はてなキーワード: 部活とは
航空機のようなズボン…ストライクウィッチーズ(JK?)
ロードバイク…ろんぐらいだぁす!(JD)、南鎌倉高校女子自転車部
バイク… ばくおん!
サバゲー …さばげぶっ!、ステラ女学院高等科c3部、サバゲっぱなし(OL)
旧車レストア…ぜっしゃか!
格ゲー…対ありでした。
返信、ブコメより追加
カメラ… カメラはじめてもいいですか?、しかくいシカク、mono、たまゆら
ゴルフ… すいんぐ!!
釣り… カワセミさんの釣りごはん、釣りチチ・渚、つれづれダイアリー、浜咲さんなら引いている、スローループ
野球…球詠
エースをねらえ!とかアタックNo.1は入れるべきなんだろうか…
各ジャンルの興味を持つための
(恥ずかしながら響け!ユーフォニアムは未視聴です)
吹奏楽部員のフルートの傘木希美とオーボエの鎧塚みぞれの2人が
曲の理解を深めるとともに自分たちの関係性を見つめ直す物語であった。(ちょうざっくり)
映画にも描かれている、合奏の空気感や曲作りに対する部員同士の対立なんかはあるあるなんじゃないかと思う。
偏見じゃん!といわれればそれまでだが、
わかるな〜と思いながらみていた。
だから、とても没入することができたし、いい作品に出会えたと感じた。
本題はここからだ。
自分が大人になってしまったことに映画を通して気付いてしまったのだった。
結構ショックだった。
ネタバレを含むが、
上位カーストという感じ。
ずっと傘木の後をついて回っている。
一方、傘木は自分の方こそみぞれなしではいられなかったということに気付くのだった。
まずこれがもう序盤で気付いてしまうのだ。
こういう子って急に大きくなるんだよなぁって肌で感じてしまう。
それはいい。
例えば恋愛漫画で、この2人どうせくっつくんでしょ?(その過程がみたい)というのは往々にあって
何がショックだったのかというと、
友達とのイザコザ(で片付けるのは失礼だが)が羨ましかったのだ。
今の私といえば
あんまりストレスが溜まったら、美味しいものを食べて仕事と関係のない友達に愚痴って消化、
気持ちがみえなくなってハグを求めて相手の気持ちを知ろうとする、
合奏の掛け合いがぎこちなくなって知らぬ間にできてしまった距離感に落胆する…
そして私にはわかるのだ、
ここまでイザコザしたとしても
でも安心して欲しい(?)
ひょんなことから連絡をとったりすると4年くらい空白があったとは思えないような時間を過ごせたりする。
そしてなにより
強烈にうらやましい!と思ったし、
作品を通して高校生の私に再会させてくれたリズと青い鳥は偉大だ。
素敵な作品を生み出してくださりありがとうございます。
もう一周観ようと思う。
響け!ユーフォニアムも観るべきなんだろうか?
Twitterに親の財布からお金をとって30万課金した話が流れてきた。
十分な小遣いがいくらかわからないけど、きっと子どもは幸せだろうなと思った。
お年玉も少なくてかなり苦労してた。特段裕福でもないけど、貧乏でもない家庭だったのに。
「親の財布からとればいーじゃん笑」
私はそこまで落ちちゃいないし、そもそも親が厳しかったからそんなことできないし。
そのツイートのお子さんと変わらない歳で。
ここからはフィクションだと思って読んでほしい。虚実のない混ぜでお送りします。(元ネタ分かる人いるかな)
インターネットってさ、お金を持ったおじさんがたくさんいるんだよね。
知ってるかもしれないけれど、かわいい自撮りをおじさんに送ると、お金がもらえるんだ。
肌色が多いとたくさん。
でもやめた。めんどくさくなったから。
バイトができる年齢になっても、小遣いは上がらず毎月1000円。
しかも進学先はバイト禁止だった。(部活でバイトする暇なんてなかったけど)
みんなタピオカ飲んでる中、私は100円のハンバーガーを買うか、チキン○リスプにするか悩んでた。
辛かった。だから再開した。
今度はより稼げる方法で。
ネットで画像送るより、会ったほうがたくさんお金もらえるんだよね。
時給1万とかになるともう嬉しくてさ。
10万稼いだ。同じ一ヶ月で。
やめたよ。惨めだったから。
こんな思い、しなくて済んだのにな。
親に何度も小遣い上げてって言ったけどさ、
だってさ。
結局今も理解されてないけどね。
もし、これ読んでる人の中に『親』の人がいたら教えてほしい。
どっちがマシなのか。
私にはわからない。
書いてて思ったけど、結局一番羨ましかったのは、親の財布からお金をとったことだろうな。
いいな、傷の浅い方法で。
いいな、親に怯えてなくて。
いいな、プライドがなくて。
幸せだろうな。
私も親の財布から取れたらな、増田でこんなこと書いてなかっただろうな。
今も怒りと憎しみと後悔と懺悔で、感情に押しつぶされそうになりながら書いてるよ。
二ートを抱えた家族は、すぐに崩壊はせず、緩やかに壊死していく。
私の実家もその典型的な一例であるため、「ザ・ニート家族」はこのように形成されるということを、
兄と私の半生を交えながら紹介したいと思う。
2人兄弟の末っ子として生まれた私は、兄と年齢が少し離れていたこともあり、両親、祖父母、親戚から可愛がられており、兄は必然的に放置されがちだった。
