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はてなキーワード: daとは

2022-10-01

anond:20220926044355

何一つ断罪されないどころか何の加害性すら示されなかった

勧善懲悪以外のフィクションは認められないタイプ

あと増田DAの加害性を認識してるのに「加害性すら示されなかった」とは??

2022-09-30

リコリコの脚本問題点

リコリス・リコイルを観て、脚本に感じたモヤモヤを書くよ。

これは個人意見からガバガバ認定の全員が同じこと考えてるわけではないよ。人の意見を聞くのは面白いので、異なる意見や見落としている描写があったら教えてほしい。

リコリコとまどマギネタバレがあります


リコリコの脚本問題点は「するべき描写が足りていない」「制作人が物語客観視できていない」ことだと思う。

ストーリー描写に細かい突っ込みどころはたくさんあったけど、私が主にダメだと感じたのは以下の3つ。

①バディものにも百合にも足りていない

キャラクターが浅い

ストーリーに組み込むのに一般人描写がなさすぎる



①バディものにも百合にも足りていない

リコリコをバディものだと思ったのはイントロダクションの「凹凸コンビ」、キャッチコピーの「ふたり時間、選びとる未来」と1話から百合押しはいうまでもないでしょ。

バディもの必要ものは、「この2人じゃなければこの結末はなかったと思える」ことで、百合定義が難しいけど「女の子同士」で「互いが影響を与え合い、代わりのない存在となる」とかそのあたりが必要だと思う。


バディものだったかということについては、2人で敵と戦うわけでもないし2人で悩んだりするわけでもないし、2人で選び勝ち取った未来でもなくて、最終的に千束のための物語だった。求めてたバディもの描写OP共闘部分くらいだったよ。


百合に関しては、なぜかまどマギと比べている人がいたかまどマギを例にカップリングの傾向について書く。まどマギカップリングがメイン登場人物分あって、まどかマミさんカップリングは人気だけど、さやかマミさんカップリングはそうでもないんだよね。3話まで3人で行動していたのに差があるのは、マミさんの心を理解して変化させたのはまどかだったからっていうのがあると思う(ほむらのいた世界関係も含まれると思うけど)。まどかさやかマミさんから影響を受けているけど、マミさんまどかから影響を受けて心情に変化があった描写があるからエモい関係になった。


じゃあリコリコではどうだったかというと、たきなは千束から影響を受けたといえるけど、千束はたきなに影響を受けてはいない。千束がたきなに特別感情吐露するとか、たきなという人間じゃないと成し得ない関係になってるわけでもない。ついでに言うとたきなも影響を受けてはいるけどそれで成長した描写が薄いから、ただDAが全てだった頃から依存先が変わっただけにしか見えない。

2人がお互いに不可欠な存在だったり深く干渉し合った関係ではない。だから百合か?といわれると、いや百合ではないな…ってなる。「女の子同士がいちゃいちゃしてれば百合なんだよ!」っていう層とはこの辺で相いれないんだろうなぁと思う。


そしてバディでも百合でもないし千束に影響も与えないから、たきなの存在必然性がない。これは後半だけじゃなくて物語全体で感じたことで、物語におけるたきなの役割って「ドローンを打ち落とせるくらい射撃うまい」以上のことがない。

たきなの代わりにえりか(1話人質になった子)が喫茶リコリコへ左遷された物語を考えてみてほしい。それで物語の大筋が変わるか?千束が「あなたに会えて嬉しい」とたきな以外に言わないか?そこが変わらないならたきなの存在必然性説得力もなく、制作側がやりたいことをするための存在に感じるよ。

描写が足りない点についてもう一つ考えてほしいんだけど、たきなは「昨年京都から転属した」「フキと同室だった」って1話で言っていて、千束出会う前に少なくとも数か月はフキ達と行動してたってことになる。1話以前のたきなを想像できるか?あの性格で今まで問題なく過ごせていたほうがおかしいし、1話が初任務くらいじゃないと違和感がある。あの世界でキャラクターが生きてる感じがしないんだよ。

たきなについてもう1つ問題点があって、結局1話で機銃を撃ったことに言及してない。千束は「人を助けた」って言ってるけど、たきなが命令無視して動くほど合理的だと感じた理由への言及がない。これはたきなの成長を描くなら必須だよ。

千束を除いたたきな独自関係性って本編の中ではえりかしかいから、11話のえりかとの和解重要意味があるはずで、たきなの行動が本当にえりかを救いたかったものならばそこで撃った理由を話すべきだった。例えばたきなからえりかへ「怖い思いさせてごめん」「あの時はわからなかったけど(成長した)今ならわかる。私はあなたを助けたかった」とかそういう展開が必要だった。嫌味を言うだけで終わったから、あの行動の理由なんて考えておらず、たきなの成長を描く気がなかったんだなって思ったよ。


キャラクターが浅い

このアニメモノローグ1話冒頭しかいから各々の心情を知るには主に会話になる。で、考えをベラベラ喋る割にはキャラクターの行動原理が見えてこないから、こいつら何がしたいの?感がでてくる。


千束だと不殺っていう意思があるわけだけど、

人を殺したくない←なぜ:人に救ってもらった命だから

っていうのは理解できる。でも「自分が」殺したくないにしてはたきなやフキに殺さないように言うし、直接的にも間接的にも殺したくないにしては1話の機銃乱射に歓声あげて、自分がもう少し早く到着していれば回避できたとかそういう葛藤もない。不殺理由を「気分がよくないから」って答えているけどその「気分」の根拠もないから結局何がしたいの?その中途半端な設定いる?と思ってしまう。


敵についても動機が見えてこないから浅くて小物感があるし、それと戦っている主人公達とこの物語がチープに見える。

吉松だと

千束に殺しをさせたい←なぜ:才能を世界に届けたいから←なぜ:?

真島だと

テロを起こす←なぜ:バランスを取りたい←なぜ:?

っていう感じで行動に対する動機が見えてこない。このキャラクターはなぜそうしたいのかという部分が足りていない。過去編やって全部描写しろとは言わないよ。でもワンカット一言くらい「なんかあったんやろなぁ」と感じさせるものがないのは、そもそも理解させる気がない。

例えば真島は世界テロ組織転々としてるって設定があるんだから過去戦争バランスにこだわるきっかけがあったとか、一瞬でも過去描写があれば勝手考察してもらえるのにもったいないなぁって思った。



ストーリーに組み込むのに一般人描写がなさすぎる

12話で特に顕著だった一般人描写について、ストーリー全般で明らかに足りていない。ストーリー一般人が全く関わってこないならいいけど、一般人ギミックにするなら序盤から省いてはいけない要素だった。モノローグで「平和です!」って言われてもどのレベルかわからない。作中でも暴力団はい描写はあったし、10年前にテロが起きてる時点で平和ってなんだよって思うよ。

というかこのアニメの設定上、殺し屋とかと戦うんだから相対的治安が悪く見える。だから一般人平和ボケと平和な作中世界は過剰なくらいやらないとつり合いが取れない。それを省いた上での12話だからそれは批判されるよ。

設定上できないんだったらいいけど、喫茶店という一般人が立ち入る場所があって、かつ4話ではテレビ脱線事故に対する反応もしているのに、平和ボケしている描写を入れられなかったは通用しない。それで理解してくれは制作側の明らかな怠慢だよ。

1話でも街中の戦闘誘拐未遂があったんだから、人が死なない事件の後処理や一般人ひいては被害者事件に対する認識を描けていれば世界観も掘り下げられてよかったのになぁと思った。


総合的に言うと、やりたいことはわかるけどそれに必要描写もないしキャラクターの掘り下げもできていないせいで何がしたいのかわからないアニメだった。脚本複数いるみたいだから舵取りをするべきなのは監督だし、監督ストーリーに対する客観視が足りなかったのか、そもそのそんな詳細な設定は考えられてないのか、そこに割く時間がなかったのか。

やりたいことについては付いてきてくれる人はいからこれから頑張ってほしいよ。もったいなかったなぁ。



[余談]

上記で何度か触れてるけど、このアニメ1話が一番問題だと思う。始まりもっと丁寧に描いてほしいなって思った。


・この13話かけた世界意味があったのはミカくらいだろうね。

ミカ過去と向き合いそのけりをつけた。他の人は何も成し遂げていないし解決もしていない。


百合まどマギを例に出してたけど、オリジナルアニメ、バディもの、整備された歪な世界、それに異を唱えるラスボス という点ではPSYCHO-PASSがこの作品比較としては適切じゃないかな。PSYCHO-PASS主人公友達一般人目線があったし、ちゃんとバディものだった。まだ観たことがない人にはどっちもぜひ観てほしい。


・魅力的な世界いまいち理解できない登場人物、作者の考えた設定を見る側に伝えられていない、本筋と関係ない描写時間を割くっていう点でリコリコは打ち切り漫画みたいだなって思った。途中の失速に対してある程度落としどころ見つけたね~みたいなのも含めて。


アニメ映画でどういう話だったかって短く要約できるものは優れた脚本だといえるけど、リコリコに関して思いついた人がいれば教えてほしい。自分はできなかったので。

2022-09-27

追記:リコリス最後まで見たけどアニメ業界作家性の劣化を感じた

https://anond.hatelabo.jp/20220926044355

この記事追記です。たくさんコメントいただいたので追記していくなかで返していきます

コメントへの返信

テーマをほっぽりだすような作家性のなさ」あれのテーマってかわいい女の子制服着せてガンアクションさせたろ!でそれ以外の設定は全部フレーバーだと思ってたわ

似たようなコメントはどちゃくそいただきました、リコリコを擁護する側の方達も大多数の方はこの作品作家性がない・乏しいことは同意していただけてますね。

作家性を忌避することが現代社会の歪さの現れと図らずも書いたんですが、わりと共感していただける方がいてうれしいです。

テーマ性を追求する作品や完成度が高い作品がウケなくなってるのかなとは感じています、まるでTiktokのように中毒性のある快楽原則しかないようなエンタメを凄まじいスピードで貪るように消費していくのが現代社会なのかもしれません。

ただ一つだけ言っておきたいのはアニメ界で代表的作家たち、例えば富野由悠季宮崎駿押井守庵野秀明、彼らは作家性だけで名をはせたのではなく商業的にも成功を得ているのです。

作家性と商業性、エンタメは両立しうるのです、相反するものではないのです。そういったことをリコリコには期待したのです。

確かテレビアニメ1話制作時間は通常3ヶ月ぐらいかかるので、1クールの途中で人気出たから話の方向性変えるみたいな事は基本物理的に不可能だと思われます

こちらの話は真偽は不明ですが、だとしたら放送前にも関わらず欲をかきすぎた、終盤の脚本ストーリークオリティの練り上げがたらなかった、それにつきます

言いたいことはわかるけど、「悪しき組織がぶっ壊れてめでたしめでたし」なんていかにもアニメの中だけの話じゃん?「悪しき政府組織が罰せられないまま世界は続いていく」のほうが現実を描いてると言えない?

それが作品として明確にやりたいことでしたらいいですが、そうではなくDAの加害性が示されないのは単純に脚本稚拙だっただけです。テロリストの真島が語っているといったコメントもありましたが浅いのです、例えばガンダム逆襲のシャアで劇中の登場人物の「人類すべてを抹殺する」といったセリフがありますが、製作者が明らかに本気で人類全て殺すとセリフとして表現しています。他の人がやったら馬鹿馬鹿しくて気恥ずかしさすら感じますが、逆襲のシャアにはそれない、何故なら監督がこれしかないと本気で全人類を粛正したいと思いセリフ指定たからです。リコリコの真島が語っていることは軽薄で浅はかさしか感じずその思想バックグラウンドも作中では語られないため、監督の本気さが感じない、それは明らかに脚本の練り上げ不足なのです。

何こんなアニメにマジになっちゃってんの?

うるせえ、こっちはお前が精子の頃からオタクなんだよ、アニメにも本気になれないやつは去れ

思ったより多くの人が記事を読んでくれたみたいなのでオタクらしく推し普及活動

A KITE インターナショナルヴァージョンhttps://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B00IIJKQ9K/ref=atv_dp_share_cu_r

索敵範囲だとリコリス・リコイルの先行作品GUNSLINGER GIRLを上げている人が多かったですが、私はリコリコを最初見た時セーラー服を着た少女殺し屋のガンアクションアニメとして梅津泰臣監督の"A KITE"が頭に浮かびました。

1998年作品しかも18歳未満禁止エロアニメ若い子が知っているか不安ですが、大変よくできたエログロガンアクションものアメリカでも実写映画化したほどです。リンクAmazonレンタルインターナショナルヴァージョンといって海外普及向けにエッチなシーンは削られた作品となります、つーてもそれなりに残ってますが。リコリから砂糖を抜いてちょっと内容をエログロに入れ替えたくらいの作品といった気持ちで見て頂ければ。オリジナル配信で見たい場合FANZAとか大人向けのサイト大人になってから見てください。

anond:20220926044355

俺は現状リコリス・リコイルは今年度オリジナルアニメで1番面白かったと思っている。

主人公女性2人(千束、たきな)とそのモデルケースにもなりえる男性2人(吉松ミカ)の関係について完璧ものが見れたので一切文句が無い。(主人公2人だけだと最後描写が軽くなる)

もしアラン機関テロリストの真島、DA存在について尺を割いた代わりに主要人物の描写希薄になってしまっていたら、主役が可愛いまあまあ面白アニメとだけ記憶していただろう。

こういった取捨選択ができていることからむし制作陣に拍手を送りたい。

次回作も期待しています

2022-09-26

anond:20220926044355

リコリスキャラデザ声優の演技、いかにもSF好きにウケそうなディストピア世界観はほぼ満点だった。ただ脚本が軽すぎたので10話以降見るのがキツかった。

千束とたきなのDAでのアクション友情パートとかは見ていてアツくなれたけど、、真島とヨシさんのストーリーラインはみんな動機が軽すぎるしギミック説得力も正直うすい

ヨシさんは千束人殺しになれ!と言い続けるだけの壊れたロボットないし長引いた厨二病患者しか見えない。千束不殺を貫くのはいいが、そのために電波塔からあっけなく落ちるのはそれでいいのだろうか。楠木司令は深い考えがありそうに見せかけるだけで行き当たりばったりの無能、ロボ太は国の中枢にハッキングできるけどちょっとしくったらすぐに逮捕されるというパワーバランス。先に逮捕しとけよ。真島も愉快犯なのか偽善を暴く志士なのか、どちらにしてもただのチンピラ感が抜けずラスボスとして凄みに欠ける、というかあまり怖くない。千束を殺せるのに殺さない、というシーンが多すぎた。


