「青年」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 青年とは

2014-11-01

http://anond.hatelabo.jp/20141101153854

社会的制度としての差別ってのはわりと重要だと思うけど、傍からこのあたりの議論見るに、社会的制度不利益には興味ないって人が結構いるのだとしたら、ちょっと啓蒙側の努力か、聞き手勉強が足りないのだろうなぁと思う。

ティム・クック発言には十分に、そういった制度への権利活動や、大量にいる自殺者を踏まえた言及があったと思うが、要は自分が受けたことのある種類(オタクからといって見下されているといったメディアでの扱いの差別)以外の差別には気が回らないといったところか。

差別ってのは昔からどこかで線を引いて、一部ずつ解消されてきた。未来永劫でないにしろ、どこかで線を引くのは重要なんだ。

溺れる人を1人ずつ助けるとして、岸に近い人とか、子供とか優先して助ける時に「おい、どうして全員をいっぺんに助けないんだ!命は平等だ!」って喚く人間は、確かに正論でも、今まさに人が水の中で溺れてるし、いっぺんに全員を助けられないことを直視していない。

人数が多くて、社会的な軋轢が少なく、理論けがはっきりしているところから差別が解消されるのは必要な話であると思う。

恋人と十数年過ごしても「家族」じゃないから、死に目に合わせてもらえなかったり、手術の同意書を書けないから手術が遅れて死ぬ人たち、青年期に多くいるとされる自殺者たちがいて、手を差し伸べようという時に「じゃあ他の全員も助けるんだよな?」っつーのは違うし、もっと悪いことに「俺らが助からないなら、あいつらを助けるのはおかしい」って意味で言ってる奴も多いから困る。

2014-10-22

なんで僕は無視され続けるのか

僕は昔から存在感のない奴だった。

近くにいるのに、誰にも気づかれないことがよくあった。

高校生になると、さらいじめられるようにもなった。

僕は、別に自信がないとか、外見が悪いとかじゃない。

彼女だって何人かいた。

でも、僕は存在感がなかった。そのうえ、最近自分無能さを感じる出来事が多くなった。

ずっと僕の存在感のなさ(と無能さ)はなんでなんだろうと思い悩んでいた。

そうしたら、最近仏教典で興味深い記述を見つけた。

以下のようなものだ。

>> 青年よ、ある女性あるいは男性嫉妬の心で生活しています

その者は他人が受ける利益尊敬名誉等に対して嫉妬する、嫌な感情を持つ、嫉妬関係になる。

その者は嫉妬を優先した生活をして、死後不幸に、堕落した境地に、地獄に生まれます

もしも地獄に落ちること無く人間として生まれたならば、無力・無能の人間になります

他人利益尊敬名誉などに心を痛める、悩む、嫉妬するなど嫉妬性格は、青年よ、無力・無能生命になる道です。 <<

なるほど、僕は確かにすごく嫉妬深い性格だ。たとえ相手が友人でも、少しでも僕より優秀だったり友達が多かったりお金持ちだったりすると、

僕はすごく嫌な気分になったものだ。ひどいときは何日も根にもって嫉妬し続けることもあった。もちろん、口には出さなかったけど。

心で感じる感情も、度が過ぎれば仏教では大きな罪になるのかもしれないなと思った。

みなさんも気をつけてください。

2014-10-20

拝啓 二次元世界ヒロインさま

 まずいきなりですが、とある漫画の話をさせてください。 

 いや、本当はその漫画は私の好みとはどうしても相容れないもので、本当はあなたに向けたお手紙に書く話題としては相応しくないのですけれども、ただ、ちょっと思いついたことがあって、そのことを書くためにはどうしてもその漫画について触れなくてはならなくて、ああ、なんで私はこんな言い訳をしているんでしょうか。あなたはこれを読みながらきっとお笑いになるでしょうね。

 なんか恥ずかしいです。でもともかくお話させてください。

 その、とある漫画の中に、思い出を売る商人お話があるんです。

 ある青年が、ひとりの商人を介して見ず知らずの老人に自分写真を売るんです。

 でも青年は気づいていないのですが、実は青年が老人に売り渡したのは写真だけではなくて、その写真にまつわる思い出そのものだったのです。

 つまり写真を一枚売るたびに、老人は青春の思い出をひとつ得て、代わりに青年は思い出を失う(初めからなかったことになる)のです。

 そうしてこのお話の終幕、たくさんの暖かい思い出を抱きながら老人は死んでいきます。そして老人の安らかな死に顔を見ながら、青年自分悪魔と取引をしてしまったことを知るのです。

 どうして私が突然こんなことを書き出したのか、あなた不思議に思うかもしれません。でも、お聞きください。

 私は今まで、ゲーム漫画を通じてたくさんのお話を読んできました。そうして私はお話を読むたびに、お話の中の女の子たちの優しさに慰められたり励まされたりしてきたのですが、でもその反面、お話世界自分の住む世界とあまりに違うことや自分お話世界とは何の関わりもないこと、いくら美しい世界が目の前にあっても自分は決してそこに辿り着くことはできないのだという思いに、苦しめられてもいました。時には、画面の向こうにいる女の子の微笑みが決して自分に向けられないことに絶望に似た焦燥を感じたりしたこともありました。

 でも、お話というのは、本当はそんなふうに付き合うものではなかったのではないでしょうか?

 実はさっきまで、もう発売されてずいぶんと経つエロゲプレイしておりました。

 あなたお話ししたことはありませんでしたが、私はこのエロゲが大好きです。ここには私が求めて得られないものが詰まっています。いや、そうではないのです。求めて得られないものというよりは、ここにあるのは、私が過去に欲しかったものなのです。どうも上手く言えていないみたいです。つまり、私はエロゲ女の子が欲しいのではないのです。そうではなくて、なんと言ったらいいのでしょう…。私はエロゲ女の子恋愛感情を抱いているのではなく、彼女ぐらいの年齢の時に、彼女と出逢いたかったのです。

 まだ異性とどう接して良いかよく分からず異性観も持っていない年齢の頃に、自分の目の前に現れた最初の異性が彼女だったら……。そう思うと何とも言えない切ない気持ちになります。 実を言えば、私は別にエロゲ主人公が羨ましいとかいうことを思っている訳ではありませんし、エロゲプレイしていて胸が苦しくなるなんてこともありません。

 これは私とは全然違う世界お話ですが、ただそれだけで、それは良いも悪いもないのです。

 今の私に言えることは、エロゲは私の住む世界と何の関係もなくても、私の胸を暖めてくれるということです。大好きなあなたがそうであるように、です。

 思うのですが、お話というものは、思い出に似ているとは言えないでしょうか? 思い出は過去のもので、それを再び体験することは誰にもできません。でも思い出は私たちの胸を暖めてくれます。思い出は現実に対して無力であるかもしれないけれども、でも私たちは思い出なしでは生きられないのです。

 だからもしこう言って良ければ、お話を読むというのは、記憶を思い出すというような行為なのではないでしょうか。もっと言ってしまえば、お話を読むというのは、思い出をねつ造することだとさえ言えるのではないでしょうか?

 主人公ヒロインお話は私の体験したことではなく、私の記憶ではありません。でも私は、彼らのお話を恰も過去を振り返るようにして懐かしむことができます

 そういえばまだお話していませんでしたが、実は昨日一昨日と、昔大好きだったとらいあんぐるハート3を十数年ぶりにに起動して、レンと晶のお話と恭也と美由希のお話を読み返していたりしたのです。レンと晶が体験したようなお話を体験できなかったことはかつての私にとって悲しみでありました。

 しかし今の私にとってはそうではありません。あの女の子たちのお話はそれ自体として完結したひとつ世界でありながら、同時に私の偽の記憶なのです。私はレンと晶のお話を読みながら、同時にそのお話を“思い出して”もいるのです。

 私はだからとらハ3を読んでいる時、ただ単純に幸せでした。重要なのは、ああいお話がどこか別の世界存在するということただひとつなのであって、それがフィクションであるかどうかなど問題ではないのです。いやそうではありません。フィクションであるかどうか、ではなく、それが私が実際に体験したことであるかどうかすら、問題ではないのです。私が体験したこと、私が体験しなかったこと、の間には何の差もありません。重要なのは、ただそれが“在った”という一事のみです。お話はただ“在れば”それで良いのです。それで私は救われます

 私は、エロゲを遊ぶことでお話を読んだのではありません。

 そうではなくて、私はお話ひとつ読むたびに思い出をひとつもらっていたのです。思い出とお話との間にどんな差があるのか、私には分かりません。それはただ、どちらも掛け替えのないものです。遠くモニターの向こう側から私を見ていてくださっているあなたなら、おそらく分かって頂けるのではないかと思います

