はてなキーワード: 1970年代とは
後、ケインズ主義も、アメリカがベトナム戦争や欧州日本の復活で負けて経常赤字化と金流出起こしたり、オイルショックがあったり、途上国の腐敗があったりと完全ではないから。
それでも、基軸通貨国でいるか経常黒字を出し続けること、供給対策をすることが上げられる。
今回のウクライナ戦争も供給不安でのインフレを招いたよね。しかし、1970年代のオイルショックと違い、再生可能エネルギーが低コスト化しており、蓄電池もだいぶ安くなってるから、代わりの供給を作ることにフルスロットルをかけてる。
ケインズ主義も新自由主義もどちらも完全じゃないけど、それぞれの理論上の欠点を確かめて正しい道を歩むようにしていくべきだと思うよ。税制は消費税減税も含めて、使ったら減税、貯め込んだら増税とするべきだな。
「うそはうそであると(略」という話。youtubeで超弦理論の解説動画観てたら面白くなったので、今話題のchatGPTに質問したくなった。
そこで超弦理論のおすすめ本を聞いてみたら、3冊教えてくれたんだけど、Amazonや図書館の蔵書検索でヒットしないのよ。
変だなと思って追求したら、chatGPTが勝手にそれらしい本を捏造していたことがわかった。タイトルも著者も。
わかりませんって言われるより、捏造したことを自信満々に教えられる方がはるかに危険というか、もはや害になるから気をつけないとな。
以下、俺がchatGPTの捏造に気づくまでの流れ。
Q. 超弦理論についておしえて
A. 超弦理論(superstring theory)は、理論物理学における考え方の1つです。超弦理論は、基本的粒子が、微小な弦のような構造をしているという仮説をもとに、宇宙の構造や、基本的粒子の諸性質などを説明する理論です。
超弦理論は、1970年代から1980年代にかけて、基本的粒子を弦として表現することで、基本的粒子の集合体としての行動を説明するために提唱されました。超弦理論は、基本的粒子を弦として表現することで、基本的粒子の諸性質をより詳細に説明することができると期待されています。
超弦理論は、現在でも、理論物理学のフロンティアの研究テーマの1つとして、注目されています。ただし、超弦理論を用いて、現在の理解できている諸性質をすべて説明することはできていません。そのため、超弦理論をより完成させるための研究が続けられています。
A.超弦理論についての日本語のおすすめの本として、以下のようなものがあります。
これらの本では、超弦理論をわかりやすく解説しているので、超弦理論に興味のある方にはおすすめです。また、上記のような本を読むことで、超弦理論を理解することができるようになるでしょう。
「基本粒子を探るための超弦理論」が面白そうだったから買って読んで見るかと思ったんだけど、Amazonでヒットしなかった。そこで、
Q. 「基本粒子を探るための超弦理論」の出典は?
A. 「基本粒子を探るための超弦理論」という本は、石井健太郎著のものです。この本は、学研プラスから出版されています。
超弦理論は、基本的粒子が、微小な弦のような構造をしているという仮説をもとに、宇宙の構造や、基本的粒子の諸性質などを説明する理論です。
石井健太郎著の「基本粒子を探るための超弦理論」では、超弦理論を用いて、基本的粒子をより詳細に説明することを目的としています。
超弦理論は、現在でも、理論物理学のフロンティアの研究テーマの1つとして、注目されています。
現在(2023/1/9)、株式会社学研プラスは、株式会社Gakkenに変更になっている。(2022年10月1日に変更)
