はてなキーワード: 言論の自由とは
タイトル通りだ。
以前、ゲーム関連のメディアにつとめていた。ゲームニュースをひと通り扱い、垂れ流す、といったものだった。新規参入であったのだが、サービスインしてからニュースがおりてこず、ゲーム系ニュースサイトはともかく一般のゲームブログ的なところにも情報が遅れている、という状況がすぐ出来た。すぐだ。
スクだったりエニだったりする企業は、ファミ通と同じ情報が同じタイミングで降りてきているにも限らず、ファミ通発売から二週間後に発表お願いします、と来た。最悪だ。手元に資料があるのに、出せない。この状況はあまりにも苦痛だった。
もちろん協力的な企業がなかったわけではない。そこから漏れてくる話をまとめてみると、ファミ通が情報公開のメディア・タイミング・方法を企業と相談し、取り仕切っているようだ。いわばゲーム業界の広告代理店だ。
ということは、ファミ通以外のメディアが情報を新公開しようとすると、メーカーがファミ通のごきげんを伺わないといけなくなる。情報をスッパ抜いてしまうと、最悪ファミ通はその企業を扱わなくなる。当然広告効果は低くなり、ソフトが売れない。死活問題だ。
なぜこんなにファミ通が力が持っているかというと、老舗のブランド力はもちろんだが、コンビニ流通しているというところが大きい。コンビニ流通しているのとしていないのとでは部数に歴然の差が開く。また一般の人の目に触れる機会も多くなるので、広告効果はダントツだ。
クロレビでどんだけ低い点数で叩かれようと、ファミ通に擦り寄るしかメーカーには手段がなかったのだ。今でもゲームの新情報がファミ通の発売日である木曜日に集中していることを考えるとその構図は今も変わらない。
ファミ通以外のゲームメディアがあんまりふるわないのは、上記などの理由があるからだと私は考える。新規参入出来ず、個人ブログに速報で負け、情報規制をしかれる。言論の自由はそこにはない。んな業界で発展もくそもあるか。ゲーム業界の発展を妨げたのは間違いなくファミ通だ。逆に発展をさせたのもファミ通かもしれないが、今は老害でしかない。
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任天堂もそこに業を煮やしたのか、それとも京都までファミ通の営業が来ないことに怒りを覚えているのか(←想像です☆)、自社で情報を発信することを始めているのは周知の通り。ちなみにウチの新規ヘボメディアにも任天堂は他と等しく扱ってくれた。等しいタイミングと量で情報をくれた。めんどくさいから一緒にしてただけかもしれないが、うれしかった。
そもそも話の前提として、当然ウチのメディアが新規参入でメーカーからなめられている、という状況もあったのかもしれない。
とあるワイナリー企業は「君んとこのメディアではウチのゲームのことを○○のパクリだ、と書きかねない」といったことまで言ってきた。普通の脳みそ持ってりゃそんな記事書かねぇよ。アホか。今ここで書くけどさ。
とあるワイナリー企業つながりで話すと、ゲームの攻略記事を書くとき、ワイナリーからもらったデータが80%ほど間違いで、デバッグをするようにデータを確認していた。ウチのメディアがなめられているからそんなデータをよこしたのか、それともそもそんな感じなのかはわからない。でもファミ通の攻略本でも誤植が多いということを考えると、同じように間違ったデータを流しているのだろう。攻略でもらったデータには細かいパラメータも書いてあった。この攻撃は○フレームとか。最近の攻略本はそれをそのまま転載しているから情報だけで分厚くなるんじゃね?とか考えてた。精査しろよ。
電撃とかファミ通以外の情報は知らない。誰か書いてくれんじゃね?
……という夢を見たのさ。夢の話ですから。
なんで増田でうんこの話というかうんこ文学が多いのか教えてあげましょうか。
これはね、「BrandSafe はてな」とか、はてなブックマークのトップページ操作にたいする、ユーザーのささやかな抵抗なんですね。
なんで「はてな村」っていう表現がだんだん使われなくなってきたかというと、株式会社はてなは、ユーザーを人間として見るのをやめたからなんですね。
ユーザーと、ユーザーが作り出すコンテンツ(CGM)は、商品なんですね。
そう、「無料」でここに書き込んでいるわたしも、それをみているあなたも、商品なんですね。人間ではなく。
そういうふうにしてユーザーを見ていくと、過激な言辞を弄したりする一部のユーザーとか、メンヘラだとかが発する言葉は、広告媒体の商品価値を下げる要因以外の何ものでもないわけですよね。
こういうふうに、広告枠の販売だとか、ユーザー課金によるビジネスモデルを続けていると、成長するには、言論の自由だとか表現の自由だとかにある程度制限をかける方向にむかっていくわけですよね。
でもそういうことをあからさまにいうと、会社のブランドそのものを今度は毀損してしまうから言えない。言えないけど、実際に制限はしていると。
そういったもろもろのことをユーザーは、程度の差はあれけっこう気づいているわけですよね。
うんこっていう言葉を非表示対象のNGワードに設定すると、もう一線を越えた言葉狩りになるわけですね。
そこまでいってしまうと、はてなのブランドは自殺するわけですね。
CGMの創造性と、ビジネスの安全性の間で、微妙な綱引きがいつも起こっているわけですね。
そういう微妙なところをユーザーはついて、意識的にあるいは無意識的に抗議している格好になっているわけですね。
そうすると、ああ、うんこでもホットエントリ入りするんだ、ってうれしくなって、ますますうんこについて語る。
はてなとしては、トップページがうんこでいっぱいになってほしいわけがないじゃないですか。
でも、うんこを漏らした話で100ブクマついているのに、意図的に非表示になっているのがばれた時点で、はてなのブランドは終わりなんですね。
そういうことをユーザーはおぼろげに感じ取って、ますますうんこを投げるわけですね。
こんなところでよろしかったでしょうか。
隣の芝生を見ろって話。
アフリカやイスラム国の毎日何人か何十人か飢餓やテロで死んでる。
第二次世界大戦の時だって中国や東南アジアの戦場には一切触れないのに
従軍慰安婦が捏造だと分かった途端、我々は被害者だと掌を返し、
にも拘らず、自分たちが行った事への謝罪や贖罪を感じる事はない。
「知る権利」の拡大解釈と「報道の自由」「言論の自由」を掲げては
毎回ピカドン被害に遭った人やその家族にプライバシー無視して徹底取材を敢行する。
戦時中は、政府に逆らえないと前置きしておいて、日帝は最強だ!アジアのリーダーだ!みたいな事
吹聴してきた癖に、戦後は一転無かった事にさえしてる。
こういう二枚舌は本当に嫌いだ。
テロに屈しない。
それは良いけど、テロに屈しないための措置がこれまで取られた事なんてなかった。
原爆落とされたのに、今度はどうすれば原爆落とされずに済むかとか、どうやって平和的に解決していくとか
そんな当たり前の解決策を民間に丸投げして、政府もマスコミも延々保身的な事しかしてないのは何なんだ。
そうした状況下で、オウムの事件でたった13人しか被害が出なかった事を喜ぶべきなのに、
空気を読むという日本の悪しき伝統を守って結果、13人の被害者に焦点を当てて件のやりすぎな報道を行って
同情を誘おうとするマスコミ、でも待って欲しい。
そのような状況に追い込んだ張本人が、今度はオウム被害者と一緒になって被害を訴えるのか?