プロットというよりはなんか描写の仕方とか掘り下げ方な気がするのよね。キャラの作り込みというか。

anond:20220926085411

なんていうかDAアラン機関っていう主人公と相対する組織を2つ作ってしまったのが終盤とっ散らかった原因なのかなとは。

リコリス最後まで見たけどアニメ業界作家性の劣化を感じた

いやまあリコリス・リコイル最後まで見たんですがね、それなり楽しめたんですが、明らかに人気がでたか作品の完成度よりも、続編への欲を丸出しな最後にガッカリしたんですよ。

リコリス・リコイルは名作になり損ねた

別に商業的な合理性否定してるわけじゃないんですが、でも作品としての完成度を意識してほしいなとは思って見てたんですね。

ただ、見終わって納得できなかったのは、少女達の青春犠牲を強いて国家治安を維持しようとするDAには明らかな加害性があるわけですよね、やってる事は戦中の軍部国家の為と称して若いパイロット達に特攻させて彼らの青春無茶苦茶にした事と変わらないんですよ。にも関わらずリコリス犠牲を強いていた側の人間は何一つ断罪されないどころか何の加害性すら示されなかった。

一応、作中でテロリストの真島はDAの加害性に触れてはいますが今一つセリフの一つ一つが軽薄で生半可な感じは脚本の練り上げの足りなさを感じずにはいられませんでした。

また、作中で出てきたアラン機関男の子リコリスであるリリベル、等々散りばめられた要素は何一つこう作中で明らかにならないまま回収される事もなく終わり、なんなんだろうと何の為に出てきたのかわからないままで腑に落ちません。明らかにこれらの要素は続編で回収するから期待してね、といった下心丸出しでうげーとなりました。

結局作品としての完成度よりも人気が出たから続編を出すことを優先したんだなといった印象は拭えず、テーマをほっぽりだすような作家性のなさには10年後も記憶に残るような作品よりも、作品が続く限り儲かればいいといったガッカリ意識しか読み取れませんでした。扱っているテーマ演出の素晴らしさは名作になり得ただけに残念です。まあこれは私の期待しすぎと言われればそれまでですが。

アニメ業界作家性が明らかに劣化している

90年代から00年代くらいまでのアニメにはテーマ性で明らかに上の世代を超えてやるぞ!といった意気込みは感じられたのですが、ここ近年話題になったアニメにはそういった意欲を受けとれません。

事実最近話題になるアニメ鬼滅の刃呪術廻戦、無職転生等々漫画やなろう系原作作品が目立ち、アニメ制作者側に作家性よりも制作技術が求められるケースが多く、アニメ業界でこれは才能を発見したなといった事が無くなってきています

リコリスコイルは久々に話題になったオリジナルアニメでしたのでわくわくしながら見ていたのですが、菓子パン砂糖を振り撒いたような糖分の中毒性で誤魔化した内容で期待はずれでした。作家性を忌避する事が現代社会の歪さの表れかもしれませんが、日本アニメ業界から才能が生まれる事はないのかと思うと寂しく思っております

追記コメントへの返信書いた

追記:リコリス最後まで見たけどアニメ業界作家性の劣化を感じた

https://anond.hatelabo.jp/20220927035238

2022-09-25

リコリコの感想

個人的には面白かった

で、他の人はどうだったかなと調べたら設定ふわふわストーリーガバガバ微妙評価だった

言われてみれば、と思ったので思ったことを書き出してみる

DAという組織

犯罪隠蔽するといった機能を考えると、そもそもこの大前提から無理がある

目撃者どうすんねん問題

情報操作が当たり前すぎてお前らが犯罪組織感)

ここに違和感を抱いた人はまずこの作品を見ないであろう、てか見てないよね?

なので、この組織に関しては真面目に考えずにファンタジーであるという認識を持った方がいい

最終回前に、銃を持って犯罪者を粛清するリコリス存在全国ネット(暫定)で公開され、その誤魔化し方にアニメ視聴者かギョッとした

最もその後、全ての人々がガバガバ工作を信用しているわけではないという描写が成されたが、DAという組織が隠れて治安を維持するという設定そのものミラクルであることを考えると、そういう世界なんだろうな、という理解に落ち着くのが無難かもしれない

要するにつっこんだら負け、なのだが、どんでん返しを期待する視聴者側としては肩透かしを食らったのも同然なので、もうすこしなにかいい案はなかったのですかと思わなくもない

アラン機関

全貌が明らかにされていない組

ミシュランの星つけるみたいに、才能ある人にペンダントを送る、ある種の慈善活動をしているような印象がある

才能に対して支援するアラン機関犯罪組織イコールではないが、現在テロリストとして活動する真島を支援している背景もあるので何がしたいのか謎

……ではあるが、それはそれとして、組織全体としては犯罪組織ではないと思われる

判断材料が少ないのでこれ以上話を広げられない)

今回の延空木の1件は、エージェントである吉松によるもので、そこだけを見れば彼は立派な犯罪である

じゃあ彼は何をしたかったの?という疑問の答えは「自分が才能を見出し少女が思い通りに成長しなかったから解らせに来た」だろう

殺人の才能を生かすことでどんなメリットが得られるかなどについても言及はない模様

舞台装置として認識してるので、理由はさておき、ばやっとした理念理解出来ればいいか認識している

あるいは今後の話の展開のために敢えて何も語っていないのかもしれないが、そもそもメインとなる話はリコリスであるから、続編があったとしてもアラン機関が登場する理由はないだろう

千束ペンダント捨てたし

・真島

ぽっと出じゃなかった髪がすごい人

弱者の味方と語るが、強者蹂躙することで弱者の味方になるという認識なのだろうか

所謂ラスボスポジションで、尽く千束に絡んでくるある意味人間味のあるテロリスト

バランスを取るためにテロを起こすのは割高ではないかと思われるが、広く世間弱者ににアピールするために事を大きくしている……のかもしれない

自分なりの美学があるらしく、破壊の限りを尽くすと言うより、何かしらの爪痕を残すことを目指している?

で、結局最終的には千束と命のやり取りがしたいと語るあたり、バランスとは何だったのか

およそ美学に基づいてテロを起こすという点においてはヒールとして興味深い

とはいえ、結局何がしたかったのこの人V2であることには変わらない

大衆リコリス存在認知させることで、日本の闇を暴いたのだとして、それがどうバランスを取ることに繋がるのか不明

美学のもとに世間をさわがすテロリスト」くらいの認識落ち着け特に何も思わない

・たきな

DAに戻りたいという左遷されたリコリス

結果、DA支部にて感情かになり、命令無視するような狂犬と化した

しばしば話の展開が早いと語られるが、千束心臓の件もそうだろう

個人的にはたきなが千束に情を抱き始めているのはよく分かったので、戸惑うところまでは理解出来る

しかし、いくら感情かになったとはいえ、理性を失うほど突っ走るキャラだったのだろうかという疑問は残る

命のやり取りしてるんだから必死になって当然!とは思うけれど、突然好感度が50が5000くらいにぶち上がった印象で、ちょっとびっくりしてしまった

吊り橋効果かもしれない

あと単純に疑問なのですが、命令無視しまくった結果左遷続行ということなのですよね?

左遷先の方が伸び伸び過ごせそうなあたり、楠木さんどうなんですか?

とまあ主に後半戦の疑問をまとめた

カッチリしたバトルものというより、女子メインの日常ガンアクションもの、という認識だったので、ふわふわした設定はさほど気にならなかった

キャラの掛け合いというか、場面の切り取り方がアニメというよりドラマというか、そっちを彷彿とさせたので会話劇が気に入った結果かもしれない

当然キャラが合わない人は合わないだろうし、ストーリーおもんなって人は何度見てもおもんな、って思うだろう

色んな設定が他作品を模したコピーアニメって評価も見たが、この令和のご時世、見たことも無いオリジナリティ溢れる作品の方が珍しい気もするんだがなあ

まあ、面白かったと言ってる人間でも、こんな不満は感じてるというメモ

2022-09-18

リコリス処分する前に

楠木から処分すべきだろ?

「隠密部隊が聞いて呆れる」のは作戦指揮を取った楠木の責任

リコリス使い捨ての駒扱いし犬死させてきたのも楠木

なんでここで良いオバサン的持ち上げ展開になっているのだ?

楠木とDA組織的無能ぶりを徹底的に晒しヘイトを高める展開だった11話はマジなんだったの

前半のシリアスと打って変わって、後半は軽〜いノリなのも気色悪く

千束救世主面したがるくせに、同じく不幸な境遇から闘うことを強いられている

お仲間の犠牲には異常に無頓着冷徹って

欺瞞矛盾を改めて浮き彫りにするだけ

全く理解に苦しむ脚本

2022-08-30

暗号資産仮想通貨投資の考え方2022

なんか投資関係記事がバズっているので、暗号資産クラスタについてぶっこんでいく。(この記事はfinancial adviceではありません)

日本ではまだ怪しい投機扱いされている暗号資産だが、アメリカでは既存金融にすでに取り込まれている。

仮にこの記事ブコメがついたとしたら、やっぱり投機投機書かれるだろう。そういう人はこの記事対象ではないし、すでに三周は遅いので無視して良い。

さて、暗号資産というやつは、実はナスダックとの相関性がかなり高いことがわかっている。ので、投資すべきタイミングは米株と同じ考え方で良い。

レバレッジナスダック(いわゆるレバナス)は一度下がってしまうと、元の価格に戻ってきても評価額は減価してしまうが、暗号資産は元の価格に戻ってくる動きをしやすい。

身も蓋もないが、レバナスよりマシな商品と考えればあまり外れていない。

ので、もし現状のマクロ経済状態では米株投資すべきでないと考えるのなら、今は暗号資産投資をすべきではないし、逆に投資しても良いと考えるのなら検討しても良いだろう。

投資しても良い暗号資産はBTC,ETHだけである

これ以外の暗号資産お金を入れてはいけない。お兄さんとの約束だぞ。

慣れてる人はスマコン系の代替L1通貨とか、ORU/zkRUのL2系通貨お金を入れてもまあ良いと思う。ただ、これは自分で一次情報を取れて、かつ本当に詳しいと自認できる人だけにしたほうが良い。

情報を追いたいのならumbrelやLNを追っかけているビットコイナー、またはMergeやDAShanghaiを追っかけてるイーサリアンをフォローしておこう。

ただしtoxicなビットコイナーはやめとけ。心が汚れる。あと「ビットコインも環境問題POSに…」とか言ってるイーサリアンもやめとけ。心が汚れる。

詳しくなった人はsolana/avax/cosmos(atom)などの代替チェーン情報を発信している人をフォローしても良い。ただし火傷に気をつけろ。

stepnとかiost, xym, xrp, 魔界アルトなんかの情報を追っかけてる人、あなたは向いてない。います暗号資産投資をやめろ。金を失う最短ルートを走っている。もう一度チャート見直して冷静になれ。

aptosやsuiが天下を取る…と中身を理解しないまま思ってる人も情報の取り方を再考したほうが良い。あなたは賢いように見えて、大口投資家の出口だ。

NFTは消費として買っても良いと思えるものを買え。これはそういう業界だ。

投資としてNFTを扱いたいのなら、細心の注意を払って行え。今の市況では、難易度が高すぎる。キュレーターより厳しい世界だ。

情報フォローしたいのなら、XCOPYやNOUNSに言及している人にしておけ。

さて、買ったBTCとETHだが、以下の運用オススメする。


WBTCはおすすめしない。カウンターパーティーリスクがある。

ETHは、PriorityFeeやMEVが貰えるようになるので多少利率が高まる

課税イベントは起こさないほうが将来的な利益は高いだろう。なのでガチガチャしないことをオススメする。

この記事の言っていることが正しいかどうかは、界隈のこの記事に対する反応を参考にすること。

don't trust. verify.」がこの世界の基本。


それでは、良い暗号資産ライフを。

2022-08-14

リコリスコイルの主に設定・脚本演出まわりのあれこれ

はしがき

総評

個人感性の話になるけど、こういう世界観ならこういう組織キャラクターシチュエーションが成立しそうだね、そういうキャラクターがこういうシチュエーションに放り込まれたならこういうドラマが発生しそうだね、というところが可能な限り破綻なく噛み合って、その上でキャラクターの行動・お話の展開に意外性がありつつも納得できる形で成立しているとすごく刺さるんだよね。そのとき設定やお話自体は作中で納得感がある形で描写されていれば現実離れしていても問題ない。

逆に世界観と展開が一致しないとか、キャラクターを無理に動かしてるとか話の都合が優先されると一気に萎えちゃうんだよな。だから松野泰己が作るお話はすごい好き。

その点リコリス・リコイルもったいないなーという印象。世界観の骨格は重めに作ってるのに、設定に無理があったり細かなお話の展開・演出がご都合優先で整合性を欠いたりしている。たぶん実際にやっていることはヒロイン二人のお話から、不必要世界観が足を引っ張ってるんだと思う。ただ自分にとっては前述のように世界観・設定やキャラクターとの整合がとれたドラマを観られることが重要から、そのあたりのチグハグさがとても気になる。

すごくいいところもあるし放送されてる間は話題になるけど、オールタイム・ベストになったり後世に名を残すでもなく、中途半端に消費されるだけになりそうというか。その点ガンスリンガー・ガールは確かに後世に名を残しているじゃんか。その違いだよね。作画劇場版と言っても問題いくら高水準なのに。そういう意味ではワンダーエッグプライオリティに似たものを感じる。

後半でうまくお話転がしてDAという組織の成立やリコリス出自に伴う因縁敵対組織との相克を折れたタワーの由来と絡めながらダイナミックに風呂敷広げて、歪な社会構造の少なくとも一部を何らかの形で次のステージに進める感じで綺麗に畳んでくれるといいけど、千束とたきなのしょーもない心の葛藤百合百合パワーで乗り越える!みたいなヒロイン二人の関係性で話が終わりそう。学園ドラマでやってくれ。

微妙だと感じた点を色々書いていくけど、制作陣はそんなこと言われなくても分かってると思うので最終的にこういう指摘を跳ね飛ばすくらい面白い、視聴してよかったと思える作品に仕上げてくれることを祈る。