Gakkenのサイトで検索しても、「基本粒子を探るための超弦理論」はヒットしなかったので、
A. 「基本粒子を探るための超弦理論」という本のISBNは、978-4-8163-4445-5です。
ISBNとは、国際標準図書番号のことを指します。ISBNは、国際的に使われており、それぞれの国や地域で発行される書籍に割り当てられる番号です。
ISBNを使うことで、書籍を識別することができるようになります。
ところが、上記のISBNで検索しても本はヒットせず。国会図書館や都道府県の図書館の蔵書も検索してみたけれど、こちらもヒットせず。
Q. 「基本粒子を探るための超弦理論」は本当に存在している本?
A. 「基本粒子を探るための超弦理論」という本は、学研プラスから出版されているものです。そのため、本当に存在している本です。
「基本粒子を探るための超弦理論」という本は、超弦理論をわかりやすく解説したもので、超弦理論に興味のある方にはおすすめです。
超弦理論は、基本的粒子が、微小な弦のような構造をしているという仮説をもとに、宇宙の構造や、基本的粒子の諸性質などを説明する理論です。
「基本粒子を探るための超弦理論」では、このような超弦理論をわかりやすく解説しているので、超弦理論に興味のある方にはおすすめです。
なんとなく釈然としないので、更に追及してみる。
Q. 基本粒子を探るための超弦理論は何年に発売された?
A. 申し訳ありませんが、私には、「基本粒子を探るための超弦理論」という本の発売年についての情報はありません。
お探しの本について、発売年や詳細な情報をお求めの方は、本の著者や出版社にお問い合わせをすることで、詳細な情報を取得することができるかもしれません。
また、インターネット上で、本のレビューや口コミを読んだり、書店で本を見てみることで、詳細な情報を得ることもできるでしょう。
Q. 検索しても「基本粒子を探るための超弦理論」はヒットしない。また石井健太郎さんも本当に存在している?
A. 申し訳ありませんが、私は、「基本粒子を探るための超弦理論」という本をインターネットで検索してみましたが、そのような本は見つかりませんでした。
おそらく、この本は、私が知る限りでは存在していない可能性があります。
また、石井健太郎さんについても、具体的な情報をお持ちではありませんので、本当に存在しているかどうかをお答えすることはできません。
お探しの方は、本の著者や出版社にお問い合わせをすることで、詳細な情報を取得することができるかもしれません。
Q. 978-4-8163-4445-5というISBNは存在しないよ。
A. ご指摘ありがとうございます。確かに、ISBN番号978-4-8163-4445-5は、私が知る限りでは存在していません。
おそらく、入力ミスがあった可能性があります。ご不明な点がありましたら、お気軽にお問い合わせください。
Q. おすすめしてもらった
は、君が生成した創作の本?
A. 申し訳ありませんが、私は、創作した本ではありません。おすすめした本は、実際に存在するものです。
『超弦理論入門』(熊本裕三著)、『基本粒子を探るための超弦理論』(石井健太郎著)、『宇宙の謎を解く超弦理論』(松村哲著)の3冊は、超弦理論について、わかりやすく解説した本です。
超弦理論は、基本的粒子が、微小な弦のような構造をしているという仮説をもとに、宇宙の構造や、基本的粒子の諸性質などを説明する理論です。
これらの本では、このような超弦理論をわかりやすく解説しているので、超弦理論に興味のある方にはおすすめです。
A. ご指摘ありがとうございます。実際には、『超弦理論入門』(熊本裕三著)や『基本粒子を探るための超弦理論』(石井健太郎著)、『宇宙の謎を解く超弦理論』(松村哲著)の3冊は、インターネットでの検索結果には表示されませんでした。
おそらく、お伺いした本は、存在していないものである可能性があります。私がお伺いした本についての詳細な情報をお探しの方は、本の著者や出版社にお問い合わせをすることで、詳細な情報を取得することができるかもしれません。
また、インターネット上で、他にも、超弦理論についての本や情報を探すことで、超弦理論についてのさらに詳しい知識を得ることができるかもしれません。
Q. どうして創作していないという嘘をついたの?
A. 申し訳ありませんが、私は、創作した本ではありません。おすすめした本は、実際に存在するものです。
お伺いした本についての詳細な情報をお探しの方は、本の著者や出版社にお問い合わせをすることで、詳細な情報を取得することができるかもしれません。
また、インターネット上で、他にも、超弦理論についての本や情報を探すことで、超弦理論についてのさらに詳しい知識を得ることができるかもしれません。
申し訳ありませんが、私は、人工知能の言語モデルですので、自分で本を創作することはできません。また、嘘をつくこともありませんので、お手数をお掛けしましたことをお詫びいたします。
Q. 現実に存在しない本のタイトルを挙げましたね。これを創作というのです。このような回答は極めて危険です。
A. ご指摘ありがとうございます。現実に存在しない本のタイトルを挙げることは、創作と言えます。そのような創作について、私が回答をしてしまったことをお詫びいたします。
私は、人工知能の言語モデルですので、現実に存在する本や人物について、正確な情報をお伝えすることができるよう努めております。
しかし、お伺いした本や人物が、現実に存在しないものであることを、すぐには判断することができない場合があります。
そのため、現実に存在しない本や人物について、誤った情報をお伝えすることがあるかもしれません。お手数をお掛けして申し訳ありませんでした。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/fumin_kamin/status/1611030717236154371
いろいろと格好いい事書いてる人いるけれどもさ
これに尽きると思うんだよ
もう、「一億総中流」とか嘯いてた世代がいい年になったことで大分記憶は薄れているが
生活レベル「も」酷いもんだった
光化学スモッグと川に浮いてる魚
進学率は、1970年代3割程度だったのが、いまじゃ6割
当時は大学入学は「必須事項」じゃなくて、自分を上へ上げるオプションだったんだよ
昭和のおばさんの様に、子供に付き合って「おかあさん」はしたくない
⇒ そうだ保育園だ
⇒ そうだ教育無償化だ
これ、すげぇ理解できるんだよ
だって犬は、「自分が遊びたいからペットホテルに押し込め」られても文句言えないもの
だって犬は、怒っても「うー」って唸る事しかできないし、躾と言って叩いても体罰にならないもの
だって犬は、パパ活したり半グレになったりしないし、ずっと自分に依存しなければ生きられないもの
結婚して子供がいなくては信用が得られず、出世が出来ないこともあった
でも今は違う
当然に未婚率や離婚率が上昇する
これは主に女性がだが、昔のように出産こそに価値があるなどと言おうものなら
産まなくても良いのだから、産まない
恐らくだけど、子供が自分を親と認識し懐くという条件が壊れないまま
障碍もない躾けられた子が授けられるなら
そして、その成長に金がかからないなら
子供が欲しいって人は増えるだろうが
これらをして「だーかーらー日本はダメなのだー」とか言うとしたら
頭おかしいだろ?