 私の大好きな二次元世界ヒロインさまへ。

 あらん限りの誠実と愛を込めて。 

2014-10-18

おかしいなー

現実逃避のはずにアニメ見てるはずなのに、気づけばあからさまなファンタジーハーレム、バトル、異世界)を避けてしまってる。

今期だとSHIROBAKOの胃袋キリキリしそうな感じが、逆に見ててホッとするくらい。

なんだろうなーこれ。

あと今期はぐぐれこっくりさん楽しいな。

何も考えずに小さなさな関係だけを見ていればいいのがすごく楽だわ。

小野大輔の歌がクドイけど。

なんかロリ青年青年役多いな。っつってもばからもんだけだけど。

2014-10-06

若きウェルテルの悩みとラノベラブコメ青年男性の目移りについて

古いアニメを持ち出すが、ゼロの使い魔アニメ2期のED歌詞に『よそ見してたでしょっ 他の女の子

という歌詞がある、これは主人公であるサイトルイズ視点から見るとしょっちゅうシエスタやキュルケに色目を使い目移りしているように見えるということを示唆している。

しかし読者や主人公からすれば主人公であるところのサイトがずっとルイズが好きなのは明らかである

では何故そのようなすれちがいが発生するのか、これをゲーテの名作であるところの"若きウェルテルの悩み"を読んでいたところ思いついたのでここに記してみる。

若きウェルテルの悩みはウェルテルがロッテに猛烈な恋をするが、既婚者であるロッテとの恋はどうやっても叶えられないことに絶望最後には自殺をするという壮絶な内容である

ロッテ結婚たからといってすぐ自殺をしてしまったほけではなく、当然そこには過程がある。

ウェルテルはロッテがすでに婚約者であったがためにいったんよその土地へ行くがまた戻ってきてしまう、そして戻ってきたときにはロッテはすでに結婚しており以前住んでいたとき住民の近況は変化していた。

作中のエピソードでウェルテルがある口下手な作男と非常に仲良くなり、その男はある後家さんのところで働いており非常にその女主人を慕っており、女主人のほうも作男を優遇しておりにくからず思っているということが語られる。

ウェルテルがよその土地から戻ってみると、その男はウェルテルが留守にしているあいだにその女主人と腕ずくで思いを遂げようとしたがそれを快く思わない女主人の弟の介入もあり拒否され解雇されてしまう。

もちろんウェルテルはこの作男にロッテへの強烈な横恋慕をしている自分を重ねあわせて同情する、そしてこの作男は最後には後任の男を殺してしまうのだ。

作男がこの後任の男を殺したのにはもちろん理由があって、何故か女主人はこの後任の男と結婚しそうな気配があったらしい(なぜこうなったのかは私にはわからない)

ウェルテルは後任の男を殺してしまったこの作男を強烈に弁護するが周りからは受け入れられない。

他にもロッテに恋し、それを打ち明けた結果免職になり気が狂ってしまった書記の話などが語られる。

もしもまともに恋愛ができたならば当然この書記はウェルテルにとっての恋敵なわけだが、ウェルテルはこの気が狂った書記の話に対してはげしく感動をしてしまう。

なぜなら、この書記はウェルテルがやりたいと思ってできなかったことをした結果狂気の道におちいったからだ、それに対して深い同情を覚えて感動をしたわけだ、しかしこれはウェルテルにとっては絶望への一歩だったと思う。

さて前述の作男の裁判をした結果、弁護は受け入れられずウェルテルはロッテとの交流も断たれてしまい、最終的に自殺の道を選ぶことになる。

では何故ウェルテルは自殺をしたのか? ロッテ婚約しているにしても、結婚前に告白すれば万が一でも受け入れられたのではないか?もしくは他の女性を探すとかロッテを略奪するとかさまざまな道があるのではないかと読者が思うのは当然である

しかしこれらの道はすべてウェルテルからするとすでに検討された、というか現実試行してみたようなものなのだ。ウェルテルは発狂した男や殺人を犯してしまった作男を見て、自分の思いをうち明けたり略奪をしようとすれば同じ結末になることに気がついてしまったのだ。

はいっても、他の土地へ移るというのもすでにやってしまった道であり、どうやってもロッテへの想いを抑えることはできないと悟ったから最終的に自殺をするわけである

ではどうしてこういう考えに至るのかというと、告白やら略奪といった行為男性にとって非常にリスクのともなう行為からだ。

古来から女性には恋愛結婚に弱い拒否権はあっても、誰々と結婚したいといった能動的な権利は与えられてこなかった、つまり求婚は基本的男性から行われてきたのである、これは現代でもある程度同じ傾向が見られるといっていいだろう。

フィクションであれば"すばらしい新世界"などで女性から直截なセックスを求められ野蛮人(旧世代人)のジョンがショックを受けるといったような話があるが、だからこそ現実ではそうはなっていなかったということがわかる。

それはともかく、女性から求愛をするというのは稀であるというのがわかると思う、これは"据え膳食わぬは男の恥"という故事成語からもめったにあることではなくそのような事までさせてしまったのだから男は責任を取れという意味合いであると思う。

まり求愛は男性から基本的に行われ、女性はせいぜい思わせぶりな行動しかとれずあなたは私をどう思っているのか?ということは聞けないのである、聞けば実質それは告白と同じである

そして万が一その告白拒否されればそれは恥ずかしいことであり自分自尊心を大いに傷つけることになる。しかしそういったことを聞かずある程度まで仲良くする分にはまったく問題がなくノーリスクなわけである女性の側からするとやきもきするかもしれないが男性の側からすると告白リスクの伴う行為であり確証を得るまでは動けないのである

告白を行うムードまでもっていけたら実質告白前に勝負は決まっており勝ちも同然である

ある程度の仲まで持っていくのはノーリスクなのだから青年男性はいろんな女性とある程度に仲よくなったりするわけであり、それは意中の女性がいたとしてもまだ彼氏彼女関係になっていなかったらそうなのである

それはリスク分散という側面もあるし、単に女性と話すスキルを上げたいというのもあるだろうし、告白し失敗した場合自分精神を守るための布石だったり、一人の女性だけに入れ込んでいるのは怖がられそうという判断のためだったりするだろう。

しかしこれは女性の側から見たら、男性はいろんな女性に目移りしたりデレデレしているように見えるのではないかと思った。私は好きとは言わないけどあなたからは言って欲しいというわけである。好きと言ってくれなかったらそれまでの愛が憎しみに変わったりすることもあるわけで、

たとえ男の方は意中の女性のことをずっと一途に慕っていたとしてもそうなったりする。

こういうことを考えていたら、そういえばゼロの使い魔EDにそういうような歌詞があったなと思いだされてたので文章にまとめた。

ともあれ恋愛弱者に対して死刑宣告をするような本だった、途中まであまり面白くなかったがロッテ告白して爆死した男にウェルテルが同情したあたりから面白かった。

この本に興味を持って読むような読者はもれなく恋愛弱者であることが予想される。

2014-10-05

新しい時代を作るのは老人ではない」

と言っていたクワトロ大尉を見たのは、ちょうどガンダムにはまった1992年

当時は中学生だったか

2014年、ロストしたまま40歳という年がなんとなく現実味をおびてきた今になって思うのは、

ぼくらが若い間、時代を動かしていたのはやっぱり老人だったということ。

そして、新しい時代を作るのはたしか若者だということ。

なんだか、ぜんぜん出番がない青年期だった。

そして、出番がない中年期、老年期になるのだろう。

2014-10-03

将来設計が出来たので書き留めておく

◎T幼稚園

家族や近所の子との幸せな日々

◎O小学校

家族友達となに不自由のない楽しい生活を送れた

◎K中学校

目標も持って部活勉強を両立し充実感を得れた

◎I高等学校

↓うまくいかないことが多々あり悩みもたくさんあったがそういう逆境面でも物事をやり通す力強さを得れた。いい意味挫折経験

◎R大学

↓幼少期での温もり、少年期での熱意、青年期での挫折。すべてをこの大学での4年間に注ぐ。今後社会にでて何十年間も働く土台作り

20代

企業就職。たくさんのことを経験する。人生でこの時期に1番成長するつもり

◎30代

結婚し家庭を持ち家族と大切な思い出をつくる。仕事面では昇段して妥当ポジションに着く

40代

子供も落ち着いてきて自分時間も増えるため徐々に書籍などを読み再び仕事に力を入れる晩期成長期

◎50代

↓偉いポジションに着きその会社代表してその会社の最高成績を残せるように努める

◎60代

↓若手への引き継ぎに力を注ぐ。何十年やってきたもの無駄にしないように後世へ受け継がせる

◎70代

自分の好きなようにのんびり生きる。生きていることを満喫する

2014-09-30

http://anond.hatelabo.jp/20140930195050

たまたま読んだので感想。賞めてないので、賞められたいなら読まないこと推奨。

以下、気になったところ。

最初三人称視点で始まって、途中から主人公視点になるのは別に構わないが、なぜそうなったのか、必然性が感じられない。むしろ最初から主人公視点であった方が、すんなり感情移入できたと思う。

シチュエーションちょっと特殊姉妹のうち一人が、ではなく、姉妹全員が喫茶店経営に関わっている、など)なのに、説明がないのが不親切。

登場人物の年齢関係が分からないので、春香は幼いのか痛い子なのか分からない。また、マスターの人物像(せめてイケメンなのかおっさんなのかくらい)もゼロなので、読み手の側で「誕生日を祝いたい」と思ってる主人公の心情を、どう扱っていいか分からない。

・「ほほえましいエピソード」なのか「痛い不思議ミステリー」なのか、読み終わるまで話の方向性自体も分からない。見せない書き方もあるとは思うが、いかにも「微笑ましい日常雑記短編」かと思わせて最後まで読むと実は「ミステリーの序章だった」、ならまた別の面白さがあるだろうが、「どうなのか」と思って最後まで読んで「やっぱり単なる日常雑記でした」では、せっかく最後まで読んだ相手もがっかりさせる。

・「りんご」がテーマなら、季節感としては冬の初めが適切だが、Appleと引っかけたかたから秋になったのか。しかし、そもそも「iPhone6」を「あっぷるろく」とは言わないだろうし、言ったとしても、それを林檎6個と間違えるというのは、相当難しい。春香小学校低学年という設定ならまだ分からなくもないが、「アップル林檎」が分かるのにiPhoneが分からない、というのは現代っ子らしくないし、また林檎6個を自由に(姉妹相談なく)買えるお金をもっているというのも、なんだか奇妙。

