「芸術」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 芸術とは

2024-06-13

anond:20240613224210

ゲームっていうのは、読書と一緒なんだよ。

インタラクティブで、文字のみならず美術音楽といった総合芸術で訴えてくる豪華な読書

まりその本、いや作品、の世界観に没入する娯楽なの。

読書して感性を豊かにしてる暇があるなら実益に直結する作業をするべきっていうなら、学校カリキュラムですら教養系の科目は不要になるはずだな。

まあ、増田が挙げてるような昔からあるアクション主体ゲームは、どちらかというと読書というより、手慰みな部分が大きいかもしれんが。

現代ゲームは、いわば強制されない部活のようなものだ。部活を通して人と繋がることもできる。

ソーシャルゲームなどと馬鹿にされたりするが、そういうものは確かに昔のゲーム的な手慰み部分、つまりゲーム性は陳腐になっているかもしれないが、逆にハードルを下げているとも言える。

今のゲーム業界市場規模中、運営ゲームが8割を占め、人々がゲームを通して感動をリアルタイムで共有していく体験を重視していることから考えるに、手慰み性に執着せずに物語キャラクターといった共有しやす読書的感動にシフトしているのは、正しい方向への進化だと俺は思う。

もちろん、手慰み技術を磨いてきた「硬派」なゲームマニアの中には、映画化するゲーム世界を嘆く人も少なくないが。

2024-06-12

タトゥー金髪キモいだろ

見てくれに課金するとか。

ステータス何も変わらないんだぞ?

食洗機を買えば時間節約できる。

五分刈りにすれば髪を乾かす時間節約できる。

信託でもいいか投資しておけば金が増える。

外見に課金するメリット人生において何一つない。

自分の体をパレットにして落書きなんてしても大した芸術なんて生まれない。

芸術をやりたいならもっとちゃんとした所でやるべきだろ。

2024-06-11

生成AIが「面白さ」を作れる日は来るのか?

自分は今のアルゴリズムのままなら10年後でもできないと思う。

もちろん、既にAIを使った面白ネタを作っている人は多くいるけど、それはAI特有脈絡のなさを利用しているもの殆どであって「AIが作った」というラベル剥がしてもなお評価されるようなものはどれくらいあるだろう?

かにchatGPTやStableDiffusionやSunoAI等の最先端生成AIの性能は凄い。だけど結局のところそのどれもが「破綻の少ないこと」を評価されているにすぎない。

生成AIはこの2年で劇的な進歩を遂げているけど、AIが書いた本は誰も読まないしAIが作った曲は流行っていない。

漫才コントを作らせても本当に面白くない物しかできない。

(逆にイラストなんかは尖ってなくても"うまい"だけで評価される土壌があったので今こんなに勢いがあるんじゃないかな。その"うまい"だけで評価される土壌は数年以内に崩壊すると思うけど。)

AIが「感性」というものを手に入れない以上、芸術分野はなんだかんだ人間不可侵領域であり続けるような気がするよ。

2024-06-10

anond:20240608104450

アーティストだけは常に「何が芸術であるのか」を、過去の積み重ねと、自分思想と技巧、現在社会経済バランスの中で問い続けている。

個人的には

「観客にその問いを読み解くためのリテラシーがあるのか」(観客のリテラシー課題

「高いリテラシーを求めるとするなら、横浜トリエンナーレのようなイベントでそれを行うのは妥当なのか」(主催者キュレーター課題

アート業界の潮流として、エンタメ化するのか社会経済哲学を扱いアカデミック化するのか」(業界課題

みたいな切り分けかなと思った。

2024-06-09

花火は地面から撮れ

NHK BS4K の深夜のフィラー映像で去年の長岡花火大会のもようをやっていた。

番組内では、花火撮影空撮が多用されていた。

この「花火空撮映像」がちっとも面白くない。それなのに長々と空撮カットを使う。早く地上カメラに戻せと思う。

 

面白くないのは当然だろう。

花火は、見物客が地面から見上げた時にもっと効果的に美しく見えるように花火師たちは様々な工夫を重ねている。

というか、ヘリやらドローンやらで上から見ることな最初から想定すらしているまい。

夜空をバックに花開く花火いちばんれいに決まっている。

川面や街の灯りを背景に開く花火のどこがいいのか。

 

花火は爆発物なので人を乗せたヘリ安全上近寄れなかった。だが近年ドローン撮影技術が向上して、空から花火が撮れるようになった。

「新しい、今までに見たことのない映像が撮れるぞ。」

そこでスタッフ思考が停止してしまったんだろう。

から見た映像は確かに目新しいかもしれない。だが面白くはないのだ。

現に、舞台芸術の収録で舞台袖や舞台の真上にカメラを置いたりはしないだろう。

絵としては斬新かもしれないが、そっち側から見ても芸術としてちっとも面白くないからだ。

それが効果なのは、それこそ舞台裏を見せるドキュメンタリーくらいのものである

 

今年の花火大会でもおそらく空撮映像は多用されると思う。

花火番組スタッフはおそらくまだ空撮映像の目新しさに酔っている最中だろう。

映像の物珍しさではなく花火の美しさを最大限伝えること、という花火中継の本質制作者が気づくまで、空撮は続くと思う。

2024-06-08

anond:20240608093126

「ゲージュツなんだから意味がわからなくて当たり前」というならな

それこそ淫夢動画だってその場の思い付きとしょうもない身内ノリばっかりで、外部の人間には意味不明だろ

「どうしてこの動画がそんなに草生えるのか」なんて、文脈過去の積み重ねをちゃんと踏まえた、ネット全体からすりゃごく一部の物好き以外にはわかんねーんだよ

(だいたい「草」の由来からしてそういうコンテキスト込みなわけで)

そんなものふたばみたいに身内ノリやジャーゴンが幅を利かせるタコボム社会であれば、所詮どこにでも見られる光景しかない

タコツボエコチェンなんていくらでもあるのに、現代アートけがむやみに孤高面したって笑わせるだけだわ

から結局、トリエンナーレ不自由展みたいな文化ムラが文化ムラたり得ている要素って、作品社会派・党派性まみれのメッセージそれ自体じゃないんだよね


単にこいつらの利害関係共犯関係で成り立った、いたって資本主義的な営為しかなくて(ここは元増田もある程度自覚的ではあるが)

「何が芸術か」なんて、実際のところ誰も考えちゃいねーんじゃねーのか

横浜トリエンナーレへの批判を読んで(後半)


(前半からの続きです。)

https://anond.hatelabo.jp/20240608093126


現代アートの不満


もっとも、現代アートは手放しで褒められるものでもないでしょう。多くの批判者が火のないところに煙を立てているとは言えないと思います作品の出来が悪いものも混じっていることは否めません。


大方の批判にもかかわらず、私は今回のトリエンナーレではそのような「的外れ」感のある作品ほとんどないか、かなり少なかったと感じています。これもキュレーションのよさでしょう。


