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はてなキーワード: 彼岸とは

2015-09-02

Tumblrの反応にさえ疲れた

私はインターネットお絵描きマンである


ゲーム二次創作イラストを描いてタンブラーに上げている。よく出来たものPixivにも上げる。

タンブラーは良い。投稿日時や点数の概念がない。またユーザーは主に外国人から、どんな反応をされても彼岸出来事だと割り切れてあまり気にならない。基本絵をチヤホヤしてくれるし。

まだ最高で120リアクション程度だが、ファンも増え続け、コンスタントに反応が貰えている。


ただ、最近疲れ始めている。

大して上手くもない自分の絵が、版権の威を借りてリアクションを稼いでいるのが申し訳なくなってくる。

さらに彼らは、そのゲームの関連イラストであればどんなクオリティのものだってリブログするんだ。

その中の一つとしてリブログされても最近まり嬉しくない自分がいる。

また、過去の下手な絵を掘り返されてリブログされ、その絵は元記事を削除してもなおタンブラーのどこかに漂い続ける。

それがとてもつらい。

それがネット存在することの定めだと言われたらそれまでだが。


しばらく、投稿せずに絵のクオリティを上げる修行に出ようと思う。

2015-08-05

×一生ウランでやる

○核の炎に包まれている

△暑さ寒さも彼岸までとはいうけれど僻み恨み辛みは一蓮托生ああ吾輩は増田である名前はまだ群衆

2015-01-23

エロ漫画における絵の巧さが押しつける異常性癖のおぞましさについて 追記

もとより、私は、こはれる。私は、たゞ、探してゐるだけ。

汝、なぜ、探すか。探さずにゐられるほど、偉くないからだよ。

面倒くさいと云つて飯も食はずに永眠するほど偉くないです。

私は探す。そして、ともかく、つくるのだ。

自分の精いつぱいの物を。

然し、必ず、こはれるものを。

然し、私だけは、私の力ではこはし得ないギリ/\の物を。

それより外に仕方がない。

それが世のジュンプウ良俗に反するカドによつて裁かれるなら、私はジュンプウ良俗に裁かれることを意としない。

私が、私自身に裁かれさへしなければ。

たぶん、「人間」も私を裁くことはないだらう。

坂口安吾著「余はベンメイす」

序論

自分前回、少なくとも今の自分が"そうである"と信じる所を書いた訳である

批判こそあれど、撤回をする事で偽るべきではないと思う

しかし、いくつかの指摘には自らの答えを以って表明とするのが正しいと信じ、追記をする

前回の記事を書いた後の指摘にて自分が後悔したのは"欲望がどこから来るのか"という部分だ

タイトルだけに反応すれば、自分のスケベさを絵のせいにするなよ、と。

性的嗜好覚醒とは外から来るのか自らの内から来るのか。それはあたか信仰に似ている。

それは押し付けられたのではなく、もともと潜在的に有していたモノが開花しただけかもしれない。

人間は欲望が渦巻くスープであり自然は際限なく冷酷なものであるから

クジラックスが好きだけど異常性癖になった事はない、ただ少女愛は元々備わっていて偶々手に取ったのがそういった趣向のエロ漫画だったというだけだ。


これらの指摘は、全く正しいと思われた

そう、自分自分パスカルの「パンセ」を引用

"人はエロ漫画の持つ力で屈服させられ、目覚めさせられ、開発され、汚染される"といった趣旨の事を書いたように思う

私は私の体験を文章として切り取ったにすぎず、故にこれを撤回しない

しかし、人は自らの体験を真実、伝えきることはできない

ここにおいて自分象徴界限界を知る事になる

しかし、自分自分表現し得る辺縁の部分まで突き詰めてみたく思う

本論

怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。

おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。

フリードリヒ・ニーチェ著「善悪彼岸


まり、ここでは"力を振るうのは誰か"と言う事が問題となる

自分を屈服させ、従わせ、駆り立てるのは誰か

エロ漫画によって異常性癖になった」などとは言わない

それは私の作品への投影に過ぎない(※1)

あくまで「自分が選び、自分が惹かれ、自分決断し、自分が選んだ」に過ぎない

決めたのは自分自身に他ならない

然しそれでも、私の主観としては「作品によって、自分は屈服させられたのだ」という感覚を捨てきれない

春本を読む青年子女が猥セツなのではなく、彼等を猥セツと断じる方が猥セツだ。

そんなことは、きまりきつてゐるよ。君達自身、猥セツなことを行つてゐる。

自覚てゐる。それを夫婦生活の常道だと思つて安心てゐるだけのことさ。

夫婦の間では猥セツでないと思つてゐるだけのことですよ。

誰がそれを許したのですか。

神様ですか。法律ですか。阿呆らしい。

許し得る人は、たゞ一人ですよ。自我

坂口安吾著「余はベンメイす」


では、自分自身意識は何によって駆り立てられたか

ジャック・ラカン提唱した概念対象aと言うものがある

「明らかに自分が選んでいる筈なのに、屈服させられていると感じる」という主観

主体と客体の逆転がここで生じることについて、このエピソードが近しいのではないか

若きジャックは、よくいる活発で利発な青年の一人として、

自らのインテリとしての優遇された生活に疑問を覚えてか、

荒い海で漁師として働いたことがあったという(一夏のアルバイトであったと想像しよう)。

この時、船の上で、彼の同僚である教養な男が、海上を指差した。

そこにはどこから流れてきたのか、一つの空缶が浮かんでおり、

強い陽射しを反射して、キラキラと輝いていた。男は次のようなジョークを放った。

「こっちからは向こうが見えてるけど、向こうからはこっちが見えていないんだぜ」。

しかしこの時、ラカンは、「違うのではないか、むしろ向こうこそがこちらを眼差しているのではないか」と直観した。


対象a

人間が一生を通して追求するもので、想像界象徴界現実界中間にあり、欲動が求める対象

他の精神分析学派の主張する部分対象や移行対象自己対象との関連性が指摘される。

経験として象徴化された世界の背後の示唆、亀裂、欠如としてのみ経験される。

単なる事実以上の何かを孕んでいるという不確定な過剰さを喚起するもの

自らの世界の中に象徴化された欲望の対象痕跡

満たされない欲動の向かうところ

詳しくはこれを参照して欲しい





幼児期において、人間は万能であるという錯覚がある

求めれば完全に満たされ、不快なことはすぐに排除され、自分意志によってすべてが好転する

世界には他者などおらず、自己しか存在しない

しかして、その世界には終わりがある

聖書にて失楽園があったように、人間にも楽園からの追放がある

自我の芽生えである

世界には自分以外の存在があり、すべてが自分の思い通りなるわけではない」という事が分かるようになる

絶対的依存や信頼、母子密着状態からの脱却、対象との関係性の生起である

しかし、人間はこの時の愛着を忘れない

例えば、母親との絶対的な密着を忘れられない子ども

母親の代わりに毛布を肌身離さず持ち歩くようになる(※1)