いいところ

とにかく突き抜けた作画クオリティとメインのふたりキャラの魅力がアニメ作品として話題を引っ張ってる印象。

微妙なところ

作画のよさとはアンバランスに、設定作りや脚本演出には力入れてないなという印象。

もっとコミカルだったりファンタジーに寄せてくれれば(ガルパンのように)そういう作品なんだと割り切ることもできたけど、なまじほぼ現代日本一見リアルっぽい作りにしているから見せたいもの世界観・設定が一致してないように見える。

詳しくは下記の通り。

ガバガバ設定

そもそもベースとなる世界観お話の展開の間をつなぐ設定に納得感が無い箇所が多い。ファンタジーにするならもっとファンタジーに描く、リアルに寄せるなら設定も妥協しないという整理をしてほしかった。リアリティラインをどのあたりに置けば良いのか迷ってしまった。

ガバガバ展開

その流れならその展開しないでしょとか、このキャラクターがこう動くのはおかしいとか脚本の都合優先で設定やキャラクターが置き去りになってる。

敵も味方もいちいち迂闊。治安維持組織犯罪組織の攻防にリアリティも緊張感もあったもんじゃない。ツッコミどころに対して劇中でセルフツッコミもしてるけど、それがいちいち言い訳がましい。それなら最初から整合性のある設定や演出をしてくださいよ。

さすがにここまで突っ込む気は無いよポイント

まあエンタメ作品からね、ある程度の制作上の都合とか、あからさまにネタに寄せてる部分もあるよね。分かるよ。

気にはなったけどまあ飲み込んでもいいかというポイントを書いていくよ。

リコリスコイルの主に設定・脚本演出まわりのあれこれ

はしがき

総評

個人感性の話になるけど、こういう世界観ならこういう組織キャラクターシチュエーションが成立しそうだね、そういうキャラクターがこういうシチュエーションに放り込まれたならこういうドラマが発生しそうだね、というところが可能な限り破綻なく噛み合って、その上でキャラクターの行動・お話の展開に意外性がありつつも納得できる形で成立しているとすごく刺さるんだよね。そのとき設定やお話自体は作中で納得感がある形で描写されていれば現実離れしていても問題ない。

逆に世界観と展開が一致しないとか、キャラクターを無理に動かしてるとか話の都合が優先されると一気に萎えちゃうんだよな。だから松野泰己が作るお話はすごい好き。

その点リコリス・リコイルもったいないなーという印象。世界観の骨格は重めに作ってるのに、設定に無理があったり細かなお話の展開・演出がご都合優先で整合性を欠いたりしている。たぶん実際にやっていることはヒロイン二人のお話から、不必要世界観が足を引っ張ってるんだと思う。ただ自分にとっては前述のように世界観・設定やキャラクターとの整合がとれたドラマを観られることが重要から、そのあたりのチグハグさがとても気になる。

すごくいいところもあるし放送されてる間は話題になるけど、オールタイム・ベストになったり後世に名を残すでもなく、中途半端に消費されるだけになりそうというか。その点ガンスリンガー・ガールは確かに後世に名を残しているじゃんか。その違いだよね。作画劇場版と言っても問題いくら高水準なのに。そういう意味ではワンダーエッグプライオリティに似たものを感じる。

後半でうまくお話転がしてDAという組織の成立やリコリス出自に伴う因縁敵対組織との相克を折れたタワーの由来と絡めながらダイナミックに風呂敷広げて、歪な社会構造の少なくとも一部を何らかの形で次のステージに進める感じで綺麗に畳んでくれるといいけど、千束とたきなのしょーもない心の葛藤百合百合パワーで乗り越える!みたいなヒロイン二人の関係性で話が終わりそう。学園ドラマでやってくれ。

微妙だと感じた点を色々書いていくけど、制作陣はそんなこと言われなくても分かってると思うので最終的にこういう指摘を跳ね飛ばすくらい面白い、視聴してよかったと思える作品に仕上げてくれることを祈る。

いいところ

とにかく突き抜けた作画クオリティとメインのふたりキャラの魅力がアニメ作品として話題を引っ張ってる印象。

微妙なところ

作画のよさとはアンバランスに、設定作りや脚本演出には力入れてないなという印象。

もっとコミカルだったりファンタジーに寄せてくれれば(ガルパンのように)そういう作品なんだと割り切ることもできたけど、なまじほぼ現代日本一見リアルっぽい作りにしているから見せたいもの世界観・設定が一致してないように見える。

詳しくは下記の通り。

ガバガバ設定

そもそもベースとなる世界観お話の展開の間をつなぐ設定に納得感が無い箇所が多い。ファンタジーにするならもっとファンタジーに描く、リアルに寄せるなら設定も妥協しないという整理をしてほしかった。リアリティラインをどのあたりに置けば良いのか迷ってしまった。

ガバガバ展開

その流れならその展開しないでしょとか、このキャラクターがこう動くのはおかしいとか脚本の都合優先で設定やキャラクターが置き去りになってる。

敵も味方もいちいち迂闊。治安維持組織犯罪組織の攻防にリアリティも緊張感もあったもんじゃない。ツッコミどころに対して劇中でセルフツッコミもしてるけど、それがいちいち言い訳がましい。それなら最初から整合性のある設定や演出をしてくださいよ。

さすがにここまで突っ込む気は無いよポイント

まあエンタメ作品からね、ある程度の制作上の都合とか、あからさまにネタに寄せてる部分もあるよね。分かるよ。

気にはなったけどまあ飲み込んでもいいかというポイントを書いていくよ。

リコリスコイルの主に設定・脚本演出まわりのあれこれ

はしがき

総評

個人感性の話になるけど、こういう世界観ならこういう組織キャラクターシチュエーションが成立しそうだね、そういうキャラクターがこういうシチュエーションに放り込まれたならこういうドラマが発生しそうだね、というところが可能な限り破綻なく噛み合って、その上でキャラクターの行動・お話の展開に意外性がありつつも納得できる形で成立しているとすごく刺さるんだよね。そのとき設定やお話自体は作中で納得感がある形で描写されていれば現実離れしていても問題ない。

逆に世界観と展開が一致しないとか、キャラクターを無理に動かしてるとか話の都合が優先されると一気に萎えちゃうんだよな。だから松野泰己が作るお話はすごい好き。

その点リコリス・リコイルもったいないなーという印象。世界観の骨格は重めに作ってるのに、設定に無理があったり細かなお話の展開・演出がご都合優先で整合性を欠いたりしている。たぶん実際にやっていることはヒロイン二人のお話から、不必要世界観が足を引っ張ってるんだと思う。ただ自分にとっては前述のように世界観・設定やキャラクターとの整合がとれたドラマを観られることが重要から、そのあたりのチグハグさがとても気になる。

すごくいいところもあるし放送されてる間は話題になるけど、オールタイム・ベストになったり後世に名を残すでもなく、中途半端に消費されるだけになりそうというか。その点ガンスリンガー・ガールは確かに後世に名を残しているじゃんか。その違いだよね。作画劇場版と言っても問題いくら高水準なのに。そういう意味ではワンダーエッグプライオリティに似たものを感じる。

後半でうまくお話転がしてDAという組織の成立やリコリス出自に伴う因縁敵対組織との相克を折れたタワーの由来と絡めながらダイナミックに風呂敷広げて、歪な社会構造の少なくとも一部を何らかの形で次のステージに進める感じで綺麗に畳んでくれるといいけど、千束とたきなのしょーもない心の葛藤百合百合パワーで乗り越える!みたいなヒロイン二人の関係性で話が終わりそう。学園ドラマでやってくれ。

微妙だと感じた点を色々書いていくけど、制作陣はそんなこと言われなくても分かってると思うので最終的にこういう指摘を跳ね飛ばすくらい面白い、視聴してよかったと思える作品に仕上げてくれることを祈る。

いいところ

とにかく突き抜けた作画クオリティとメインのふたりキャラの魅力がアニメ作品として話題を引っ張ってる印象。

微妙なところ

作画のよさとはアンバランスに、設定作りや脚本演出には力入れてないなという印象。

もっとコミカルだったりファンタジーに寄せてくれれば(ガルパンのように)そういう作品なんだと割り切ることもできたけど、なまじほぼ現代日本一見リアルっぽい作りにしているから見せたいもの世界観・設定が一致してないように見える。

詳しくは下記の通り。

ガバガバ設定

そもそもベースとなる世界観お話の展開の間をつなぐ設定に納得感が無い箇所が多い。ファンタジーにするならもっとファンタジーに描く、リアルに寄せるなら設定も妥協しないという整理をしてほしかった。リアリティラインをどのあたりに置けば良いのか迷ってしまった。

ガバガバ展開

その流れならその展開しないでしょとか、このキャラクターがこう動くのはおかしいとか脚本の都合優先で設定やキャラクターが置き去りになってる。

敵も味方もいちいち迂闊。治安維持組織犯罪組織の攻防にリアリティも緊張感もあったもんじゃない。ツッコミどころに対して劇中でセルフツッコミもしてるけど、それがいちいち言い訳がましい。それなら最初から整合性のある設定や演出をしてくださいよ。

さすがにここまで突っ込む気は無いよポイント

まあエンタメ作品からね、ある程度の制作上の都合とか、あからさまにネタに寄せてる部分もあるよね。分かるよ。

気にはなったけどまあ飲み込んでもいいかというポイントを書いていくよ。

anond:20220814105302

あの世界観では抑制不要でしょ。

反乱・裏切りした人物DA攻撃対象になるだけで、消されておしまい

2022-08-13

anond:20220813125611

Shi ya sa kawai za a iya fassara shi da ihun Avegar.

Za a rabu shekaru da yawa.

anond:20220813125811

Japan za ta ci gaba da rarraba har shekaru masu zuwa. Kasancewar Shinzo Abe ya kasance babba ga duka sansanonin masu ra'ayin mazan jiya da masu sassaucin ra'ayi.

2022-08-11

anond:20220811134111

これは、『天気の子』や『リコリコ』のテーマに直接的につながる主張であることのように思えます


 また、SF作家のアーシェラ・K・ル・グィンはこのエピソードを踏まえた上で(彼女によれば書いているとき意識していなかったということですが)、「オメラスから歩み去る人々」という寓話的な短編を書いています(『風の十二方位』収録)。


 これは、あらゆることが完璧に成立した理想都市オメラスの物語なのですが、じつはオメラスには恐ろしい欺瞞があって、ある小さな穴倉にひとりの子供が精霊への生け贄として閉じ込められているのです。


 この子供はその暗い牢獄のなかであらゆる権利剥奪され、虐待され、自分自身の糞尿の上に寝そべって暮らしているのですが、オメラスの住人のだれひとりとしてこの子供に優しい言葉ひとつかけてやろうとはしません。


 というのは、精霊との契約により、もしこの子供を救ったらオメラスそのもの崩壊することになっているからです。オメラスの大半の住人はこの事実を知ったときショックを受けますが、そのうち忘れてしまます


 ただ、ごく少数の人々はそのことを忘れられず、ただオメラスを壊してしまうこともできなくて、ただ、ひとり静かにオメラスを歩み去るのです。


 『天気の子』を観た人なら、この作品がこの「イワンテーマ」、あるいは「オメラスのテーマ」に対してひとつの答えを出していることがわかるでしょう。この映画はまさに「欺瞞理想都市オメラスから歩み去るのではなく、それを崩壊させる」物語なのです。


 そしてまた、オメラスが崩れても、それでも人は生きていくという物語でもある。これは少なくとも公開当時としては決定的に新しい決断だった。


 たったひとりの子供を犠牲にして成り立つ平和繁栄があるとしたら、その子供ひとりを救うためにでもその平和繁栄は亡んでしまってかまわない。そういう倫理的判断がその背景にあるように思えます


 一方の『リコリコ』では、リコリスたちの犠牲を背景にして成り立つ「オメラス」としての東京、あるいは日本社会は必ずしも否定的に描かれてはいません。そのことを批判的に告発することはできるでしょう。


 しかし、ぼくはあきらかにリコリコ』はその批判をも織り込み済みで、意図して「現在日本社会現実」を描出していると考えます。したがって、単になぞの組織DA」や「アラン機関」の悪を批判告発するだけではこの作品を正しく批評したことにはならない。


 『リコリコ』が語っているのは、ぼくたちが依拠しているこの「平和日本社会」そのものひとつ欺瞞理想社会オメラスなのであり、少数の人間たち(それも子供たち)の犠牲の上で成り立っているという現実なのです。


 いい換えるなら、『リコリコ』はぼくたちに対して「ほんとうにわずかな子供たちを救うためにこの平和を崩しますか? 理想平和崩壊させますか?」と問いかけて来ているといっても良い。


 『カラマーゾフの兄弟』のイワンル・グィンの描く「オメラスから歩み去る人々」のように、ただ欺瞞ユートピアを拒絶するだけならためらわない人も多いでしょう。しかし、『天気の子』のようにそれを崩壊させてしま選択を選ぶことがほんとうに「絶対正義」でしょうか?


 リコリスたちは、だまされ、利用され、搾取されているかもしれないとはいえ、一面では誇りをもって戦っているというのに?


