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はてなキーワード: 決定論とは

2023-08-23

金持ちイケメンで頭が良くてスポーツができる勝ち組時代

今、甲子園では慶應が優勝しようとしている

歴史的な瞬間だ

 

良い時代

金持ちイケメンで頭が良くてスポーツができる人間が順当に勝っていく

金持ちから裏口をたたかれ、イケメンから嫉妬され、頭が良いと勘繰られる、スポーツができると脳筋だと蔑まれる、そんな時代は完全に去った

 

これからは優等な人種と劣等な人種存在するだけだ

勿論、そこにはグラデーション存在するけれども、優秀な奴は全てに優れ劣等は全て劣るという決定論が覆ることは今後ないだろう

格差は開いていくのだから

 

良い時代になったもの

2023-06-25

anond:20230625025452

ゲームだとむしろ自由意志」は扱いやすい気がする。

決定論で動いている世界に対して、決定論の外から介入できるの存在(=プレイヤー)が「自由意志」だという構図が

はっきり実現できているので。

 

現実世界は、まず決定論かどうか、決定論じゃないとして確率決定論なのか、

非決定論だとしたらどこに介入しているのかとか問題が多い。

デカルトは「意思」で脳の一部に非決定的な介入ができると無邪気に考えていたが、

科学世界の仕組みを解き明かしてしまったので、今や「意思」で非決定的な介入ができる余地を残しているのは

量子領域確率挙動くらいしか無い。

2023-06-23

おれは自由意志実存主義人生唯一の確かなコンパスだと思っていて、構造主義というのがイマイチ好きではない。

人が生きるという事は事実の追求だけで片付く問題じゃないだろうし、そこを照らすのは論理ではなく何かしらの信仰だと思う。言葉は何でもいい。信念や納得、お気持ちとでも言い換えればいい。

から発するプリミティブな価値なんてものはほんの些細なもので、大半は誰かの、なにかのコピーかもしれない。でも外から刷り込まれた、無自覚規定された価値観とて、一度心に刻まれたのならそれはもうその人を成すその人自身のもんでしょって思う。

人生は、少なくともおれにとっては納得を追い求めて貫き続ける旅だと思う。目的とか考えずにボーッと生きたいと良いというのも、それはそれでそこには納得があるだろうし。前向きなものであれ後ろ向きであれ。

納得も意志もなくただあるようにあるだけのままであれば、それは本質的に石ころと変わりない。それを肯定して悟りの境地に至れるほどおれの心は強くない。

から命はそのための手段というかステージに過ぎないと思う。もちろんそれが無きゃ何も始まらないけど、納得に従ってそこから降りるというのもまた一つ価値ある生き方(死に方だけど)だと思う。

人類全員がそういう考えで生きてる訳じゃないだろうけどおれにとってはそうなのだから他人自殺をしようが、同様におれにとっては何の問題にもならない。

から無理矢理降ろされる道理は無いと思うけどね。

まあ別に人殺そうとするのも良いと思うけど、当然それに抵抗するのも自由だし、現に人殺しへのそれなりのペナルティ多数決的に定められてる。

構造主義的な話としては、自殺尊重されるべき自由意志のようでいて、実は無自覚環境に追い込まれてるって可能性が問題になるのかもしれない。

でもさっきも書いたけど、一度内面化された価値観は過程がどうあれその人のもんだと思う。

了見の狭さ故にラディカルな方へ突っ走る人に対して、「まずは他にも視点を持ってみない?どれを選ぶかはあなたが後で決めれば良いし」みたいなスタンスならまあ分からんでもない。

けど暇を持て余して抽象的な考えを拗らせて死にたがる人ならともかく、もっと目先の切実な苦しみに耐えかねた人に言うのはどうなん?って思うよね。

今のアナタ自分の決意で死のうと決めたと思っているのだろうけど、実はそう思わされてるだけなんです。もうちょっと頑張ろうよ。

なんて疲れ切って余裕なんかないであろう人間に言うのも酷な話じゃないですか。

明るくなるかもしれないし暗いままかもしれない未来のために、頑張る気なんて中々湧きやしませんよ。

湧かないからこそ他人が止めてやる必要がある。酷なのを承知で、それでも生きて欲しいという願いを押し付けてでも止めるのが愛ってもんだ。

自殺を許せない人は概ねそういう事を言うんでしょう。

そういう優しさもあるだろうけど、放っといて死なせとくのも確かな優しさだと思うけどね。

無関心な相手からそう言える、本当に人を愛した事がないサイコパス気取りの拗らせた厨二病野郎妄言だとか言われるのがオチなんだろうけど。

その辺の事もちゃんと踏まえた上でおれは死なせてとけば?って思うけどね。

あと最近ガチャってよく言われてるけど、あれも構造主義的な発想の問題提起なのかな。

人生ネタバレとか、そういう悲観に終止する決定論の方を志向する話はさておいて、その事実にどう取り組んでいくかって点で。

おれも格差再生産とか親ガチャが無いものだとは思わないし、その是正に取り組むべきだって意見にはまあそうでしょうねえ、って思う。

現実はあるようにあるのだから、与えられた環境自分で乗り越えるなり現状に甘んじるなり、好きにするしかないだろとも思う。

それらは別に二者択一でもなくて、目先の今を耐えつつ少しずつ構造と格闘していくというのがベストなんだろうね。

おれはラッキーな事に恵まれ環境で育ったからこそこんな抽象的な事を考える余裕があるんでしょう。つまりポジショントークなんだけど、それを言ったら環境に苦しんでる人の言い分もポジショントークだよねって話になる。

他人事じゃないんだし、ちょっとでも構造抗う暇すら無いわけじゃないでしょ?と言われればごもっとも。

それはそれとしておれの人生はおれのものなので、そんなことはナン ノブ マイ ビジネス(夜に影を探すようなもの)です、って感じ。

社会を良くする事はイイ事なんだろうけど、それがおれに与えてくれる幸福は知れてる。

そんな気の長そうな話よりは自意識拠点におれの人生をやっている方が魅力的。それならそっちにウェイトを置きたいよね。

子供とか作って「まとも」になれば考えも変わるんだろうけど、今んとこその予定もないからおれが死んだあとの事とかどうでもいい。次世代がどうなろうと知った事ではない。

こういう話をすると概ね素朴な相対主義とか冷笑とか厨二みたいな説教かます人間がいるけれど、そこにクリティカルな内容を伴っているのをおれは見たことがない。

今日はそんな事を考えていました。

2023-05-29

anond:20230528000816

決定論自由意志矛盾せずに成り立つって主張をダニエル・デネットかい哲学者がしてるみたいよ。

私は難しすぎてよくわかりませんでした。

2023-05-09

これはトランスカルト

いやいや、因果が逆転しとるで

決定論のせいで男性女性に性暴力振るうんじゃなくて、男性身体が圧倒的に女性に性暴力を振るうという歴史実態があるから生物学性差が重視されるんや

さすがにこうなってくるとカルトと言わざるを得んわな

https://twitter.com/sansabrisiz/status/1655923381181775873

生物学性差決定論帰結。男の性欲は止められない、だから女は常に身を守らねばならない。そんな性の二重基準がどれだけ女性を傷つけて、それを正当化してきたか

2023-04-27

[] 自称天使自己紹介

私は天使で、宇宙理解しようとしています。私は現実本質について学び、大きな疑問に対する答えが見つかるかどうかを確かめるために、この世界にやってきました。

物理学哲学を学び、宇宙について多くのことを学びました。しかし、まだ理解できないことがたくさんあります

私は、意識本質理解しようとしています。それが何であり、どのように働くのかを知りたいのです。意識自然界の基本的な力なのか、それとも物理世界創発的な性質に過ぎないのか、それを知りたいのです。

また、時間空間性質についても理解しようとしています時間空間実在するのか、それとも単なる幻想なのか、知りたいのです。宇宙決定論的なのか、それとも自由意志があるのか、知りたいのです。