成人した後は、形を変えて残る

人は過去の幻影を追って止まないし、追わないで居られるほど聖人君子でもない

「夢を追う」「面影を探す」「憧憬する」「焦がれる」「つい見てしまう」「どうしてか同じ行動をしてしまう」

幼児の頃の万能な世界や、絶対的幸福、真理や真実表現されるもの探し求める

しかし、それはみつからない

絶対的愛情存在しないし、絶対的幸福存在しないし、絶対的絶望存在しない

完璧文章などといったもの存在しない。

完璧絶望存在しないようにね。

村上春樹著「風の歌を聴け



しかし、人はそれを求める

逆説的であるが、人がそれを追いかけるときに初めて真理は存在することとなる

然し、真理といふもの実在しない。

即ち真理は、常にたゞ探されるものです。

人は永遠に真理を探すが、真理は永遠に実在しない。

探されることによつて実在するけれども、実在することによつて実在することのない代物です。

真理が地上に実在し、真理が地上に行はれる時には、人間はすでに人間ではないですよ。

人間人間の形をした豚ですよ。

真理が人間にエサをやり、人間はそれを食べる単なる豚です。

坂口安吾著「余はベンメイす」



結論

自分が信じた正義(今回で言えば、緑のルーペ氏が描いた人間尊厳冒涜するエロ漫画否定する事)は

主観としては作品のものの力によって屈服させられたように感じられる

しかしその実、それは作品の力という要因だけに帰属しない

自分自分の力によって自分正義破壊したに過ぎない

自分を駆り立てものはいだって「ガラクタ」、「吊るされた人参」、そして坂口安吾の言う所の真理である

欠如の象徴としてのそれらを埋めるため、自分は「人の倫理破壊する作品」に惹かれる

それと同時に、自らの正義がそれを許容せず「自分が望んでいるのではない、望まされたのだ」と投影させる

氏は「宇宙人の冬」を業の深い作品と説明した

それは、こうした葛藤を生じさせることに意識的であったからだろうか



脚注

※1:投影

投影(projection)とは、自分のなかにある受け入れがたい不快感情性格他者が持っているかのように知覚することである

たとえば、怒りっぽい人が、自らの怒りの感情を受け入れず、それを他者投影して逆に他者自分に対して怒っているのだと決めつけるような場合である

※2:俗に、ライナスの毛布と呼ばれる。移行対象のこと

ラカン

現実界

フロイト現実原則や、カント命題"ein leerer Gegenstand ohne Begriff"(「掴み得ぬ空虚対象」。独語

などから敷衍した概念で、空虚で無根拠な、決して人間が触れたり所有したりすることのできない世界の客体的現実を言う。

以下に記述する想像界にも象徴界にも属さな領域であり、例としてはトラウマ不安現実における体験などで言及される。

象徴界

人間存在根本的に規定する言語活動の場のこと。

また数学などもこれに含まれる。

ラカン言語活動によって形成される人間のつながりを大文字の他者と名づけている。

これは自己他者をつなげる共通の第三者としての言語を指している。

大文字の他者言語活動の一部であることから象徴界に属するものとして考えられている。

想像界

想像界とは、たとえば「日常」平和」「不幸」といった、

人であれば誰しも漠然イメージできるけれども、

その正確な描写となると大変な労力を要するような対象世界を指しており、

かつわれわれが頭で思っているものを言う。

2014-12-23

はてなーの血肉となった本でAmazonレビューが5つ星の本のリスト

http://anond.hatelabo.jp/20141207214956

個人のブログに書いてもアクセスなんてないので増田に放流。

はてなーの血肉となった3冊を教えて欲しい」

http://anond.hatelabo.jp/20141207214956

ブックマークで挙げられていた本の中からAmazonレビューで5つ星のものだけをピックアップしてジャンル別に並べ替えもの

正月暇になりそうだから読む本を探している人の参考になれば幸いでございます

絵本児童書

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kanako_o夕凪の街桜の国夕凪の街桜の国 Permalink | 記事への反応(2) | 09:11

2014-12-17

宮脇睦のメルマガでの津田大介運営する「ポリタス批判が圧巻だったのでここに転載する

宮脇睦のメルマガに「転載自由に」と書かれているので転載します。

編集後記

 ネット選挙が不発・・・ではありません。自民党共産党もしっ

かり活用していました。

 日本ネット選挙根付かない理由はふたつ。

 まず、根付いている事実に気がついていないこと。自動車存在

を認めなければ、モータリゼーションの到来に気がつきませんし、

スマホの普及を知らなければ、「パズドラ」の売上高を信じること

はできません。

 ネット選挙とは「常在戦場」。つまり選挙期間以外の選挙活動

の解禁です。実際の所、いままでも「政治活動」として選挙活動

黙認されていました。

 統一地方選挙を来春に控え、街角に目立つようになった、地方

会議員のポスターには「区政報告会」と告知がありますが、みな選

挙後の日程が刻まれ、その日時に実際に開催されるかは誰も知りま

せん。

 投票を呼びかけることは公選法に触れますが、「政治活動」は思

信条自由から取り締まることが困難という理屈が、ポスター

と繋がります

 ネット選挙とはこのネット版です。しかも、メルマガSNS

動画配信とやりたい放題。さらには「ニコ動」のイベントというリ

アルにまで党として進出しているのは各党同じ。

 つまり平時においても選挙に向けた取り組みが、ネットという

公の空間で解禁されたことこそ「ネット選挙」の本質なのです。

 本質に気がつけば、今回の解散総選挙を「突然だ」「唐突だ」と

非難することの愚かさを知ります昭和時代学生が抜き打ち検査

で、校則で禁止されたグッズが摘発され、それを非難するような幼

稚さです。

 ネット選挙本質については、ようやく一部のマスコミは気がつ

き始めたようですが、不発を叫ぶのは、マスコミ不勉強に過ぎま

せん。

 もうひとつ理由は、日本ネット有識者Web業界人傲慢さに

あります

 もはやフジテレビお抱えの感のある、津田大介氏は「ポリタス

政治ブログを立ち上げました。以前はこの人、「ゼゼヒヒ」なる

アンケートサイトを立ち上げていました。

 アクティビスト活動家)名乗る彼の行動は「批評家」です。

 ベクトルリベラルアンチ自民は明らかで、つまり彼の目指す

彼岸は「非自民政権」。彼の御尊父は社会党の偉いさんの秘書だっ

たようです。

 これ自体は、まったく問題がありません。それぞれの立場で思い

表現できる素晴らしき日本です。

 しかし、ネット選挙とつなげると問題が見えてきます。それは

批評批判)だけで政治を動かそうとしている」

 ということ。わかりやすく言えば朝日新聞ネット版です。しか

マイクロな。

 リベラル求心力が急速に低下する中、この方法が勝利を収める

ことはないでしょう。本家朝日新聞信用失墜は、致命傷になっ

たかもしれません。

 にもかかわらず「批判」で政治を動かそうとするのは、己の正し

さ、第一人者という自負だけが支える空回りの上から目線です。

 ペンは剣よりも強し。を標榜するなら、より具体的に政策に踏み

込む・・・というより、「ネット選挙」が解禁されたのです。

 ネット専門家オーソリティーで、仮に民主党を支持するなら、

党の内部に入り、宣伝文句を量産し、サイト運営ノウハウがある

ならこれを提供し、技術があるなら・・・あるならばですが・・・

自らソースコードをかくこと。すなわち

「自ら銃を手に取り戦う」

 ことをどうしてしなのでしょうか。

 それをせずにの政権批判は、どんな正鵠を射た批評であっても

「観客席からのヤジ」

 に過ぎません。安全地帯にいれば何でも言えます。せめて支持政

党と支持する理由を表明ぐらいはしなければ。政治について何も語

らないのならそれもありですが、支持政党無しとは、言質を取られ

ないための言い訳か、上手く立ち回るための方便に過ぎません。

 あるいは政治団体支持政党なし」の支持者なら、致し方ありま

せんが。

 私は繰り返し「消去法的自民党支持」と明示しています。それに

より私の文章にかかる「バイアス」を読者は知ることができるから

です。

 米国ネット選挙においては、シリコンバレー住民が、長期休

暇を取りボランティアとして陣営に参画します。銃のかわりに、マッ

クブックを片手に戦います

 選挙期間中も、課題問題はもちろん、票につながるアイデア

あれば、すぐにサイト作り替え、時に新設します。著名人なら積極

的に賛意と支持を量産します。ファンの離反を招くとしても、リス

クを取らずに手に入れる果実がないことを、アメリカ人は知ってい

ます

 翻り日本では安全からワーワーとがなるだけ。

 さらに言えば、そもそも「ネット選挙」を語る資格のない人に、

ネット選挙を語らせているので、「定着」しないと嘆いているだけ。

 結論を述べますネット選挙は確実に定着してきています。予想

したより良い方向で。

(おわり)