 まだ物語は途中で、放送は続いているので確定的なことは書けませんが、ぼくは『リコリコ』は『天気の子』のように欺瞞告発し、欺瞞ユートピアとしての「日本社会≒オメラス」を崩壊させて終わるような結末にはならないと思う。


 DAリコリスによって維持される日本平和醜悪なまでに欺瞞的ですが、それでも平和には違いないのであって、一概に否定して終わることができるものではないのです。


 ここら辺の「必要悪としてのディストピアユートピア」の描写アニメPSYCHO-PASS』に通じるものがあるといって良いでしょう。


 『PSYCHO-PASS』の世界でも、欺瞞的な平和が続いているわけですが、それは必ずしも「悪」として告発すれば良いというものではなく、それを倫理的に乗り越えるためには「より良い社会モデル」を提示するしかないわけなのです。


 そして『PSYCHO-PASS』はそういうSF的にマクロテーマを扱う方向に進んでいるけれど、『リコリコ』はたぶんそういう物語にはならないんじゃないか


 ここまで書いて来たことを踏まえた上で、『リコリコ』が決定的に新しいといえるのは、その欺瞞、その偽善、その矛盾にもかかわらず、作品トーンが非常にあかるいことでしょう。前出のインタビューを読む限り、このあかるさも意図して選択されたものであることがわかります


 しかし、それはただ「暗いとウケないからあかるくしてみた」といった次元の話ではない。『リコリコ』は表面的なあかるさと裏面の深刻な暗さが奇跡的なほどのバランスで成立していて、それがおそらくは人気のもとになっている。


 匿名ダイアリー批判されているように、ただ百合百合女の子たちにガンアクションやらせれば人気が出るなんてことは、じっさいにはありません。エンターテインメントはそんな甘いものじゃない。


 『リコリコ』の人気は、この「天国ユートピア)のようでもあり地獄ディストピア)のようでもある過酷欺瞞社会」を「当然の前提」として受け入れつつ、なおかつ「突き抜けたあかるさ」で描くその斬新さの帰結です。


 べつの見方をすれば、『リコリコ』は日本アニメ歴史のなかで延々と語られてきた『新世紀エヴァンゲリオン』、『輪るピングドラム』、『進撃の巨人』、『BANANA FISH』、『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』といった「孤児たちのサバイバル」を描く物語の最新バージョンともいえる。


 いいかげん長くなったのでこれらの作品の内実については触れませんが、つまりはこれらの凄愴な物語ではごくシリアスに語られていたことが、『リコリコ』では一見ライトコミカルに語られている。


 しかし、それは搾取問題が消えてなくなったことを意味していない。そうではなく、その残酷な(新自由主義的な?)構造を生まれながらにある所与の前提として受け止めている新世代が出て来ているということ。


 それが『リコリコ』の「新しさ」であり「面白さ」だというのがこの記事結論です。『リコリコ』と最も同時代的な作品は、いま「ジャンプ+」で連載されている『チェンソーマン』の第二部とかじゃないかな。


 以上! こういったことを批判的に踏まえてより高次な議論ができれば良いと思っています。でわでわ。

anond:20220811134111

これは、『天気の子』や『リコリコ』のテーマに直接的につながる主張であることのように思えます


 また、SF作家のアーシェラ・K・ル・グィンはこのエピソードを踏まえた上で(彼女によれば書いているとき意識していなかったということですが)、「オメラスから歩み去る人々」という寓話的な短編を書いています(『風の十二方位』収録)。


 これは、あらゆることが完璧に成立した理想都市オメラスの物語なのですが、じつはオメラスには恐ろしい欺瞞があって、ある小さな穴倉にひとりの子供が精霊への生け贄として閉じ込められているのです。


 この子供はその暗い牢獄のなかであらゆる権利剥奪され、虐待され、自分自身の糞尿の上に寝そべって暮らしているのですが、オメラスの住人のだれひとりとしてこの子供に優しい言葉ひとつかけてやろうとはしません。


 というのは、精霊との契約により、もしこの子供を救ったらオメラスそのもの崩壊することになっているからです。オメラスの大半の住人はこの事実を知ったときショックを受けますが、そのうち忘れてしまます


 ただ、ごく少数の人々はそのことを忘れられず、ただオメラスを壊してしまうこともできなくて、ただ、ひとり静かにオメラスを歩み去るのです。


 『天気の子』を観た人なら、この作品がこの「イワンテーマ」、あるいは「オメラスのテーマ」に対してひとつの答えを出していることがわかるでしょう。この映画はまさに「欺瞞理想都市オメラスから歩み去るのではなく、それを崩壊させる」物語なのです。


 そしてまた、オメラスが崩れても、それでも人は生きていくという物語でもある。これは少なくとも公開当時としては決定的に新しい決断だった。


 たったひとりの子供を犠牲にして成り立つ平和繁栄があるとしたら、その子供ひとりを救うためにでもその平和繁栄は亡んでしまってかまわない。そういう倫理的判断がその背景にあるように思えます


 一方の『リコリコ』では、リコリスたちの犠牲を背景にして成り立つ「オメラス」としての東京、あるいは日本社会は必ずしも否定的に描かれてはいません。そのことを批判的に告発することはできるでしょう。


 しかし、ぼくはあきらかにリコリコ』はその批判をも織り込み済みで、意図して「現在日本社会現実」を描出していると考えます。したがって、単になぞの組織DA」や「アラン機関」の悪を批判告発するだけではこの作品を正しく批評したことにはならない。


 『リコリコ』が語っているのは、ぼくたちが依拠しているこの「平和日本社会」そのものひとつ欺瞞理想社会オメラスなのであり、少数の人間たち(それも子供たち)の犠牲の上で成り立っているという現実なのです。


 いい換えるなら、『リコリコ』はぼくたちに対して「ほんとうにわずかな子供たちを救うためにこの平和を崩しますか? 理想平和崩壊させますか?」と問いかけて来ているといっても良い。


 『カラマーゾフの兄弟』のイワンル・グィンの描く「オメラスから歩み去る人々」のように、ただ欺瞞ユートピアを拒絶するだけならためらわない人も多いでしょう。しかし、『天気の子』のようにそれを崩壊させてしま選択を選ぶことがほんとうに「絶対正義」でしょうか?


 リコリスたちは、だまされ、利用され、搾取されているかもしれないとはいえ、一面では誇りをもって戦っているというのに?


 まだ物語は途中で、放送は続いているので確定的なことは書けませんが、ぼくは『リコリコ』は『天気の子』のように欺瞞告発し、欺瞞ユートピアとしての「日本社会≒オメラス」を崩壊させて終わるような結末にはならないと思う。


 DAリコリスによって維持される日本平和醜悪なまでに欺瞞的ですが、それでも平和には違いないのであって、一概に否定して終わることができるものではないのです。


 ここら辺の「必要悪としてのディストピアユートピア」の描写アニメPSYCHO-PASS』に通じるものがあるといって良いでしょう。


 『PSYCHO-PASS』の世界でも、欺瞞的な平和が続いているわけですが、それは必ずしも「悪」として告発すれば良いというものではなく、それを倫理的に乗り越えるためには「より良い社会モデル」を提示するしかないわけなのです。


 そして『PSYCHO-PASS』はそういうSF的にマクロテーマを扱う方向に進んでいるけれど、『リコリコ』はたぶんそういう物語にはならないんじゃないか


 ここまで書いて来たことを踏まえた上で、『リコリコ』が決定的に新しいといえるのは、その欺瞞、その偽善、その矛盾にもかかわらず、作品トーンが非常にあかるいことでしょう。前出のインタビューを読む限り、このあかるさも意図して選択されたものであることがわかります


 しかし、それはただ「暗いとウケないからあかるくしてみた」といった次元の話ではない。『リコリコ』は表面的なあかるさと裏面の深刻な暗さが奇跡的なほどのバランスで成立していて、それがおそらくは人気のもとになっている。


 匿名ダイアリー批判されているように、ただ百合百合女の子たちにガンアクションやらせれば人気が出るなんてことは、じっさいにはありません。エンターテインメントはそんな甘いものじゃない。


 『リコリコ』の人気は、この「天国ユートピア)のようでもあり地獄ディストピア)のようでもある過酷欺瞞社会」を「当然の前提」として受け入れつつ、なおかつ「突き抜けたあかるさ」で描くその斬新さの帰結です。


 べつの見方をすれば、『リコリコ』は日本アニメ歴史のなかで延々と語られてきた『新世紀エヴァンゲリオン』、『輪るピングドラム』、『進撃の巨人』、『BANANA FISH』、『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』といった「孤児たちのサバイバル」を描く物語の最新バージョンともいえる。


 いいかげん長くなったのでこれらの作品の内実については触れませんが、つまりはこれらの凄愴な物語ではごくシリアスに語られていたことが、『リコリコ』では一見ライトコミカルに語られている。


 しかし、それは搾取問題が消えてなくなったことを意味していない。そうではなく、その残酷な(新自由主義的な?)構造を生まれながらにある所与の前提として受け止めている新世代が出て来ているということ。


 それが『リコリコ』の「新しさ」であり「面白さ」だというのがこの記事結論です。『リコリコ』と最も同時代的な作品は、いま「ジャンプ+」で連載されている『チェンソーマン』の第二部とかじゃないかな。


 以上! こういったことを踏まえてより高次な議論ができれば良いと思っています。でわでわ。

リコリス・リコイル』はドストエフスキー児童搾取テーマに通じるメタアイドルサバイバルアニメの傑作だ!

 ども、皆さん、アニメリコリス・リコイル』観ています? めちゃくちゃ面白いですね! 後世に残る名作かといったら必ずしもそうとはいえないと思うのだけれど、少なくとも「いま」、このときリアルタイムで見る作品としては破格に面白い


 一方でいったいこの面白さの正体は何なのだろうと考えてみてもうまく言語化できないわけで、何かこう、隔靴掻痒のもどかしさを感じないでもない。第一話を観た時点で直観的に「これは新しい!」と思ったのだけれど、その「新しさ」を言葉にしようとするとうまくいかない。


 そこで、以下ではなるべくていねいに『リコリコ』の「面白さ」と「新しさ」を的確な言葉に置き換えていきたいと思う。読んでね。


 さて、まず、いま人気絶頂の『リコリコ』についていえることは、これが何か非常に「不穏」なものを秘めた作品だということです。


 一見すると現代日本と同じように平和社会舞台にしているようで、そこでは「リコリス」と呼ばれる高校生くらいの女の子たちがその平和を守るために命がけで戦っている。そして、じっさいにどんどん死んでいる。


 このグロテスクともいえる構造が、第一話の冒頭の時点であっさりと、あたりまえのことであるかのようにライトかつスムーズ説明されている。


 しかし、もちろんこれはまったく「あたりまえのこと」ではありません。年端もいかない少女たちが銃を持って戦う。戦わされている。そこにはあからさまに倫理的問題がある。この「少女と銃」というコンセプトについて、原案アサウラさんはインタビューでこのように述べています


アサウラ:柏田さんが読んでくれていたのが僕の「デスニードラウンド」という小説で、これが最初から最後まで銃を撃ち続けるような作品なんです。それを読んで僕を呼んでくれたので、銃が出てくることは決まっていました。女の子と銃で何かをやってくれという感じだったと思います


https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1656464389


 最初の時点から少女と銃」がメインコンセプトだったわけですね。すでに指摘されているとおり、この「少女と銃」というコンセプトには先行作品系譜があります虚淵玄最初期の作品として知られる『Phantom of Infelno』がそうだし、『NOIR /ノワール』などのアニメもある。


 現在アニメ業界ではもはや「美少女ガンアクションもの」はひとつジャンルといっても良いかもしれません。


 ちょっと現実的に考えればかぼそい体格の女の子がそうそう的確に銃を操れるわけがないと思えるわけですが、そこの違和感ねじ伏せてでも少女と銃を組み合わせることにはある種のフェティッシュな魅力があるのだと思います


 それらの先行作品のなかで、おそらく最も重要で、しかも『リコリコ』に近いのは相田裕の『Gunslinger girl』です。


 これは洗脳されてテロリストと戦う少女たちと、彼女たちとコンビを組んで戦う男性たちを描いた物語で、「平和社会を維持するため少女たちが陰で戦っている」というところが『リコリコ』と共通していますね。このタイトルは『リコリコ』の監督インタビューで直接的に言及されています


――足立さんが入って、物語が明るい空気になったそうですね。


足立アニメを見て暗い気分になったりするのは、今はあんまり求められていない気がするかなって…。自分DVD買うくらい『GUNSLINGER GIRL』が好きなだけに、そのフィールドでは勝てないと思いましたし、ポイントをずらしたほうがいいんじゃないですかねっていう話は初日にしたと思います


https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1656605844


 この言及を見ると、『リコリコ』と『Gunslinger girl』の設定上の共通項は意識的ものであることがわかります。ただ、その一方で「ポイントをずらした」と語られているとおり、『リコリコ』と『Gunslinger girl』には決定的な差異がある。


 ひとつパートナー役の大人がいないことで、もうひとつ少女たちが洗脳されておらず、自分意思戦闘に参加していることです。


 前者に関しては原案アサウラさんの作風かもしれません。アサウラさんは過去にも少女たちが「百合」的にコンビを組んで戦う作品を書いているようですから(筆者は未読)。


 しかし、決定的に重要なのは後者でしょう。『Gunslinger girl』の洗脳されて戦う少女たちに対して、『リコリコ』のリコリスたちは(少なくとも表面的には)自発的意思で戦っているわけです。


 もちろん、「自発的意思なのだから問題ない」ということにはならない。リコリスたちはみな孤児であり、「戦うことしか選択肢がない」状況に置かれているともいえる。リコリスたちが「大人」たちに搾取され、かりそめの平和のための犠牲として利用されていることは間違いないでしょう。


 きわめていびつかつ不自然かつ欺瞞的な構造です。このディストピア的ともいえる構造をどう見るかが『リコリコ』を批評的に判定するときひとつのカギとなる。この点に関して批判的に触れた記事はてな匿名ダイアリー投稿されています


前線少女と銃後の大人という構造からガンスリ(とかエヴァとかあのへん)の亜種として良いと思うが、それら先行作品と比べたときリコリス少女のみで構成される理由(※)や、少女前線に立たせる搾取構造に対する大人側の自覚とか罪悪感がすっぽり抜け落ちていてさすがに気味が悪い。


アサウラバニラのころからこういうところがあって、物語少女大人社会)という対比ではなく少女少女という2者間の関係性で回収することで、俎上に載せたはずの搾取構造をうやむやにしようとする。要するに百合を出せば他がザルでもオタクブヒブヒ鳴くんだろという作り手の舐めた態度がアニメから透けて見えてキモいという話なんだが、増上慢になるだけのウェルメイドな仕上がりになっていてそれもまたなんか鼻につく。


まあしかしこういうザ・老害みたいな感想を書くと自分老いを感じて嫌になるね。たぶん若い世代はああいうのなんの疑問も持たずスッと面白がれるんだろうな。


https://anond.hatelabo.jp/20220806182309


 しかし、これはぼくにはやはり表面的な批判に過ぎないように思える。「うやむやにしようとする」も何も、全然うやむやになっていないよね?と。


 「社会正義平和を守る組織」としてのDA欺瞞はあまりにもあきらかであり、ごく平凡な視聴者でも確実に気づくことではないでしょうか。じっさい、監督インタビューでもその点は触れられている。


――完成した作品を見ても、2人の関係性は大きな軸としてありました。ただ、DAという謎の組織が、犯罪を力で抑止しているというのも軸として描かれていますよね。


足立子供が銃を持って仕事をしているってことは、誰か大人に強いられているということになるでしょ?きっと悪い大人が、騙してるんだろう。「君たちは良いことをしてるんだぞっ」ってね。DAがしていることの是非は視聴者に考えてもらいたいところですね。


