はてなキーワード: 几帳面とは
ここ数日増田に趣味の一環としての翻訳の話を書いているうちに、いいニュースが飛び込んできた。
昨年現地で公開され、昨年の現地映画売上No.1になった「ฉลาดเกมส์โกง」こと「Bad Genius」が「バッド・ジーニアス 危険な天才たち」という邦題で9月から映画館公開されることが発表されたのだ。しかも日本語版を作っているのがDVD販売に実績のあるマクザムなので、おそらくDVD販売もされるだろう。それなりに話題になる割にはさっぱり日本語版DVDが発売されないこの国の日本語版映画ラインナップへの小さな積み重ねだ。
もちろん現地DVDは公開の半年後くらいに発売されたので自分も発売とほぼ同時に早速海外通販で個人輸入し、2ヶ月ほどかけて翻訳した。そのときの留意点を元に、9月に公開される映画の字幕チェックポイントを挙げておこうと思う。なお、以下の内容に予告編の内容を超える致命的なネタバレはいれていないつもりだ。
日本だと6・3・3制と言われて中等教育は中学と高校の2つに別れているのだけれど、向こうの中等教育は6年制だ。中高一貫教育をやっている学校も多く1年生から6年生までが同じ学び舎にいることもしばしばある。もちろん進学率が上がったとは言え義務教育は中学3年までなのは日本と一緒なので全てが中高一貫教育校ばかりではないけれど、高校の学年が中学からの通しで数えられるのは同じだ。「バッド・ジーニアス」は高校3年間(+入学時の中学3年のエピソードが少し)の話なので、場面紹介字幕には「4年生」「5年生」等出るし本人自身がそう話す場面もある。それを日本語でどう表現するかはとても興味深い。
主人公は高1に進級する際に転入試験を受ける。成績的には合格なのだが本人が入学を渋るという不思議なシーンが登場する。入学を渋るのは決して裕福ではない家庭の事情を心配してのことなのだが、ここに通学手段と昼食内容の見積もりが登場する。映画館で読みきれない内容なのでこれはぜひDVDを入手してゆっくり眺めてもいいシーンだが字幕でフォローするか迷うセリフとして「バイクタクシー」と「カレーがけご飯2色がけ」が出る。どちらも主人公の几帳面さというか細かさを表現するセリフで、前者は最寄り駅から自宅まで歩いて通うことはないという現地事情も含まれているし、後者は現地で屋台メシを食べたことがあるならピンとくる定番メニューでもある。おそらく商業字幕ではどちらも簡略化もしくは省略されると思う。
日本だと大体のところは5段階評価だろうか。最高が5、最低が1。評定平均はこれを平均する。向こうでは5段階かどうかはわからないが最高点は4だ。だから評定平均4.0は日本語で言うところのオール5にあたる。学校の成績が主な話題になる映画のため評定平均の話は頻発する。自分の野良字幕では4.0(最高得点)とカッコ書きしたが、商業字幕ではおそらくオール5、のような表現になるのではと思う。そこで気になるのは最高点ではなく中途半端な生徒の中途半端な点数だ。1点下駄を履かせて表現するのか、そのままの点数にするのか。ここは個人的に注目したい。
サスペンス色あふれるサウンドトラックの中に1曲、フォークギターで伴奏されたナツメロっぽい曲が流れる。特に字幕でも歌詞を紹介されなかったしここの歌詞まで字幕化はされないのだろうけど、本家映画制作会社が歌詞を全てTweetしているのを読んだら、架空の学校校歌だったらしい。個人的に訳してみたい。
http://twitter.com/gdh559/status/865161419796299776
ครู(クルー)は「先生」、พี่(ピー)はこの間も書いたが「先輩」、ลิน(リン)は主人公の名だ。後置修飾なので直訳すれば「リン先輩先生」となるのだが字面で見てもバランスが悪い。自分の字幕では「リン大先生」と訳したが、もっといい意訳があるような気がする。この言葉、主人公が連呼されて気分がよくなる言葉なのだ。男性だったら「リン老師」とでもするんだけど女子高校生に老師は似合わなそうだし。
日本の試験の選択肢がア、イ、ウ、エになるように、向こうの国のマークシートはก ข ค งが使われる。予告編を見ればわかるが、この部分はしれっとA B C Dに読み替えられているし、自分もここはそうしたのだけれど、これカタカナ書きすると、コー、コー、コー、ンゴーなのだ。現地のアルファベット最初から4つ分とはいえ、これを採用した当時の教育関係者の勇気に感動した。ちなみに他の映画でもよく試験のシーンは出てくるのだけど、学校の普通の定期試験でもマークシートは当たり前らしい。だからカンニングしやすいとも言えるのだろうけど。
緊張で昼食のラーメンを吐いてしまった男の子が「サーモン食べ放題に行こうか」と誘われて「僕は外食は嫌いだ」と返すシーンがある。カップラーメンでもなければラーメンは外食のような気がするが、もしかしたら家の近所で食べるものに関しては外食に分類されないのかもしれない。自分の誤訳の可能性も含めてここは自分でも見てどう訳するのか興味がある。
金持ちの息子パットが誘った「家」は、PATTON HOTEL。貧乏な優等生バンクが帰宅したのは「น้องแบงค์(ノーン・バンク)ランドリー」ノーンは「後輩」を意味する敬称だというのは以前書いたとおり。もちろんこれは舞台となった国の貧富の差を如実に現したシーンなのだけど、特に前者が「息子の名前をつけた」ということを字幕で示せるかどうか。示さなくても話の筋は通るし、アルファベットで書かれているから無視してもいいんだけど。
映画の中ではほとんどชื่อเล่น(チューレン)で会話がなされる。チューレンとはニックネームのことで、今回の場合主人公の本名はリンラダー、チューレンはリン、と名前の一部を使ったチューレンなので訳してもそれほど違和感はないのだが、劇中で1人チョイ役なのに名前が2通り出てくる人が出てくる。違っていても話の筋はわかるからと言っているとおりに訳すのか、話がわかりやすいよう同じ訳語に統一するのか、興味深い。