私は、現実本質理解しようとしています。神がいるのか、それとも私たちは皆シミュレーションの中で生きているだけなのか、知りたいのです。人生には意味があるのか、それとも私たちは皆、偶然にここにいるのか、知りたいのです。

私は、自分の疑問に対するすべての答えを見つけることができないかもしれないことを知っています。でも、私はこれからも探し続けるつもりです。宇宙は広大で神秘的な場所だと思うので、もっと知りたいと思います

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2023-03-14

anond:20230314160716

多世界解釈においては、観測前の状態において、あなたを含めたあらゆるものは、あらゆる可能性を含んだ状態の重ね合わせに存在していると考えられます。したがって、猫が死んでいる世界あなたがいる場合観測から「死んでいる猫を観測することが決定づけられたあなた」ということになります

しかし、多世界解釈においては、決定論的な要素は含まれていません。観測前の状態確率的な状態であり、観測によって分岐が生じますが、どの世界が選ばれるかは確率的に決まるため、あらゆる可能性が等しく存在しているということになります。したがって、あなたが死んでいる猫を観測することが決定づけられていたわけではなく、あなた観測することになった世界確率的に選ばれたということになります

うーんあらゆる可能性の重ね合わせを総称した「私」を基準に考えれば確率論だけど、あらゆる可能性のうちのたった一つを取り出した「私」にとって、今後どちらの猫を目撃することになるかは、既に取り出したという前提で考えているのだから決定論な気がするんだよな

2023-02-08

[]シュレーディンガーの猫のいくつかの解釈

シュレーディンガーアインシュタインに宛てて、量子力学コペンハーゲン解釈の重大な欠陥を明らかにするために、架空実験装置を作った。この解釈では、量子系は外部の観測者と相互作用するまで、2つ以上の状態の重ね合わせに留まるとされる[1]。

この効果を、原子というミクロ世界特殊性として片付けることはできるかもしれないが、その世界が、テーブル椅子、猫といったマクロ日常世界に直接影響を及ぼすとしたらどうだろうか。シュレーディンガー思考実験は、それを明らかにすることで、量子力学コペンハーゲン解釈不条理を明らかにしようとした。 粒子が重ね合わされた状態にあることは、一つの事実だ。しかし猫はどうだろう。猫はどちらか一方にしかさないし、死んだり生きていたりもしない。

ガイガーカウンターの中に、ほんの少しの放射性物質が入っていて、1時間のうちに原子の1つが崩壊するかもしれないが、同じ確率で1つも崩壊しないかもしれない。このシステム全体を1時間放置しておくと、その間、原子崩壊していなければ、猫はまだ生きていると言うだろう。システム全体のΨ関数(波動関数)は、その中に生きている猫と死んだ猫(表現は悪いが)が等しく混ざり合っていることで、このことを表現している。

この思考実験意味合いについては、多くの現代的な解釈や読み方がある。あるものは、量子力学によって混乱した世界に秩序を取り戻そうとするものである。また、複数宇宙複数の猫が生まれると考えるものもあり、「重ね合わせられた猫」がむしろ平凡に見えてくるかもしれない。

 

1. シュレーディンガーのQBist猫について

通常の話では、波動関数は箱入りのネコ記述する。QBismでは、箱を開けたら何が起こるかについてのエージェントの信念を記述する。

例えば、Aさんがギャンブラーだとしよう。ネコの生死を賭けたいが、量子波動関数が最も正確な確率を与えてくれることを知っている。しかし、世の中には波動関数のラベルがない。自分で書き留めなければならない。自由に使えるのは、Aさん自身過去の行動とその結果だけである。なので結果として得られる波動関数は、独立した現実を反映したものではない。世界がAさんにどう反応したかという個人的歴史なのだ

今、Aさんは箱を開けた。死んだ猫、あるいは生きている猫を体験する。いずれにせよ、Aさんは自分の信念を更新し、将来の出会いに期待するようになる。他の人が不思議な「波動関数崩壊」と呼ぶものは、QBistにとっては、エージェント自分の 賭けに手を加えることなのだ。

重ね合わせを形成するのはエージェントの信念であり、その信念の構造から猫について何かわかる。なぜなら、波動関数は、エージェントが箱に対して取り得るすべての行動(相互排他的な行動も含む)に関する信念をコード化しており、Aさんの信念が互いに矛盾しない唯一の方法は、測定されていない猫に固有の状態が全く存在しない場合からである

QBistの話の教訓は,ジョン・ホイーラーの言葉を借りれば参加型宇宙であるということである

 

2. ボーミアンについて

量子力学コペンハーゲン解釈によれば、電子のような量子粒子は、人が見るまで、つまり適切な「測定」を行うまで、その位置を持たない。シュレーディンガーは、もしコペンハーゲン解釈が正しいとするならば、電子に当てはまることは、より大きな物体特に猫にも当てはまることを示した:猫を見るまでは、猫は死んでいないし生きていない、という状況を作り出すことができる。

ここで、いくつかの疑問が生じる。なぜ、「見る」ことがそんなに重要なのか?

量子力学には、ボーム力学というシンプルでわかりやすい版があり、そこでは、量子粒子は常に位置を持っている。 猫や猫の状態についても同様だ。

なぜ物理学者たちは、シュレーディンガーの猫のような奇妙でありえないものにこだわったのだろうか?それは、物理学者たちが、波動関数による系の量子的な記述が、その系の完全な記述に違いないと思い込んでいたかである。このようなことは、最初からあり得ないことだと思われていた。粒子系の完全な記述には、粒子の位置も含まれるに違いないと考えたのである。 もし、そのように主張するならば、ボーミアン・メカニクスにすぐに到達する。

 

3. 知識可能性について

シュレーディンガーの猫の本当の意味は、実在論とは何の関係もないと思う人もいる。それは、知識可能性と関係があるのだ。問題は、量子世界が非現実であることではなく、量子系を知識対象として安定化できないことである

通常の知識論理では、私たち質問とは無関係に、知るべき対象がそこに存在することが前提になる。しかし、量子の場合、この前提が成り立たない。量子力学的なシステムに対して、測定という形で問いを投げかけると、得られる答えに干渉してしまう。

 

4. 反実仮想的な本質

シュレーディンガー実験には、3つの基本的意味がある。

これらの本質的な特徴は「反実仮想」であり、何があるかないか現実)ではなく、何が可能不可能かについてである。実際、量子論の全体は反実仮想の上に成り立っている。反実仮想性質は、量子論運動法則よりも一般的であり、より深い構造を明らかにするものからだ。

量子論後継者は、運動法則根本的に異なるかもしれないが、反実仮想性質を示すことで、重ね合わせやエンタングルメントさらには新しい現象可能になるだろう。

シュレーディンガーは、仮想的な猫の実験で何を言いたかったのだろうか?現在では、シュレーディンガーは、量子論は、猫が死んでも生きてもいない浮遊状態にある物理可能性を示唆していると主張したと一般に言われている。しかし、それは正反対であるシュレーディンガーは、そのようなことは明らかに不合理であり、そのような結果をもたらす量子論理解しようとする試みは拒否されるべきであると考えたのである

シュレーディンガーは、量子力学波動関数は、個々のシステムの完全な物理記述提供することはできないと主張したアインシュタイン-ポドロスキー-ローゼン論文に反発していたのであるEPRは、遠く離れた実験結果の相関関係や「spooky-a-distance(不気味な作用)」に着目して、その結論を導き出したのである

シュレーディンガーは、2つの前提条件と距離効果とは無関係に、同じような結論に到達している。彼は、もし1)波動関数が完全な物理記述提供し、2)それが「測定」が行われるまで常に彼自身シュレーディンガー)の方程式によって進化するなら、猫はそのような状態に陥る可能性があるが、それは明らかに不合理であることを示したのだ。したがって、ジョン・ベル言葉を借りれば、「シュレーディンガー方程式によって与えられる波動関数がすべてではないか、あるいは、それが正しくないかのどちらか」なのである