思い返せば2020年トリエンナーレにあった「エビSEXをさせる方法を考える」という一連の展示はひどかった。テーマはとてもよかったのですが、日本(だったと思います)のクリエイターたちの作品はふざけているとしか言いようのないものでした。その課題は、「エコスフィア」(エビ水草の入っている閉じた水槽)の中でエビ酸素を吸って二酸化炭素を出し、水草二酸化炭素を吸って酸素を出す。この循環のバランスはうまく保たれているが、一つ問題があって、エビ生殖をしなくなる。そこでエビ生殖をさせる方法を考える、というものでした。多くの作品エビセクシーな格好をさせるとか、エビ秘宝館のようなものを作るとか、そういうものだったと記憶していますしかし、クリエイターたちはこの「エコスフィア」が地球生態系比喩であると気づかなかったのでしょうか? だとしたら愚かに過ぎるとしか言えません。それとも、気づいていてこのような作品を作ったのでしょうか? だとしたら二倍悪い。エビとは「私たち」に外ならないのだから、つまりクリエイターたちは女がセクシーな格好をして男を誘えばよいと言いたいのでしょうか? それはあまりにも「男尊女卑」に終始していると言わざるをえません。そこには問題意識が欠如しています。「教授課題テーマはよかったが、学生たちのレポートがだめだったという感じだ。」私は友人とそう語りあったことを覚えています


2020年といえば壁にブレインストーミングのように年号出来事を書いてゆく展示もありました。そこには作家メモも展示してあり、『荘子』の「胡蝶の夢」の故事引用してありましたが、「與」を「興」と書き誤っていたことを覚えています自分のことは棚に上げつつ、非本質的でささいな事をあげつらうようですが、「どうかわからないことで見栄をはらないでほしい」と思われてなりませんでした。


現代芸術作家たちの一部が「見栄をはろう」としていることは薄々感じられます人文学哲学歴史学経済学などに議論の蓄積がありとっくに通過してきた知見について、芸術家たちが何周も遅れて的外れなことを言っている光景は、あまりみっともいいものではありません。なぜそのようなことになっているかといえば、芸術家が「作品」だけではなく、その「意味」で評価されるようになっているからでしょうか。


かつて芸術家は貴族の注文にこたえて絵を描いていたそうです。今の作家自由作品を作れるはずなのに、ただ社会要請にこたえて作品を作ろうとして、中身のないステートメントを打ち出しているのは、痛々しくさえあります


しかし、これは決して「アーティストはよけいなことを考えるな」と言いたいわけではなく、むしろその逆で「もっと学問をしてほしい」ということです。しかもそれは「芸術家」としての意識以前に、「市民」として当たり前にもつべき意識であると思うのです。芸術家は作品だけで力のある面白い作品を作って、そしてそれとは別に最低限、当たり前に市民として的外れでない発言もしてほしいのです。


作品」と「意味


トリエンナーレと同時開催の展覧会Bank ART Life7「UrbanNesting: 再び都市に棲む」に足を運ぶと、新高島駅地下1階の会場の入口には巨大な土のダンゴがありました。これはかなり面白かったのですが、説明を見ると福島の土で作ったとありました。もちろん福島原発事故はまだ収束したと言えませんし、提示された問題は深刻です。しかし、その場では私も友人も何となく興が醒めてしまったのです。それはなぜでしょう? 何となく、「作品面白さにテーマが負けている」と感じました。私も「キラキラ」なアートを好む一員であり、私の中で「無意味」のもつ破壊的な力に「意味」が負けてしまったのかもしれません。あるいはその逆で、テーマの重さのために、作品が軽く見えてしまったのかもしれません。いずれにしても、私は作品のよい受け手になることができませんでした。


しか問題受け手だけにあるのではないと思います。「作品」と「意味」のバランスは難しいことであり、作り手の側でもうまく調整しなければならないものです。先程述べた通り、今回の展覧会にはピンボケ作品が少ないと感じました。しかし、今回の出品作のうち、どれくらいが「意味」(言葉による解説)なしに「作品」だけの魅力で勝負できるものだったかは疑問も残ります


今回の展示にあったBゼミの試みはよかった。「意味のないものを作る」とか「新しい楽器を作る」とか、芸術意味から解き放つような試みは今でも頼もしく思われます。どうもいまのアートは、意味付与された瞬間に弱くなってしまうような気がしています作品意味との関係性については、まだまだ考える余地がありそうに思います


私の身近に YOASOBI のアニソンが好きでないという人がいます。「アニソンというのはアニメ解釈であり、アニメへの讃歌であり、しかアニメ本編とはズレているか面白い。YOASOBI の歌はアニメストーリーをそのまま歌っている。だから面白くない」と言うのです。何となくわかる気もします。偉そうに勝手なことを言うならば、現代芸術世界にあるモノをそのまま出すのでなく、世界アートの形で表現するとどうなるのか、「意味」に傾きすぎず「作品」の力で見せてほしいと思います


しかし、芸術に「意味」をこめるなというつもりではありません。批判者の中には、芸術家は被災地創作で消費するのではなく、実際に活動をすることで被災地に貢献すべきだというような意見を言う人があったような気がします。もちろんそのような活動はしないよりもしたほうがよいのですが、それはあくまで「市民」としてのはたらきであって、「芸術家」としてのはたらきではないでしょう。芸術家には芸術家にできることがあり、それは創作であるということを否定するつもりはありません。しかし、だからこそ「作品」と「意味」にはもっとよい関係があるのではないかと思います。その答えが何かということは、残念ながら即座に提示できないので、偉そうに勝手なことを言うだけになってしまうのですが……。


批判いたことのついでに言えば、今回のトリエンナーレ批判する意見の中には、電気を使ったインスタレーション環境問題を訴える作品を同じ空間に並べることの違和感を語る人がいたように記憶しています。その違和感理解できますが、それとは別に芸術資本関係という問題も感じました。入り口の協賛企業の一覧を見たとき、たいへん違和感がありました。資本主義への警鐘をならす作品(全てではないにしろ)が、大資本資金で展示できるとは! 大企業はそのようなお金を出すほうがよいと思いますけれど、その一方で企業がそれを「みかじめ料」として批判されなくなるべきではもちろんないでしょう。作品意味もつときには、その作品のおかれる「場」までもが、自らの意味暴露するようになるのかもしれない。初っ端からそんなことを考えさせられるなかなか面白い「展示」でした。


むすび


咎め立てばかりしてしまったようですが、最後によかったところをいくつか述べたいと思います。友人は、今回のキュレーター解説文(紹介文)がよかったと言っていました。友人によると今や「この作品はこう見るべきだ、ここが素晴らしいのだと天から決めつけて、自分に酔ったような解説」を見ることも多いなかで、今回の解説文は「キュレーター自身作品をどう見るか、真摯に考えて書かれていたので好感が持てる」というのです。また、「キュレーションにも工夫が多かったような気がする。例えば商業主義マルボロ広告の下にインドの貧しい生活を描いた版画を配置するなど、『対比』を意識したものがいくつかあったように感じた」とも言っていました。キュレーターの仕掛けた「作品」と「意味」の関係性のバランス果たして十分達成されたかどうか、それはよくわかりませんが、キュレーター真剣構成しており、私たちに問いかけるものがあったのは確かだと思います


要するに、初めに述べた通り「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということです。言いたいことはこれに尽きます


魅力のある作品も少なくありませんでした。友人は勅使河原蒼風ファンになり、富山妙子画集を買いました。私は土肥美穂の buttaiが気に入りました。同時開催のBankART Life7では、みなとみらい駅の腕木信号オブジェや、Bank ART Stationにあった送風機で立ち上がる足などの機械仕掛け作品が好きでした。