兄からしてみれば、自分を蔑ろにされている感覚からさぞ私を恨んでいたことだろう。
しかし、家族全体を通して見れば、多少ケンカをする2人兄弟の4人家族という一般的な家庭であった。
定期テスト、塾、受験、進学に関して、成績が悪かった兄を強く叱るようになり、それに兄が反抗し更に勉強をしなくなるという、負のフィードバックループが起こっていた。
また、学業だけでなく、日常生活全般に関しても気に入らないことがあれば怒鳴り散らし、自分が思う「躾け」の型に兄をはめていった。
そんな中、高校卒業を間近に控えた兄は、今まで自分の進路や行動を母に縛られていたため、
当初、大学に進学せずに働こうと考えていた兄だったが、やりたい仕事もなければ行きたい大学もなかった。
結果、ただ親に「今のご時世、大学には進学しておけ」と言われたから進学しただけの、Fラン大学生が誕生した。
高校は自由な校風の進学校に進んだ自分は、真面目に部活と学業に打ち込み、上位の国立大学に進んだ。
決定的な転機が訪れたのはここである。
今まで母は過干渉なぐらい兄につきまとっていたが、
今まで自分の人生に無頓着で、重要な選択さえも母の干渉を受けていた兄は、
「ただ今が楽であればいい」と考えるようになった兄は、
親がうるさく言ってこなくなったのをいいことに、大学卒業を間近に控えても就職活動をせず、ニートの道に進んでいった。
一方、兄への干渉を辞めた母は、幼少期ぶりに自分に接近するようになる。
しかし、今まで自分は母親に悩みも相談したことが無ければ、進路や人生の指針を相談したこともなく、
就職も結婚も確定してからの事後報告であり、「親を喜ばせる」なんてことは一切頭になかった。
そしてこの物語には、父は一切出てこない。
父は仕事人間であり、躾けどころか子どもの相談にも乗ろうとしなかった。
母が兄を怒鳴り散らしていた日々においても、その教育方針に口を挟むことはなく、黒子に徹し続けていた。
今まで教育を母親に任せきりにしてきた父は、無職の兄に対し躾けをする権利も、家庭内での発言権も無くなっており、
そんな威厳の無い父親を、兄と母は敵扱いしていた。
父→普段から育児に加わらず、家庭が崩壊寸前でも何もしようとしない
子(ニート)→小さいころから主体性を奪われているため、一人では何もできない
子(非ニート)→実家から逃亡し、何を言われても他人で押し通す
これら過干渉・不干渉の極端なバランスが、家族の形をいびつにしていく。
このパターンに当てはまる(緩やかな)崩壊家族、日本に結構あるんじゃなかろうか?
兄が30後半に差し掛かり、両親も定年に入り収入が無くなった今、
親が亡くなれば、家や土地を兄が継ぐのかもしれないが、後に残されうるのは主体性を失った兄であり、
そんな兄にいくら財産が付与されようとも解決の道は開けないだろう。
JR、私鉄乗り継いで早朝出勤。コンビニで買った朝食を摂りながらメールチェック。
密閉を避けるため担当学年のフロアの廊下窓、教室窓を開けて回る。生徒による掃除もまだ十分には機能していないので、汚れていれば用務員から借りた掃除機で廊下を清掃。
職員朝打ち合わせ。全体の連絡ののち担当学年で生徒への連絡事項などを確認。
生徒入校開始。全生徒の健康チェックをしなければならないので担当数名で生徒が記入してきた体温などを確認。体調不良でなければ校内に入れさせて手洗い場へ誘導。発熱がある場合などは下校させる。
授業開始。
昼休み終了。管理職・分掌主任・学年主任会議。放課後の消毒担当箇所の配分のアンバランスさについて議論されるが、ポジショントークばかりだったり発言力がモノを言う雰囲気だったりに辟易し何か言う気も失せ、会議終了後は換気のために開けた窓を全部閉めCOOLに立ち去る。
放課、部活へ。自分もコロナ禍で運動不足なので生徒と汗を流す。
部活終了。次亜塩素酸ナトリウムを用いた消毒をしにゴム手袋を装着し雑巾2枚を持って自分のクラスの教室や部活で使用した部室等へ。机等を全部清拭する。
最終下校時刻。自転車の無灯火走行なんかのクレームが多いので正門で声かけ。
担当学年のその日の欠席生徒について発熱の有無や身体状況をまとめた報告と、教室を各担任が消毒したことを確認するチェックファイルを管理職にCOOLに提出。「姫、ご確認ください。」
部活の夏季大会の開催に関するメールを確認。コロナ禍で開催が危ぶまれた大会も感染予防のためのガイドライン付きで実施が可能になり、自校も会場校に。それを受け、他校の同僚からメールが届いてた。【タイトル】ばーか笑【本文】会場提供ごくろうさんですwwwwww
明日の時間割を見てなんとか乗り切れることを確認し退勤。電車で家へ直行、みっちり30分飼い犬に外を歩かせる。
就寝
20年近く前の話。
高校の部活の先輩のネット友達の大学生の文章が好きだった。彼のことも好きだった。
まだテキストサイトがあった頃。村上春樹にかぶれつつダメなオタクの匂いがする彼の日記が好きで繰り返し繰り返し読んでいた。
少しメールのやりとりもしたけど、あんまり覚えていない。うれしかった反面自分が彼に相手にされていないのを感じてかなしかった。
高校生なりたての私からしたら大学生はとてつもなく大人で、扱い方のわからない子供として扱われているのを感じた。