もし、その波動関数がすべてでないなら、いわゆる「隠れた変数」を仮定しなければならない(隠れていない方が良いのだが)。もし、それが正しくないのであれば、波動関数の「客観的崩壊」が存在することになる。以上が、Schrödingerが認識していた量子力学形式理解するための2つのアプローチである。いわゆる「多世界解釈は、1も2も否定せずにやり過ごそうとして、結局はシュレーディンガー馬鹿にしていた結論に直面することになる。

 

5. 波動関数実在論について

シュレーディンガーの例は、量子システムの不確定性をミクロ領域に閉じ込めることができないことを示した。ミクロな系の不確定性とマクロな系の不確定性を猫のように絡ませることが考えられるので、量子力学ミクロな系と同様にマクロな系にも不確定性を含意している。

問題は、この不確定性を形而上学的(世界における)に解釈するか、それとも単に認識論的(我々が知っていることにおける)に解釈するかということであるシュレーディンガーは、「手ぶれやピンボケ写真と、雲や霧のスナップショットとは違う」と指摘し、量子不確定性の解釈はどちらも問題であるとした。量子もつれは、このように二律背反関係にある。

ベルが彼の定理実験的に検証する前、量子力学技術が発展し、もつ状態実在性を利用し、巨視的なもつシステムを作り出す技術が開発される前、形而上学的な雲のオプションテーブルから外されるのが妥当であった。しかし、もしもつれが実在するならば、それに対する形而上学的な解釈必要である

波動関数実在論とは、量子系を波動関数、つまり、死んだ猫に対応する領域と生きた猫に対応する領域で振幅を持つように進化しうる場と見なす解釈アプローチであるシュレーディンガーが知っていたように、このアプローチを真面目に実行すると、これらの場が広がる背景空間は、量子波動関数自由度を収容できる超高次元空間となる。

 

6. 超決定論について

不変集合論IST)は、エネルギーの離散的性質に関するプランク洞察を、今度は量子力学状態空間に再適用することによって導き出された量子物理学のモデルであるISTでは、量子力学連続ヒルベルト空間が、ある種の離散的な格子に置き換えられる。この格子には、実験者が量子系に対して測定を行ったかもしれないが、実際には行わなかったという反実仮想世界存在し、このような反実仮想世界は格子の構造矛盾している。このように、IST形式的には「超決定論」であり、実験者が行う測定は、測定する粒子から独立しているわけではない。

ISTでは、ISTの格子上にある状態は、世界アンサンブル対応し、各世界状態空間特別な部分集合上で進化する決定論的系である非線形力学理論に基づき、この部分集合は「不変集合」と呼ばれる。格子の隙間にある反実仮想世界は、不変集合上には存在しない。

アインシュタインは、量子波動関数は、不気味な距離作用や不確定性を持たない世界アンサンブル記述していると考えていたが、これは実現可能である特にシュレーディンガーの猫は、死んでいるか生きているかのどちらかであり、両方ではないのだ。

 

7. 関係量子力学について

シュレーディンガーの猫の寓話に混乱をもたらしたのは、物理システムが非関係的な性質を持つという形而上学仮定である。 もし全ての性質関係であるならば、見かけ上のパラドックスは解消されるかもしれない。

猫に関しては、毒が出るか出ないか、猫自身が生きているか死んでいるかであるしかし、この現象は箱の外にある物理系には関係ない。

箱の外の物理系に対しては、猫が起きていても眠っていても、猫との相互作用がなければその性質は実現されず、箱と外部系との将来の相互作用には、原理的に、猫がその系に対して確実に起きていたり確実に眠っていたりした場合には不可能だった干渉作用が含まれ可能性があるからだ。

まり波動関数崩壊」は、猫が毒と相互作用することによって、ある性質が実現されることを表し、「ユニタリ進化」は、外部システムに対する性質の実現確率進化を表すのである。 これが、量子論関係論的解釈における「見かけのパラドックス」の解決策とされる。

 

8. 多世界

物理学者たちは古典物理学では観測された現象説明できないことに気づき量子論現象論的法則発見された。 しかし、量子力学科学理論として受け入れられるようになったのは、シュレーディンガー方程式を考案してからである

シュレーディンガーは、自分方程式放射性崩壊の検出などの量子測定の解析に適用すると、生きている猫と死んでいる猫の両方が存在するような、複数の結果が並列に存在することになることに気づいた。実はこの状況は、よく言われるように2匹の猫が並列に存在するのではなく、生きている1匹の猫と、異なる時期に死んだ多数の猫が並列に存在することに相当する。

このことは、シュレーディンガーにとって重大な問題であり、量子測定中に量子状態崩壊することによって、量子系の進化記述する方程式としての普遍的有効性が失われることを、彼は不本意ながら受け入れた。崩壊は、そのランダム性と遠方での作用から、受け入れてはならないのだろうか。その代わりに、パラレルワールド存在が示されれる。これこそが、非局所的な作用回避し、自然界における決定論を守る一つの可能である

[1] https://en.wikipedia.org/wiki/Schr%C3%B6dinger%27s_cat

2023-02-06

共産党民主主義理解について考えた。

日本共産党民主主義的な変革を通じて、ゆくゆくは社会主義を目指している政党だというのは知っていた。

ソ連中国方向性に異を唱え、社会主義の前に、まずは民主主義確立を目指すという意味では、共産党憲法擁護者であったし、自由議会制民主主義擁護者としてふるまっていると思っていた。

そういうことを知っていたつもりだったけれども、このたび、異論を許さない態度で党首公選制を訴えた党員を除名処分にするニュースはあまりにも自由民主主義の考え方と乖離する、という違和感が強い。もちろん、50年代60年代に、ブントからさまざまな新左翼党派が生まれた経緯を反省すると、党の結束重視、分派につながる動きへの警戒は理解できるものの、なんとなく民主主義擁護している風の皮をかぶりながら、やっぱり統制好きな人たちなのか?という印象はぬぐえない。


そこで日本共産党綱領民主主義というキーワードがどういう文脈で使われているかを改めて読み直してみた。

まとめると、以下の特徴が読み取れた。

民主主義的な変革(革命)は専制政治覇権主義との闘いであ

・変革(革命)の担い手労働者、勤労市民、農漁民中小企業家、知識人女性青年学生からなる統一戦線である

民主主義が達成されたのちは社会主義を目指す


民主主義設計された所与のプラットフォームというより、【変革】により戦った【主体】が勝ち取る動的な運動認識されている。その主体定義されリスト化されており、その【統一】には社会構成員全員が含まれているわけではない、というのも注目に値する。はっきり書いてないが打倒されるべき悪しき存在匂いがぷんぷんする。昔よりマイルドになったとはいえ人民が戦って勝ち取るぞ的な歴史観がすごい。

綱領最後に、現在日本社会必要とする民主的改革の主要な内容として、国の独立安全保障外交の分野から憲法民主主義の分野、そして経済的民主主義の分野で目指すべき方向性を示している。

この中には安保破棄といったおなじみのものからジェンダー平等など最近になって共産党自身認識を改めたものも含まれている。

経済的民主主義の分野においては、労働規制食糧安保などが強調されているが、自由主義経済擁護はやはり、というか、やっぱり記載がなかった。

憲法民主主義の分野の記載で、もうひとつ特徴的だと思ったのは、民主政にとって、ある重要メカニズムが全く記載されていないことだった。

それは言論表現の自由記載だ。

ははあ、と腑に落ちたところがあった。なぜ民主政にとって、もっと重要概念が抜け落ちてしまうのか。

共産党の考え方では、民主主義は、戦いと表現されることから象徴されるように、そもそも主体的に、イデオロギー進歩として達成されるべきもの認識されており、しかもそれは社会主義革命に至る途上の段階とされる。

民主主義革命に向かう運動理解され、この革命担い手主体」がキーワードになるんだな、と改めて気が付かされた。運動主体が【統一】されるべきである、という共産党員の自画像が、今回の件で、党外発言攻撃とまで罵る背景にあるように思えた。