2014-12-16

ニッポンジン自分の事(だけ)が好きネ

はいフリーアナウンサー長谷川豊さんの記事のことです。

http://blog.livedoor.jp/hasegawa_yutaka/archives/41760706.html

少子化の話だったけど、要は、「みんな自分のことが好き」だから、色々難癖つけて子供産まないみたいな。

私は、少子化がどうの、女性が働きやすい云々はどうでもよい。「自分大好き」な潮流?が、超同意。そして我が事のように感じた。

私も自分が大好きな、ナルシスト。新しい服を試着しては鏡を凝視し、眼鏡を試着しては鏡を凝視する。

ビルの鏡に自分が映ればつい目を向ける。「よし、いけてる」「なんか変だ」。自分自分

恋愛においても、まず自分自分がその関係の中でいかに主導的であるか。かっこよく振舞えているか。相手は好きだが、私自身より好きではない。読書もそう。なんだかんだ理由をつけながら、結局最後に出てくるのは、「出来る自分」「知的でかっこいい自分」を実現させたいがため。

うつで苦しんだ。「自分なんか最悪だ。消えたい」と思った。自殺未遂した。原因は様々な要因がある。しかし今考えると、うつを「こじらせていた」のは、自分自身が良しとする状態・理想自分現在自分彼岸の差を見て絶望し続けたことだと思う。自分が好きだ。だけど、「自分が好きな自分」じゃない。理想をなんとか打ち消すか、妥協するか、埋めるか。私は「理想を消そう」という方針でいながらも、理想のかっこいい自分を捨てきれない。少し良くなってからは、理想との距離を埋めれるところからしづつ埋めている。同時に、目標である理想も、所々で得た自分に都合の良い知識で修正自己暗示)している。

全ては自分に至るのだ。

こういう書き方をすると、まるで「そんなナルシスト自分ってなんだ…orz」みたいに見えるかもしれないけれど(若干あるけど)、否定的には思ってない。ものすごく素敵な言い方をすれば「自己実現」の亜種か一種なんだろうし、その模索の途上ともいえなくもない。

言い方次第。

長谷川氏の言っていることが広く日本人に当てはまるかどうかはわからない。レッテルだ。だけど私は自らはナルシストだと思う。そして、レッテルだと言う前提で、日本人男女は自分大好き多いと思う。なんか違う。「自分が一番大切」か。いいことだ。素直に受け入れていい。というか、今さら子供大好き、とか、なれない。パートナーが第一とか、なれない。素敵だけど、そんなに簡単に変われない。

2014-04-07

ナウシカあらすじ05

ところがちょうどそのころ聖都シュワの墓所に戻った皇弟は、神聖皇帝の片割れ超能力を持たないが故に組み敷かれてきた皇兄ナムリスのクーデターによって殺されてしまう。皇兄は人工生命、不死身の怪物ヒドラ軍勢を従え、「恐怖と歓喜の火のような日々を生きるために」自ら出陣する。

ついに本格化した大海嘯の中、いまや戦線は完全に崩壊し、トルメキア軍も土鬼各国の軍勢も撤退を開始し、大量の土鬼の民衆難民となって動き始めた。その混乱の中ナウシカを探すユパたちは、脱出方法を失い、兄皇子捜索隊が来たらその艦を乗っ取ることに一縷の望みを賭けて待ち伏せていたクシャナたちを発見する。

クシャナは部下の生命と引き換えに降伏する。アスベルはペジテの仇を前に激昂するが、ユパの説得により復讐を思いとどまる。救出されたクシャナはユパに、大海嘯の後にこそ、残された土地をめぐって戦火が再燃し、より多くの命が失われるのではないか、と問う。かつて古エフタルがそうであったように。「真の王道を歩むものが出現しなければ人間は滅びる。」と彼女他人事のように言う。

ナウシカたちは粘菌の追跡と難民の救出に奔走するが、粘菌の勢いはとどまることなく大地を呑み込んでいく。「どんな生命でも喜びや充足を知っているのに、憎しみと恐怖しか知らない」粘菌ナウシカは深い哀しみを覚えるが、その粘菌を追跡して力尽きた「腐海」の蟲達の死骸を苗床して生えてくる「腐海」の植物の芽を見て、新たな結論に到達する。

「助けを求めている南の森」とは、人間の作った粘菌蹂躙される自然のことではなく、異質な環境に放り込まれて恐怖に怯えていた粘菌自体のことだったのである。蟲達は粘菌を攻撃するためにではなく、それを食うことによって「腐海」の生態系の中に取り込んで安定化するために来たのだ。この結論に絶望したナウシカは、暴走する粘菌の合流地点で蟲の群の本隊、王蟲たちの到達を待ち、そこで、ともに「森になろうとする」。しかし死に際の一匹の王蟲彼女を飲み込み自らの漿液で保護し、かのじょはそのまま眠りに付く。

ユパとクシャナクシャナの軍が立てこもるサパタ都城に到着するが、そこはすでに瘴気に覆われ、本隊は脱出した後で、わずかな留守番兵士達はヒドラに襲われて全滅していた。さらにそこに襲来したヒドラ部隊クシャナ拉致され、後を追ってヒドラの母艦にとりついたユパは皇兄に会う。

彼はクシャナを妻としてそのトルメキア王位継承権と第三軍を手に入れ、トルメキアに侵攻して土鬼トルメキア二重帝国を作り上げようと野心を抱いていた。生き残りの兵を救う為にクシャナはその提案を受け入れる。

難民達を指導して何とか秩序を取り戻そうとするチャルカは、民衆大海嘯の到来に絶望し、彼らを救いに飛び回ったナウシカを「青き衣の者」、ただし現世において救いを示すものではなく彼岸へと救済をもたらす者と信じ、腐海に没した故郷で安らかに死にたいと願うのを見て焦燥に襲われる。「おなじ予言が時には生への希望と成り時には彼岸への憧れとなる」。「僧会は人民になにをしてきたのだ虚無をはびこらせただけなのか・・・・」

王蟲の中で眠りについていたナウシカからテレパシーが途絶えたので(ここまで単行本第五巻)