つらつらと思いつくまま書くうちに、思いがけなく長文になってしまいました。次回のトリエンナーレにも期待しつつ、このあたりで終わりにします。


横浜トリエンナーレへの批判を読んで(前半)


文字数制限にかかるようなので、前後に分けて挙げます。)


前置き


第8回横浜トリエンナーレ野草:いま、ここで生きてる」がこの土日で終わります。私も見に行って、なかなか面白く思いました。ところが友人によると、SNSでは批判の声が多いそうですね。あまりそういうものは見ないようにしているのですが、友人がその場で例を見せてくれたので、ついいくつか読んでしまいました。そのとき感想は、ひとことで言うと「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということでした。そこで友人といろいろのことを話し合ったのですが、今はそれを思い出しながらこの文を書いています


今回の展覧会には魯迅の『野草』という短編集が深く関わっていますが、魯迅は「おおむね、折にふれてのささやか感想を述べたに過ぎない」と述懐しています岩波文庫竹内好訳『野草』の解説)。魯迅感想短編集『野草』を生み、『野草』がこの展覧会を生み、この展覧会が人々の感想を生み、そしてその感想がこの感想を生みました。もしこの感想を読む人がまた新たな感想もつならば、それで満足です。


人は物事に触れて感想を持つものだと思いますSNS批判の中にも、「これは感想にすぎない」というような留保をつけるものがありました。感想自由にあるべきと思います。そして、感想を読んだ感想というもの自由にあるべきでしょう。今はくだんの批判を読み直さず、またあまり調べものもせずに書いていますが、不十分なところはどうぞ悪しからずご理解ください。これは「論」ではなく、「感想」のつもりです。


野草』と「文の国」


今回の展覧会の特徴は、「作品」と「意味」のバランスを探る点にありました。多くの作品は、ただ「見て楽しむ」ものではなく、「意味を考える」ことが求められるものでした。そのバランスキュレーターの側でうまく作れているか、そして鑑賞者がそれをどのように読み解くかがカギになっていたと思います


今回のテーマは「野草」というのですが、その裏には魯迅の『野草』という著作が密接しています。これは展覧会中にも幾度となく示されており、魯迅の『野草』の本も展示してありました。この本は「二十四篇の短文から成るものですが、「スタイルはまちまちであって、詩あり、散文あり、また即物的もの追憶的なもの観念的なもの象徴的なもの風刺的なものなどが入り混り、内容形式ともに多傾向」なものとなっています岩波文庫竹内好訳『野草』の解説)。この本は意味があるようで意味がない、意味がないようで意味がある、詩のような文のような、芸術のような政治のような、一種独特雰囲気をもった作品集です。


これを読んでから展覧会を見渡すと、「キュレーターたちは横浜美術館を一冊の現代版『野草』にしようとしていたのではないか」ということに思い至ります


そう考えると少し納得できる点もあります。それは「文」への偏重です。友人は次のように話していました。「私は今まで、展覧会作品を見ればよいと思っていた。作品を見ずに解説ばかり読む人があれば、本末転倒だと考えていた。つまり言葉を軽視していたのだ。ところが、今回の展覧会では作品の多くに意味があり、その意味キュレーター解説を読んで初めてわかるようなものが多かった。入口にはタブレット文章が並べられ、その左側の階段の上には本を並べた一角もあった。さらには猟師へのインタビューがあったり、詩が作品として出ていたりと、言葉への重視が目立った。」


しかし、これは考えてみればさほど奇妙なことではありません。ふつう、広く「芸術」 (art) と言うときには「文学」を含みますし、「美術」 (fine art) というときでも「詩」を含むことがあります。「芸術」は「造形芸術」に限られたものではありません。もちろん、ただの書籍文章が「芸術」と言えるのかどうかは議論余地がありえますが、言葉芸術距離がそう遠いものでないことは確かです。


さらテーマの「野草」が魯迅の『野草』に由来するものであることを考えると、今回の展覧会の裏地には文学がぴったりと張り付いているような気がしてきますキュレーター中国出身であるということから、なんとなく心のなかに「文の国」という言葉が浮かんできました。三千年の歴史をもち、科挙試験にも詩が課され、書という芸術をいだき、詩文文字芸術でないなどと疑ったことのない文化の国のイメージとともに。


作品との対話


いっぽう、日本一般に「芸術」というとき、それは詩文を容れえないほど偏狭ものなのでしょうか? 批判の中には「文」への偏重に対する疑問もあったように思います。そのような人々にとっては、あたか展覧会からあなたの思う芸術とは何ですか?」という問いが投げかけられたような恰好になっているわけです。


では、「芸術アート)」とは何でしょう。批判する人たちの中には、自分にとって「美しくない」「面白くない」から芸術アート)ではない」と断じたい人もいるようです。でも、現代アートは「美」への問いかけを含むものではないでしょうか。デュシャンの「泉」などはまさにその代表だと思います。また、「芸術」における「言葉」といえば、シュルレアリスムと詩の関係だとか、20世紀初頭の芸術家たちがしちくどい宣言を次々と打ち出したりだとか、いろいろと思い当たることはあるはずです。そういうところに「美しいもの芸術なのか?」とか「言語表現芸術無関係か?」といった問題ゴロゴロと転がっているわけで、簡単に「これは芸術だ」「これは芸術じゃない」と判断できるはずはありません。その人たちの考える「芸術」は、どのくらいの狭さなのでしょうか。


鑑賞者は芸術に触れるとき、常に戸惑い、「作品の受容」ができない事態に直面する可能性をもっています。そのような時こそ、自分の中にある固定観念を見直す機会かもしれません。今回、批判したくなった人が多かったということは、それだけ作品からの「問い」を受けた人が多かったということでもあります。そうなると鑑賞者は、やっかいなことですが、自分の回答を練らなければならなくなります批判ひとつの回答ですし、その回答に満足せず、さらに新たな回答を考えてもよいわけです。陳腐な言い方ですが、「作品との対話」が必要展覧会であったと言えるのでしょう。


友人はまたこうも言っていました。「かつては『現代芸術抽象的すぎて何が描いてあるかわからない』という時代があり、その後に『現代芸術は難しくない、何も考えずに作品面白がろう』という時代が来て、それはひとむかし前まであった。でも、それが終焉すべきときに来たということかもしれない。今は言葉時代なのでしょう。考えずして何が現代芸術か、ということになっている。地味でつまらなかったといった批判もあるようだが、休日ちょっと芸術に触れてみよう、子ども芸術に触れさせてみよう、デート美術館に行ってみよう、特に『何も考えずにただ作品面白がろう』と期待した人にはつまらなかったかもしれない。」


しかに、昔からの(または昔ふうの考えをもった)現代芸術の鑑賞者の中には、「芸術とは面白がるもの」という考えから抜け出せず、新しい潮流に戸惑う人がいるかもしれません。「金を払って楽しみに来た」という手合いには、気の毒だったと言えるでしょう。しかも来訪者への間口は大きく広げられていたので、そのようなミスマッチを生むしかけは念入りに準備されていたともいえます。今回は横浜美術館改装後の久々の展覧会であり、規模も大きく、宣伝もあって、多くの人を誘い込む要素がありました。そのような場で横浜美術館は「人を面白がらせる」展示をすることもできたはずです。しかし、実際には「人を戸惑わせる」展示を行いました。だからがっかりした人も多かったのでしょう。


