はてなキーワード: 大義名分とは
こんな話を読んだんですよ。
「弱者とかマイノリティとかが、強者やマジョリティからの圧に対抗するための社会運動をする場合、大義名分やら正義やらを重視しなければならない。
弱者全般を庇護するしあらゆる差別に反対するという姿勢を(可能な限り)貫かなければならない。
なぜなら、そのような正義の旗なしには様々な属性の人々が集うことはできないし、おまけに運動がただ自己陣営の利益を求めた利害闘争だと認めることになるからだ。
弱者が、人を集めることもできずにただの利害闘争を行えば、そんなもの強者に蹴散らされるに決まってる。
だから、苦労が大きいとしても、正義の旗を掲げ続ける必要がある」
みたいなの。
これ、理屈的にはあってる気がするんだけど、どうにも頷けない。
だって、社会から負担を押し付けられるのが嫌で社会運動を始めるのに、その為に「正義をがんばって守る」っていう縛りを弱者側だけが負うのって本末転倒じゃないっすか。
共産党支持者で貧困系のNPOでもボランティアしてるやつがいる
なのに俺が体調崩して生活保護受けることになったら、何故かめちゃくちゃ傷つくようなこと言ってきた
詐病じゃねーの?とか、働かなくていいとか羨ましいとか
ようはやつにとっては、生活保護者を叩くネトウヨと戦ったり、水際作戦してる役所の人間を怒鳴り散らすのが好きなんであって
弱者に寄り添うとか、救済とかを重視してる訳では全然ないってことだ
怒鳴り散らす、棍棒でぶっ叩く大義名分が欲しくて政治活動やってるんであって
正直ベクトルが違うだけで、内面的には全くネトウヨと一緒なのだ
今までは政治活動なんかに少しは期待したり、尊敬の気持ちを持ってたのにこの一件で一気に冷めた
政治活動してるやつらには近づかない方がいい
度重なる押し問答の末、シューゴさんはとうとう爆発した。
「もういい! もうたくさんだ! こんな曖昧な基準で、表現が統制されてたまるもんか!」
「ワガママを言わないでください。社会にとって害悪なものは統制される。それが今回はアニメだったというだけの話じゃないですか」
「俺から言わせればな、普遍性のないボーダーラインを大義名分に、表現を統制しようとすることこそ害悪でありワガママだ」
「上等だ! 奴らが文句を言うのはもちろん自由だ。だが、オレたちにも同じくらい尊重すべき自由がある!」
シューゴさんは頑なだった。
「自分にとって不都合な影響を与えたくなくて、躾もロクに出来なくて、その責任をオレたちに擦り付けるしか出来ない。だったら、いっそ何もない家に一生閉じ込めておけ。それが一番確実で健全だ」
「なぜ自分と同じ物差しを、誰もが持っているべきだと思いあがれる? よしんば持っていたとして、同じ物差しで同じ場所に、同じように線を引くとでも思ってんのか。それを踏みこえてはいけないと、なぜ言い切れる?」
父もフォンさんも溜め息をつくが、どこか安堵もしていた。
シューゴさんほどではなかったが、二人とも今回の対応に不服であったのは同じだったからだ。
どこかでシューゴさんが突っぱねてくれることを期待している節があったのかもしれない。
そして、放送後……
「シューゴさん、苦情が……」
「変える気はないぞ。主人公たちの武器はこれまでと同じ、人間相手にもバンバン使っていく」
「いや、今回はそこじゃなくて……」
「ん? どういうことだ?」
「『入浴シーンがセクシュアル的でよろしくない。青少年の健全な成長に悪影響を与える!』……とのことです」
それを聞いたシューゴさんは大げさに笑って見せ、父は白々しく「あちゃ~」と言いながら頭を抱えた。
「わっはっは。あ~そっちかあ~」
「というか暴力表現に関する苦情はどうしたんです? 今回はアクションシーンが派手だったから、いつもより来ていると思ったんですが」
「恐らく、入浴シーンのほうが気になったんでしょう。性的描写の方を問題視する人って多いですから」
「性別関係なく湯気をこれでもかってくらいつけているんですけどねえ。作画の手抜きを湯気で誤魔化しているんじゃないかって疑われるレベルで。更には放送局がそこに雑な修正まで入れてるほどなのに」
「一番スケベなこと考えているのは子供より、そいつらの方なんじゃねえか?」
「また、そういうこと言う……それに暴力描写と性的描写は別物ですから、判断基準も変わってくるのは当然ですよ」
「どちらも表現の一形態だろ。これは良くて、これはダメ。ここまでならOK、これ以上はNG。それを区別する境界線を誰が、どうやって決めれば正しいんだ」
「それは私も分かりませんが、彼らの主張自体は理解できるでしょう。これはTPOに基づいた、妥当性の問題です」
「その“T”と“P”と“O”とやらを、それぞれ具体的に考えたことあんのか? そんな状態で妥当性なんぞ共有できないだろう。基準が曖昧なままなのに、主張に汲み取るべきところがあるからと受け入れていったら、雰囲気だけで規制できてしまうぞ」
「そうです。都合のいい言説を振りかざしているだけです。主張の内容はそれっぽいことを並べてはいても、象徴的だったり抽象的なものの域を出ていない。とどのつまり恣意的に判断しているのを誤魔化しているわけです。それで表現が統制されるべきとは思えません」
「そんなこと言っても仕方ないでしょ。私たちも上から通達が来たから業務上やってるだけで、それが本当に正しいことか分からなくても、やらないといけないわけですし……」
「ああ、そもそも上の指示に大人しく従ったのがケチのつき始めだったよな。それで安易に変えてしまったら、他の表現も次々とその対象になる。クリエイターを抑圧し、萎縮させて、風当たりだけが強くなっていき、虚構のディストピアが出来上がるわけだ」
「そうして世間の目が矯正されれば、今までは全く問題視されていなかった表現まで規制の対象と認識される。事例や風潮の積み重ねが基準やエビデンスを形作るなら、なおさら現状にNOを突きつけるべきなんです」
この時フォンさんはかなり戸惑っていたようだった。
目の前の問題から目を背けて、二人が不平不満を言っているだけのように見えたからだ。
「二人とも、検閲そのものの是非はともかくとして、結局何らかの対応はしないと……」
「それなら大丈夫だ。今回のエピソードでお上からの指令は来なくなる」
「え、どういうことです? むしろ余計に悪化しそうな気がするんですが」
「“自由の応用”・・・・・・?」
「オレたちは表現の自由を不可侵の聖域だとは思っちゃいない。なぜなら表現の自由は、言論などの“自由”も包括しているからだ」
意見を肯定するか、否定するか、スルーするかという選択はできる。
だが都合の悪い意見そのものを失くそうと黙らせるのは矛盾した行為だという。
「ではどうやってこの流れを止めるというんです」
「直に分かりますよ、フォンさん」
父たちは作り手だからこそ、表現の自由に構造的な欠点があることを知っていた。
それはつまり、“その他の自由”にも欠点があるのを知っているってことだ。
今年に入ってからイエッタイガー問題というものがアニソンの界隈で言われているが、今回は別の話題。
今年の5月にMUSIC THEATER 2017というソニーのレーベルアニソンフェスに行ってきた時の事なのだが、
出演者が歌ってる最中、Aメロの部分で激しいクラップ(手拍子)が始まって曲が聴こえないほど五月蝿いという事があった。
1人目がLiSAの「Rising Hope」(魔法科高校の劣等生のOP主題歌。かなり激しめの曲)だったので、その時はまだ「ああ、LiSAの曲(あるいは現場)ってこんな感じなのか。」くらいにしか思わなかったのだが、ライブが進んで別のアーティストが出てきて別の曲を歌っている時でもこのAメロクラップが沸き起こる。
しまいにゃClariSの「コネクト」(魔法少女まどか☆マギカのOP主題歌。わりとしっとりめの曲)という曲ですら激しいクラップが発生していた。
もうね、いい加減にしろよと。
もし仮に、これらをやっている人たちが「曲を盛り上げるため」「ライブを盛り上げるため」という大義名分を掲げているとしたら、まだ「Rising Hope」は理解できなくもない。が、「コネクト」はさすがにありえない。完全に曲が潰されてしまっている。というか曲が聴きたいのにあなた達のせいで聴こえないんですよ。
以前山下達郎さんがライブ中に合唱する客に関して、ラジオで「あなたの歌を聴きに来ているのではないので」と苦言を呈した事があったそうだけど、私も言いたい。
何らか自分が熱中している物事とかそれらは、人からすればただのファッションじゃんとか、気取ってんじゃねえよ糞がとか、その顔でwwwwとか言ってくるような顔してくる奴らの、
見えない感情とか、どうせそれも自意識過剰なんだろうとか目があるのが、無いのか、わからないが白シャツもすぐ黄色くなる、
甘えだなんだとまたいうんだろう、社会性のないとなんべん言われてきたか、その社会性があれば人をマウントして殺しても良いのか、じゃあ俺も社会性身に着けようかな、ってなるよなぁ、
社会性を大義名分にすれば無罪なんだもんナァ、つったってどうせあいつらはテメーの良いように良いように解釈していやいやおれらだけの特権だからwwwとかいうのだ、違いない、
目がある、趣味を持ってはいけないのか、底辺は持っちゃいけないのだろうなあ、社会的強者様は弱者が何をするにしても不快らしく、一挙手一投足におれのそれに難癖を付けるそぶりを見せやがる、
俺はお前に見せたくて趣味しているわけではないのだ、それがアピールとでもいうのか?おまえらに承認されたくてやっているわけじゃなく、俺の俺がしたいと思うままに俺はしているのだが、
それが、なぜわからないのか、わからない、何か害を為したか、俺が、お前らに対して何を為したか、人畜無害であったつもりだが、それだけのために謗られ言葉で目線で迫害され、お前らは
知らん顔で、笑っていやがる、腐ってやがる、強者様とは、腐りきったゴミダメのような、それがヘェー社会的ヒエラルキーなんだナァ、地位の高さなんだなぁって思ったらもう
なーんもやる気が起きない、何をしたとして、お前らは何らか言ってくるだろうし?おれが正当をしたところで頭ごなしに否定するのだから、やってられない。糞。ゴミ。あーゴミ。
俺はここ数年絵を描いている。
運動神経も悪く学業も平凡、せめて一つ位は誇れる何かが欲しいと、そう思って何かアイデンティティを獲得しうるモノをと考えて、結果始めたのが絵を描く事だった。別に絵の才能がある訳ではない。むしろ下手。中学時代の美術の成績は2、よくて3だった。ただ、漫画やアニメの絵が好きだった事や、初期投資に掛かる費用がほぼ0円だったこと、そう言った点が絵を描くという事を選択するにあたっての大義名分と上手く合致した。
形から入るタイプなので、鉛筆、シャーペン、スケッチブックと、一通り揃えた。
ネットで色々と情報を集め、模写をし、デッサンをし、色々な絵を描いた。
長く上達せずに苦しんでいると、ある日ふとしたキッカケで解決し、また絵が上手くなる。ゲームのレベル上げに近く、それよりもさらに生産的で、努力がそのまま成果として現れるため、俺はずっと絵を描き続けてきた。
絵を描いている内に、何故昔の絵が下手なのか、理由が分かるようになって、下手な人を見ると、何処のせいで下手に見えるのかも分かるようになって、昔とは比べるまでも無い自分になっていた。このままもっと上手くなれる気もする。
ただ、自分よりさらに上の人が世界に沢山いるのを見ると、自分のいる場所があまりにも低い場所だと思えて、特技だと言えるほどには自信を持てない。
絵を描いて数年経った今、俺は未だに人に誇れるものが無い。
このまま絵を描き続ければ、きっと今よりも上手くなる。自身を持てるかも知れない。だが、得られた実力を誇ったその瞬間、俺から俺を支えていたものが霧散してしまう様な気がしてならない。
また人生というPRG的な旅で最初に通らざるを得ない初等教育。
また必要とされる「わきまえ」の限度が(一般的個人にはストレス鬱不可避なほど)限りなく高く設定されている。
外部者はモスクに入らないで、というのはすみわけの知恵でしかない。
外部者はモスクに入れないことでストレス鬱不可避状態にされることもなく、
モスクという例はイスラム社会における現存する差別とは全く違う話だし、
差別の正当化にすみわけの努力程度のものを引用しないでほしい。
さらにコミケ民は自分がパチンコと同じような娯楽のための努力をしていること、
だから法律や常識のまえでは一歩ひかなければならないことをわきまえ(させられ)ている。
これも政教分離していない国家での宗教とは性質が異なるものだ。
===
ところで、公共機関のすみわけといえば男女逆差別論者をネットの一部だけに大量発生させたことで有名な女性専用車両とかあるんですが。
痴漢(といつでも名指しされかねない性欲ある普通の男性の乗車)の自由と
を両立させることは大義名分として「差別解消のため」が必要だったのかもしれないが、
差別とは(野放しにすべきでない)問題の発生しやすい混在状態で発生しているであろう。
とすれば、すみわけでなく差別という言葉をつかうときはすでに「重大な問題なので自由に差別してはいけない」ことが内包されているとおもう。
何いってんだか、
中国が日本を侵略しないのは大義名分が無いだけで、北朝鮮が小突いて衝突が起これば
今まで正しいことをすれば見返りが来ると思っていたし、正しいことをしているんだから何か文句を言われる筋合いはないと思っていた。
しかしそれは間違いだということにやっと気づいた。社会は正しいことではなく気持ちのいいことに興味があるのだ。
ネットで正しさを盾にバッシングしている連中も誰かを叩ける大義名分を手に入れて弱い者いじめしているだけ。
そしてそもそも正しさなんてものは相対的かつ主観的なもので、環境が変われば価値観はガラッと変わる。
一つの側面だけから見た正しさなんて、外から見れば極悪にしか見えない可能性も十分ある。戦争なんてそんなもんでしょ?
俺なんてものは自分で勝手に定義した正しさで周囲を振り回す単なるワガママで迷惑な人だったのだ。
http://bunshun.jp/articles/-/3929
「ドラム日野ビンタのダウンタウン松本さんと爆笑問題太田さんの意見が真逆すぎた」
http://www.kansou-blog.jp/entry/2017/09/04/073456
「日野皓正児童虐待(ビンタ)事件について元ジャズミュージシャンが考えてみた」
http://k-yahata.hatenablog.com/entry/2017/08/31/日野皓正児童虐待(ビンタ)事件について元ジャ
https://www.daily.co.jp/gossip/2017/09/01/0010515517.shtml
正直、他人の出番を無視してドラムを延々と叩いてた子がビンタ食らっただけでこれだけ喧々諤々の議論が巻き起こるのはうらやましいし、近年ネットで体罰動画などが拡散され、教師が処分されている事等を考えるとネットという存在が体罰への抑止力として働いているのは確かで、ろくでもないものも多いネットのもたらした大きなメリットのひとつだと思う。
で、僕がこれからするのはそんな便利なアイテムが普及してない時代のろくでもない体罰という名の暴力の話だ。
舞台は96年の東京高田馬場にある保善高校。偏差値でいえば55前後、昔ラグビーの名門で花園に出た以外に特に語る事のないパッとしない私立高校だ。
ちなみにお隣には後年某ブラックチャイルドな有名バスケマンガのモデルになった偏差値70台のエリートな高校があり、お隣だが近所の早稲田大学への距離は全く違うと言われていた。
我々が入学する前、この高校の理事だかなんだかわからないが、お偉いさんが「このなんの特徴もない学校をお隣みたいな超進学校にしよう」等とドラゴン桜みたいな事を考えた。
目的のみをみれば「少子化を見越し、進学校としてブランド価値を持たせる」という戦略は悪いものではないのかもしれない。
だが、彼らにドラゴン桜のような「外部の優秀な講師を招いて生徒の学力をup!」という策などあるわけがなく、結果としてできあがった保善高校特進クラスは地獄になった。
「三年の間に偏差値55前後の人間を普通に早慶受かるようにしろ」そんな無茶な目標を与えられた現場の教師達は大混乱しただろう。
それはそうだ。彼ら教師のほとんどが一般的に二流と言われる大学を出てこの高校に教員として努めている人間であり(文系だった我々のクラス担任は獨協の英文科卒だった )、当然だが中堅高校の生徒をトップレベルの私大に合格させられるノウハウといったものを持っていない。
そんなこんなで上に対して自分達が頑張った事をアピールしつつ、失敗しても責任を回避できるだろうと考えた彼らがとった方策は授業時間を8限までにするという手段だった。
そして入学してからその事を聞かされた特進クラスに選ばれた我ら生徒達は当然反発する。
部活を目当てにした生徒も多かったし、そもそも強制で8限までの授業なんて受けたい人間はいない。
正直、ここまでなら大人になった今になって考えると教師達に同情の余地がないでもない。
上の無茶に対してかかる現場への圧力のつらさは、それなりの歳になり、上と現場の板ばさみになってから嫌というほど知った。
現在の自分が負担をかけてしまっている現場の人達にひたすら頭下げたり、飲料を差し入れ、それでもイラつかれるように保善高校の現場教師達には我々生徒が分かりえない上の人との板ばさみのつらさがあったのかもしれない。
だが、我々の反発を抑えるのに担任教師が使った方法は頭を下げるでも飲料を差し入れるでもなく、「嫌ならやめろ」と暴力のセットだった。
そして出来上がった授業自体も適当なやる気ないプリントを配ったりするくらいで、正直これを8限聴くくらいなら予備校の授業1限聴いた方がはるかに有益なんじゃね?となる受験にはなんの役にも立たない内容だった(事実、自分は浪人して予備校通ってた時期に英語の偏差値がグングン上がり、今までやらされていた勉強がいかに非効率かを知った)。
結果的に我々は3年間に渡り、ほぼ毎日の様に殴られ、22人いたクラスメイトの内、3人は部活も自分のやりたい事もできない状況を受け入れられずに自主退学に追い込まれ、残った19人も相当に精神を病んだ。
正確な因果関係を立証する事はできないが、卒業時の我々の精神状態を鑑みると、遺族が因果関係を否定するならともかく、当時の保善の教師達が「関係ない」等とほざく事は許さない。
ここまで読んで何人かの人は「なんで体罰に対して対策をとらなかったの?通報するなりいくらでも手があるだろうし」と思われるだろう。
今にして思えば何故自分自身、当時の自分がなんら手を打たず、3年間、殴られるままでいたのかが理解できない。
現在の30代半ばの自分で、今の時代であれば同じ状況でもいくらでも手が打てる。
「教師が生徒を殴ってるのを動画なり音声をを記録し、youtubeに放流」「動画や音声を教育委員会や区議会に送りつける」「動画や音声をもって弁護士のところへ行き、教師を退職に追い込み、学校からは金を引き出し、なおかつ現況の改善する」「逆にこちらから暴力で制圧する」等。
だが残念だが、我々の時代には便利なものはなかったし、他の手段をとる勇気もなかった。当時の時代でも打てる手はあったのかも知れないが、結局我々は何も打てる手がないままひたすら3年間を暴力に耐え続けて過ごした。
他の教師に相談しても「君達の事を思ってあえて自分でもやりたくない事をなさってくれてるんだから」と黙殺されるし、「嫌ならやめればいいだけ」と常に脱落への恐怖を感じさせられ逃げられなかった。
それが事実だ。
今の自分のみならず、多くの人達当時の自分は怠惰に写るのかもしれない。
いくらでも打てる手があるし、場合によっては金にもできたのに何故なにもしなかったのかと。
言った瞬間、発言者を糞馬鹿認定する言葉では「公共の福祉」と並ぶ「自己責任」という言葉を使いたくなる。
だが、異論=即暴力&否定という立場に置かれるのは当時の10代の子供にとっては逃げ道のない牢獄で看守に見張られているようなものなのだ。
常に暴力や脱落の恐怖に晒される状態で冷静な判断ができるかと言われれば今の自分でもこころもとない。
現在自分内最高漫画を更新し続けてる「パンプキン・シザーズ」で主人公は8巻で町ぐるみの人身売買に巻き込まれ、結果共犯者になった住人を慰める為に「人間は新しい環境に放り込まれた時にまるで即興劇に放り込まれた役者のように本能的にその舞台を壊さないよう行動する」と言っていたが、結局我々はその舞台から3年間逃げ出す事ができなかった。
昔、自分はナチス、ソビエト、クメール・ルージュだのに属して上の言うままに行動する人々を笑えたが、この保善高校の体験を通して以降、全く笑えなくなった。
さて、色々回りくどい事を言ったが、ここら辺で私怨タイムにさせて頂く。
曳地利秋、お前はガチな屑だな。お前は三年間俺達の担任教師だったわけで、その間お前を「センセイ」と呼んでたが、お前を教師だとも尊敬する人間だとも思ったことは一度もなかったよ。
平賀が自殺して少しは反省したのかと思ってたが、仕事で出会った8歳下の保善のOBの人に聞いたらお前はあの後もなんら反省せず、特進クラス以外でも生徒を殴り続けてたらしいな。
もっとも俺達以前にも暴力を奮ってたろうし、「口答えする特進クラスの生徒」というのはお前にとって殴れる大義名分を更に与えただけだったろうが。
お前は殴る相手が反抗すると「いつか社会に出れば俺に感謝する時がくる」とかいってたが残念ながらそんな時は来なかったよ。
社会を知れば知るほどわかるのはお前という人間が対等な立場では殴り合い一つできない生徒に対し、能力でも人格でも統率できず、自分が殴られない立場に甘えて一方的に生徒を殴ってた屑である事。
それだけだ。
お前は教師でもなんでもない。
お前が定年退職したかどうかは知らないが、現在、学校でも塾でもあらゆる教職に関わってない事を心から祈ってるよ。
残念ながら俺やクラスのみんなに対しての暴行への公訴時効は過ぎてるんでお前に刑罰を与える事ができず、こういう形で書いたが、お前がこれを読んで反省するとかかけらも思っちゃいない。
原国の片山、お前は俺達が曳地に毎日殴られてると度々訴えたときも「曳地先生は生徒のためを思ってるんだ。甘えてるんじゃない!」とかほざきやがったな。
お前も曳地の同類の糞虫だよ。
そして96~98年に保善高校にいた教師達(現在在籍の確認がとれるのは地歴科の近藤八朗、数学科の三河一雄、公民科のト部昌次)お前ら俺達が散々殴られて助けを求めていたのを知りながら、無視、罵倒を対応にしてたよな。曳地も含めてお前らが全員地獄に行ってくれる事を心から願ってるよ。
ここまで書いといてなんだが、「抵抗できない相手を一方的に殴るのは保善高校の教師達と同じ」という心の声が聞えたんでこっちの身分もそっちに対して分かる範囲で明かしとく。
96年~98年に在籍し、文系特進クラスで正面二番目の列にいて、その後一浪経て法政大学に進学した生徒。それが俺だ。
そこから俺の名前はgoogleでたどれるようにしてあるし、そこからくれば答えるし、名誉毀損で訴えたいならばいつでもどうぞ。
・体罰、何も伝わらなかった 「殴られた」生徒語る - 朝日新聞デジタル http://t.asahi.com/9v
【田村剛】私立保善高校(東京都新宿区)の男性教諭が、男子生徒に暴行した罪で今月4日に罰金30万円の略式命令を受けた。被害者の生徒と、その友人で「同じ教諭に殴られた」と主張するもう一人の元生徒が、朝日新聞の取材に応じた。「もっと早く周囲の大人に気付いてほしかった」と訴えた。
2人によると、1年生で同じクラスにいた2011年の1学期ごろから、空手部の顧問でもあった担任の40代の男性教諭から、校内で平手打ちなどの暴力を受け始めたという。
携帯電話を学校に持ってきた▽読書感想文の本を忘れた▽授業中のおしゃべり……。さまざまなことがきっかけとなった。この生徒(17)は「高校では暴力が当たり前なのか」と思い込んだ。他の教諭も止めに入ってくれなかったという。
2年生になって登校できなくなり、休学した。親に話すうちに普通ではないと気付き、警察に届けた。
学校側は謝罪のため生徒宅を訪れ、暴行の理由も説明した。それでも、殴られなければならないとは思えなかった。「ただ苦しかった。先生の言いたいことは何も伝わってこなかった」と振り返る。この教諭は、この生徒を複数回にわたって平手打ちをするなどしたとして、略式起訴された。
もう一人の元生徒(18)は、暴力を受けても「先生の言うことを聞きなさい」と話す親を前に、学校に行きたくないと言えなかった。「誰にも相談できず、どこにも行き場所がない感じだった」と語る。
耐えられず、昨年5月に退学。一時はうつ状態になって精神科に通った。「同じことをしたらこうなる」という周囲への見せしめが、暴力の目的だったと感じている。「次は自分ではないか」と、他の生徒がビクビクしているのが伝わってきたから。
「自分はたまたま自殺せずに済んだ。でも、親や周囲の先生にはもっと早く気付いてほしかった」。大阪市立桜宮高校の教師による体罰で生徒が自殺したことが問題になり、そう思う。
同校の青木繁副校長は取材に「教諭が何度も暴行したという認識はない。生徒らの話は過大で、学校が把握する内容と大きな違いがある」としている。教諭の暴力については「許されないことだが、2人の就学姿勢を立て直すという思いがあった」と説明する。
という記事が出てきた(元記事は既に消えてるが)。当時の自分達の気持ちをそのまま表している記事だった。お前ら、90年代にあれだけやらかしたにも関わらず、何一つ反省してなかったんだね…
正直、我々の時代に体罰という理不尽な問題を取り上げ、裁判なりで戦って「教師が生徒を殴らない」という当たり前の権利を勝ち取っていれば彼がこのような目に合う事はなかったのかもしれない。
そういう意味では我々抗議の声を上げなかった人間も彼の目からすれば保善の教師と変わらないのかもしれない。
だが我々には声を上げる知恵も勇気もなく、結局、放置し、自分と同じ、もしくはもっと酷い状況を10数年後に後輩に味あわせた。
そして偏差値は51~58と我々がいた当時と何ら変わらない状況。
「進学校にするため」という大義名分で我々に奮われた暴力は結局何の意味もなかったのだと脱力するしかない。
保善高校の理事だの教師だの糞虫ども、正直お前ら全員死ねばいいと思うよ。
お前らは教育者でもなければ、経営者としても糞だ。お前らには何一つ敬意を持てるものがないし、何一つ美しいと言えるものがない。
「質実剛健」とか本当に笑えるわ。
とりあえずこの記事呼んで保善高校への受験を辞める人が増え、一人でも保善高校の犠牲者が増えない事を元生徒として祈っている。
・追記 保善高校の13年の空手部の体罰に関してはオンラインの記事は消えているが朝日新聞2013年2月24日の日曜版38頁、2014年7月4日の社会面の記事で確認ができた。体罰を受けた生徒は除籍処分にされたらしいその後、両親と共に保善高校及び同校を運営する学校法人保隣教育財団に550万円の損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こしたらしい。その後の顛末はネット上を探しても見つからないが、彼にとって良い方向に事態が動いていた事を祈っている。そして22人のうち後に退学に追い込まれた生徒3名、後に自殺した生徒1名を出し、何の成果も残さなかった保善高校初代文系特進クラスの生徒の一人として、彼がとった勇気ある行動に心から敬意を表したい。
バス停の目の前にあるコンビニが灰皿を設置している。立派な喫煙所の出来上がりだ。バス停の利用時はいつも誰かしら煙草を吸っている。
私は煙草の煙が嫌いであるし、バス停は若年層を含んだ不特定多数が利用する配慮すべき場所だという認識の元に大義名分があった。加えてここは行政の指定する路上喫煙禁止地区に含まれているようにも見える。
http://www.city.fukuoka.lg.jp/data/open/cnt/3/26893/1/map.pdf
よってお客様相談室に相談してみることにした。しかし、得られた回答はいかにも紋切り型の大変残念なものであった。
要約すると以下の様なものだ。
1.喫煙者様から灰皿設置の要望があったのでバス停利用者の健康および不快感より、そちらを優先する。
2.喫煙者様は吸い殻をお捨てになられるので店の前が散らかる。
3.喫煙者様は灰皿がないと小火を起こす。
ご丁寧に狭い間口の前に二台も用意している点から2、3は取って付けた理由であることは明白だ。是非そこで吸って欲しいのだろう。
小遣い稼ぎではなく、完全に単純に「予算計上」です。
捕まった人がそういうことを言うから違和感を感じるのですよね?
「ああ、今年はみんな法規を守ってくれた!良かった!」
死亡事故が起きると評価が落ちるので、死なない程度に事故はたくさん残してほしい、という歪んだ構造になっています。事故が多いから取り締まるんだ、という大義名分がほしいですからね。
ちなみに、この予算は警察が立ててるんじゃなくて、総務省が立てています。
逆に言えば、総務省の官僚様が警察官に金儲けをさせている、というのが正しいです。もっと悪いのは総務省なんです。もちろん意見しない警察も警察ですが、警察って日本人はみんな神格化してるけど、単なる行政機関なんですよ。
よく、こんなところで見張ってて捕まるのかよ?っておもう原付き警官が隠れていたりしますが、
あれって、成績が悪い警官が意地悪な先輩に
っていじめをされてるらしいですよ。これを健全だと思いますか?
でも、日本の賞罰教育、縦社会、ではおかしいと思うことを変えようとすると
立場が悪くなることが多いです。
おかしいことにちゃんと意見できる人は警察官を続けられないそうです。
とある事件では、捜査方法がおかしく、意見すると続々地方に飛ばされたそうです。
普段Twitterで奇行に走るクソガキを締め上げるとき「Twitterは全国公開されてるもんだから」
という大義名分を掲げる人達が「俺の動画を勝手に使うな」とか言ってるのは草も生えん、
「私が公開したコスプレ画像をアフィブログが勝手に使って訴えた」とか言う人も居るし、本当にその感覚は分からん。
もっと問題なのは「ネットにあるコンテンツを勝手に私用しちゃいけない」という議論と同じにされていること。
そりゃネット上に流れてるモノ何でもかんでも無断使用していいわけないだろう。
だけどそれは個人が当然の権利を主張できる場所に存在するコンテンツであるという論拠に依っているからである。
それが万人に見えるSNSにぶち上げてる事が問題なのであって、そこで論じられるべきなのは「報道」「プライバシー」とかじゃなくて「場所」であるということ。
今回はやわらかスピリッツ
自分の理想(イメージ)を他人に押し付けた挙句、それを大義名分にして批難する内は同じ穴の狢ってことなんだろうね。
美醜をネタにするというのは時代錯誤とも取られがちだけれども、実際問題として今なお人間を評価する上で重要視されるほど根強い価値観。
みんな自分の良心の部分では、社会通念上それがよくないことだとは勿論分かってはいても、そう簡単に気持ちを割り切れない要素であることも分かっている。
だから、そこを誤魔化して尤もらしい理屈を述べても意味はない。
その点、自分の言動を自覚してちゃんと謝っている登場人物たちはどこか憎めなくもあり、それがちゃんとギャグとしても昇華されている今話は割と好き。
ただ何が悲しいかっていうと、ギャグ漫画相手にこんな真面目に是非を語って、善悪と好悪の分別もちゃんとできない私自身の愚鈍さよ。
パロディは私も嫌いじゃないけれども、それは演出としての意義があるからなんだよね。
だから犬神家のパロディしている箇所は正直なところ思考停止気味というか、こちらとしても何の感情も湧いてこない。
反面、あまちゃんの部分はこれぞパロディの使いどころって感じた。
茶番部分はくどいような気もするけれども、作り手も受け手もそのつもりなわけだから多少はね。
必要以上に茶化さず、本筋そのものはむしろ大真面目にやっているが故にしっかりとコメディとしても機能しているから、これ位の案配でいいと思う。