はてなキーワード: 大義名分とは
各章が独立していた内容なので、どこから読んでくれてもかまいません。
要するに、今回の件の批判者の主張は「少年誌にふさわしくない」と「このような構造の表現は好ましくない」の2点に大別できます。そしてこれへの真っ当な反応としては表現媒体や販売場所の適不適に関する議論か、どこまでの表現なら現状の媒体で可能かといった議論しかありえません。
性被害を肯定的に描いているのは、たしかに問題表現です。しかし、それを少年漫画に載せるのが不適格なのかと言うと、簡単な話ではありません。
例えば正義のために暴力をふるうアンパンマンも、私刑を肯定的に描いたという意味では問題表現だと言えます。また、サザエさんでは家事育児が女性の仕事とされていますから、これも女性差別を肯定していると解釈することができます。こうなると、あらゆる漫画に問題表現を見出すことが可能であって、どこで線引きをすればいいかは難しいです。
そもそも少年ジャンプに載せたらダメなのか、巻頭カラーで載せたからダメなのか、それとももっと読者層の年齢が高めの漫画雑誌に載せることもダメなのか。ジャンプ編集部に判断を迫るのではなく、批判者たちも責任を持ってその提案をすることが望ましいです。
それに、出版社に対して自主規制を求める活動というのは、仮に権力者ではなく私人がやっていることだとしても、一歩まちがえると危険を伴います。
例えば「LGBTは不快だから表に出てくるな」「反戦漫画を子供に読ませるな」という"批判"をしている人たちだっているでしょう。かつて性描写や暴力表現を潰そうとしていたPTAも今回の騒動とおなじ手法で、やたら大声で騒ぎ立てて世論をかきたてたり、出版社に要望を出してその世論を忖度させるという手口だったんじゃないですか。昔のことはよく知りませんけどね。そして、これが公権力と結託すると恐ろしいことになります。
自主規制の是非については、あくまでもケース・バイ・ケースですが、「世論に押されて自主規制に追いこまれるのも表現規制の一形態だ」という理解は持っておくべきだと思います。
つぎに二点目の「このような構造の表現は好ましくない」という批判ですが、これは非常に厄介です。かりに『ゆらぎ荘の幽奈さん』を年齢層が高めの雑誌に移籍させたとしても、この批判を免れることはできません。
このブログ主さんは触れていませんが、「このような構造の表現は好ましくない」というのは単に論評をしただけではなく、「好ましくないからゾーニングしろ」「好ましくないから内容を変えろ」という含意があることも多いです。
オタクは規制されそうになったり、ゾーニングを求められたりして、いつもピリピリしているんです。だから、作品名を名指しされてそんな批判を浴びせられると、オタク側が過敏に反応してしまうのは仕方ない気がします。
また、批判者は作品内容を論評するにとどまりません。「こんな好ましくない表現のある漫画を作ったり消費している奴らはクズだ」という侮辱をされることもあります。
オタクはこの侮辱に対して、どのように応答すればいいのでしょうか? 頭を下げて、「この漫画は性被害を肯定的に描いた作品です。こんなものを楽しんでいる私たちは罪悪な人間です」という懺悔をおこなえばよいのでしょうか? さすがにこの対応を求められるのは屈辱的だし、ハラスメントではないかと言いたくなります。
もちろん批判に応答する義務はないですから、黙殺しておくのが一番だと思いますけど、それはそれで「オタクは社会的責任を果たしていない」という攻撃材料を作ってしまいそうです。
(ところで、『ゆらぎ荘の幽奈さん』の件とは異なりますが、成人指定がかかっているエロマンガに対しても、「このような構造の表現は好ましくない」という批判をすることが可能です。しかし、その批判を名指しでやることは、嫌がらせ以上の意味があるのでしょうか。製作者側も好ましくないと思ったから成人指定にしているわけですし、仮にその批判を向けられたせいで炎上案件になってしまったら困ります。)
また規制を進めようとしているのはフェミニストではありません。第一日本国内のフェミニストはそこまでの政治権力を持ち得ていません。日本において議会の多数派はほとんどの場合右派(というか極右)が占めており、規制も彼らの手によるものです。
もしフェミニストが規制を進める権力がないのだとすれば、オタク側はフェミニストからの批判に耳を傾ける必要がなくなります。権力のない者からいくら批判を受けたとしても、こちらは黙殺か冷笑をしておけばいいんです。
ただし実際には、自民党が表現規制をおこなおうとするとき、リベラルやフェミニスト等の左派勢力がそれに加担・黙認する恐れがあります。こうなってしまうと、民進党、社民党、共産党がいくら反対をしたくとも、その足場が揺らいでしまいます。
オタクは普段、左派勢力からの批判をちょっとはまじめに聞き入れておかないと、いざというとき彼らに助けてもらえなくなるのです。
リベラルやフェミニストは、オタクが自分たちの批判を聞き入れようとしなかったり、自民党や山田太郎を支持している姿を見ると、激怒するでしょう。そうなると次は報復感情が芽生え、批判を押し通すために権力を頼ろうとするのが当然のなりゆきです。
その意味でリベラルやフェミニストは、自民党や右派勢力ほどではないですが、オタクにとって油断ならない存在です。
もっとも、オタクが彼らの批判を聞いたところで、批判は次から次へと出てくるし、あげくのはてに土壇場で裏切られる可能性があります。
自民党が表現規制をやるとすれば、その大義名分は、「性暴力を肯定している漫画はけしからん!」「こういう漫画が流通しているのは女性差別だ」というものになるでしょう。左派政党はともかくとして、その支持者たちがこの問題で自民党に加担するのは、けっこう容易に想定できる事態だと思います。
例えば自民党が、「少年誌から不健全な性表現(=女性蔑視を促すもの)を追放する」という法案を出したとすると、それは今回の騒動でジャンプ編集部に自主規制を求める人たちの目的と合致するものです。このとき、リベラルやフェミニストが「自主規制には賛成だが法規制には反対だ」という峻別をする人ばかりだとは限りません。
あーね、あとは、「リベラルがオタクの支持を集めそこねたのは、リベラルがクソすぎる責任もあるのに、その反省はないのか」とか、「"表現の自由戦士"みたいなオタク像ばかりを見ていて、このブログ主の現状認識もおかしいんじゃね?」とか、いろいろ言いたいことはあるけれど、そこは私もろくに把握できていないので語るのはやめておきます。
このブログ主は、『ゆらぎ荘の幽奈さん』が批判されているのはエロだからではないと言っていますが、それは違います。
絵としてエロいものだからこそ、我々の感情をゆさぶり、批判のやり玉に上がっているのです。その証拠に、私刑の暴力を肯定している『ジョジョの奇妙な冒険』等は、エロくないから批判のやり玉にあがりません。
今回のような批判が起こっているのは、この漫画の絵がエロく見えるからに他なりません。
もし視覚的には欲情を誘わない絵柄とか、エロくは見えない描写方法を採用していれば、女性蔑視・性被害うんぬんという指摘があったとしても、それが大勢の人たちを巻きこむ炎上案件にならなかった可能性が高いです。
今回の件で、はてなやTwitterのリベラルは「エロは問題ない」と繰り返していました。
しかし、私はそう思いません。
リベラルが褒め称えるような"エロ"ならば、それをどんどん子供に見せてよいですか? それを公衆に向けて掲示することは、ポリコレに沿っていると言えますか?