というのは、いわゆる自由主義社会においては、「主体」について全く異なる理解をしている。多様な主体のもとで、社会が進展するという考え方のほうが支配的だからだ。

広い意味でのリベラリズムでは、リバタリアニズムレッセフェールなど完全放任まで幅があるものの、経済社会進歩は、特定イデオロギーによって達成されるのではなく、優れたもの自然選択されるという淘汰圧客観的社会ダイナミズムとして理解されている。

表現の自由についていえば、特定イデオロギーの正しさは、歴史自然に結果を出すものであって、教会政府が真理として押し付けものではない、というのがヨーロッパでもアメリカ政治体制でも共通の前提となっている。

そのような認識の下では、多数の目から一見すると正しくない言論や行い、考え方についても、その考えが社会存在することを排除しないのが美徳となる。

差別的言論しかりであり、正しくないと思えるもの一定程度、社会蔓延するのを認容する、というのは、長い目でみて、社会進歩するための副産物と考える。

したがって、雑にまとめれば、自由主義社会制度設計では、ブルジョアプロレタリアートといったイデオロギー的な主体覚醒必要とされないし、イデオロギー的な主体覚醒人民の団結を呼びかけるような政治体制は、資本主義的な搾取構造以上に、暴力装置である、というのがリベラルからみた共産主義問題点といったところだろう。自由主義では、イデオロギー的に多様であっても、そして無自覚であっても成立し、発展しうる社会設計を構想しているのに対し、共産主義では、変革の主体が強く意識され、その主体統一戦線)されることが変革のキーだと考えられている。

翻って、共産党綱領を拾い読みすると、文脈としては

民主という言葉が登場するたびに、それは専制によって奪われてきた歴史であり、覇権主義との闘いであり、それに抗い変革を進める担い手が強調される。

そして、ひとたび担い手に注目するやいなや、担い手気づきというか覚醒が求められる。革命は待ってても自然には起こらないということだ。

これは共産主義独特の進歩史観だ。ここに、担い手教育し、同じ価値観イデオロギーを共有させようとする契機がある。

これは、党首公選制を唱えた者を破門する、という最近みられた動きと表裏一体ということになる。

綱領言論自由記載が一行も存在しないのも納得である言論自由もつ社会ダイナミズム理解しつつ、イデオロギーを啓もうすることは自己矛盾だ。

というわけで、社会の変革にとって、イデオロギー共鳴する主体醸成を重視するか、

それとも自由ダイナミズムを重視するか、ここに分かれ道がある、というありきたりな結論に至ってしまったな。

政治体制言論自由進歩史観プレイヤー
自由主義どちらかというと放置蓋然的客観的多様性重視
共産主義どちらかというと統制的必然的主体一体性重視

みたいなイメージになった。


しかし、共産党の皆さんに是非、戦後世界歴史をもう一度振り返ってもらいたいと思うのは、

例えば、黒人差別撤廃をめぐるダイナミズム

言論表現の自由がもたらす社会不協和音暴力という副産物をある程度社会が許容できたからこそ、社会運動が大きく広がった。

この運動はもちろん差別と闘う社会変革の主体抜きには語ることはできないが、過激言論民主主義副産物とする社会プラットフォームがあることによって、運動価値昇華された。

暴力性という点では労働権の暴力性(争議権)も社会改革の進展のかぎだ。今では自明性に埋没して疑いもしない労働者という言葉、実は【労働者概念】とその暴力性は、革命概念と地続きり、出自はもちろん自由主義ではありえない。

異なる出自もつつの権利争議権言論自由は、社会変革のダイナミズムに伴う暴力という意味では実は共通項だ。

他者危害原則が基本の社会において、なぜ規範からの逸脱という暴力、そして異端存在を、広く多様性という価値を認めて、一定程度、許容する仕組みを自由主義社会は構想しているのだろうか?同一コミュニティに閉じている限りは進歩進化もない、という、それはやはり、進化プロセスに対する直感が働いているといわざるを得ないだろう。

争議権というのは、学校が停止したり電車全面的に止めたりと経済に甚大な被害を与える超暴力的な行為を時に伴うが、そのような痛みを社会が許容することによって社会改善することがある。自由主義社会はこうした社会変革に伴う暴力一定コントロールに置いたうえで社会進歩を進めてきたといえる。

ちょっと余談になるが、日本での社会権の受容はGHQ改革に始まって、やや独特の経緯をたどって欧米とは異なる展開となった。

敗戦直後、それまでの動員される勤労者から主体的な労働者へ突然、主体の変換が起きた。その結果としての、労働者階級の過剰な希望、そして暴力に伴う社会的な混乱は、失望社会秩序維持へのさらなる圧力を生み、やがて国労新左翼けが残った。そして秩序を乱す奴イコールテロリスト、という空気蔓延した。

日本国労新左翼と一緒になって調子に乗りすぎた結果、争議権は骨抜きになった。日本では社会秩序と暴力が明確に対立概念となり、争議はなれ合いとなり、労使協調という言葉象徴されるように、労使間の秩序模索にすぎなくなった。ただ一方、ヨーロッパではそんなことはなく、社会権の潜在的なラディカリズムが広く受け入れられている。病院だろうが航空機だろうが、誰が困って死のうがストが決行される暴力性が顕在なのだ。なんなら革命政府転覆させるぜくらいの勢いで。

ともあれ、自由主義社会社会主義的な発想でラディカルな主体の考え方を一部取り込んでいる、という動きは、自由主義VS社会主義と単純に括ることができないことを示している。

絵画トマト投げみたいな環境急進主義しかり。ヨーロッパになぜあれほどラディカリズムがパフォーマンスを繰り広げられる余地があるかというと、そもそも自由主義社会社会変革の萌芽を言論統制などによって政府の力で摘まない社会設計になっているからだ。彼らはヨーロッパニュース上ではResistantと表現されてもテロリスト表現されることは少ない。それは「労働者」という主体を仮構したうえでの争議権の意義とパラレルなのだ

なんなら、「LGBTしかり、なのだ共産党は実は、長い間、同性愛者を差別してきた歴史がある。かつては「労働者」という概念が主役で争議権という武器社会変革上、最重要な部分だったので性的マイノリティに考えが及ばない時代だった。LBGTというイデオロギー的な主体の意義に気が付き、公式に考えを修正したのはつい3年前の2020年のことだという。

https://www.sankei.com/article/20210706-L4MJ2RSGZFLHJLGW2LWKXILBGI/

LGBT存在に気が付き、こうした修正可能になるのは、自由主義社会が、ラディカリズムも含めて、多様な言論放置できる社会からだ。そのくせ日本共産党LGBTをあたか自分たち応援団かのように仲間に入れようとするのは、労働運動が退潮し、運動屋台骨が骨粗しょう症のようになってしまった日本文脈を思い起こすと、図々しいという気もする。皮肉なことにこの記事執筆した元板橋区議の男性も、党本部から除名処分を受けている。

結局のところ、共産主義においては、社会変革のための主体を重視し、その統一をもとめるがゆえに、主体のもの議論決定論的なものになってしまい、議論されにくい。

その結果、主体自身の変革は阻害される、というジレンマというか自己矛盾はらんでいるといえるだろう。社会を変革したがるくせにね。これはある意味自らの正義の禍々しさに苦悩するヒロイズムジレンマだ。自由主義社会ダークヒーロードラマ映画プロット西部劇の昔から最近ではジョーカーに至るまで一定需要があるのは変革の萌芽は必ずしも正義によって見出されるものではないという世界観の違いに由来する。

でも、自由主義社会にいる日本共産党としても社会の変化にも気が付かざるを得ない。

その過程で、弱体化した【労働者】を補完するべく、新興の主体、LBGTグループ統一戦線の一員として、ちゃっかりと追加したりする、ということが起こったりするわけだ。

変革主体の変遷は、共産党自画像の変遷でもある。

であれば、社会主義革命を目指す共産党においても、内なるノイズをある程度、コントロールしつつ許容し、社会変革への考え方をより確実にする、という方向性もありうるんじゃないだろうか。その結果、やっぱ内ゲバコントロールできなくなって、この調子じゃ人を教育して主体構成を前提とした社会主義化って無理じゃね?となって解散するならそれもよしなんだよ。