でも文章のリズムがとてつもなく好きで、何度も繰り返し読んでいた。
高校の先輩はその大学生でないネット友達と彼氏になってはしゃいでいた。
性交渉をしたんだろうな、とおもわれる日記を書いたりしていた。私はまだ処女だったけど舞い上がりすぎている先輩には正直ひいていた。
文化祭の日、先輩は彼氏とネット友達を部活の展示に連れてきた。
会ってみたい、話してみたい気持ちはあったけどウブウブのウブなので顔なんて合わせたら一瞬で好きなのがばれてしまうのがこわかった。
私は展示のバックヤードに逃げた。女子校なので、パブリックに見えないところは女子更衣室みたいなものだ。私は複雑な気持ちにぐらぐらしながらも安心していた。
でも、先輩はあろうことかバックヤードに彼らを案内した。複雑な気持ちのエントロピーが全部恐怖と怒りになり、頭が真っ白になった。
私はたまたま手元にあったカッターを手に取って、たぶんものすごい勢いで先輩ごとバックヤードに入ってきた男性たちを恫喝した。
彼らは逃げ、私は先輩に「浮かれるな」とかそんなことを言った。泣かせてしまった。ほかの先輩が慰めていた。
今考えても彼女は実際浮かれてタブーを犯したんだけど、とはいえ思い人に引き合わせてやりたい気持ちもあったんだろう。
誰がどんな気持ちでどんな思惑を持ったかは置いておいて、とうぜんだけど大学生からは連絡が来なくなった。とてつもないものを壊してしまった。
私はあの日どうしていたらよかったのか何年か繰り返しあの日を思い返して苦しくなっていた。
今朝夢に大学生だった彼が出てきて、気持ちがツーンとして久々に思い出した。増田に流して供養する。
あの時普通に会えなくてごめんなさい。男の人を過剰に怖がるあまり、あなたを傷つけてごめんなさい。私はあなたに会う価値なんてないおかしい女の子でした(今もおかしいけど)
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追記:
> 読み直してようやく人間関係がわかった。ABCD使ってくれていいんやで。
タイトル通りです
私はこの人生の大半をスポーツに捧げてきました。小学校から大学まで何かしらの部活に入り、熱中し、成績はそこまで残せなかったけれど(よくて地区大会2位とか)楽しい生活を送っていました。
そして社会人になり、ふと気づいたのは全く恋愛をしてこなかった、ということ。仲の良い男友達はいるけれど、そういった関係になりそうな事はなかった。(厳密にはあったが、お互いにそうじゃないよねと友人関係を続けている)
思い返せば、歳を取るにつれて恋愛の話は多くなった。私はその度に関係ない話だなぁと相槌を打つばかりだった。
「〇〇にも彼氏できるって!」
そう言われても興味のないものはない。だから、そうだねと言って知らないフリをしていた。
社会人になり、仲の良い友人はだいたい彼氏持ちかつ同棲してるから誘い辛くなった。そもそも私から遊びに誘うことがないから、だんだんと疎遠になっていくのを感じた。そのときにふと、こういうときに恋人がいれば寂しくないんじゃないかと思うことがある。
ちなみに私は全く恋愛経験がない(一度だけお付き合いしたことはある)が、恋人は男でも女でもいいなぁと思っている。ただ、今回はタイトルの通り男の人の事について書こうと思う。
と、ここまで前置きが長かったが、私のこれまでの人生で別に男の人と関わることが少ないわけではなかった。男女混合の部活だったから当然のように男の人と関わるし、好意を寄せたことも何回かある。
ただ、そこから私が動けないのは完成に容姿にコンプレックスを抱えているからだ。
まずは、170超えの高身長。高身長がモテないわけではないが、どうせなら小さいかわいい女の子に憧れる。私の周りの友人がみんな小さくて可愛いからかもしれない。
そして、特徴のない顔。これといった特徴がないからメイクで化ける、なんて事もなく。せめて目が二重だったらとアイプチをしたら余計にバランスが悪くなる。辛いね。
容姿に自信がないと、「こんな私が好意を寄せてるって知られたら」と被害妄想が爆裂するわけだ。そしてひっそりと眺めるだけの片思いが終わる。
そんな感じで生きていたからこそ、もっと容姿を努力でどうにかならないかと今は試行錯誤を繰り返している。社会人になって覚えたメイクもちょっとずつ良くなっていってるし、服装も前よりも似合う格好がわかってきている。
だから、いつか「かわいいね」なんて言われたらすぐに好きになってしまうと思う。例え浮気されてても、私の事を召使だと思っていても、その「かわいい」の一言で許せてしまう。そんな気がする。だからそんなダメ男に釣られないように、恋愛はしたくない。
新幹線のホームはいつもよりも閑散としていてよそよそしい気がする。いつもゴミでいっぱいになっている待合室横のゴミ箱には余裕があって、少し残ったコーヒーのカップを投げ入れると底の方まで落下していきタプンと音をたてる。
ローカル線は発車するまで10分もホームで待ってくれているので、余裕をもってトイレに寄ることができる。トイレ内の通路はやけに広くて、また閑散とした印象を受ける。並ばず、焦らず。のんびりというよりも呆けたような時間が流れる。鍵がついたロッカーが並ぶ薄暗い通路はどこかした荘厳な雰囲気があり、こじんまりとした納骨堂のようだ。