私も「キラキラ」な楽しい芸術が好きです。だからそういうものが多いと嬉しいし、その逆ならばがっかりします。しかし、美術館の目的には「レクリエーション」もありますが、決して「レクリエーション」だけを目的とした施設ではありません。今回、美術館はこのような大規模の展覧会で、作品との「出会い」と作品からの「問いかけ」を提供し、人々を「戸惑わせ」てくれました。その意味で、美術館はよくやったと思うのです。「キラキラ」な楽しい回があってもよいし、「地味」な考える回があってもよい。美術展はそういうものだと思います


過去トリエンナーレ


ここで、ちょっと過去トリエンナーレを振り返りたいと思います


私が初めてヨコハマトリエンナーレに訪れたのは2011年の第4回「OUR MAGIC HOUR ――世界はどこまで知ることができるか?――」でした。この年は東日本大震災の年で、印象としてはとにかくキラキラと輝くような回であったということです。震災後の混乱をアートがどう扱うか、芸術家の間でもまだ折り合いがつかずに、ただ思いつく限りのことをやってみたといった印象で、宝箱の中の宝石をぶちまけて転がしてあるような、たいへん魅力のある回でした。私にとってこの回は「よい」の標準になっています


2014年の第5回「華氏451芸術世界の中心には忘却の海がある」もたいへん期待したのですが、この回は言ってみれば「地味」な印象で、まだ青かった私は「ハズレ」だと感じました。しかし、友人はこの回も面白かったと言っています。この回は「忘却」がテーマで、戦争中に作家芸術家がいか体制側に立ってはたらき、戦後その責任もとらず、反省もせずに「忘却」したかということを、当時かれらが執筆した文章を並べて示していました。このころには震災後の政権交代脱原発などの流れの中で、世の中を動かすのは「政治であるという意識が出てきていたためかもしれません。


2017年の第6回「島と星座ガラパゴス」は、博物館の表に救命ボートがびっしりと張り付けられていました。「ネトウヨ」に関する展示もひとつふたつあったことを覚えていますが、これもきわめて「政治的」でした。長期化する安倍政権さなかにあって、政治右傾化懸念されていたことも影響していたのでしょうか。(「政治性」の話は、後で少し触れたいと思います。)


2020年の第7回「AFTERGLOW――光の破片をつかまえる」は久々の「当たり年」でした。2011年に次ぐキラキラの再来です。入口から光り輝くカラスよけのCDのような装飾、メビウスの輪のような形をした光り輝く金属の骨組み、巨大な腸を模した造形、赤いカーペットをひいたでこぼこの「道」映像作品「遅れてきた弟子」、そのほかここでは言い尽くせないもろもろの楽しい展示の連続


きっと第7回が初めてのヨコトリ体験であった方々は、2011年の私が次回に期待したように、第8回にも「キラキラ」を期待したかもしれません。しかし、べつに横浜トリエンナーレは「キラキラ展」ではないので、地味な回もあるのです。その意味で言えば今回はやや地味だったかもしれません。しかし「地味」には「地味」なりの「味」があるものです。今回はその意味で「ふつう」と「よい」の間くらいと感じました。決して「悪い」ではなかったと思います


いわゆる「政治性」


今回の展覧会が悪かったという人の中には、展示が「政治的」だという人もいたようです。もちろん、芸術政治であることの何が問題なのかとか、政治生活と密接なものである以上は程度の差こそあれ政治的でないものなどありうるのかといった疑問も出てきますが、今回の展覧会を見て私が感じたのは、むしろいわゆる「政治性」の薄い部分があることでした。キュレーター中国出身の方ということなので、もしや特に日本のために配慮(手加減)したのではないかという疑いさえ感じました。


しかに、今回の展覧会ではヨーロッパ戦争に関連する展示や国粋主義者移民反対デモ映像が展示されていました。それがひとっところに固めてあるのではなく散らばしてあったのは、この会場をひとつ世界見立てて、このような出来事遍在していることを忘れてはいけないと示したようにも見えます


そのデモ映像ひとつを見ているときでしたが、後ろを通りかかった人が「ヨーロッパ、壊れてんな」とつぶやきました。まことに然り! だがそれを言えば日本だって「壊れて」いるのです。日本でも人種差別デモが行われていますヘイトクライム危険もあります。「人種差別」がわたくしたちの身近にあることは、ネットを少し覗いてみればすぐわかることです。


思い返せば2014年2017年はかなり「政治的」な展示があったと思いますしかし今回、キュレーター日本問題ひとつも指摘しませんでした。日本美術展が国粋主義的主張をもった人々の抗議で中止に追い込まれ事件もそう遠い昔のことではありません。日本美術表現自由にできない国です。キュレーターたちは日本に気をつかってくれたのでしょうか? それとも日本で波風を立てて攻撃されることを恐れたのでしょうか? それとも今の世界を広く見たときもっとも新しくもっとも重い問題にしぼってとりあげようと考えたのでしょうか? それは知るよしもありません。もっと自由表現への危機は(またすこし違った形で)キュレーターたちの出身である中国にもあることでしょう。展覧会中に示されたように、ヨーロッパ安全ではありません。世界じゅうで似た現状があります


しかし、日本が名指しで批判されなかったからと言って、日本が許されたわけではもちろんなく、これらの作品なかに普遍性見出し、これを「鏡」として日本の現状を見ることが求められているのだと思います。それらの作品が見るに堪えない現状を示しているとき、それに怒っても意味がないでしょう。それは鏡をヒョイと覗き込んでみて、「ああ醜い! 私の美学に反する。美はいったいどこにある?」と怒るようなものです。


ところで、批判者の中には展覧会のこのような政治的な「傾倒」や「変質」がここ10年や20年の変化だと振り返る人もいますが、私には展覧会なかにその説明があったように思われます。今回の展覧会は、これも魯迅の『野草』をテーマとしているためかもしれませんが、歴史を強調するものが多くあり、あるところでは史料紹介の様相すら呈していました。木版画をめぐる日中交流史の展示では、魯迅木版画という簡易で複製可能芸術を通じて、民衆文化を届けようとしていたことが紹介されていました。これは「芸術」が一部の特権階級のものではなく、民衆のためのものであるべきではないのかという問題を、当時から現代に向けて投げかけなおした一面もあると言えるでしょう。また、皇国史観へのアンチテーゼとしての縄文土器や、学生紛争撮影した写真が展示されていたのは、芸術政治問題が降って湧いたものではなく、日本でも半世紀以上にわたって連綿と続いている問題であることを示していたと思います