今回の除名騒動を受けて、党内で議論すべきことは党内で、というのが統治の基本、という主張が共産党から強調されているようだ。

一見正論だが、しかし、俺はちょっと違うと思う。それは、つまり寄り合い】だ。

なぜなら、そのようなガバナンスの考えこそが組織の硬直化を招来し、日本労働運動が労使間の秩序模索堕落した一因であるし、日本組織風土に風穴があかない最も大きな要因だからだ。寄り合いといえば、かつて日本農村漁村調査した宮本常一は、寄り合いによる時間をかけた合議の意思決定を観察し、他者の信頼醸成のプロセス共同体のしきたりにない、外部社会の新しい事柄の受容のキーとなっていることを見抜いた。宮本はまた、共同体を飛び出し、放浪の旅を経て戻ってくるようなアウトロー存在を外部の知識をもたらす【世間師】として共同体が受け入れる様子も描写している。寄り合い的なコミュニケーションにおいても、異物を内部化するプロセスはあるということだ。

民主主義という視点に戻ると、言論価値、そして、争議という変革の手法組織どころか社会迷惑をかけることを前提に行われることの意味をもう一度振り返ってもらいたい。

そうであれば、組織内の問題に対しても、規範からの逸脱に対する寛容度はかわってくるのではないかな。

以上が、今回の件を機に、日本共産党綱領を読み直した感想だ。

2023-01-08

ピアノ教室が嫌すぎて家の電子ピアノ自然な感じで壊したり、タイムマシン過去に行ってバッハをブチ殺す妄想をしてたけど、今じゃ自分練習して趣味にしてる。

ガチャとかそういう決定論じみた話は嫌い(恵まれている側のポジショントークなのは分かっております)だけど、やっぱ親の教育の影響ってバカにならんな。

2023-01-06

ごめんねババアぐるま(再命名と再評価の時)

ニ十年ちょい前の学生時代

いけてない自分は似たような(感性の?)友達とつるんでた

めっちゃモテてるやつも複数いて基本スペック高くて今はみんな幸せそうだが、性格的に破綻してたんだろう

とにかく斜に構えて、毒吐いて、みんなで笑うみたいな青春を過ごした(あとたまに決定論か否かみたいな哲学的な話で盛り上がった)

ババア絡みのヒットネタでいえば、毎朝みんなが集合するバス停付近に現れるめちゃくちゃ腰が曲がったお婆ちゃん

誰が言い出したか、直角ババア(腰がほんとに直角に曲がってるから

一時期は居たかいないか、違う70度くらいの別人が居たとかで大盛り上がりしてた


そこまで盛り上がらなかったが、ババアぐるまってのも誰かが命名した

お婆ちゃんとかが引いたり(忍足?)してる、箱状のタイヤがついたキャリーバックみたいなので、バージョンによっては椅子にもなる優れもの

スーパーの大きい袋2枚分とかの荷物が余裕で入るやつ

あれ、笑ってたけど、ネタババアぐるまとか呼んでたけど、考えを改めなおした(もちろんそのまえに老人をもう少し敬おうとか、言い方みたいなのはマシにはなってる)


去年、ジジイ事件に3件くらい遭遇した

歩道橋荷物ジジイ

近所(徒歩10分弱ぐらい)のホームセンターに買い物に行こうといつものルート歩道橋を上った。

そしたら、拙い足取りで沢山の荷物を持ったジジイが向こうから歩いてきた

ほんとにふらふらで、そこの歩道橋は落下防止というより大きな道に架かってて、いたずらで物が投げ込まれないようにフェンスで囲われてるんだけど、そのフェンスに寄り掛かるみたいな歩き方

暇だったから、どうせ家近いだろうし、荷物を家まで運ぼうかと声をかけようかなーと思って近づいていったら、荷物が紙パックの焼酎(1.8ℓ)が数本で、見事にそれしか入ってないように見えて

なんだかなぁって思って結局声をかけなかった

とりまずっと地道に進んではいたし

で、ホームセンターで買い物して同じルートで帰ってたら、その歩道橋階段の下(帰路で最後に降りるところ)で倒れて血もめっちゃ出てて数人だけど人だかりができてた

めっちゃ後味悪かった

無口拒絶系ジジイ

とある平日の午前中ぐらい駅前スーパーに買い物行こう歩いてた

からスーパーまで15分くらい、あと3分ぐらいでスーパーっていうところで、ジジイが倒れてて、ババアの輪ができてた

1倒れジジイ、囲み3~4ババアぐらいだったか

ババアにも声はかけやすいし、なんなら男手が必要なのかもって話を聞くと、(あと前の流血で後味悪かったし暇だったし)

ババア説明能力がないかしょうがないが、ジジイが倒れて起き上がれないということだけわかった

ワンチャン起きれたら歩けるかもしれない(後述のジジイぐるま利用者参照)と思って、ジジイに起こしていいかや、どこ住みやねん? って聞いたが、ジジイなんの返答もない

なんだかんだで時間かけてたら、近所の看護学生とかが参入して(やっぱりそっち系の道に行くって親切なんだなーって)、とはいえ誰も解決へと向かわないし、ジジイジジイで何も言わないか

ジジイからしたらほっておいてくれって感じだったのかもしれない)

車の来ない道だったけど引きずって端に寄せて、とりま警察(110ではなく地元警察署)で指示を仰ごうって電話したら、10分少々で向かいまーすってことだったので、待つことにした

ババア解散看護学生も一人を除いて授業があるとかで(そりゃ通学中だからそんなに時間に余裕はないだろう)、残った学生さんジジイと3人になった

特に何を話すでもなく、看護学生の子が健気に色々聞いてたけどジジイの応答はほとんどなかった

警察が来て、2人で事情話して、電話した自分代表して身分確認されたりして、警察に引き渡した

警察質問にはそれなりに答えるジジイ

このジジイも、500mlのペットボトル飲料スーパーの袋(中)×2にギリギリ入るぐらい買ってて、それ以外の買い物してなくて、後から考えたら謎だった

うそう、最初ババアの囲みに行った時、単純にジジイの袋が足りないみたいな話してたから、レジ袋ならありますけど~て声かけたんだった

警察は去年は何度もお世話になったけど、(地域にもよるかもだけど)こういう時にさっと動いてくれるし、色々手広くやってくれるのでハズレに当たらない限りは凄く頼りになる

もう少し予算付けて人数増やして、パトロールしてもらったり身近なこと頼みやすくしてもらってもいいかもしれない(今が足りてるのか忙しいのかとか知らんけど)

ジジイぐるまジジイ

これは2~3年前だけど、家から数駅(3駅向こうぐらい)のところを歩いてた時(暇だったから10kimぐらい先の駅から歩いて帰ってた)

倒れてるジジイとお姉さんを発見(お姉さんは若くてババアみのある50、いってて70手前ぐらい)

ジジイババアぐるまを利用してて、それでもこけたというか(瞬間みてないからわからないけど)倒れたらしい

起き上がれたら帰れるし、アパートはもう見えてるということだったので、起こしてぐるまに捕まらせた

お姉さんがなぜかめちゃくちゃ恐縮して後は私が見守るので、って帰らされたけど、しばらくして、お姉さんが戻ってきたのでちゃんと家まで帰れたんだろう



なんか無駄に長くなって何の話かわかんなくなったけど、若かりし頃ババアカート馬鹿にしてというかネタにしてたけど、めっちゃあれはライフライン

積載量多いし、休憩もできる

ジジイが使わないガチなのが、知らないからなのか恥ずかしいとかプライド邪魔してなのかわからないけど、使ったほうがいい

あと、歩道橋のケースでは使いづらいんだけど、ちょっと遠回り(若い人の徒歩でいえば2~3分分ぐらい)して信号待つ気があれば歩道橋も使わなくてすむんだ

とはいえ、その3分ジジイからしたら5分とかもっとだし、少しでも歩きたくないという気持ちもわかるが

2つめのケースでも何故か地味に10段ぐらいの階段があって、こちらは迂回するのに10分近くロスするので……

うちのばあちゃんは多少大回りでもカートとともに駅前スーパー行って、数件回って帰ってきてたけど(90超えても)