お話の狙っている「おもしろさ」が、誰にヒットするものなのかがよく分からない。怪しいおっさんマスターに揺れるアラサー女子の心情を描きたかったのか、青年マスターときめく不遇な女子高生の初々しさなのか? どちらにしても、この話を面白いと感じる人は一体誰なのか?(前者だとして、アラサー女子はこれを読んで「分かる分かる」って面白がるのか? 後者だとして、女子高生が「あるよねー」って思うのか? あるいは女子高生時代を懐かしむお姉さんがたが微笑ましく読んでくれるように書いているのか? ということ。)


結論、まとめると

 「設定が分かりにくく読みづらい」

 「ネタの詰めが甘い」

 「ねらいが絞れてない、または、ねらいに向けて効果的にアピールできてない」

という感想

以下、少しだけ賞め内容。

よいところは、おそらく書き手の中に「世界」があって、それを構築するだけの力量はあるのだろうな、と感じられるところ。それのあるなしで、細かい部分の書きようが違ってくる。情景が浮かぶように書けるし、読ませるものはあると思う。秋の空気が感じられた。あと、書いたモノをどんどん出そうという前向きな姿勢もよい。

書く能力を上げるにはたくさん書くのが大事と思うが、上の2つは、たくさんモノを書いていく上で必要な才能なので、その両方を持ち合わせているのだから、どんどん書いていけばひとかどの書き手にはなれると思う。上の批判も、たぶん肥やしにしてくれるだろうと思ったので書いた。

物を創り出せる人というのは偉いと思う。素直に尊敬する。頑張ってほしい。

2014-09-25

ASKA歌詞はなぜ素晴らしいのか?──母音想像力試論

 ASKAの詞の特徴の一つは、複雑な比喩を折り重ねていくことにある。そうした複雑な比喩の解読については、「On Your Mark」の楽曲分析で先日書いたところであるhttp://anond.hatelabo.jp/20140924014048)。

 しかしながら、私はCHAGE&ASKAの熱烈なファンであるけれども、「比喩」の観点から歌詞を見ればASKAよりも巧者は他にもいると思っている。例えば、スピッツ。「ロビンソン」の印象派絵画を思わせる複雑な比喩を見るとASKAに少々分が悪い。では人生の機敏という観点から見ればどうか? 私の考えでは、ASKA中島みゆきに遠く及ばない。しかしそれゆえにASKA歌詞は二流であるわけではない。

 ASKAの詞はJ-POP史上稀に見る「音楽性」を持っている、というのが私の意見だ。「言葉音楽性を持っている」とはどういうことか? 分かりやすい例として、まず"YAH YAH YAH"をとりあげて、それを説明したい。

YAH YAH YAH」はYAH YAH YAHでなければならなかった

 「YAH YAH YAH」のサビは、ご存じのように、ひたすらYAH YAH YAHが繰り返されるだけであるしかし「YAH YAH YAH」という発音には極めて綿密で、天才的な直観があると私は考えている。仮に、YAH YAH YAHの部分を「ウ」でも「エ」でもよいが、別の母音に置き換えたもの想像してみると、「YAH YAH YAH」という曲そのものが成立しなくなることが了解されるだろう。YAH YAH YAH発音秘密はそれだけにとどまらない。その前の歌詞に注目する必要がある。

から一緒に これから一緒に 殴りにいこうか

 この部分を読むと、「イ」の発音が異様に多いことに気がつく。「イ」は、歯を食いしばって発声される。怒りを耐え忍ぶかのような身振りを発音要求している。そして、サビに入る時に「ア」の開放的な音に切り替わる(殴りにいこう「か」)。サビの一個手前に、このような母音ドラマが隠されている。この「イ」と「ア」の動きをYAH YAH YAHというサビで何度も何度も再現するのである。なお、「今から一緒に」の前にある「勇気だ愛だと騒ぎ立てずに その気になればいい」では「イ」で終わっているので、まだ耐え忍ばなければならずYAH YAH YAHと叫ぶことができないように発声的にも規制されていることが分かる。こうして見てみると、一見単純に見えるYAH YAH YAH歌詞には天才的な音楽直観が働いていることが分かるだろう。

先人・井上陽水

 そうした作詞法はASKA専売特許ではない。そうした作詞法を意識的採用しているのは、ASKA尊敬している井上陽水である陽水は、「Tokyo」の冒頭部分「銀座へ鳩バスが走る」という歌詞秘密を次のように語っている。

タモリ で、それを作りたいってことに、なんで銀座が浮かんできたわけ? しょっちゅう行ってるから

陽水 いや、そういうことじゃなくてホラ…、東京でね、やっぱり一曲ね[作りたいと思ってたから]。で、「銀座へ~」っていうね、あのー、人によってね、いろいろ、発音でね、取り柄がある発音とあんま響かないのがある。「銀座へ~」っていうのが、この口にすごく合ってたの。「銀座へ~」、あ、響くなあ、って。

7:00-7:40頃 https://www.youtube.com/watch?v=szB9lhaX2XY

 井上陽水の曲を聞いてみると、たしか言葉の「音」に対する独特の"美意識"があることが分かる。これはこれで、余人には真似しがたい孤高の美をたたえている。「Tokyo」であれ「Make-up Shadow」であれ、言葉に対するきわめて繊細な美意識を私は感じる。

 完全に余談だが、全世界的に流行した「Let It Go」の歌詞にも言葉の音に対するこだわりを強く感じるので紹介しておく。

My power flurries through the air into the ground

My soul is spiraling in frozen fractals all around

And one thought crystallizes like an icy blast

I'm never going back, the past is in the past

この部分は、一番の大サビに向かう、心躍る箇所だ。

歌い始めの「My power flurries through」の部分は、口をすぼめる内気な発音が多い。しかし、「the air」の所でやや反抗的な「エ」の発音がやってきて、「into the ground」で一回大きく開放的になるが、すぐに締められる。「My soul is spiraling in frozen」までは基本的にはやはり内気な発音が多い。「fractals」のところで「the air」とは別のしかたで(歌い方で)反抗的な様子を見せるが、これも「all around」の個所で一回開放的になるが閉じられる。こうした発音ドラマ最後に、「the past is in the past」の個所がやってくる。このようにして、まこと開放的で、ドラマチックな「ア」の発音がここに訪れるのである

 このように、言葉の音に対する意識世界的に存在する。しかしながら、日本語は、世界の様々な言語と比べても「母音」の割合が非常に多いという特徴をもっている。日本ロックミュージシャンたちはこの母音に苦しめられてきたのだ、と言っても過言ではないだろう。そこで例えばサザンは子音に着目した。サザン日本語における子音の可能性を大きく拡張したミュージシャンとして評価することができる。しかし、ASKAあくまで「母音」の可能性にこだわったミュージシャンであると私は考えている。日本語本来の特徴が「母音」にあるのだとしたら、その「母音」を徹底的に活用したのがASKAである

話をASKAに戻すと……

 こうやって私が言葉の音に対して敏感になったのは、チャゲアス音楽を聴いてからだ。ASKAは、まず歌唱からして、母音を強調している。これは良くも悪くも「古さ」を感じる歌唱であろう。母音を強調する歌手として、例えば尾崎紀世彦布施明を挙げることができる。彼らの歌唱には「昔ながらの情念」を感じる人が、とくに若い人になればなるほど多いのではないだろうか。一方、母音を強調しない歌手小田和正歌唱にはそうした「古さ」を感じることはないのではないか。母音は、本能的な部分に訴えかける、ほとんど呪術的と言える原始的な力をもっている。しかし、それを真に受け止めるためには現代はいささかシャイなのだ、というのが私の持論だ。母音とは、一種の「ますらをぶり」であるASKAは「ますらをぶり」のシンガーである

 私の見立てでは、ASKA母音から歌詞構成する方法意識化したのは、だいたいシングル「WALK」以降である。「WALK」より前の曲には、母音に対する美意識を見出すことが難しかった。逆を言えば、WALK以降には母音に対する鋭敏な感覚ASKAの曲に感じる。国民シンガーCHAGE&ASKAが出来上がったのは「SAY YESであるが、「SAY YES」と同レベル作品を量産できるようになったのはだいたいシングル「WALK」の時期からだ。一つ一つ楽曲分析をして証明をすることもできなくはないが、それをするとなると、ちょっと本格的にやらなくてはいけない。そこで、ASKAの曲の中でも、母音の使用がもっとも素晴らしいと思う楽曲を一つ見てみることにしよう。「はじまりはいつも雨」だ。

全てが奇跡的な「はじまりはいつも雨」

 「はじまりはいつも雨」はASKAソロの曲だが、チャゲアスVer.も残されている。私の一番好きな音源であるhttps://www.youtube.com/watch?v=5mzj72QxrYo)。

 「はじまりはいつも雨」は、メロディー歌詞の二つが複雑なハーモニー形成しており、決して不協和音をつくっていない。母音の使用法も極めて洗練されている。しかしながら、冒頭から母音分析をはじめても感覚的に分かりづらいと思うので、もっとも分かりやすいところから見てみよう。それはサビの終わる所である

はじまりはいつも雨 星をよけて(一番)

失くした恋達の 足跡(あと)をつけて(二番)