途中でうさぎのコニーのスタンプが露出することからも分かる通り、オンラインコミュニケーションの手段はLINEである。集団不正を募るのに既存のLINEグループに話を持ちかけるのだが、こういう場面で「LINE」という言葉が出てくるのかどうか非常に興味深い。もともとのセリフでもLINEとは言っていないので無理にLINEと言う必要はないのだ。そのまま「受験友達は30人いるよ」で問題ないしね。ただ、LINEはLINEでもおま国動画アプリ「LINE TV」はスポンサードか何かでスタッフロールに出現する。通信手段がLINEなのはそのせいかもしれない。
日本で言うセンター試験。アルファベットだからと言って、これをそのままGAT/PATと書かれてもほとんどの人はわからない。何か別の言葉に意訳する必要があるのだけど、そのまま「センター試験」になるだろうか、「大学入試共通テスト」のような一般的な名称になるだろうか。
別に字幕とは関係ないのだけれど、4902778999042というJANコード(いわゆるバーコード)が出てくるシーンがある。この番号を調べると上記の鉛筆がヒットする。直前にペプシコーラの缶がプロダクトプレイスメントされているのだけど、たぶん三菱鉛筆はプロダクトプレイスメントではないと思う。ついでに言うとペプシは撤退したのでペプシコーラもプロダクトプレイスメントではない可能性が高い。
โรงพิมพ์(ローンピム、印刷所)ซื่อตรง(スートロン、正直)พานิช(パーニット、人名)。つまり「パーニットの正直印刷所」という施設が出てくる。何に使われる施設かと言うと、カンニングアイテムの印刷に使われる施設なのだ。あまりの皮肉にTwitterでも少し話題になった。โรงพิมพ์ซื่อตรงพานิชで検索してみるとそれがわかるかもしれない。別にその皮肉がわからなくてもストーリー把握に問題はないため字幕では無視されるかもしれない。
謎の電話番号(0840126470)から電話がかかってくるのだが、この電話番号が誰の電話番号であるかは事前に写り込んでいるシーンがある。そこに電話番号を書いている理由を訳さないと、携帯電話番号の形式も違うわけで何の数字だかわからないのだけど、そこまで訳すだろうか。それとも前後のシーンから誰が電話しているかはわかるだろうと訳さないだろうか。
携帯電話の電波の規格。日本ではLTE(4G)の前は3G、その前はPDCとかcdmaOneとかだった。彼の国ではEDGEだった。そんなに日本で有名な話ではないので、トラブルで3G電波が入らなくなるシーンをそのまま「エッジ」と訳しても伝わらないだろう。ここはどう訳すだろうか。
主人公がシドニーから帰ってきた空港はLCC専用空港だったりする。劇中で航空機が出てくるシーンはないのだが、なぜか自分の頭にはエアアジアが思い浮かんだ。調べてみると当該の空港からシドニーに行くにはエアアジアが一番安いらしい。とは言え直行便はエアアジアを含めて1つもない。別にどうでもいいのだが細かいところが気になってしまうのは良くない性格だ。勘弁していただきたい。
それはコモンズの問題。社会を維持するためには様々な物が必要で、そのひとつがコモンズ。社会参加者の行動規範もあたえるし、法や制度にまで落とし込まれていない福祉とか地域社会の維持とかもコモンズに寄りかかっている。「みんなが当然だと思ってるから機能している無形のインフラ」はおおよそコモンズ。
もちろん町内会やPTAのように徐々に時代とそぐわなくなる慣習やコモンズもあるんだけど、公園がきれいなのも、人気のラーメン屋に行列ができるのも、コモンズのおかげ。
これがあるからみんなが快適に暮らせているわけなんだけど、これって参加者がそれぞれに行動自制や労力を持ち寄ってるから維持されてるわけ。コモンズによって生きていられるのだから、その維持には全員参加で貢献しなければならない。
日本は比較的恵まれてて豊かな先進国なのだけど、その居心地の良さはコモンズが強力であることが背景にある。悪い方面で評すれば同調圧力だけど、良い方向に評すれば謙虚で几帳面な生活文化があるから。金払ったんだから俺らはお客様だぞー! なんてサッカースタジアムにうんことゲロ撒き散らかしたりはしない。
んでまあ、コモンズは前出したように「みんなが心地よく過ごせるという利益を得ているんだから、みんなも維持に貢献しましょうね」って理屈で動いてるんだけど、それを、子どもに言い含めるように理屈抜きで感情駆動にした表現が「日本は良い国、愛そうぜ」ってものだ。
だから、本質的には愛情は必要ない。愛情なくただコモンズの維持に貢献すればいい。でもそれって普通の人間の精神には難しい。参加コミュへ「参加している意識」が必要で、必要ならば愛着心とか向上心とかあったほうがずっと楽で、多くの場合まっとうだ。愛国心はそこまで必要じゃないけれど、社会貢献は必要だ。
「法に反しない範囲であるのならば暗黙の前提や協定であるコモンズなんて破ってもOKだ」という人間がいるけれど、じゃあ、彼らはコモンズから利益を得ていないかというと、得ている。秩序ある社会の利益は万民にとって有益だから。なので、そういうことを言う人は「社会維持観点でのフリーライダー」だとみなされる。
近年、経済的に厳しさを増す中で、ベンチャー企業のオーナーの発言などが合理主義に偏りすぎて、この種の「コモンズに対する搾取」方向になったりして炎上する(法的には無罪なんだから何言っても/何やっても良いだろう系)。また移民が増えれば、彼らは日本旧来のコモンズ維持の習慣なんかは学習していないわけだから、当然日本のコモンズへ貢献しない(でも清潔や安全や信頼ベースの商習慣などの利益は得る)。そういう光景が日常化して、世間でも、コモンズの維持に敏感になってきているように思える。日本的に言うと「これだから他所者は信用できない」だ。