それは都合の良過ぎる話だな、と思った。
戦争するのはいつも国民で、自分たちは従軍しないけど、やたら戦争する事を煽る。
そのくせ戦争が終わると反戦派の急先鋒となって政府との戦いを煽る。
マスコミこそ最大最悪の諸悪の権化だというのに、オウムの事件も被害者感情を煽って
てめえらのペースに乗せたいって腹積もりなんだろうけど、一方で坂本弁護士一家殺害事件のように
国民の味方の情報をテロリストに売り捌いてるんだから、マジで害悪だよ。
手に取るように分かるよ。
女だし、まだ社会人ほやほやだし、収入から見ても社会的地位からいっても老人に並ぶくらい弱者だけど、フェミニズムが嫌い。
フェミニズムが嫌いというより、SNSで何だか偉そうに御託を並べているフェミニストおばさん達が嫌い。
私はピンクが好きだし、イケメンが好きだし、自分自身のキャリアなんかより大事な人と結婚して幸せな家庭を持つ方がよっぽど大事だし、おじさん達からかわいいだのかわいくないだの若いだの老けてるだの品定めされてもそれは私がおっさんをハゲデブで気持ち悪いと思ったりダンディで親しみやすいと思ったりして時折それを態度に出してしまうのと大して変わらないじゃない、と思っている。
でもそれはフェミニストのおばさん達からすれば差別に対して無自覚で、前時代的な態度で、マチズモに迎合すること以外の何物でも無いようで、あの、女性の代表を自認する彼女達はそういった私達にいともやすやすと「頭空っぽ女」のレッテルを貼っていく。
彼女達がやっていることだって、遇遇立場と状況がこうなっただけで、その本質は「女は社会のゴミ」と喧伝する男達とそう大して変わらないようだが、きっと彼女達は許されるし、なんならライターとしての依頼も来るし、「はっきり私達の言いたいことを言ってくれた!」なんて多くの女の子達の尊敬をも得る。
別にそれで直接不利益を被る訳じゃないから、Twitterではひっそりとそういう人達をミュートして、たまに「かぐや姫の物語」みたいな彼女達の大好物が目に入ってくると少し耐えきれなくなってこういう文章を書くだけだけれど、こうして彼女達を嫌いと言う権利くらいは、女性にも当然の権利として与えられている言論の自由の一環として、認められたら良いなぁと思う。
"I AM KENJI"を見て、「え、"WE ARE KENJI"じゃないの?」とちょっと気になった。
Charlie Hebdoが襲撃された後の"Je suis Charlie"を踏まえての表現だと思う。
何故フランス語では"Je suis Charlie"になったのか。
この記事 ( http://www.washingtonpost.com/news/volokh-conspiracy/wp/2015/01/09/the-two-french-meanings-of-je-suis-charlie/ )によれば、
なので、"Je suis Charlie"は
のダブルミーニングになるとのこと。なのでフランス語では"Nous sommes Charlie"でなくて"Je suis Charlie"としたことには、意味がある。
英語ではそういう意味はないから"WE ARE KENJI"にした方が良かったんじゃないか。
「スローガンなんだから多くの人の合意があれば、何でもいいじゃん」と言われれば、その通りかも。でも思うのは
ということがあると思うので、こだわりたい。更に、雰囲気でパクってしまっているために、"I AM KENJI"は"Je suis Charlie"を正しくパクれてないと思う。
言論の自由を守るためのスローガンと、テロリストに屈しないことをアピールするスローガンは、そんなに簡単に同じにならない気がするんですよ。
あんなの言論の自由なんかじゃない、ただのレイシストだどうのこうの。
ここでフランスに住むワタクシより、フランス人の言論の自由(個人編)ヘイトスピーチをお送りします。
当時、夫の母は日本を中国の一部と思っていた。(それ、香港じゃね?でもこれ、私の周りでよく聞く話)
始終不機嫌の夫の母にもスマイルな私は「先進国に嫁いで喜ぶ後進国の女」のレッテルを貼られる。
ついでに言葉は覚束ないしあまり喋らないしで、バカのレッテルも追加。
後進国のバカ相手に散々喚いて優越感に浸るフランスのおばさん。
この頃は早口のフランス語を殆ど理解できなかったのが良かった。
夫・私「ふはっ?!」
妻の国は中国じゃねー!って何度も説明してた夫がついにブチ切れた。
夫の母おろおろ、「どこがダメなのかサッパリ分からない」と、ついには涙をこぼす。
後に判明したのは、このおばさんにとってアジアは中国連邦という認識であったこと。共通言語は中国語。60年間維持してた認識を変えるのは厳しかった。
夫の母、どや顔。「どう、これがフランスよ!すごいでしょう!」ムフーーーッ!(鼻息)
「先進国のショッピングモールに喜ぶ後進国の女」…えっ、あっ、それ、私のことか!!!
夫の母に美容師に連れて行かれ、斬新な頭にされる。
後に在仏日本人の間でフランスの美容師の技術力がどう言われているのかを知る。どうりで。
雨が続くと、
夫の母「太陽の祝福を受けたこの地方でこんなに雨が降るなんて!あなたの国では普通のことでしょうけど!」
白米ばかりを食べ過ぎだとか、子どもに母乳を与えるな・フランス語のみで育てろetc.
あくまでアドバイスだと前置きして言いたい放題言うので、話は一応全部聞いて、でも全部言う通りにはしなかった。
ところがアドバイスだった割りに自分の思う通りにしないと延々としつこく絡んでくる(未だに)。
何年か経って夫の実家近辺の住まいから離れた土地に引っ越した(ヤッター!)
引越し先は夫の実家より降水確率が多いと思っていたら、意外にも変わらない程度だった。
私「雨続きだったんですか?うちは昨日も今日も晴れでしたよ~」
これが夫の母の琴線に触れた。
「あんたの家の方角から雨雲が来たに違いない!雨雲はうちのじゃない!あんたのものだ!」と喚く。
「ふぇっ?!」
夫(フランス代表)「誰にでもああなんだから気にすんな。」…確かにいつも夫(政治家)や他の家族(芸能人)とも口論ギリギリの路線。
ある時、夫一家が集まってる時に私の親の話になった。
シャルリー「あんたの親ってさぁ…×侮?€↑辱」
イスラム「はあぁあああーーー?!今何て言った?!!」
イスラム「もう誰にでも同じ態度かどうかなど関係ない。自分が嫌なものは嫌だ」
フランス裁判所(夫)「もうちょっと言葉(表現)を控えるよう」
シャルリー「なんですってーー?!言論の自由よ!自分の思ったことを喋って(表現して)何が悪い?!私は表現する権利を持つ!!表現することの何が悪い!!お喋りは何の罪にもならない、何も変えられない!!お喋りぐらいさせろ!!勝手に悪く受け止めるイスラムが悪い!!」
フランスの裁判所「確かにここはフランスだ。国民は平等に言論の自由の権利を持つのだ。シャルリーの表現には人種差別も悪意もないと解釈できる。シャルリーはただ思いついたことを喋ってるだけ。おしゃべりは無害である。よって、シャルリー、無罪!号に入れば郷に従うよう」
イスラム「ふぇっ?!」
そういう経緯で合法と見做されたシャルリーの表現は留まること知らず。
それどころか「見よ!これが言論の自由というものだ」とばかりに挑発的にさえなった。
「言論には言論で返せ」とフランスが言うので、イスラムも時にはシャルリーに口答えするようになった。そして時に沈黙(無視)。
シャルリーは沈黙が大っ嫌い。自分が蔑ろにされている最大級の侮辱と感じるようだ。(一家全員こういう考え)
シャルリー「自分の言いたいことぐらい好きに言わせろ!!(言論の自由)」←もう耳にタコができるほど聞いたぜよ!