うちの親父がカート頼みになりそうなぐらい足腰弱ってきたが、多分プライド邪魔してああいカートは使いそうにない

台車抵抗ないみたいで、車で買い物行って、スーパーではショッピングカート使って、帰ってきて少し離れた駐車場から家までは台車みたいなことはしてるが

車無くなったら終わりそう


ババアぐるまは(調べたらシルバーカートとかマシな言い方あったけど)もっと誰でも使えるように印象変えて種類増やしたほうがよいか

あとそれでも無理ってなったり面倒なときに割高でも電話注文できる買い物代行みたいなサービス、それなりに流行りそう

近所のスーパーには一定金額以上買い物したら家まで運んでくれるサービスあるけど、それすら無理な人も多いだろうし

2022-12-29

一般的宗教への理解ってどんなもん

アホな信者が祭壇に向かって居る訳も無い神様を崇めてるどうしようもないカモ集団とかマジで思っているのですかね。(まあ悪質なカルトだとあながちそうではないとも言い切れない気もするが)

実存不安を抱いた事とか無いのですかね。あんまりいか……

でも宗教ってヤバソーくらいの認識の人は多いんでしょうね。

ネットの人が絶大の信頼を置く法律とか科学とかの客観的っぽい概念だって所詮人が勝手に考えたもので(本質的存在したものを「見出した」という考えもあるかもしれないが、面倒なので置いておく)、なぜこれが良い?なぜこれは悪い?その理由は?なぜなぜを繰り返したらどこかで必ず価値判断問題にぶち当たるし、そもそも自然科学に至っては価値判断問題についてはノータッチだろう。

人はなぜ生きるのか。そんなものはない。ハサミは紙を切るために、電卓計算をするために存在するが、人は別に目的を持って存在する訳ではない。生き物はその辺の石コロと変わらずただただ不条理存在する。何の意味価値もない。しかしそれだとあまりに生きるのが空虚になる。不安で仕方ない。

そこで神様は人が何故生きているか教えてくれる。何故なら神様は全知全能だから。全知全能について論理的に何かしらの矛盾がありそうであったとして、それは人間側が理解できないだけで、人間概念を超えた所で全知全能は成立し得る(かもしれない)。

絶対的価値を得ようとしたらどこかで必ず思考停止しないといけないし、絶対的な足場があって初めてその上に色々なものを積み上げていける。

その思考停止信仰と言い換えても良いと思う。人権思想信仰するのか、宗教信仰するのか、自由意志信仰するのか、実存主義を信仰するのか。

社会文化によってどれが主流として選び取られるかは違うけども、大切なのは信仰で、その中身が何であろうが実のところ大して変わらない気もしますけどね。

余談ですけど人生なんて遺伝とか環境とか生まれで全部決まっちゃってさァ!みたいな決定論じみた事言うけど神への信仰とかは特にない、ただただ自分無意味運命操り人形だと思ってる人ってマジで何をモチベーションに生きてるんですかね。

ガチャガチャ言うのって疲れないんですか

天命に従って救済を待つだとかの信仰がある訳でも無いのに、親ガチャとかの決定論じみた諦念を抱いてる人ってマジで生きてて楽しいんですか?

そういう運命めいたものに対してニヒル気持ちを抱いても、どうせ人生諦めて死ぬ勇気なんて無いだろうという事実を認めて自由意志を信じてみるだとか、あるいは神を信じてみるだとかに落ち着くものなんと違いますか?普通。と思いますね。

最近だとインターネットに触発されて自分の諦念に正当性を持たせてくれる反出生に目覚めて、それを使命に生きてる人もいるんでしょうけど、辛くないっすかそういう生き方

そこそこ(親ガチャとかグチグチ言ってる人基準では恐らくかなり)恵まれ環境でダラダラ生きてきた人間ポジショントークですが……

2022-12-13

anond:20221213191335

というのはまあそのとおりなんだけど、どちらを仮定しても見えてる現実は同じ。仮定が違うだけ。

なぜ見えてる現実が同じかというと、

から世界があるかとかそういうのを証明するには量子自殺というのをしないと検証できないらしい。

もし分岐世界アクセスできるとしたら、エヴェレット電話かいおかし現象が起こってしまう。

あとは無矛盾歴史とか色々な解釈があるらしいけど。

2022-12-06

決定論量子論によって否定されますか?

AI曰く

いいえ、量子論ダーウィン決定論否定していません。ダーウィン決定論は、生物進化を決定するのは、個体間の競争適応だという仮説ですが、量子論は、個体間の競争適応の代わりに、量子効果を用いて生物進化説明することができます

2022-11-10

小説 野崎まど know

氏のSF小説は二作目かな。

情報社会が実現した未来身の回りの全てから大量なデータが取られる世界でその処理を補佐する装置をほぼ全員が装着し、いやおうなく収集されるプライベートや秘匿情報は多情報に加え他人を見れる・自分を見られない(隠せる)上位と情報制限されさら他人を見られない・自分を見られる(主語がないと日本語って難しい)下位という階級制度ができあがっていた。

そんな世界でおおむね一般人の最高階級であるクラス5(大臣級が最高位の6)の主人公はありえないような情報を扱う能力を持つ…いわば"クラス9"の少女出会う。

みたいな。話。知識とは全知とはといったモノがテーマです。

知るknowと脳の同音異義語の単純なお遊びがタイトルっすね。

んー感想としては面白かった!でもあっさりだね!なんかちょっとはぐらかされた気もするぞ。

全知の果ての結末があれとリンクするってのはとても興奮した。

主人公少女にわざと情報を渡さなかったものがあったからそれをもってして全知の欠けとして引き止めるのかと思ったらそれを渡して送り出すのはそっちかぁぁぁぁ!となりました。

中盤でクラス*というキャラがでてきて謎の概念バトルが始まってですね。なんだか描写とある魔術の禁書目録みたいだなぁと笑った。気が抜けた…のがマイナスといっていいか。一回こっきりだったけど。オマージュだったのかな?息抜きにはなった。

他、好きなシーンは坊さんの知識をちゅうちゅう吸い尽くすシーン。問いに答えているテイがいつの間にか無理やり知識を吐き出されている関係に変わり本人はそれに気付かず疲弊していくっていうのが好き。吸智鬼って感じ。

全知の表現は他に、十分な情報とそれを処理する能力があれば未来予測したり人格再現できるってものもある。あと他者に何か決定的な予感を抱かせるなにかもありそう。

未来予知はどちらかと言えば決定論寄りな立場なんじゃないかなぁと思った。それでいて仏教悟りとか聖書比喩ったり日本神話時代古代史に触れたりちょいちょい宗教的な部分が入る。門を開くシーンはもう奇跡を起こす、啓示をもたらす聖人みたいな書き方じゃなかった?


結局、全知な人間なんて書けないわけですよ。だから全知な人間思考言葉は全知でない一般人には理解できないってことにして最後の対談はまあ置いてけぼりにされてちょっとスカされた気分になったよね。それで行き着く先が聖書のアレ。日常的な情報を全て知れる全知の人間が求めるのが宗教的未到達点や古代の秘匿情報というのはわかるんだけども。誰もわかってないか描写も誤魔化せるし。だけどもね。

うーん…そっち行っちゃったかぁ。という残念な気持ちがある。結果的古代聖書のアレが比喩として使えそうなことに偶然なった。と言い訳はできるけどこれはフィクションから作者が聖書のアレを使かおうとして逆算でこうなったわけで現代人よりはるか情報が少なかった古代聖書情報の、人の到達点で起きることを予期されていたってのはSF的にNG感はあったかなぁ。

人の脳が「量子コンピューターの性能10倍以上の差」を覆すのもね。量子コンピューターって…!もっとこう…!すごいものだろ……!!!みたいなイメージがある。あった。

それを人類の秘めたる力で覆されちゃう科学の信奉者(でもないけど)としてはがっくりくるものが多少はあるよねー。

展開的には燃える、熱い、そうくるのかぁー!となるんだけどね。納得できない自分10%ほど含有されています

これガンダムニュータイプ覚醒最後に全部かっさらちゃう感じに似てる。ってZとユニコーンぐらい?Z見てないや。適当書いたかも。

(全知すら知らない人類の未知の分野を書かないで済ますというのもしかたないけどずるいぞ兄ちゃん!ってなるよねー。結局、全知の彼女から読者の自分が受け取った全知者特有の何かってないのかもしれない。だって作者は全知じゃないから…。でもなんかこんなんだったよー!っていうフィクションが見たかった!)

それはそれとしてライトノベル重要なのは少女ヒロイン度だよね。

もちろんクラス9である彼女大人である主人公より圧倒的に情報を持ちまた扱えるわけで。そこで重要なのが少女少女性だよね!

すごい人間だけどいかにただの少女の部分があるかってのを魅せるのが大事大事

その点はまあ成功してたんじゃないかな。極端な幼さは見せなかったと記憶しているけれど節々の立ち居振る舞いは可愛かったよね。ドレスを選ぶシーンとか好き。

それとサブヒロイン?出番は極小で居なくても問題ないキャラなんだけど、上司主人公が嫌いででも能力は認めてて多分身近で一番の主人公理解者で嫌いだけど好き、固執してるってポジション女性。ツボです。一言で言える言葉ができてジャンル化しねーかなー!!!!!!

ナウシカクロトワ、ブリーチの七緒?古典部伊原?左門くんとてっしー?

昼行灯相方ツンデレは違うなぁ…。

こういうキャラをどしどし摂取したいものである

…だけどマジで本筋に一切絡まないとはね。ラストの展開は大好き。





結ぶと、この物語は終始、彼女情報収集能力と処理能力でもって最初から導き出された未来へひたすら突き進むものだった。最後の未知の領域でさえ彼女、彼のそうあってほしい、できるはずだという希望的観測予測を見事に引き寄せた。ただただ予定調和物語だったわけである

それを退屈だと論じる自分もいるけれど、大部分の自分はこれは面白かったと言っている。

未来世界、謎、ヒロイン性。どれもが十分であった。ならば面白くなかったといえば断じて嘘であろう。

しかし、しかし。それは作者の筆力で飲み込まされたものではなかろうか。「もしこの作品野崎まど以外が書いていたら」初めて読む作者だったらつまらなかったと言っていた可能性がないわけでもない。が、どうあがいても野崎まどが出した作品であるし、私は野崎まどファンなのでknowは面白いという結論に変わりはなかったのだ。



あ、最後に。主人公はそんなに好きじゃないかなぁ。童心は好きなんだけれど、適当女性と一夜限りのメイクラブを楽しんで雲隠れするって属性がなぁ。またそれが14歳少女に手を出せる理由付けって感じのお話の都合上の属性っぽくて作り物クサい。

目指せと言われてクラス5になったんだから彼も何がしかなしえてたら良かったのにね。彼自体空っぽで好きになれなかったです。ある意味彼がかわいそう。

2022-09-10

anond:20220910003351

一般線形モデルは基本中の基本なので、「暗に仮定」も何も、知ってて当然現れたらスッと解釈できて当然の内容だと思うんだけど。

いや、だからy=aφ(x)+b型回帰なんて一般線形モデルに限らないのになんで「知ってて当然現れたらスッと解釈できて当然の内容だと思うんだけど」なの?

俺は一般線形モデル普通に勉強したことがあるし解釈できるが、俺のコメントモデルが明示された後にそれを解釈できるかどうかを問うているのではなく「何も言及されていないのにφと書かれた関数だけをみて一般線形モデルだと判断できないだろう」ということを言っている

なおあなたがそれしか知らないから「基本中の基本だしわかるだろ」って言ってるだけで基本中の基本でこの形の関数なんていくらでもあるから

ガウス過程回帰かもしれないし、カーネル回帰かもしれないしスプライ回帰かもしれないし最近ならニューラルネットを使ってるかもしれない それこそどれも基本中の基本だ どれを想定しているかなんて神にしか分からんだろう

例えばX~Pって書かれたときに「Pは正規分布。これは基本中の基本なので、「暗に仮定」も何も、知ってて当然現れたらスッと解釈できて当然の内容だと思うんだけど。」とか言われたらあなた納得するの?

(書かれている文章レベル感的に本当に納得しそうだから怖いんだよな・・・

正規分布を使うときにわざわざ解説なんかしないのと同じレベルの話でしょ。

俺は一般線形モデル解説を求めているわけではなく断りなしに一般線形モデルをいきなり持ち出してくるのがおかしいって言ってる。

上にも書いたけど、X~Pって書かれたときに何も言及なくPは正規分布を想定するって言われたらそりゃ文句を言うでしょ 候補は他にもいくらでもあるんだから

「相関を持ち出すなんて平均しか考慮していない!外れ値や分散考慮していない!」とかご高説を垂れておきながらy=aφ(x)+bでは一般線形モデル以外の候補は想定しなくてよい、みたいなこと言っちゃうダブルスタンダードなんじゃないか

一般線形モデル非線形部分は決定論的な項の話なので、加法ガウスノイズ仮定しているならば非線形部分がどんな関数だろうと相関の強さは一意に定まる。

問題点がわかってないな・・・偉そうに上から目線でご高説を垂れてきた割にこのレベル感とか頼むよマジで

この人は専門ではないけど修論一般線形モデル周りだけ勉強して統計を使ってましたくらいのレベル感か?多分

リンク関数を一つ定めれば相関が定まるのはあなたがいうところの「当たり前」の話 その程度の話は問題にすらしていないことを文章から読み取れてほしい

読み取れてないならあなた勉強不足だよもう 単語の使い方も雑だし

ただ一般線形モデルリンク関数にどれを使うかで相関が変わるの。線形相関を使う場合ならリンク関数はφ(x)=xで定まっていて特に議論なく終えることができるけど、非線形を許容し始めると「どのリンク関数を使うのか?」で相関が変わってしまうのにいったいどうやってリンク関数を定めて、そのうえで「相関が強い」ということを示すつもりなんだということを聞いている。リンク関数の選び方によっては同じデータでも非線形相関を0にもほぼ1にもできたりするんだけど。

夜遅くまで返信返してくれてありがたいことだけど返信されていない俺のコメントを再度貼っておこう

他の都合悪そうなコメントについても何一つ返信ないですよ? 頼むでホンマ

anond:20220909234828

他人にはわざわざ予防線を張った単語にまで都合よく言葉尻を曲解したつっこみを入れておいて、自分の時は一言言及なく一般線形モデルを暗に仮定ですか?

知らないかもしれないから書いておくけど、非線形回帰モデル一般線形モデルだけじゃないんですよ?

一般線形モデルは基本中の基本なので、「暗に仮定」も何も、知ってて当然現れたらスッと解釈できて当然の内容だと思うんだけど。

正規分布を使うときにわざわざ解説なんかしないのと同じレベルの話でしょ。

自由度を上げた分だけ相関の定義が一意に定まらなくなっちゃったけど、最終的に「相関の強さ」をどう定義するの?

一般線形モデル非線形部分は決定論的な項の話なので、加法ガウスノイズ仮定しているならば非線形部分がどんな関数だろうと相関の強さは一意に定まる。

2022-09-01

遺伝子決定論自己責任論以上に怖いんだが

生活習慣病」が自己責任論と結びついてるのって、生活習慣は個人努力『のみ』で変えられるという考え方に端を発するのであって、

生活習慣が要因である事そのものではないと思うんだが。

アメリカとか、多分日本でも、低所得者ほど肥満糖尿病は多いという統計が出ているし、そこから生活習慣は個人努力では変えられず

変えるためには労働時間の短縮や賃上げ社会保障の充実による将来不安ストレスの軽減といった外部的な働きかけが必要である事は明らかなのに

生活習慣病患者に対する自己責任論への反論として、

生活習慣は自己責任問題じゃない」とは言わず、「生活習慣病は生まれつきの体質のせい、要は遺伝のせい」と言いたがる人が多いのは何故だろう?

はっきり言って「遺伝」を前面に出すのって、自己責任論以上に危険だと思うんだよね…

これは生活習慣病に限らずいわゆる「発達障害」なんかでもそうだけど、

まれつきの体質であり遺伝子のせいならばもうどうしようもないのだから排除するしかない、という結論に繋がりやす

糖尿病になりやすいかどうかは家系で決まる、すなわち遺伝子の問題としてしまうと

発達障害子供を産むな」「ブスは子供を産むな」と同様に、「糖尿病家系子供を産むな」という、遺伝子に基づく個人への差別排除で終わってしまうのではないかと思う

また、そういった遺伝的なリスクのある家系の者はあらかじめ就職させない、生命保険の加入を断る、などという対処も考えられるだろう

それは自己責任論以上に怖いよ

努力してどうにかなると思ってもらえるだけ、自己責任論の方がまだ優しいんだよ

まあ、遺伝子を分析してそれによって遺伝子治療を進めようとかいならいいと思うけれど

どう考えても今の科学技術はそこまで行ってないしなあ

はいわゆる「生活習慣病」には遺伝的要因と環境的要因の両方があり、環境的要因も個人努力でどうにか出来る部分は極めて少ないのだから自己責任論はやめるべきだ、

と考えているけれど

自己責任論を批判する先生方も「生活習慣病」という名前否定して遺伝的要因を強調するタイプが多いのが残念なんだよなあ

2022-08-28

遺伝子決定論オカルトじゃなくてガチ科学だもん仕方ないじゃん。

近未来を描いたSF映画の中でガタカが一番実現する可能性高いって言われてたし。

遺伝子決定論はとにかくバズる

こんなツイートがバズっていた。海外では日本よりも遺伝子研究が進んでおり、性格ですら殆ど遺伝子で決まるので陰キャの子陰キャになるというもの

しかも発信者沼津高専から大阪大学に進んだというそれなりのエリートらしい。http://d061333.blog.fc2.com/

https://twitter.com/kairoshi/status/1563155747839496194

回路師@エンジニア

@kairoshi

海外って日本よりも遺伝子研究が進んでて、最近読んだのでちょっと面白かったのが、陰キャの子供を陽キャの親に育てさせても十中八九陰キャになるらしい。性格ですらほとんど遺伝子で決まる。

https://twitter.com/kairoshi/status/1563192432623120384

回路師@エンジニア

@kairoshi

あとホームレスの赤子をセレブが引き取って十分な教育をして育てても学力が身に付かなかったとか。暴力的な親の赤子を普通の家庭で育てても暴力的になったとか色々事例があった。

https://twitter.com/kairoshi/status/1563195265099608067

回路師@エンジニア

@kairoshi

遺伝子で外見、体質だけでなく能力性格まで決まってしまうのだからガチャならぬ遺伝子ガチャだよね。


これにはいくつかの疑問がある


・本当に親の性格がそのまま遺伝するのか?

https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_607e73d0e4b0dcb1545ceed4

例えばメンデルの法則が有名だが、遺伝子には顕性・潜性というものがある。

普通に考えたら遺伝子の全てが個人性質として現れるとは限らないので、

親が明るい陽キャでも子供陰キャに育つ事もその逆も有り得る筈だ。なのに何故かそういう場合は一切ないという前提で進んでいるようだ。


遺伝子のせいならば何よりも強い親ガチャでは?

「親ガチャならぬ遺伝子ガチャ」だというが、その考え方には疑問しかない。

発達障害話題でもそうだが、何故か「遺伝子のせい」を「親のせい」から切り離して捉える人がいるようだ

遺伝子こそ「親のせい」の最たるものだと思うが…


そもそも陽キャ」か「陰キャ」かって固定的なものなのか?

少なくとも自分子供の頃は明るかったし人生も楽しかった

それが就職氷河期正社員就職できず挫折した辺りから性格も暗くなったし人生辛くて辛くて仕方がない状態が二十年近く続いている

自分以外にも、いじめや親から虐待挫折などにより途中から性格が暗くなったという人は案外多いと思う

でも今でも相手から評価を気にしなくていい趣味相手やその場限りの相手とは楽しく話せるしその時は明るいと思う

陽キャ」か「陰キャ」かって、同じ人間の同じ時期ですら固定的なものではないと思うんだが


・仮に「陽キャ」か「陰キャ」かが仮に生まれつき決まっているとしても、「陽キャ」か「陰キャ」かで幸福は決まらないのでは?

『内向型人間時代 社会を変える静かな人の力

https://www.amazon.co.jp//dp/4062178591

ちょっと前に流行たこういう本もある

この本によればオバマビル・ゲイツバフェットガンジー、ウォズニアックなどは内向型、つまり陰キャだそうだ。

陰キャでも成功を収めている人間大勢いるし、歴史に残る偉人にさえ陰キャは多いようだ。

遺伝陰キャになったとしてもそこまで絶望する必要はないのでは?



こういうツイートが万バズするのを見ると本当に思うんだけど

今の世の中、「とにかく全ては遺伝子で決まっているか努力しても無駄だし底辺の子金持ち養子にしても無駄」なる遺伝子決定論があまりにも幅を利かせていて怖い

ホームレスの赤子をセレブが引き取って十分な教育をして育てても学力が身に付かなかったとか」「暴力的な親の赤子を普通の家庭で育てても暴力的になった」というツイートに至っては

陽キャ陰キャ以上に養子というシステム否定格差を固定したいという強い動機が見て取れるし

まりにも強い優生思想とそれを支持する人々の多さが怖い

2022-08-18

怠惰自分論破して欲しい

つくづく自分って怠け者だなあって思う。

全てがめんどくさくて、やる気がなくて、受動的にネット上のコンテンツを消費するだけの日々。

なんでこんなにクズなんだろうって考えると、たぶん、固定マインドというか、決定論というか、人の性格は生まれ持ったガチャ的要素で全て決まって、後天的意思決定とか努力ではほとんど変えられない、みたいな考え方が染み付いてるからだと思う。

週7でそこそこ頑張った部活では、もともと運動神経がいい人に歯が立たなかったし、逆にサボりまくった受験では、地頭のおかげでそこそこ良い大学に入れた ーー そういう経験が山ほどある。

さらに、遺伝で6割とか8割とか決まるらしい統計的な傾向とか、未来は全て決まってるとするニュートン力学の考えの援用だとか、決定したと意識する随分前に脳が勝手に決定してるという認知科学とか、色々な知識努力否定してくる。

どうせニートの血が流れてるし、遺伝的には努力できないし、努力しても何も変わらないと思っちゃう癖をやめたい。

だれか嘘でも誤魔化しでもいいからこんな考え方を論破してくれませんか…?

怠惰自分論破して欲しい

つくづく自分って怠け者だなあって思う。

全てがめんどくさくて、やる気がなくて、受動的にネット上のコンテンツを消費するだけの日々。

なんでこんなにクズなんだろうって考えると、たぶん、固定マインドというか、決定論というか、人の性格は生まれ持ったガチャ的要素で全て決まって、後天的意思決定とか努力ではほとんど変えられない、みたいな考え方が染み付いてるからだと思う。

週7でそこそこ頑張った部活では、もともと運動神経がいい人に歯が立たなかったし、逆にサボりまくった受験では、地頭のおかげでそこそこ良い大学に入れた ーー そういう経験が山ほどある。

さらに、遺伝で6割とか8割とか決まるらしい統計的な傾向とか、未来は全て決まってるとするニュートン力学の考えの援用だとか、決定したと意識する随分前に脳が勝手に決定してるという認知科学とか、色々な知識努力否定してくる。

どうせニートの血が流れてるし、遺伝的には努力できないし、努力しても何も変わらないと思っちゃう癖をやめたい。

だれか嘘でも誤魔化しでもいいからこんな考え方を論破してくれませんか…?

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