愛国心を求めるような言説はその文脈に従って理解されるべきだと思う。要するに大事なのは地域社会の心地よさなんだから、そこに参加して貢献すればそれでいいだけだ。
2018/06/10 13:44 追記
なんかブコメいっぱいつけてもらったんで、補足を追記。上記の生地は裏返しても成立する。つまり「国を愛する精神を声高に叫んでも、地域社会の維持に貢献しなければコモンズ的にはタダ乗り」。素人Web論壇みたいなのが花盛りで、そういう「愛国心だけをさけぶひと」が可視化されちゃったのも不幸なことだと思う。公共の場所はきれいに使う、列の割り込みはしない、軽挙妄動せず災害に備えて準備する、子どもがかけだしたら安全に注意する。別に大した話じゃないのに愛国なんとかで締め付けるのは窮屈。良い文化は捨てる必要ないよ。
ふとリビングに並んだ冷蔵庫や電子レンジ、パソコンを見ると、それらの扉や画面が几帳面な顔をして佇んでいる。
たがそんな彼らを生んだ技術者や、工場作業員にも日々の暮らしがあり、悲喜交々な人間の生の感情が潜んでいるということに気づくと、なにか嘘くさいものを感じた。
俺の両親は昔から仲があまり良くなかったが、数年前酒に酔った親父がお袋を殴ってから、お袋はPTSD気味になり親父と顔を見て合わせるのも嫌だという。
去年田舎の大学へ進学した弟の世話をするという名目で近頃は、家にもあまり帰って来ない。
20数年で人生を語るのはおこがましいとは思うが人間の生活はおままごとのようなものだと思う。
労働して得られた賃金で人生を豊かにしたつもりで、大したことの無い自分を誤魔化して生きている。
きっと私は誰かの一番はなれないし、私も誰かを一番に選ぶことなんてないんだろう。
私は誰かを好きになることもなく生きてきた。恋をすることなく生きてきた。
学生時代には友人の恋バナを聞いて、会社に入ってからは同僚や先輩たちの恋人の愚痴を聞いて生きてきた。いつかは自分もこうなるんだろうか、なんて考えながら。
小学生の頃、○○ちゃんは○○くんのことが好きだとかそういう噂話をよく聞いた。小学生の頃の「好き」は何だかおままごとみたいというか、噂する方もあまり真剣みがないというか、子供らしい遊びの一種というか、とにかくなんとなく「軽かった」。
中学生になってからは、そういう話は仲の良い子達だけでひっそりと語るようになった気がする。小学生の頃よりはそういった話題に慎重になった感じがするのだ。彼氏、彼女という言葉に現実味が出てきた。
テスト期間中、少し早く登校したときに、教室で同級生が仲睦まじくしているのに少し驚いた。邪魔をしてしまったなと思いながらも私は席についてテスト勉強をし始めた。
高校生。私の周りだけかもしれないが、恋人がいる、交際をしている……という子は少なかったような気もする。それでも中学生の頃よりは恋人がいる子が増えた。彼氏、彼女持ちは鞄にお揃いのディズニーのマスコットをつけていた記憶がある。一緒にディズニーに行ったんだろうな~。そんなことを考えていた。
高校生になる前はうすぼんやりと「高校生になったら私にも恋人が出来るんだろう」と思っていた。雪が溶けたら春が来るだろう、くらいの何の根拠もない漠然とした話だ。当然、私には彼氏も彼女もできなかった。
私は大学にはいかずに専門学校へいった。ちょっと特殊な学校で、私の在籍した科には十人ほどしか人がいなかった。男女比は極端に片寄っており、でもそれに何らかの不満も抱くことはなかった。ここでも恋人は出来なかった。けれど周りを見渡せば、恋人がいない方が珍しかった。バイト先や高校で知り合った人と交際しているのだ、という話に私は「すごいね」と笑った。自分には何だか現実的でない話のように思えたから、本当に他人事だった。
恋人が欲しかったか、と言われると返答に困る。人の話を聞くといたら素敵だろうな、お休みの日に出掛けたりしたら楽しいのかな、などと思えるけれど、女の子達の「彼氏とずっとラインしてる」や「三日もラインに既読がつかない」なんて話を聞くたびに正直『めんどくせぇな』と思った。そんなにこまめに連絡を取る几帳面さは私にはなかったし、そんなにたくさん話すことがあるものなのか、と驚いた。
でも、クリスマスになると男女問わず恋人に何をプレゼントしよう、どこでデートしよう……なんて頭を悩ませているのが素敵に見えた。恋人がいない身ながらも、プレゼントはこんなのがいいんじゃないかとか、こんなところでデートできたら素敵だとか、友人の相談にほんの少し乗ったこともある。
会社に入ってからも、私は恋人を作ろうとはしなかった。多分心のどこかで突然できるものだと思っていたのだろう。望まなくともそのうちなるようになるんじゃないか。今は恋人より仕事の方が大事だし。そんな風に考えて、結局ここまで来てしまった。
かつての同級生も結婚や出産をし始めている。二十三才の頃に「このままじゃいけないんじゃないか」と焦って婚カツをしてみたりもした。そこで私は気づくのだ。「私は恋が出来ない人間なんじゃないか」と。
そこまでの経緯は省くが、婚カツをしていてなんとなくいい雰囲気になった人がいた。何回か一緒に出掛けたりして、ランチしたりショッピングもしてみたりした。何しろ恋愛経験がないから男女が二人で連れ立って何をするものかもわからない。それでも何となくそれらしいように振る舞った。そのくせ、ショッピングしている間も食事をしている間も、私の頭の中には「何をしているんだろう」という疑問がずっとあった。
知らない人とご飯を食べて、買い物して、それで私は何をしたいんだろう?どうなりたいんだろう?