イスラムの言い分「ならば私も言論と表現の自由の権利を行使する!!」
フランス(夫一家)「有り!」
結論:
①表現の自由の権利があろうと相手を尊重する考えに基づいて権利を行使すべき。しかしそもそも尊重がなんたるや分からないor温度差がある相手だと、結局何を言ったって心に届かない。
②権利の平等性を主張して相手の自由度と同じレベルで自分も自由でいれる。つまり、相手の自由を受け入れる真意は自分の自由のため。
③上記二つのこととフランス人の性質などが絡んでモヤモヤ←これがシャルリー・エブドに対してのモヤモヤに似てる。
後日談:
夫の母、滞在中にキョドリ加速。「?!※€!」
夫、露骨にどや顔。「どや、これがワシの妻の故郷や!」(鼻息)
フランスに戻って来てシャルリーXXXL(心も体も)→XL(心のみ)へ萎む。
「イスラムをあの(例の)ショッピングモールに連れて行ったってつまらないに決まってる…(イジイジ)」
と、分かりやすく鼻っ柱が折れておりましたがそれも一時的で、また元に戻りつつあります(シャルリーは形状記憶合金仕上げ)。
それでは、オ・ボワー!
彼って本当に言論の自由を守るために死んだの?
新聞社で書かれていることを知っていたの?
やってきたテロリストが言論を暴力で封殺する目的を知っていたの?
フランスで風刺画家たちが殺された。
フランスでは人々がデモを起こして、テロに対して抗議運動を起こしている。
欧米の人々は、まず怒りの声を上げた。
「言論の自由はテロに屈しない」
と叫んでいる。
とか
こういうコメントを読むたびに虫唾が走る。
私達が絶対に守らなければならない普遍的価値観があり、それを暴力で踏みにじる奴らがいる。
やられた奴らにも過失があったかもしれない。
でもね、それを問うのはたとえば裁判の場所であったり、あとあとの検証作業でいいんじゃないの?
まずすることは、絶対に私達が守らなければならない価値観を壊した人々へ怒りの声をあげることだ。
それによって傷ついた人々に寄り添うことだ。
たとえ相手に過失があっても、それを絶対に、今、言ってはいけないんだよ。
それが被害者に寄り添う、ということだ。
苦しんでいるフランスの心に寄り添うことが、日本人の私達にとっても必要だ。
ところが、まるで冷静な自分を誇るかのように、
「いやいや、やっぱり批判にも限度があるよ。欧米の奴らの特権意識が生んだ悲劇だね」
としたり顔でコメントするゲスなやつ。
こいつらは、レイプされた女性をセカンドレイプする奴らだ。
「お前にも悪いところがあった」
こんなセリフをどうしても言いたいならば、時間がたってから、言え。
現に今傷ついたばかりの女性には、絶対に言っていい言葉ではない。
それも分からない奴らが人間の顔をしてコメントしていることにウンザリする。
人でなしなんだから、人でなしの顔をしたらどうだ。
ヒトラーに「わたしはシャルリー」って言わせて中央に「言論の自由」とでかでかと書いた雑コラ作ったけどドイツとかで出回って逮捕されたらどうしようドイツ語わかんねーし,とか思って結局公表しないことに決めたビビリはこちらです.タブーへの諷刺っつーならこんぐらいは,ねえ?
http://anond.hatelabo.jp/20150111070135
を書いたものです。
mahomi4 全く的はずれすぎ。
というコメントがありまして、この人の見る当を得た見解ってのはどういうものなんだろうとブックマークをたどったところ、
http://blog.goo.ne.jp/iida-miki/e/0d68f604177d2bdeb387e20a5dc9afb0
という記事にたどり着きました。扱っている事実が同じなのに見解が正反対というのもなかなか面白いのですが、少々以上に気持ち悪いと感じたのも事実です。
その気持ち悪さを説明するのも手間がかかるのですが、やってみますと、
親がどの国出身でどんな宗教を持っていようがフランス国民として
平等に生きていけることになっている。とはいえ本当に違いがないか、
うまくいけば(理念上は)素晴らしいけど、そんなに簡単に
あり、地区ごとに生活環境もかなり違うので、移民の子として生まれ、
(今朝のLe Mondeにはシャルリーの絵に対して今でも怒っている
アンテグラシオンやライシテの実態について、その限界を認識しながらもルソーまでひもといて、全体的にはフランス万歳!とまとめている点です。ベルばらのオスカルでしょうか。
私がすごく気持ち悪いと言うのは、こういうことをフランス人が言うならまだわかるのです。マジョリティの側にはどうしても見えてこないものというものがあります。それは善悪の問題ではなくて立場の問題です。
有働出人みたいな人がそうでしょう。まあ、あの人の活動はそれなりに有意義な部分がありますが、あの人に代表されるような白人マイノリティは、有色人種の国、それも支配階級にはならない日本や韓国に来て、初めてマイノリティ性というものを味わうことになります。そうすると見るものさわるものすべてが刺々しく感じられる。
アメリカにいる時は警察官が黒人を狙い撃ちにしてもあまり気にもしていなかったような人が、職務質問を日本の警察官にされると激怒する。年間何十人と言うレベルで何とかバッシングで死者が出ているオーストラリアから来た人が、じろじろ見られるくらいで韓国はレイシストと騒ぎ立てる。
こういうことは日本では私たちがマジョリティだから言われて初めて気づくという面もあります。言われてもただ反発するだけということもあります。自らがマイノリティとなった時に、マジョリティである時の視線・態度をかえりみるにまでなれればいいのですが、残念ながら、女性に暴力を振るう黒人男性、同性愛者を差別する女性は珍しくありません。
そしてそれを更にマジョリティの側が、見ろ見ろ、連中はこんなに野蛮だぞとはやしたてる。
あるドイツ人と話していた時、我が国は民主的でリベラルで、世界に冠たる我がドイツ、みたいな話になって笑ってしまったのですが、まあそれはその人個人の話なので、ドイツ人って全然変わっていないよねとは言わないでおきましょう。ただその人には人種差別はどこにでもあるけれど、東洋人がしつこくチンチョンチャンとまとわりつかれる国はドイツ以外ではそんなにはない、年間百人以上ヘイトクライムで殺されている国はそんなにはないということは「見えていない」のですね。
リベラルであると言うことが、他者を見下すこと、見ろ見ろ連中はこんなに野蛮だぞってなることが、リベラルがそのためのエクスキュースになることがあるのです。
リンク先の記事の何が気持ち悪いかと言えば、日本人で、パリに住んでいて、未だにシャルリー・エブドに怒っている中学生は新聞の記事でしか見たことがなくて、見えないゲットーに守られていてマジョリティのような顔をしている、それがすごく気持ち悪いのです。
国民戦線のルペンだって、アンテグラシオンは同化政策と言う意味で、ライシテはイスラムを強制的に同化せしめると言う意味で大賛成なのですからね。
歴史をひも解いて言うならば、フランス革命以後、フランスは確かにリベラルな原則を打ち立て、それを徹底してきた歴史があります。公平を期して言うならば、第一次世界大戦後、日本が列強に要求した人種平等の原則に英国とアメリカは反対しましたがフランスは賛成したと言うことも付け加えておきましょう。
しかし同時に、そのリベラルでライシテな共和国下においても、フランスもまた数々の非道をなしてきたことは忘れてはなりません。
フランスでは支配層の横の流動性が高く、文化人、メディア関係者が政界に横滑りすることも珍しくはありません。新聞人であったクレマンソーが第一次大戦期のフランスの首相であったように、エリート層は全体として支配階級を形成しています。ポール・デュシャンは二十世紀半ばのジャーナリストで、第四共和政期にアルジェリア行政官に就任して、監獄を視察しています。その時、アルジェ独立派の囚人たちの身体に、拷問の後があるのを見て首都に報告しています。その拷問の傷跡は、デュシャン自身の身体にもありました。ナチスに捕らわれていた時に拷問された跡です。
