はてなキーワード: チンチョンとは
某ヨーロッパの国での駐在+旅行好きのため色んな国を回った経験あり。
Twitterで話題になってた、アジア人が「ニーハオ」って言われるのは差別?っていうやつ
「差別じゃないよ。ニーハオって言われて嫌なのはそれが差別でしょ?」みたいな人がまだいてびっくりした。たぶん「あの感じ」を体験したことがない、もしくはクッッッソ鈍いか白人様からのお言葉ならなんでも喜ぶ人なんだと思う。
「ニーハオ☺️(にこやか)(さわやか)」みたいな感じだと思うのよ
自分も「コンニチハ」って話しかけられて、日本語勉強してるんです、もし嫌じゃなかったらお話ししませんか?って言われて一緒に旅するみたいなあったかい思い出もある。
でもほとんどはさ
「ニーハオ🤪🤪🤪www(チンチョンチャンwww)(アジア人www)(ファーwww)(ニヤニヤニヤwwww)」って感じなのよ
もう全然違う 悪意10000000000000%
「被害妄想だ」って言う人は
日本人が浅黒い肌の外国人にわざわざ近づいたり遠くから笑いながら「ナマステwwナマステwww🥴🥴カレーwwwwwwナンwwwww」って言うのを想像してほしい
シンプルに異常じゃない?
なんか「あの感じ」がよく伝わるビデオとかあったらいいのにな…と思う
というか、「自分は差別を受けるはずがない、差別をする人なんてそんなにいない」と思ってる人ほどマジの差別を受けた時どうしようもなく絶望しそうだから心配になる
「アジア人差別」をしたフランス人が「差別じゃない」と本気で否定する理由
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/85321
これを読んで、海外の人間があれは差別じゃないという主張は、認めはしないが言わんことは分らんでもないと感じた。
私自身も海外に長く住んでいるが、アジア人を「チャイニーズ」と呼ぶことを彼らは全く差別だと思ってない。
あまりにも失礼な場合は「日本人だよ、君は教養がないんだね」と言い返してた。
バッハがチャイニーズと言い間違えた時は、やっぱり共産党が大事なんだろうとか
ただの言い間違えと捉えた人は多かっただろう。
国によって違うが アジア人 = チャイニーズと思ってる人は死ぬほどいる。
何度も何度もそういう場面に遭遇して、いつしか嫌悪感を抱くようになった。
もう一つは中国人を見下した私の考えだった。
我々日本人とあの中国人を一緒にするなという気持ちが怒りの根底だった。
それがチャイニーズではなく、「アメリカン!」や「モンゴリアン!」なら笑って否定できただろう。
一般的な日本人は中国の方への偏見や差別に対して無頓着すぎる節がある。
ポリコレ全盛期にも関らず、いまだにテレビで中国の人の喋り方を模写して馬鹿にした芸が見ることができる。
中川家の芸と外国人がする「チンチョンチャン」に何の違いがあるだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20150111070135
を書いたものです。
mahomi4 全く的はずれすぎ。
というコメントがありまして、この人の見る当を得た見解ってのはどういうものなんだろうとブックマークをたどったところ、
http://blog.goo.ne.jp/iida-miki/e/0d68f604177d2bdeb387e20a5dc9afb0
という記事にたどり着きました。扱っている事実が同じなのに見解が正反対というのもなかなか面白いのですが、少々以上に気持ち悪いと感じたのも事実です。
その気持ち悪さを説明するのも手間がかかるのですが、やってみますと、
親がどの国出身でどんな宗教を持っていようがフランス国民として
平等に生きていけることになっている。とはいえ本当に違いがないか、
うまくいけば(理念上は)素晴らしいけど、そんなに簡単に
あり、地区ごとに生活環境もかなり違うので、移民の子として生まれ、
(今朝のLe Mondeにはシャルリーの絵に対して今でも怒っている
アンテグラシオンやライシテの実態について、その限界を認識しながらもルソーまでひもといて、全体的にはフランス万歳!とまとめている点です。ベルばらのオスカルでしょうか。
私がすごく気持ち悪いと言うのは、こういうことをフランス人が言うならまだわかるのです。マジョリティの側にはどうしても見えてこないものというものがあります。それは善悪の問題ではなくて立場の問題です。
有働出人みたいな人がそうでしょう。まあ、あの人の活動はそれなりに有意義な部分がありますが、あの人に代表されるような白人マイノリティは、有色人種の国、それも支配階級にはならない日本や韓国に来て、初めてマイノリティ性というものを味わうことになります。そうすると見るものさわるものすべてが刺々しく感じられる。