そんなはずがありません。どれだけ適切に描こうとも、やはりエロはゾーニングの対象にするべきです。
ところで、欧米の基準に従えば、二次元と三次元を区別せず、「児童の水着姿をエロティックに描くことは児童ポルノだ」という論を立てられると思います。
今日の日本のリベラルやフェミニストはまだこの基準を採用していないようですが、萌えキャラは童顔ばかりだし、それが水着姿になっている漫画はアウトだという意見が主流になる日が来るかもしれないですね。
女性が性被害を受けることをを肯定的にかいたというのは、じつは問題の本質ではありません。
例えば『ゆらぎ荘の幽奈さん』で、胸を強くさわられた女子が痛がっていたり、そのことで心が傷ついたシーンが描かれていれば、何も問題はなかったということでしょうか。
そういえば、この前に炎上していたクジラックスの漫画について、リベラルやフェミニストがどう思っているのかを知りたいです。
あの漫画はポルノとしては珍しく、レイプを正当化できない悪として描ききっていました。つまり、「レイプは被害者を傷つける暴力だ」「レイプをやる奴は卑劣な犯罪者だ」という認識を貫徹していたのです。
作中での性暴力の取り扱いが肯定的か否定的かということだけに注目していると、レイプ=悪という認識を徹底させたこの漫画が一周まわって健全だということになってしまいます。
これは私見になりますが、萌えという欲情を誘う絵柄で描いた漫画である以上、性被害は抜きどころです。
ストーリー上でいくら否定的なものとして描いていたとしても、それは性的消費の対象となります。
女キャラが性被害を受けているとき、その肉体が露出していると、男性読者はそれを見ながら欲情してオナニーするのです。
胸や性器の露出がなくても、その瞬間の女キャラの顔の表情を見るだけで、男性読者はきっとオナニーすることができるはずです。女キャラが恥じらいの表情ではなく、嫌がっている表情を浮かべているとしても、それはそれで抜けます。
これではどうやっても、「女キャラが性被害を受けている場面を男性読者が娯楽的に消費する」という構図を脱することができません。
この構図をなくしたい場合、萌え系の絵柄の漫画では、性暴力・性被害を作中で取り扱うことをやめるのが一番です。
また、該当箇所の絵を省略して、そういうことは文字で伝えるという方法もあるかもしれません。(しかし男性読者は、作中では省略された性被害の場面を勝手に妄想するし、あるいは性被害をうけた女性という属性に興奮し、それをオカズにしてオナニーすることができるでしょう。)
フェミニストが彼らの言うところのエロを批判するのは、主に女性の軽視、蔑視、搾取、モノ化といったことを肯定し助長すると認識しているからです。フェミニストがエロを憎んでいるように彼らに見えるのは、彼らの認識するエロが女性を独立した人物としてみなさないものであるからです。その前提をクリアするのであれば、むしろ女性の独立の証として肯定するフェミニストも大勢います。
この指摘は、いちいちもっともな話だと思うんですが、「そんな批判をされても知らんがな」という反発をしたくなります。
フェミニストが女性の独立の証として肯定するエロとは、どれだけ素晴らしいものでしょうか? "女性の軽視、蔑視、搾取、モノ化"を解消したとしても、今度は女性が男性に向かってそれをやり返すだけです。
例えば女性が自分の好みで男性を自由に選ぶということ、それは女性の権利です。しかし、その権利を行使するときの女性は、きわめて動物的な性欲を発揮しています。金、地位、容姿、安定感、人格、優しさ、そこには微塵もポリコレなどというものは存在しません。
パートナーに人格や優しさを求めるのは人間的な営みだと言われそうですが、じつは全然そうではありません。女性が恋愛において男性に求める人格や優しさとは、それはそれですごく動物的なものです。まるで獣のメスのようにオスを選別しているのです。女性が恋愛やセックスで感じる幸福も、すべてはこの獣性に支えられています。
いずれにせよ女の性欲も、男と変わらず獣のそれと同然なのであって、どこまでいっても身勝手で汚らわしいものなんです。性欲は、社会正義を求める意志とは根本的に矛盾しています。
こうなると結局、エロの正しいあり方というのは分からなくなります。表現物において女性キャラクターの主体性を重視すればポリコレに適するかといえば、すでに述べたとおり、決してそうではありません。
一つ言えることは、お行儀のよいエロ表現なんか絶対に楽しくないってことです。
人権や平等という正しい理念を詰めこんだエロ表現があるとすれば、おそらく私はそれを(ポルノ的な意味では)評価できないし、その偽善には吐き気を催すほどの不快感に見舞われるでしょう。私にとってのエロとは、どこまでいっても女性蔑視や暴力性と切り離せないものです。
お行儀のよいエロは、ジャンプを読んでいる子供にもウケが悪そうです。子供は不謹慎なもの、下劣なものが好きなのだし、性描写もそっちの方向でなければ楽しく受容されないでしょう。エロが野蛮さと結合してこそ楽しめるという子供の感性は、なまじそれを否認してみせる大人より正鵠を射ています。この感性のあり方は否認せず、内心の自由として尊重し、一方でこの野蛮さを制御する文明的な理念について子供に啓発することができるならば、多分それが最適解だと思います。
少年誌といえども、子供はその本を自発的に選んで買っているわけです。これを「少年誌にふさわしくない」と批判して自主規制に追いこむのは、子供の権利を奪っているのではないかという疑念があります。
これはゾーニングにおける根本的な問題ですが、「子供の目に入らないように大人が配慮する」と、「子供が自発的に見ようとしているものを大人が妨害する」を混同してはダメじゃないかと私は考えています。この配慮と妨害は重なる部分がありますが、前者が積極的におこなうべきものであるのに対して、後者は抑制的におこなうべきものでしょう。