パリ解放の日の記録をサルトルが書き残しています。ルクレール将軍に率いられた自由フランス軍の入城をもってしてナチスのパリ占領は終わりを告げて、自由だ!自由だ!というはじけるような喜びを書いています。そうして成立した自由なフランス、ライシテなフランスの下でアルジェリアでは拷問が行われていたのです。
インドシナでのフランスの動きも決してほめられるようなものではありませんでした。フランス当局もいちまいかんで行われた人身売買はナチスから解放された人たちの手によってなされたものですし、フランスはインドシナ独立を抑えるため、アメリカに対して原爆の使用を執拗に求めています。これも、自由なるフランス、言論の自由なフランスの体制下でなされたことです。
私はいちいちフランスの過去の悪行をあげつらって、批判したいのではありません。フランスのリベラルな諸制度も国家制度の補完部分であるにすぎず、国家制度そのものを、相対化して批判するようにはなっていないということを言っているのです。フランスの内部にいるシャルリー・エブドは水の中にいるため水の重さを知りません。自分がネジであるに過ぎないことを理解できていないのです。それは結局、彼の中にマイノリティ性がないからであってマジョリティ側の暴力について無自覚であったからです。能力の問題ではありません。性格の問題です。
批判と言うものは嘲笑や侮辱にならぬよう、あるいはそうなっても構わないのは権力の側に対してのみ、その注意深さが必要です。風刺画というメディアは明らかに全方位になす批判の方法にはむいていません。
1つは、言論の自由だ。自粛であれ何であれ、言論の自由を制限すべきだったのだ
ろうか? その答えは、断固として「ノー」だ。
2つ目は、欧州におけるイスラム教だ。今回のような出来事は、西側の民主主義とイ
スラム過激派との間で交わされている文明闘争の一環なのか? 戦場はペシャワール
からラッカへ、そしてパリの中心部にまで広がってきたのだろうか? その答えは、
やはり「ノー」だ。
シャルリエブドの刊行物は、すべて正当な権利の下で発表されたものであり、フランスの
法律がそれを認めているのも正当なことだ。この点については、いかなる留保もあり得ない
。風刺画や意見が不謹慎で悪趣味であったとしても、それが直接的に暴力を扇動するもので
ない限り、発表を禁止すべきではない。
シャルリエブドは、イスラム教だけでなく、あらゆる宗教を風刺している。とはいえ、仮
に同紙がそう望んだのなら、イスラム教だけを風刺する権利もあるはずだ。それは、欧州に
住むイスラム教徒が、欧米の退廃を非難したければそうできる権利を持つのと同じことだ。
いずれにしても、怒ったり怒らせたりするのと、それを理由に人を殺すのとでは、天と地ほ
どの違いがある。その間を隔てているのは、数世紀にわたるリベラルな政治思想だ。鉛筆やキ
ーボードを使ってできる行為で、カラシニコフによる報復が正当化されるようなものなど1つ
もない。
フランス風刺画とイスラムの件にかんして、日本のSNSなんかの意見の多くは「テロは許されない、ルールを守れ」っていうんだけど、それってまったくテロってのを理解してないよね。
「許されない」ってのはルール(=法)で許されないっていう認識なんだけど、もうそこからして全然違う。ルールってのは、それに同意している参加者で共有されるものなんだよ。テロってのはそもそも「俺はそのルールに同意しない」ってところから始まってるんだから、もう全く違うんだ。
この記事は別にテロを擁護しようっていうのじゃない。おれもテロはいやだ。「許さない」。
でも「許さない」ってのは主体において拒絶し抗議の声を上げるってことだし、みんなそうすべきだと思う。「ルール違反をするな!」ってのは筋が悪い批判だ。
んで、この「主体において拒絶」ってのは、要するに、戦争だ。暴力だ。あいてはルールの違う共同体(これは国籍や住居とは無関係)の住民であり、こっちの法に従う義理はないんだから、「あなたは法を犯したから悪かったですよね?」っていうのは通用しないんだ。善悪とは全く関係ない。「俺たちに損害を与えたからお前らを暴力で滅ぼす」っていうだけのことなんだ。
そもそもイスラムってのは今の民主主義陣営からすれば小勢力だ。ざっくりした話、学校の教室の壁に特定イスラム生徒を小ばかにするように風刺を張っておいて、イスラム生徒が泣いて暴れだしたら「いじめじゃないよかわいがりだよ」「言論の自由だよ」とか言ってるような状況だ。でもここは教室じゃないし教師はいないし全員が統一ルールで暮らすという合意は得られてない。イスラムが切れて刃物を持ち出せば、周囲が寄ってたかって取り押さえるしそのついでに殴る蹴るの暴行を加えるのもいたしかたないのだ(要するに見せしめだね)。だってイスラムがおれらに危害を加えるのは、おれらにとって損害だからだ。それは当たり前だし、正しい判断だと思う。
しかしかといってそれを「奴が正しいルールを犯したから法が罰したのだ」というのは全く違う。
国家というのは、利益保護というのは、どうしようもなく野蛮で暴力的側面を持っているのだ。その暴力から目をそらして、幻想の善悪に逃げ込むのはよくないと思うんだよ。
こういうことを書くと「じゃあ人殺しは風刺よりましなのか?」とかいう意見がたくさんあるんだけど、まさにそれが「こっちの勝手な法意識」なんだ。その二つで「風刺のほうがまし」っていうルールを作ってるのはこっち(民主自由主義陣営)であって、世界全部がそれに唯々諾々と参加しなければいけないなんてルールはない。もしそんな現実があるならそれは暴力で全員を従わせている状態だ。
※追記4
書き始めた時点で存在している、返信が必要だと思ったブコメに対する返信
id:kusoinakakagoshima 卑怯なのはテロ行為なんですが。ムスリムの価値は豚の糞以下だよ 肥やしにもならない
はい、テロ行為はこれ以上ないほどに卑怯です。しかし、表現の自由を守るという文脈で私たちはシャルリーである、と言うのも卑劣な行為ですというのは増田を読めばお分かりいただけると思います。また、あなたの後半の発現はヘイトも同然な発言です。在日の価値は豚の糞以下と言っるのと同様です。つまり、シャルリーにように建前として宗教を批判しているのではなく、建前の時点で宗教を信じている人たちを直接的に攻撃しています。
id:sny22015 難しいな。米映画「ラリー・フリント」では目を背ける様な唾棄すべき表現であっても法の下では護られるべきという、自由を勝ち取って作られた国の理念が描かれていたが…それは自由の濫用だという非難にも首肯できる
アメリカは徹底した表現の自由の国です。あそこまでいくといっそすがすがしいなという思いがあります。ヨーロッパは、特にユダヤ人に対する抑圧の歴史から、第二次大戦後ヘイトスピーチを規制しようという機運が高まってきたので、事情はアメリカとは異なります。
id:vhthlh これフランス国内の一般人や知識人達はどう考えていたのか気になる。
フランス人の間でも前々から議論になっていました。イスラム系団体の中には裁判という言論によってカウンターを行うグループが出てきたりしていましたが、こうした流れのさなかに今回のテロ事件が起きました。恐らく今まで積み重ねてきた努力が水泡に帰してしまうことを考えると、本当にテロは許されざる行為だという思いを強くします。
id:hal9009 これに乗じてこういう統制主義者とでもいうべき規制派・自由嫌いがもっともっとヘイトスピーチとされる行為の範囲を拡大していかなければならないって言い始める機会も増えるだろうな~
表現の自由を維持するためには表現の自由をabuseする言論を一定程度は規制する必要があると考えています。
id:ayanapapa 針ネズミが腫れ物に当たったわけだからどうしようもない。ただ日本も無関係な話ではない、イスラム教徒は増えているが他の先進国と同じく疎外され殻に閉じこもる。近い将来フランスと同じ事が起こらないことを祈る。