そのまま電車に乗って実家に着いてもよいのだが、早めに帰ってもあまり話すことがない。愉快な時間は30分ほどで、後は長い長い愚痴を聞き続けることになるだろう。想像しただけで気が滅入る。線香の匂いと、はっきりしない味の食べ物と、長い諦めの時間。時計を見ても早くは進まない。なるべくその時間を短くするには、滞在時間を減らすことが一番だ。
家に行く前に、予約しておいたビジネスホテルに向かうことにする。比較的新しく、駅に近く、朝食がバイキング形式で地元の食材をふんだんに使った和食を食べることができる。家のご飯よりもこちらの方を楽しみにしていた。
ホテルに荷物を置きに行き、うっかり眠ってしまったことにしよう。それを言い訳に、家に帰る時間をできるだけ遅くしてしまおう。そんなことばかりを考えている。これでは、地元で過ごした灰色の学生生活と変わらない。部活に行かない言い訳や、授業に出ない言い訳を考えてバイトのみに精を出した学生生活が思い出され、ますます足が重くなる。
やけに低く灰色の雲が立ち込める冬を避けて、夏に帰ることにしてもこのざまだ。
大学卒業後7年間引きこもっていたのだが、心機一転働き始めて約1年になる。その経緯を記しておこうと思う。
というのも、幼少の頃、一つ上の兄とは別に母方の実家で年下の従兄弟と一緒に祖父母に育てられたり、
父親に無意味に脅かされたり(曲がり角や暗がりから「ワッ!」と言って脅かしてきた)、小さな失敗を蒸し返して執拗にからかわれたことなどが影響したためだと思う。
自分から心を開くことはなく、相手が心を開いているかどうか疑いながら仮面を被って人と接してきた。
初めての一人暮らし、滑り止めで受かった大学では周りに馴染めず(若者が怖い)、居場所は2ちゃんねるだけだった。大学は憂鬱と不安と恐怖と怠惰にまみれた日々だったと言える。
高校の頃から長らく体調不良気味(慢性的な下痢・眼精疲労)だったのも関係しているかもしれない。
勉強のやる気を失い、優等生だった高校までと打って変わり落ちこぼれた。アルバイトもサークルも続かず、夜ふかしによる寝坊で授業をサボった。
人生が何かしっくりこない感じがあり、1年休学して第一志望を目指し予備校に通わせてもらったがすぐ行かなくなった。その後勇気を出して復学した。
実家から通うようになってしばらく続いたが、4年生の研究室で馴染めず、一時期登校拒否になった。
なんとか卒業の目処が立ったものの就活するのが怖かったため、作曲家を目指すと言って逃げ、就活せずそのまま無職引きこもりになった。
どうせ就職しても、責任が伴うのが怖いし、周りから浮いて仕事に適応できずにうつになったり自殺したりしてしまうだろう、だったら働かない方がましだ、とも考えた。
これからのビジョンがまるで浮かばなかった。ただ休みたかった。
世の中の人達と自分が全然違うという意識があった(それは今も変わらない)。また、世の中嫌な奴ばっかりだとも思っていた。大学に入ってから、気が緩んで性格が悪くなったのが原因かもしれない。
作曲について人一倍プライドがあったが(雑誌に投稿して賞をもらったこともある)、独学だし楽器も得意ではないのでとんでもなく無謀だった。
人生に失敗した分を取り返そうという、ギャンブル依存症的な感情に囚われていたのだ。
高校時代の友達がいたが、煩わしくて連絡を無視して縁を切ってしまった。
昼夜逆転はそれほどしなかった。2時半に寝て10時に起きるという感じ。昼寝もしていた。
一歩も外に出なかったわけではない。たまに自転車で人気の少ない場所に出かけた。
また、母親と一緒に図書館に月1で自分が車を運転して通い、小説を借りて読んだ。
両親になぜ就職しないのかと問い詰められることがあったが、無視するか、人と関わりたくないからと答えた。
それでも、引きこもりの繰り返しの日々で、体調不良の原因がわかってきて改善していった。
また、お絵描き(落書きレベル)、日記、将棋、ラジオ体操、読書を始め、次第に心が癒やされていった。
色々なYoutuberの動画を見たり、将棋の藤井君や羽生さんの活躍を見て感動するときもあった。世の中に希望を見出してきた。
心身ともに回復するにつれ、「そろそろ働けるかも」と思った。だが、あと一歩の勇気が出なかった。
そうして引きこもり7年目、30歳目前になって焦りを感じた。もはやモラトリアムなどと言っていられる年齢ではない。
母親がもうすぐ退職することになり、すでに退職している父親だけでなく母親とも日中顔を付き合わせることになるのが嫌だった。
その頃、8年使っていたパソコンが壊れて起動しなくなってしまった(幸い後に復活したのだが)。
パソコンには、過去作ってきた絵や曲が合計一千点以上入っている。作曲についての考察やソフトの使い方のメモも書き残してある。
それらが失われるというのは、引きこもりの間、自分は死んでいたと言うのと同然だった。
死を意識してみると、絵も曲も自分の人生においてどうでも良いものだったと悟った。ショックでベッドに横になった。如何に時間を空費していたか痛感した。