今回は巻頭カラーだから目立っていて、その点は大人が配慮をせずに子供に見せつけたと言えるかもしれません。しかし、子供はこの雑誌が以前からこういう作風の漫画を連載したものだと知ったうえで購入しているのですよね? それがあくまでも子供の主体性の発揮だということは、議論の際にもっと考慮に入れるべきだと思うのです。
(なお、確か少年ジャンプの読者層は高校生~成人が大半、残りは中学生だったりするので、小学生の10歳以下となると、ほとんど読んでいないはずです。それを一律に"子供"扱いすることには違和感があります。)
自由を今以上に広げるためには、その原資を増やさないとどうにもならない
保育園作るにもシングルマザーの支援とやらをやるにも、とにかく金がかかる
なのに経済成長諦めちゃったら、すでにあるとこから持ってくるしかなくなるだろう
(フェミニズムもこの罠にハマってる気がする、コストは男に払ってもらうという考えしかない)
そうなるとどんな理屈ももはや山賊の思想、単なる略奪の大義名分にしかならない
これまでが既得権益だったとか言うんじゃねえぞ、それじゃポピュリズムと何が違うんだよ
保守はこの点セコくて、うるせえ知るか今あるもので我慢しろ、と割と堂々と言える
でもリベラルがそれを言えるか?
セクハラ不祥事のJリーグ幹部はなぜ解任ではなく辞任なのか | ゲキサカ
この記事によると、Jリーグ内のホットラインでパワハラとセクハラの通報があり、それをきっかけにしてリーグ幹部が辞任に追い込まれたという。
内部告発者がほとんど保護されず、通報した人が不利益を被ることがデフォルトの日本企業では珍しくホワイトな部類と言える。
日本企業では昨今コンプラ云々でハラスメントの通報制度や対応組織を設けるところが大半になったが、その大義名分となっている「ハラスメントから社員を守る」ことが出来ている事例は極小だ。
自分が知っているだけでも、「匿名通報したはずなのに、通報者が誰であるかハラスメント実施者に通達される」「ハラスメント通報したことが部署にばれて所在が無くなり、退職に追い込まれる」「逆に脅される」「一時期はハラスメントしてた人が左遷されてたが、わずか2年後に役員に昇格した。通報者はその間に退職」といった感じで、ちっともハラスメント実施者が罰せられていない。通報者が逆に罰せられるケースばっかりだ。内部通報するような不満分子を予め摘み取っておくリスクマネジメントツールにしかなっていない。
だから新日鉄ソリューションズの元契約社員は裁判に訴えたわけだし、豊田真由子議員の元秘書は週刊誌にハラスメントネタを垂れ込んだ。
昨今「批判」の是非について諸々話題になっているようだけれど、
正直、「批判」や「議論」という大義名分に驕って、単なる攻撃を正当化している「エセ批判」が蔓延しているイメージはある。
それが顕著なのが(これらを同列に扱って良いものか正直悩むけど)政治やゲハ(ゲームハード)の話題。
「自分は論理的正当性に立脚しているが、相手は盲目的な信仰心に立脚しているだけ」
と互いに互いを認識しており、自分と意見が異なる相手を「信者」「キ○ガイ」などと平然と罵っている光景を目にすることが多い。
二言目には「いや、だってあっちの方が酷いから(自分の罵倒はそう問題じゃない)」。
「政治に無関心な人が多い」なんて言葉は政治に熱心な人からしばしば耳にするけれど、
私の周囲には「政治に無関心」というより「政治に熱心な人と関わりたくない」という人の方が多かったんじゃないかと思う。
というのも、政治に熱心な人は「その人の信仰する思想以外には攻撃的な“信者”」である“確率”が高いから。
勿論それらは単なるノイジーマイノリティーだとは思うのだけれど、表に露出するのはそういう人ばかりだから尚更そういう心象が強くなってしまう。
それ故に、「政治離れ」の原因は「政治に熱心な人」にドン引きしているから…ってケースは割とあると思う。
それが神であれ思想であれ、信じる(疑わない)のが宗教で疑うのが哲学。
理屈と膏薬はどこへでもつくけれど、それは信仰も例外ではなく、理屈が伴うことはなんら自身の思想の正当性を保障しない。
アメリカの大統領選挙での応酬を見てても思ったけれど、これが現代版の、当事者達には宗教の自覚が伴わない宗教戦争なのかなと思う光景は結構多い。
そして他者への攻撃を「聖戦」と正当化するように、他者への単なる罵倒が「議論」や「批判」と自己正当化されているケースも多いと思う。
「9条があるから他国から攻められない」ってのはないだろう、攻めてくる可能性は当然ある
攻めてきたら自衛するのは当たり前、9条もそれは否定してないって事にしている
解釈改憲で自衛隊が現状あるのに、リアルに改正する必要性がまずない
戦争になったら、9条があろうがなかろうが攻められたら自衛するのは当たり前
そこでだ、じゃあ9条をどう扱うかだ
これが今、破棄されるとなると、当然攻めてくる可能性がある国にとっては非常に都合がいい
なんせ日本は他国を先制攻撃できる権利を得るわけだ、実際しないとしても
それは攻めてくる可能性がある国に大義名分を与える事になりかねない
なぜ、普通の国と同じ状況になっただけなのに相手に大義名分が生まれる可能性があるのか
それは日本が第二次世界大戦の敗戦国であるという否定しようがない事実があるからである
戦勝国にとっては、敗戦国が戦争の元凶であると考えるのは当然だろう
国会ウォッチャーには全く興味は無いけど、あなたの取り巻きの自称嫌儲代表が本当にうざかったんでついでに引き取ってください
http://anond.hatelabo.jp/20170417020041
嫌儲民は安倍昭恵とけものフレンズのサーバルが同類だと見抜いてる
この辺から増田に投稿を始めたようだが誰にも触れられず騒いでいるだけだったのだが
http://anond.hatelabo.jp/20170427152828
[国会ウォッチャー]やはりけものフレンズはネトウヨアニメか?