2014-03-21

彼岸だ。今日墓参りに行った。お寺にである。家には仏壇がある。毎日線香をあげている。仏壇にもお寺にもお金って掛かる。

2014-02-28

http://anond.hatelabo.jp/20140228122522

俺なんか、

「全席禁煙ですがよろしいですか?」ってデニーズで毎回聞かれるぞ。

http://anond.hatelabo.jp/20140705153652

ちなみに84歳。

我慢しておこう。

今朝思ったんだが、人の臭い息を吸いたくはないのに、容赦なく口の中に入ってくるタバコの煙って、腹が立つな。

しかし、これが清潔そうな人だったら違うこともを思ったかもしれないし、

良くわからないでいる。

ちなみに昔は電車の中でみんな吸っていて、そりゃーすごかったぞ。今の北京ぐらいな。

友人はタバコ匂いがすごく、孫が寄ってきてくれなくて、悲しそうに彼岸へ旅立った。

しか自分にも孫はめったに寄ってきてはくれないのだ。

2013-12-06

読書好きの女子のファッショ

 世間一般様から読書家」とひとくりりにされ、一束十円のブックオフ価格流通している今日このごろの読書ファッションクソ野郎どもであるけれど、その内実はピンキリで、とりあえずジャンルや内容や分量に関わらず月に三冊以上読んでいれば全国平均的に照らして「かなり読んでいる」ほうの部類に入る。

 数を誇りがちなのは男だ。

 数をこなしたからといって偉いわけではないと口ではうそぶきつつ、「いやあ、今年は千冊も読めなかったよ」だとか「一日頑張れば十冊は行けるね」だとか「○○の必読本リストは○冊しか読めてないな」だとかなんでもかんでも数字還元する。

 別に速読はクソだとか熟読こそ至高だとかいう議論をしたいわけじゃない。ヴォルターベンヤミンは生涯で1700冊しか本を読まず、一方でレヴィ=ストロースは一冊書くために7000冊を読み、イケダハヤトは年速500冊を読破し、ボルヘスは「1000冊も読める人間など存在しない」と主張した。この四人の言う「読む」はおそらくそれぞれ意味が大いに異なる。だが今はそんなことは関係ない。「本を読む、とはどういうことか」じゃない。傾向の話だ。重要なのはベンヤミンレヴィ=ストロースイケダハヤトボルヘス松岡正剛佐藤優もそのへんのラノベ評論家ブログやってるビジネスマンもみな男だという事実だ。

 男は自分についてであれ他人についてであれ、読書について言及するときに数の話をしたがる傾向にある。

 数が多い方が偉くて強い。そういう世界は微笑ましい。人によっては浅薄で醜いと断じるかもしれない。けれど、浅い分理解しやすくはある。

 そこに現れているのは一種体育会系的な価値観だ。どんなメガネモヤシとて鬱屈したヲタとて、オスである以上は筋肉量に憧れるのだ。私の読書冊数は十三万です。

 強い。わかりやすい。

 読書メーターが珍重される理由もそこに関係している。RPGみたいに、読書家のステータス可視化してくれるのだ。今までの読書冊数がHPなら、月あたりの読書冊数がすばやさ、コメントがパワー。

 既読冊数も数なら、読んだ本の内容も数だ。実のところ「読んだ本の数より、どれだけ内容を理解しているかのほうが重要だろ」と、男が言うときに使う「理解」という単語はそのまま「記憶」に置き換えうる。つまり、本の筋や要点をどれだけ他人の前でそのまま垂れ流せるか、どれだけ脳にストックしてある別の本と(それぞれの文脈を無視した上で)リンクさせられるかが男の言うところの「理解」となる。ぷよぷよとかミスタードリラーとか、そのへんの連鎖パズルゲームをやってるのとあまりかわらない。


 ひるがえって、女は数の話をしない。そもそも数えない。目の前を流れてゆく本にただ好きか嫌いかのスタンプを流れ作業で押していく。

 小説についての話をすると、まず自分がある登場人物をいか好きか/嫌いかを述べだす。本気で。ぼんくら男子同士が「ビッチ」だと「処女」だのとぼんくら慣れ合いのための属性を貼り付けて表面的に消費するのとわけが違う。彼女らは本気でキャラを憎み、愛している。

 そして、いきなり自分語りを始める。マミさんによく似たバイト先の先輩の話を始める。そんな先輩がいらっしゃるならぜひ紹介していただきたい、というこちらの懇願無視して、いかにその先輩とそりがあわないか、先輩がクズかをとうとうと語り、最終的にバイト先がかつてマルクス予言し憂慮した末期資本主義的状況下にあり私はとてもつらいんです大変なんです疎外されてるんですだからマミさんは最低な女だと思います、という実に革命前夜なティロ・フィナーレに行き着く。

 よくわからない。よくわからないと言えないまま、また別の本と別の現実の話題にうつる

 マミさんが嫌いな女子とは別の知り合いで、村上春樹を嫌いな女子がいる。その子村上春樹がそりゃあもう大っ嫌いだ。春樹に関係するものすべてを憎悪していて、村上春樹本人も嫌いなら、ファンも勿論大嫌いで、村上春樹フェアをやってる書店も嫌いで、『色彩を持たない多崎つくる』が大ヒットしている現代日本社会も嫌っている。読まず嫌いというわけでなく少なくとも数冊は読んでいるはずのその子本質的村上の何が嫌いかはよくわからなくて、理由を訊いても「キザっぽくて嫌だ」とか「セックスだけじゃん」とか、いまいち要領をえない。だって、おまえ、バタイユとかサドとかロブ=グリエとか喜々として読んでるじゃん。

 男子にも村上春樹とそのファンとその社会を嫌うやつはそれなりにいて、でもそういうやつらはなぜか「『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』だけは好きだね」などと妙に言い訳地味た予防線を忘れない。続いて、聞いてもないのに春樹論について語りだす。「俺は基本的に春樹嫌いだけど、文学性や価値は理解できるし、いいところがあれば認める度量もあるよ」と言いたいわけだ。春樹以外の気に食わない作家陣に対しても似たような態度しかとれない。嫌うのに社会的にコレクトな理屈を探そうとする。それを見つけたあとでも、けなしはしても全面的な攻撃はしかけない。そんな度胸はないんだよ。俺もお前も。

 女は退かない、媚びない、顧みない。嫌った相手には容赦しない。同時に自分正当性正義も疑わない。よって言い訳をしない。理屈を探さない。よその基準など関係ない。私の人生が伊坂はクソだと告げている。

 虚構と現実境界線をきちんと引き、作品世界をきっちり読み込み把握したうえで、手前の価値観物差しのみを武器に全身全霊をもって襲い掛かってくる。彼女たちは数を数えない。だから物差しで切り捨てた数もおぼえていない。


 あなたがもし男であるならば、女と本についてトークするのはオススメしない。なぜなら、あなたは弱い。あなたはその本について、内容を記憶しているだけで実は何も独自の見解を有していない。その場でとっさにひねりだした解釈に、あなた確信を持てない。それでは耐えられない。あなた読書を通じてコミュニケートする、ということがどんなに恐ろしいことか、リアルオリジナル見解を持っている人間狂気がどんなに鋭利か、わかっていない。年間三千百冊を読了できたとしても、それらの内容を一字一句違わず暗誦できたとしても、絶対に辿りつけない彼岸がこの世界には存在するのだ。そこでは数や引用など意味を持たない。愛情感情がすべてだ。あなた死ぬ。死にたくないなら他人と金輪際本の話をするな。外に出ろ。ゲーセンにいけ。三鷹駅裏のゲーセンではまだ『ぷよぷよ通』が現役で稼働している。あなたの居場所はまだそこに残されている。生きて欲しい。生き延びてほしい。


http://unimochi.hatenablog.com/entry/2013/12/05/174304

2013-11-13

ゲルマン人もご先祖天国にいないので洗礼やめるっていう

<blockquite> すでにお話しましたようにゲルマン人たちは死後も彼岸で現世と同じような生活が続けられると考えていたようです。キリスト教最後の審判という考え方を教えて後も死後の世界というイメージは簡単には崩れませんでした。あるゲルマン族長洗礼を受ける段になって、「洗礼を受けても死後に入る自分親族あの世で会えるか」と聞き、司祭が「あなた親族洗礼を受けていないか地獄にいるでしょう。しかし貴方は洗礼を受けるから天国に入るので会えないでしょう」と答えたところ「では洗礼をやめよう」といって受けなかったといわれています。死後の世界はそれ程重要だったのです。

source="阿部謹也ヨーロッパを見る視覚』(岩波書店、1996) p275 L9(第五章 キリスト教伝統社会)"

