2013-06-19

快楽原則に「彼岸」などない

快楽原則彼岸に死の欲道や涅槃原則があるわけではない

超自我現実原則個体適応的な側面を担い

現実場面で行える最大幸福を支持するものであるならば

主観世界において苦痛を最大限取り去る手段である「死」を目指す所に、どうして快楽原則彼岸など見出せるもの

快楽と死は地続きであり、それはラカンの「リビドーの変遷の最後の段階は、石の平穏へと戻ることである」という言葉がこれを確認する示唆に富んでいると考える

個体としての人間はその主観視点において、快楽原則奴隷とならざるを得ない

原初の快楽原則現実原則ベールかぶり超自我指導を受けるが

それでもなお、欲求の断念が継続する場合に「欲求そのものを抑圧、もしくは消しさる」という方向に自我は動き出す

その究極の形が、欲求を生み出して、それを断念させ、峻厳さと不寛容さを生み出す原因となっている「私」そのものの打倒という形でなされる

それは人が持つ内向性の周縁部に位置しており、外向性の周縁部で人を殺める現象が起きる事とのシンメトリーとなる

しかし、内向であるからと言ってそこに外界の存在がないわけではない

矛盾するかのように聞こえるが、私はそこに一定解釈を持ちうると考える

すなわち、「私」そのものの打倒とは、何によって行われようとするかについて再考する事でそれが得られる

先に書いたように、欲求への不寛容を生み出す「私」を打倒する方法の一つとして死がある、自殺がある

けれど、「私」が、自我がその断念を繰り返し、超自我不寛容を強めたのは、紛れもなく現実からの影響に他ならない

さらに言えば、人が人として成長せざるを得ない時、自分自分として成長したい・適応して現実での快楽を得たいと思った時に、必然的に自らへの不寛容を強めざるを得ないという事だ

快楽原則に従って現実原則を生み出す事が、一見して快楽原則を否定し対立するように見えるのは非常にパラドキシカルである

閑話休題、この説で言いたい事は簡潔に言うとこうだ

「私は「私」を打倒するが、「私」とは現実まり欲求断念の原因となった事物人の象徴である」と

現実の規則、すなわち父や法や規律や道徳能力の制限というものが、欲求断念を生み出している

欲求の断念は超自我不寛容を生み出し、その不寛容涅槃規則を生み出す

であれば、涅槃規則で生み出された死の欲動が打倒せよと叫ぶのは、象徴的な意味での父であるともいえる

「生まれてこなければよかった、消え去りたい、自分を殺したい、死にたい」という言葉は、内在化された父を消し去ることとなる

また同時に、快楽原則に従いながらも他の快楽原則を打倒せしめんとする涅槃原則は、快楽原則が母的な側面を持つ事からも、象徴的な意味での母を殺す事になるだろう

かくして、涅槃原則とは父と母を打倒し、しかして母と父をその原動力とする極めて逆説的な構造となっている

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