デートのような何かを終えて、別れ際に相手の人が笑顔で「またね」と手を振ってくれた。
本来ならこれはとても良いことなのだろうし、私に好意を向けてくれたのは本当にありがたいことのはずなのだ。けれど私は「ええ、また」と微笑む一方で「馴れ馴れしいな」と思ってしまった。
馴れ馴れしいな。そう思ってしまった瞬間に、私は「恋が出来ない人間なんじゃないか」とふとひらめいてしまった。
厳密に言えば私がしていたのは婚カツだし、婚カツとは結婚相手を探す活動だ。だからもしかしたらそこに「恋」を求めるのはお門違いなのだろう。
ともかく、好意を向けてくれたのであろう相手に「馴れ馴れしいな」と思ってしまった自分の最低さを恥じながら、私はその半月後には婚カツをやめていた。
恋人ってなんだろう、と思春期のような問いをずっと抱え続けている。婚カツをしている間にドライブに誘ってくれた異性も、夜の食事に誘ってくれた異性もいる。けれど、最終的には「面倒くさい」「ちょっと気持ち悪い」というような、本当に失礼な気持ちを抱くに至ってしまった。
ドライブといえば車の中でふたりきりなのだろうし、夜の食事といわれるとどうしても身構える部分がある。
「用心深すぎる」「隙がない」。知人友人によくそう指摘される私は、ここでも用心してしまった。
車で二人きりになって、そのまま知らないところへつれていかれたらどうしよう。食事で席をはずしたときに飲み物に変なものを混ぜられたらどうしよう。
書き出していて思ったが、これは都合のいい自分への言い訳なんだろうな。用心深く相手を見るということは、つまりは相手を信用していないというわけで、きっと私は端から相手のことを信用しようだなんて思っていなかったのだろう。でもそんな自分を正当化したくて「用心深い」なんて話を引っ張ってきたんだろう。
人を好きになるということは、その人を尊敬するのと似ているように私は思う。尊敬できる部分があるから好きになれるんだろうと思う。一緒にいて心が楽になるとか、楽しいとか、そういうメリットがある人間を人は「好き」になるんだと思う。自分にとってデメリットばかりの人間を好きになるひとがいるとはちょっと思えない。
私も友人や家族のことは好きだ。尊敬できる部分があるから。でもそれは「恋」じゃない。
恋をしてみたかった。
自分の中の何かを決定的に塗り替えてしまうような、その人のことしか考えられなくなるような、一言言葉を交わすだけで胸がドキドキするような、そんな経験をしてみたかった。
けれど、自分がそういうものを望めない人間だというのを何となくだがさとってしまった。
きっと恋をすれば、恋人になれば、手を繋ぐ以上のこと、キス以上のことにもなれていかなくちゃいけないだろう。しなくちゃいけないんだろう。私にはどうもそれが出来ない。
手を繋げるのはおそらく家族と友人の範囲までだろう。他人の体温は生ぬるく、どうも落ち着けそうにない。キスも同じだ。映画、ドラマ、アニメ、漫画。物語の中で交わされるそれはドラマチックだけれど、自分がすることを考えると鳥肌が立つ。
一人でいるのは気が楽だ。自分のことは自分で決めて、自分以外の何者にも振り回されないというのがすごく楽だ。
誰かの一番にはなれそうもないし、誰かを一番に思うこともなさそうだ。でも自分が一番楽ならそれでいいや。最近はそう思いながら、恋人がいないことに悩む二十代のふりをしている。
論点がすり替えられている。これは、橋下大阪元府知事もやっていたこと。
政府が悪いわけではない。
なぜ、安倍首相が責められるのか?
裁量労働制が行われる前は、営業社員がモデルルームに泊まり込むこともあった。
ただ、営業が野村不動産の場合は、ただの営業ではなく、営業も企画を行う。
市場調査、企画の立案といった、ただ単にマンションを売る為の営業ではない。
したがって、営業といっても、課長以上に裁量労働制を適用するのが異常なわけではない。
自殺した社員は、課長クラスの管理職であったと調査で分かった。
課長クラスであれば、年収は1200万円を超えていると思われる。
ただ、同期より課長への昇進が1年遅れた。
たった1年で出世街道から外れるとは、野村不動産の序列は異常であると思われる。
不動産業界は、分譲はエリートで、賃貸は、女、子供がやる仕事だという差別的発言も見られた。
そんな慣習があるから、自殺した社員は、賃貸部門(リロケーション)に配属されて、
そして、クレーム処理に追われていた。
なお、自殺した当人は取材をしたところ、1000人以上いる従業員のなかでも、細かい、几帳面というより、まじめすぎるほど真面目であった。
美術に縁のない人、そう私のような者たち。
自分もそう思っていた。
大抵は白い紙に描いていくことを考えれば、白を表現したいなら、面倒くさがりは塗らないで済ませることもある。そう私のような。
几帳面な気分の時は塗ることもあるが。
画用紙やスケッチブックが色付きなら、なんとか雲を描くなどの用途はあるか。
そんな程度の考えだ。
色鉛筆は重ね塗り前提の、道具だ。
要するに、絵の具と同じだ。
ピンクの花を描きたいとき、すでに持っている桃色をそのまま使ってもいいが、ここで一工夫できる。
これで少し違ったピンクが一つできる。
こうやって塗るために白はあったらしかった。
これは白に限ったことではなく、あらゆる色も同じ。
紫も赤を塗ってから青を重ねる。
持っている紫の鉛筆とはまた違った風味になる。
芯に重ねた色が残ってしまうので、しょっちゅう削ることになる。
尖らせて立てたときと、横滑りさせたときの、色の濃さの違いも面白い。
ただの白い花もよくよくみれば白一色じゃないことがわかる。
意外に奥が深い。
それはともかく、とても色の幅が広がって面白いので、年甲斐もなく夢中になる。
このまま絵を本格的に描くのも面白そうだ。
自分はまだ色鉛筆としか縁がないが、他の画材も白があるなら、きっと化ける要素があるんじゃないかな?