(後編へ続きます。)

https://anond.hatelabo.jp/20240608093350


2024-06-06

人生初のストリップ、興奮しなかった。エロくなかった。

美しすぎた。

アートすぎた。

ギュスターヴ・クールベ

世界起源』すぎた。

女性身体は美しい。

そんなことは知っていたはずなのに、

圧倒されてしまった。

美しすぎる。

以前からストリップという存在が気になっており、

一度見に行ってみたいとは思っていた。

ストリップとは一体どういうものなのだろうかという好奇心が湧いていた。

よく分からんが、どうやらエロいものなんだろう、知らんけど。

今日行ったのは夜勤明けでムラムラしていたからだ。

ただ単にエロい事がしたい気分だった。

そんな軽い気持ちで、天満にあるストリップ劇場

東洋ショー劇場』の門戸を叩いた。

(実際には門戸は無い、なんなら目隠し用の暖簾すら無い。)

1時間後、俺が目にしたのは、

テレビタレントよりもかわいい容姿踊り子が、

激しい音楽に合わせ、全裸で、プロダンサー顔負けの表現をしている姿だった。

この時点でエロい事を考える気持ちは完全に吹き飛んでいた。

俺は、その演技、世界観、表現力に圧倒されていた。

(後に聞いた話ではステージライティング音楽など、演出はすべて自分で考えて行い、小道具衣装も自費で買い揃えているらしい。(バケモノか。))

俺は今日、いやらしいものを観ようという気持ち劇場へ向かったのに。

ただ単にエロい事がしたいだけだったのに。

まさか岡本太郎展を鑑賞したときと同じ気持ちで帰らされることになるとは思いもしなかった。

とにかく俺は、その芸術性に圧倒されていた。

人生経験として一度は観劇しておくべきだろうと思うくらいには高度な作品群であったよ。

おすすめする。

近場にストリップ劇場があって行ったことのない人はぜひ行ってみるといい。

今日ストリップは、うまくあったし。きれいであったし。ここちよくあったよ、太郎先生

2024-06-05

無いものなのに広まってる1-グランプリ

"神"みたいな、まあまあ使い所があるやつより、

近年でてきた概念で、日常的に使い道がないが一般に浸透しているほど芸術点が高いものします。

 

先攻オレ。

テレポテーション

はい優勝。

チャールズフォートが1931年に「テレポテーション」を初めて使用した後、この概念特にSFファンタジージャンルで広く知られるようになり、人気を博しました。様々なメディアで取り上げられ、現在では一般的なSF用語として定着しています

 

量子テレポーテーションについてはトラバ見解語っております時系列調べたわけでないのでふわふわだけど。

モテ論争だかなんだか知らんが

結局どうすればモテんだかわかんねえだろこれじゃあよ〜!!!

とキレキレになったので自分なりにまとめてみたぞ!!!!!!

そもそもゴールはどこか?

モテる、彼女を作るといっても

・誰でもいいからヤッてみたい(その状態を維持したい)

・心から安心していられる一生のパートナーがほしい

ではやるべきことが全然違ってくる

ここをごっちゃにしたままだから、「人として見ろ」と「ヤリチンは人として見なくても大丈夫じゃん。人としてみるとか綺麗事」が錯綜してしまうのである。(まあ元ヤリチンが一生のパートナーを得ている場合もあるが、希であると思う。大体映画の愚行録で殺された夫婦みたいになりがちだ)

というわけで、まずゴールを決めよう

この時非モテ努力するのが苦しいあまり「いつでもいっぱいヤレて一生安心できるパートナーがほしい!見た目も超タイプで!」とか求めだしてしま

しか普通は全部一気には無理なので、「まずはつきあえたらいいな」とか「ヤリまくるのは無理でも心の繋がりが持てたら」とか「性格が最悪で多少歳いって太っててもいいからせめて顔は死守したい…」とか決めてスモールステップするといい

▼ゴールが決まったら、ここからアプローチ方法を考えていく

・ヤリたい、とりあえず経験として異性とつきあってみたい派

→ガワから入るといい。一般的モテ動作、話し方、ファッション友達作りなど頑張るといい。自分はあまり好きではないが、ここにおいては恋愛工学有用かもしれない。

こういう恋人作りを批判する人もいるだろうが、女でも「寂しいし誰でもいいか彼氏欲しい」タイプ存在するので、そういう相手マッチングする分にはなんら問題ないと思う。

・ある程度長期的なパートナーがほしい派(または上記方法でうまくいかない時)→自己分析のターンに入る

自己分析のターン

パートナーがほしい!となった時に重要になるのが、「自分相手から何が欲しいのか?」「自分は何を相手にあげられるか?」という分析である

・何が欲しいのか

個人的には「可愛がられたい」か「可愛がりたい」かで分けるとわかりやすいと思う

自分を取り繕えない、嘘つけない、よく見せることに罪悪感のあるタイプは大抵「可愛がられたい」だ。とにかくありのまま受け入れられたい。

そういうタイプが探すべきは「懐の深い」「情にあつい」「優しい」「偏見の少ない」タイプだ。

一方で「可愛がりたい」タイプターゲットにできる層が厚い。可愛い!と思うタイプが広ければ広いほど枠は広がる。ただ可愛い!と思うタイプ一般的美少女とかモデルとか倍率が高いものになると途端に厳しくなるのでご注意。

自分は可愛がられたい/可愛がりたいからこの辺のタイプがよさそ〜とわかったら次は「何をあげられるか?」を考えよう。

・何をあげられるか

恋愛とはお互いがwin状態になって初めて成り立つものである。「自分と付き合うことで相手にどんな益が生まれるのか?」を考え提供しなければまず成功はしない。

ここで「そんなん金があればいいんだろ!」となって稼ぐことに必死になってしまう人は大抵モテない。女は金だけで釣られるわけではない。大体金だけで釣られる女がきても嬉しくないだろう。(そんなこんなで医者の知り合いは合コン身分を隠すようになってしまった)

俺みたいな非モテ、益なんて与えられねー!金くらいしかない!と思ってしまう人もいるかもしれないが、落ち着いて考えて欲しい。世の中、当たり前にあるものが実は宝だったりする。

例えば、のんびりしたおおらかな性格なら「リラックスした穏やかな時間」をあげられる。

キチっとした性格なら「整理整頓されたスマート生活」を提供できる

映画オタクだったら「映画豊富知識」。料理好きなら「美味しいもの」などなど…本当に小さくてもいいので「これならちょっとはあげられる」というものを見つけてみよう。卑屈にならず長所を見つけまくろう。

そうすると多少見えてくるはずだ。

おおらかな人なら、ちょっと気難しいタイプや気が強いタイプ必要とされそう

キチっとした人なら、そういうのに憧れるズボラタイプ必要とされそう

映画オタクだったら、芸術好きで好奇心旺盛なタイプ必要とされそう

料理好きなら、食べるの好きなタイプ必要とされそう

のようなような

そこまでわかったらあとはトライである

そういう子がいそうな場所に行くのだ。もしくはマッチングアプリでそういうタイプを探すのだ。

(恋愛目当てに行くなんて社会人サークル荒らしみたいでイヤッ!という方はマチアプ全力投球で頑張るのもあり)

そしてようやくここ…っ

ようやくここから相手に人として接する」が始まる!!!!(パンパカパー)

結局人としてってどゆことやねんであるが、簡単にいうと「その人個人として見る」ということである

女は(誰でもいいけど付き合いたい勢を除き)基本、体目当てで寄ってこられて消費されるのを嫌う。「女なら誰でもいい」系の男は相当アウトローな魅力がない限り蛇蝎のごとく嫌われる。