id:cider_kondo 欧州極右の主張は「イスラムは非寛容で政教分離を認めない。西欧の価値の根源たる自由と寛容とは相容れぬ」ぐらい。セキュリティホールの一種で、イスラム側が世俗主義を導入しないと論理的解決はほぼ不可能。難しい
ブコメの字数制限があるため分かりかねるところがあるのですが、それはつまり「欧州極右の主張にも表れているように、イスラムに対して持っている問題意識はこれこれが最大にして唯一のものだが、これがセキュリティホールとなってしまっている。イスラム側がそうした問題点を解決しないと先には進めない」ということですか。つまり、イスラムの人々が社会的に疎外されてる云々というところに対する反応だということですね。しかしながら、日本における在日問題も見れば分かるように、二世、三世はほとんどその国の人間と文化的には同質です。そうした人間であっても、社会的に疎外されて、結局イスラム教にしかアイデンティティを見いだせなくなり、そしてイスラム教=私たちという図式になってしまうのです。イスラム教を否定されると、イスラム教しかすがるところがない人々にとっては、自身を否定されたも同然になります。なお、イスラム教はあなたどころか、欧州極右が考えているよりも案外柔軟な姿勢も持つ宗教です。イランのイメージを強く持ち過ぎです。バーレーンのような国では本当にイスラム教徒なのか、というくらいには緩い生活を送る人々が多くいます。
id:oktnzm シャルリーの風刺が表現の自由の枠外なら諸国の言っている表現の自由とは一体なにをさすのやらw一番守りやすいとこ守っても切り捨て行為にしかならんよ。
前者に関して、シャルリーの風刺はヘイトスピーチであるので、それを表現の自由から外すことに何が問題かよく分かりません。後半に関して、主張するところの意図が分かりかねますが、後半部は「一番守りやすい弱者であるイスラーム系移民を守ったとしてもそれは表現の自由の切り捨て行為にしかならない」ということでしょうか。でしたら、そもそも表現の自由の枠内に収まらないヘイトスピーチである以上、切り捨て行為ではないと思われます。
id:type-100 いや、正義の有無に関わらず与えられるところに、自由とか権利の価値はある。これが表現の自由に対する毀損と感じるのであれば、それはあなたが表現の自由よりも他の権利や価値観を優先しているだけの話だ。
与えられる、というか、侵害されないものとして、生まれつき保障されているというところに自由とか権利の価値があることは事実ですが、それを濫用することまでは種々の権利・自由は想定していないと考えています。つまり、他者の権利、即ち平穏無事に他者から毀損されることがないという権利を踏みにじってまで権利の濫用(ここではヘイトスピーチ)を行うことまでは許容されていないということは歴史が証明していることだと思います。なお、これは決して批判を行うことを否定している訳ではないことを付記しておきます。
id:nekora 如何なる歴史があろうと銃を乱射してはいかん。本邦国内に数十あるイスラム寺院にも本件についてどちらを支持するかの聞き取り調査と公表を急げ。
どうでもいいのですが、nekoraさんはもう同人活動を行われないのでしょうか。
id:masm これを見るに、テロは一定の成果を収めたのかな。糞言論であれ、10-0でテロリストが悪いって意思表示することは悪くないのでは?あと、「ヘイトスピーチ同然な言論」か否かを判断する十分なソースをまだ見てない。
はい、10-0でテロリストは悪いです。だからといって、あなたの言葉を借りたらヘイトスピーチも同然な糞言論も表現の自由の一環として保護することになる私たちはシャルリーである、というスローガンは非常に危ういものです。理由は既に述べてきたとおりです。
id:my_yours のっけから和訳を間違えている。
「We are 99%」に代表されるように、この手のスローガンは"私たち"という使い方をすることが多いので、Je suisではありますが、私たちと訳してしまいました。不適切なので、より原文に忠実に訳します。ご指摘ありがとうございます。
id:kappei 元記事の人もブコメで同調している人も、自由主義を理解してない。実はルソー、マルクスの系譜が日本では優勢な気がする。真理がある、と考える人たち。
すみません、何を言いたいのか、100文字という短すぎる制限では分かりかねるところがあります。申し訳ございません。
id:serio キリスト教徒が神だとしているイエス・キリストを、クルアーンで人間だと言明しているイスラームは、それ自体がヘイトスピーチなのではないか、と極論を言ってみたりする。
細かい話になってしまいますが、キリスト教徒はイエス・キリストを神である、とまでは言っていないと思うのでそのたとえの言わんとしているところが分かりません。
id:Mochimasa 『「テロ行為の是非」と「シャルリーによる風刺の是非」は全くの別物である』 それなら"Je suis charlie”は前者の文脈でテロの被害者として掲げられているのだから、後者の文脈でこれを批判するのはフェアではないのでは
それならいいのですが、表現の自由の一環としても利用されている、つまり後者の文脈でも利用されているのが問題なのです。つまり、その二つは別物なのに、スローガンにおいては前者の中に後者の視点も入れてしまっているのです。
id:homarara なんだそりゃ。誰かにとって辛い事は報道しちゃダメ、なんて縛りがあってたまるか。極論を掲載する新聞なればこそ、それを守る戦いが表現の自由を守る事になる。無難な事しか書かない新聞だけ守っても意味ないわ。
自身のアイデンティティを否定するようなヘイトスピーチは表現の自由の枠外であると考えています。「日本人は生まれながらの劣等民族であり、民族的に能無しで蛆虫で寄生虫で云々」というようなヘイトスピーチを載せる自由はどこにもないです。そして本件はイスラム教を自身のアイデンティティにせざるをえなかったにも関わらずそのイスラム教を批判されたために、先の日本人は民族的に云々と同等の効果をもたらしているのです。
id:hate_flag 苦しい生活を送っている移民が宗教に依存しているのでその宗教を批判したらテロられた、というだけのハナシじゃん。悪いのはテロであって宗教批判ではないよね。
はい、テロは圧倒的に悪いです。いや、完全にテロは悪い行為です。ですが、本件でJe suis charlieと掲げることはおかしな話なんです、というのが私の意図です。テロられたというだけの話ではありません。
id:rag_en 『「表現」の結果、とあるポジションが有利になるか不利になるかどうか』は、その「表現」の是非を決定付けません…で終了。表現規制の理由が「傷つく人が」云々な駄論の近似。「救済対象の選別」からの「聖域化」。
100字の文字制限があるからだと思うのですが、言わんとしていることが分かりかねます。申し訳ございません。
id:oldriver 思うに。(1)「テロリストにも三分の理」を全否定したい。つまり「この機にヘイトスピーチも糾弾しよう」というメッセージはNG。(2)言論の自由のコストを引き受ける覚悟表明。つまり、ヘイトは「我々」の問題である。
(1)も(2)もJe suis Charlieという標語の意図、ということですね。どちらも原理的には正しい態度ではあるように見えますが、その態度が本当に正しいものかどうかは非常に疑問なところがあるのですよ。元の増田で書きましたが、これは歴史や民族アイデンティティの問題も入った話です。そもそも、ヨーロッパではユダヤ教/ユダヤ人問題が大きなイシューになっていました。それを考えたときに、増田で書いたようなje suis charlieというスローガンの問題を掲げました。
id:sardine11 「あなたの言うことには何ひとつ賛成できないが、それを言う権利は死んでも守る」ことが言論の自由の意味であり近代社会の前提であるはず。たとえシャルリに嫌悪感を抱いても反テロ運動まで批判するのはどうなの?