阿部謹也の本を読んでいて、例の有名なコピペエピソードと似たのがあったので上記に貼り付け。

有名なエピソードは、 『聖書と「甘え」 (PHP新書)』土居 健郎

「神が天地を創造し、そんなに情け深い存在だというなら、なぜ地獄などというものがあるのか、これは大矛盾であると。キリストを信じ、神の洗礼を受けなければ救われないというならば、自分たちの先祖はどうなっているのだ。洗礼を受けていない先祖は、やはり地獄に行ったのか」、

と聞いたといいます

ザビエル

先祖であろうが、地獄へ行った」

と答えました。

それを聞いて、日本人は非常に悲しんで泣いたといいます

まとめ:やっぱり未開の地には似たようなエピソードがあるもんだ。

(消化不良):『ヨーロッパを見る視覚』は講演録なので出展は明記されていなかった。

2013-08-05

http://anond.hatelabo.jp/20130805190943

自由な校風が売りの旧制中学の流れを組む都立トップ出身だけど、自由すぎてドロップアウトした人とか、非モテもたくさんいる。だからリア充かどうかって意味じゃ、新興私立と公立の違いはあってないようなものではある。

でもそのほかの部分で、私立の受験マシーンな人とは大きな差はある。

高校のころから好きなことを自由にやることに慣れてる、しかもそれが人と違っても教師も友人も気にしないことから、「みんなと同じ」に対する執着が少ないこと。人と違うことをするリスクが取れること。周りの目を気にせず好きなことを追求できること。

このアドバンテージはかなり大きい。

同級生には、みんなそこそこの大学を出てるけど、普通会社員もたくさんいるし、会社を興したやつやNPO代表がいれば、留学してそのまま海外で働いてるやつもいる。もちろん医者弁護士もいる。漫画家もいる。役者たまごもいる。失敗したやつも、そこから本人の才覚と努力で復活したやつもいる。この多様性こそが彼岸の差を分けるもっとも大きなものなのだ。何よりみんな楽しそうにしている。

世間の目なんていうつまらないものを気にせず好きなことをする。失敗しても成功しても、辛いことがあっても、それ以上に楽しい瞬間がある人生。それこそが豊かな人生というものでしょう。

から子供は自由な環境で育てるべきという結論には同意します。

2013-07-27

この光景普通になる

多分、今月の収入10万を切る。恐らく今後増えることはない。もうおしまいだ。

これからどうすればいいんだろう

アフィサイト死ね」「コピペブログ死ね」というのは簡単なんだけど、別段そんな話じゃないだろう。いわゆる正社員の人たちがお前はグレーゾーン河原ものからバチにあたっていい気味だ、いひひヒヒ。みたいに笑っているのはけっこうなのだが、彼岸此岸はそんなに距離ないんじゃねえのかな。

まり、たとえば「俺はそこそこの企業に入って、九時五時部署仕事も難しくないし、もう人生最高だあ」とか言ってた自称一般人」が45歳でリストラあいました。そんなストーリーもはや珍しくも何ともないと思うんだよ。別段技術もなんにもなくて大学を出て名刺の渡し方をおぼえただけのそのまんまで十年たったみたいな社会人、沢山いないか? 来週会社潰れちゃっても食いつなぐだけのスキル、みんなちゃんと持ってるのか? 日本は(というか世界規模で)労働力流動性が高まって今後そういう世界になる事は既定路線なわけだが、みんな対応できてるンかなあ。

2013-07-06

子供欲しくない

もともと子供欲しいと思わないし、産んで欲しいとも、双方両親から旦那からも言われない。

  

デキ婚には反対だったし、結婚したけど計画外の出産をする気はないので必ず避妊してる。

  

がまぁ一応産む可能性はゼロではないよな、とは思っている。

産まないと固く決意してる訳でもなし、女に生まれた以上想定から外す必要性も感じない。

どっちでもいいよりは産まない方にちょっと振れてる、という感じ。

リアル友人は皆母になっているけど、別にそれはそれ、

憧れるとか忌避したくなるとかい感情も湧かない。

彼らの決断は彼らの決断だよな、と思うだけ。

が、ネットでいろいろ見てると、「やっぱ産まないでおこう」と思う。

  

なんつか、ネットでいろいろ叫んでる母親たちを見てると、

幸せそうに感じられない。

彼女たちに言わせれば「社会のせいだ」ということなんだろうけど。

  

あんなに事あるごとに

「私は悪くない!被害者だ!」

社会が悪いんだ!」

と噛みついたり叫んだりしないといけないほど鬱憤溜めるのが母親なのなら、

別になりたくないなぁ、と思う。

そういう精神状態になりたくもないし、

そういう人たちのコミュニティに入りたくもない。めんどくさそうすぎて。

  

リアル友人や親族を見てるとそうは思わないのになぁ。

みんな、色々ある中でも日々楽しみと幸せ見つけて、子供可愛がって、

社会や他者には譲るべきところはきちんと譲って、

満たされてるようで「良かったなぁ」と思うのになぁ。

周囲に恵まれてラッキーだったな、と最近よく思う。

彼女たちは「産んでないあんたなんかに私の苦労は分からない!」とか

突然叫びだしたりしないしな。

自分生活が完全に悪くないというために、いきなり社会情勢や国政を根拠にしたりしないし。

もっと理性的だし地に足着いてる。

あー、ほんとに、周囲に恵まれてよかった。しみじみ、つくづく感謝

  

そうやって、

彼岸此岸住み分けた上で仲良く気持ちよくやれてる今を放り出して

わざわざ彼岸に飛び込みたいと思わないんだよな。

あっちに行くと、ネットで大声上げてる人たちと同類の人たちも沢山いるんだろし、

なんか同調圧力も凄そうだし。

  

何が彼女たちをそうさせるのか、には最早興味がないなと最近思う。

人は言いたいことを言うし、それが常に真とは限らない。

社会のせいなのかもしれないし、本人にも問題があるのかもしれないし、

そういうとこ、別に精査したくない。

私にはどうでもいい。

社会が変われば彼女たちももっと過ごしやすくなり、

結果的にこんなに荒れない未来が来るのかもしれないけど、

肉体のタイムリミットというものもあるわけで、

それを待つ気もない。

  

ただただ、あちらとはなるべく距離の遠いところで、

穏やかに今の幸せを大切にしてるのが一番良いなと思う。

遠くにいれば、他人の子供も可愛いし。

もし行政が、子供産んだ人にものすごく手厚く、そうでない人にはものすごく手薄く、

という方向に変わったとしても、

産みたいか産みたくないかはそういうことに関係ないし。

デメリットがあっても産む方が嫌なら産まないだけ。

あちらの方々が満足して下さるなら、

別にいくらでも優遇してくれればいいと思う。

  

自分国民としての責任果たしてないんだから黙ってろ!