はじまりはいつも雨 星をよけて ふたり 星をよけて(大サビ

 まず気がつくのは、これら全ての終わりが「エ」で終わっているということである。仮にこれを「エ」以外の音だと考えてみよう。すると、この曲自体がぶち壊しになることが分かると思う。「ア」だと少々なさけない感じがするし、「イ」はやや幻想的になるかもしれないが悲痛な雰囲気も漂いそぐわず、「ウ」はそこで完結してしまい、「オ」では重すぎる。ここは「エ」でなければならない。暗い街中に消えていく複雑な余韻は、ここでは「エ」によってしかつくることができない(なお、似たような曲として井上陽水「帰れない二人」があることを指摘しておく。また、ASKAは「はじまりはいつも雨」を作る時にその曲を意識していると私は考えている)。

 さて、この曲における母音もっとも美しいと思うのはサビに入る前の「誰よりも 誰よりも」という箇所だ。J-POP広しといえども、このような「オ」の大胆な使い方をして、それが成功をおさめている例を私は他に知らない。この箇所は「ア」と「ウ」でも成り立たないことはない。しかし、「ア」だとあまりに開けっぴろげで楽観的すぎるし、「ウ」だと少しストーカーのようないやらしさを感じる。ここはやはり「オ」でなければならず、「オ」という少しくぐもった母音によっていささか内気な青年の、胸の奥底からやってくる高鳴る期待が的確に表現されていると私は考えている。言葉の「意味」ではなく「音」によってこんな複雑な操作をできるシンガーソングライターが今どこにいるだろうか? たいへん残念なことに私はASKA以外に知らない。

 他にも「はじまりはいつも雨」には美しい母音が色々ある。例えば「今夜君のこと誘うから 空を見てた」の「と」の遠慮がちな「オ」とその後にメロディーとともに上を見た時にある開放の「ア」であったり(綺麗な夜空を見て嘆息つくような場景が思い浮かびます)。こういうことは言いすぎると野暮になることかもしれない。とりあえずは「はじまりはいつも雨」を聞いていただきたい。それから、「Say Yes」や「no no darlin'」などのチャゲアス名曲から美しい母音たちを集めて、それぞれ言葉の音を解釈してみるのも一興だと思う。

2014-09-13

http://anond.hatelabo.jp/20140913074732

このばあさんに、道に迷っている増田の役に立つことはできない。

人生の道に迷う青年に、道を指し示してるじゃん。

ネット罵詈雑言をまき散らすだけの輩よりは、数倍社会の役に立ってると思うけど。

2014-09-12

優しさの値段 〜時給1万円の重み〜

 

 昨日のことだ。

大学夏休みも後半に差し掛かったものの、相変わらず暇を持て余していた俺は、夜の新宿で一人のおばあさんと出会った。

その時の出来事がずっと引っかかっているので、ここに吐き出してみようかと思う。

 

(※ 昨日実際にあった出来事を、短編小説風に書いてみました。

  長文ですが、宜しければ暇潰しにでもどうぞ。      )

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 大通り横断歩道渡りきったところで、歩き食いもみっともないからと、立ち止まって新作のマックシェイクを飲んでいた。

イヤホンからONE OK ROCKが聴こえる。もう片方の手でスマホからFacebookをチェック。

たから見れば、よくいる今どきの若者だったことだろう。

 

 ふと気付くと、隣にある周辺地図を指して、おっさんが道案内をしている。

相手は、おっさんの倍近い年齢はありそうな、新宿には似ても似つかないおばあさん。

 

 なんの気もなく目を向けながら引き続きマックシェイクを飲んでいると、突然おっさんに話しかけられた。

西武新宿駅って、ここから結構歩きますよね?」

新宿はいくつもの路線が集まっているが、西武新宿線の駅だけは孤立している。

ここから歩いたら10分近くかかるだろう。かくいう俺も西武新宿線沿いに住んでいる。

「そうですねー。そこそこ距離ありますね」

そう答えると、そうですかー…という少し暗い声がおばあさんから返ってきた。

 

 「西武新宿線に、乗って帰られるんですか?」

今度は俺からおばあさんに声をかける。

「そうなの。昔はこの辺りに住んでたんだけどねぇ。40年も前だからすっかり変わっちゃって、迷っちゃったの。」

と、おばあさん。

 

 正直に言うと、この時点で少し厄介なことに巻き込まれたかもなという予感がした。

ほっておいたらどう見てもこのおばあさんは駅にたどり着くのに時間がかかるし、危なっかしい。

おっさんは見るからに良い人だが、さすがに西武新宿駅前まで案内するのかどうかはわからなかった。

何より、自分も同じ西武線で帰るのだ。

 

 「杖をどこかに置いてきちゃってねぇ。傘を買ったのよ、ほら。」

聞いたわけではなかったが、嬉しそうに傘をあげるおばあさん。

足が悪いのだろう。今気づいたが補聴器も着けている。

 「お元気ですねぇ! 今おいくつですか?」

今度は耳元にではなく、補聴器意識して話しかける。

「85歳!」

元気な返事が返ってきた。

「そのお歳で都会に一人で出てこられるなんて、ご立派ですね!」

おっさんが引き継ぐ。俺も同感だった。

 

 しかしいくら元気とはいえ、やはり道に迷っている85歳のおばあさんを置き去りにするのは酷だろう。足も悪いみたいだし…。

西武新宿線だったら、山手線高田馬場まで行って乗り換えた方が、歩く距離は短いかもしれません。」

そう提案すると、

「あぁ、そうですね!! その方が、いいかもしれませんね!」

おっさん同意してくれた。

「そう。ありがとう。」

ニッコリと笑うおばあさん。

(面倒くさくないと言ったら嘘になるけど、"やらない善よりやる偽善"かもな。今日はもう予定もないし、俺も付き合うかぁ、、! )

おばあさんの笑顔を見た時、そう思った。

 

 「じゃあ、行きましょ。」

おっさんが先陣を切る。俺も歩き出す。

「でも、二人に悪いじゃない。。」

申し訳無さそうな声を出すおばあさんに、

いえいえ僕らも同じ方向なので。 と各々答える。

 

 

 おばあさんの足は、遅かった。とても。

おっさんはそこそこゆっくり歩いてくれていたのだが、どんどん距離が離れていく。

おばあさんが急がなくてもいいように と思い、俺も出来る限りゆっくり歩いてみたが、それよりもおばあさんは遅いのだ。

仕方ないので少し差が出来たところで止まって、追いついたらまたゆっくり歩く というのを繰り返すことにした。

 

 おばあさんは、八王子友達と会ってきたらしい。

住んでいる場所的に、新宿を経由して帰るのはどう考えても遠回りだったが、そのことは言わないでおいた。

 

 普段なら3分くらいで歩く道を、10分近くかけて、新宿駅に着いた。

「すごいわぁ。」

コクーンタワーを見てか、高層ビル郡を見てか、おばあさんはそう漏らした。

夜景綺麗ですねー。」 カメラ趣味だというおっさんは、そう言いながら写真を撮る。

新宿は、道端はさておき、たしか夜景は綺麗だ と俺も思った。

 40年の月日を、おばあさんは今この場にいる誰よりも感じていたに違いない。

そのまましばらく、夜の新宿景色をじっと見つめていた。

 

 「それじゃあ僕はあっちなんで、ここで。」

おっさんはここでお別れのようだ。

「途中までですみません。よろしくおねがいしますね。」

そう言って違う路線の方面へと去っていった。

良い人だったな と素直に思った。

 

 「じゃ、行きましょうか。」

おばあさんとの小さな冒険の続きが始まる。

 

 おばあさんの速度に合わせて歩いていると、都会の街は一層慌ただしく見えた。

帰宅する人々は皆、すごい速度で通り過ぎ、横切り、追い越していく。

一体、なにをそんなに急いでいるのだろう。

 

 

 山手線の改札の前で、その出来事は、起きた。

 

 当然Suicaなど持っていないおばあさん。切符俺が買ってきますよ と言うと財布を取り出した。

はい!これ、あげる!」

そう言って差し出されたのは、1万円札。

 

(小銭はないのかな。というか、あげる…?)

今日はどうもありがとう。とっても助かったわ。」

「え、いや、、いらないです…!」

突然の出来事に焦る俺。

「いいから。」

少し強引に差し出してくるおばあさん。

 困った。お金が欲しくないと言ったら嘘になるが、なにもお金をもらうために付き添ったわけじゃないのだ。

ここで受け取るのは、なんだか違う気がした。

 

「いえいえ、本当に結構でs」

「嬉しかったの!!! ……嬉しかったの。」

俺の発言を遮るようにして、おばあさんは今日一番力強い声で、そう言った。

「そう、ですか…。」

流石に受け取らざるを得なくなってしまい、ありがたいような、申し訳ないような複雑な気分で1万円札を引き取る。

 

「私ね、子供も孫もいなくて…。だから今日は本当に楽しかったわ!