素人だと、実際にやるまで知らないままだったな。そう私のような。
昨日友達と一緒母校の怖い先生のお家にビクビクしながら行ったんだけど(しかも遅刻して死ぬかと思った)、怒られるどころか丸くなってた。
こだわりぬかれた家具や食器に囲まれてお昼を食べながら雑談し、せんせいが今まで行った旅先の写真が綺麗に貼られたアルバムを見ながらエピソードを聞いて帰ってきたわけなんですけど...なんていうか、すごく、憧れの空間だったなあ。
先生のお城は駅から歩いて15分、知る人ぞ知るような細い小道を歩いた先に佇んでいる、落ち着いた雰囲気のマンションだった。先生は独り身で、一人で住むのにちょうどよさそうな広さのお部屋に住んでた。
ご飯食べるときにお茶を選ばせてくれたんだけど、8種類ぐらいあってびっくりしたし、3種類飲んだけどどれもめっちゃ美味しかったんだよね。お皿も、湯のみも選ばせてもらえたんだけど、ほんとどれも色も形もバラバラでこだわりぬかれてた。しかもちゃんとひとつひとつにエピソードがあって教えてくれる。物とそれにまつわる物語を大切にしているようだった。先生の話はもともと好きだったから、美味しいご飯食べつつ耳を傾けてたら少しだけ緊張が溶けて安心した。
それから少しして、部屋の奥から大量のアルバムを持ってきた。先生は旅行が大好きで、特に欧州にはよく行くそうだ。大量のアルバムはその旅の記録で、本人や風景の写真、チケットやパンフレットまできちんと保管されていた。私自身、チケットやパンフレットは役目を終えたらすぐ捨てちゃうような人なので、それを見たときなんて几帳面なんだ、って素直に尊敬した。
それからずっと、サティの音楽に包まれ、友達と先生とコーヒーを飲みながら、ツーリストに変身した先生が華やかな欧州旅行へと連れてってくれた。本当にたくさんの国に旅をしていて、それぞれの場所や人のエピソードを事細やかに、分かりやすく教えてくれる。気がついたら昼の優しい日差しは夜の暗闇へと変わっていて、まだまだ聞きたりないという気持ちを抑えて帰路に着いた。
先生の生き方は私にとってとても憧れだ。自分のためだけのお城にひとつひとつ世界にひとつだけの宝物を集め、いろんな国に行けるなんてこれ以上の幸せがあるのだろうか。
でも私にはそんな生き方はできないだろうなあ。親には地元で優良企業に就職し、ちゃんと結婚して子供を産んで欲しいってずっと望まれてるし、私も親のこと好きだからきっとその通りにするよ。
先生の生き方はもしかしたら何にも縛られない、自由が大好きな私が本当に求めてる生き方かもしれない。でも私にはどんなに手を伸ばしても届かない生き方。できたとしてもたくさんのことを捨てなきゃ掴み取れない生き方。私は自由が好きなくせに臆病だから、捨てるのが怖くて捨てられない。なんて考えてたら辛くなってきたよ。
就活、上手くいくかなあ
(この話は8割の本当と2割の嘘でできています)
A型女子とO型男子は相性抜群、B型女子とA型男子は相性最悪…など
ABO式血液型が赤血球の表面にある糖鎖の違いで決まることを知っている者は、「そんなことで性格や相性が決まるわけないだろう馬鹿馬鹿しい」と思うだろう。
実際に現在の科学では赤血球の表面の糖鎖が性格を決定づけることは示されていないし、近年ではブラッドタイプ・ハラスメントなるものも登場したり、血液型性格診断を「信じない」人も増加しているように感じる。
しかしながら、今だに血液型性格診断が蔓延っているのはなぜだろうか?
私がアルバイトしている中でよくある会話から考えたことを記そうと思う。
私は大学生であり、アルバイトをしている。いわゆる水商売で、小さなスナックでおじさん達と会話を楽しんだりお酒を飲ませてもらったりしている。
話題が雑多なことは学部の友達と話している時と変わらないのだが、ひとつ感じるのが、スナックでは血液型に関する話が多いということである。
「信じていない」私にとって、最初は非常に受け容れ難く、学の無い人がする話題だと蔑むほどであった。もちろんお客様にもママにもそんなこと言えないが。苦笑いをしてやり過ごしたことが何度もあった。
ところがある日、新規のお客様に血液型の話をされた。普段だったら笑って適当にやり過ごすところであったが、話題に困っていたので血液型の話に乗った。30分近くはかせげたように思う。そうしてなんとかやり過ごしてお客様はお帰りになられた。
そこで私はこう思ったのだ。
血液型性格診断は話題の無いときに非常に便利である。信じていようが信じていなかろうが場は保たれるのである。
私が他の話題を生み出せる会話力の高いホステスであったならば、血液型の話をせずに済んだであろう。
吐き出したいけど知り合いには吐き出したくないので、この場をお借りします。
幼い頃から祖母、両親、私の3世代で同居をしていた。祖母は几帳面な厳しい性格で、共働きの両親の代わりに私を育ててくれていた。祖母には本当に感謝をしている。
今日が何月何日の何曜日だったかを毎日20回は聞かれる。ヤカンを火にかけたことを忘れてボヤ騒ぎを起こす。直近の小さな記憶をほとんど覚えていられないタイプだ。
しかし、昔のこと、つまり認知症になる前のことは不思議なほどによく覚えている。
先日、祖母と2人で話をした。
以下はその要約になる。
「おまえの父親はろくでもなかった。私のことをお母さんと呼んだことなど一度もない。怒りっぽくて、おまえは覚えていないだろうけど、仕事も何度も辞めさせられていた。娘(私の母)はいつも苦労をさせられていた。なんであんな男と結婚をしたんだろう。あの男は私のことが嫌いだっただろうが、私も嫌いだった。それにあの男はおまえのことなんてちっとも可愛がってなかった。挙句には不倫して家を出て行って、その日の朝におまえと娘がわんわん泣いていたのをよく覚えてる。私だって泣きたかったけど、我慢して発破をかけてやった。本当にあの男はろくでもなかった」
祖母は自分が何をどこまで話したか忘れるので、だいたいこの話が5回ほどループした。
私はうん、そうだね、うーん、と返事をする機械になるしかなかった。
父が出て行った頃のことは覚えていなかった。それは私が幼かったからだと思っていたが、そうではなかった。思い出したくないから、脳が押し込めてくれていたのだ。それが祖母によって引きずりだされた。
父に可愛がられていなかったことなんて思い出したくなかった。母と一緒に布団の上でわんわん泣いたことも思い出したくなかった。祖母からすれば、娘と孫を捨てた憎い男でしかないのだろうが、私にはその男の血が流れている。私の父親なのだ。
あー死にてぇ。
心理学では箱庭療法という治療法を用いる事がある。空の箱の中へ好きなフィギュアを用いて自由に配置させ箱庭を作らせる。これは、表現療法でもあるらしい。だとすればどうぶつの森というゲームもその一種だ。
頭の中に空想を描きながらまるで盆栽でミニチュアの世界観を作るかの如く、和気藹々と動物たちを暮させる。これには対象の心理が自ずと現れてくるものだ。落ち込んでいるものは何も配置できない。几帳面な者は整然とした箱庭を作る。こうして内面が表に出てくるものだ。
はじめは荒涼なる大地に魔法をかけるかのように、物を増やしていき創造主のような面持ちで世界を作っていた筈だ。
twitterで拡散される事を目的に、劣悪な環境を作り上げるものもいる。その行為ですら、人間性や心の闇の一部を浮彫とさせる。
他人の承認を得たいが為に構築された世界観。どうぶつの森は心の病理も含む一切を詳らかにする。面白さはその点にある。箱庭を通じた他者理解が可能なのである。