あれだけ取り組んできたのに、人生において意義のあることではなかったのだ。
大学生で塾講師をやっていたとき、わからないところを教えたら「ありがとうございます!」と笑顔で答えてくれた中学生の女の子、
高校の文化祭で(歌うのが好きなので)バンドのボーカルをやらせてもらったとき、終わったあと「良かったよ。」と声をかけてくれた先生、
高校の部活で、居残り練習をしていたのをお世辞で褒めたら、本気で受け取ったのか嬉しそうに微笑んだ後輩の子、
その3人だけ。他愛もないことだ。人生を無駄にした後悔の念と、人に少しでも喜びを与えることができた嬉しさに涙が止まらなかった。
「誰かのためにならずして死ねない、死ぬ前に感謝されたい」という答えに行き着き、それが根本的に自分の求める生きがいであることに気づいた。
それからなけなしの貯金を叩いて新しいパソコンを買った。しかし運の悪いことにそれも初期不良で壊れてしまった。
さらに国民年金の支払いを全額免除するかどうかの通知(よく覚えていない)も届いた。当然年金は一銭も払ってなかったためだ。
パソコン関連のゴタゴタに加え、冬の時期で冬季うつ病っぽくなっていたため、神経が参っていた。
母親にパソコンや年金の件を相談していたら「働いたら?」と言われ、そこで素直に頷いたのだ。
まるで、立てこもり犯が説得に折れて投降したかのようだった。それが脱引きこもりのきっかけだった。
就活は半ばやけくそだった。引きこもりで自信がなかったので正社員なんぞ端から目指さなかった。
ネットの求人サイトで事務職の応募に電話したのがきっかけで、紆余曲折あって地元の工場の検査業(肉体労働)の派遣社員をすることになった。
親に反対されたが言うことを聞かなかった。流れに乗ろう、直感を信じようと腹をくくった。
どうせ自分は働くのに向いてないので、続くところまで続けようというスタンスで挑んだ。
明日はどうなるかわからない、と覚悟した。おんぶに抱っこで、ずるい人間であろう、とも考えた。
始めは何も仕事がわからず、赤ん坊同然の気分だった。初日は久々に初対面の人と会話したり見知らぬところを歩き回ったので、
夕方帰宅したとき、まるで3日ぶりに家に帰ってきたかのように感じた。
出社拒否にならずに一日一日出勤できたことを自分で褒めた。3ヶ月くらいかかって次第に仕事に慣れていき、やりがいを感じるようになった。
職場の人達は親切な人が多くて意外だった。ここは本当に現実世界なのか?と思ったりした。女性の多い職場(お母さん達ばかりだが)なのもツイていたかもしれない。
職場の人に前職について聞かれたが、塾講師をしていたと嘘をついた。
家から近い工場なので近所にも勤めている人がいる。元引きこもりなんて言ったら噂が広まってメンツが潰れる、と親に止められたからだ。
正直に答えたかったが、職場の人に心配されると逆に面倒だったかもしれないので結果的に良かった。
週5のフルタイム勤務だが、残業したり土曜日出勤もある。仕事がきつくてストレスが溜まって週末泣くこともあった。
・好きなものを好きなだけ買って食べることができるようになった。その他欲しいものが買えるようになった。
・気後れすることなく病院で保険証を見せることができるようになった。
・人の視線が気にならなくなった。
・高校の頃から、死にたいと思っていたが、徐々にそう思わなくなってきた。
・肉体労働で汗をかいて、体調が良くなった。大食いになって、筋トレもするようになり、7kg体重が増えた。元々ガリガリだったので丁度いい。仕事ぶりを褒められるようになり自信がついた。
・ネットに毒されていたが、毒が抜けた。ネットと距離を置けるようになった。
・不安と恐怖で胸がいっぱいということがほぼなくなった。
・心に余裕が出来たためか恋愛したくなった。
・せっかく大学卒業したのに非正規の肉体労働の身なので自分自身を認めることができず、気持ちが楽になることがない。
・人生がつまらない。引きこもっているときとほとんど同じことしかしてない。
・スーパーや雑貨店、本屋以外の店に怖くて入れない。外食も怖くてできない。
・涙ながらの決意もどこへやら、感謝されるようなことを何もしていない。
・低収入で親と同居しているため、彼女を作る自信が出ない。まともな職についていれば良かった。
・もっと早く働き始めれば良かった。
・大学生の頃までは、同級生と自分というのをよく比べて劣等感を感じていたが、今は、自分は自分だと思うようになった。そんな心持ちで大学生の頃に就活をすれば良かったかなと思う。
たくさんのコメントありがとうございます!すべて読ませてもらいました。
今思い出してもとてもきらきらしていて、本当にあったことなのだろうか、と思うほど素敵な時間だった。
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私は高2の時にいじめられていた。とはいえ、「いじめ」と聞いて想像しただろうものほど凄惨なものではない。
せいぜい"嘘告"(嘘の告白をすること)の標的になったりとか、単語帳を隠されたりとか、それくらいだ。
全ての声が自分を馬鹿にしている気がして、休み時間には机に突っ伏しながら耳を塞いで流れる血の音を聞いていた。
.