その辺わからず「かわいいから〜」「好みだから〜」というテンション最初から異性として意識してまーす!という匂い漂わせ近づくと「こいつ顔と体しか見てねえだろ!」と思われ嫌悪感を持たれてしまうのである

からあれだな、「人としてみる」は「女として見すぎない」でもある。

いきなり向けられる好意は、それがもし純粋ものだとしても、女性からしてみたら「なんで話もしてないのにこんなに好いて来るの?」→「顔と体で寄ってきたんじゃないか?」と不信感を抱かせる。

なのでまあ、しっかり関係を構築したいなら、初手から好意を見せるのは悪手である。どんなに見た目がタイプアタックしたくても、まずは相手の中身、パーソナルについて触れていく方が勝率が高い。

!!!パーソナルを掘る相手可愛い子ばかりだと、「こいつ結局…」とモロにバレるので注意が必要だ。

普段からいろんな人に興味を持ち、コミュニケーションを取っていくことでこの露骨さは消えるので、モテたいなら友達積極的に作っていこう。あと単純にたくさん友達作るとコミュニケーション経験値が上がるし、いろいろとFBをもらえるようになるしいいことづくしである。それができたら苦労しねえ!という方は、好意を隠す訓練を頑張るしかない

そしてここまでくるとあの考え…「それだとぬいペニになるのでは?」が浮かぶはずだ。

もちろんその可能性はある。ただ、考えても見て欲しい。「ごめんそういう気持ちはなくて友達だと思ってた」は女でも男でも好意を見せた時に発生する確率のあるイベントである

まり…起こるものは起こる!!!!ある程度みんなある!!!!!

ただ、ぬいペニを起こさなテクはある。それがどっかの増田も書いていたが「徐々に好意を見せていく」という手だ。

例えば一緒にご飯を食べに行った時、「◎◎さんて美味しそうに食べるよね」とか「字が綺麗だよね」とか「いつもきちんとしてるよね」とか褒める。ふんわりと「あなたのこといいなーと思ってるよ」と伝えるのである

この辺りで反応を見る。嬉しそうだったら多少脈アリ、簡素な返事だったり距離を置かれたりしたら脈なしなので残念ながら次に行こう。

脈アリそうならもうちょっと褒めてみる。「髪型凝ってるね!すごい!」「笑ってる顔可愛いって言われない?」「その本読んでみたいな」

こうやって少しずつ「大丈夫かな?嫌じゃないかな?」と近づいていく。(もし嫌がったら「ごめんね」と離れること。それがセクハラをしないために必要なことである)

そして最終、「◎◎さんの恋人幸せだろうな」とか「ふたりきりで行きたいところがあるんだ」等に乗ってきてくれるようになったらあとはゴー!である

これをせずただ友達として過ごし、ある日突然好きだと言っても相手も面食らってしまう。「そういう相手だと思ってなかった」となってしまう。

なので「あ、この人自分のこと好きそうだな」と微妙に気づかせるため、好きの種を蒔いておくといい。

更に言えばこの際に、「日曜はおれ美味しいご飯いっぱい作るよ」とか「おすすめ映画まくろう」とか付き合ったらどうなるかをイメージさせられるとよい

(まあここまでやっても好意理解しない恐るべし鈍感女もいるので、そういうのに当たった場合は運が悪かったと思って次にいこう…)

ここまでくればかなり目的に近づけると思うが…それでもたまに「いい人だとは思うんだけど」となってしまう人もいるだろう。

そんな人に足りないのは、ズバリ、「ドキッとさせる力」である

これは男性なら少女漫画女性なら男性向け恋愛漫画を読んである程度ドキっとパターン学習することをおすすめする。

基本はこの二択だ

1、ワガママだったり我の強いヤツが強引にくるor自分にだけ弱い顔を見せる

2、真面目で優しい子が、自分にだけ男っぽい(女っぽい)側面を見せる

非モテは基本2で攻めるといいと思う。いつもふにゃっとした男が「◎◎さん大丈夫!?」とかっこよく駆けつけたりしたらやはりドキーッとする。

そんなシーンないがな!という場合は「エスコート風の動作」が効果的だ。車道側に立つ、エスカレーターで登る時後ろに立つなど、「女性として大事にしていますよ」ということを動作で伝えるだけでだいぶ好印象だ。女性ならたまに裾を掴むとか、もしできちゃうなら肩とかくっつけてしまうのもいい。性的な魅力をちょっとアピールするのだ。

男性で手が骨張ってたりしたら、楽器を弾くところやPCを叩くところを見てもらうのもいい。女は大抵かっこいい手が好きなので。イケボならカラオケ効果的!

…そしてここまでやってようやく彼女彼氏ができる…というわけでもない。

人間関係は良くも悪くも所詮相性である。巡り合わせが悪ければどうにもならない。

でもそれは裏を返せば、振られてもそれは本人の問題というより相性の問題であると割り切れるということでもある。

非モテはここですぐ自己否定された気になって異性を恨み出してしまうのだが、それは無駄行為である。なんせ合う異性もいれば合わない異性もいる。それだけの話であるモテ男は大変例外的ものだ。)

なので、いつか巡り合うその日のため、自分のペースで少しずつ進んでいくのが良いと思う。自分を責めたり異性を責めたりしてもあまりいい方向にはならんので。

…と長々書いてしまったが、参考になっただろうか。上から目線のクソバイスと思う人もいるかもしれないが、一応私なりに非モテの皆さんの幸せを願って書いたので、一人にでも役に立ったら幸いだ。

頑張れ非モテ恋人ができたからといって必ず幸せになるわけではないが、それでもその経験あなた人生を豊かにするぞ!グッドラック!!

2024-06-04

[]

われわれはみなヒーローのような夢をみる権利をもっている。

われわれがヒーローなんていない時代に生きているのだという人々は、目のつけどころを知らないだけなのだ

あなたがたは、毎日工場の門を出入りするヒーローを見ることができる。

他にも、数は少ないが、われわれみなそして全世界にありあまるほどの食料を生産しているものもいる。

あなたがたはカウンターの向こう側でもヒーロー出会うことができる。

そしてヒーローカウンターこちら側にもいるのである

自分自身アイデアを固く信じて、新しい仕事や富や機会を作り出す起業家がいる。

ヒーローたちは個人家族であり、その税金政府を支え、自発的寄付協会チャリティ文化芸術そして教育を支えている。

愛国心は口にはださないが心に深くきざみこまれており、その価値観がわれわれの国の生活を支えている。

わたしヒーローのことを第三者のように話してきたかもしれないが、私が言いたいのはあなたたちのことである

なぜなら私が話しているヒーロー、つまりあなたたち、この祝福された国の国民たちに向かって演説しているのだから

あなたたちの夢や希望目的は、神に誓って、この政府の夢であり、希望であり、目的なのです。

1981年1月20日

ロナルド・レーガン第一大統領就任演説

https://open-shelf.appspot.com/UnitedStatesPresidentialInauguration/RonaldWilsonReagan-1.html

2024-06-03

[][]Inscryptionの『ドクロの嵐』実績クリア

InscryptionのSteam実績獲得率の最も低い『ドクロの嵐』を取得したので記念に書く。獲得率は現在1.9%だ。積極的攻略情報ネタバレを書くつもりはないが、これからプレイする予定の人は見ない方がいいだろう。