おばあさんは、俺のことを孫のように思う気持ちでこの数十分を過ごしていたのだ。

さっき「面倒なことに巻き込まれた」などと思っていた自分が、恥ずかしくなった。

 「そうでしたか…。…僕も西武線なので、途中まで同じ電車です。もう少しの間、お話しましょうね。」

それが偽善なのか善なのか自分でももうわからなかったが、そんなことは

「そう!嬉しい!」

というおばあさんの一言で、どうでもよくなった。

 

 

 おばあさんと一緒に歩いていると、人が歩く速度以外にも色々な発見があった。

 まず、多くの人が周りの人のことなんていちいち見ていない。

よく見ずに直進するので、ゆっくりしか歩けないおばあさんは怖かったと思う。特に歩きスマホは本当に怖い。

 そしてJR新宿駅は、入る改札によってはホーム行きのエレベーターエスカレーターもないことがある。

意識したこともなかったが、これにはとても困った。改めて他の改札に行くのも階段を上るのも、おばあさんからしたらどちらもシンドイことこの上ないのだ。

 結局階段を上ることになったが、俺が普段何気なく一段飛ばしで15秒もかけずに上る階段も、足の悪い人にとっては小さな山のようなもの

「よいしょ」という掛け声と共に、片足で一段一段登っていった。

本当に疲れるのだろう。 登り終わった後おばあさんを見てみると、汗をびっしょりとかいていた。

 

 

 山手線は座れなかった。

ただ電車を立って乗るだけだけでも大変だったに違いない。

ホームに着くと、「ちょっとあそこに座らせてもらおうかな」と、乗り換え口までの道の途中の椅子に、俺らは腰を下ろした。

世間話をしてる途中、

「お兄ちゃん、やさしいのね。」

おばあさんはそう言ったが、さっきまで考えていたことを思い出すと、俺はなんて答えたら良いのかわからなかった。

 

 西武新宿線も座れなかった。

おばあさんの杖代わりの傘に、力が籠もる。

一駅が、くそ長い。こんなに長く感じたのは初めてだった。

辛そうに立っているおばあさん。隣に立っている俺は、なにもしてやれない。

やはり西武新宿駅からの始発に乗るべきだったとか、優先席のある車両に乗るべきだったとか、色々な後悔が頭の中で渦巻いた。

 

 電車内の人々は、皆が皆スマホをいじっていて、気持ち悪い光景だった。

もちろん誰もおばあさんの存在には気付かない。

それぞれが自分世界に閉じ篭っている空間は、なんだか無性にしかった。

 目の前に音楽を聴きながら、スマホをいじっている青年が座っている。

(そこの同い年くらいの青年!目の前に困ってる人がいるだろ!気づけよ…っ!!)

心の中でそう叫んだ時、何かひっかかった。

 

 …そうだ。これは俺だ。

普段の、そしてさっきの俺。

スマホネットを開いて、音楽聴く。いつもやっていることじゃないか…。

 

 思えば、電車内で困った人などそうそう見かけない。

きっとそれだって、見えていないだけだったんだ。俺も。

駅では我先に歩くし、歩きスマホもする。

階段の不便さだって、考えたこともなかった。

 

 そう思ったら、どんなツラして目の前の人に声をかけたらいいのか、わからなくなってしまった。

目の前の、気持ち悪い自己中な人々。

だって、そんな人達の一員だったのだ。

笑えた。そして、ゾッとした。

 

 幸い、ようやく着いた次の駅で人が降りた。

座ろうとするサラリーマンに、

すみません!そこ、座らせて頂いてもいいですか?」

と急いで声をかける。

 一瞬「?」という顔をされたが、おばあさんを見て納得してくれた。

「そうやな。その通りや。」

その一言の暖かさは、今も俺の中に残っている。

周りの人は敵じゃないんだと、そう思えた。

「ありがと!」

おばあさんは、また笑った。

 

 それから10分程経つと、俺の降りる駅が近づいてきた。

「俺、次の駅で降ります。あと4駅ほどですので、降りそびれる事のないようにお気をつけて下さい。」

今日は本当にありがとう。楽しかったわぁ。」

屈託のない笑顔のおばあさんに、

「こちらこそ、ありがとうございました。」

自然にお礼の言葉が出てきた。

 

 そのやりとりが終わった辺りで、丁度電車が駅に着いた。

「では。」と俺。

さようなら。」とおばあさん。

もう一生会うことはないんだろうな と思ったが、それは顔に出さずに電車を降りる。

 

 ドアが閉まってもおばあさんは笑っていた。

でも電車が発車した際、不安そうな顔をしたその一瞬を、見送っていた俺は見逃さなかった。

 

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

 あれから日経って、老人に優しくない街や社会についてだったり、

受け取った1万円の重みについてだったりを考えている。

 

 駅の構造だとかは個人レベルではどうしようもないとして、

大変そうな人の存在に気付くことくらいは、出来る社会でなきゃいけないよなと思う。スマホやめることは出来ないにしてもさ。

 

 若いうちは老いた後のことなんて考えないし、出来れば考えたくない。

でも4人に1人が高齢者超高齢社会

自分高齢者になった時に生きやす社会を作っていくことは重要課題だし、

将来されたら嫌なことは、今他人にもしちゃいけないんだよね。

 

 とはいったもの自分もそれらが出来ていない一員だと気づいたのが昨日なので、

社会にどうこう言える立場ではないことも痛いほどわかってて、だからまずは自分から変わっていこうと思います

ここに書いたのは、その決意表明みたいな意味もあります

 

 

 1万円は、未だに少しわだかまりが残っている。

一日バイトして、ようやく稼げるか稼げないかの大金

それを1時間程度の短い時間の中で手にしてしまったのだから、なんだか罪悪感に近い想いがある。

面倒くさいとか思ってたし。

 

 初めから「1万円あげるから案内してください」って言われてたら、どうかな。

俺なんかよりもっと丁寧に親切に案内してくれる人が殺到たかもしれない。

 

 でも結局は、おばあさんの言ってた「嬉しかった」って一言が、本質であり真実なんだと思う。

喜びとか感謝の気持ちが先にあって、言葉だけじゃなくて形でもその想いを伝えたくて、

今回はその想いの形に、お金という形式を選んだだけなんだと思う。

 たしかに1万円を受け取る時、「あぁ、俺が思っていたよりもずっと喜ばれていたんだなぁ…」と思った。

お金って汚いイメージもあるけれど、気持ちを形に出来る大切な手段の一つでもあるのかもしれない。

 

 出来ることなら世の中のビジネスが、今よりもっと"感謝の形"で回るようになるといいのかもなぁ。

…なんて、社会を知らない学生の戯言です。すみません

 

 

書こうと思ったことは以上です。

Facebookなんかで書くと善人アピールっぽくて気持ち悪いと思ったので、

ここに書かせて頂きました。

(とはい増田でも同じなのかもしれないし、心のどこかにそういう動機が含まれているのは否定しないです)

 