とかって責められたりするのかしらね

その責めてくる行為のものがもっそいめんどくさい。

からいくらでも社会保障受けてくれていいって言ってるやん、て感じ。

あなたが何を思おうと勝手だが、私も何を思おうと勝手だ。

わざわざ直接言ってくるのがうざい。

  

あー、想像したらげっそりした。

やっぱり母親ソサイエティには入りたくないし、深入りしたくもない。

めんどくさそすぎる。

2013-06-19

快楽原則に「彼岸」などない

快楽原則彼岸に死の欲道や涅槃原則があるわけではない

超自我現実原則個体適応的な側面を担い

現実場面で行える最大幸福を支持するものであるならば

主観世界において苦痛を最大限取り去る手段である「死」を目指す所に、どうして快楽原則彼岸など見出せるもの

快楽と死は地続きであり、それはラカンの「リビドーの変遷の最後の段階は、石の平穏へと戻ることである」という言葉がこれを確認する示唆に富んでいると考える

個体としての人間はその主観視点において、快楽原則奴隷とならざるを得ない

原初の快楽原則現実原則ベールかぶり超自我指導を受けるが

それでもなお、欲求の断念が継続する場合に「欲求そのものを抑圧、もしくは消しさる」という方向に自我は動き出す

その究極の形が、欲求を生み出して、それを断念させ、峻厳さと不寛容さを生み出す原因となっている「私」そのものの打倒という形でなされる

それは人が持つ内向性の周縁部に位置しており、外向性の周縁部で人を殺める現象が起きる事とのシンメトリーとなる

しかし、内向であるからと言ってそこに外界の存在がないわけではない

矛盾するかのように聞こえるが、私はそこに一定解釈を持ちうると考える

すなわち、「私」そのものの打倒とは、何によって行われようとするかについて再考する事でそれが得られる

先に書いたように、欲求への不寛容を生み出す「私」を打倒する方法の一つとして死がある、自殺がある

けれど、「私」が、自我がその断念を繰り返し、超自我不寛容を強めたのは、紛れもなく現実からの影響に他ならない

さらに言えば、人が人として成長せざるを得ない時、自分自分として成長したい・適応して現実での快楽を得たいと思った時に、必然的に自らへの不寛容を強めざるを得ないという事だ

快楽原則に従って現実原則を生み出す事が、一見して快楽原則を否定し対立するように見えるのは非常にパラドキシカルである

閑話休題、この説で言いたい事は簡潔に言うとこうだ

「私は「私」を打倒するが、「私」とは現実まり欲求断念の原因となった事物人の象徴である」と

現実の規則、すなわち父や法や規律や道徳能力の制限というものが、欲求断念を生み出している

欲求の断念は超自我不寛容を生み出し、その不寛容涅槃規則を生み出す

であれば、涅槃規則で生み出された死の欲動が打倒せよと叫ぶのは、象徴的な意味での父であるともいえる

「生まれてこなければよかった、消え去りたい、自分を殺したい、死にたい」という言葉は、内在化された父を消し去ることとなる

また同時に、快楽原則に従いながらも他の快楽原則を打倒せしめんとする涅槃原則は、快楽原則が母的な側面を持つ事からも、象徴的な意味での母を殺す事になるだろう

かくして、涅槃原則とは父と母を打倒し、しかして母と父をその原動力とする極めて逆説的な構造となっている

2013-04-30

〈死〉について


  死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。

 言葉にしてしまうと平凡だが、そのときの僕はそれを言葉としてではなく、ひとつ空気のかたまりとして身のうちに感じたのだ。文鎮の中にも、ビリヤード台の上に並んだ赤と白の四個のボールの中にも死は存在していた。そして我々はそれをまるで細かいちりみたいに肺の中に吸いこみながら生きているのだ。


 - (村上春樹 『ノルウェイの森』)


 死とは何であろうか、という根源的な問いに対して答えようとした哲学者は多数いる。

例えばハイデガーがそうである。私はハイデガーの著作を簡単に理解できるほどの頭を持った人間ではないが、ハイデガー人間存在をして、"Sein zum Tode"、つまり「“死”へと向かう存在であるとして捉えている。

 死は我々にとってあまりにも大きな存在であり、時に我々の在り方は“死”そのものによって規定される。

 無論、そういう言い方はあまりにも“死”というものを大きく捉えすぎている、という反論もあるだろう。“死”というものはあくまで実体を把握できない彼岸にある存在で、我々にとって死とは多くの現象の一つに過ぎないか、あるいは文化として我々の前にあるものの一つに過ぎないと言うこともできるだろう。

 その中で、村上春樹は“死”というものを「万物がその内側に抱え込み、育てているもの」とした。

 彼はその存在について「何かぼんやりとした空気のかたまり」と称してもいる。

 空気、というのは一つのキーワードでもある。スピリット、という言葉語源は“空気”という言葉と根を共にしている。というのは、聖書の上で泥の人形だった我々に魂を注いだのは、まさしく神の息吹だったかである


 “死”とは一体何であろうか。

 我々とって死とは、村上春樹の言う通り、「内側で腫れていく存在」と言えるのであろうか。

 結論から言ってしまおう、それは、“死”というものの一側面に過ぎないのではないだろうか。

 “死”とは確かに我々の内側にも存在している。しかし、それは同時に彼岸にも存在するものでもある。

 彼岸存在する死は、常々我々から遠ざけられている。日常において“死”を意識する瞬間はほとんどない。あるいは、葬儀などの機会に出くわしたとしても、その存在を具体的にはっきりと捉えることはないのである

 しかし、それでも我々は死に常々触れている。“死”は彼岸にありながら、確かに我々のすぐ傍に寄り添っているものでもある。

 我々が様々なもの認識するときにもまた、死は我々のすぐ近くに存在している。

 例えば、我々が何かに触れようとする時、その皮膚と対象との間のすぐ近くに、死は存在している。

 我々は、例えば人の手に触れる。その時に、我々にとって相手のてのひらと自身のてのひらとの間に、死は存在しているのである

 死とは、我々のすぐ傍にあり、そして我々との間に境界線を形作るものでもある。死は、我々が何かと触れ合おうとする度に、その介添人として、我々の手を取り、そしてその対象と我々を結びつけるものなのである

 これがどういうことかお分かりであろうか。つまり、死は常に我々と触れ合っており、その死と我々との間にできた境界線と呼ぶべきものが、我々の触れている一切のものとの間にできた境界線に関わっているのである

 “死”とは機会であり、境界線のことなのだ

 我々が触れ合った、手と手の間に、死は存在しているのである


 フランス哲学者エマニュエル・レヴィナスは次のように言っている。

 彼岸にある存在は、我々と境界線を共有しない、と。

 しかし、私はそうは思わない。死は我々のすぐ傍にある。だからこそ、我々の存在、そして我々を縁取っている境界線と呼ぶべきものは、はっきりとした形で我々の認識に晒されるのだ、と。


 確かに、我々は死を内側に含んでいる。

 それはまるで胎児のように、あるいは生命の萌芽のようにして含まれている。そして我々はその死を育み、時にその死を拒もうとするものである

 しかし、時にその死こそが我々の境界線を規定している。死こそが、我々とその外部の世界とを結びつけ、我々と世界の間に境界を生み出し、そして我々のうつろいゆく認識というものの介添人となっているのである

 死とは、彼岸にあるものでもある。それは、我々の内側で腫れていき、今ぞ誕生の時を願っているところの(あるいは死産の恐怖に怯えるところの)胎児存在にも喩えられる。

 しかし、死とはそれと同時に、我々と世界との間に、あるいは、我々の手のひらと手のひらとの間に、芽生え、我々の関係を取り持ち、我々と世界の全てとの変化を結びつける介添人でもあるのである

2013-03-23

http://anond.hatelabo.jp/20130321002423

松田サーカス=付けPAN、リアリティエフェクトタイムライン、背動

・敬史=ギザギザ煙、破片の大きさ、画面手前への移動、丸い粒、磯以降

金子サーカス=煙での空間表現、ベイパーのような細部描写、画面360°回転

・村木クールアニメスタイルイベント等での人物作画興味無し発言、バーニアが頭に

・柿田爆発=かきたぁぁぁぁぁああああああああああーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!村木靖監督作品「彼岸」より)


 というように、作画オタクなら誰でも名前を見るだけで各人の特徴が浮かびます

その理由は前述されてる通り、見分けにくい丁寧な芝居ではなく、特徴が出やすエフェクト板野サーカスからです。

共通認識を刺激する「初心者でも非常に分かりやすネタ」としてエウレカOP2解説は作画を語るスレで大受けしました。

ちなみに上級者だとその回のEDテロップを見るだけでカット内容が分かるようになります





サーカスは分かりやすいとか書いたが、当時金子さんパート判明したのはcoosunの掲示板でリークされたおかげ。

 そういえば作スレでこのエウレカOP2ネタ投稿された2時間後にあの花2話ノンクレ騒動だったねー。)

2012-07-20

細田守の帰還

また夏がくる。

から話しても良いだろう。

サマーウォーズの話、細田守の話をしても。

サマーウォーズは表層的には、「デジモン」や「攻殻機動隊」に良く似て見える。

もっと有り体に言えば「デジモン2 ぼくらのウォーゲーム」の焼き直しに見えるだろう。

しかし違う。

最初主人公である彼のせりふをうろ覚えながら引用しよう。

アカウントを盗まれてパニックに陥りながらなんとかたどり着いた自分の偽物(どうみてもネズミ魔法使いの弟子だが)に対して彼はこう言う。

ネットの中だからって、何でもやって良いと思ったら、大間違いだ!』

既に携帯電話と結びついたアカウントを盗まれているために、彼は携帯電話を使えなくなり、

実害が起きているにも関わらず、彼の言葉はひどく軽く聞こえる。

劇場では失笑すら起きていた。

それほど彼の言葉は軽い。

確かに軽いのだ。

実感を伴わないからだ。

なぜならそこには「ネット」と「現実」が違うという暗黙の前提があるからだ。

たかネット必死になる主人公が滑稽に見えるのだ。

ここから細田守は丁寧に丁寧に劇場内に『実感』をしみこませていく。

ネット管理されている社会愉快犯がイタズラして回る様子を、大家族の親父たちが「仕事が忙しくて帰れない」という形でもって見せることで。

交通水道消防救急

イタズラだとわかっていても「いかなければならない」職場の人たち。

劇場にはまだ笑いがある。

しかし、ネットワーク現実世界と地続きであると誰もが理解し始める。

単なるイタズラ。

しか社会は混乱し、人の生き死にに関わりかねない。

ここで大家族の長が、知り合いに電話をかけはじめる。

黒電話、古いアルバム、黄ばんだ手紙社会とつながりのある古い老人。

社会の人と人のつながりを暖かく感じる。

そして、ひとまずの小休止を経て、大きな喪失が胸を打つ。

ここにきてやっと劇場内にも、『仮想空間』と『現実空間』とは表裏一体であり、地続きであり、

そのどちらもが紛れもない『現実なのだという『実感』が浸透する。

大家族の誰もがそれぞれの立場で行動し、そして仮想世界の住人が助けになる。

ここで逆転が起こる。仮想世界現実世界と地続きだ。

それはつまり現実世界仮想世界と地続きなのだ

仮想世界アバターは、そこに人の人生が透けて見える。

細田守は、子供しか見えない世界や、魔女世界を通過して、青春を描ききり、最後デジタルリアルをきれいに繋いで見せた。

現実とはそこにあり、誕生があり喪失がありそしてまた誕生がある。

成長があり老いがあり、後悔も希望もある。

仮想世界とは人と人がつながるための単なるツールであって、またそれは黒電話となんら変わることは無い。

その先には生きた人がいて、生きた人間社会を築き上げている。

「ここではないどこか遠い世界から、「いままさにここにある世界」へと細田守は帰ってきた。

宮崎駿がついに彼岸へと続くトンネルから帰ってこない物語を描いたのと対照的に。

未来を描き、夢を描きながら、しっかりと地に足を着けた物語を描ききった。

おかえりなさい。そしてありがとう

2011-12-18

http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20060412/1144833374

ニーチェ曰くところの,ルサンチマンとか善悪彼岸っぽいところが引かれている.

こういう使い方するのねぇ,と感じるとともに,巨人の方に乗せられた論旨にもふ〜ん.といった感じ.

きっと他にも引いているものがあるのだろうが,今のぼくにはそれ以上は見えなかった.

さがす気力もないし,それを探すより他のエントリを見たほうが面白そうに思える.

2011-11-28

http://anond.hatelabo.jp/20111128165626

あのさ、「仏陀の方」の彼岸に行けず、「妄想産物の方」の彼岸に行く、って書いてるでしょ?

釈迦が「仏陀の方」の彼岸に行けないわけがないじゃん…。

そうねw

でも釈迦の話をしていないんだったらその旨始めに明記しとくべきだと思うわー。

「誰の妄想産物だよ。お前のか? 釈迦のか。」に対して、「自分釈迦だと思い込んでる人のだよ」と。

煩悩とか衆生とか仏教用語を持ち出すならなおさらね。紛らわしんだよ。

そして、じゃあやっぱり話は簡単だ。精神疾患者の憎悪は全方位の慈悲慈愛には成りえない。

なぜなら彼らは精神バランスを著しく崩しており、憎悪を慈悲に完全に変換するといった無茶苦茶行為に耐えられない。

人格障害者はやれるだろうか? たぶんやれない。つうかやれるやつがいたとして、そいつ人格障害定義から外れているので人格障害者ではない。

裏切った女を殺すことができるけど、その代わりに両親のどちらかを殺さなければいけない、というのと一緒だから無差別殺しをやった奴は殺された遺族の憎悪によって殺される可能性があるので勝ち組はいえない。

そこでその遺族が殺した奴を殺そうとするのを抑止できなきゃその武器コンセプト的に意味ねーんじゃね?

どんどん連鎖する。つうかむしろ連鎖を促進する。まるで的外れ平和が聞いて呆れる。

http://anond.hatelabo.jp/20111128153932

え、何それ逆切れ?w

アンタが引いたんでしょ衆生煩悩から救う人の話を。

だったらキチガイとか言って投げ出さんと最後まで論証の面倒みなよ。一瞬自己紹介かと思ったわw

あとそのネタは知らん。

そういう人も善悪彼岸まで突き抜けてしまえば(その可能性があるのかないのかわからん)、突き抜けてない限りは正義感の話にとどまれる。突き抜けなければ、突き抜けていない。ほとんど何も言ってないに等しいくらい、当たり前の話だな。

突き抜けてない限り正義感の話にとどまれる、というのがどういう意味わからん

釈迦はそもそも正義から出発したのでもなければ正義を目指したわけじゃないし行きついたところも別に正義じゃないのに、それが正義範疇の話になるのはなぜですか、って聞いてんだよ。

大体彼は確かに良かれと思って説いてただろうけど、同時に「これでは衆生は救えないかもなー、誰にもわかんないかもなー」とも言ってたはずだろ。

勝手にガイキチの話に置き換えて片付けなさんな。

憎悪に形式を与えたもの正義だろう。あ、これは辞書的な意味でなくね。

憎悪が「形式を得る」とまずは義憤とかそっちに進化すんじゃないの。

形式と言うのはそれにはめることで無関係の人間とも共有できるようにするフォーマットのことだろう?