反テロ運動を非難しているのではありません。反テロ運動の一環としての表現の自由の中にヘイトスピーチを行う団体名が入っていることを問題視しているのです。
id:ysync 暴力であるテロと言論であるヘイトスピーチを同じ「許してはならない」でくくるのはどうかと。テロは国家権力(暴力)で排除すべきものだが、ヘイトスピーチは批判すべき対象で暴力(国家権力)で排除すべきでない。
ヨーロッパにおけるユダヤ教/ユダヤ人問題が参考になると思います。
id:enemyoffreedom アレをヘイトスピーチとしてしまったらもう宗教の風刺・批判はできないような。不快で低質な表現こそを守れ、というのが表現の自由かな
宗教の風刺批判ではなく、その背後にいる、その宗教を唯一無二のアイデンティティとせざるを得ない、社会的に疎外された移民の人々に対するヘイトスピーチになっているということを増田では書きました。後者に関しては同意しますが、表現の自由は差別的・攻撃的・他者を毀損するまでの表現を認めていません。
id:shakespeareneverdidthis 例え在特会みたいな下衆であっても、報復として殺害されることがあってはならない。
それは全くもってその通りなのですが、表現の自由を守るという文脈も下地にあるスローガンに私は在特会である、というものを使うのはおかしいのではないのかという話です。
少し話が違うけれど、年末にネタのような話題があって、日本のケンタッキーフライドチキンのある店舗が、夏に、カーネルサンダースに浴衣を着せて、スイカを手に持たせていたのね。まあよくある風景です。
で、それをあるアメリカ人が取り上げて、日本人ってこんなにレイシストって喧伝してたの。
スイカと鶏肉って、アメリカ南部ではやっすい食材で、それしか食えないということで黒人を嘲笑するアイテムになってるんですよ。
まあこれは、アホかね、君、何で日本人がアメリカのローカルなステレオタイプを知っておかねばならんのよ、君の方がレイシストやろうという反応と結論になっていたんだけど、私が気になったのは、どうしてケンタッキーの一店舗がやったことが「日本人」とか「日本」になってしまうんだろうってことね。
こういう例は全然珍しくないですよ。触手ポルノに「また日本か」みたいな反応とかね。
例えば、レイディ・ガガとかが、奇抜な格好をしていても、主語は、レイディ・ガガになって、アメリカ人にはならないですよ。
思うに、マイノリティというのは、大きな主語を用いられる人たち、と捉えてもいいかもしれない。逆に言えば個々の事例に対して大きな主語を用いている時点でそれはレイシストであり、セクシストであると言っていいのかも知れない。
西欧の風刺は徹底していて、イスラムを馬鹿にしていてけしからんと言うと、彼らは必ず風刺は全方位にやってますよと答えるの。それがエクスキュースになってるのね。そして実際彼らは、カトリック教会も大統領も女王もイエスもこき下ろしている。
でもね、やっぱりカトリック教会をこきおろすこととイスラムをこきおろすことは、同じじゃないのですよ。
カトリック教会を批判することはカトリックを批判することであって、その辺のパリジャンのポール君は何ら関係ないのですよ。
でもイスラムをテロリストとして描くことは、移民のアフマド君にとっては直接自分たちへの偏見を増大させる効果を持つのですよ。
これはね、やっぱり西洋帝国主義の結果であって白人の特権なわけ。
ここの非相似に鈍感で、俺らは全部を風刺しているんだって思い込んでいる時点で、チャーリーな連中の考えの浅さ、リベラルがレイシストになってしまってるんだよね。
で、Je suis Charlie というスローガン、ものすごく気持ち悪い。
私にはそれが、私たちは特権を享受する側の白人だ、と言っているようにしか見えないから。
[追記]
元記事の人とは違って、私はテロだからいけない、とはそもそも考えていません。テロと呼ばれる暴力があり、テロとは呼ばれない暴力がある、そして良し悪しはあるにしても歴史は暴力によって動いてきました。
そもそもフランス共和国そのものがテロによって成立した国家です。言論の自由が抑圧装置としてしか機能しない時に、それに暴力的に対抗措置をとる者があらわれるのは力学的には当たり前の話です。正義不正義の問題ではありません。
mirunaさんのコメント、「で、それが産油国における世界三大宗教のひとつであるイスラム教に基づく多大な人権侵害の免罪になるわけ?」と言うのがフランスにおけるイスラム教徒の話でどうしてなされるのかまったく理解できません。これはまさしく、マイノリティのみにアカウンタビリティが求められる一例だと思います。
ご存知の方ならば常識でしょうがイスラムには宗教者は存在しません。存在するのはイスラム法学者であって多種多様な学説があり、絶対的な唯一神信仰から多神教的なスフィズムが生じたように、どのような神学も成立可能です。当然のことながらイスラム世界にはかなりの幅と多様性がありますが、サウジアラビアの「公学」は特に極端な厳格性を持つワッハーブ派です。せめて批判するのであれば、サウジアラビア政府、ワッハーブ派を批判してはどうでしょうか。
フランスのムスリムはその多くがアルジェリア移民であって、ジダンもそうですが、アルジェリア少数民族のベルベル人が多数を占めます。これは百年に及ぶフランスのアルジェリア植民地支配の結果であって、ベルベル人を原住民抑圧のための中間層として用いたために、アルジェリア独立後、報復を恐れてベルベル人がフランスに亡命したのがそもそもの発端です。宗教は事後的に影響力を持ったものです。
個人的な見解として、植民地の損失を清算していないフランスには、どのような移民であれ、移民を拒絶する権利はないと考えています。ケベックであれ、インドシナであれ、アルジェリアであれ、ニューカレドニアであれ、異民族の流入に恐怖したのはそれらの場所の原住民も同じことです。
[追記]
suna_kago 問題を西洋と東洋(白色人種と有色人種)に図式化し、後者は前者に対して何をしてもいいと考えているらしい。そのような態度こそが上記の二項対立を強化するのだけど。
この文章からどこをどう読めばそう曲解出来るか理解できません。普通に誹謗中傷の類であると思います。
目くじらをたてるような突込みではないと一般には捉えられるかも知れませんが、大半の人は、夏の時期の写真が年末に話題になったと捉えられることを、そもそも話の本筋ではない部分に「これは年末が夏の国のお話なのか。」と"エスプリ"をきかせる精神構造は、非常にチャーリー的で、見かけ以上に深刻な問題を孕んでいると思います。
yingze 追記部分に粘着気質の気持ち悪い部分が出てきてるなぁ。「植民地の損失を清算」でヤクザの誠意を見せろ手口でしょう。
誠意は見せる必要はありませんが補償と原状回復はなすのが基本です。損害賠償の基本ですが。ここが意識の上でも棚上げされていること自体が、西欧中心史観なんだということを指摘しています。ところで、粘着気質ってこんなにぱっと出されて共有されなければいけないほど自明的にいけないものなんでしょうか。yingzeさんのコメント自体は粘着気質のなせるわざではないのでしょうか。よくわかりません。
sardine11 マイノリティが言論の非対称性に圧殺されてるという指摘は同意したい。ただシャルリの間違いを認めるとしても、反テロ運動自体は間違ってないし犠牲者追悼という大きな意義を無視するのはアンフェアな議論だと思う
反テロ運動=チャーリー追悼ではないでしょう。チャーリーを一方的な犠牲者として描くことがアンフェアです。チャーリーのしたことはしたこととして、銃撃殺人はいけないよと言うならば、少なくともチャーリーをまったく不問に付すような追悼集会というような手段はとらないだろうと思います。私はこの追悼集会で流される感情と踏みにじる感情が、結果ではなくて次の抑圧の原因になると思っているので批判しているのです。それぞれに自己の加害者性を見つめることの方が重要でしょう。
続きを書きました。
まぁパッと見は、香港やマカオや台湾とたいして変わらないような気もしたのですが、「うへぇ…やっぱりここは中国本土だな!」と思うことがあったので、思いつくままに書いてみます。
X線検査でカバンの中の書籍(本)を目ざとく見つけられ「ちょっと本を見せろ」と。
