同棲を始めて半年が過ぎた今、家での暇つぶしを目的に久々に漫画をいくつか買った。
そのうちのひとつが「東京タラレバ娘」だったわけであるが、この漫画、ひどく情緒不安定にさせられる。しかし、中毒性があって、読むのを、考えるのをやめられない。恐ろしい漫画である。
二十代前半の頃、足を使った芸能人の追っかけをしていたわたしは、時折ふと自分の未来に不安を感じて、アラサーの友達と集まるたびに将来どうするのかということを話していた。
とてもかわいくて、若い頃に、そのかわいさを使って当時の推しの関係者と身体を張って繋がり、なんかうっかり付き合ってしまったY子ちゃんから、言われた一言が印象深い。
「わたしも25くらいからすごく悩み出したよ。そういう年なんだよね。もうおたく辞めようと思って現場控えたこともあるし、彼氏も何人か作ったよ。けど結局今ここにいるから、もう諦めてるかな」
Y子ちゃんとは水面下で繋がり、業界人的な芸能人的な人たちの集まりなどにたまに一緒に行ったりする仲だった。
普通にご飯を食べたり家で遊んだりしたこともあるが、当時はお互いに、このコネを使ってなんとかもっと状況を改善できないか(繋がり的な意味で)と必死だったので、どこか浮ついた心でそんな話をしていた。
当時まだ二十代前半だったわたしの漠然とした不安はぽっかりと宙に浮いて、「誰しもそろそろそんな不安を抱える年頃なのだな」という程度に、結論を伴わず据え置きとなった。
ぼんやりと生きている人にも、堅実に生きている人にも、平等に時間は過ぎる。
その頃と状況はうってかわって、わたしはもうレコーディングスタジオやリハーサルスタジオの前で立ち続けることをかなり前に辞めていた。
あまりにも辞められなくて一時期は、当人に「好き過ぎてやめられない、つらい、もう辞めたい」とメンヘラ気味に相談したこともあったが、ふとしたきっかけにダメ男に引っかかり、そのダメ男から立ち直るためにまた別のダメ男に引っかかり、今に至る。
趣味に思い詰め過ぎて、恋愛ごっこ以下の付き合いばかりになっていたわたしにはそれはちょうどいい荒療治で、すっかりほとんどおたくからは足を洗って、澄まし顔で二人暮らしのマンションと職場の往復の毎日を送っている。
けれど、今後の数十年、もとい生きている間の時間の方向性を決定するには、わたしの中身は子供過ぎた。
内申点が足りないから適当な私立高校に進学する、三年先までの未来を決めた。
特に就きたい仕事がないから通える範囲で一番偏差値の高い大学に進学する、四年先までの未来を決めた。
転勤なく関東圏で就職して職歴をつけたいから、とりあえず社会人スタート地点という数年分の未来を決めた。
たまたま就職に関しては特に問題もなかったので定年まで勤めようと考えているが、それは今の日本を考えれば本当に運が良かっただけだと思う。
わたしはたった26年生きてきた人生の中の経験だけでは、どれだけ振り絞っても、結婚するという未来に向かって大ジャンプを決められない。
一方で、この26という数字が28、30、そして、33になったところで、特に何か特記するような経験を得られるわけでもなく、それこそ「タラレバ」のように、26のあのとき決断していれば、28のあのとき、30のあのとき、というふうに、得られるのは、数年先の未来からの後悔だけだということはなんとなくわかっている。
特に彼氏になにか大きな問題があるわけでもないが、特別「このひととなら絶対に幸せになれる」という保証があるわけでもなかった。
そんなの当たり前である。そんな人間はどこにも存在しないのである。
しかし、大義名分のようなものをもって、結婚するカップルもいる。
初恋同士の結婚は、結局旦那に社会的地位や年収がそれほどなくても「やっぱり二人は結婚しなきゃね!」と持て囃される。
当人同士だって、今更別れて条件のいい相手と結婚しても絶対死ぬまでに数えきれないほど「やっぱりあのとき初恋の人と結婚していたら」とタラレバするだろう。
「堅実ね」と親世代から大プッシュな上に「公務員か〜、安定してていいね」と女友達からも絶賛である。
こういう客観的な要素で他人からプッシュしてもらえる結婚を少し羨ましいなと思った。
もう26されど26である。
大卒だとまだあまり結婚している友達は少ない。SNSを見れば飲み歩く女友達に溢れている。みんなきらきらした独身を謳歌している。
幼稚園の頃のように無垢ではないから、「結婚してお嫁さんになる」ということを「幸せ」とまっすぐ結びつけられない。
結婚して、子供を産んで、子供が大人になって、結婚して、孫が産まれてという当たり前の幸せを送ることがどれだけ困難なことか、知識だけでは知り過ぎていた。
何組に1組が離婚する世の中だとか、統計上では、片手で数字を数えられる子供ならわかるような算数なのに、
その原因は十人十色で、こうがこうである、ゆえにこうである、というような明確な条件下に成立する結果ではない。
それなのにまわりは、アラサー女子に「次はあなたの番ね」などと軽々しく声をかける。
二十代前半の頃に、鼻で笑ってかわしていた言葉となんら違いはないはずなのに、もうあの頃のように軽やかにかわせない。
それほどまでにわたしの背中には、知らない間に、生きていくには無駄ないろんなもの(一種の保身のようなもの)が住み着いていた。
最近結婚したアラサーの事務さんに結婚するのか、と聞かれて、「しようって話になってるし、するんだろうと思うんですけど、漠然とこれでいいのかなって不安です」みたいな話をしていたときに、
「結婚ってまわりに言われたからするもんじゃないよ、自分たちで決めてしなきゃ」と言われた。
たしかにきっとその人はまわりに結婚を急かされても大事に大事に愛を育んで、自分たちのタイミングで結婚したに違いなかった。
「どうして結婚しようと思ったんですか」と聞いたときに、「ずっと同棲してたからこの人とするんだろうなと思ってた」と言われた返事がわたしには眩しかった。
わたしは、すぐ結婚してくれない彼氏と同棲し続けていたらメンヘラ拗らせて酒飲んで泣いて吐いてを周期的に繰り返すくらいには弱いだろうし、たぶん別れて婚活する選択をとるだろうと思う。
そのひとはわたしにはない強さを持っていた。
わたしは今、そんな強さを持ち合わせていない。
好きだからずっと一緒にいたい、という気持ちと、結婚するということとの間に乖離があって、その重さの違いに戸惑う。
家族になる、ということはわたし一人が失敗しないようにコントロールできる範囲を超えていて、絶対的な自信を持てない。
けれど、持たなければいけないのだ、きっと。
もしこの人と結婚したら、とか、結婚しなければとか言っている場合ではないのだ。
制服を着ていた頃、「マリッジブルー」という言葉の意味を理解できなかった。
きっとつらつらと書き連ねた言葉たちは、一言でいうと、一種のマリッジブルーなのだろう。
けれど、16の頃のわたしは知らなかった。