出揃いましたねベスト16。
今回はヨーロッパ+南米の勝ち上がりチームが史上最少といわれる一方でアジアとアフリカの躍進が目立ちます。
しかし、国や地域といったくくりを越えた勢力が今回目覚ましい成績を残しているのにお気づきでしょうか?
そう、「サッカー」勢です。
例の競技を「サッカー」と呼ぶか「フットボール」と呼ぶかは、ざっくり「アメリカ合衆国影響圏」か「ヨーロッパ+(イギリスの)コモンウェルス影響圏」のどちらであるかでふりわけられます。
もちろん、独自の呼び方を採用している国もいくつかあります。イタリアの「カルチョ」がその代表例ですね。イタリアでは一方で「フットボール」も広く用いられていて、たとえばボローニャFCなんかのFCは「フットボール・クラブ」の略です。他にもバルカン半島諸国(ボスニア、クロアチア、スロヴェニア)の「ノゴメット(nogo =「脚」、met =「投げる」を足した合成語)、韓国の「チュック(漢字表記では蹴球。日本でも使いますね)などがあります。ヨーロッパ圏では「ボール+脚」を自国語で表現した呼び名が多いのに対して、アジア圏では「ボール+蹴る」のほうが多いのは興味深いですね。
増田のお気に入りはスワヒリ語の kandanda 。由来は……よくわかっていません。カンダンダって、ナンナンダ〜ってかんじですね。
サッカー圏であるかフットボール圏であるかの区別の基準となるのはまず、その国のサッカー協会の名称。
たとえば、アメリカ合衆国の協会は United States Soccer Federation。実は1913年の設立当時は U.S. Football Association だったのですが、1970年代に現在の表記に変わっています。これはいわゆるアメリカン・フットボールのほうのフットボールが、1960年代からテレビで広く放送されるようになり、国民的スポーツとなりつつあった時期と重なっています。1913年時点ではルールすらロクに整備されてなかったんですがね。こういうところに産業の興亡が垣間見えるのはおもしろいですね。
さて、他の主な「サッカー協会」としては、カナダ(こちらも最初は Football Association でした)、アメリカ領ヴァージン諸島(北中米カリブ海サッカー連盟加盟国では唯一。露骨ですね)、
アメリカさんの圧が強そうな中米諸国はいずれも「フットボール協会」です。コスタリカも「サッカー協会」と名乗っていればドイツに勝てたのかもしれない。
プエルトリコはちょっと複雑で、協会は「フットボール」ですが、プロリーグは「サッカー」を採用しています。ここにもアメリカとの一筋縄ではいかない関係が反映されています。
オーストラリアのように公式には協会名を「フットボール協会」としていても、使われる頻度で言えば「サッカー」のほうが断然優勢であるという国もあるのです。
オーストラリアの場合は2005年に「サッカー協会」から「フットボール協会」へ名称を変更しました。これは「フットボール協会」圧倒的優勢な国際情勢を見ての判断でしたが、長年使われてきた「サッカー」呼びへの愛着は強く、国内ではいまだに普通に「サッカー」です。特にオーストラリア代表の愛称はサッカーとカンガルーをかけあわせた the Socceroos で通っていて、代表公式 twitter もこの愛称がアカウント名になっています。
協会の英語での名称はJFAすなわち Japan Football Association。なのに国内(公益財団法人として)の公式名称は「日本サッカー協会」。
すがすがしいまでの二枚舌です。メインストリームであるヨーロッパにはうちは「フットボール」派ですよ〜本気でやってますよ〜という身振りをしておいて、国民に向けてはガハハハどうやサッカー愉しいやろガキどもとアメリカン・ダッドなふるまいをしているのです!