すべて日本語の本(単行本やら文庫本やらガイドブックやら)だったですが、全部全ページパラパラめくってチェックされました。政治的に反中的な本とか雑誌だったら、没収されてたんでしょうかね。やっぱり言論の自由はないみたいです。
イミグレーション(入国審査)通過したあとの税関検査なんて、だいたいどこの国もテキトーな感じでフリーパス状態だったので、中国もやる気のない税関職員が突っ立ってるだけだろうと思って余裕ぶっこいていたので、びっくりしました。なまじ中国に関係のある本を持って行かなくて良かったです。
駅からタクシーに乗ろうとしたら、ほとんどのお客さんが真っ先に助手席に座ってんですよ、1人客なら助手席、2人客なら後部座席、3人以上なら前後座席って感じで。
運転手と客1人の状況で、前と後ろに別れて乗るのは気まずいからなんだろうか。いや、知らないもの人間同士で狭い車内で隣同士っていうのも気まずいような。
んでまぁ自分もローカル・ルールにしたがって、タクシーの助手席に座ってみたんですが、別に気まずくはなかったです。むしろ地図を見せながら目的地を説明するには、便利っちゃ便利。景色もよく見えるし。日本でやったら変人扱いでしょうけど。
ホテルの部屋でwifiにつながっても、googleにはつながりません。かなりイライラします。むしろ、これほどまでに無意識のうちにgoogleに依存していたのか思い知らされます。
【4.デポジットのお金は、まさに預けたお札がそのまま戻ってくる】
博物館で日本語オーディオガイドを借りたら、デポジット(保証金)100元だっていうんで、100元札渡したんですよ。そんで預り証をくれたんですが、係員のお姉さんが「この番号を確認して、OKならサインを」とかなんとか言ってきた。
4桁の番号が書いてあるんだけど、なんだかよくわからない。「なに?なんの番号?パスポート番号??」って聞いたら、なんと保証金の100元の”お札の番号 下4ケタ”だという。デポジットとして渡したお札の番号を確かめろと。
つまり、「保証金の100元はお返しします」じゃなくて「保証金の”100元札”はお返しします」というわけ。預かったお金を偽札にすり替える詐欺でも流行ったんだろうか。そうじゃなきゃお札の番号なんて普通気にしないぞ。
いや、日本があまりに安全で偽札犯罪が少ないからそうなだけで、外国じゃそこまで疑ってかかるのが普通なのかも?とちょっと自分の常識を疑ってみたり。
※追記:文中で人間違いを行うという致命的なミスを行ってしまいました。James Faronという方に触れていますが、正しくはFrantz Fanonです。当該箇所でも追記しております。混乱を招いたことをお詫び申し上げます。なお、お恥ずかしいことにJames Faronという名前も、正しくはJames Fearonです。彼もまた有名な政治学者です。
※追記3:最後にほんの少しだけ加筆。本件で真に掲げるべき標語について。
※追記4:ブコメに対する返信をトラバに追加。及びブコメで指摘された誤訳について修正。
※追記5:反応が非常に多いのですが、私の意図していることがあまり伝わっていないようなので、別エントリで行ったブコメへの返信の一部を載せます。また、追記3における本文での誤字も修正しました。ご指摘ありがとうございます。
フランスではJe suis charlie、和訳すると『私たちはシャルリー(・エブド)だ(追記4:私はシャルリー(・エブド)だ、が正しい訳です。Jeは一人称単数です。失礼いたしました。)』というスローガンが、あの凄惨なテロ事件以来掲げられている。
言うまでもなく、表現の自由を守るための決意を示すものであるが、果たしてこのスローガンは本当に正しいものなのだろうか。この増田では、出版社及びフランスにおけるイスラム教徒事情を軽く見た後、このスローガンの妥当性を考えていきたい。
今回の事件の舞台となったCharlie Hebdo(以下シャルリー)は、あらゆる権威に対して痛烈な風刺を行ってきた新聞社である。キリスト教はもちろん、政治家も政府もその風刺の対象であり、語弊を恐れずに言えば無政府主義・反権威主義をラディカルに突き詰めた、非常に極端な新聞社である。そもそもの母体はhara-kiriと呼ばれる名前がまたアレな新聞だったが、当時の大統領であるド・ゴールを風刺して、最終的には取り潰されたくらいには、徹底的なスタンスを貫いてきた人々である(ちなみに、どうでもいい情報だが今の名前はスヌーピーのチャーリーから来ている)。
ヨーロッパはそもそもイスラム教徒が多い。理由は実に簡単で、第二次大戦後の経済復興のために、大量の単純労働者を必要とした際に、イスラーム系移民が多く渡ってきたからだ。フランスのお隣のドイツはトルコから移民を受け入れ、フランスはかつての植民地であったアルジェリアを中心に移民を受け入れた。実はこの段階ですでに現代におけるイスラム系移民問題の種は芽吹いていた。
まず、ドイツは純粋に経済復興のためにトルコ系移民を受け入れていた。このことはトルコ政府との間で結ばれた雇用双務協定や、Gastarbeiter――和訳すればゲスト労働者――という単語にも表れている。結果的にはトルコ系移民は切り捨てることはできなかったが、少なくともドイツ政府はトルコ系移民に関して割り切って考えていた。選挙権の付与といった定住化につながる政策に関して恐ろしく消極的だったし、本国へ返そうという意思は逆にかなり強かった。逆に移民側も最初から、自分たちは望まれていないということも分かっていた。もちろん、だからこそのデモや権利を要求する運動などは起こったが、他方で移民の中でも自主的な集まりを作ったり、1970年代には支援団体も作られたし、トルコ本国もトルコ系移民への支援を後に行うようになった。また、コール政権以降、政府も重要な問題として認知するようになった。今でも衝突は絶えないが、フランスのように致命的な暴動は起きていない(今後起きることは否定できないが)。
一方のフランスの移民政策は、経済復興だけではなく、植民地政策の遺産という側面も有していた。イギリスの脱植民地政策及び戦後移民政策と比較すれば分かるが、お世辞にもフランスはよくやれたとは言えない。フランスは住居の確保を行う、あるいはフランス国民と同化させるための種々の政策などを見ると、一応の脱植民地化政策/移民を受け入れようとしていた、というように見えるが、他方で石油危機時には移民を切り捨てようとしたり、またフランス国民との同化を謳っていながら実際には移民は疎外化(James Faronによる論考はこうした矛盾を見事に描き切っていると考える※追記:James Faronではなく、Frantz Fanonです。大変申し訳ございません)されたりと、実体を見ればどうにも政策の焦点がぼやけていた。そもそもの、アルジェリア戦争を始めとした、ド・ゴール政権による一連の植民地関連政策を見ればその曖昧さはより分かるところである。
そうしたフランス社会において、移民は、はっきり言ってアイデンティティに関して隣国ドイツのトルコ系移民以上に大きな問題を有している。フランスの移民の大多数は底辺層であり、底辺層は大体移民である。そして移民のほとんどはイスラム教圏から来た人々であり、既に二世、三世になっている。フランス社会ではフランス人に同化させられるのに実際には同化されていないどころか異質な存在として見られるし、アルジェリアといった自らのルーツであるはずの国は、二世、三世にとってはあまりにも遠すぎる社会である。自らの居場所を見つけられない彼らが何にすがるかと言えば、それはもう彼らの宗教であるところのイスラム教しかない。そこにしか自らの居場所を見いだせないのである。
そんな中で自らの居場所であるイスラム教をバカにするような、それもヘイトスピーチ同然な言論を行うことが、どれほど彼・彼女たちにとっては辛いことか。確かに、シャルリーはイスラム教徒ではなく、イスラム教を風刺した。しかしながら、実体的には、ユダヤ教(ユダヤ教とユダヤ人はほぼ同一)を揶揄する、いや、ヘイトスピーチを行ってるも同然なのだ。イスラム教を風刺しているが、実際にはフランス社会の底辺層に多くいる、自らのアイデンティティをイスラム教でしか確立できない移民を、憎悪をもってペンで攻撃したにも等しいのである。
私は今回のテロは決して許されない行為であると考える。だが、だからといって、言論の自由を守ろう、という意味を下敷きにおいて「私たちはシャルリーである」と言うのはおかしいのではないか。