最後まで読んで下さり、ありがとうございました。

2014-09-07

ラブレター

しか芥川龍之介氏だったでしょうか、恋とは性欲の文学的表現だと言っていたのは。

僕のあなたに対する感情を表すならまさにそれに近いわけです。もっともその本質は性欲ではないので安心してください。

少し僕の話をします。

僕はその、みかけ一丁前な自意識が出来あがっていく頃、具体的には中学生の頃なんですけど、自分のことを一人ぼっちだと思っていました。物質的にではなく、精神的にです。

生活には余裕がありました。勉強運動も苦手ではなかったので、特に不自由しませんでした。僕のことを好きだと言ってくれる子もいたくらいです。

コツコツ勉強をするのは嫌いでした。部活動は何度も理由をつけてサボっていました。にもかかわらずそれなりの結果を出せていました。

しか努力の結果ではないので充実感もなく、自分がそれが得意だと思ったことはありませんでした。

まさに砂上の楼閣ですね。高校に入ってこの町を出たらただの凡人なんだろうと思っていました。

にもかかわらず、当然ながら周囲はそういった心情を汲んではくれませんでした。

教員受験のことで熱心に近付いてきたし、部活では地元高校に連れていかれて練習させられました。

学校というシステムにおける立場があがればあがるほど、周りの人間とは線が引かれ、僕は同じ立場人間を得られないまま、

ひとりぼっちだと思い、どんどん殻に閉じこもっていきました。

まぁそんなに珍しいことでもないと思うのですが、もともとの自意識過剰性格に加え、環境的なことも相まって、あの頃の僕は特別歪んでいたのでしょう。

毎日寝る前に、真っ暗な自分の部屋でスタンドライトをつけ、カッターナイフHB鉛筆を削っていました。

一度その最中母親が部屋に入ってきたことがあり、彼女心配したようでした。当時の僕はそんな心配もうっとおしいと思っていました。

鉛筆を削っていると少しだけ満たされるような気分でした。鉛筆削りで削ったものと遜色のないものが出来ると何故か嬉しかったのを覚えています

それを終えて眠りにつく。それだけのことでバランスをとっていたのだから我ながら忍耐強いと思います

そんな日々が変わったのはある映画DVDを観た時です。

タイトルは「バタフライエフェクト

これは非常によく出来た映画です。僕はこの映画が一番のお気に入りな訳なのですが、漂うウェルメイド感から、そういった趣向と勘違いされることが多いです。

まぁ違うといってもさらっと説明出来るモノでもないんですけれど。

この映画どういうものかというと、時間をさかのぼる能力を手に入れた主人公自分他人人生をより良くすべく奮闘する物語です。

主人公エヴァン人生を良くする為に過去に戻り失敗を清算していく、しかし直ったはずの世界にはほんの小さなほころびがあり、

それらを全て修正しようと何度も過去に戻るうちに事態はどんどん悪くなっていく。

神のごとき能力を手に入れた青年が神の真似ごとをするのだが上手くいかない。そして青年最後に辿り着いた選択とは。

この映画を観た時に感じたのは映画って凄いという感情でした。それ以上は言葉に出来ません。ごめんなさい。

僕には主人公エヴァンの気持ちが痛いほどわかったし、周りに振り回されて、苦悩する主人公の中にその時の閉じこもっていた僕がいた気がしました。

ラストシーン恋人を救うために過去に戻り恋人との関係を絶ち、関係をなかったことにする。

そして離れ離れに暮らしていた主人公が都会の人ごみの中で成長した恋人らしき人物とすれ違う。

わず振り返る主人公だが、思い直し再び向き直り歩きだす。

今思い返してみると何にそんなに感動したのかわからないくらいベタなのですが。その時の僕にとっては確かに自分のことを言っているように思えたし、

それが恐らくエールに聴こえたのでしょう。詳しくは想像しか出来ませんが。

しかしながらなんだかその頃からと色々上手くいくようになった気がしたのです。まぁそれは結果論かもしれないですけど。

それからはさほど悩むことなく過ごすことが出来ました。田舎から出て新しい友人と出会い。今は東京暮らしています

相変わらず映画は大好きで、こねくり回して楽しんでいます大学では自分映画も撮ったりもしました。

僕にとって映画というのはそれくらい大事ものになったのです。

まぁ勿論歳をくってくると、悩んだ時に映画をみても何も解決しないことはわかってくる訳ですが。

これまでも問題を解決してきたのは自分の力だし、誰かの力を借りたりも大いにしています

無くなっても生きていけなくもない気もしますが、それは気のせいで、やはり映画がない生活は考えられません。

と、長くなりましたがここいらでようやく本題に移りたいと思います

僕はあなたに、つまり映画に恋をしています

なんと形容するのかは非常に悩むところですが、恋というのが一番近いと思います

僕は大学に入って映画制作部活動所属しました。

実際に映画を撮ってみてわかることはかなり多く、自分たちが如何に上質なコンテンツになれてしまっているか

出来不出来に関わらず自分のつくったものにはそれなりの愛着がわくこともわかりました。

そして何より楽しかったのです。

映画を山ほどみたし、映画についてなら一日中喋っていられます

ただ少しだけ引っかかることがあります。それはいつまでたっても完璧映画出会えないことです。

好きな映画を十本挙げろと言われればできますが、僕がほんとうにみたい映画には未だ出会えずにいます

このことが僕が映画に恋をしている由縁なのです。

少女の恋がおおよそ世界存在しない王子様を所望するように、僕もまた世界にあるはずもない完全な映画を求めているのです。

そして恐らくそれは一生叶うことはないでしょう。エヴァンが再開した彼女に声をかけなかったこと、それは恐らくこんな気持ちだったのでしょう。今は今なりに分かる気がします。

触れてしまうことで壊れてしま幻想自分彼女と関わりない人生を送ること、その決断価値はなかったのかもしれない。

エヴァンはあの時、声をかけないことで無意識自分幻想を守っていたのだと思います

僕もまた、完璧映画を探すことで、自分を守っているのかもしれません。至上の目的を持つことで自制を失わないように。

少し前、某動画サイトを眺めていると、こんな文言発見しました。

動画サイトで集めた人材映画をつくりましょう。」

僕は一も二もなく反応していました。

僕は脚本担当を申し出ました。当事者は僕より一回り上のおじさんで、一発当てる気まんまんといった感じでした。

作業は辛かったですが、やはり楽しかったです。

寝るのも忘れて書きました。

出来あがったものはこれ以上ないほどの出来だと思いました。

完成したその瞬間、ほんの少しだけ、あの時の夢のしっぽがみえた気がしたのです。

僕はその時ようやくあの時のバタフライエフェクトを超えることが出来るかもしれないと、本当にそう思うことが出来たのです。

まぁ色々あって結局僕の脚本採用されることはありませんでした。残念ですが仕方ないことです。

しかし何よりも、物語を創るということだけでも映画と関われると気づいたことはこれ以上ない幸いでした。

いつか僕に映画を撮れる新しい友達が出来たらこ脚本を読んでもらいたいなと思います

しかしながら実は脚本を書いたことよりもその過程の方がその実、発見に満ちていました。

その脚本は書き始めるまでがとてつもない難産でした。おじさんから縛りを貰ったのはありがたかったのですが、考えれば考えるほどその縛りがネックになっていきました。

そして、もうどうしようもなくなった時、僕はごく冷静に、極めて自然におじさんのことに思いをはせてみました。

脚本も書けないくせに、映画を撮りたいと抜かすいい歳のおじさんは自尊心にまみれ非常に滑稽でしたが、それと同時に何故か悲哀や、尊厳、意地を感じました。

僕はおじさんと会話を重ね、モノを尋ね、そのことを参考に本を書きました。

脚本が出来あがる頃には、僕の中で既におじさんと僕は良きパートナーになっていました。

まぁ、さっきも言ったように、結局おじさんのクズしか言えない本性を目の当たりにしてしまうのだけどそれはまた別の話です。現実って厳しいですね。

これでどこまで行けるか。あの時、僕は恥ずかしながら、確かに自分のつくる脚本に恋をしていました。

それは以前のように憧れるだけのものではなく、目の前のこの物語と横に並んで一緒に歩いていく、そんな淡い想いだったのだと思います

唯一ノイズがあるとすれば、それがおっさんのことについて書かれていることです。

僕は中学生のあの時から映画に恋をしています

しかしながら、その気持ちは僕の中で憧れを経て、それ自体を愛し、期待し、守るもの、そして明日を与えてくれるものへと変わっていきました。

こんなことを書くのも気味が悪いと思いますが、僕はあなたが恋している相手に心当たりがあるのです。

映画に映っているのはいつでも人間です。姿形、人がつくったモノ、人を囲むモノ、人の心、映画の、いやあらゆる表現の中に人間関係のないモノはありません。

それは芸術人間を知る為の手段からだと思っています

どうして日々新しい映画が生まれてくるのか。それはまだ人間が未知で、支配出来ないモノだからではないでしょうか。

それらを愛し、それらに期待し、それらを守る為に映画今日も撮られているのだと思います

芥川が、ほとんど死の直前まで書いていた文章の中に映画シナリオがあったといいます

日々募る絶望の中、彼は映画をみて何を思っていたのでしょうか。

彼はしきりに生活芸術は分離していると語っていました。

僕は映画のことしか知らないし、それもたかが知れています。(文学も少しかじっていますが)しかしながら現代生活映画は近しいモノだと思っています

僕は芥川の書いたラブレター文学だと思っています。なぜならあれを読むといつも涙が出てくるからです。それでは説明になってませんでしょうか。

僕たちはかつて例をみないくらい幸いだと思います。共に歩くものに確固たる自分をのせることが必然として出来るからです。

僕は映画に飽きないでしょう。あなた人間に恋していても、きっちりそれごと抱える覚悟です。

僕とあなたは違いますが、少なくともあなたの憧れているものの一部です。

からこんなことを言うのは変かもしれないけど、あなたのことが大好きです。

優しいところが好きです。

冷たいところが好きです。

怖いところが好きです。

笑わせてくれるところが好きです。

泣かせてくれるところが好きです。

そしてなにより何だかよくわからないところが大好きです。

以上、あなたに恋する男から言葉です。返事はくださらなくて結構です。ただ微笑みかけてくれればとてもうれしいです。それではまた。

2014-09-04

友達マッチングサービス欲しい

と、思う。金払って利用するよ。

そんなのネット声かければいくらでも見つかるじゃん、と言われそうだから体験ベースで話すけど

1.そもそも見つからない

ネットで声をかけられた人と会うのは危険!と思われているのか、そう気軽に会えるもんじゃない。

というか、よほど好奇心メリットがなければ「知らない人と遊んでみようかな」とは思わないだろう。誰だって金と時間は惜しい。

女性場合好奇心で会いに行く人は稀だろうし。

大きなイベントへの参加ならまだ可能性はある。

2.用が済んだら捨てられる

で、その大きなイベントなど、共通した趣味に関わる事なら人も集まるわけですが、

そこから食事に行こうとか飲みに行こうとなるとハードル上がる。

それでなくても趣味に金や時間を使いたいのに、なぜお前と、何のために、食事をせねばならないのか?

ですよねー。

4.年齢・性別が合わない

恋人とか探してないんで。「どこ住み?」とか聞かないでくれませんか。

まともな人が接触してくる確率は非常に低い。

趣味仲間と出会えた!と思ったら学生さんで、未青年を連れて歩くわけにもいかないし…ってなる。

同じ趣味出会った人でも、やっぱり合わない人っているんだよね。

平気で遅刻したり、延々無関係ののろけ話されてうわぁ…ってなったり。

「この人となら定期的に食事して会話してもいいぞ」会みたいなのが欲しいんだよ。

友達なのかな?友達っていうか、茶飲み友達

ぼっち老後が増えるし、流行ると思うんだけどなー


http://anond.hatelabo.jp/20140903205416

2014-09-02

青年少女普通恋愛』みたいに扱われているのがたまらなく気持ち悪い

「おさよう」と「おねショタ」が対応している異常さに気付いて欲しい

そこは普通、「おによう」と「おねショタ若しくは「おさよう」と「おばショタ」じゃないのか

「おさよう」「おねショタ」は特殊嗜好扱いだけど、「おによう」は普通の事みたいに扱われてるんだよ

明らかにおかしいだろ

2014-08-30

タマジャクシへの追悼歌

あなた趣味は何ですかと聞かれたら私は即答するであろう。「自慰です」と。

小学生の頃から今日まで私は自慰ばかりしながら生きてきた。最初は一枚のティッシュでも十分だったのが、今では十数枚を無造作に引き抜き、大量の液体を思うさま放出する日々である

一度で数億生じるともいわれるオタマジャクシは、私の身勝手行為によって、無念にも犠牲になった。女体をまさぐった末に起こる肉体の変化に伴い発射されるのが自然の流れであるし、私が生んだオタマジャクシたちもそれを望んだであろうが、実際には、適当画像動画にみだらな欲情を起し、しこしこ上下に僅かな回数動かしただけで、彼らは無理やりこの世に引き出される。

