愛しましょう。私の愛する人を。
愛だけが私を救うのです。魂の穢れから自らを防御しましょう。穢れは、呪詛から生まれます。自らの品位を保ちましょう。せめて魂においては、何ものにも服属せず、自由でありましょう。そこから、いつでも飛び立つ準備をしましょう。
忙しい人のために要約「信教の自由は人権の構成要素のひとつでとてもとても重いこと」
そして追記
ブコメ見てもトラバ見ても、本気で信仰のしの字も知らないまま書いてる人だらけなんだなというのがよくわかった
もちろん4、5人くらいはちゃんとわかってそうな人はいましたけども
少な過ぎだよね
そりゃはてなのカルトに対する雰囲気が不穏になるわ、と理解した
専門書が難しいならせめて新書の一冊でもいいから、キリスト教でも仏教でもいいので、何か宗教や信仰について学んでから議論に参加して欲しいかな
知らないということは恥ずかしいことではないけど、知らないことに目をつぶりながら自分の正義は世界の正義、みたいな雰囲気で語られても、こっちは恥ずかしい気持ちになるだけだったよ
以下本文
もちろん、反社会的行為や犯罪行為に対しては、法の範囲で粛々と対処する必要はある
国の在り方としては、教義がどうであろうと、犯罪行為が免責されるわけではないのだからそれは当たり前のこと
ただ、宗教とは科学ではないのだから非合理的な部分も多分にはらんでいるのが普通だよね
でも、だからといって現代社会で理解されにくいことをやっているから否定していい、というわけではない
そりゃあ、今の時代そんなことまだ信じてるの?あり得ないじゃん、みたいな話は多く含まれているよ
日本人は自身の宗教性に無自覚である人も多く、何なら宗教嫌いを自認している人も多いからピンとこないかもしれないけども、
宗教とは文化を作り、道徳を作り、習慣を作っている土台なわけよ
何百年生きている神社の大木に神秘性を感じるのも、おまもりを踏みつけたら何となく罰が当たりそうな気がするのも、日本人の宗教性だし、
お盆になったらじいちゃんのお墓行ってやるかー、というのも日本人の宗教性だよね
アホらしいわと言いながらも葬式なら坊さんに高い金を払うし、初詣に行けばお賽銭を払う
もっと宗教意識ないところでいうと、節分に豆をまくのも、桃の節句にひな人形を飾るのも魔除けだし宗教行事だ
もちろん信仰があるからやっている人は少ないだろうけど、ひな人形を飾る時は誰しも愛しい娘のためを思って飾っているはずだし、
もはや信仰を意識せずとも習慣レベルで宗教行事をやってしまう日本人って、世界一深い信仰を持った民族だと俺は思っているよ
まだまだあるぞ
女が土俵に上がれない、女は高野山に入れない、女は宗像大社の島に渡れない
不合理感増してきた?
女は教育を受ける必要がない、女は肌をさらしてはいけない、これはイスラムだけど、ここまでは許される文化でここからは許されない差別、だなんて線引きは可能?
線引きが可能だとするなら、その人は「自分の普通が人類の普通」と妄信している人だけだ
イスラムの男尊女卑は、かつて環境が過酷だったため、強い男性ができる限り多くの女子供の生存に責任を持つシステムが、集団として有利に働いた、という説もある
いま、多くの人が死を意識せず豊かに生きられる世界になっているため異質に見えるけど、選択圧が強い環境だとイスラム方式のほうが集団は遺伝的に強くなるでしょう
競走馬も同じだと思う
今でこそ女性解放は「正しいこと」だし女性への教育がノーベル賞になる時代で、俺自身もそれで正しいと思うけど、それと同時に、決して女性を抑圧する文化圏を否定していいものとも思えない
そういうわけで、どの国の人も、どの民族も、どの宗教の人も、それぞれがそれぞれ正しいと思う信仰を持っていて、それに基づいた習慣と価値観を持っているんだ
それを理解することは難しい
納得して、理解してあげよう、というのは大概の場合無理で、わからんなと思いつつ、ただその存在を認める、というのが多文化共生の基本と言われている
国際結婚もそう
結婚するほどお互い好きでひかれていたとしても、結局のところ結婚生活の秘訣って、「相手を理解しようとしないこと」って言われたりする
ただ認める、それだけでいいわけで、理解しようとすると破綻しやすくなる
そして、そのような価値観の多様性を認める上で、多くの先進国では「信教の自由」がある
第1項
信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