――それが第1話の冒頭で紹介されているわけですが、この世界の仕組み的なところは、とても面白い発想だと思いました。


足立:確かな事実として、日本世界の中でも極めて治安が良く平和で、その自認もありますよね。でもそれを支えているのが、全然知られていない闇の組織で、社会性の無い人を何千年も前から秘密裏に殺してきたから、規範意識の高い人しか子孫を残せなかった。だから日本人全体がだんだんそうなっていったんだ、みたいな設定はどうだろうかという提案をしたんです。監視社会に対するアイロニーあるかな


要するに、みんなが知っている事実を、大きな“ウソ”が支えていたという構造にしようと思って、DAがどんな組織なのかをアサウラさんに考えてもらったという感じですね。


https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1656605844


 ようは「大人たちが子供たちをだまして搾取している欺瞞構造」は制作者側により作品の一部として自覚的に提示されているのであって、単にその点を指摘するだけでは作品批評したことにはならないのです。


 そして、個人的感覚としては、まず大半の視聴者はその提示を正確に受け止めることができていると感じます。つまり、この欺瞞的なディストピアユートピア構造はこの作品を語る上で、気付かなくては話にならない「当然の前提」であり、そしてじっさいに大半の視聴者は気付いている。


 とすれば、この認識の上にさら議論を重ねていくべきでしょう。ちなみに、上記匿名ダイアリーでは「リアリティライン」が「ガバガバであるという指摘もなされていますが、これもあきらかに意図的ものでしょう。


 「現代日本では女子高生が最も警戒されないか子供たちに銃を持たせて戦わせることには合理性があるのだ!」という設定は控えめにいっても荒唐無稽というしかなく、通常の意味でのリアリティはまったくありません。


 さらにその女の子たちのうちのふたり喫茶店に勤めながら殺人が絡む仕事をしているって、いや、ふつうに考えればありえないとしかいいようがないでしょ。しかし、だからダメなのかといえばそうではない。


 このあからさまにめちゃくちゃな設定は『リコリコ』がリアルアクションストーリーというよりは一種寓話志向していると見るべきです。この作品はおそらく意図的ウソくさく、うさん臭い印象を与えるように設定が練り上げられている。


 そして、そのウソくささ、うさん臭さがひとつの魅力にまで昇華されている。だから、「リアリティがないじゃないか!」と指摘することには意味がない。まずはそこに込められた皮肉寓意を見て取るべきなのです。


 それでは、その欺瞞的かつ偽善的かつ人工的な、「まるでリアリティがない」設定と物語を通して『リコリコ』が描こうとしているものは何か。それは「子供犠牲にして成立している社会」の欺瞞だと考えます


 まさに上記匿名ダイアリー批判されている、子供たちを「消費」することで成立している日本アニメ産業欺瞞でもある。


 評論家杉田俊介は、新海誠監督映画『天気の子』について、このように書いています


ひとまず重要なのは、『天気の子』は、日本アニメ批判するアニメ、「アニメ化する日本現実」を批判するアニメである、ということだ。「アニメ化する日本現実」とは、少女人柱アイドル犠牲搾取によって多数派幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである物語最初の方に、風俗店求人宣伝を行う「バニラトラック」が印象的に登場すること、陽菜チンピラに騙されて新宿性風俗的な店で働きかけることなどは、意図的演出だろう)。


https://gendai.media/articles/-/78976


 ぼくは杉田の『天気の子』論にはまったく賛同しませんが、ひとまずこの「見立て」は面白いと思う。


 杉田の指摘をこのようにいい換えてもまったく違和感がないのではないでしょうか。「「アニメ化する日本現実」とは、少女リコリスアイドル犠牲搾取によって多数派幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである」。


 つまり、『天気の子』は、そして『リコリコ』もまた、日本アニメと、日本アニメに似た構造になりつつある(なってしまっている?)日本社会構造のもの批評的に設定に抱え込んだ「メタ日本アニメであるわけです。


 『リコリコ』の設定はあまりにも「リアリティがない」かたちで矛盾欺瞞偽善を抱え込んでいますが、それは視聴者に対する問題提起なのです。これは杉田が挙げている「アイドル」の問題とも一脈通じるものがあると思います


 その意味で、『リコリコ』は、じつは一種アイドルアニメなんですよ! な、なんだってー。まあ、それはひとつの「見立て」に過ぎませんが、じっさい、アイドル界隈のほうでもこの「ファンによるアイドルの抑圧」問題はしばしば議論されているようです。


 たとえば、『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』というアイドル現象批評の本では、このような問題が取り上げられています


今日アイドルは広く普遍的な人気を獲得し、多様なスタイル可能性をもつジャンルとしても注目されている。しかし、同時に多くの難点を抱え込んでいることも見過ごせない。

暗黙の「恋愛禁止ルールとその背景にある異性愛主義、「年齢いじり」や一定の年齢での「卒業」という慣習に表れるエイジズム、あからさまに可視化されるルッキズムSNSを通じて四六時中切り売りされるパーソナリティ……。アイドルというジャンルは、現実アイドルとして生きる人に抑圧を強いる構造的な問題を抱え続けている。スキャンダルトラブルが発生して、旧態依然ともいえるアイドル界の「常識」のあり方が浮き彫りになるたび、ファンの間では答えが出ない議論が繰り返されている。


その一方で、自らの表現模索しながら主体的ステージに立ち、とき演者同士で連帯して目標を達成しようとするアイドルたちの実践は、人々をエンパワーメントするものでもある。そして、ファンのなかでも、アイドル本人に身勝手欲望規範押し付けることと裏表でもある「推す」(≒消費する)ことに対して、後ろめたさを抱く人が増えている。


https://www.amazon.co.jp/dp/478727449X/


 アニメ場合美少女キャラクターたちは実在しないのでアイドル業界ほど問題は先鋭化しないようにも思えますが、そのキャラクターを支持しているはずのファンキャラクターに「身勝手欲望規範押し付け」て「消費」している構造は同じです。


 そして、その「大人たちが子供たちをだまして食い物にしている」欺瞞構造現在日本社会全体を象徴するものでもある。『リコリコ』や『天気の子』は(そして『Gunslinger girl』も)この問題テーマとして作品内にメタ的に胚胎しているといえます


 もっとも、この児童搾取問題は、文学的に見れば遥か昔の作品にも見て取れるものであり、きわめて普遍性の高いテーマであるということもできます


 この問題に関して文芸作品を振り返るとき、だれもが即座に思い浮かべるのがドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟であることは論を待たないでしょう。


 この小説のなかで、イワンカラマーゾフは、弟のアリョーシャに向かって、神話的な過去原罪を犯した人間たちは「神の国」へ迎え入れられるために苦しみを耐えなければならないというキリスト教論理を踏まえ、そんなことは子供たちには何の関係もないじゃないかと語ります


 そして、たったひとりの子供の苦しみを理由にでも、自分は「最高の調和」を拒絶するというのです。


 俺は一般的人類の苦悩について話すつもりだったんだが、むしろ子供たちの苦悩にだけ話をしぼるほうがいいだろう。俺の論証の規模は十分の一に縮められてしまうけど、それでも子供だけに話をしぼったほうがよさそうだ。もちろん、俺にとってはそれだけ有利じゃなくなるがね。しかし、しかし、第一相手子供なら、身近な場合でさえ愛することができるし、汚ならしい子でも、顔の醜い子でも愛することができる(もっとも俺には、子供というのは決して顔が醜いなんてことはないように思えるがね)。第二に、俺がまだ大人について語ろうとしないのでは、大人はいやらしくて愛に値しないという以外に、大人には神罰もあるからなんだ。彼らは知恵の実を食べてしまったために、善悪を知り、≪神のごとく≫になった。今でも食べつづけているよ。ところが子供たちは何も食べなかったから、今のところまだ何の罪もないのだ。


(中略)


 まだ時間のあるうちに、俺は急いで自己防衛しておいて、そんな最高の調和なんぞ全面的拒否するんだ。そんな調和は、小さなあの痛めつけられた子供一人の涙にさえ値しないよ!


 つまりイワンはここで子供犠牲にして成り立つユートピア欺瞞告発している。(続く)

リコリス・リコイル』はドストエフスキー児童搾取テーマに通じるメタアイドルサバイバルアニメの傑作だ!

 ども、皆さん、アニメリコリス・リコイル』観ています? めちゃくちゃ面白いですね! 後世に残る名作かといったら必ずしもそうとはいえないと思うのだけれど、少なくとも「いま」、このときリアルタイムで見る作品としては破格に面白い


 一方でいったいこの面白さの正体は何なのだろうと考えてみてもうまく言語化できないわけで、何かこう、隔靴掻痒のもどかしさを感じないでもない。第一話を観た時点で直観的に「これは新しい!」と思ったのだけれど、その「新しさ」を言葉にしようとするとうまくいかない。


 そこで、以下ではなるべくていねいに『リコリコ』の「面白さ」と「新しさ」を的確な言葉に置き換えていきたいと思う。読んでね。


 さて、まず、いま人気絶頂の『リコリコ』についていえることは、これが何か非常に「不穏」なものを秘めた作品だということです。


 一見すると現代日本と同じように平和社会舞台にしているようで、そこでは「リコリス」と呼ばれる高校生くらいの女の子たちがその平和を守るために命がけで戦っている。そして、じっさいにどんどん死んでいる。


 このグロテスクともいえる構造が、第一話の冒頭の時点であっさりと、あたりまえのことであるかのようにライトかつスムーズ説明されている。


 しかし、もちろんこれはまったく「あたりまえのこと」ではありません。年端もいかない少女たちが銃を持って戦う。戦わされている。そこにはあからさまに倫理的問題がある。この「少女と銃」というコンセプトについて、原案アサウラさんはインタビューでこのように述べています


アサウラ:柏田さんが読んでくれていたのが僕の「デスニードラウンド」という小説で、これが最初から最後まで銃を撃ち続けるような作品なんです。それを読んで僕を呼んでくれたので、銃が出てくることは決まっていました。女の子と銃で何かをやってくれという感じだったと思います


https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1656464389


 最初の時点から少女と銃」がメインコンセプトだったわけですね。すでに指摘されているとおり、この「少女と銃」というコンセプトには先行作品系譜があります虚淵玄最初期の作品として知られる『Phantom of Infelno』がそうだし、『NOIR /ノワール』などのアニメもある。


 現在アニメ業界ではもはや「美少女ガンアクションもの」はひとつジャンルといっても良いかもしれません。


 ちょっと現実的に考えればかぼそい体格の女の子がそうそう的確に銃を操れるわけがないと思えるわけですが、そこの違和感ねじ伏せてでも少女と銃を組み合わせることにはある種のフェティッシュな魅力があるのだと思います


 それらの先行作品のなかで、おそらく最も重要で、しかも『リコリコ』に近いのは相田裕の『Gunslinger girl』です。


 これは洗脳されてテロリストと戦う少女たちと、彼女たちとコンビを組んで戦う男性たちを描いた物語で、「平和社会を維持するため少女たちが陰で戦っている」というところが『リコリコ』と共通していますね。このタイトルは『リコリコ』の監督インタビューで直接的に言及されています


――足立さんが入って、物語が明るい空気になったそうですね。


足立アニメを見て暗い気分になったりするのは、今はあんまり求められていない気がするかなって…。自分DVD買うくらい『GUNSLINGER GIRL』が好きなだけに、そのフィールドでは勝てないと思いましたし、ポイントをずらしたほうがいいんじゃないですかねっていう話は初日にしたと思います


https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1656605844


 この言及を見ると、『リコリコ』と『Gunslinger girl』の設定上の共通項は意識的ものであることがわかります。ただ、その一方で「ポイントをずらした」と語られているとおり、『リコリコ』と『Gunslinger girl』には決定的な差異がある。


 ひとつパートナー役の大人がいないことで、もうひとつ少女たちが洗脳されておらず、自分意思戦闘に参加していることです。


 前者に関しては原案アサウラさんの作風かもしれません。アサウラさんは過去にも少女たちが「百合」的にコンビを組んで戦う作品を書いているようですから(筆者は未読)。


 しかし、決定的に重要なのは後者でしょう。『Gunslinger girl』の洗脳されて戦う少女たちに対して、『リコリコ』のリコリスたちは(少なくとも表面的には)自発的意思で戦っているわけです。


 もちろん、「自発的意思なのだから問題ない」ということにはならない。リコリスたちはみな孤児であり、「戦うことしか選択肢がない」状況に置かれているともいえる。リコリスたちが「大人」たちに搾取され、かりそめの平和のための犠牲として利用されていることは間違いないでしょう。


 きわめていびつかつ不自然かつ欺瞞的な構造です。このディストピア的ともいえる構造をどう見るかが『リコリコ』を批評的に判定するときひとつのカギとなる。この点に関して批判的に触れた記事はてな匿名ダイアリー投稿されています


前線少女と銃後の大人という構造からガンスリ(とかエヴァとかあのへん)の亜種として良いと思うが、それら先行作品と比べたときリコリス少女のみで構成される理由(※)や、少女前線に立たせる搾取構造に対する大人側の自覚とか罪悪感がすっぽり抜け落ちていてさすがに気味が悪い。


アサウラバニラのころからこういうところがあって、物語少女大人社会)という対比ではなく少女少女という2者間の関係性で回収することで、俎上に載せたはずの搾取構造をうやむやにしようとする。要するに百合を出せば他がザルでもオタクブヒブヒ鳴くんだろという作り手の舐めた態度がアニメから透けて見えてキモいという話なんだが、増上慢になるだけのウェルメイドな仕上がりになっていてそれもまたなんか鼻につく。


まあしかしこういうザ・老害みたいな感想を書くと自分老いを感じて嫌になるね。たぶん若い世代はああいうのなんの疑問も持たずスッと面白がれるんだろうな。


https://anond.hatelabo.jp/20220806182309


 しかし、これはぼくにはやはり表面的な批判に過ぎないように思える。「うやむやにしようとする」も何も、全然うやむやになっていないよね?と。


 「社会正義平和を守る組織」としてのDA欺瞞はあまりにもあきらかであり、ごく平凡な視聴者でも確実に気づくことではないでしょうか。じっさい、監督インタビューでもその点は触れられている。


――完成した作品を見ても、2人の関係性は大きな軸としてありました。ただ、DAという謎の組織が、犯罪を力で抑止しているというのも軸として描かれていますよね。


足立子供が銃を持って仕事をしているってことは、誰か大人に強いられているということになるでしょ?きっと悪い大人が、騙してるんだろう。「君たちは良いことをしてるんだぞっ」ってね。DAがしていることの是非は視聴者に考えてもらいたいところですね。