きっと彼らは、温かい体内の中で、数億のライバルたちと対しながら、奴らに勝って卵に突入するという野心を燃やし、そのための準備も怠らなかったであろう。

それなのに。

勢いよく飛び出たところは、あるいは紙の上、あるいは手の上、あるいは、やったぞ性器スタートラインにたどり着いたと思うやいなや、それが単なる玩具の中であったことに気づき、涙を流して生を終えたものも、少なくなかったにちがいない。

私は彼らに謝りたい。

だが、考えてもみてほしい。青年は、ほぼ例外なく、思春期に入ると自慰を始める。その青年が大人となり、子供を持つまでの間に創出するオタマジャクシの数は、無駄にされるオタマジャクシの数は、数百億、いや、数百兆匹をもかるがると超えてしまうのではないか。

そう、彼らの中で卵にたどり着けるのはたったの数匹(零かもしれない)。残りの、無限にも近いオタマジャクシたちの死は、宿命なのである

しかし私は声を大にして言いたい。君たちの生は無駄ではなかった、と。

広大な野原にうっすらと積もった雪のように白いティッシュペーパーの上に、さっと撒かれた純白の蜜を眺め、ああ、この中には、俺の種がたくさん泳いでいるのだと、そう思うとき、私は言い知れぬ幸福を感ぜずにはいられない。私の生きがいであ自慰に、君たちは華を添えてくれるのだ。

ありがとうありがとう。君たちがいてくれるから、私は今日希望を持ってパンツを下せる。

君たちがいてくれるから明日の夢へ向かって羽ばたけるのだ。

やらねばならぬ仕事から逃避して増田を開き、放心状態で綴ったらこんな文章になった。相当疲れているらしい。

2014-08-12

http://anond.hatelabo.jp/20140812131558

400文字も無さそうなあらすじを見ただけでも被りまくり


オリジナル  →零細ゾンビ回収会社 という商売が成り立つ世界

パクリ    →ゾンビ存在日常化した世界 ゾンビ対策捕獲担当する玉川区役所特別福祉


オリジナル  →ゾンビアクションラブコメ、 爆笑! 失笑! 同情! 涙!

パクリ    →ちょっとゆるいヒューマンコメディー。笑いあり、涙あり、もちろん恐怖


オリジナル  →主人公モテない青年

パクリ    →主人公は25年間、彼女もおらずパッとしない毎日を送っていた


オリジナル  →かわいい新人バイト女子指導を命じられた!

パクリ    →アイドル並みのルックスだが“超武闘派”の美少女新人として配属されてきて

2014-08-01

茂木健一郎氏「『艦これ』に熱中している青年たちの情熱は間違っていない!未来につながる!!」と言っていることについて

何言ってんだコイツ、と思ってしまうと同時に、

肯定的に捉えてみるとどういうことなのか考えてみた

なぜ何言ってんだコイツと思ってしまたかというと

『艦コレに熱中している青年たちに告ぐ。君たちの情熱は、間違っていない』という表現にあると思う

有名人である以上、彼は(ざっくりいうと)成功者であって、おそらくそ自体間違いではないのかもしれない

だけど 間違っている

青年たちは熱しやすく冷めやすい、氏が言う、情熱を深く掘り下げることはなかなか無い

日本社会において、自由な学習から得られる個性を持った人間には面白い場所ではない

日本人社会は、ビル・ゲイツスティーブジョブスを生み出さない代わりに、ある一定意味合い平等

同じ情報を共有することによって、多くの人が、多くの人と楽しむことができる

艦コレがオタク社会でのカリキュラム過程の1つであり

自由な選択の中から選ばれたものではない、「これを遊べ」と言われているも同然だ

多くの人が艦コレを遊ぶことによって、平等になれるのだ

平等を望むオタクに、なぜ、ビル・ゲイツスティーブジョブスの可能性を見出すのだろう。

日本生活し楽しむには、日本流学習方法でいいのだ

と、いうのが、何言ってんだコイツと思った所以

現代の娯楽に熱中する若者マイノリティだと思って書いているのだろうが

私はむしろ一般的日本人若者だと思っている

さて、一方で

あ、この先はあとで書こう


http://trackback.blogsys.jp/livedoor/amaebi4912/2182562

2014-07-27

大志を抱く青年は、戦後東京を目指したが、戦前満州を目指した

東京一極集中論議で、ふと気づいたこと。

「大志を抱く地方青年は、東京だけを目指す」というのは、実は戦後価値観しかない、と思う。

戦前は、「東京を目指す」青年の数倍の数の青年が「満州を目指し」ていた。

戦前帝都(東京)は確かに地方から見たら魅力的だったが、反面、財閥華族・藩閥などの「旧勢力の巣窟」の都市だった。

から有為青年は、「旧勢力のしがらみのない、実力本位」な満州を目指した。

まり満州って、日本人にとっては「新大陸」だった訳です。

戦後東京一極集中という現象は、「満州を失った副作用」という側面もあると思う。

もはや、青年東京しか行き場がなくなった。

※「戦前は、人口流出の受け皿は帝都じゃなく満州だった」仮説、これはあくまで仮説なので、国勢調査データ検証してみたいのだが・・

話は飛ぶが、北海道民県民性に「因習に縛られない、合理的」てのがある。

結婚式なんかは会費制で合理的。)

実は満州移民も、「県民性」は北海道と同じように「因習に縛られずに合理的」だったらしい。

アカデミック世界や、技術世界でも、満州は「因習に縛られない、合理的新世界」だった。

満鉄などでは、内地でも(帝大などのしがらみが理由で)導入できない世界最先端技術を、次々と導入して生産効率を高めていた

自分帝国主義には否定的だが、「満州社会合理性」の部分は、もっとポジティブに評価すべきだと思う。

満州は「内地では出来ないことをトライアルする、一種の特区だった」訳で、

戦後日本に「特区の成果」が導入されて社会改善に繋がった効果は否定出来ない。

現代日本の閉塞感って、満州みたいな「しがらみのない新世界」を持ってないことにも起因する気もする。

(だから新世界確保の為に、侵略しろ」とは言わないが。)

戦前国民が、「満蒙は日本生命線」という松岡洋右言葉に激しく共感したのは、

経済的メリット帝国主義メリットだけじゃない「精神メリット」も感じていたからだと思う。

戦前国民は、「満蒙に、因習に縛られない理想郷がある」と信じていて、「アルカディアを失いたくなかった」

2014-07-26

人生いろいろ・・・

岡山県倉敷市女児(11)が監禁され、5日後に保護された事件で、逮捕された岡山市北区無職藤原容疑者(49)は、大学院哲学を学び、研究者を志した寡黙な青年だった。監禁容疑での逮捕から26日で1週間。県警は未成年略取容疑での立件に向けて、事件の全容解明を進める。

 「カントを愛している」

 約20年前、大阪大学大学院博士課程で倫理学を専攻していた藤原容疑者は、研究室の宴席で同窓生にこう打ち明けた。寡黙で勉強熱心。青春時代藤原容疑者を知る人たちの印象は似通う。交友関係は少なく、存在感は薄かった。

 地元私立高校を出て、一浪して法政大学に進学。その後、ドイツ哲学者カントに心酔し、大学院研究室研究者を志した。

 だが、学問の壁に突き当たる。学友が順調に助手教職に就き始める中、1人だけ就職先が見つからなかった。ある同窓生は「進路が決まらず焦っていた。気まずかったのか、周りに気づかれないように単位取得退学した」と話す。1995年ごろのことだ。

 大学院を退学した後は、家庭教師などの職を転々としていたようだ。96年~99年ごろは、大阪府内の公立中学校で夜間に校内を見回る宿直員として働き、宿直室で寝泊まりしていた。

 同じ時期に勤務した男性教諭は「岩波書店の難しそうな本を黙々と読んでいた。無口だが愛想がよく、先生や生徒とあいさつを交わしていた」と話す。休日電話番を引き受け、部活動の早朝練習に来る生徒のために、早起きして校門を開けていたという。

 親族らによると、藤原容疑者は30歳のころに結婚したが、すぐに離婚した。今年初めごろまでの約10年間は、兵庫県西宮市に住んでいたという。築32年の4階建てアパート家賃3万円の1階6畳一間。コインランドリー洗濯する藤原容疑者を、複数の住民が見ていた。ある住民は「平日の昼過ぎで、仕事をしていない人だと思った」と話す。

 暮らしぶりには不明な点が多く、岡山市実家に戻ってからも人付き合いはほとんどなかった。ただ、洋室リフォーム代や母親介護費用などは工面できていたようだ。逮捕後に名乗った職業イラストレーター小学生くらいの女の子を描いたA4サイズの絵を見せられた人もいる。