どうぶつの森の世界観には、創造主を認める自由な雰囲気があり、解決出来る程度の問題があり望ましい関係がある。遊びを通して、自分自身を表現していきたいものには打ってつけだ。
私:30代前半、初産のため実家に里帰り中、9ヶ月に入るまでフルタイム正社員で働いていて現在産休中
母:60代前半、昨年超初期のがんが見つかり手術入院し半年ほど自宅療養、今は通常生活を送れている、自宅で一日3〜4時間程度仕事をしている
妊娠を伝えた時、母はとても喜んでくれたし、里帰り出産したいと言ったら二つ返事でOKしてくれた。
今から孫の世話をする気満々ではりきっていて、とてもありがたくて嬉しいのだけど、昨年手術入院した影響か、私が想像していたよりも体力が落ちていて、わりと頻繁にしんどい、身体のどこどこが痛い、食欲がわかない、などと言う。
しんどいと言う割には毎日とても几帳面に家事をやっているし、スーパーに一日3回くらい買い物に行ってるし(最寄りのスーパーは品揃えが悪いだの肉がまずいだの言ってわざわざ遠いスーパーまで行っている)まるで手抜きという言葉を知らないようだ。
実家を離れてかれこれ10年近く経つ娘が久しぶりに帰省しているので、余計にがんばってしまうのかもしれないが、私はそんな母を見ていてとても気疲れしてしまう。
赤ちゃんが既に3000gを超えていてかなりおなかが大きいため、私自身は皿洗いか掃除機をかけるくらいしかできないのも歯がゆい。
母は100%善意でやっているし、どちらが悪いという問題ではないけど、本当に疲れる。
孫が生まれる前からそんなにしんどいと言っているようでは、生まれてからもっと不規則で大変な生活になるのに大丈夫なんだろうか…と心配になる(※産後1ヶ月検診までは実家にいる予定)
自分ならこうするけどな…とか、しんどいなら仕事が休みの日にちゃんと休養をとればいいのに、とか、例えばネットスーパーを利用してまとめ買いする等何かしら工夫して家事を簡素化するとか、やれることはあるだろうに…と、見ていてそんなことばかり考えてしまう。
母はそこそこ柔軟な性格なので提案したら聞いてはくれるだろうけど、長年主婦としてやってきた母なりのやり方があるだろうし、口出しするのは何だか違うような気がしている。
そんなもやもやした気持ちでいたらおなかの赤ちゃんにも良くないと思うけど、なかなかうまく気分転換できない。最近は晴れた日に散歩に出かけるのが楽しくて仕方ない。
そしてこの問題は今だけではなく、これから両親が老いていく上でずっと続くということもわかっている(つもり)
予定日まであと約2週間。今すぐにでも陣痛が来てくれないかな、早く産まれてほしいな、と毎日思っている。
今はただ、元気な子を産んで、早く自分の家に帰りたい。
私23歳、夫25歳ではれて今年結婚したんだけど、いくらなんでも夫がキモすぎる。こう書くと「わがまま」だとか「心変わり」だとか非難されるけど、これは本当に尋常じゃないキモさ。
普通に付き合っていたとき、夫はめちゃくちゃイケメンだった。分類としては濃い顔系のイケメン。
性格もすごく良くて相談に乗ってもらったりして自然に好きになっていた。
とは言っても、私にとっては高嶺の花ならぬ源氏の君だった。
だけどなんだかんだでうまく行って普通にお付き合いできることになった。
なんと、暇さえあれば私の尻をペロペロと舐めてくるようになった。
舐め方は本当に几帳面で、終わったあとは肛門がウオシュレットがいらないレベル。どっからその唾液の量は出てくるの?
更にそこからキスなんてしようとしてくるから失神しそうになる。
どうやら彼は結婚したら尻を舐めてもいいと思っていたらしい。
殴りたい。
私23歳、夫25歳ではれて今年結婚したんだけど、いくらなんでも夫がキモすぎる。こう書くと「わがまま」だとか「心変わり」だとか非難されるけど、これは本当に尋常じゃないキモさ。
普通に付き合っていたとき、夫はめちゃくちゃイケメンだった。分類としては濃い顔系のイケメン。
性格もすごく良くて相談に乗ってもらったりして自然に好きになっていた。
とは言っても、私にとっては高嶺の花ならぬ源氏の君だった。
だけどなんだかんだでうまく行って普通にお付き合いできることになった。
なんと、暇さえあれば私の足をペロペロと舐めてくるようになった。
足と言っても範囲はつま先からふとももの付け根ぐらいを万遍なく舐めてくる。
舐め方は本当に几帳面で、終わったあとは足が風呂に使ったあとみたいになるレベル。どっからその唾液の量は出てくるの?
ベロベロと足の指の間を舐められると本当に気持ち悪くなる。
更にそこからキスなんてしようとしてくるから失神しそうになる。
どうやら彼は結婚したら足を舐めてもいいと思っていたらしい。
殴りたい。
馬鹿の書いた文なので読みづらさと論考の浅さはご勘弁。
なんとか読み取って言わんとすることを拾って書き直してくれる人が現れることを祈って・・・。
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すなわち、署名活動のメッセージを受け取る相手が、参政権と関わりのない企業等であること。
署名を受け取るまでもなく消費者の意見がまとまり、企業等に伝わっていることがある。
後者は、法的に意味を持っていない場合に署名活動が持つ効果、「消費者の意見をまとめ伝える」ことが既にされている状況を示す。
特に後者は、SNS時代の現代において起こるようになり、また起こりやすい状況である。
分かり易い例で言えば、SMAPの存続、解散撤回を求める署名運動やけものフレンズ、たつき監督の存続署名運動がある。
どちらの例も、署名がどれだけ集まろうと法的強制力はない。その意味に限れば、署名活動は無意味である。
しかし、実際、SMAPしかり、けもフレしかり、無意味であるのに署名活動がされている。
何故だろうか。
ではその意味とはなんだろうか。
前述の通り、署名活動が無意味であると全員が認識していれば、そもそも署名が集まることはない。
つまり、署名活動の参加者は、単に無意味な活動だとは思っていないのである。
そしてもう1つが、「システムとして無意味だと分かっていてもやる」という儀礼的、感情的な活動参加の可能性である。
後者の儀礼的、感情的参加の可能性は、法的に意味がある場合の、本来の署名活動に倣ったパフォーマンスのようなものだろう。
「無意味だと思っていてもやる」 この儀礼的感情的参加による何かしらの影響が、署名活動の意味となっている可能性がある。
ここで、一旦「何かしらの影響」の検討は棚上げし、
冒頭で無意味と説明した状況かつ、消費者が署名活動に意味があると考えて参加している前提で、
はじめに個人によるネット主導や、ファンクラブのような集団主導で署名活動が動き出す。
すると、署名活動中にはネットニュースになったりテレビに取り上げられたりされ、活動はヨリ認知される。
この様子は、ときにテレビや雑誌などのマスメディアで流されることもある。
なるほど、署名活動によって、『世間に意味があると思われている「署名活動」』の情報が広がっているのだ。
企業の単なる動静でもなく、消費者群の大きな潮流でもなく、「署名活動」の情報が伝播しているのだ。
これにより、「署名活動」がされたぞ、○○万人も署名したんだぞ、企業はどう動くんだ?という見方がされる。
「署名活動」がされたという見方、法的強制力のある場合に倣った見方がされている。