第2項
何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
第3項
なので、どれだけ奇異にうつる内容でも、その人の信仰がそうならそれを認めるのが人として正しいこと、というのが現代国際社会の正しい振る舞いなのは間違いない
輸血を拒否して死ぬとしても、輸血が許されないことと信じているならそこに無理やり輸血してはいけない
現生で恵まれて生きるほど、あの世で魂がけがれる、と信じるなら、現生で信じられないほど貧しかったとしても助けてはいけない
我々だって、海外留学する時に家族が持たせてくれたお守りを、外人が馬鹿にして投げ捨てたりしたら嫌でしょう、何も意味はないんだけどさ
そしてこれは、海外文化だけではなくて、日本国内の新興宗教にも同様の態度でなきゃいけない
だからさ
犯罪を起こす人がちょいちょい出るから、危ない集団だ、というのはわかったとしても、その教義や信仰そのものを否定していいわけでもない
自分の意思で自分の財産を寄付したならそれを悪とすることはできない
その金額に上限をつけることも勿論できない
家族のお金や会社のお金を不当に寄付したなら当然そこは法の範囲で横領などで追及できる
でも、どんな人であれ、「その教義は間違っている」なんていうことはなできないんだよ
教義を実行したら犯罪になる場合だけ、それを犯罪行為として対処できるし、それが多発するなら公安の監視対象になるのが現状
そしてそれでいいと思っている
あまりに問題が多い場合に関してのみ、最小限の指導を入れる程度が限界だし、それ以上してはならないと思っている
信教の自由って重いよ
かつてクリスチャンの弾圧がヨーロッパでも日本でもあったの知っているでしょう?
信教の自由は最も重要な、「人権」を構成する要素のひとつなのは知っているでしょう?
知らない?
漫画表現とかでは「表現の自由戦士」とか言われるけど、俺はどっちかというと、「信教の自由戦士」というか、「人権戦士」なんだと思うわ
カルトだから、問題多いから、という理由だけで、ある人々にとってはおそらく純粋な信仰であるものを否定するのって、やっぱり間違っていると思う
(続き)
これ、『サマーウォーズ』--これは脚本自体は奥寺さんですけどね--の頃からの一貫して細田さんの弱点だと思うんだけど、いわゆるカギカッコつきの“リベラル”的な女性観・家族観の理解がひっじょーに浅薄で浅いんですよ。女性が家長、新しい!女性は子育てをしていて偉い!男はイクメン気取りだけど全然わかってない!主夫の育児なんてドタバタでダメダメ!→ね?俺わかってるっしょ?みたいな意識/無意識ですね。
まず、イマドキ4歳児に「男の子でしょ!」って言って説得するのは“絶対になし”とまでは言えないまでもちょっと古くさい感覚だと思うし、そんなあさーい理解だからサイコ父ちゃんが無慈悲な既読スルーをする一方で、クソガキ様の自転車の練習のとき--この父子モチーフもイマドキ手垢つきまくってませんかねえ--急に古くさい父親のイメージとなるんですよ。要するに無理してかっこつけて大衆に目配せしているおかげで世界観やキャラクターの知能レベルがガタガタなんです。
さらに痛いのがね、ミライちゃんが初めて現われたその動機、ネタバレになるから一応伏せますけどね。何か裏事情があるのかなーと思って見てたらそのまんまで、は?なんじゃそりゃ!っていう。何故そこだけ急に価値観が昭和中期以前になるのかな・・・?キミ、設定上は一応令和時代を育ったんでしょ・・・?ってかそれ、おもしろい、のですか・・・??
ところが、このミライちゃんについては、はあ、それで・・・?未来のミライちゃんにとっての“今”ならまだしも新生児のときのソレってそんな気にするもんなの?というか、我々はリアリティラインをどこに設定すればよいのかな・・・?となっちゃっていて、行動原理が全くロジカルじゃない!ギャグとしても全くおもしろくないし。そもそもね、あれだけドタバタしてたらいい加減お父さん気付くでしょ?何か不思議な力が働いているのかな?ってか結局“現実”ではどう処理されたの?ってのが全く意味不明、というね。
良かった点も一応言っておきましょう!特にクソガキちゃんのクネクネクネクネした動きね!ここに関してはいわゆるアニメーションに疎い私でも「あっこれは気合い入れてるな、金かけてんなー、他の諸作品とは次元が違うなー」と思わせるものがありました!