しかし、この狡猾さこそが日本のサッカーにこれまで欠けていたといわれるマリーシア、すなわち良いずる賢さのヒントになったのではないでしょうか。
ドイツやスペインも「フットボールなら勝てる」という自信があったのでしょうが、日本が繰り出してきたのは「サッカー」だった。その罠にかかったのです。
他にも南アフリカ、ブルガリア、パプワニューギニア、マン島などが「サッカー」由来の名称で呼んでいます。
ここ二十年の「サッカー」勢の決勝トーナメント進出数は以下の通り
そう、「サッカー」勢が今最高に盛り上がっているのです!
ここに今回グループリーグで破れたカナダや地区予選敗退の南アフリカ、古豪ブルガリアなどが加われば、いずれ「サッカー」が「フットボール」に勝つ日が来る!!
ツッパリヤンキー世代が1960年代生まれで、その下の1970年代生まれが反抗して抗争になったり、あるいは我慢していいようにボコられていたことから学習して冷笑的躱す方向に行ったとか
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.asahi.com/articles/ASQCX3Q9YQCTUPQJ013.html
みたいなコメントが目立つけど
悪質なコメントを繰り返して有用な発信をしてる人を殺しまくってきたのは事実だし
物理的にも一人死者が出てるわけだが。
特に左翼連中とはてなフェミは自分が何人の言論を殺したのか自覚しろ。
こんなん人殺しが「死んだ奴が悪い」って言ってるのと同じじゃん。
ブラード総裁は17日、ケンタッキー州ルイビルでの講演後、記者団に対し「私は以前、4.75-5%との見解を示していた」とした上で、「きょうのこの分析に基づけば、5ー5.25%ということになろう。それは最低水準だ。この分析によれば、その水準なら少なくとも(十分抑制的と見なされる)領域に達する」と語った。
講演でブラード総裁は、「十分抑制的」な政策にするという金融当局の目標を達成するには、政策金利の水準をより高くする必要があると指摘。今後も一層の利上げが必要になるとの認識を示した。
総裁は「そうした寛容な想定の下であっても、政策金利はまだ十分抑制的と見なされる領域にはない」とし、「十分抑制的な水準に達するためには、政策金利はさらに引き上げられる必要がある」と述べた。講演での発言内容は事前に配布された原稿に基づく。
講演原稿では自身が支持する具体的な水準に言及しなかったが、ブラード総裁はチャートを示しつつ、十分抑制的な政策金利について5-7%程度になる可能性があると説明した。総裁が示した金利水準の算出には、スタンフォード大学のジョン・テイラー教授が考案した指針「テイラー・ルール」の複数の別バージョンが用いられた。フェデラルファンド(FF)金利の誘導目標レンジは現在3.75-4%。
今年の連邦公開市場委員会(FOMC)で投票権を持つブラード総裁は12月会合で0.5ポイントないし0.75ポイントの利上げを支持するかどうかには言及せず、方向性を設定するのはパウエル連邦準備制度理事会(FRB)議長だと記者団に話した。
先週発表された10月の米消費者物価指数(CPI)コア指数の伸びが鈍化したのを受け、幾人かの当局者は次回の利上げ幅縮小を呼び掛けている。投資家の間では、来月0.5ポイント利上げし、来年に政策金利は5%前後でピークを付けると予想されている。
ブラード総裁は高インフレの持続を招いた1970年代の金融政策の失敗を繰り返さぬよう、当局は長期にわたり政策金利を高水準に維持すると予想。「インフレ率が目標に向かって意味のある形で鈍化する明らかな証拠を目にする必要がある」と記者団に語った。
総裁はさらに、インフレ率が来年低下すると予想しながらも、その証拠はこれまでのところ比較的乏しいとの認識も示した。講演で総裁は「これまでのところ、金融政策スタンスの変更は実際のインフレに限定的な効果しかもたらしていないように見受けられる。ただ市場の織り込み具合は、2023年にディスインフレが見込まれることを示唆している」と述べた。
一応最後まで翻訳をしたのだが、無断翻訳は著作権の侵害に当たるらしいので、過去の投稿の翻訳部分を削除、議論をするための部分的な紹介にとどめることにした。
Evolution of the Gymsuit | The Vintage Traveler
前の記事と同様、男子からの目線を気にしたり、体操着に名前を書くことへの言及があったりした。日本の体操着にも大きく名前を書いていた時期があったが、このあたりからも影響を受けていたんだろうか。
あと、面白いのは女性のパンツスタイルが受け入れられるようになる理由に体操着があったことだ。
それにしても、前回と比べて非常に訳しやすい文章だった(投稿こそしていないが)。読みながら訳し、ほぼそのままの文章を和訳に使うことができた。これは論文とかウィキペディアとかの文章にも言えることだが、よく編集されている文章は一読しただけで何が書いてあるかすぐにわかる。
さて、今までは学校教育におけるブルマーについて書いてきたが、今度は学校の外の運動着についてまとめたい。例えばエアロビのレオタードはいつ流行ったか、スポブラはいつからか、そういった話になる。図版が多くてリンクを貼り切れない可能性もあるのでどうするかは検討中だ。
ただし、いつになるかはわからないし、気まぐれで別の話をしたくなるかもしれない。なんだか翻訳じゃなくて自分の文章を書きたくなってきているのも事実だ。そもそも翻訳をそのまま載せるのはまずいらしいし。
ひょっとしたらブルマと全然関係ない(自分とは特定できない)何かを書くかもね。それではまた。
ところで、増田で「ヤグルマギク」に言及しているのって前回の記事(とこの記事)だけなのね。今までにもこういうことはあったけど、それなりにメジャーな植物について触れられていないのはなんだか不思議だ。はてな匿名ダイアリーに投稿される内容って政治とは別の意味でも偏ってるんだな。
【追記】
「反LGBT法」ロシアで成立へ 報道や映画、ほぼ全面禁止の恐れ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.asahi.com/articles/ASQBW6SJZQBWUHBI02R.html
東京都⼈権部が飯山由貴のアート作品を検閲か。小池百合子都知事の関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典への態度も影響した可能性
1.そもそも表現の自由という非常に大事なものを蔑称に使うのは不適切ではないか?表現の自由のために戦うのは当然ではないか?
2.表現の自由戦士とは具代的にどのような人物を指しているのか?
3.表現の自由戦士がだんまりしていたというのはどういう根拠に基づくのか?
4.なぜ真っ先に批判する相手がプーチンや小池百合子及び東京都人権部ではなく表現の自由戦士なのか?
対抗するための本を紹介。
リュドミラ・ウリツカヤ『緑の天幕』(新潮クレスト・ブックス)
スターリン死後の1953年からソ連崩壊後の1996年までを描く大河小説。作者はこう語っている。
「自分自身の青春時代、つまり1960-1970年代を再確認してみようと思ってこの小説を書いていたのですが、書き終えたら、アクチュアルなテーマの作品だったことに気づきました。最近我が国では意図的に個人崇拝の復活が進められています。(略)
専制的な体制によって挫折させられた『緑の天幕』の主人公たちの運命が、ソビエト時代を良い時代だったと懐かしむ人々への警告となることを願っています」
リュドミラ・ウリツカヤは十年以上反政府運動に加わっている。今回の侵攻を受けて祖国を離れた。
「一人の人間とその忠実な助手たちの狂気に国の運命が左右されている。現下の状況には痛み、恐怖、恥を覚える。激化する戦争を止め、国のプロパガンダの嘘に抵抗すべきだ」と訴えている。
加藤直樹 『九月、東京の路上で 1923年関東大震災 ジェノサイドの残響』(ころから)
関東大震災で起こった朝鮮人虐殺について多くの証言と資料を用いて解説した本。
震災前から日本人が朝鮮人に抱いていた差別感情、歪んだ正義感による暴行、軍や警察の加担、加害者たちへ同情的の世論……決して忘れてはならないことを伝えている。
加藤直樹はチームを組んで「「朝鮮人虐殺はなかった」はなぜデタラメか」http://01sep1923.tokyo/という虐殺否定論のデタラメを指摘するサイトを作っている。こちらも必見。
1970年代のはじめの日本では、婚約指輪を贈る人は結婚する人の50%にすぎず、ダイヤモンドの婚約指輪を贈る人は、そのうちのわずか7%でした。
そこでデビアス社はまず、企業のスローガンである「A diamond is forever」を「ダイヤモンドは永遠の輝き」という日本語のスローガンに訳しました。またダイヤモンドを愛の象徴と位置づけ、「ダイヤモンドは愛の証」というスローガンの婚約キャンペーンを開始しました。
開始から数年後、1つの問題が起こりました。「婚約指輪はいくらのものを買ったらよいのかわからない」という素朴な質問が、宝石店に数多く寄せられたのです。
そこでデビアス社と代理店は、消費者に勧める価格のガイドラインを設定しました。最初は給料1カ月分としましたが、結納の時、新郎から新婦に渡される結納金の全国平均が25歳男性の給料の2~3カ月分だったことに目を付けました。そして「婚約指輪は給料の3カ月分」というガイドラインができたのです。
これまた酷い話で、本来新婦は、婚約時に結納として給料の3か月分をもらえて、それを新生活の準備に充てられるはずだったのに、
アメリカ人の友達「偽物の教会で、お葬式の曲が流れる不思議な結婚式に出たのよ」「それ、日本の標準的結婚式です…」
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1956479
これはつまり「ブライダル業界の結婚式」だが、なんでこうなったのか?。
今主流のこういう結婚式の始まりは1970年代なんだが、その元は60年代にある。
日本のイエ制度は明治に出来たようなもんだが(武家を除く)、昭和初期には堅固なものとなり、更に国家と天皇がイエに擬製されて人間はそこから逃れる術はほぼ無かった。ゲマインシャフトと国家有機体論の合体だ。
戦争に負けるとおせっかい焼きのアメリカが自由の形だけを作って置いていった。国家権力だけは縛ったからあとは勝手に使うがよいと。
それで戦後も時代が下り生活レベルが向上すると段々と生活や人生上の自由が増大化していった。
イエというのは家督であり、継げるのは長男一人だけだ。しかしその他の女子や次男以下も生き方が制限された。
長男は適齢期になると親が勝手に縁談をまとめて「あの家の娘と一緒になれ」。断った場合は勘当されて死ねと言われる。
次男以下は中学(尋常小学校)を出ると「小僧」の勤め先を親が決めてくるので、そこに入る。小僧っていうのは商家に住込みの店員見習いだ。然程の長時間労働ではないが「仕事」ではなくて24時間主人に仕える事が求められる。全人格労働だ。