そんな私も、いわゆるいじめアンケート的なものでSOSを発信したことで、状況は変わった。2年生のうちはなにも変わらなかったのだが、これがきっかけで私が救われたのは間違いないのだ。
あと、いじめてきたやつらに謝られた気もするが、よく覚えていないなぁ、ということを今思い出した。
前提として、私の学校では2、3年のクラスは変わらず持ち上がりだった。
しかし、恐らくは私の救難信号がきっかけで、3年のクラスは変わることになった。
.
新しい環境を与えてもらった私は、自分を変えることにした。いじめられた原因は自分にあると思ったからだ。
ただ、いじめの原因はいじめてきた奴らにあるし、自分が"悪かった"とも思ってはいない。
しかし、当時の私が弱そうで、暗くて、ひとりぼっちで、抵抗しなさそうで、いじめてもリスクがなさそうなクソゴミ陰キャだったのは事実だったのだ。だから、変わることにした。
.
手本にしたのは自由奔放な友だちだった。人の目を気にする私に「他人のことなんてみんなそこまで気にしてないよ」みたいなことを言ったやつだった。いじめられていたときは「はぁ?」と思ったものだが、これを信じてみることにした。
他人のことなんてみんな気にしてないから、自分を卑下しすぎず、相手を信用して"対等に"いることを心がけた。
当時の日記を見たら、
とも書いてあった。
.
そんな感じで、ギャルとか、一軍女子とか、すごい明るい体育会系とかに話しかけられても、ビビっているのを隠して必死で会話した。
正直なところ、とても怖かったと思う。
変な人だと思われたらどうしよう、キモいって思われるかも、また人に笑われる、そういう気持ちとの戦いだった。
キモいとも思っていないようだった。ちゃん付けで呼んでも不快な顔なんてしなかった。会話を重ねていくと話しかけられる頻度も上がっていった。
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本当に優しかった。
今でも涙が出そうなくらい、優しい人ばかりだった。
今までもそうだったのかもしれないが、高3で初めて気づいたのだった。
人は意外と優しい。
.
そんな環境で私は、
から、
"人間"
に戻っていった。
.
自分が人間に戻る中で、周りもまた人間だと気づいていったと、今思う。
"ギャル"は「掃除場所が一緒で破天荒なYちゃん」だったし、"一軍女子"は「体操でペアになるお洒落なTちゃん」、"体育会系"は、「席が近くの明るいMちゃん」だった。
.
そこに優劣やカーストなんかなくて、みんな対等だった。そして、クラスメートで、友だちだった。
.
彼女は"クソゴミ陰キャ"の私にも明るく話しかけてくれて、初めから友達のように接してくれた。その明るさと、多少の強引さが私を引っ張ってくれた。
Mちゃんがきっかけで、彼女の友達のNちゃん(彼女も運動部だった)ともぎこちない会話を積み重ねて仲良くなった。Nちゃんは今でも付き合いがある。
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部活も引退して久しい11月には、私たちは"友達3人組"で、一緒に帰るようになっていった。
休み時間にお菓子を交換して、テスト難しかったね、なんて笑い合った。
それも1人じゃない。
小学校のときに『挨拶は義務』といい感じで半強制的に挨拶させられていたが、このとき初めて挨拶の価値に気付いた。
挨拶は友だちの確認であり、繋がりが切れないようにする小さなコミュニケーションだと感じた。
.
12月には「1秒でも長く、このクラスでいたい。」と記している。
毎日が本当に幸せだった。死にたいなんて全く思わなくなっていた。本当に眩しい日々だった。
うまく会話できたことが嬉しくて、幸せな気持ちいっぱいで帰った青空の日を思い出す。
きっと他の人には普通のことばかりだったけど、私にとっては全ての出来事が宝石のように輝いていた。
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大学に入り、私はさらに変わろうと思い、自分なりの大学デビューをした。お洒落を一から勉強して、自分なりに陰気を消そうと努力した。入学してすぐ声をかけ、友達を作った。
優しい環境が私を人間にし、そしてそこで出会った人たちから様々なことを学んだからできたことだった。
.
成人式があった。
私はいかなかった。
いじめてきたやつらに会いたくなかった。同じ空間にも居たくなかった。今の自分が、高校時代の自分の顔や態度をするのも嫌だった。
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高校3年生のあの1年間は、私にとってかけがえのない宝物である。
しかし、その日々はもう戻らない。
この先も同窓会には行かないだろう。
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私の中だけで、過ごした日々も出会った人たちも永遠になっていく。
思い出は美化され、輝きを増す。
そうしてできた"夢のような時間"を思い出して、今これを書いている。
夢のようだけど、当時の日記見ると本当にあったんだなぁってまた涙が出てしまう。
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.