マンティスゴッド」デッキ10回くらい繰り返してようやくクリア。運良く「複製」と「合体」のマスを交互に踏めて、最終的にマンティスゴッドを以下のように強化できた。

攻撃12
体力20
三又攻撃
 嫌がらせ
 二回攻撃
 托卵

上記カードは、攻撃力3体力5(焚火2マスで強化)二回攻撃(合成で付与)のマンティスゴッドを「複製」 「合体」を2回経て作ったものだ。これで攻撃力と体力を4倍にできたのだ。「托卵」は「複製」した際に変化した印だが、構わず「合体」した。

これで、1ターン目にマンティスゴッドを出して奥歯がジャラジャラと弾け飛ぶのを眺めるだけのクソゲーとなってしまった。カードを組み合わせたコンボシナジーも一切なし。これがInscryptionだ。こうでもしなきゃグリズリーボス突破できないかしかたがない。チャレンジで変更した初見ラスボスマンティスゴッド1枚でワンターンキルを繰り返した。最終形態だけは2ターンかかってしまったが、初見ラスボスの行動パターン理解する前に倒してしまったのだ。

Kaycee's Modチャレンジは少しずつ難易度が高くなるとともにカードや初期デッキのアンロックが増えていくのが楽しかった。ゲーム本編が、CPU相手に対する競技性やストーリー脚本)の巧緻さよりも(メタ的な演出も含めた)芸術性や謎解きに重きを置いていると感じたのとは対照的だ。

ただし、それもチャレンジレベル12クリアするまでのことだ。チャレンジを積み重ねるごとに、「今のプレイは運が良かったかチャレンジポイントもっと盛っても勝てたんじゃないか?」などと思うことがあったが、チャレンジ全増しはまさにそうした運の良さを前提とした苦行だった。グリズリーの群れを突破できる強力なカードを運良く作れて1ターンで倒すか、それができずに1ターンで倒されてゲームオーバーか、という苦行だ。

まあそれでも、苦行を突破した達成感はあったから、それはそれでよし。

Kaycee's Modの実績は全取得できたが、本編の実績はいくつか取れてない物がある。でも、本編のゲーム性(競技性)はKaycee's Modに劣るし、実績を解除するのもただの作業に過ぎないだろうから、Inscryptionのプレイはこれにて一区切りとするつもりだ。本編のプレイはとても楽しかったけれども、2回3回と同じ演出を見ても興ざめになることは間違いない。あくまでも初見からこそ楽しめる演出なのだから。謎解き勢なら何度も繰り返して考察を深めるのだろうが…。

しかった思い出を書き終えたので、私にとってのInscryptionはこれでおしまいだ。

2024-06-02

anond:20240602200009

プログラマだけどバージョン1が完成形はあり得ないと思ってる。

俺らは同じコードを何度か書き直すけどシステム全体を最低二度フルスクラッチしないと、完成形にはならん。

から憲法だって改正すべきと思ってる。

最初に作られた憲法日本にとって奇跡的にマッチするベストルールだった、なんて可能性はない。

マッカーサー軍人であって神様じゃない。

同様に原作マンガだって完璧ではあり得ず、ドラマ化なりアニメ化なりを繰り返して無駄は削ぎ落とされ必要な要素が強調されブラッシュアップされていくはず。

原作改変するな、ってスローガン芸術に逆行してると思います

anond:20240602191205

そうなんだよなあ

趣味でいいからみんな才能を発揮してほしいところだが、できる人は社会を回す義務があるから余暇生産なんて手が回らないよなあ

俺の同級生も素晴らしい芸術の才能を持ってる奴たくさんいたけどみーんな公務員

俺は障害者で暇だからまだクリエイターの端くれなんてやってるけど俺くらいだよ暇なの

横浜トリエンナーレ2024の感想

創作政治的な主張がくっついてるやつ、創作面白いから人がそれを見に来て、ついでにくっついている主張を見て「なるほどそういう考え方もあるのか」とか思って帰っていく、だと効果があると思うんだけれども

主張をするために創作をする、の場合創作のもの情熱がないか創作面白くなくて、感想が「主張が強かったな」だけになってしまうのかなと思った

主張ってどうしても誰が言ってるかによって受け取り方が変わってしまうと思うので、創作のものしょうもないと「しょうもないやつが主張が強いことを言ってるな」になってしまって、これが「アート政治を持ち込むな」みたいな感覚になってしまうんじゃないかなと

創作に主張を持ち込むな、とは全く思わなくてそれは個々で好き勝手やればよいと思うんだけど

ただ、創作ピックアップする側が「面白い創作に主張がくっついている作品」を「主張があるから良いのだ」と認識して「しょうもない創作に主張がくっついてるやつ」をピックアップしていった結果「しょうもないものばっかり展示されている」からの「しょうもない展示って主張が強いのばっかりだな」になってしまうのが良くないんじゃないか

個人的には面白い創作の作者に強い主張がある事自体創作に対して前向きなことなんじゃないかと思っていて、創作に対して「我が強い人間がこだわって作りました!」みたいな印象を与えるのに効果的だとは思っているんだけど

ただこれってやっぱり創作ありきで、創作である、というところをないがしろにするのはやっぱり違うんじゃないか、という気持ちになった

それはそうとして主張は主張でどんどんしていくべきだと思っていて、芸術文脈とは関係なくいろんな主張を見れる会、としてなにかやるのは良いと思う

会場でも「このような主張がある」を見せるためにクオリティーを上げようと思っている人たちの展示は良かった

ただこれだとみんな来ないのかもしれないけど

でもやっぱり過去の「情熱のある創作に主張がくっついてるやつ」の肩をに乗って情熱のない創作を垂れ流すと長い目で見たとき過去貯金が失われていくんじゃないだろうか

2024-06-01

anond:20240601180924

バカに合わせて作らないといけない時代とかもう創作芸術の敗北だよ。もうフィクションなんて無くなればいいんじゃない

2024-05-31

anond:20240531060924

・そうはいっても政治家職業世襲文化資本だったら人的流動性がないので、フランス論文日本にも当てはまるかというと疑問

・むしろ文化維持に関わる集団文化資本なのではないだろうか。フランスカトリック文化と比するなら「相撲部屋」「相撲協会」とか「芸術芸能学校」とか「●●医師会」「東大」「日本キリスト教団」とか

文化資本移植は、英国ダドリー男爵家が米国ハーバード大作ったり、在日ハーバード米国ユニテリアン教会朝鮮布教したようなもの日本戦争負けたが彼らは成功している)

・つまり文化資本は「布教されるある種の価値観」なのかもしれない

地方逆立ちしても東京に勝てない文化資本

と言えば教育だろう。地方にも旧帝大国立大学はあるが私学を含めた裾野はあまりにも狭いし、そもそも東京一工の3/4は東京にある。私大トップである早慶東京にある。関西圏善戦しているがあくまで″関西″圏としてであり、東京に敵う道府県存在しない。