アメリカにいる時は警察官が黒人を狙い撃ちにしてもあまり気にもしていなかったような人が、職務質問を日本の警察官にされると激怒する。年間何十人と言うレベルで何とかバッシングで死者が出ているオーストラリアから来た人が、じろじろ見られるくらいで韓国はレイシストと騒ぎ立てる。
こういうことは日本では私たちがマジョリティだから言われて初めて気づくという面もあります。言われてもただ反発するだけということもあります。自らがマイノリティとなった時に、マジョリティである時の視線・態度をかえりみるにまでなれればいいのですが、残念ながら、女性に暴力を振るう黒人男性、同性愛者を差別する女性は珍しくありません。
そしてそれを更にマジョリティの側が、見ろ見ろ、連中はこんなに野蛮だぞとはやしたてる。
あるドイツ人と話していた時、我が国は民主的でリベラルで、世界に冠たる我がドイツ、みたいな話になって笑ってしまったのですが、まあそれはその人個人の話なので、ドイツ人って全然変わっていないよねとは言わないでおきましょう。ただその人には人種差別はどこにでもあるけれど、東洋人がしつこくチンチョンチャンとまとわりつかれる国はドイツ以外ではそんなにはない、年間百人以上ヘイトクライムで殺されている国はそんなにはないということは「見えていない」のですね。
リベラルであると言うことが、他者を見下すこと、見ろ見ろ連中はこんなに野蛮だぞってなることが、リベラルがそのためのエクスキュースになることがあるのです。
リンク先の記事の何が気持ち悪いかと言えば、日本人で、パリに住んでいて、未だにシャルリー・エブドに怒っている中学生は新聞の記事でしか見たことがなくて、見えないゲットーに守られていてマジョリティのような顔をしている、それがすごく気持ち悪いのです。
国民戦線のルペンだって、アンテグラシオンは同化政策と言う意味で、ライシテはイスラムを強制的に同化せしめると言う意味で大賛成なのですからね。
歴史をひも解いて言うならば、フランス革命以後、フランスは確かにリベラルな原則を打ち立て、それを徹底してきた歴史があります。公平を期して言うならば、第一次世界大戦後、日本が列強に要求した人種平等の原則に英国とアメリカは反対しましたがフランスは賛成したと言うことも付け加えておきましょう。
しかし同時に、そのリベラルでライシテな共和国下においても、フランスもまた数々の非道をなしてきたことは忘れてはなりません。
フランスでは支配層の横の流動性が高く、文化人、メディア関係者が政界に横滑りすることも珍しくはありません。新聞人であったクレマンソーが第一次大戦期のフランスの首相であったように、エリート層は全体として支配階級を形成しています。ポール・デュシャンは二十世紀半ばのジャーナリストで、第四共和政期にアルジェリア行政官に就任して、監獄を視察しています。その時、アルジェ独立派の囚人たちの身体に、拷問の後があるのを見て首都に報告しています。その拷問の傷跡は、デュシャン自身の身体にもありました。ナチスに捕らわれていた時に拷問された跡です。
パリ解放の日の記録をサルトルが書き残しています。ルクレール将軍に率いられた自由フランス軍の入城をもってしてナチスのパリ占領は終わりを告げて、自由だ!自由だ!というはじけるような喜びを書いています。そうして成立した自由なフランス、ライシテなフランスの下でアルジェリアでは拷問が行われていたのです。
インドシナでのフランスの動きも決してほめられるようなものではありませんでした。フランス当局もいちまいかんで行われた人身売買はナチスから解放された人たちの手によってなされたものですし、フランスはインドシナ独立を抑えるため、アメリカに対して原爆の使用を執拗に求めています。これも、自由なるフランス、言論の自由なフランスの体制下でなされたことです。
私はいちいちフランスの過去の悪行をあげつらって、批判したいのではありません。フランスのリベラルな諸制度も国家制度の補完部分であるにすぎず、国家制度そのものを、相対化して批判するようにはなっていないということを言っているのです。フランスの内部にいるシャルリー・エブドは水の中にいるため水の重さを知りません。自分がネジであるに過ぎないことを理解できていないのです。それは結局、彼の中にマイノリティ性がないからであってマジョリティ側の暴力について無自覚であったからです。能力の問題ではありません。性格の問題です。
批判と言うものは嘲笑や侮辱にならぬよう、あるいはそうなっても構わないのは権力の側に対してのみ、その注意深さが必要です。風刺画というメディアは明らかに全方位になす批判の方法にはむいていません。