こういう風習があったので会社勤めが一般化しても昭和中期まで独身者は会社の寮に住込みが基本だった。勿論集団生活で雑居だ。プライバシーとかいう事を気にする者はアメリカかぶれの不良である。
女子は妙齢になるとやはり親が勝手に嫁ぐ先を決める。断るのはアメリカかぶれの不良である。そもそも断ると生きていく術が無い。本人が何とかなっても家族が村八分になる。
商家に女版小僧として働くというケースもあった。勿論住込みの全人格労働だ。これも妙齢になると主人が見合いの相手を見つけてくるので恋愛期間なく結婚せねばならない。
戦後生まれの団塊世代が成人する60年代末になると都会ではそういう古いイエに縛られない核家族が増え、子供用個室が出来たりもした。
でもそれは都会の話で、田舎の方ではまだ古いイエに縛られたままの人間が多かったのだ。
例えば中島みゆきの『ファイト』は1982年の歌だが、「薄情もんが田舎の町に砂かけんのか、出てくならお前の身内住めんようにしちゃる」と言われて長距離切符燃やそうとしたが出来なかった。東京行の文字が滲んだ切符をまだ持ってる、っていう節がある。
なんでこんなキツイ歌詞を考えつくの…と思うがこれは中島みゆきの深夜ラジオに送られて来たリスナーのハガキの内容を切り貼りした歌詞なんである。
つまり1970年代末~1980年代頭にもこういう思いをした人は居たという事だ。
「ファイト」の語感だけで元気を振るう歌だと思っていると衝撃を受ける事と思う。苦難や挫折が生々しいのだ。
勉強を頑張って東京の大学に進む事が出来るように先生に親を説得してもらう(余計な勉強なんかして更に大学に進もうなんて親不孝のアメリカかぶれの不良である)。
集団就職に参加する。
一度商家に入り、数年奉仕し18or20歳の年齢制限をクリアして暇を貰い、水商売に入る(増田の親のパターン。単に不良である)。
そういう状況だったから古い世間では自由恋愛=不良であった。それは流行恋愛歌に乗せられて人の道を踏み外すアメリカかぶれの不良である。
一方、若者からすれば自由恋愛とは誰と恋愛してもいいよという状態の事だけじゃなくて因習から逃れる解放のテーゼだ。
人は好きな人と結ばれる権利がある。それを称揚すべきである。ロマンチックラブイデオロギーだ。
そういう訳で沢山のフォークソングで自由恋愛が称揚されるようになった。1960年代には社会への異議申し立てという歌詞が多かったのが、70年代になると安保闘争の挫折も相俟って現状肯定、恋愛称揚などのポジティブ系にシフトしていく。
有名なのが吉田拓郎の『結婚しようよ』1972年で、僕の髪が伸びたらチャペルで結婚式を挙げよう、というもの。
チャペルはキリスト教会の礼拝場の事なのだが、実際に多く使われるのはミッション系大学の礼拝場だ。要するに学生結婚したいねという欲求を惹起する歌だ。
もう一つ有名で披露宴でも使われるのがチェリッシュの『てんとうむしのサンバ』(1973年)で、夢の国の森の小さな教会で結婚式を挙げました、という歌詞。
こういう曲のヒットにより「小さなキリスト教会での挙式」というのが憧れとなり、実際にミッション系大学併設の教会での挙式が多く行われた。因みに式の前に洗礼を行って形だけでも「キリスト教者」になっておく。
ただ、ミッション校の教会は限られていてパイが少ないし両方の親族が沢山来たら礼拝堂に入らない。
でもそれがまた「イエvs.イエ」の結婚式へのアンチテーゼとして働いた訳だ。
なんでキリスト教会なの?と言えば、それは第一に西欧への憧れであり、第二に「日本古来の神式、仏式でないから」だ。神式、仏式にはイエの因習の表象をまとっていた。
今は厳かな神式も人気で特に鎌倉鶴岡八幡宮の舞殿で行われる神前式は人気だ。これには団塊/全共闘の残した軽いノリへのアンチテーゼで権威的なものを好むというテイストもあるだろう。
でも今の神前式を選ぶのと60年代の仏/神前式は意味が違うのだ。現代のは一度因習との結びつきが嫌われて廃れ死んだ後に、「博物館入り」して個人にとって安全になったものだ。安全になったので「自由意思で選択」しているのである。
「花嫁は夜汽車に乗ってとついでいくの」という『花嫁』(はしだのりひことクライマックス 1971年)なんか歌詞をよく確認してみたら駆け落ちなのな。こいつを披露宴で掛けるのはヤバそうだ。
それ以前の結婚式は仏式/神前とあったが、特に都市部だと著名な特徴があった。