――それが第1話の冒頭で紹介されているわけですが、この世界の仕組み的なところは、とても面白い発想だと思いました。


足立:確かな事実として、日本世界の中でも極めて治安が良く平和で、その自認もありますよね。でもそれを支えているのが、全然知られていない闇の組織で、社会性の無い人を何千年も前から秘密裏に殺してきたから、規範意識の高い人しか子孫を残せなかった。だから日本人全体がだんだんそうなっていったんだ、みたいな設定はどうだろうかという提案をしたんです。監視社会に対するアイロニーあるかな


要するに、みんなが知っている事実を、大きな“ウソ”が支えていたという構造にしようと思って、DAがどんな組織なのかをアサウラさんに考えてもらったという感じですね。


https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1656605844


 ようは「大人たちが子供たちをだまして搾取している欺瞞構造」は制作者側により作品の一部として自覚的に提示されているのであって、単にその点を指摘するだけでは作品批評したことにはならないのです。


 そして、個人的感覚としては、まず大半の視聴者はその提示を正確に受け止めることができていると感じます。つまり、この欺瞞的なディストピアユートピア構造はこの作品を語る上で、気付かなくては話にならない「当然の前提」であり、そしてじっさいに大半の視聴者は気付いている。


 とすれば、この認識の上にさら議論を重ねていくべきでしょう。ちなみに、上記匿名ダイアリーでは「リアリティライン」が「ガバガバであるという指摘もなされていますが、これもあきらかに意図的ものでしょう。


 「現代日本では女子高生が最も警戒されないか子供たちに銃を持たせて戦わせることには合理性があるのだ!」という設定は控えめにいっても荒唐無稽というしかなく、通常の意味でのリアリティはまったくありません。


 さらにその女の子たちのうちのふたり喫茶店に勤めながら殺人が絡む仕事をしているって、いや、ふつうに考えればありえないとしかいいようがないでしょ。しかし、だからダメなのかといえばそうではない。


 このあからさまにめちゃくちゃな設定は『リコリコ』がリアルアクションストーリーというよりは一種寓話志向していると見るべきです。この作品はおそらく意図的ウソくさく、うさん臭い印象を与えるように設定が練り上げられている。


 そして、そのウソくささ、うさん臭さがひとつの魅力にまで昇華されている。だから、「リアリティがないじゃないか!」と指摘することには意味がない。まずはそこに込められた皮肉寓意を見て取るべきなのです。


 それでは、その欺瞞的かつ偽善的かつ人工的な、「まるでリアリティがない」設定と物語を通して『リコリコ』が描こうとしているものは何か。それは「子供犠牲にして成立している社会」の欺瞞だと考えます


 まさに上記匿名ダイアリー批判されている、子供たちを「消費」することで成立している日本アニメ産業欺瞞でもある。


 評論家杉田俊介は、新海誠監督映画『天気の子』について、このように書いています


ひとまず重要なのは、『天気の子』は、日本アニメ批判するアニメ、「アニメ化する日本現実」を批判するアニメである、ということだ。「アニメ化する日本現実」とは、少女人柱アイドル犠牲搾取によって多数派幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである物語最初の方に、風俗店求人宣伝を行う「バニラトラック」が印象的に登場すること、陽菜チンピラに騙されて新宿性風俗的な店で働きかけることなどは、意図的演出だろう)。


https://gendai.media/articles/-/78976


 ぼくは杉田の『天気の子』論にはまったく賛同しませんが、ひとまずこの「見立て」は面白いと思う。


 杉田の指摘をこのようにいい換えてもまったく違和感がないのではないでしょうか。「「アニメ化する日本現実」とは、少女リコリスアイドル犠牲搾取によって多数派幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである」。


 つまり、『天気の子』は、そして『リコリコ』もまた、日本アニメと、日本アニメに似た構造になりつつある(なってしまっている?)日本社会構造のもの批評的に設定に抱え込んだ「メタ日本アニメであるわけです。


 『リコリコ』の設定はあまりにも「リアリティがない」かたちで矛盾欺瞞偽善を抱え込んでいますが、それは視聴者に対する問題提起なのです。これは杉田が挙げている「アイドル」の問題とも一脈通じるものがあると思います


 その意味で、『リコリコ』は、じつは一種アイドルアニメなんですよ! な、なんだってー。まあ、それはひとつの「見立て」に過ぎませんが、じっさい、アイドル界隈のほうでもこの「ファンによるアイドルの抑圧」問題はしばしば議論されているようです。


 たとえば、『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』というアイドル現象批評の本では、このような問題が取り上げられています


今日アイドルは広く普遍的な人気を獲得し、多様なスタイル可能性をもつジャンルとしても注目されている。しかし、同時に多くの難点を抱え込んでいることも見過ごせない。

暗黙の「恋愛禁止ルールとその背景にある異性愛主義、「年齢いじり」や一定の年齢での「卒業」という慣習に表れるエイジズム、あからさまに可視化されるルッキズムSNSを通じて四六時中切り売りされるパーソナリティ……。アイドルというジャンルは、現実アイドルとして生きる人に抑圧を強いる構造的な問題を抱え続けている。スキャンダルトラブルが発生して、旧態依然ともいえるアイドル界の「常識」のあり方が浮き彫りになるたび、ファンの間では答えが出ない議論が繰り返されている。


その一方で、自らの表現模索しながら主体的ステージに立ち、とき演者同士で連帯して目標を達成しようとするアイドルたちの実践は、人々をエンパワーメントするものでもある。そして、ファンのなかでも、アイドル本人に身勝手欲望規範押し付けることと裏表でもある「推す」(≒消費する)ことに対して、後ろめたさを抱く人が増えている。


https://www.amazon.co.jp/dp/478727449X/


 アニメ場合美少女キャラクターたちは実在しないのでアイドル業界ほど問題は先鋭化しないようにも思えますが、そのキャラクターを支持しているはずのファンキャラクターに「身勝手欲望規範押し付け」て「消費」している構造は同じです。


 そして、その「大人たちが子供たちをだまして食い物にしている」欺瞞構造現在日本社会全体を象徴するものでもある。『リコリコ』や『天気の子』は(そして『Gunslinger girl』も)この問題テーマとして作品内にメタ的に胚胎しているといえます


 もっとも、この児童搾取問題は、文学的に見れば遥か昔の作品にも見て取れるものであり、きわめて普遍性の高いテーマであるということもできます


 この問題に関して文芸作品を振り返るとき、だれもが即座に思い浮かべるのがドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟であることは論を待たないでしょう。


 この小説のなかで、イワンカラマーゾフは、弟のアリョーシャに向かって、神話的な過去原罪を犯した人間たちは「神の国」へ迎え入れられるために苦しみを耐えなければならないというキリスト教論理を踏まえ、そんなことは子供たちには何の関係もないじゃないかと語ります


 そして、たったひとりの子供の苦しみを理由にでも、自分は「最高の調和」を拒絶するというのです。


 俺は一般的人類の苦悩について話すつもりだったんだが、むしろ子供たちの苦悩にだけ話をしぼるほうがいいだろう。俺の論証の規模は十分の一に縮められてしまうけど、それでも子供だけに話をしぼったほうがよさそうだ。もちろん、俺にとってはそれだけ有利じゃなくなるがね。しかし、しかし、第一相手子供なら、身近な場合でさえ愛することができるし、汚ならしい子でも、顔の醜い子でも愛することができる(もっとも俺には、子供というのは決して顔が醜いなんてことはないように思えるがね)。第二に、俺がまだ大人について語ろうとしないのでは、大人はいやらしくて愛に値しないという以外に、大人には神罰もあるからなんだ。彼らは知恵の実を食べてしまったために、善悪を知り、≪神のごとく≫になった。今でも食べつづけているよ。ところが子供たちは何も食べなかったから、今のところまだ何の罪もないのだ。


(中略)


 まだ時間のあるうちに、俺は急いで自己防衛しておいて、そんな最高の調和なんぞ全面的拒否するんだ。そんな調和は、小さなあの痛めつけられた子供一人の涙にさえ値しないよ!


 つまりイワンはここで子供犠牲にして成り立つユートピア欺瞞告発している。これは、『天気の子

リコリス・リコイル』はドストエフスキー児童搾取テーマに通じる

 ども、皆さん、アニメリコリス・リコイル』観ています? めちゃくちゃ面白いですね! 後世に残る名作かといったら必ずしもそうとはいえないと思うのだけれど、少なくとも「いま」、このときリアルタイムで見る作品としては破格に面白い


 一方でいったいこの面白さの正体は何なのだろうと考えてみてもうまく言語化できないわけで、何かこう、隔靴掻痒のもどかしさを感じないでもない。第一話を観た時点で直観的に「これは新しい!」と思ったのだけれど、その「新しさ」を言葉にしようとするとうまくいかない。


 そこで、以下ではなるべくていねいに『リコリコ』の「面白さ」と「新しさ」を的確な言葉に置き換えていきたいと思う。読んでね。


 さて、まず、いま人気絶頂の『リコリコ』についていえることは、これが何か非常に「不穏」なものを秘めた作品だということです。


 一見すると現代日本と同じように平和社会舞台にしているようで、そこでは「リコリス」と呼ばれる高校生くらいの女の子たちがその平和を守るために命がけで戦っている。そして、じっさいにどんどん死んでいる。


 このグロテスクともいえる構造が、第一話の冒頭の時点であっさりと、あたりまえのことであるかのようにライトかつスムーズ説明されている。


 しかし、もちろんこれはまったく「あたりまえのこと」ではありません。年端もいかない少女たちが銃を持って戦う。戦わされている。そこにはあからさまに倫理的問題がある。この「少女と銃」というコンセプトについて、原案アサウラさんはインタビューでこのように述べています


アサウラ:柏田さんが読んでくれていたのが僕の「デスニードラウンド」という小説で、これが最初から最後まで銃を撃ち続けるような作品なんです。それを読んで僕を呼んでくれたので、銃が出てくることは決まっていました。女の子と銃で何かをやってくれという感じだったと思います


https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1656464389


 最初の時点から少女と銃」がメインコンセプトだったわけですね。すでに指摘されているとおり、この「少女と銃」というコンセプトには先行作品系譜があります虚淵玄最初期の作品として知られる『Phantom of Infelno』がそうだし、『NOIR /ノワール』などのアニメもある。


 現在アニメ業界ではもはや「美少女ガンアクションもの」はひとつジャンルといっても良いかもしれません。


 ちょっと現実的に考えればかぼそい体格の女の子がそうそう的確に銃を操れるわけがないと思えるわけですが、そこの違和感ねじ伏せてでも少女と銃を組み合わせることにはある種のフェティッシュな魅力があるのだと思います


 それらの先行作品のなかで、おそらく最も重要で、しかも『リコリコ』に近いのは相田裕の『Gunslinger girl』です。


 これは洗脳されてテロリストと戦う少女たちと、彼女たちとコンビを組んで戦う男性たちを描いた物語で、「平和社会を維持するため少女たちが陰で戦っている」というところが『リコリコ』と共通していますね。このタイトルは『リコリコ』の監督インタビューで直接的に言及されています


――足立さんが入って、物語が明るい空気になったそうですね。


足立アニメを見て暗い気分になったりするのは、今はあんまり求められていない気がするかなって…。自分DVD買うくらい『GUNSLINGER GIRL』が好きなだけに、そのフィールドでは勝てないと思いましたし、ポイントをずらしたほうがいいんじゃないですかねっていう話は初日にしたと思います


https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1656605844


 この言及を見ると、『リコリコ』と『Gunslinger girl』の設定上の共通項は意識的ものであることがわかります。ただ、その一方で「ポイントをずらした」と語られているとおり、『リコリコ』と『Gunslinger girl』には決定的な差異がある。


 ひとつパートナー役の大人がいないことで、もうひとつ少女たちが洗脳されておらず、自分意思戦闘に参加していることです。


 前者に関しては原案アサウラさんの作風かもしれません。アサウラさんは過去にも少女たちが「百合」的にコンビを組んで戦う作品を書いているようですから(筆者は未読)。


 しかし、決定的に重要なのは後者でしょう。『Gunslinger girl』の洗脳されて戦う少女たちに対して、『リコリコ』のリコリスたちは(少なくとも表面的には)自発的意思で戦っているわけです。


 もちろん、「自発的意思なのだから問題ない」ということにはならない。リコリスたちはみな孤児であり、「戦うことしか選択肢がない」状況に置かれているともいえる。リコリスたちが「大人」たちに搾取され、かりそめの平和のための犠牲として利用されていることは間違いないでしょう。


 きわめていびつかつ不自然かつ欺瞞的な構造です。このディストピア的ともいえる構造をどう見るかが『リコリコ』を批評的に判定するときひとつのカギとなる。この点に関して批判的に触れた記事はてな匿名ダイアリー投稿されています


前線少女と銃後の大人という構造からガンスリ(とかエヴァとかあのへん)の亜種として良いと思うが、それら先行作品と比べたときリコリス少女のみで構成される理由(※)や、少女前線に立たせる搾取構造に対する大人側の自覚とか罪悪感がすっぽり抜け落ちていてさすがに気味が悪い。


アサウラバニラのころからこういうところがあって、物語少女大人社会)という対比ではなく少女少女という2者間の関係性で回収することで、俎上に載せたはずの搾取構造をうやむやにしようとする。要するに百合を出せば他がザルでもオタクブヒブヒ鳴くんだろという作り手の舐めた態度がアニメから透けて見えてキモいという話なんだが、増上慢になるだけのウェルメイドな仕上がりになっていてそれもまたなんか鼻につく。


まあしかしこういうザ・老害みたいな感想を書くと自分老いを感じて嫌になるね。たぶん若い世代はああいうのなんの疑問も持たずスッと面白がれるんだろうな。


https://anond.hatelabo.jp/20220806182309


 しかし、これはぼくにはやはり表面的な批判に過ぎないように思える。「うやむやにしようとする」も何も、全然うやむやになっていないよね?と。


 「社会正義平和を守る組織」としてのDA欺瞞はあまりにもあきらかであり、ごく平凡な視聴者でも確実に気づくことではないでしょうか。じっさい、監督インタビューでもその点は触れられている。


――完成した作品を見ても、2人の関係性は大きな軸としてありました。ただ、DAという謎の組織が、犯罪を力で抑止しているというのも軸として描かれていますよね。


足立子供が銃を持って仕事をしているってことは、誰か大人に強いられているということになるでしょ?きっと悪い大人が、騙してるんだろう。「君たちは良いことをしてるんだぞっ」ってね。DAがしていることの是非は視聴者に考えてもらいたいところですね。