中・高等教育に関しても総合で見るとやはり東京が圧倒していて、またトップ層だけでなく中堅層が進学できる私立中高の選択肢に関しても東京が一番広い。

なぜかはてなでは換金の難しい芸術方面での文化資本″の差が語られているが、教育こそが手っ取り早く換金可能な成果であり東京地方に対して圧倒的に優位な文化資本の差だろう。

2024-05-30

anond:20240530065636

まれも育ちも関外先祖代々関外エリアという金物屋の倅が、ナチュラル文化芸術歴史に関して異様に教養あって、新住民として東京で生まれ育った自分は凄くコンプレックスを逆なでされた

[]

科学教育への要求が言外に主張するのはどんな問題であれ科学的な訓練を受けた者の問題への取り組み方はそうでない者よりも知的であろうということだ。

科学者の政治的見解、つまり社会学倫理、時には芸術に関する見解さえ、科学のもの門外漢のものより価値があると言っているのだ。

言い換えればもし科学者が支配すれば世界もっと良い場所になるだろうというのだ。

しか私たちが見てきたように現実には「科学者」とは厳密な意味での科学の一分野の専門家という意味だ。

そうすると化学者物理学者などが詩人法律家などよりも政治に関して聡明であるということになる。

そして実際のところすでに固くそう信じている人々が数百万人もいるのだ。

だが科学とはいえない問題客観的方法で取り組むことに関して狭い意味での「科学者」がそれ以外の人々よりも適しているというのは本当に真実なのだろうか?

そのように考える理由はあまりない。

科学とは何か ジョージ・オーウェル

https://open-shelf.appspot.com/WhatIsScience/chapter1.html

2024-05-29

anond:20240529131820

そういう芸術っぽさで誤魔化してる系のは微妙やな

一般女性普段着に近いスタイルでないと

2024-05-25

はるかぜちゃんママリツイートしてるこれ

https://x.com/azukinoanko/status/1794005063658361101

高校生はるかぜちゃん弁護士費用安全管理タクシー費用などをアルバイトで工面しながら開示請求したり、ご家族生活犠牲にしたり、せっかくの舞台出演も脅迫行為から守れないと降板され

どさくさにまぎれて歴史改変してるな

荒れてる時だけ現れるよく知らナイトうろ覚え適当なこと書くのは仕方ないが、ママがこれをリツイートする意味

はるかぜちゃん降板された舞台は、前張りをつけずに乳首性器も出すような演目で、

はるかぜちゃん自身17歳だったから脱ぐのは免除されたもののちんぽ出してる大人たちの中で一緒に演技するのはヤバイ警視庁から警告を受け降板された

https://news.biglobe.ne.jp/entertainment/0604/blnews_180604_1234753050.html

ヌード表現舞台未成年春名風花出演で児童ポルノ強制通報 警察から要請で公演差し替え

>「偏執短編IV」は、実在した偏執狂をモチーフ創作された短編演劇ヌード表現を含む内容を、「エログロナンセンスホラー猟奇的表現披露する内容は演劇業界では類を見ない過激表現を多分に含むオトナのエンターテイメント」と紹介している。この舞台には、はるかぜちゃんこと女優春名風花17)も出演。その稽古の様子を共演者が、「ヴァイヤンループ稽古段階で全裸といったら全裸。男女一糸まとわずセックスシーンは、そのまま絡み合う。今回サドを僕が演じ、主人公ジュリエットはるかぜちゃん。この上もなく背徳感がある」とTwitter投稿していた。

爆破予告されたことはあったが、その際には降板に至らなかった

降板されたのはヌード舞台なのに、すり替えを図っている

爆破予告の時は降板されなかったというのは削除された本人ブログにも書かれている

https://web.archive.org/web/20180603223124/https://lineblog.me/harukazechan/archives/1094295.html

>上演予定だった池袋劇場にも「春名風花降板させろ。さもないと劇場に爆発物を仕掛ける」と連絡がありました。

>当時も警察から降板はできないか、と聞かれましたが事務所と座組の皆に助けてもらい「劇場前にパトカーをとめ警備体制をとった中での上演」という条件で何とか無事に舞台に立つことが出来ました。

はるかぜちゃんが脱ぐかもしれないぞとほのめかして警視庁召喚する事態引き起こし俳優は常川博行

彼は後にこんな発言をして、その後削除した

https://web.archive.org/web/20240521101454/https://archive.md/JQpgn

>わかる人にだけ

>あの時、あのまま上演されていたら彼女キャリア人生はどうなっていたでしょうか?

演出は、逮捕される気だったんだよ。

彼女のことを考えずにね。

>「社会正義」の仮面を被ったアンチヒーローたちが暴れてくれて助かったよ。

>狙い通り

>以上

警視庁通報したのがアンチだったとしても、「17歳が脱ぐようなことを共演者がほのめかしている、脱がないとしても18禁猥褻舞台未成年が出演するのは違法じゃないか」と通報をした者と

「裸はアート性器アート、一夜の芸術のためならあなたキャリア人生もどうなってもいい、我々が逮捕されてもいい」となだめすかす大人たち

前者を支持する

ママはそうではないのだろう

2024-05-23

日本企業解雇について解説するぜ

anond:20240523161057

日本企業での解雇アメリカインドなどと異なりめちゃくちゃ規制されているためよほどのことが無い限り解雇にすることはできないんですね。なので日本企業解雇の基本戦略は「社員から辞めてもらう」です。

解雇には普通解雇整理解雇懲戒解雇がありますパフォーマンスが悪いだとか病気になっただとかで働けない人を消すためのもの普通解雇です。これがいわゆる「クビ」というやつですね。次に整理解雇、これはいわゆる「リストラ」というやつです。英語だと「レイオフ」と呼ばれるものですね。そして「懲戒解雇」です。これは犯罪を犯したなど従業員がめちゃくちゃ悪いことをしたので即刻解雇したいし退職金も何も払いたくないという時に使われるやつです。

「お前クビな」だけでクビにできるアメリカとは違い日本で誰かをクビにすることはものすごく手間なんですね。かなり厳しい条件を満たさなければ解雇されることはほとんどありません。なので米国企業レイオフをしたいな〜というような状況でもクビを切ることができず希望退職者を募ったりして自分から辞めることを推奨していくわけです。

自分から辞めさせるための芸術がいわゆる世界的に有名な「窓際部屋」または「追い出し部屋」です。これはあえて意味のある仕事を与えないことでキャリアの発展を阻害し(もちろん裁判になっても勝てるよう表面的にはキャリア破壊でないような名前を付ける)従業員精神的に追い込んでいく方法です。給料は支払われます給料が上がっていくことはないです。あなたキャリアは終わっているのですから

2024-05-22

anond:20240522232549

スポーツでいいんじゃね。

はてなスポーツ嫌い多いけど、やっぱ「練習する」「試合する」「勝つ・負ける」ってのは大きな経験になるよ。

どうしても「発表」がいいなら中学吹奏楽部とかね。まぁ団体だけど。

ようするに部活とかスポーツ少年団でいいんじゃないの。

特に田舎部活は、収入的に恵まれてるとは言えない家庭の子供の世界を広げるのに貢献してると思うよ。

もちろん、ブラック部活とか変な指導者もいたりするけどね。

部活不要論はてなだと強いけど、田舎の金なし家庭の児童生徒がスポーツ美術芸術に触れられるのは部活のおかげですよ。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん