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はてなキーワード: 芸術とは

2024-05-21

anond:20240521112554

問題国際的評価されつつ高いエンタメ性を保って、売り上げも高い「アフタージブリ」的な存在がどれほどでてくれるかですわ

産業として世界の中心であるためには、芸術性・エンタメ性・売上の三本柱がすべて揃っていないと

2024-05-18

NHK教育テレビ漁師と妻とピアノ雑感

グランドピアノに輸入S社のシールを張っていて、鍵盤の上を見るとY社といって、なんだかS社よりY社は格下のような言い方だったが、

ちゃんとした製品であればY社のピアノだってちゃんと鳴ると思ってる。

あと、中学生の前で弾いて見せて、一番前のこどもが”ブラボー”とやってたのはテレビジョンが入っているための演出だろうか?

否定的なことをいうやつは許されないとするとそれは教育的なんだろうか?という気がしました。

道徳の授業みたいなことだとやっぱり否定的なこと言っちゃいけないんですかね、、、

となると音楽って道徳なんだろうか、、、芸術じゃなくて道徳だとすると、それは楽しいのかなあ、、、

クラシック演奏会前座がある(しかもお客が入っている)というのはなかなか斬新な感じもありましたが、

そういうコンサート普通なんだろうか(自分はそういうコンサートにいったことがないのですが、、、)

これも、フジコヘミングさんもなにかはなされたりするような感じのちょっと普通音楽コンサートではないようなものだったのか、、

2024-05-17

自意識というのは基本的キモいのです。

から大人社会的人格や建前やマナーなんかで、キモい自意識を隠して生活することができる場=社会を作ったのです。

自意識キモさというのは、統制された社会の美しさの裏返しなのです。

まりそのキモさを受け入れ、積極的に表出していこうとする姿勢は、反社会的アナーキー姿勢ということです。

一部のアーティストはそれを芸術昇華し、社会の美しさに対する疑問として提出するでしょう。

また社会よりも個人を重視する視点を持つ人は、それを日常的に表すことで、社会の中での個人重要性を主張するかもしれません。

動物身体にこびりついた自意識の扱いは、個人社会関係性を測る物差しでもあるのです。

知らんけど

AIアート甲子園のここがすごい

最近Twitter話題になっている「全国AIアート甲子園@i-SEIFU」(https://aikoshien.wraptas.site/)のすごさについてまとめる。

 

そもそもAIアートアートではない

 

AIアート甲子園教育的でない

 

AIアート甲子園要求が厳しすぎる

 

AIアート甲子園クリエイター搾取である

 

AIアート甲子園はずさんな運営である

 

AIアート甲子園は生成AIイメージ向上に役立たない

 

 

 以上、「全国AIアート甲子園@i-SEIFU」(https://aikoshien.wraptas.site/)のすごさについてまとめた。今後もこのようなすごいイベントがいくつも現れると予想される。すごいイベントのすごさに注目したい。

2024-05-13

anond:20240512235950

一流の芸術に触れていたからこそ、当人無自覚の内に血肉になっていたという話。

お遊戯会の会場の話をしているわけじゃないでしょ。大丈夫か。

数学を学ぶ意味数学芸術である

Xで共有された動画塾講師先生が「要領が悪い奴は定数を動かそうとする、変数をどうにかすべき、だからこういうところが数学を学ぶ意味だ」とか言ってんのよ

はぁ?なにが数学を学ぶ意味だ、いい加減にしろ

いか数学ってのは公理から演繹的に体系を導き出す「芸術」だ

証明法にもエレガントさってものがあるし、第一、美しくない公理体系は見向きもされない

定数ってのは物理学の話だ。物理学にはプランク定数h、光の速度c、重力定数G、という基本的な3つの定数があるが、たしかにこれらを「動かそう」という話はしない

あるいは数学にもπやeのような定数はあるが、要領の良さとは無関係であり、動かそうという話もない

しかしそれは常識レベルの話だ、「誰も神の力を持っていない」と言うようなものから

では現実世界に「定数」と呼べるような固定のもの存在するか

線型回帰適用したら定数項が出るかも知れないが、これは変数依存しないというだけの話で、データが変われば動く

政治に対しては努力次第で影響を与えられるし、人間関係だってそうだろう

努力の大きさに見合わないほど、それを動かすのが難しい」という話をしたいなら、残念ながらそれは「定数」の話ではない、むしろ現象変数に対して持つ感度の問題である

しかし俺がいいたいのはそういうことじゃない。芸術であるはずのものを「要領の良さ」という低俗トピックに落とし込むその感性が全く同意できないのである

例えばラングランズ・プログラムの先にあるものはなにか、と考えれば、それは驚愕的な数学の繋がりを示すことであり、陳腐とも言える「要領のいい」応用を目指したものではないだろう

要領の良さというのは、要するに経済学の話であり、数学ではない

わかったか

2024-05-12

自分は淘汰されていく側の人間なのではないか

最近気付いてしまった。

自分は淘汰されていく側の人間なのではないか」と。

私は20代半ばの女で文系学部卒、都内実家住みで都内勤務である

これだけ聞くと一般的にいるアラサーで、むしろまれている方かもしれない。

今年の初めに交際相手に振られ、その後はフリーだ。

新しい出会いについて考えたが、理想が高くなってしまったのかなかなか相手に1歩踏み入れられない。マッチングアプリで1人会ってみたが、プロフィール詐欺(職業学歴居住地など)の多さに耐えられなくなった。やはり理想が高いのか。

理想

年齢:同年代(ジェネギャをできるだけ減らしたい。できたら同い歳がいいけど±2歳くらいが目安)

身長:160〜180cmくらい(自分より高い方が相手も気にしないかなっていうのと、高すぎると並んで話すのがちょっと大変だった。でもこちらも目安なので低くても高くてもOK)

年収:400万〜

住み:23区多摩地区東側(1人暮らしだとなお良し、職場か私の家から1時間半の範囲内だと嬉しい)

顔:好きになった人がタイプっていう綺麗事しか書けないけどそれは本当、ガリガリ肥満心配になるから好みではないかもしれないけど体質なら仕方ないよな……

タバコ:吸わないでくれ

学歴:大学卒(どの大学でもいいからしっかり勉強研究部活動サークル活動アルバイトなど何か打ち込んでいたらいいなとは思う。難関大出身でも散々サボってるのにテスト直前に周りの人に「ノート見せて」って言ってたり、遊び呆けたりしていたらおそらく価値観が合わない) 学部卒でも院卒でも

趣味:ギャンブル関係シーシャNG。あとサウナ行きすぎると毛根や精子が終わるので週末サウナ族はNG。昨年アプリをしていた時に「毎月給料が入ったら遊戯王カードを買っている(手取り18万くらいなのに5万以上するカードを買っている)」と言っていた男がいたが、それだけならいいけど毎週友達と朝まで飲んで飲み代えぐくて「もしかして給料を使い果たすタイプなのか……?」となって以来、金遣いの荒い趣味の楽しみ方をしている人が苦手になってしまった。でも経済を回しているので恋人としては辛いけど、友達としては楽しいかもしれない

その他:体調が悪くなければ毎日入浴と歯磨きを頑張って欲しい、ひげはない方が好きだけど生えてきちゃうよね(伸ばしている方は好きではないが、脱毛していたら天を仰いで感謝する。お金がかかるから無理はしないで欲しい※私自身は全身脱毛済み)、店員さんに失礼な態度を取らないで欲しい、ごみちゃんごみ箱に入れて欲しい、ハゲNG、鼻をほじるな、耳をほじるな、できれば清潔でいてくれ、高圧的な態度を取らないでくれ、ある程度TPOを弁えた服装を心がけてほしい

1番は、「会話ができる人」。ちゃんとやり取りができるのって大事面白い人が好きとか、かわいらしい人が好きとか、そういうのは求めすぎな気がしてきた。それに、条件で付き合うのではなく、やっぱり好きで尊敬して付き合いたいけどそれはもう手遅れだろうか。

周りの紹介で会った人は結婚願望が0だし(なぜ紹介した)、こんなやりとりがあった↓

相手「おいしいイタリアンがあって……マンマパスタっていうところなんだけど」

私「おいしいよね!」

相手「知ってるの!?淵野辺まで来たことある!?

私「淵野辺って相模原の?(昔友人が住んでいて地名を聞いたことがあった) いや、ないけどチェーン店から他の店舗なら行ったことあるよ」

相手淵野辺マンマパスタが1番おいしいから!淵野辺店じゃないと!」

私「(どこぞの婚活ネキのトリキ祖師谷ネタと同じじゃねえか)へえ!そうなんだ!今度行ってみようかな!」

ここまで来ると、私は結婚どころか、今後恋人ができるか怪しいのではないかと思えてきた。世の中には様々な人がいて、結婚恋愛が全てではないと分かってはいるけれど、どうしてもその幸せを私も掴みたいと思ってしまうのだ。大好きな人と一緒にいられたらそれでいい。傲慢だろうか。

段々、「自分は淘汰される側かもしれない」というフレーズ脳裏にチラつくようになってきた。中学理科の便覧で見た遺伝子の優劣の図が脳内で踊り出した。親には申し訳ないが、私は淘汰される側かもしれない。

そうなると、寿命までの何十年を楽しんで過ごしたとして、それは後世に何も残せないのかと思うと人生って何なんだろうなと思う。友人と会うのは楽しいし、スポーツするのも楽しいし、芸術鑑賞をするのも楽しいし、大学で取った資格で好きな仕事をして仲間にも恵まれているし、おいしいものを食べるのも窓辺から景色を眺めるのも散歩して道端の花を見て季節を感じるのも、全部大好きなのに。全部1人の中で消費されて、いなくなった後には何も残らない。

こんなことを考えては急に虚しくなった。生きる意味って何だろう。繰り返すが、結婚恋愛が全てではなくて、もちろん特定相手がいなかったり、籍は入れていなかったりしても幸せに過ごしている人がいるのは重々承知だ。

きっと、新しく恋人ができたらこの悩みも薄れるのかもしれないと思う。その時は相手安心材料みたいに絶対に思わず、大切に、そして幸せにする。

あ〜〜〜〜元恋人に「〇〇(私)から面白みを感じない」と交際1ヶ月あまりで振られたのが結構きている。それなら何で「好き」って言ったんだよ、「付き合って欲しい」って言ったんだよ。無理だよ、デートドタキャンされた次の日のデートツッコミのキレが悪かったなんてそんなのドタキャン理由もやもやしていてツッコミができる状況じゃないんだよな!それなのにもっと上手く関われたはず、って後悔して復縁考えてたのがもっとしんどい。やはり私は弱い。

とりあえず、別れて3ヶ月以内に新しい彼女を作って「彼女が出来た」と報告してきた元彼は、今度帰省した時にでも実家のありとあらゆる場所を探って、道徳教科書を熟読してください。

こうやって考えるのって自分自分のことを生きづらくしているようなものだ。とっとと筋肉を鍛え、美容に気を遣い、周りの人に感謝して、好きなものを目一杯楽しんで強くなるしかないなと思った。

強くなってどうなるのかは分からないけれど、日曜の夜はこれくらいで思考をやめておこう。

追記

こんなに反応をもらえると思っていなかった。ありがとう

身長だけなら1つ前の相手自称165cmで歴代で1番低いけど、むしろ身長は高くない方が並んだ時に話しやすくて助かった。体型は普通体型の範囲内だと思う。具体的な名前は伏せるが某大学の某自治寮出身者だったので付き合ったら面白いかと思った。しかし、思いのほか付き合うのが難しかったので、私のキャパの狭さが露呈した1ヶ月あまりだった。

趣味については私自身元女ドルオタだったのである程度の金遣いに理解があるつもりではあるが、グッズに月3桁使って親に泣きついたり、給料をいつも趣味交際費だけに使い果たしたりするのは結婚を考えると難しい。仕事終わりや休みの日にライブに行ったり、自分の払える範囲内でグッズ類をコレクションしたりするのはぜひとも楽しんで欲しい。

マンマパスタ淵野辺店は普通においしいと思うのでいつか行ってみたい。

anond:20240508192401

同人のものじゃなくて同人女目当てにイベントに来る女が居るのか…意味わかんなすぎる。

創作表現のできる知的な綺麗な女が性癖ならもっと別の芸術方面の催しあるだろうに。

まあ、どんな芸術系の催し行ったところで目を付けるのが人の作品じゃなくて人の身なりなんだろうから、色々残念な人だなって思いました。

現代キュビスム、カクカク芸術運動

今X(Twitter)で現代キュビスムとの呼び声も高い、カクカク芸術運動というものが密かに流行りつつある。

これは再定義された現代キュビスムであり、X内で #カクカク芸術運動 と調べると様々なカクカク芸術運動を見ることが出来る。

この新たなキュビスム概念、カクカク芸術運動は今後ますます広がっていくだろう。

いつかカクカク芸術運動画家たちで展覧会を開いて欲しいものだ。

すべての表現怪文書作成である

 この声明、「すべての表現怪文書作成である」は、コミュニケーション芸術の風変わりで独特な側面を強調する挑発的な主張です。この声明は、私たちが伝えようとするすべての行為にはある程度の謎と曖昧さが伴う可能性があることを示唆しています

 「怪文書」という用語は、通常、奇妙で理解しがたく、時には混乱を招くような文書を指します。このコンテキストでは、それは表現の不可解で風変わりな性質を捕らえています。すべての表現行為、それは芸術執筆スピーチ、または他の形態であっても、解釈分析複数レイヤーを残す可能性があります。それは、視聴者や読者を魅了し、魅了し、混乱させる可能性があります

 この声明は、表現主観的個人的性質認識しています私たちが何かを発信するとき、それは私たちの内なる精神私たちユニーク視点、そして世界に対する私たち個人的解釈から生じます。この内なるプロセスはしばしば曖昧で、完全に言葉表現することはできません。その結果、私たち表現は、他の人にとって風変わりで謎めいたものになる可能性があります

 さらに、この声明は、表現微妙な力と影響も示唆しています表現は、アイデアを伝えたり、感情喚起したり、視聴者の心に疑問を投げかけたりする可能性があります。それは、人々を魅了し、彼らの解釈分析を刺激し、彼らに独自結論を導き出すように促す可能性があります。この意味で、すべての表現は、その受信者の心の中で独自怪文書作成します。

 この声明はまた、表現革新的な側面にも光を当てている可能性があります表現は、境界を押し広げ、新しいアイデア提示し、主流の期待に挑戦する可能性があります。この意味で、それは風変わりで革命である可能性があり、視聴者に新しい視点や考え方を提示します。

 「すべての表現怪文書作成である」という声明は、コミュニケーション芸術の複雑さを認め、表現の不可解で風変わりな側面を祝います。それは、私たち表現が常に明確な答えを提供するのではなく、むしろ解釈、探求、そしてさらなる探求のための招待状であることを示唆しています

2024-05-11

anond:20240511215726

同じ芸術分野でも画家と比べて容姿の悪い人間がわざわざ顔を出すことを自重しない率は高いよ

寧ろadoみたいな年齢と性別から推測するにマシだろう人間顔ファンとかプライバシーを恐れて顔を隠すみたいなことやってる

あいみょんとか米津玄師みたいなのを実力派(笑)みたいに持ち上げてる連中って逆ルッキズムで悦になるか同類しかおらんってことでいいか

”よくぼう”の形

 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。

 住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽彫刻である。こまかに云えば写さないでもよい。ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧く。

 着想を紙に落さぬとも王膠鏘の音は胸裏に起る。丹青は画架に向って塗抹せんでも五彩の絢爛は自から心眼に映る。ただおのが住む世を、かく観じ得て、霊台方寸のカメラに澆季溷濁の俗界を清くうららかに収め得れば足る。

 この故に無声の詩人には一句なく、無色の画家には尺糸賺なきも、かく人世を観じ得るの点において、かく煩悩解脱するの点において、かく清浄界に出入し得るの点において、またこの不同不二の乾坤を建立し得るの点において、我利私慾の覊絆を掃蕩するの点において、――千金の子よりも、万乗の君よりも、あらゆる俗界の寵児よりも幸福である

――夏目漱石草枕

自分の裸を晒すより、触れてきた音楽小説を知られることに抵抗感を覚える

何を見て、何を感じ、どのような世界を構築してきたのか

それは私という人間の核となるから

土足で踏み荒らそうとしてくれるな、他人世界

かつて、真名を知られることはその者を支配する事と同義であったという

名前を知る時は、結婚する時であったとすら言われる

ここは一人部屋

誰も入れない

2024-05-09

暗黙の短歌テーゼ

最近短歌に関する増田記事とそれへの反応で気がついたのは、多くの人は歌人が共有する短歌に関する暗黙の考え方を知らないということだ。

短歌詠みの間には短歌に関する決まりごとや規範が暗黙のうちに共有されており、それを念頭に置いて歌を詠んだり、鑑賞したりする。私はこれを「短歌テーゼ」と勝手に呼んでいる。

あらかじめ言っておくと、このテーゼは必ず守らなくてはならないルールではない。むしろ現代短歌どうやってテーゼに沿わずして魅力のある短歌を生み出すか試行錯誤している節がある。

だが、どんな流派であっても優れた歌人はこのテーゼ意識し、従うか対抗するかのスタンスを明確にして歌を詠んでいる。そして、そのスタンスがある程度共通している歌人同士が同じ結社の中で作歌や鑑賞をすることで歌風確立させて行くのである

であるから、反例となる名歌はいくらでも挙げられるであろうが、反例があることはテーゼ存在しないことを意味しない。

以下、私はこれが短歌テーゼだと思うものを挙げてみる。これらは私が歌会での経験短歌関連の書物を通じて知ったことをベースにした持論であり、歌壇において認められた学説などではないということは断っておく。これらが短歌テーゼ網羅したものとも考えていない。もしこれも短歌テーゼなのではないかと思うものがあれば、教えてほしい。

また、この記事を書くにあたって各テーゼに従っている歌と、対抗する歌(=アンチ・テーゼ)を例示しようとしたが的確な歌を全部に配置できないので諦めた。こうした歌の事例もぜひ提案してもらえると嬉しい。(この記事果たしてまれるのか?という疑念はあるのだが……)

ちなみにこれから挙げるテーゼに対して確信犯的にすべて逸脱しているのが穂村弘である穂村弘歌人の中でも一般的知名度が高く、フォロワーも多いのだが、実のところ短歌テーゼ的には極めて特異な位置付けにある存在だ。ただし、それは戦後短歌運動の流れを意識的に継承した、れっきとした文学的試みである

1. 短歌は、<うた>である

短歌本来は歌であり、5・7・5・7・7の韻律を守り、音読したときに美しい調べとなるよう詠むことを求める。句割りや句またがりを多用したり、日本語として音読が困難な言葉を入れてはならない。

2. 短歌は、現実描写するべきである

歌会などで短歌の詠み合いなどをすると、時々「この歌は"作ってる"ね」と評されることがある。短歌描写リアリティが無かったり、やけにドラマティックであるなど、現実には起こったことでない内容である判断された時にこう言われる。このテーゼにおいては、どれだけ平凡ではあっても日常に実際に起こったことの方がドラマティックな虚構よりも価値があるのである

3. 短歌は、作るものでなく生まれものである

"作る"という先ほどの言葉の中には、作為的言葉を操り、上手く作ろうとする気持ちを戒めるニュアンスも含まれている。日々優れた短歌を鑑賞し、心のうちに誦じて日常を過ごす中で、するっと生まれてくるものを精製するのが本来短歌なのである。こうした体験なしに、ただ物珍しい言葉をいたずらに組み合わせて面白がられる歌を作ろうとする姿勢は望ましくない。

4. 短歌は、身体性を伴うべし

短歌日常生活に即した芸術である。その生活感覚は、身体から得られるものであって、生活に根ざしていない社会政治的話題や、テレビで見たことなど身体を伴わない経験を取り上げるのは望ましくない。

5. 短歌は、風景と実感の呼応関係である

短歌は、風景描写と心情の表現がセットとなるように構成すべきである風景はただの現実ではなく、それに対峙する詠み手の心情を象徴するものとして描写されなければならない。

6. 短歌には、情念を込めるべきである

ただものごとを説明するだけの短歌はただごとうたであり、本来短歌ではない。短歌には詠み手情念表現されなければならない。

7. 短歌は、日本の伝統文化である

短歌日本語を支える伝統文化である王朝時代以来の和歌歴史を学び、古典の優れた歌に触れながら、そのような伝統に連なることを意識して歌を詠むべきである和歌過去の名歌を鑑賞し、日本文化象徴するような風流事物を題材として歌を詠め。




追記:

ちなみに私自身は1・4・5・6に賛同し、2・3はややや否定的であり、7は積極的否定するスタンスである。7とどう決別するかは、戦後短歌の大きな課題でもあったという認識である

2024-05-08

anond:20240508012450

提示したのはたまたま芸術とみなされてるだけだよ

芸術から興奮しない」っていうネットの俗論を鵜呑みにしないようにね

2024-05-07

AI否定派ってなんで全部AIで完結させる前提なんだろ

人が見て調整するとか考えないの?

2024-05-06

anond:20240506170415

ガチ芸術界隈は、AIで真似できるなら真似すればいいじゃん?と思ってるから

創作に命を賭けてる人の絵は、ライン一本一本に意味があり、選んだ色にも理由があって、

そのすべてを説明できる。

だけど、AIの絵は、統計的にそれっぽいラインと色が出ているに過ぎない。

「守・破・離」でいうところの、守しかできない。だから脅威に感じない。

ところが、ネット絵師の絵は、AIの絵と差別化できない。

統計的にそれっぽいラインと色使いだけで、評価されている程度の画力では

皆が生成AIを使えば、もう評価されなくなる。

から必死に反対する。

anond:20240506115921

ここで俳句解説するとボロクソ言われるのが落ちなので、リアル相談した方がいいよ。

…というのは、俳句は滅茶苦茶コンテクスト文脈)に依存する芸術からだ。短歌31文字が対決的な文化(歌合せとか)を成立させてきたように「向き合う他者」に言葉を届ける能力もつのに対して、俳句は仲間内のような座の中で成立してきたように「コンテクストを共有する仲間」の間で盛り上がるタイプの道具であり、背景となる文化文脈を共有していないことが多い現代社会特にネット上)では、説明したところで、「そうとは限らないのでは?」みたいな突っ込みが山ほど入るのが目に見えてる。「なんでそう言い切れるの?」「必ずしもそうとは限らない」etc……いやうるせえわ。俳句ってそういうモンなんだから仕方ねえだろ。


それを踏まえた上で、可能な限りの解説をするぞ。長いので暇人向けだ。ちなみに、調べて作者名見て「あー」(嘆息)と声が出そうになってあと調べるのはやめた、から、ほぼ推測のみで書く。まあ、ちょっと古い昭和俳句だわ、くらいに思いながら聞いてくれ。ちなみに、俺はこの句、一読して「短歌的な俳句だ。それだけに、短歌増田が感心したのは分かる」と感じた。俺自身は、こういう俳句は作らないと思う。理由は後述する。

「ここで昼餉(ここでひるげ)」

初手から6字で字余りだ。字余りについては今更説明しないが、基本的にはあんまりやらない。なぜなら、基本的にはリズムを壊したり重たくしたりしてしまうからだ。わず17字でつくる詩で、およそ1/3のリズムが崩れかねないというのは、かなりオソロシイことだ。逆に言えば「その危険を押してでもやりたい」と作者が判断したときだけ、リスクを背負ってやる。素人にはあまりお勧めしない手法だ。さて、作者はわざわざ字余りをして、「さあ、この辺(の場所)で昼飯にしようかな」というメッセージを伝えているわけだ。何とも人を食った話だが、昼飯の場所が決まっていないということはこの人が日常の中にいるわけではないことを暗示してる。まあ、単に定年で暇になって毎日あちこち公園やらデパートやらで飯を食ってる爺さんという可能性もゼロではないが、後で出てくる夏という季節にそんなことをする爺さんもあまりいないだろうから、ここで作者はそれなりに若く、夏の最中に野山を歩き回っていると推測される。これで一気に「作者の年齢、場所、状況」に関する情報が得られるのだから、字余り使った値打はあると言えばあるが、それ以上に作者がここであえて句のリズムをもったり重たくさせたのは、「いい年したおっさんが夏の昼間にハイキングしてる」という「のんびり感」を演出しようとしたためであるかもしれない、とも推測される。その意味では、この初句、のんびりして見えて人を食ったような、それでいて計算もあるやり手の初句だ。ちなみに、この初句、体言止めで切れる。俳句はやはりどこかで「切れる」ことが推奨されるが、それは句の焦点をはっきりさせるためだ。句切れの前に焦点があるか、後にあるかはケースバイケースだとしても。

ただ、それにしても「ここ」が山とか自然の中、は分かったが、どんな場所なのか、また、ここで昼飯にしようと思ったのはなぜか、作者はいまどんな気分なのか、とかは分からない。それは、続く部分で種明かしされる。(よって、ここでは句切れの後、つまり「種明かし」パートが句の焦点だと考えられる。)

「真赤な夏の/花佇つゆゑ」

最後に「ゆゑ(故=理由)」とあるが、普通に考えたらこれまた俳句では普通やらないおきて破りである。句の中でこういう「理由の明示」みたいなこと、ダメだろ普通。なぜかというと、基本的にカッコ悪いからだ。たとえば「閑けさや岩にしみいる蝉の声」を、「蝉の声岩に染むゆえ閑かなり」とかやったら、なんかいろいろ台無しだろう? ネタ晴らしというかなんというか、たとえそういう意図を込めていたとしても、言わずにそこを感じさせて感心させるところがさあ、まあ句の仕掛けなんだから、答え言っちゃったらもう何かダメじゃね?とふつうはまあ思うんだよ。でもこの句はもう少し進化した句で、理由を言っちゃった上で「え?それが理由になるん?」と読み手に突っ込ませることを狙った作品なのだな。突っ込みさせた上で、「え……理由…?………になるんか、…ならんこともないか、うーん、なるほど」みたいな。最初のんびり路線がここで効いてくるわけだ。作者は「それが理由なん?」という突っ込みに対して"のんびり"という姿勢をとることで「それが理由ですが、何か?」と返してきているわけだ。そうやって自信満々に言われるとなんかこっちが間違ってる気もするし、そう言い切られたらそうかなあ、と少し納得感がないでもない……と思わされた時点でもう作者の術中に落ちているのだ。この作戦、小難しく解釈しようとする人であればあるほどハマる。

もっとも、そういう、突っ込みさせつつセルフ納得もできる「微妙な線」を狙うのはなかなか難しい。だから、それを実現させるために作者は2つほど仕掛けをしてる。

一つは「真っ赤な夏の花」だ。これ、普通なら夏に咲くそ花の名前を入れる部分だよな。たとえば朝顔ならアサガオ向日葵ならヒマワリ……だいたい花の和名なんてそんな長いものじゃない。少なくともただ花それ自体を指すのに9字も使うのって、俳句始めたての人の句なら真っ先に直されそうな部分だ。でも、その上でだ。聞いてみるけど、この花何だろうな? 日本の、ハイキングで行くような野山に、真夏に「真っ赤」な花なんて咲いてるか? あとで「たつ」という言葉がある以上、人の背丈程度には高さがあってすっと伸びた草花だ。さて何だろう? 作者の答えは「知らん!」だよ。知らないから「真っ赤な夏の花」なのだ。おいおい、そりゃねえだろ、と読者に突っ込ませておいて、そこで作者はぬけぬけと「だからここで飯にするんだ、悪いか?(ニヤリ」とやってくるわけだ。無責任適当にやってるように見せながら計算もあり、でも基本的楽天的天衣無縫な語り口の句だ。それが初句の「のんびり」加減と相まって、この句に独特の雰囲気を醸し出していることは否定できない。なんだったらここで笑い出しちゃうような面白みがある。