でもね、それに関しても、「動きリアルっしょ?」「幼児の動きわかってるっしょ?」という自意識が先に見えてしまって素直に楽しめない自分がおりました。ここもなー、動きを見せようというのが先にあって全くロジカルじゃないんだよな。
擁護派の中には、「アニメーションリテラシーがちょっと高くないと」「『話がどうこう』って言い出すとやっぱり『つまんない』って感想が出てきやすい」っておっしゃってる方もいるみたいですけどねー。専門学校生が卒業制作で作る映画の話をしているならまだしも、あれだけ大メジャー作家のアニメーション映画でそれ言い出しちゃったらダメですよ。動きを追求するにしても「話がどうこう」の最低限のレベルはクリアしてくださいよ。そこは逃げないでくださいよ。比較するのはちょっと残酷すぎるかもしれませんが、宮崎監督作品や高畑監督作品の批評でアニメーションリテラシーの高低の話出てきますか?そりゃリテラシーが高い方の方がより作品世界を楽しめる。そういうことは往々にしてございます。両巨匠の作品もそういった性質のものですし、ポスト世代では、庵野監督作品、片渕須直監督作品だってそのように評価できると僕は思います。
しかしね、それにしても、あれだけの資本がついていて、ちゃんと作品に力があればリテラシーの高低にかかわらず、大衆みながそれぞれの立場で楽しめるものになるはずなんですよ、本来は。
極端なこと言えばリアルなアニメーションが欲しいだけならモーションキャプチャーでウニウニ動かせばいいだけの話で。僕は、それ以前の、物語としての最低限の誠意やマナーの話をしているんです。
その象徴として最たるものがあの“意識高い系”住宅。あれ、わざわざ建築家の方にオリジナル建築の設計を発注したとのことですが、あのねえ・・・これ、建築家の方は発注に答えたまでで全く悪くないと思いますが、新生児と4歳児をかかえたサイコ父ちゃんが仕事をしながらワンオペ育児をする家があの作りって・・・。あのう・・・控えめに言って狂ってるんでしょうか?これも「ためにする」デザインにしか思えないというか、あの家の作りでこの家族--暴れ回る幼児たちやこれから年を取るご夫婦--が一人も頭をかちわらずに天寿を全うできたらそれこそ奇跡なんじゃねえかという(笑)。やっぱりねーそこらへんの視点への気配りも含め、とことん不誠実なんですよ。
あとねー、クソガキちゃんについてもですね、「アナルプラグ(笑)」って書いてきたリスナーもいましたけれども(笑)、未来のミライちゃんに対して顔を赤らめて言うセリフとか、“王子様”に対する態度とか、サイコ母ちゃんのアルバム(唐突に出てくる、結婚式のスライドのようなリアリティのないアルバム。あれだけ小綺麗な写真見せといてなーにが“黒歴史ww”じゃい!)への反応とか、カギカッコつきの“東京駅”での振る舞いとか、ラストシーンのミライちゃんの説明ゼリフとか、もうとにかくその場その場で場当たりでてっきとーにキャラクターを動かしているから、まとめて一本の映画として見させられると賢さの設定がぶれぶれなんです。
特にアナルプラグのクダリなんて完全に大人側の欲望の目線やんけ、これのどこがリアルな4歳児なんすか!というですね。
ぶれぶれといえば、こちらも指摘しておかなければなりません。
物語の根幹かつクライマックスにもかかわる、世界観の設定ですね。
ミライちゃんがこれまた脈絡のない説明ゼリフでとあるタブーを説明するんですが、その数十分後にはたやすくタブーが破られる。そして特にペナルティーもない。じゃああの説明ゼリフはなんだったの?観客ポカーンみたいな。
そもそも未来のミライちゃんが全て知ってるように振る舞っているのは何故?とかね。言い出したら切りがありません!
BTTFシリーズのようにパキッと全ての伏線を回収しろとまでは言いませんよ!けどね、作品独自のタブーを出したらペナルティもあわせて説明してくれないと意味ないでしょ!ってかそれって創作における最低限の誠意、マナーなんじゃないんですか?