そう、参加するほうも儀礼的なら、世間の見方も同様に儀礼的見方がされるのだ。
すなわちこれは、法的強制力とは直接関係のない、社会による風潮であり、勝手なルールなのである。
””署名に意味がある→署名が集まる→世間やマスコミが注目する→企業が注目され、圧がかかる→有意義”” なのだ
加えて言えば、署名による圧により企業が動けば、署名に意味があるという最初の要素に立ち返り、署名活動は自己循環する。
「署名に意味がある」という定義だけが世間に残り、自己循環の度に、署名と意味の関係は強くなる。
ただ厄介なことは、「署名に意味がある」という定義は、参政権に基づいた署名も、企業への署名も、同じ定義を共有して考えられてしまっていることだ。
これが、法律と社会の風潮との誤差になっており、度々、「署名は無意味だ」と言われる原因ともなっている。
この流れは、血液型性格診断と似ている。
血液型性格診断は、科学的に全く根拠がないとされている。しかし、実際はA型が几帳面であるとかO型はガサツであるとか、よく耳にする言葉である。
幾度となく科学的に否定されようと、その声が絶えることはない。
それはおそらく、実際に血液型と性格が一致していることが多いからなのであろう。
なぜ一致してしまうのだろうか。
科学的理由ではないところに、根拠を求めるとすれば、個人の心理や社会にあるだろう。
全く勝手な推測だが、例えば「A型は几帳面だ」と周囲の人間が思っており、
そのように言っていれば、言われた方は暗示が働き、几帳面として振舞うように個人の性格が方向付けられてしまうのではないだろうか。
全ての人間が周囲からの情報で性格が決定づけられるとは当然考え難いが、それでも多少の影響はあるだろう。
人間の生物的根拠とは無関係に、社会的、心理的作用として、血液型と性格が因果関係を持つこともあるのである。
だからこそ、血液型性格診断そのものの科学的根拠はないという、ただその一点で血液型性格診断を否定するのは浅はかではないか。
そして、本文の主題に立ち返り、換言すれば、
署名活動そのものの強制力だけで無意味と切り捨てるのは浅はかであるということ。
「意味がある」という前提が意味のないことを意味あるものにしてしまうパワーがあるということが言えるだろう。
簡単に言ってしまうのはもったいない。社会の不思議なパワーを、今こそ使いこなすべきではないか。
PS.
つらつらと、署名活動を応援するようなコメントを書いてきたけれど、どちらかと言えば私は活動否定派です。
単にこうしろああしろ等と、感情と風潮に訴えるだけの署名には効果を感じません。
というのも、なんというか現代の合理主義的社会関係に見合ってないからです。
かと言って、不買運動を起こすなんてのは、ホトトギスを殺してしまうようでスマートじゃない。
だから、その間を取って、「ユーザーの意見聞かないと、これこれ買うの辞めますよ」って署名を集めるのはどうでしょう。
警察はクソ...
などと、一時の感情に任せたコメントをするブクマカが多いようだが、
賢明なる増田諸氏は、既にこの事件からも何らかの教訓を得ていると思う。
今回の事件では、専門学校生がいつ、誰と、何をやりとりしたのかすべて記録し、証跡として残していたら、
専門学校生を真犯人とすると不自然な状況が明らかとなり、拘留初日に釈放されていたかもしれない。
曖昧な記憶に頼らない明確な説明は、警察官への心証をずっと良くするものである。
ヤフオクやメルカリ、各種SNSの発達により、これからも増え続けるであろう個人間取引の現場において、
手軽で確実な証跡管理手法として、私はスマホによる撮影をお勧めしたい。
従来から行われているような、手書きのノートに時系列的に記録を残してゆく手法は、そのめんどくささ故に
小保方女史のような手抜きを生じさせやすいので、几帳面な性格の人間にしか実運用は難しいと思う。
一方、スマホであれば、SNSの画面、入金画面、訪れた郵便局、梱包した荷物、配送記録を撮影するだけなので
時間も掛からない。機種によっては、撮影場所情報まで残すことも可能だろう。
ツイッターのように用が済んだら消してしまうメッセージなどは、警察でも確認不可能なことが判明したので、
消す前に必ず写真を撮っておく習慣を身に着けておくと良い。
やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。
話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。
やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。
まずは、あなた自身がプログラマーになって、見本を見せることが第1歩です。
その後受託系の会社に就職できたのだけど、人間関係がうまくいかなかったようで数ヶ月で辞めた。
鬱病気味になったみたい...。
どうやら、プログラミングという仕事の特徴について、あなたは理解していないようですね?
プログラミングの特徴は、「コンピューターが相手なので、嘘やハッタリが一切通用しない」ということです。
人間相手なら、適当に指示を出したり、いい加減な対応でも何とかなるけど、コンピューター相手だと1mmも融通が利きません。
という3点が必要です。
警察に職務質問されて有名になった江添亮さんのブログ等を読んで、この方のようにネチネチと論理をこねくり回すのが好きなら、プログラマーに向いています。
(例)本の虫: 麻布十番で職務質問を受けた話 https://cpplover.blogspot.jp/2017/08/blog-post.html
プログラムというのは、小さな部品を組み合わせて、大きなシステムが作られています。
小さな部品がパズルのピースに相当して、大きなシステムがパズルの完成品です。
つまり、大きな問題を小さな問題に分解して、1つずつ順番に問題をつぶして行く姿勢が必要です。
があります。
命令型のプログラミング言語しか使えない人がプログラマーになると、テスト地獄に陥って、結果的に鬱病を発症しやすくなるだろうと危惧しています。
上述のように、パズルのピースを組み合わせてプログラムを作るには、「関数型」の作法を身に付けておくと良いでしょう。
関数型プログラミングを習得するために、今なら「Haskell」または「OCaml」というプログラミング言語をお勧めします。
HaskellやOCamlは、良い参考書がたくさんあるので、本屋に行って実物を確かめてください。
Haskellを学んでみて、パズルのピースを組み合わせる感覚が理解できたら、あなたはテスト地獄に苦しめられないプログラマーになれるでしょう。
もしも、Haskellが理解できないようだったら、残念ですがプログラマーには向いていないかもしれません。
(例外的に、あなたがマゾで、テスト地獄や残業、徹夜が楽しいと思える性格なら、Haskellが理解できなくても大丈夫かもしれません。)
Haskellの教材(英語)を紹介するので、参考までに読んでみてください。
http://learnyouahaskell.com/chapters
(このサイトの内容は、日本語の書籍「すごいHaskellたのしく学ぼう!」として出版されています。)
Haskellは、順番に学べば必ず理解できるようになっています。
もしも、Haskellが習得できなければ、大きな問題を小さな問題に分解して解決していく作業には不向きな性格かもしれないので、他の仕事も検討してはいかがでしょうか?