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就活、頑張るかぁ。
両親が離婚して、クソ田舎にとばされた。少年期の大半をマイルドヤンキー文化で過ごした。
基本的に家庭環境に難があり、中学生の頃には大半がグレてた。学校に来なくなってた。
毎日がクソだった。動物園に放り込まれた気分だった。俺は残念ながら頭が悪くなかった。
進学校に行けばマシになると思ってた。クソだった。部活はほぼ強制参加で、勉強をしてる暇もなかった。趣味を育む時間なんてあるわけなかった。文化がなかった。未開の世界。
私は同人女オタクである。腐っている時もあれば純粋に作品を楽しんでいるだけのときもある。
少年漫画も少女漫画も青年向けも女性向けもラノベも小説もアニメもドラマもエンターテイメントを全力で満喫するタイプのオタクだ。
面白きことも無き世を面白くしてくれる創作活動とそれを有難くも受け取らせてもらっている立場である。
まーたお気持ち日記かと思われるかもしれない。そのとおりだ。お気持ち日記だ。すきに晒せ。
公式からはお布施だと思って好きなキャラを買うし、ランダムなら交換を探すし、同人グッズでは社会で付けられそうないわゆる隠密系のグッズが好きだ。
たまに自分でもそんなん買ってどうするんだただのPP加工された紙だろとかおもいつつも買ってしまう。
そんな中で、自分で絶対に手を出さないと決めているグッズがある。
同人グッズの、公式で使用されているマーク(部活ものの漫画等であれば学校の校章だったり、家の紋章だったり、アイドルユニットのロゴだったり等)を使用したグッズだ。
むしろそういった作品を作る人を恨んですらいる。勿論逆恨みだ。妬みだ。わかっている。
○○モチーフや××イメージ、おおいにありがたい。好きなキャラクターのモチーフを身に着けられる、なんて素晴らしいことだろう。
ただ、モチーフやイメージにするのに、どうして公式のマークを使ってしまうのか。
公式のマークを使ったらもはやイメージやモチーフではないのではないか。
3省堂辞書の林(意味のない検索避け)のイメージでは、心の中に思い浮かべる姿や情景、心象、形象とある。モチーフは創作の動機となった中心的な題材だ。
○○モチーフであれば、創作の動機となったキャラクターが題材だろう。そういう意味では公式マークを使ってしまうのは早いだろう。
公式マークだからまあ題材だよね。そりゃバナナって題材でたからバナナ書いたよって話だよね。
いや、それパクリじゃん。
商業利用じゃないからOKなんですよ!っていわれてもわかんない。
商業利用じゃなかったら公式のマーク使って自分の好きなデザインにアレンジして頒布していいの?
公式のデザインパクってこのキャラクターモチーフでーす!って公にパクリです!って公開してるのってどういう気持ちなの?
わかんない。3歳児だからわかんない。
私のデザインセンスが皆無だから嫉んでるんだろ乙って言われるだろうけどいやパクリとの違いが分かんないんだよな。
本当にいいデザインなのに公式のマークを使ってるってわかった瞬間ああ残念だなって思う。
でもって、それがアクキーだったりポーチだったり鞄だったりすると、ああ公式からもうこのグッズでなくなっちゃたな、って思う。
だって同人で出てて、それが公式で同じのを後から出したら絶対△△さんが作ったデザインのほうがいいとか後出しで公式が作ったとか言い出す奴いるもん。
公式がそのグッズ作るのにまあいろんなところで企画して打合せして生産数やらなにやら決めてってしたらそりゃ出るまでに時間かかるよな。
私はそういった業界には詳しくないけど製造業ってそんなこういうデザイン作りたいからつーくろ!な世界じゃないってことぐらいわかる。
作ろうとした会社が原作あるいはそういった窓口にこういうのどうですかって企画を持ち込んで、あるいはその逆で、キャラクターの使用料払ってって世界でしょ。
いやすごいな。公式マーク使って作ってる人、そういうの一切なしで商業利用じゃないから大丈夫です!って言っちゃえるんだもんな。
たとえば一時期はやってたホテルキーみたいなキーホルダー。あのジャンルででてるから同じ系列の版権だし出るだろって思ってた時期があった。
でもいつまでたっても公式で出ない。同人グッズはあったが私は公式マークを利用したもう言わせてもらうが海賊版が好きじゃないから手を出さずにいた。
そうしたある日、他の人が問い合わせた結果、似たようなグッズがあるから出さないよ、ってのを聞いた。
一瞬で殺意が沸いた。
ただ、一人の同人作家のせいで公式グッズの企画がつぶれた。私にはそう聞こえた。
同人グッズが合って、それが称賛されてるから公式で売っても買わないでしょ?