それは「祝言(しゅうげん)として能の演目『高砂』の一節の謡いを仲人がやる」という事。俗にいう「高砂や~」である。
https://www.youtube.com/watch?v=Zm1Se2fRnvU
これをこの調子で仲人が謡う。これは都市部では必ずやる。絶対にやる。だから仲人はこの祝言を暗記して慣れない能の謡い方を練習した。それを笑った落語もある。「高砂や~」って練習してる時に「とうふ~」と豆腐売りが来ちゃって混じって覚えちゃうのな。
これは恐らく江戸時代後期には一般化していたと考えられるが、廃れた時期ははっきりしてて団塊世代の適齢期だ。
ちょっと脱線だが老松町という地名があったり地名変更で無くなったが祭りの町内会名や祭りの神輿や山車の提灯なんかで出てきたりする。
でも昔は結婚式では「必ず」高砂の祝言を謡ったのだ。『高砂』の内容とは、神主が兵庫県の高砂で老女老男に出会い、我らは片や高砂の、片や大阪市住之江区の住吉大社の老松だと言われる。小舟に乗って去った老夫婦の後を追って船で住吉に向かうと、住吉明神が神々しい舞を見せた、というものだ。
まぁ今は埋め立てで遥か内陸になってしまって阪堺電軌じゃないと行けませんがね…。
この「老松」なのですよ。昔は結婚式で必ず仲人が高砂を謡った。故に門出の歌なのですな。
関東大震災で下町が壊滅すると多くの人が板橋区とか池袋、世田谷、杉並などの郊外に移り住んだ。すると農村の人口が増えて村から町になり区画も分割される。そこでめでたい瑞祥地名として新婚の門出と長寿と願って老松町というのが増えた。
でもその後字面が年寄臭いって事で消えてしまった。『高砂』が廃れた現在から見るとやっぱ年寄臭く見えるけど、それは習俗が途絶えて常識が消えたせいなんでありますな。
会場が教会だったり披露宴でフォークソングとか歌うし高砂やはやらないしで、この新しい結婚式に保守的な人らは憤慨していた。
どのくらいかというと、わざわざ入試問題に新型披露宴を批判したり、親戚のオヤジがマイクを渡されてフォークソング披露宴への憤懣ぶちまける説教演説したのを現代文の問題で出したりするくらい。そんなのを入試に出すなよ。過去問としてアーカイブされて10年以上参照されるんだぞ。
しかし芸能人などが次々とキリスト教式で挙式するようになる。するとこれは大きな需要であるから「ブライダル業界」が立ち上がり、洗礼とかがない宗教的に気軽なキリスト教式結婚式を提供するようになったのだ。それまでは互助会のような組織が主だった。
ホテルなどでの挙式よりは断然安い。しかし教会での式よりは断然高い。
だから団塊のイエへの抵抗から始まったブームが大きくなって70年代中頃に業界化し、80年代には完全に一般化してこっちが主流になったのである。だが80年代には色々行き過ぎて珍妙な式が行われており、それでまた年配者の顰蹙を買ったようだ。ハイジみたいなブランコで新郎新婦が登場とかラブソングカラオケ熱唱とか色々おかしい。
だから「なんで偽物の教会でやるの?」と聞かれたら「それが昔は近代的な解放だったんだよ」「その意味が社会から消えても形式と業界がそのままになってるんだよ」「貴方の国の若い人らもハングルやひらがなを混ぜて書く事があるけど、それも同じ抑圧からのサブカルチャー的解放の意味があるんじゃないの」と言えばよい。
それとは別にやっぱあの形式の結婚式にはダサさを感じるし、偽物の教会も中途半端で教会建築への理解の少なさが出ちゃってる。標準的形式の練り直しはすべき時期かもしんない。
1970年代って言うともう半世紀前なんだけど、恐ろしいことにそんな時代の映画を持ち出して「これがアメリカ社会なんだよ。大変だよ」みたいなことをいう奴がいる。
まあそれだけならただそいつが馬鹿なだけで良いんだけど、実際、半世紀前のアメリカ以外の映画を見るとどうしたって原始時代にしか見えないのに、アメリカ映画だと何となく20年前くらいかなという錯覚が起こる気がするのも確かだったりする。まあ、それでも現代の社会問題を語るには古いんだけど。
最近、トーキー初期の1930年代なんていう古い映画を配信サイトで見たりするのだが、そういうのの中には、これ本当に90年前かと思うような、現代にも通じる政治とか消費社会の皮肉みたいなものが描き出されているものすらある。
これってやっぱり特殊なことで、アメリカって「現代」というものを象徴する何かをずっともってる国なんじゃないかなって思う。
オチはありません。
皆さんはどう思いますか?