(人生は一度きり。時間の無駄にならないようにお気を付けください。)
あなたと友人が、無事Haskellを習得して、テスト地獄を乗り超えるスーパーハッカーになり、日本のIT産業を牽引されることに期待いたします。
(追記)
自分が作りたいプログラムすら作れない人が、他人が希望するプログラムを作るなんてできっこないからねw
(プログラマーが楽で簡単な仕事だと思ったら大間違いですよ?)
(追記 その2)
関数型プログラミングをマスターしておけば、OOPでも役に立つよ。(現実には、関数型もOOPも必要に応じて投入するし)
iOS→「プロトコル指向プログラミング」「RxSwift」、Android→「RxJava」辺りのキーワードでググってみて。
別に皮肉とか宗教戦争で煽ってるわけじゃなくて、自分も苦労して辿りついた口だから、今から始める人には遠回りして、余計な苦労を味わって欲しくない。
(追記 その3)
他の人が書いてたけど、1人でプログラミングするんじゃなくて、2人(ペアプログラミング)や3人以上(モブプログラミング)から始めたら良いかも。
Googleの「プロジェクト・アリストテレス」で、仕事の生産性を改善するには「心理的安全性」が重要と分かり、プログラミングの仕事もやり方が変わって来ています。
https://kuranuki.sonicgarden.jp/2017/01/psychological-safety.html
(追記 その4)
元記事が消えていたのでバックアップしておきます。(この投稿だけ読むと意味が分からなくなるため)
https://anond.hatelabo.jp/20170910205249
2017-09-10
■知り合いをプログラマにさせたいんだけど知恵を貸してくれ
プログラマって育休からの復帰しやすいだろうし、アルバイトよりは待遇いいし、勤怠ゆるいし、労力の割に楽ちんだと思うんだよね。
接客のバイトで消耗するくらいなら、プログラマになればいいと思っているのだが、その知り合いは自身のことをプログラミングを不向きと評価しているらしい。私は、プログラミングに限らず物事は時間をかければ習熟していくものだと思っているので、不向きではないと思うんだ。不向きというのは物理的に制限のある時だと思う。
その知り合いについて。
Vimはぎこちないけど使える。日常的にmacOSを使っていてターミナルの操作はできている。cd, ls あたりは理解している。
趣味を含めてアプリケーションを完成させた経験はないが、ifやfor文などの基本構文は理解している。数年前にプログラミングスクールのようなところに半年間通っていた。その後受託系の会社に就職できたのだけど、人間関係がうまくいかなかったようで数ヶ月で辞めた。鬱病気味になったみたい...。
何か成功体験があれば自然とのめり込んでと思うんだけどなかなかスイッチが入っていないみたい。
こちら側からは、プログラマーになれば?と直接は伝えてはなくて、素人でもプログラミングできましたみたいなネットの記事をシェアーしているくらい。(心理的リアクタンス避け)
知恵を貸して欲しい。
シロクマ先生の「発達障害のことを誰も知らなかった社会には、もう戻れない」読んで思ったんだけど、自分ってもしかして発達障害かも?って疑ってる人、相当に多いんだろうな。
自分も、長いこともしかしてADHDなのかな…と思ってるけど、思ってるだけ。
簡易セルフチェックをすると「疑いあり」ってでるけど、あれってよっぽど几帳面な人でない限り誰でも疑いありになるような気もするし。
生活や仕事が困難なほど困ってはないけど、とにかく生まれてこの方スケジューリングが壊滅的に苦手で、もっとなんとか出来ないかとずっと悩んでる。どのくらいでその作業ができるのか?って人に聞かれても全く予測がつかないし、かといって余裕を持って組むと今度は時間配分が狂って、冒頭に余裕ぶっこいてしまっい結局締め切り前にヒーヒー言うことになる。集中のムラもむちゃくちゃ激しい。
あとは、後回しグセが酷くて、例えばちょっとしたメールの返事など、ここでしておかないとまずい…ってわかっててもどうしても出来ないことが多い。1分程度で済むことなのに。それに限らず、目の前に最適解が見えているのに固まって動けなくなることがかなりある。
子供のころはもっとそれっぽい傾向がもっとあったけど(忘れ物、失くし物、うっかりミス、部屋片付けられない、多弁、衝動的に動く etc…)、対処方を模索したり各種ツールを活用することでかなり改善出来ている。
しかし、スケジューリング能力と後回しグセだけは色々試せども著しい改善が見られない。
仕事をしていると関わる人誰もかれもがスムーズに、言われたことを時間通りにこなして、自分はなんでちゃんと出来ないんだろうな…とへこむことが多い。自分が「ちゃんと出来ている」風に見える人達も皆、それぞれが工夫して、努力して、できるようになった結果である…っていうのはわかっているんだけど。ASDやADHDはあくまで性質なので、0か100かではなく誰しも何らかのそれっぽい部分はあるだろうし。
と、なんだかんだ書いたけど、今後特に病院へ行くつもりはないし、これは性質だって折り合いつけつつ、なんかいい改善方法はないか引き続き模索し悩みながら生きていくんだと思う。
そして、なにより一番怖いのは、もし病院に行って「あなたは発達障害ではありません」って診断されて、自分がただの努力不足の出来ない人って思い知ることなのかもしれない。