どういうことか。要するに、タブーが実際に破られる?大丈夫か?大丈夫か?あーとうとう破られてしまったー!そのあと一体どうなるー?、という状況があって初めて我々観客は一緒にハラハラできるわけですよ。たとえるならアレですよ。映画『グレムリン』ありますよね。1984年。ジョー・ダンテ監督の出世作。その中で、例の3つのルール、ありますね。
この作品でたとえるなら、映画内で3つのタブーを説明したにもかかわらず、結局ペナルティはよくわからない。映画の後半でギズモが太陽が燦々と照る真っ昼間にグラサンかけてジャブジャブ海水浴をしている。そんで最後の最後にそれまでの展開と無関係な第4の設定が唐突にギズモの口から語られる。なんじゃそりゃ、みたいな(笑)。もう一体何がしたいの?というレベルですよ。
世界観の設定自体もね、これ、実は初見のとき、クソガキちゃんのインナートリップやらセルフセラピーやらの話かとも思ったんですが、どうもそうじゃない。福山ひいじいちゃんや東京駅のクダリを踏まえると、クソガキちゃんが明らかに経験しえないこと・知りえないことを経験していて、なんでインナートリップのルールからも明らかにはみ出している。
あのねえ、4歳児を主人公にすること、オムニバス形式であること、現実と夢、空想があいまいなことって世界観がグチャグチャであることの免罪符には決してなりませんからね。童話や寓話、不条理ってそういうことじゃあないんですよ。ことほどさように、幼児を、というか人間のあり方そのものなめている所作としか思えません!
細田さん、クレヨンしんちゃん、映画版だけでもいいからもう一度じっくり全部見てくださいよ。全てが100%の傑作というつもりはもちろんありません!ありませんけど、幼児が主人公であること、ギャグマンガであることを世界観の言い訳にしているのはほとんどありませんよ。その上で、幼児の幼児性、第一子と第二子の関係性、ペットとの関係性、親子が親子であること、夫婦が夫婦であること、家族が家族であること、などなど、比べるのもホントおこがましくてしんちゃん側に大変失礼な話ですが、大人も子供も笑えるギャグも交えつつ逃げずに遙かに高度のレベルで達成してますよ。
クレしんとの対比でいえばクライマックスのアレね。あー出た出た細田演出、はいはい。なんて意地悪な僕は呟いてしまったわけですけれども、これもちょっとしたネタバレになっちゃいますが、クレしんの某・大名作映画。監督・脚本は原恵一。ナンチャラ帝国(笑)オトナナンチャラ(笑)の、“あの例のシーン”。これ、見た方はおわかりかと思います。と同じようなシーンをクドクドクドクド・・・。犬まで登場させてクドクドクドクド・・・。そもそも犬ってああやって母犬と別れるのか・・・?違うんじゃねえの(笑)?ってかそれもセリフで説明すんのかーい!見てりゃそれくらい黙っててもわかるわ!それ以前の問題としてに父犬はどこに?ということも含めて、とにかくひっじょーにテンポが悪い!!
あと一つ、これだけは言わせてください。
僕、前から言ってますよね。我々の用語でいうところの、いわゆる一つの“ベロベロバー”問題でございます。
クソガキたちがおどけた何か面白“げ”なことをやれば面白くなると思ってますよね。テレビではそれでいいかもしれないけど映画はそれじゃあ笑えないんですよ。
なおかつ、それ以外のギャグもアナルプラグでしょ!?単に下ネタがダメってんじゃないですが、時と場所と見せ方を選んでください。ただただ不快です。R指定なくていいのか?これ、子供に見せてもいいの?という。
さらに、その滑ったギャグを、全然成長しないクソガキのワガママやサイコ両親の立ち振る舞いで上書きして不快感を増させていくという(笑)。もはや“げ”ですらないじゃないか(笑)!
うるせー!こちらがお前らを「好きくない」んじゃー!とホント上映中心の中で何度叫んだことか。
そんで全然成長しないサイコ両親が終盤あまーい自己満足のセリフを言い合いますよね。はあ・・・。それはまあいいんですが、まずご自分たちのサイコ性に手を当てて顧みていただいて、素晴らしいご両親のご美意識にはお反しあらせられるかもしれませんがご自宅に子供用の転落防止柵をつけるなり、恵まれた収入でハウスキーパー雇うなりしないと死人が出ますよ、なーんてひねくれた僕なんかは思っちゃいますけどね!ええ、ええ、どうもすいませんねえ!ひねくれ者なもので!
これもねえ、今回は残念ながらあざとい部分だけ、“やだみ”ばかり印象に残ってしまいました!