[国会ウォッチャー][アベアニメ]けものフレンズ、向島警察署とコラボ
なぜか国会ウォッチャー=同類のけもフレアンチだと脳内で勝手に結びつける。頭おかしい…?
[国会ウォッチャー][アベアニメ]なぜ荒らしは淫夢コピペで荒らしたのか?
http://anond.hatelabo.jp/20170524192601
http://anond.hatelabo.jp/20170525193231
http://anond.hatelabo.jp/20170525185409
http://anond.hatelabo.jp/20170603025019
http://anond.hatelabo.jp/20170601125728
国会ウォッチャーを大義名分にしてトラバで大暴れ。勝手に引き合いに出されて大変でしたね
http://anond.hatelabo.jp/20170605185724
http://anond.hatelabo.jp/20170608020606
なぜか月がきれいもネトウヨアニメに。あまりに意味不明な内容でホットエントリ入りする快挙。
次は大好きな国会ウォッチャーさんも月がきれいに否定的だ!と言い始めるんだろうか?
ヒップホップ愛に満ちた怪文書。知識不足、見当違いは自分だと分かっていないらしい
「国会ウォッチャー けものフレンズ」で検索した結果だけ貼ってみたが氷山の一角。
国会ウォッチャーが消えてこいつが消えるという保証は無い。むしろこいつ追うと初投稿は国会ウォッチャーよりやや早い。
それでも国会ウォッチャーへのトラバが消えて多少は目にする機会が減るだろうと思う。引退おめでとうございます。これからは嫌儲板で頑張ってください!
朝ラッシュの終わりかけで、ちらほら立っている人がいるくらいの混み具合。
私は車両の中ほど座席の前に、隣に70歳くらいのおばさんがいる形で立っていた。
都心の駅で停車するうちに私の真ん前に座っていた人が降車。私は特に座る必要もないので立っていた。
すると、隣のおばさんが、私に対して腕を斜め下に出して、どうぞ、といったような素振りをする。
もともと座る意図もないので、どう反応していいのかもわからずそのままにしていたら、おばさんが席に座った。
といった出来事なんだが、いったいこのおばさんは何がしたかったのだろうと思った。
おばさんがもともと座りたかったのなら、私が立っている段階でそのまま座ればいいと思うし、丁寧にしたいのなら、私に声をかけて座ればいい。
もし、私が席をすすめる素振りに反応して座ったら、特に障害者でもない人に年長者が席をすすめるというよくわからないシチュエーションになる。
考えるに、このおばさんは、私が断ることを予想して席をすすめ、その上で大義名分を得て座ろうとしたのだろう。
まあよくある、払う気もないのに私が払いますという例のあれなんだろうけど、不特定の人間にもそれが通用すると思っていることに対しては愚鈍さと姑息さを感じてしまう。
この電車での話は笑い話で済みそうだけどそうじゃないパターンもある。
田舎でよく経験するけど、70過ぎのおばさん(というかおばあさん)が運転する軽自動車は、頭を下げればなんでもできると思っているところがあって、歩行者優先義務を丁寧に無視したりする。明らかにルールより身の回り1メートルの感覚を他人も共有している前提で運転していて危険でしょうがない。
こういうおばさんの感覚は昭和だよなぁと勝手に昭和生まれの私も思ったりするんだが、別の見方もあったりするんだろうか。よかったら教えて。
知り合いがパチンコ店の集客コンサル的なことをやっているんだが、最近のパチンコ店はすごいらしい。
まず、禁煙スペースを多くとっているらしい。10年ぐらい前まで俺もよくパチンコをやっていたんだが、当時のパチンコ店といえば長時間打っていたら煙で白い服が黄ばむほどタバコの煙で充満していた。最近は禁煙スペースだけではなく、服にタバコの匂いがつかないよう、匂いを取る機械を置いているところもあるみたいだ。
そして、女性をターゲットにした店作りをしているところが多いらしい。なぜならここ数年の業界トレンドとしてパチンコをする女性が増加し、要は彼女たちを囲い込み、パチンコ依存症にしてしまった方が店としては美味しいという訳だ。いかにも不振に悩む業界らしい策である。改装して女性向けに綺麗な休憩スペースを用意したり、ホテル並に豪華な化粧室まで作るところが増えているとか。
あと、一番驚いたのが店内にフードコートのようなイートインスペースを用意するところが増えているところだ。昔はちょっとエッチな恰好をしたケバいお姉ちゃんたちがコーヒーを運んでくるくらいだったのが、今や本格的な食堂が入っているというから驚きだ。
法人によってはボケ防止を大義名分に老人ホームにパチンコ台を設置し、老人に打たせているところもあるそうで、オワコンオワコンと言われる業界だが、もしかしたらしぶとくずっと生き残っている業界はここなのかもしれない。
コールセンターで通販受注のバイトしてるんだけど、名神高速が道路工事してて道路状況が悪かったり母の日近辺は配送量が多くなったりする関係で配送遅延が発生する恐れがあるアナウンスをしてるんだけど、それに突っかかって来るババアがいた。
「そんなこと起こるの? だってこれ23日に日時指定してるのよ? 今日が何日だと思ってんの?(嘲笑) どうせマニュアルなんだろうけどそんなこと言わなくていいわよ信用無くすわよ(笑)」
物流はオートメーション化されてるけど実際運ぶのは人間だし、そもそも最近のヤマト運輸関連のニュース見てれば配送に絶対なんてないってわかんないのかな。ニュース見てないのかな。
そもそもこういうアナウンスするのも、お客様のためって大義名分はあるにしろ実際言わなかったら言わなかったで遅延したときに鬼のようにクレームが来るからなんだけど…じゃああんたはその荷物が指定した日時に届かなくても絶対文句言わないのかよってつっこみたくなった。
いろんな人がいるけど揚げ足をとるようなネチネチした物言いやくだらないクレームつけるのは大体中年〜高齢者なんだよなあ。老害は実在するよ、やっぱ。
今までの歴史からすると、ビジネスの世界を国が主導するとろくなことが起きない。
介護保険の伝送請求なんて、つい最近までISDNでデータ伝送してたわけで。
利害調整と大義名分をたてることに終始して、肝心のビジネスとしての成功はしない。
例の「私、日本人でよかった」ポスターの件。増田のネタ投稿http://anond.hatelabo.jp/20170505015130読んで、遅まきながらその気持ち悪さに説明がついた。ここに用いられている日本語が、決定的に気持ち悪かったのだ。翻訳してみようと思えばすぐその違和感の正体に気づくと思う。このコピー、たとえば英語にするとして、あなたならどんな英語に訳すだろうか?
もしこのコピーの趣旨が「I love Japan.私は日本が好き」なら、当然まったく炎上しなかったと思う。そんなのその人の勝手だからだ。それはアイデンティティにかすりもしない発言だし。
だから、これはこのコピーの含意全てを説明しきっていないと思う。
だが、もう少しこのコピーに寄せて
「I appreciate that I was born in Japan.私は日本に生まれ『て』よかった」あるいはもう少しアイデンティティの問題に寄せて
「I appreciate that I was born as Japanese.私は日本人として生まれ『て』よかった」という言い方であっても、まだこのコピーを十分説明しきれているようには思えない。
なぜなら、このような屈折した自己愛表明行為ですら(それはそれで怪しいものだが)、まだ元コピーに感じられるほどの気持ち悪さには及ばないのだから。
最初の「私、日本人『で』よかった」というコピーが含意するのは、結局のところ「ほかでもない日本人『で』」という排外的ニュアンスだ。ポスターへの反応に
自分の遺産を誇りに思うことは何も問題ではないけど「他でもないこの国籍に生まれたのはとてもよかった」と言うのはちょっと差別的かもしれない。
というものがあったが、まさにそれだ。そのことに気づくのに、ずいぶんかかってしまった。この「で」には、他の可能性と比較して(~デアッテ、ソノ他デハナクテ)というニュアンスが含まれうる。そして、マイルドにあるいはあからさまに排外主義的主張を行うことが流行っている現代社会を背景においてみれば、このコピーの作者はその含意を十分に分かった上で、まさに確信犯的にこの「で」を選んだということは確実に言いうるだろう。自国のことを誇るのは普通じゃないか、という言い訳を一方におきながら、実にこっそりしかも堂々と(!)拝外主義的主張を大っぴらに口に出せるというのが、まさしくこのコピーが選ばれた理由だろう。そして、そのように「暗い意図を大義名分に隠してはしゃいでいる」雰囲気、それこそが「気持ち悪さ」の正体なのだと思う。
いや違う、考えすぎだ、という人は、日本人「で」なく不利益を被っている/被った様々な人たちを目の前にして、このセリフを口にする自分自身の姿を想像してみるとよい。
・戦争で祖国を追われて亡命してきた人に向かって、あなたはほほえみながらこのセリフを口にできるか?
・両親が外国人であるなどして、自分のルーツと現に暮らす国の間でアイデンティティを引き裂かれ悩んでいる子どもに向かって、同じことが言えるか?
・海外に出て、今なお残る人種差別、民族対立、移民問題などに直面したとき、現地の人に向かって、このセリフを口にすることができるか?
それがどれほどグロテスクな絵面になるか、少しは想像していただけるだろうか? アイラブジャパンにはない、このセリフに潜む他者切り捨ての姿勢。それでもあなたはこのコピーが無実だと唱え続けられるだろうか?
私は愛国が悪いと言っているわけではない。愛を表明するのは自由だし勝手だ(そして、愛というのは、それがなかったとしても強制したり責めたりするべきものでないことも、もちろんのことだ)。むしろ、世界の人と語り合う上で、自分のルーツを愛し誇りを抱くことは、相互理解の上で重要なことであり多くの場合必要なことだろうとすら思う。だから、世界に出て、お前はどういう人間なんだと聞かれたときに、あいあむじゃぱにーずあいらぶまいかんとりー、と言えるのはとてもいいことだ。ざっつおけぃあいしー。だが「日本人『で』よかった」←このコピーはダメだ。そこには他者への理解や尊重という視点が決定的に欠けている。内輪で閉じた集団の自慰的満足のニオイしかそこには感じられない。陽の下で成熟した人間同士がオープンに交わすコミュニケーションの「愛」ではない。強いて言えばそれは暗い部屋の中で、想像上のイコンに対し己の歪んだ欲望を一方的になすりつける孤独な行為のような思想だ。それをおおっぴらにやろうとしている。やめてくれ。
かようなものをポスターにして国際観光都市に貼り付けるなど、暗い欲望を公衆の中で密やかに開陳する露出行為のように彼らの快感を非常によく満たすことなのかもしれないが、普通に考えて国際的には恥なので、関係者はそこのところを考えて適切に判断されるのが望ましい、と私は考える。それとも、こういうHENTAI行為こそ彼らの考える「クールジャパン」なのか。ちょっとあまりにCool過ぎやしないか。
なお、いろいろと私にもの申したい人もいるかもしれないが、とりあえず、露出行為ならばこうして公にその行動や意図をさらされるとその快感の半ばは台無しになるものなので、こうした文章を書き公にした時点ですでに私の意図の半ばは達成されているということだけは申し添えておく。
同棲を始めて半年が過ぎた今、家での暇つぶしを目的に久々に漫画をいくつか買った。
そのうちのひとつが「東京タラレバ娘」だったわけであるが、この漫画、ひどく情緒不安定にさせられる。しかし、中毒性があって、読むのを、考えるのをやめられない。恐ろしい漫画である。
二十代前半の頃、足を使った芸能人の追っかけをしていたわたしは、時折ふと自分の未来に不安を感じて、アラサーの友達と集まるたびに将来どうするのかということを話していた。
とてもかわいくて、若い頃に、そのかわいさを使って当時の推しの関係者と身体を張って繋がり、なんかうっかり付き合ってしまったY子ちゃんから、言われた一言が印象深い。
「わたしも25くらいからすごく悩み出したよ。そういう年なんだよね。もうおたく辞めようと思って現場控えたこともあるし、彼氏も何人か作ったよ。けど結局今ここにいるから、もう諦めてるかな」
Y子ちゃんとは水面下で繋がり、業界人的な芸能人的な人たちの集まりなどにたまに一緒に行ったりする仲だった。
普通にご飯を食べたり家で遊んだりしたこともあるが、当時はお互いに、このコネを使ってなんとかもっと状況を改善できないか(繋がり的な意味で)と必死だったので、どこか浮ついた心でそんな話をしていた。
当時まだ二十代前半だったわたしの漠然とした不安はぽっかりと宙に浮いて、「誰しもそろそろそんな不安を抱える年頃なのだな」という程度に、結論を伴わず据え置きとなった。
ぼんやりと生きている人にも、堅実に生きている人にも、平等に時間は過ぎる。
その頃と状況はうってかわって、わたしはもうレコーディングスタジオやリハーサルスタジオの前で立ち続けることをかなり前に辞めていた。
あまりにも辞められなくて一時期は、当人に「好き過ぎてやめられない、つらい、もう辞めたい」とメンヘラ気味に相談したこともあったが、ふとしたきっかけにダメ男に引っかかり、そのダメ男から立ち直るためにまた別のダメ男に引っかかり、今に至る。
趣味に思い詰め過ぎて、恋愛ごっこ以下の付き合いばかりになっていたわたしにはそれはちょうどいい荒療治で、すっかりほとんどおたくからは足を洗って、澄まし顔で二人暮らしのマンションと職場の往復の毎日を送っている。
けれど、今後の数十年、もとい生きている間の時間の方向性を決定するには、わたしの中身は子供過ぎた。
内申点が足りないから適当な私立高校に進学する、三年先までの未来を決めた。
特に就きたい仕事がないから通える範囲で一番偏差値の高い大学に進学する、四年先までの未来を決めた。
転勤なく関東圏で就職して職歴をつけたいから、とりあえず社会人スタート地点という数年分の未来を決めた。
たまたま就職に関しては特に問題もなかったので定年まで勤めようと考えているが、それは今の日本を考えれば本当に運が良かっただけだと思う。
わたしはたった26年生きてきた人生の中の経験だけでは、どれだけ振り絞っても、結婚するという未来に向かって大ジャンプを決められない。
一方で、この26という数字が28、30、そして、33になったところで、特に何か特記するような経験を得られるわけでもなく、それこそ「タラレバ」のように、26のあのとき決断していれば、28のあのとき、30のあのとき、というふうに、得られるのは、数年先の未来からの後悔だけだということはなんとなくわかっている。
特に彼氏になにか大きな問題があるわけでもないが、特別「このひととなら絶対に幸せになれる」という保証があるわけでもなかった。
そんなの当たり前である。そんな人間はどこにも存在しないのである。
しかし、大義名分のようなものをもって、結婚するカップルもいる。
初恋同士の結婚は、結局旦那に社会的地位や年収がそれほどなくても「やっぱり二人は結婚しなきゃね!」と持て囃される。
当人同士だって、今更別れて条件のいい相手と結婚しても絶対死ぬまでに数えきれないほど「やっぱりあのとき初恋の人と結婚していたら」とタラレバするだろう。
「堅実ね」と親世代から大プッシュな上に「公務員か〜、安定してていいね」と女友達からも絶賛である。
こういう客観的な要素で他人からプッシュしてもらえる結婚を少し羨ましいなと思った。
もう26されど26である。
大卒だとまだあまり結婚している友達は少ない。SNSを見れば飲み歩く女友達に溢れている。みんなきらきらした独身を謳歌している。
幼稚園の頃のように無垢ではないから、「結婚してお嫁さんになる」ということを「幸せ」とまっすぐ結びつけられない。
結婚して、子供を産んで、子供が大人になって、結婚して、孫が産まれてという当たり前の幸せを送ることがどれだけ困難なことか、知識だけでは知り過ぎていた。
何組に1組が離婚する世の中だとか、統計上では、片手で数字を数えられる子供ならわかるような算数なのに、
その原因は十人十色で、こうがこうである、ゆえにこうである、というような明確な条件下に成立する結果ではない。
それなのにまわりは、アラサー女子に「次はあなたの番ね」などと軽々しく声をかける。
二十代前半の頃に、鼻で笑ってかわしていた言葉となんら違いはないはずなのに、もうあの頃のように軽やかにかわせない。
それほどまでにわたしの背中には、知らない間に、生きていくには無駄ないろんなもの(一種の保身のようなもの)が住み着いていた。
最近結婚したアラサーの事務さんに結婚するのか、と聞かれて、「しようって話になってるし、するんだろうと思うんですけど、漠然とこれでいいのかなって不安です」みたいな話をしていたときに、
「結婚ってまわりに言われたからするもんじゃないよ、自分たちで決めてしなきゃ」と言われた。
たしかにきっとその人はまわりに結婚を急かされても大事に大事に愛を育んで、自分たちのタイミングで結婚したに違いなかった。
「どうして結婚しようと思ったんですか」と聞いたときに、「ずっと同棲してたからこの人とするんだろうなと思ってた」と言われた返事がわたしには眩しかった。
わたしは、すぐ結婚してくれない彼氏と同棲し続けていたらメンヘラ拗らせて酒飲んで泣いて吐いてを周期的に繰り返すくらいには弱いだろうし、たぶん別れて婚活する選択をとるだろうと思う。
そのひとはわたしにはない強さを持っていた。
わたしは今、そんな強さを持ち合わせていない。
好きだからずっと一緒にいたい、という気持ちと、結婚するということとの間に乖離があって、その重さの違いに戸惑う。
家族になる、ということはわたし一人が失敗しないようにコントロールできる範囲を超えていて、絶対的な自信を持てない。
けれど、持たなければいけないのだ、きっと。
もしこの人と結婚したら、とか、結婚しなければとか言っている場合ではないのだ。
制服を着ていた頃、「マリッジブルー」という言葉の意味を理解できなかった。
きっとつらつらと書き連ねた言葉たちは、一言でいうと、一種のマリッジブルーなのだろう。
けれど、16の頃のわたしは知らなかった。
前回のあらすじ
四天王の中では最弱らしく、既に他の四天王をこらしめていたヴェノラ一行は余裕だった。
しかしスミロドンは、ヴェノラの「とにかくすごいってことだけは伝わる設定の武具」が通じない特異体質であった。
そのことで動揺したヴェノラたちは隙を突かれ、あまりにも予想外なピンチに陥る。
だが、仲間の一人であるイセカは、スミロドンに故郷をやられた過去を持っていた。
その怒りが彼に大義名分と、形見の武器チョウナ・ブーメランに力を与える。
「渡させて頂く。引導を」
こうしてスミロドンをこらしめ、イセカの溜飲は下がったのであった。
勝利の余韻に浸る一行だったが、地に伏した剣姫スミロドンの口から語られたのは、あまりにも予想外な展開であった。
「私は元四天王だ。少し前に、私より優れた者に取って代わられた。お前たちが今まで倒した四天王も、私と同じ影武者に過ぎない」
四天王の中で最弱どころか、四天王ですらなかった相手をこらしめて今まで喜んでいたことを知った一行は恥ずかしい思いをした。
例え相手が四天王であろうとなかろうと、ヴェノラがやるべきことは変わらない。
だが、復讐を遂げたイセカは、メンバーから外れることを宣言する。
「お前たちと冒険する大義名分がなくなった。我には大義名分が必要なのだ」
そう言うイセカに、ヴェノラは静かに諭す。
「イセカ。大義名分がお前にとって必要だというのなら、これから作ればいい」
ヴェノラの感動的な説得力により救われたイセカは改めてメンバーに加わり、一行は気持ちを新たに冒険の旅を続けるのであった。
目指すはドカワ海らへんにあるというコニコ島。
そこに現役四天王であるクヨムがいるらしい、ということをスミロドンから聞き出した。
ですので船を得るため、まずは港町を目指すのだ。
今回はその道中、トアル村で休息を取る一行の話である。
この時期になるとやはり新卒研修として一見意味のないことを強要したり、人格否定する会社が出て来る。
そのような人間と関わると、人生が台無しになり、大切なものを失ってしまう。成長のはずが、大切なものを失ってしまって何も残らないこともある。
私はそのような愚かな人間である。愚かな人間として、思い出したくないのでここに書き捨てておこうと思う。
自分の思い通りにならないだけなのに、「何も考えていない」などの言葉を投げつけてくるケース。
「成長のため」という大義名分のために当たり前のように正論を投げつけてくる。一見正論だが、言うべきタイミングに配慮するべきである。しかしそんなことは気にしない。
完璧な人間などいない。失敗は必ずするだろう。しかし、1つの小さな失敗をひたすら強い口調で責めてくる。
このような攻撃にあうと、ストレスで何かしらの精神疾患を患うこともあるだろう。そういうところをついてくるケース。非常に高いストレスの環境下にいて、上記のようないつでも強い緊張を強いられる場面において、「決める」ことができなくなってくれば、「そうやって黙りこくる」などの言葉を使って更に畳み掛けてくる。
総合すると、人間として非常に弱い部分を狙ってくる人間というのがいる、のである。それを成長という大義名分で何人も潰していく人間がいるのである。
そのような人間が上にいる会社に勤めていたとしても、どんなに頑張っていてもその頑張りは経営陣のフトコロに入るのが関の山で、自分の成長を吸われているようなものである。仮にそのような環境で、成長したいというなら止めはしないけれども、自分が不利になったと感じたらすぐさま逃げるための道を確保しておくべきである。
特に、個人が組織と闘うのは大変に困難である。労働組合などがないのであればなおさらで、何もできることはないので逃げるべきである。
次の転職に不利になると思って1年は耐えようとした結果、取り返しのつかないことになった。労働というものは、日本社会においての義務のうち、納税と強く関わってくるものである。働いていない人間の立場は非常に厳しい。
このような会社に努めて勤めて辞めざるを得なくなった後、数年が経ち、もうそろそろ上記の病気も治りそうではある。とはいえ、この間、誰にもどこにも助けてもらえなかった。その時のことを思い出すたびにあんなところに行かなければよかった、人生を無駄にしたと嘆くばかりである。
それでも、逃げられたのは病気が身体を止めてくれたからである。クリスマスだったり、住んでいた部屋が高層マンションや社宅だったりしたら、一歩間違えれば自分も死んでいた。
人間は成長する生き物であると思う。自分がどのようになりたいのか、何を大切にしているのか、どう大切にするべきなのかを常に意識する必要があったのだろう。頑張る、とか諦めないというのはただの思考停止だったのだ。
エゴがなければ、宇宙は一体であること、現実世界はひとつであること、つまり一如(真如)の現実が見える
けれども、ヒトは、異常に生存本能が発達することで生き延びてきた異常な動物であるから、殆どの者はエゴが発達しており、現実が見えない。例えば、生き延びるために痛覚などの感覚が心身ともにあり、感覚のあるところを自分の一部だと認識するという、一種のエゴがある。卑近な(身近な)ところほど重視し、敬遠なところは「カンケーない」と思う。そういう卑しく愚かな性質がヒトにはあり、ほぼ全ての者は、この性質を自覚することを得ず、自律して自立することを怠る。よって、この自縄自縛の呪縛から解脱することを得ない
こうしたエゴは、元来は生存に必要であったから得た所謂「進化」であるが、ヒトのエゴは異常であり、すなわち例えば戦争を起こしてでもカネやモノを得ようとし、あまつさえその戦争にわざわざ大義名分まで付けて自己正当化しようとさえする。エゴの権化である
そもそもは為政者、ノブレス、古代ギリシアなどの俗に謂われる「市民」という特権層は、このように己のエゴを相対化し自己客観視をする才能をもつ特別な人々であるはずで、そうでなければならなかった。しかし実際にはそうした本来の姿は忘れ去られ、世襲と腐敗で自らエゴに堕ち、社会構造維持と既得権益保守に汲々とする詰まらない無智愚鈍が支配する人類社会になって久しい
まず、戦術的にも後背地を襲撃するのはセオリーだ。彼らの唯一の戦訓は朝鮮戦争のそれで、すなわち緒戦に奇襲を以てすれば劣悪な装備でも南側を蹂躙でき、増援を断てばそのまま勝利できたはず、という代物である。増援の出撃基地は今も当時も日本なわけだ。ここを直接に叩き潰す誘惑は捨てがたい。
戦略的には、第一に日本が「弱い鎖の輪」であることだ。日本は異常に戦争忌避が強く、かつ自発的な第五列が何の見返りもないのになぜか反戦活動をすることが十分以上に期待できる。さらに法的な問題もこれあり、交戦・反撃能力はない。つまり攻撃を加えるにあたって一番リーズナブルなのである。総力戦時代にあっては敵国の世論を破壊することも十分に戦略目標たりえる。出血の強要によって厭戦気分を盛り上げて日本を対北連合から脱落させれば、後背地を無力化するという目標は十分に達成できる(日本はほぼ唯一戦略爆撃のみによって降伏した国でもある)。
第二には、史上核戦争が起きていないこと。まあ当然なんだが。
核保有国同士では核の投げ合いになって両者死ぬから、基本的には自制が働くし、それはコンバットプルーフを得ている(印パを見よ)。しかし、いわゆる「核の傘」はどうか。これは実証されたことがない。ましてや米は米自らも民主国家である。ゆえに、数百万の自国民を掛け金にして他国(同盟国とは言え)のために核戦争を起こすことが果たしてできるのか。ましてスイッチを握るのは自国優先を唱える男だ。
第三には朝鮮半島は南北は一応同一民族(たまたま南北の反対側は叛徒が制圧しているのであって、住んでいるのは成分最悪であるとはいえ国民)であるという建前があるうえ、北韓南鮮さらにはその後背に控える中共は反日国家だ(現状の政策はもちろん、建国神話が反日であって路線の修正はあり得ない)。最低限の大義名分は立つ上に、南に対する強力な正統性のアピールとして使えるだろう。
大学で人権論という授業があって、ハンセン病の患者さんについて「感染力が低く殆ど感染する恐れはないのに不当に差別されてきた」と述べられていた。
ハンセン病が現代では完治する病気で感染力も非常に低いというのは事実であるからその人たちが未だに冷遇されているのであればひどい話だし是正されてほしいと思う。でも俺はその話を聞きながら「本当にうつる病気だったら差別されても仕方がないということだろうか」とも考えた。差別されることの不当さが「うつる病気ではないこと」に起因しているのなら、うつる病気を持っている人たちやあるいは持病が遺伝するとわかっている人たちは、差別されてしまったときどうやって戦うのだろう。
フィクションノンフィクション問わず、何かの媒体で障害をもつ人が取り上げられるとき、それが「健常者(という言い方もあんまり正しくないとは思うんだけど、少なくとも障害のあるなしにボーダーがあるならそこに含まれない人たち)にない特別な才能」によって許される、みたいな演出になっていることがよくある。例えば障害をもつ人々が描いた絵について、私たちにはない素晴らしい色彩感覚があると語るような。そういうのを聞くと、障害があることはマイナスで、そのマイナスが音楽の才とか絵の才とかでプラマイゼロもしくはプラスになっている、という捉え方なんだなあと思う。
障害のある人がみんな健常者よりも秀でた才能があるとは限らない。そういうのがなくて、ただ「障害をもっている」だけの人は、どうするんだろうなと考える。どうするんだろうというか、そんな捉え方の中ではどう、見られるんだろう、というか。
いつもそんなことばかり考えている。大義名分が救ってくれない人たち、その辺のボーダーの少しだけ外側にいる人たちが一番しんどいんじゃないかと思う。自分自身が色々な理由でカテゴリーの狭間にいる人間なので、語られない人たちに感情移入してしまう。差別される不当さや幸せになる妥当性に理由をつけると、その理由に当てはまらない人々にとってはつらい。
今これを書いていて、俺みたいなボーダーちょっと外の人もボーダー内側の人もそれに関係ない人もみんなまるっと幸せになれるように、っていう考え方こそが「基本的人権の尊重」か、と気づいた。
なんにもなくても仮にマイナスでも生きることが許されていてほしい。でも気持ちとして「うつる病気なのに表に出てくるんじゃねえ」とか「作業効率の悪い人にいてもらうと困る(から一般業務じゃない別の分野でやってて)」とかも、わかるんだよなあ。どうしたらいいんだろう。なんにもない人なんていないっていうのも、本当かよ、って感じするし。
確か10年ほど前に、ACが「電車はあなたの部屋ではありません」みたいなメッセージを打ち出したCMが流れていた。
部屋でヘッドホンをつけて音楽を大音量で流しながら、ハンバーガーを食べている青年だったが、実は部屋ではなくて電車内でそれをやっていた、という演出。
個々での認識としては以前からそれなりにあったと思うが、そのCMが流れて周知のものとなったということを考慮すると10年前くらいになると思う。
というか、この手の社会通念は、大体ACとかの公共広告機構が一枚噛んでいる気がする。
まあ、マナーとかの社会通念は咎める側も守らない側も主観が入り込む余地が多くて、そもそも理由自体が合理性を欠くというケースも少なくないからね~。
だからケースバイケースみたいな陳腐な結論にならざるを得ないというか。
マナーを謳う多くの人は「何となく不快だから」位にしか認識してなくて、それを正論に摩り替えて、大義名分に仕立て上げているだけだと思う。
でも、そういった感覚的なものの最大公約数として出来たマナーに関していうなら、理由が何であれ社会の均衡を保つ一助になるのも確か。
「自由」と「勝手」は違うわけだけど、まあ自分の行為が他人の許容だとか順応をアテにしたものでないのならば「自由」の範疇と捉えて、今後も享受していっても問題ないとは思うよ。