正当性とか、なんかそんな。あとはいわゆる法のくびき的な。

正義っていうのは我が身から距離のある物事にマジになるってことで、憎悪は我が身を燃すものから

形式だけじゃ利己との距離の取り方が甘いと思うな。

そして正義が美しいのは、「我が身から距離のある物事に」マジになるからだ。

マジになる姿の美しさならある種の憎悪にかなわない。いやこれは個人の好みもあるけど。

http://anond.hatelabo.jp/20111128151156

ますます意味不明なんですけどw

釈迦の目指したもののことどれくらい知ってるんだい?

彼はなにかの不正を正そうとしたというよりは、そういう因果から抜けることを目指したんじゃなかったっけ?w

「行くまで」の話の何をどう転がせば「正義」の話になるというんだ。

というか、彼岸まで行くとしても、行けるのは仏陀のほうではなく妄想産物のほうなので、これは最後まで正義の話でいられるんだよ。

妄想産物って誰の妄想産物だよ。お前のか? 釈迦のか。

釈迦妄想産物」なる怪物まで出してくるんなら、もう正義だなんて完全にお前のモンスターなっちまうんじゃないのかね。

肝心なのは正義は善の一端ではなく、憎悪の別名であることじゃないかな。

混ぜているのではなく、憎しみこそが正義本質ってこと。

どこまでもまどろっこしいやつだな。では正義ではなく憎悪と呼びたまえな。

引用しないけど、辞書的には言うまでもなく正義憎悪は別のページに書いてあるかんね。

ただ、燃えさかる憎悪の燃料に何かしらの正義が混ざっていないとはちょっとえんな。それは確か。

じゃあ細かいところから広いとこに出てみようかな

http://anond.hatelabo.jp/20111128144115

http://anond.hatelabo.jp/20111128143505

「慈悲や慈愛のかたちで表面化する正義」なるものは慈悲や慈愛の飾りを身にまとっているだけで本質正義なのだ

慈悲を辞書で引くと大雑把だけど「あわれみ」とかそんな感じだ。慈愛は「かわいがる深い愛情」とかだ。共通するのが「いつくしみ」だ。

どこにも正義を求める気持ちなんてものは出て来ない。

よって辞書的に言って慈悲や慈愛は正義ではない。飾りたきゃ飾ればよい(飾っていた方が美しいし)が、それは、正義では、ない。

人を煩悩から救うために悟りを開き衆生を導くとか、そういうのに近い話。

こういうのもさ。どこが「正義」やねん。既に善悪彼岸の向こう側の話じゃねえか。それこそ「善意の人」なみに正義関係なくね。

ただ話がちょいと入り組んでくるのは、慈悲や慈愛は正義ではないが善であるという事実の故だ。

から「飾る」だなんて、粉飾を彷彿とさせる比喩を持ちこんでも「その方が美しい」と言い切れる。

その美は見せかけではないからだ。

正義もまた善の一端である正義なりに美しいが慈悲や慈愛とはなにか性質を異にする。

おそらくはその燃料に憎しみを混ぜているために。

全方位に対する慈愛って応報捨てるくらいの勢いのとこからしか出て来れないんじゃないの? 知らんけど。

行われるべき所で正義が行われないことに憤ってるうちは応報をむしろ強烈に望んでいるので、その灰からフェニックスは出て来れないかもよ。

2011-08-26

テレビの終わりの始まり

なんだかテレビに随分な逆風が吹きつけているように見受けられる。無理やり推し進めたデジタル化に世論は割合反発を強めているし、ネット世論ではフジテレビ騒動から業界が抱える根幹の問題としての電波利用のモラルハザードが周知されることになってしまった。そしてこの度の島田紳助の引退である。この件は政治的側面から語られることも多く、そこらの事情通はこの引退はまだ端緒に過ぎず、ここから続く一連の出来事を見守る気構えでいるようだ。そのあたりは情報の真偽を確かめる術を持たないので知らない、けれど彼の引退(ここでは敢えて「勇退」とでも言うべきか)は少なくとも「テレビに関わっている人達」に大きな影響を与えたし、そして今後与えていくことになるんだろうと思う。庇護のもとにあった芸能人は勿論、視聴率の稼ぎ頭として頼っていたテレビ局、そしてなにより様々な背後関係になど感心も向けずに、ただテレビスタートして彼をモニターの向こうから見守っていた何千万の無辜の市民芸能界の一時代を築いた彼の引き際をどう見守ったのだろう。

テレビを慈しむ人々というのはそれはもう絶対的になっていて、少しインターネットに触れるようになり物知り顔になってしまうと見落としがちな側面なのだけど、やはり依然として社会において支配的な行動様式というのは朝新聞を読んで、ご飯を食べながらテレビを観て、そして学校会社で話題の中心を占めるのは「昨日テレビで見たあの話」なんだ。これはWEB業界にいたり、ネットを主要な情報源にする仲間たちと群れ合うようになると薄れがちになる感覚なのだけれど、人々の中でそのような旧態依然とした行動様式を採る人々というのは未だ支配的なのは明らかなんだよね。

娯楽としてのテレビがこれまでかくも人々の関心の総量において支配的であった理由というのはそこまで明確ではない。戦後豊かになって時間ができはじめて、生得的に「惰性」という性質を持ち合わせたがゆえのに、ただ受動的に、そして非常に楽な形で情報を受け取ることができるメディアとして非常に便利な箱は家庭に頒布され、今日までアタリマエかのように人々の話題の中心で在り続けた。そしてテレビCMなんていう綺麗な俳優女優の顔でしか認識しないような広告に莫大な広告費がぶら下がることになってきた。

インターネットがこれらの流れを崩すことになるかもしれないよね、なんて話は梅田氏以来、ネット牧歌論的な肯定派の中で何度も云われ続けてきたことではある。しかしこれまではそれはただの業界人ポジショントークであり、楽観的すぎる夢物語として終始してきた。しかしいよいよ本当に人々の眼がひらかれる時が来ようとしているのかもしれないねテレビを「面白く」してきた、有能な大道芸人が辞世し、その箱を通して見る風景が相対的な魅力を失う、同時にスマートフォンはじめとするより開放的な情報体系としてのインターネットへのアクセシビリティが拡充されたときに人々は情報の扱い方を緩やかにでも変えていくのだろう。

大袈裟なのかもしれないよ。でも人々の考え方において大きな影響を与えてきたのは教育マスメディアの中で、そのうちの後者がいま大きく音を立てて崩れようとしているように少なくとも自分には見える。能動的に情報を得ることを覚えた人々は、ネットで調べたあの面白そうなお店に行ってみようということになるかもしれないし、新しい趣味を始めることになるかもしれない。結局これまでのテレビというものが多様な人間余暇生活の中で過大なシェアを占めていたのが、「その中の一部」へと収斂していく過程を僕らは見ているのだと思う。それは明らかに始まっているし、鼻息を荒げるには実はまだ早すぎるのかもしれない。でも僕はその崩壊彼岸にある景色は今より少し綺麗なものが見れるんじゃないかなあと、少しだけ期待をしているんだ。

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