とばっちりだ。もちろんこれはお気持ち日記なので実際は知らないし妬みで逆恨みだと思う。
わかっているからその同人作家をブロックして信者の相互はミュートした。
海賊版が嫌いだとか言いながら同人グッズという名の海賊版は嬉々として買う人たちには怖気がする。
公式のマークを公式に許可も撮らず版権使用料も払わず勝手に使って、パクリで海賊版とは違う理由が私にはわからない。
いっしょのことだ。公式のグッズと間違われかねないものを作って、利益が出てないからOKなんて言って公式の利益を侵害する。
公式だって出るとこ出ようと思えば出るだろうことをして、まあ公式が出ないと勝手に確信して泥棒している。吐き気がする。
いちいち対応していないだけだ。心の中ではいつか一斉摘発されねえかなと常に思っている。
もう30手前だが、人に言える趣味や特技といったものが何一つない。
部活には入らず帰ってネット三昧。Twitterと2chとmixiの往復。
アニメやゲームは中学生までそこそこハマってたけどそれすらやる気がなくなった。
アニメなら「これ一話見るのに25分か…」という抵抗を感じてしまって1ツイート10秒で楽に読めるTwitterに流れてしまう。それを何十分も繰り返す。
楽しいかと言われると、まあそこそこ楽しい時はあるけどそうでない時の方が多い。
同じ25分を過ごすならTwitterよりもアニメ見たり本読んだりしたほうが実りがあると思うのだが、始める前の抵抗が大きく感じてしまう。
こういう質問は本当に困る。好きなものを語れるほど気力を持ってコンテンツを摂取していない。
オタクって本当に凄いと思う。
アニメ一作品が何十話もあることに圧倒されるのにそれを毎クール何作品も見ているし、何十巻もある漫画を読んでる。
だから偉いってわけではないけど、自分には何もないと思ってしまう。
30手前にもなると自分のような薄い人生でもいいじゃないか、とも思えてきたが、感受性豊かな時期にもっと色々やっておけばよかった。
スポーツで男女混合では出来ない&女子部作れるほど人数がいない種目なら分からんでもないけど理科系で?
後から理由をふんわり察することはあれど、出来事があった当時は理由もわからなかった事が多い。
小学校時代、コロコロコミック派だったので女友達と話題が共有できなかった。
それで男友達と話していたら、それだけでカップルだの何だの言われて面倒くさくなった。
部活必須の中学時代に理科系の部活に入ろうとしたら、女子生徒は入部不可だと言われた。
小学校から理科が好きだったし、中学からもっと面白くなったと感じたので惜しかった。
今思えばサークルクラッシュとかXXサーの姫とかを抑制する目的があったんじゃないかなと思う。
高校時代に男女制限はなかったけど、雪国住まいだったから学ランの下にジャージ履けるのが羨ましかった。
謎の校則で式典中は制服の下にセーターとかベストを着れなかったけど、学ランとスラックスだったら下に何着ててもばれないもんな。
これはむしろ職員席付近にしかヒーターがなかったことに対する恨み言かもしれない。
大学時代、バイト先で「女性に力仕事は期待していない。客寄せを頼む」と言われたこと。
男性店員も客寄せはしてたし女性店員でもペットボトルを箱で運んでた。
今思えば力仕事の速度のことだったのかな、と思うけど当時は地味にもやもやした。
「ほしいけど高価で買えないんだよね」系の話題を出すと親戚の女性に「そんな高いの彼氏に買ってもらいな」と言われた。
多分今回書いた中で一番ショックだった。世代間での価値観に差があるのは知ってたけど、あんまりだと思った。
薄給ではあるがなんとかやりくりして買った。
時折「女は金を出さないからいいよな」系の話題を見ると思い出す。欲しいものは自分で買いたい。
終わり
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女子は入れないって言ったのは担当の先生。別に授業では差別とかは感じなかった。
当時はえー残念だなー位の認識だったけど、授業が進んだあたりで理科が楽しすぎて無念さが増した。
今は少子化も進んでるだろうし女子も入れるようになってるといいな。
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追記終わり
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そういう人は「そこそこいい大学」を出たって言うんだよね。
中学(中学受験した人は小学高学年)のクラスで10位くらいの人。
地元トップ高ではないが一応進学校と名の付く高校に進学して、優等生の地位を守って親子ともども一安心。
住んでるところにもよるけど、ざっくり大学進学率が50%とすると、大学進学組の中ではど真ん中の平均的な成績であることに気づかずに。
高校生活は部活に恋愛にと青春を謳歌してガリ勉を見下し、偏差値50程度の大学に進学したらどこから見ても立派な凡人。
法務会計系の資格でも取ればいいのに、やりたいことをやるとか言って専攻は文学部とか社会学部。
中国語とかスペイン語とかできればまだいいのに、発展途上国には行きたくない。
就活時にコネがあれば自尊心を満たす就職ができるが、コネがなければ人生初の挫折に直面し、その後は敗北感を感じて生きていく。
何が悪かったんだろうね。
どこで頑張ればよかったんだろうね。
金儲けになる高校野球とかサッカーなどの一部を除けば、基本的に中学生、高校生用の無料託児所だったわけだけど、そこが何で無料だったかと言うと顧問教師がタダ働きさせられていたからなんで、教員数がゴリゴリ減って仕事はモリモリ増えた昨今では、もうそんな奴隷労働は無理なのがわかってるんで、部活という託児所はどんどん閉鎖になっていくのだろうと思ってる。
で、高所得層の子女は別の託児所として予備校とか塾に通わせれば良いんだけど、無料だから部活託児所に通えてた低所得層の子女の行き先がなくなることで「非行化が進む!」などのクレームが多発することになろうかと思う。
予算を組んで部活用の指導者なり教員なりを入れて、部活託児所を維持することがベストだと思うけど、財政再建主義者が与党も野党も主流派なので、そういう解決法が取られる可能性は低く、結局教員の奴隷労働と過労死で贖われるということになりそうなんだよな。