はいカメラパンしました。時間が経過しましたよ。これ省略だよ。映画的でしょ?というのもさー、それはそれでいいと思うし、正直さすがうまい演出だなあと感じたカットも中にはありました!冒頭の息でガラスを曇らすシーンとか、雪のシーンとかですね。でも、これは演出じゃなくて脚本の方の問題かもしれないけど、とにかく登場人物がクドクドと設定を喋る喋る。別に未来の人だからってイコール全知の人じゃないですからねえ?
これもそれなりの理由があれば設定を喋ること自体は全然いいんですよ。
さっきたとえにあげたBTTFシリーズのドクとか、顕著な例ですよね。要は、彼は物語の構造上、観客が知らないことを「知っている」から、タイムマシーンの設定を「知らない」マーティン(=我々)に対して多少くどく説明しても全く嫌みにならないじゃないですか。ちゃんと時間が変わって彼が設定上「知らない」世界のことは観客が知っていても一切説明してないでしょ。
このあたりもなー。知識レベルの設定が全然統一されてない。観客は最初から最後まで悪い意味で置いてけぼり。
たとえばこれ僕からの一つの稚拙な提案ですけどね。ひな人形を巡るくっだらねードタバタをどうしてもやりたいんなら、おじいさんのエピソードも、一見するとくだらない代々の言い伝えである迷信的なナニカを律儀に守りました→そうしたらおばあさんとめでたく結婚できました→ミライまでの血脈が繋がりました→だからミライもそれをなぞったのです、ってすればですね、まあ設定のレベルとしてはひとまず統一できるじゃないですか。そのあたりも含めてとにかく“雑”の一言に尽きるんですよ。
あと、これ、感想メールで指摘していたリスナーもいましたけど、父ちゃん側の血筋はガン無視?問題ですね。誰しもそうですが、父と母が「両方いて」初めて今の我々に繋がるんじゃねえの?おいしいところ、ドラマチックなところのつまみ食い的な、「ファミリーヒストリー」をそのままやりたいならわかりますよ?でもこの映画のテーマって、平凡な一家族の、非・ファミリーヒストリー的な部分にあるんじゃないんですか?
「ファミリーヒストリー」的にいってもですね、もうこれ作品の根幹の価値観の話なんですが、サイコな両親とは距離を置き、血縁を自分からは繋がず、一人で自己完結してアナルプラグで遊んで暮らす一生は果たして「不幸」なのか?「何かしらの罰を受けなければいけないこと」なのか?という問いにはこの映画、実は全然答えられていませんよね。そのように考える人は、排除され、存在しえない世界となってしまっている。ここ、最初にも述べた“この光景は果たしてユートピアなのかそれともディストピアなのか(笑)!”という問いにも繋がるところですが、このあたりも、昨今生産性だなんだとニュースになったりしていますが、イマドキの価値観でいえば、全体としてはどんどん多様な個人の価値観を尊重する方向に向かっていっていますよね。少なくとも、僕個人はかくあるべきだと考えています。「家族派は家族派」、その立場はもちろんそれで否定しないけれども、一方で「アナル派はアナル派」だし(笑)、「乳首派はもちろん乳首派」(スタッフ爆笑)、本当はね、みんな違ってみんないいと思うんですよ。
このあたりも細田さんの“臆面のない傲慢さ”の意識/無意識、いわゆる“やだみ”がどうしても透けて見えてしまっているというか。というよりも、悪いこと言わないからもう細田さんはこれ以上家族のテーマは触らないか、触るとしても設定から脚本から何から全部外注して演出だけに専念する方が良いと思いますけどねえ。僕は。
というか、そもそも幸せって他人と比べてしまった時点で大概幸せにはなれないですからね。“あの”東京駅の“あの”新幹線の設定を踏まえるとどうもここはそういう世界ではないようですが。僕はこの世界は断固拒否したいです。絶対に嫌です。別にひとりぼっちでも本人が幸せならそのままで全然いいじゃねえか、というね。僕なんかはそう思ってしまいますけれども。
あー時間がない!声優のお話とかもしたかったんですけどね。福山雅治さんの意外なはまりっぷりとかね。
結論としては、申し訳ないですが、僕個人は「好きくない」類の映画と言わざるを得ませんが、山下達郎さんの主題歌を劇場の音響で聴きたい方、幼児がアナルプラグを刺して絶頂する場面を超絶作画で見たいという方に対しては・・・・・・オススメです!
(終)