「テロ行為の是非」と「シャルリーによる風刺の是非」は全くの別物である。繰り返しになるが、テロは決して許してはならないが、同時に、特にヨーロッパにおいて、シャルリーのようなヘイトスピーチも決して許してはならない。
"Je suis charlie"は言論の自由をabuseする卑怯な標語である。
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※追記2
多くの反響を受けて驚いてる。なので、次のことを言うと多くの批判を浴びるだろうが、あえて言おう。
はっきり言って、今回の標語は、黒人に対してレイシストスピーチを行ったKKKがテロを受けたときに私たちはKKKだ、ユダヤ人に対してレイシストスピーチを行ったネオナチ団体がテロを受けたときに私たちはネオナチだ、そして、これも極端な話、在日に対してヘイトスピーチを繰り返し行ってる在特会がテロを受けたときに、私たちは在特会だ、と言ってるも同然な話なのだ。
表現の自由を守るための標語として、特にヨーロッパにおいて、これ以上ふさわしくないものはない。
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※追記3
https://twitter.com/aboujahjah/status/553169081424420864
I am not Charlie, I am Ahmed the dead cop. Charlie ridiculed my faith and culture and I died defending his right to do so. #JesuisAhmed
直訳すると、
「私はシャルリーではない、私は死んだ警察官であるAhmedだ。シャルリーは私の侵攻(※追記5:侵攻ではなく信仰です。失礼いたしました)と文化を嘲笑し、そして私(Ahmed)は彼のそれ(風刺)を行う権利を守るために死んだのだ。#JesuisAhmed」
これこそが表現の自由を守るために真に必要な標語である。一体全体どこの世界に表現の自由を守るという名目で私たちはKKKである、ネオナチである、在特会である、なんてことを言う人々がいるというのか。Je suis charlieはまさにそれを行ってしまった、最悪な標語でる。ヘイトスピーチを行う自由も、それもヨーロッパにおいて、表現の自由の一環として組み込んでしまっているのだ。卑劣意外の何物でもない。
ヘイトスピーチを行うという表現の自由ですら守ろうとし、そして死んだ人物(ここではAhmedという警察官)こそが、真に表現の自由を守るために働いた存在なのだ。
何度も言うが、私は今回のテロは一切是認できない。暴力によって物事を解決しようとする蛮行以外の何物でもないと考えてる。だが、だからといってシャルリーによるヘイトスピーチが免責されるわけでもない。そうしたヘイトスピーチを続けてきた団体の名称を冠して、表現の自由を守るということは、既に述べたように、表現の自由のabuseである。表現の自由を守るためにたたかった人物こそが、真に標語において活用されるべき存在なのだ。
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※追記4
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※追記5
トラバで行っているブコメへの返信の一部をこちらにも載せます。
id:cider_kondo 欧州極右の主張は「イスラムは非寛容で政教分離を認めない。西欧の価値の根源たる自由と寛容とは相容れぬ」ぐらい。セキュリティホールの一種で、イスラム側が世俗主義を導入しないと論理的解決はほぼ不可能。難しい
ブコメの字数制限があるため分かりかねるところがあるのですが、それはつまり「欧州極右の主張にも表れているように、イスラムに対して持っている問題意識はこれこれが最大にして唯一のものだが、これがセキュリティホールとなってしまっている。イスラム側がそうした問題点を解決しないと先には進めない」ということですか。つまり、イスラムの人々が社会的に疎外されてる云々というところに対する反応だということですね。しかしながら、日本における在日問題も見れば分かるように、二世、三世はほとんどその国の人間と文化的には同質です。そうした人間であっても、社会的に疎外されて、結局イスラム教にしかアイデンティティを見いだせなくなり、そしてイスラム教=私たちという図式になってしまうのです。イスラム教を否定されると、イスラム教しかすがるところがない人々にとっては、自身を否定されたも同然になります。
id:type-100 いや、正義の有無に関わらず与えられるところに、自由とか権利の価値はある。これが表現の自由に対する毀損と感じるのであれば、それはあなたが表現の自由よりも他の権利や価値観を優先しているだけの話だ。
与えられる、というか、侵害されないものとして、生まれつき保障されているというところに自由とか権利の価値があることは事実ですが、それを濫用することまでは種々の権利・自由は想定していないと考えています。つまり、他者の権利、即ち平穏無事に他者から毀損されることがないという権利を踏みにじってまで権利の濫用(ここではヘイトスピーチ)を行うことまでは許容されていないということは歴史が証明していることだと思います。なお、これは決して批判を行うことを否定している訳ではないことを付記しておきます。
id:Mochimasa 『「テロ行為の是非」と「シャルリーによる風刺の是非」は全くの別物である』 それなら"Je suis charlie”は前者の文脈でテロの被害者として掲げられているのだから、後者の文脈でこれを批判するのはフェアではないのでは
それならいいのですが、表現の自由の一環としても利用されている、つまり後者の文脈でも利用されているのが問題なのです。つまり、その二つは別物なのに、スローガンにおいては前者の中に後者の視点も入れてしまっているのです。
id:hate_flag 苦しい生活を送っている移民が宗教に依存しているのでその宗教を批判したらテロられた、というだけのハナシじゃん。悪いのはテロであって宗教批判ではないよね。
はい、完全にテロは悪い行為です。ですが、本件でJe suis charlieと掲げることはおかしな話なんです、というのが私の意図です。テロられたというだけの話ではありません。
id:sardine11 「あなたの言うことには何ひとつ賛成できないが、それを言う権利は死んでも守る」ことが言論の自由の意味であり近代社会の前提であるはず。たとえシャルリに嫌悪感を抱いても反テロ運動まで批判するのはどうなの?
反テロ運動を非難しているのではありません。反テロ運動の一環としての表現の自由の中にヘイトスピーチを行ってきた団体名が入っていることを問題視しているのです。
id:enemyoffreedom アレをヘイトスピーチとしてしまったらもう宗教の風刺・批判はできないような。不快で低質な表現こそを守れ、というのが表現の自由かな
宗教の風刺批判ではなく、その背後にいる、その宗教を唯一無二のアイデンティティとせざるを得ない、社会的に疎外された移民の人々に対するヘイトスピーチになっているということを増田では書きました。後者に関しては同意しますが、表現の自由は差別的・攻撃的・他者を毀損するまでの表現を認めていません。
id:shakespeareneverdidthis 例え在特会みたいな下衆であっても、報復として殺害されることがあってはならない。
それは全くもってその通りなのですが、表現の自由を守るという文脈も下地にあるスローガンに私は在特会である、というものを使うのはおかしいのではないのかという話です。
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もう読んでいる人がいるかどうかわからないですが、帰宅してさらに増えていたブコメや種々の反応を読んで、色々と思うところがあったので、もう返信はいたしません。本当は標語の下敷きとなったwe are all khaled saidも含めた補足記事を書こうと思っていましたが、こちらも止めました。
私自身の力不足を痛感しましたが、それ以上に、皆様の貴重な時間を浪費させてしまったことを本当に申し訳なく思います。ここで深くお詫び申し上げます。