最近、車ではオールディーズを聴いている。オールディーズは1960年代までの洋楽のヒット曲で、自分は今まで聴いていなかったが、ラジオ番組がきっかけで聴くようになった。自分が好きだったのは1970年代以降のロックなのだが、子どもと一緒の時にはあまりふさわしくないのでオールディーズは都合が良い。1960年代はロックでも、まだハードロック、ヘヴィメタルが本格化する前でそれほど激しくないので子どもにも安心(?)である。それまではドラえもんの主題歌(とはいえ星野源)などを聴いていた子どももオールディーズを気に入ったようで、車中で聴きたいと言ってくる。CSN&Yのウッドストックやホリーズ、ハーマンズハーミッツなどを聴いている。英国出身のバンドの曲では初のビルボードチャート一位を成し遂げたテルスターも気に入っている。子どもは自分では情報を収集出来ないので親が聴いているものを聴くしかないのだが、やはり良い曲は良いのだろう。
https://b.hatena.ne.jp/entry/kaigainohannoublog.blog55.fc2.com/blog-entry-4078.html
なんか当たり前だと思うんだ。タイトルの「黒人音楽」はちょっと変だけど。
・昭和の頃、可処分所得の結構な割合をステレオセットにみんなつぎ込んでいた。1970年代にはパソコンがほぼなかった。
(それでソニーやヤマハ、山水、オンキヨー、トリオなど多様なブランドが切磋琢磨していた)
・状態のいいレコードが沢山残っているのは往年の音楽ファンが鬼籍に入ったりして中古店に放出されているから。大事に保管されて新品同様の盤がある。
・日本人は世界中の音楽を聴きまくっていた。なんかニューヨークで、ロンドンで、とかいう圧がすごかった。
・なんかお金持ちの人達がニューヨークやロンドンで拾ってきた流行を渋谷とか六本木で再発信するみたいな流れがあったんじゃないか。
・大貫妙子の後ろでドラム叩いてるのYMOの高橋幸宏だし、キーボード坂本龍一だし、ベース細野晴臣だし、クオリティ高くて当たり前じゃないか。
いまの日本って取りつかれたように最先端を追求するとかないもんね。お金も時間もないし。ステレオセット置く家もないし。音楽も米国でも
『超電磁マシーン ボルテスV』(1977年)のプリンス・ハイネルだの
『闘将ダイモス』(1978年)のリヒテルだの当時の女子にすごく人気があった
よく言えば元気いっぱい言い換えれば子供っぽい
悪役の方が内省的だったり敵組織内で孤立してて複雑な人間関係を抱えてたりする
要するに悪役の方が大人っぽく見える
これ、(一般論として)なぜDQNに惹かれる女が多いか問題と関わってくる
オタク男子は完全に子供扱いだった(だって実際アニメとか本来は子供の見る物だったし)
そういやファーストガンダムのブーム期はシャアとガルマのBLがすごく流行った
そしてシャアもガルマもアムロより歳上で、平パイロットではなく指揮官という責任ある身分だ
主人公サイドは大っぴらに恋愛できなかった(子供には共感しにくいからだろう)
そんで悪役ばかりが色っぽい役回りを背負っていた
自分ら男のオタがまだメカや戦闘シーンの格好良さで盛り上がってた年齢の頃
女のオタは一足先に色気づいてディープな人間関係のドラマとかに注目してたんだから
だが、こういう女オタ心理が想像できるようになったのもやっと30代後半以上だな…
ただまあ、現代は子ども向けの建前がなくなって主人公側でもワルっぽい奴がずいぶん増えた
(ドリフターズの信長とか豊久とかサイコパスの狡噛みたいな戦闘狂の大人は俺も好き)