二つ目は「佇つ」だ。学のある人をこれで引っ掛けようという腹だ。この字、音数から考えれば「たつ」と読ませているのだろう。だがこの字に原則として「たつ」の読みはない(少なくとも家にある広漢和辞典(全四巻)でみる限りはない)。一般的な読みは「たたずむ」で、じーっと立っている、という意味だ。「たつ」に宛てたのは、その意味を合わせて感じさせたかたからであろう。花はいつまでもじーっと立っているのだから人間が「立つ」のと同じ字でない方がいいんじゃありませんか、というか、「佇む」には途方に暮れて立ち止まる、みたいなニュアンスも漂う。何か、その夏の花が所在なくじっと立っているので、仕方なくしばしのひと時を一緒に過ごす、みたいな感じだ。なんだろう、ひょっとしてこの「真っ赤な夏の花」というのは、山道を歩く途中で一緒になった、真っ赤なサマードレスを着た女性か何かの比喩なんではないだろうか、みたいな、そんなちょっと色気みたいな解釈深読みが(実際、俳句読みはその手の暗喩創作をよくやる)この「佇」一字から立ち上ってくるのである。そうなると、花の名前が特定できなかったことも、何だかそのための仕掛けであるようにすら見えてきて、うーん、と悩まされるのだ。当然、そこまで考えての、このルール違反用字である

結果、山歩きの途中花の下で飯食うかあ、というだけの句が、俄然ストーリー性、物語性、ロマンスの色彩まで帯びてくる。が、もちろん現実にはそんなことはないのであって、実際ただ飯をくっただけなんですけどねー、という緩い種明かし(そもそもそんなロマンスが勃発したら俳句なぞ作っている暇はないので)を前提に、その幻想を楽しむ、そんな句ということに落ち着くわけだ。

そんな風に、この俳句はなかなか外連味(けれんみ)のある、仕掛けとイメージてんこ盛り、物語調の俳句で、実に面白いと言えば面白い、一般的俳句の目指すところとはちょっと外れた句だ。一般的俳句もっと、瞬間的、即物的、断片的に風景を切り取るのが基本なので、まあ普通は「季語感情」でつくるとこから始めるのが適切だろう。この句も、山道で赤い花に出会った瞬間の感情を句にしてると言えなくもないが、それにしてはいろいろな仕掛けが人を食っていて、また、無用物語調で独特だ。一般的俳句なら、たとえば「握り飯ハイビスカスの色に染む」とかでいいわけだが、この句はその瞬間の風景以上に、遊び、のんびり感、山道を歩いてきてよいしょと腰を下ろすそのしぐさ…からああ花がきれいだな、という一連の感情を全てこの一句に込めようとしてるのだ。これを17字でやるのは、本来かなり無理筋なので、普通はもうちょっとワンショットに切り分けようとしたりするか、あきらめて短歌にいくかするだろう。その無理をやってる(そして、そこそこ成功もしてる)のがこの句の面白いところで、たぶん短歌増田が感心したところなんじゃないか

まあ、こういう句、狙って作るのはなかなか難しい(ちなみにこの作者・中村草田男は、こういうのをやたら作るのだが、ひどい失敗も多いので有名な人だ)。そういう意味でも、まあなかなかない句ではあると思う。あと、何も知らずにいろいろ書き飛ばしたので、もっと知ってる人から突っ込み入れてもらえたら感謝する。

AIに反対してるのっていわゆるネット絵師ばっかで、

ガチ芸術界隈からは反対の声が少ないのはなぜなんだろう

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