――それが第1話の冒頭で紹介されているわけですが、この世界の仕組み的なところは、とても面白い発想だと思いました。


足立:確かな事実として、日本世界の中でも極めて治安が良く平和で、その自認もありますよね。でもそれを支えているのが、全然知られていない闇の組織で、社会性の無い人を何千年も前から秘密裏に殺してきたから、規範意識の高い人しか子孫を残せなかった。だから日本人全体がだんだんそうなっていったんだ、みたいな設定はどうだろうかという提案をしたんです。監視社会に対するアイロニーあるかな


要するに、みんなが知っている事実を、大きな“ウソ”が支えていたという構造にしようと思って、DAがどんな組織なのかをアサウラさんに考えてもらったという感じですね。


https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1656605844


 ようは「大人たちが子供たちをだまして搾取している欺瞞構造」は制作者側により作品の一部として自覚的に提示されているのであって、単にその点を指摘するだけでは作品批評したことにはならないのです。


 そして、個人的感覚としては、まず大半の視聴者はその提示を正確に受け止めることができていると感じます。つまり、この欺瞞的なディストピアユートピア構造はこの作品を語る上で、気付かなくては話にならない「当然の前提」であり、そしてじっさいに大半の視聴者は気付いている。


 とすれば、この認識の上にさら議論を重ねていくべきでしょう。ちなみに、上記匿名ダイアリーでは「リアリティライン」が「ガバガバであるという指摘もなされていますが、これもあきらかに意図的ものでしょう。


 「現代日本では女子高生が最も警戒されないか子供たちに銃を持たせて戦わせることには合理性があるのだ!」という設定は控えめにいっても荒唐無稽というしかなく、通常の意味でのリアリティはまったくありません。


 さらにその女の子たちのうちのふたり喫茶店に勤めながら殺人が絡む仕事をしているって、いや、ふつうに考えればありえないとしかいいようがないでしょ。しかし、だからダメなのかといえばそうではない。


 このあからさまにめちゃくちゃな設定は『リコリコ』がリアルアクションストーリーというよりは一種寓話志向していると見るべきです。この作品はおそらく意図的ウソくさく、うさん臭い印象を与えるように設定が練り上げられている。


 そして、そのウソくささ、うさん臭さがひとつの魅力にまで昇華されている。だから、「リアリティがないじゃないか!」と指摘することには意味がない。まずはそこに込められた皮肉寓意を見て取るべきなのです。


 それでは、その欺瞞的かつ偽善的かつ人工的な、「まるでリアリティがない」設定と物語を通して『リコリコ』が描こうとしているものは何か。それは「子供犠牲にして成立している社会」の欺瞞だと考えます


 まさに上記匿名ダイアリー批判されている、子供たちを「消費」することで成立している日本アニメ産業欺瞞でもある。


 評論家杉田俊介は、新海誠監督映画『天気の子』について、このように書いています


ひとまず重要なのは、『天気の子』は、日本アニメ批判するアニメ、「アニメ化する日本現実」を批判するアニメである、ということだ。「アニメ化する日本現実」とは、少女人柱アイドル犠牲搾取によって多数派幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである物語最初の方に、風俗店求人宣伝を行う「バニラトラック」が印象的に登場すること、陽菜チンピラに騙されて新宿性風俗的な店で働きかけることなどは、意図的演出だろう)。


https://gendai.media/articles/-/78976


 ぼくは杉田の『天気の子』論にはまったく賛同しませんが、ひとまずこの「見立て」は面白いと思う。


 杉田の指摘をこのようにいい換えてもまったく違和感がないのではないでしょうか。「「アニメ化する日本現実」とは、少女リコリスアイドル犠牲搾取によって多数派幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである」。


 つまり、『天気の子』は、そして『リコリコ』もまた、日本アニメと、日本アニメに似た構造になりつつある(なってしまっている?)日本社会構造のもの批評的に設定に抱え込んだ「メタ日本アニメであるわけです。


 『リコリコ』の設定はあまりにも「リアリティがない」かたちで矛盾欺瞞偽善を抱え込んでいますが、それは視聴者に対する問題提起なのです。これは杉田が挙げている「アイドル」の問題とも一脈通じるものがあると思います


 その意味で、『リコリコ』は、じつは一種アイドルアニメなんですよ! な、なんだってー。まあ、それはひとつの「見立て」に過ぎませんが、じっさい、アイドル界隈のほうでもこの「ファンによるアイドルの抑圧」問題はしばしば議論されているようです。


 たとえば、『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』というアイドル現象批評の本では、このような問題が取り上げられています


今日アイドルは広く普遍的な人気を獲得し、多様なスタイル可能性をもつジャンルとしても注目されている。しかし、同時に多くの難点を抱え込んでいることも見過ごせない。

暗黙の「恋愛禁止ルールとその背景にある異性愛主義、「年齢いじり」や一定の年齢での「卒業」という慣習に表れるエイジズム、あからさまに可視化されるルッキズムSNSを通じて四六時中切り売りされるパーソナリティ……。アイドルというジャンルは、現実アイドルとして生きる人に抑圧を強いる構造的な問題を抱え続けている。スキャンダルトラブルが発生して、旧態依然ともいえるアイドル界の「常識」のあり方が浮き彫りになるたび、ファンの間では答えが出ない議論が繰り返されている。


その一方で、自らの表現模索しながら主体的ステージに立ち、とき演者同士で連帯して目標を達成しようとするアイドルたちの実践は、人々をエンパワーメントするものでもある。そして、ファンのなかでも、アイドル本人に身勝手欲望規範押し付けることと裏表でもある「推す」(≒消費する)ことに対して、後ろめたさを抱く人が増えている。


https://www.amazon.co.jp/dp/478727449X/


 アニメ場合美少女キャラクターたちは実在しないのでアイドル業界ほど問題は先鋭化しないようにも思えますが、そのキャラクターを支持しているはずのファンキャラクターに「身勝手欲望規範押し付け」て「消費」している構造は同じです。


 そして、その「大人たちが子供たちをだまして食い物にしている」欺瞞構造現在日本社会全体を象徴するものでもある。『リコリコ』や『天気の子』は(そして『Gunslinger girl』も)この問題テーマとして作品内にメタ的に胚胎しているといえます


 もっとも、この児童搾取問題は、文学的に見れば遥か昔の作品にも見て取れるものであり、きわめて普遍性の高いテーマであるということもできます


 この問題に関して文芸作品を振り返るとき、だれもが即座に思い浮かべるのがドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟であることは論を待たないでしょう。


 この小説のなかで、イワンカラマーゾフは、弟のアリョーシャに向かって、神話的な過去原罪を犯した人間たちは「神の国」へ迎え入れられるために苦しみを耐えなければならないというキリスト教論理を踏まえ、そんなことは子供たちには何の関係もないじゃないかと語ります


 そして、たったひとりの子供の苦しみを理由にでも、自分は「最高の調和」を拒絶するというのです。


 俺は一般的人類の苦悩について話すつもりだったんだが、むしろ子供たちの苦悩にだけ話をしぼるほうがいいだろう。俺の論証の規模は十分の一に縮められてしまうけど、それでも子供だけに話をしぼったほうがよさそうだ。もちろん、俺にとってはそれだけ有利じゃなくなるがね。しかし、しかし、第一相手子供なら、身近な場合でさえ愛することができるし、汚ならしい子でも、顔の醜い子でも愛することができる(もっとも俺には、子供というのは決して顔が醜いなんてことはないように思えるがね)。第二に、俺がまだ大人について語ろうとしないのでは、大人はいやらしくて愛に値しないという以外に、大人には神罰もあるからなんだ。彼らは知恵の実を食べてしまったために、善悪を知り、≪神のごとく≫になった。今でも食べつづけているよ。ところが子供たちは何も食べなかったから、今のところまだ何の罪もないのだ。


(中略)


 まだ時間のあるうちに、俺は急いで自己防衛しておいて、そんな最高の調和なんぞ全面的拒否するんだ。そんな調和は、小さなあの痛めつけられた子供一人の涙にさえ値しないよ!


 つまりイワンはここで子供犠牲にして成り立つユートピア欺瞞告発している。これは、『天気の子

リコリス・リコイル』はドストエフスキー児童搾取テーマに通じる

 ども、皆さん、アニメリコリス・リコイル』観ています? めちゃくちゃ面白いですね! 後世に残る名作かといったら必ずしもそうとはいえないと思うのだけれど、少なくとも「いま」、このときリアルタイムで見る作品としては破格に面白い


 一方でいったいこの面白さの正体は何なのだろうと考えてみてもうまく言語化できないわけで、何かこう、隔靴掻痒のもどかしさを感じないでもない。第一話を観た時点で直観的に「これは新しい!」と思ったのだけれど、その「新しさ」を言葉にしようとするとうまくいかない。


 そこで、以下ではなるべくていねいに『リコリコ』の「面白さ」と「新しさ」を的確な言葉に置き換えていきたいと思う。読んでね。


 さて、まず、いま人気絶頂の『リコリコ』についていえることは、これが何か非常に「不穏」なものを秘めた作品だということです。


 一見すると現代日本と同じように平和社会舞台にしているようで、そこでは「リコリス」と呼ばれる高校生くらいの女の子たちがその平和を守るために命がけで戦っている。そして、じっさいにどんどん死んでいる。


 このグロテスクともいえる構造が、第一話の冒頭の時点であっさりと、あたりまえのことであるかのようにライトかつスムーズ説明されている。


 しかし、もちろんこれはまったく「あたりまえのこと」ではありません。年端もいかない少女たちが銃を持って戦う。戦わされている。そこにはあからさまに倫理的問題がある。この「少女と銃」というコンセプトについて、原案アサウラさんはインタビューでこのように述べています


アサウラ:柏田さんが読んでくれていたのが僕の「デスニードラウンド」という小説で、これが最初から最後まで銃を撃ち続けるような作品なんです。それを読んで僕を呼んでくれたので、銃が出てくることは決まっていました。女の子と銃で何かをやってくれという感じだったと思います


https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1656464389


 最初の時点から少女と銃」がメインコンセプトだったわけですね。すでに指摘されているとおり、この「少女と銃」というコンセプトには先行作品系譜があります虚淵玄最初期の作品として知られる『Phantom of Infelno』がそうだし、『NOIR /ノワール』などのアニメもある。


 現在アニメ業界ではもはや「美少女ガンアクションもの」はひとつジャンルといっても良いかもしれません。


 ちょっと現実的に考えればかぼそい体格の女の子がそうそう的確に銃を操れるわけがないと思えるわけですが、そこの違和感ねじ伏せてでも少女と銃を組み合わせることにはある種のフェティッシュな魅力があるのだと思います


 それらの先行作品のなかで、おそらく最も重要で、しかも『リコリコ』に近いのは相田裕の『Gunslinger girl』です。


 これは洗脳されてテロリストと戦う少女たちと、彼女たちとコンビを組んで戦う男性たちを描いた物語で、「平和社会を維持するため少女たちが陰で戦っている」というところが『リコリコ』と共通していますね。このタイトルは『リコリコ』の監督インタビューで直接的に言及されています


――足立さんが入って、物語が明るい空気になったそうですね。


足立アニメを見て暗い気分になったりするのは、今はあんまり求められていない気がするかなって…。自分DVD買うくらい『GUNSLINGER GIRL』が好きなだけに、そのフィールドでは勝てないと思いましたし、ポイントをずらしたほうがいいんじゃないですかねっていう話は初日にしたと思います


https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1656605844


 この言及を見ると、『リコリコ』と『Gunslinger girl』の設定上の共通項は意識的ものであることがわかります。ただ、その一方で「ポイントをずらした」と語られているとおり、『リコリコ』と『Gunslinger girl』には決定的な差異がある。


 ひとつパートナー役の大人がいないことで、もうひとつ少女たちが洗脳されておらず、自分意思戦闘に参加していることです。


 前者に関しては原案アサウラさんの作風かもしれません。アサウラさんは過去にも少女たちが「百合」的にコンビを組んで戦う作品を書いているようですから(筆者は未読)。


 しかし、決定的に重要なのは後者でしょう。『Gunslinger girl』の洗脳されて戦う少女たちに対して、『リコリコ』のリコリスたちは(少なくとも表面的には)自発的意思で戦っているわけです。


 もちろん、「自発的意思なのだから問題ない」ということにはならない。リコリスたちはみな孤児であり、「戦うことしか選択肢がない」状況に置かれているともいえる。リコリスたちが「大人」たちに搾取され、かりそめの平和のための犠牲として利用されていることは間違いないでしょう。


 きわめていびつかつ不自然かつ欺瞞的な構造です。このディストピア的ともいえる構造をどう見るかが『リコリコ』を批評的に判定するときひとつのカギとなる。この点に関して批判的に触れた記事はてな匿名ダイアリー投稿されています


前線少女と銃後の大人という構造からガンスリ(とかエヴァとかあのへん)の亜種として良いと思うが、それら先行作品と比べたときリコリス少女のみで構成される理由(※)や、少女前線に立たせる搾取構造に対する大人側の自覚とか罪悪感がすっぽり抜け落ちていてさすがに気味が悪い。


アサウラバニラのころからこういうところがあって、物語少女大人社会)という対比ではなく少女少女という2者間の関係性で回収することで、俎上に載せたはずの搾取構造をうやむやにしようとする。要するに百合を出せば他がザルでもオタクブヒブヒ鳴くんだろという作り手の舐めた態度がアニメから透けて見えてキモいという話なんだが、増上慢になるだけのウェルメイドな仕上がりになっていてそれもまたなんか鼻につく。


まあしかしこういうザ・老害みたいな感想を書くと自分老いを感じて嫌になるね。たぶん若い世代はああいうのなんの疑問も持たずスッと面白がれるんだろうな。


https://anond.hatelabo.jp/20220806182309


 しかし、これはぼくにはやはり表面的な批判に過ぎないように思える。「うやむやにしようとする」も何も、全然うやむやになっていないよね?と。


 「社会正義平和を守る組織」としてのDA欺瞞はあまりにもあきらかであり、ごく平凡な視聴者でも確実に気づくことではないでしょうか。じっさい、監督インタビューでもその点は触れられている。


――完成した作品を見ても、2人の関係性は大きな軸としてありました。ただ、DAという謎の組織が、犯罪を力で抑止しているというのも軸として描かれていますよね。


足立子供が銃を持って仕事をしているってことは、誰か大人に強いられているということになるでしょ?きっと悪い大人が、騙してるんだろう。「君たちは良いことをしてるんだぞっ」ってね。DAがしていることの是非は視聴者に考えてもらいたいところですね。


――それが第1話の冒頭で紹介されているわけですが、この世界の仕組み的なところは、とても面白い発想だと思いました。


足立:確かな事実として、日本世界の中でも極めて治安が良く平和で、その自認もありますよね。でもそれを支えているのが、全然知られていない闇の組織で、社会性の無い人を何千年も前から秘密裏に殺してきたから、規範意識の高い人しか子孫を残せなかった。だから日本人全体がだんだんそうなっていったんだ、みたいな設定はどうだろうかという提案をしたんです。監視社会に対するアイロニーあるかな


要するに、みんなが知っている事実を、大きな“ウソ”が支えていたという構造にしようと思って、DAがどんな組織なのかをアサウラさんに考えてもらったという感じですね。


https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1656605844


 ようは「大人たちが子供たちをだまして搾取している欺瞞構造」は制作者側により作品の一部として自覚的に提示されているのであって、単にその点を指摘するだけでは作品批評したことにはならないのです。


 そして、個人的感覚としては、まず大半の視聴者はその提示を正確に受け止めることができていると感じます。つまり、この欺瞞的なディストピアユートピア構造はこの作品を語る上で、気付かなくては話にならない「当然の前提」であり、そしてじっさいに大半の視聴者は気付いている。


 とすれば、この認識の上にさら議論を重ねていくべきでしょう。ちなみに、上記匿名ダイアリーでは「リアリティライン」が「ガバガバであるという指摘もなされていますが、これもあきらかに意図的ものでしょう。


 「現代日本では女子高生が最も警戒されないか子供たちに銃を持たせて戦わせることには合理性があるのだ!」という設定は控えめにいっても荒唐無稽というしかなく、通常の意味でのリアリティはまったくありません。


 さらにその女の子たちのうちのふたり喫茶店に勤めながら殺人が絡む仕事をしているって、いや、ふつうに考えればありえないとしかいいようがないでしょ。しかし、だからダメなのかといえばそうではない。


 このあからさまにめちゃくちゃな設定は『リコリコ』がリアルアクションストーリーというよりは一種寓話志向していると見るべきです。この作品はおそらく意図的ウソくさく、うさん臭い印象を与えるように設定が練り上げられている。


 そして、そのウソくささ、うさん臭さがひとつの魅力にまで昇華されている。だから、「リアリティがないじゃないか!」と指摘することには意味がない。まずはそこに込められた皮肉寓意を見て取るべきなのです。


 それでは、その欺瞞的かつ偽善的かつ人工的な、「まるでリアリティがない」設定と物語を通して『リコリコ』が描こうとしているものは何か。それは「子供犠牲にして成立している社会」の欺瞞だと考えます


 まさに上記匿名ダイアリー批判されている、子供たちを「消費」することで成立している日本アニメ産業欺瞞でもある。


 評論家杉田俊介は、新海誠監督映画『天気の子』について、このように書いています


ひとまず重要なのは、『天気の子』は、日本アニメ批判するアニメ、「アニメ化する日本現実」を批判するアニメである、ということだ。「アニメ化する日本現実」とは、少女人柱アイドル犠牲搾取によって多数派幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである物語最初の方に、風俗店求人宣伝を行う「バニラトラック」が印象的に登場すること、陽菜チンピラに騙されて新宿性風俗的な店で働きかけることなどは、意図的演出だろう)。


https://gendai.media/articles/-/78976


 ぼくは杉田の『天気の子』論にはまったく賛同しませんが、ひとまずこの「見立て」は面白いと思う。


 杉田の指摘をこのようにいい換えてもまったく違和感がないのではないでしょうか。「「アニメ化する日本現実」とは、少女リコリスアイドル犠牲搾取によって多数派幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである」。


 つまり、『天気の子』は、そして『リコリコ』もまた、日本アニメと、日本アニメに似た構造になりつつある(なってしまっている?)日本社会構造のもの批評的に設定に抱え込んだ「メタ日本アニメであるわけです。


 『リコリコ』の設定はあまりにも「リアリティがない」かたちで矛盾欺瞞偽善を抱え込んでいますが、それは視聴者に対する問題提起なのです。これは杉田が挙げている「アイドル」の問題とも一脈通じるものがあると思います


 その意味で、『リコリコ』は、じつは一種アイドルアニメなんですよ! な、なんだってー。まあ、それはひとつの「見立て」に過ぎませんが、じっさい、アイドル界隈のほうでもこの「ファンによるアイドルの抑圧」問題はしばしば議論されているようです。


 たとえば、『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』というアイドル現象批評の本では、このような問題が取り上げられています


今日アイドルは広く普遍的な人気を獲得し、多様なスタイル可能性をもつジャンルとしても注目されている。しかし、同時に多くの難点を抱え込んでいることも見過ごせない。

暗黙の「恋愛禁止ルールとその背景にある異性愛主義、「年齢いじり」や一定の年齢での「卒業」という慣習に表れるエイジズム、あからさまに可視化されるルッキズムSNSを通じて四六時中切り売りされるパーソナリティ……。アイドルというジャンルは、現実アイドルとして生きる人に抑圧を強いる構造的な問題を抱え続けている。スキャンダルトラブルが発生して、旧態依然ともいえるアイドル界の「常識」のあり方が浮き彫りになるたび、ファンの間では答えが出ない議論が繰り返されている。


その一方で、自らの表現模索しながら主体的ステージに立ち、とき演者同士で連帯して目標を達成しようとするアイドルたちの実践は、人々をエンパワーメントするものでもある。そして、ファンのなかでも、アイドル本人に身勝手欲望規範押し付けることと裏表でもある「推す」(≒消費する)ことに対して、後ろめたさを抱く人が増えている。


https://www.amazon.co.jp/dp/478727449X/


 アニメ場合美少女キャラクターたちは実在しないのでアイドル業界ほど問題は先鋭化しないようにも思えますが、そのキャラクターを支持しているはずのファンキャラクターに「身勝手欲望規範押し付け」て「消費」している構造は同じです。


 そして、その「大人たちが子供たちをだまして食い物にしている」欺瞞構造現在日本社会全体を象徴するものでもある。『リコリコ』や『天気の子』は(そして『Gunslinger girl』も)この問題テーマとして作品内にメタ的に胚胎しているといえます


 もっとも、この児童搾取問題は、文学的に見れば遥か昔の作品にも見て取れるものであり、きわめて普遍性の高いテーマであるということもできます


 この問題に関して文芸作品を振り返るとき、だれもが即座に思い浮かべるのがドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟であることは論を待たないでしょう。


 この小説のなかで、イワンカラマーゾフは、弟のアリョーシャに向かって、神話的な過去原罪を犯した人間たちは「神の国」へ迎え入れられるために苦しみを耐えなければならないというキリスト教論理を踏まえ、そんなことは子供たちには何の関係もないじゃないかと語ります


 そして、たったひとりの子供の苦しみを理由にでも、自分は「最高の調和」を拒絶するというのです。


 俺は一般的人類の苦悩について話すつもりだったんだが、むしろ子供たちの苦悩にだけ話をしぼるほうがいいだろう。俺の論証の規模は十分の一に縮められてしまうけど、それでも子供だけに話をしぼったほうがよさそうだ。もちろん、俺にとってはそれだけ有利じゃなくなるがね。しかし、しかし、第一相手子供なら、身近な場合でさえ愛することができるし、汚ならしい子でも、顔の醜い子でも愛することができる(もっとも俺には、子供というのは決して顔が醜いなんてことはないように思えるがね)。第二に、俺がまだ大人について語ろうとしないのでは、大人はいやらしくて愛に値しないという以外に、大人には神罰もあるからなんだ。彼らは知恵の実を食べてしまったために、善悪を知り、≪神のごとく≫になった。今でも食べつづけているよ。ところが子供たちは何も食べなかったから、今のところまだ何の罪もないのだ。


(中略)


 まだ時間のあるうちに、俺は急いで自己防衛しておいて、そんな最高の調和なんぞ全面的拒否するんだ。そんな調和は、小さなあの痛めつけられた子供一人の涙にさえ値しないよ!


 つまりイワンはここで子供犠牲にして成り立つユートピア欺瞞告発している。これは、『天気の子

好きな歌い出し17

They found our city under the water

彼らは僕たちの街を水底に見つけた!

これ歌の後のほうでも一切言及がない(たぶん)意味不明フレーズなんだけど、詩的ですげー好き 過去形なのがいい どういう意味なんだ

すごいぞ!エスパーのように俺は君の目を見て心を読める

ハイハイ、って感じの内容なんだけど、実際読めるっていう文脈では全然なく、強がりで言っているというところまでなんとなく伝わってくるのがイイ

Tengo un par de cosas tuyas tiradas en mi cuarto y no sé qué hacer

「部屋に君のものがいくつかほったらかしで、どうしたらいいかわかんないや」

失恋ソングの歌い出しとしてかなり好きなんですよね

やや投げやりな感じな歌い方とあいまって、なぜ「どうしたらいいかからない」のかは、長く付き合ってそれなりに繋がりのあった恋人との関係が、急になくなってしまたからだというのが、歌い出しだけでわかってしまう!

憧れのインディアは遠かったけれどカ-タ-スタイルフラットピッキングとケララ産できめて午前5時までならステップバイステップ踊ってあげるよそして僕の部屋においでよ

何言ってんの?

Timothy

ティモシーって歌で、1秒の前奏もなく、いきなりティモシーと歌い出す これに勝る歌い出しはないよ

さすらおう

さすらいって歌でさすらおう!って歌い出すのマジで性格がいい感じがする

Esta es la melodía de extrañar

Extrañarは恋しがる的な意味で、「これは恋しがることについてのメロディ」的な歌い出しなんすけど、まさにそのmelodía de extrañar曲名なのがいい

曲名言及する歌い出しって好きなんだよな

Life can be so vicious that we can’t even appreciate its purities

人生ときにあまり邪悪から、僕たちはその純粋さに気づけないことがある!

いいフレーズすぎる

こういう、人生を悪くいいながら良くもいうようなフレーズってすげえ好きなんすよ

これが歌い出しにくるのがまたいい

Volevo dirti tante cose ma non so da dove iniziare

「君に言いたかたことがたくさんあるんだけど、どこから始めていいかからない」

内容自体はまあフツーなんだけど、何がいいって、俺でも意味がわかる程度の文法・語彙だってところ!

厳密にいうとvolevoの時制の意味微妙にわかんないんだけど、でも大意はわかる!

〜したい、言う、たくさんの、こと、でも、〜ない、〜から、どこ、始める

奇跡的なまでに基礎単語構成されていてすごい

イタリア語の響きってかなり好きなんだけど、なんせ分からんので、たまにわかると嬉しい

I declare today that life is simply taking and not giving, England is mine, it owes me living

今日ぼくは宣言する、人生とはただ奪うことであり与えることではないと、イングランドはぼくのものだ、ぼくを養う義務がある」

俺もこういう感じの宣言したい!!!

I may not always love you

「君をいつだって愛するってことはないかもな」

名曲の歌い出しがクソみたいな宣言だとかなり嬉しい

I once had girl or should I say she had me

「むかし彼女がいたんだ、あるいは彼女に僕がいたというべきか」

ノルウェイの森だという意識を持って聴くと歌い出しかキモい感じがしてかなり良い

or should I sayの精神は大切にしていきたい

Busco a mi perro perdido

「いなくなった犬をさがしているんだ」

曲名El Perro、ザ・犬で、歌い出しがこれで、ずっと君が必要なんだって歌って、最後は「どこにいるんだい、友よ…」を連呼して終わる

マジで悲しいけど哀愁あって好き

歌い出しから一貫してるのがいい

Tal vez así

「たぶんそう」

tal vezは多分、asíは「そう・こう・そうやって・こうやって」あたりを全部担当する謎の単語

ということは、maybe so 的な感じで、メチャクチャ訳しにくい

切ないメロディで、セクシーな男がtal vez así と歌い出す なにがasí なのかは不明

眠りの手 閉じ込められていた熱が

「眠りの手」部分の意味全然からないんだけど、それがいいんですよね

眠りの手ってなんなんだマジで 以降言及ないし

でも、ね!むり!のて!って切って歌い出すのは本当に気持ち良すぎる

From way far across the sea, came an eritrean maiden, she had a one-truck mind and eyes for me, half blinded in the war

「海を越えてはるか遠くからエリトリア乙女がやってきた、彼女が僕に向けたのはまっすぐな心と目、その目は戦争で半盲だった」

このフレーズのどこが好きって、最後half blinded in the warの付け足し方なんすよ

彼女が僕に目を向けた、つった直後にその目に重い修飾をつけてくるのが渋すぎる

これができるのが英語の強みだと思うマジで

Dropped down the lights, I’m sitting with you.Moscow, 1972

これのモスカウ、1972 部分がマジで好きすぎる

明かりを消して、僕は君と座っている。モスクワ、1972年

年、場所 だけで舞台表現するのすげー好きなんだよなあ

実際歌全体としてモスクワ1972年要素があるかっつうとよくわかんねえんだけど、とにかく最高の歌い出しだ

You と twoで韻を踏んでるのもいい

2022-08-07

https://anond.hatelabo.jp/20220806182309

DAという女の子に銃を撃たせるにしてはあまりにも大袈裟で、テーマ性をもたせるにはあまりにも投げやりな組織

ラジアータ犯罪の発生を事前に察知してリコリス容疑者殺害して回ってるわけだが、

犯罪について事前に察知することさえできれば事件を阻止するのは警察でもできてしまうため、

現場対応リコリスが行う必然性がない。結果的少女無駄人殺しをさせてしまっている。

犯罪の発生を隠蔽して表面上の治安を見繕うことにどれだけの価値があるのかを描写されていないので、

政府の指揮下にないとか政府より権力を持つとか滅茶苦茶な設定盛られているわりに

やってることが犯罪発生件数改ざんする程度の組織になってしまっている。

作中のテロリスト達と同様になんの理念も主張ももたない単に設定として置かれているだけの舞台装置

リコリス・リコイル

2022-07-28

ACID A MANA

SUZUKI FUCK

TERA DA SIN

 

やっぱワールドワイド活躍を考えて

子役名前って付けてるんだろうか

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