 岡山地検に送検されたとき、車内で笑みを浮かべる藤原容疑者を見て、高校時代同級生は驚いた。

 「絵がうまく、同級生似顔絵を描いてほほ笑んでいた当時とは別人の表情だった。卒業後に何があったのか。教えてほしい」

2014-07-22

ペースメーカースマホ電車内のマナーの話。

3連休最終日の昨日、旅行から帰宅中、

電車の中での出来事


特に席を譲る必要のある人が周囲に見当たらなかった為、

はいくつか空いていた優先席の1つに腰掛け、本を読んでいた。


しばらくすると、突然くぐもった男の人の大きな声で

ペースメーカーが入っています携帯を使わないでください!」

と聞こえ、驚いた僕は本を落としてしまった。


顔を上げると、初老の男の人が胸を押さえてハァハァと息を切らしながら、

かいの席に座っていた青年スマホの使用を止める様に訴えていた。


周囲の人も「え?なになに?」と顔を見合わせ、

言われたであろう青年はバツが悪そうに携帯(スマホ)をしまった。


次の駅に着く。乗り込んできた人の内、数人はスマホをいじっている。

当たり前だ。今の日本スマホをいじっている乗客がいない電車なんてありえない。


するとまたその男性は、

携帯を使わないでください!以前倒れたことがあります!」と、

なにやら証明書のようなカードをホラ、ホラと言わんばかりに周囲に見せていた。


僕はなんだかなぁ。と居たたまれない気持ちで、特に携帯を使っていないにも関わらず、

その席を離れた。それ以上そこにいたくなかったから。


僕は以前からこの手の話に興味があり、自分なりに調べたことがあった。

その時に得た情報に拠れば、以前の携帯電話(所謂movaなど2Gと呼ばれた携帯)で

使用されていた電波には微弱ではあるが、ペースメーカーへの影響が認められていた。


ペースメーカー等の医療機器の誤作動に繋がるため・・・」


という車内アナウンスが聞かれたのもこの頃だ。

しかし、気がつくと最近は上記の文言を聞くことはない。

それは何故か。


現在使用されている携帯電波(3G、4GLTE)の電波、またはモバイルWifi等の電波は、

ペースメーカーへの影響が認められていないからである。これは、

現行で使用されているペースメーカーに対して行われた検証に基づく結果であり、

総務省公式ホームページで発表している。


更に言えば、過去の実例(携帯2G以前の時代も含む)で、携帯電波が原因で起こった

ペースメーカー誤作動による死亡事故件数は"ゼロ"。

気分が悪くなった。という例はあったものの、『倒れた』等の重大な事故もないのである


そういったことを知っていたからこそ、僕はその初老男性が哀れに思えて仕方がなかった。

「倒れたことがある」と言う話は恐らく作り話であるし、嘘つき、とまでは言わないが、

胸を押さえて苦しそうにするのも「先入観による勘違い」に過ぎないと思ったからだ。


一方で、彼のような人を作り出しているのは鉄道会社各社をはじめとする社会では?とも思う。

いつまでも必要以上に車内での携帯電話の使用を制限することによって、

こういった人たちに必要以上の恐怖を与えていることは、否めないんじゃないだろうか。

通話問題は別として、今この時代に車内の携帯電話使用を制限する明確な理由はあるのだろうか。


確かに、僕自身電車内の人が一様にスマホをいじっている光景を見て、異様に思うことはある。

しかし一昔前(今も一部の人では)はそれが、新聞文庫本だっただけであり、それが電子機器になると

アレルギーを感じ、ヒステリーを起こすのは理に適ってないと思う。そういう人に対する、

正しい知識の提供教育を行わずして進めている昨今の「地下鉄でも電波が入る!」等の

インフラ整備は、こういった問題助長するだけなのではないだろうか。


時代・人・技術が変わればマナーも変わる。今やらなくてはいけないことは、

現代にそぐわないマナーの見直しを行い、誰もがハッピーになれる

「正しい・理屈の通ったマナー」をしっかりと提示することではないのだろうか。

2014-07-09

http://anond.hatelabo.jp/20140708221440

ここまで自己分析ができたんだったら改まってこれから注意すればいいんじゃない

確かに連絡もしないで先にバスに乗ったことは自己中だと思うけど、一生関わりたくないとかいレベルじゃないから救いようがあるよ。

からアドバイスだけど、相手を女の子(できれば守ってあげたい年頃の子)だと思って行動するとうまくいく。

たとえば相手が女の子で一緒に行動してて先に乗ってると思ってバスに駆け込むかい

相手が女の子ってだけで変わると思うんだよなー。

彼女ができないのは自分中心になってて出会うチャンス自体が少ないのかもしれないし、一人に慣れすぎてどんどん自己中が悪化してってるんだよ。

いつも恋人がいると相手ありきの考えがあるし、それがいつものことだから自己中な選択より二人でどうしたいかを優先することが多いから自然と身に付く。

こればかりは君を責められない。彼女がいなかったんだったら身につかなかったのは仕方ないことだ。

上司とかこれから仕事をしてく上で大事な人だから、こないだはすみませんでしたって謝ろうね。

きっとこれから思いやりのある青年になっていくことを祈ってるよ!

2014-07-08

ぼくのかんがえるソードアートオンライン

今回紹介するのは、2030年から爆発的な人気となったオンラインゲームソードアートオンライン。いったい何がブームのきっかけになったのか、プレイの流れとともに紹介しよう。

ソードアートオンラインの参加方法はとてもシンプル名前キャラクターを選ぶだけ。これだけで、あなたは広大な世界に入ることが出来る。あなた最初にもらうアイテムナイフ、オノ、ランプ、そしてわずかなお金のみ。何をしていいか途方に暮れるだろう。しかし、この世界ですぐに始めるべきことは、たった1つである

手元にあるナイフアート作品を作る。それだけだ。

周りを見渡すと、森があちこちにあるだろう。あなたはそこに行き、オノで木を切るとよい。もちろん、地面に落ちている枝や丸太を使ってもよい。好きな素材を使って彫刻オブジェ・置物・家具などを自由に作るのだ。

作った作品は街に行けば売ることができる。精巧に作れば作るほど、価値は高い。もちろん店に売るだけでなくフリーマーケットで売ってもよい。場合によっては展覧会を開催して客を集めることもできるだろう。そうやって稼いだお金で、新たな素材や道具を購入できる。

もちろん素材は木材だけではない。土、砂、大理石、氷だって彫刻の素材にできる。道具だって様々だ。彫刻刀、ノミとトンカチ、のこぎり、グレートソードレイピアサムライソードダイヤモンドカッターなどなど。あなたが作りたいものを作りたいように作ればよい。

このゲームに夢中になっている青年に話を聞いてみた。「今までのネットゲームは誰かを殺すことばかりだった。それに飽きた頃に登場したのがソードアートオンラインさ。このゲームでは誰かに殺されることが無い。好きな時に、好きなだけ作品を作ればいいんだ」

一方、こちらの彼女作品を作るよりも教えることに楽しみを見出していた。「私はお金を稼ぐことにはあまり興味がなかったの。だから個展を開いてたんだけど、初心者の人が『どうやったらそんなにカッコいい作品が作れるんですか?』と聞いてきたのよ。それからは教師としてみんなに作品の作り方を教えているわ」

プレイヤーによっては、ゲームに使う周辺機器も選んでいる。キーボード派の彼はこう答える。「デジタル入力が可能なキーボードのほうが繊細な作品が作れると思うよ」と。一方、ナイフ形のコントローラを使う彼はこう語る。「このコントローラのほうが実際に作品を作ってる感覚に近いんだ。ヘッドマウントディスプレイも使えばまさに自分だけの作品を作ってる気分になれるぜ。ゲームからナイフで手を切る心配もないしね」

いかがだっただろうか。ソーシャル要素を持ちつつ、自分一人で楽しむこともできるこの作品。誰かと作品を競い合うもよし、空いた時間にコツコツと作るもよし、木こりとして山で生活するもよし。プレイヤーの数だけ遊び方がある。

さあ、今すぐログインして、広大かつ穏やかな世界作品作りを楽しもう!

果て無村の、きみょうな、じけん



村の自称青年運動家斎藤蔵太(32歳、仮名)が村の南西の端を流れる果て無川で、水死体となって発見された。

死体には目立った外傷はなく、入水自殺の可能性も考えられる、と警察は発表した。村の者たちに対する聞き込みなども行われたが、詳しい者はおらず、またどうも皆口を閉ざしている様子で、真相は闇の中であった。唯一、村の事情通自称する猫ババが、斎藤は村の若い女たちに、ハレエ彗星の欠片と称するものをばらまき、その見返りに何かを求めていた、という曖昧証言をしたが、この村はずれに住む猫ババは、普段から揉め事ばかり起こす人物であり、その信憑性についてはやや疑問が残るものとして扱われた。実際、村の女たちは誰一人として、斎藤蔵太との関係を認めなかった。こうして事件はうやむやなまま自殺ということで片付けられそうになったが、ある一人の若い警官斎藤の生誕地である隣村に聞き込みに行ったところ、次のような事実が判明した。

斎藤蔵太は、隣村(大東村)の小さな農家の倅だったが、かねてから大根育てて一生を終えるようなタマじゃない、と周りに吹聴していた。どうも、家の手伝いをせずに左翼活動に熱中していたらしい。30歳をこえ、そろそろ家を継ぎ、身を固めた方がいいと周りが説得しだしたのは最近だが、それがきっかけで隣村を飛び出し、今の果て無村に居着いたようだ。

果て無村では、山奥にポツンと建っている、ある変わり者の未亡人の家に居着いていたということも同時に判明したが、その未亡人も、いつの間にかいなくなっており、行方はわかっていない。

家には何も残っていなかったが、家の二階の奥に異様な雰囲気の部屋が見つかった。人のものと思われる糞尿が、辺り一面にこびりつき、天井までも汚れていた。また、解体された、林業用の電動の伐採機が見つかった。これも非常に汚れていたが、歯の部分だけは、綺麗に拭き取った跡があった。

その後、大きな発見はなく、事件は忘れられていったが、一年を過ぎた頃、果て無村から十里ほど離れた場所にある憑い堕町にて、件の未亡人が、餓死しているのが発見された。果て無村まで伝わってきた情報では、数人の若い女衆と共に断食を含む宗教的儀式を行っていたようだ。真偽は不明だが、流れ星信仰し、祈祷の一環として、自分の身から出たものだけで生きる、という奇っ怪な修行を行っていたとの噂もあるようだ。

以上が、この事件に関する世に知られた情報である

その年の暮れ、非常に大きな流れ星が見られ、村じゅうの話題となったが、事件との関連性を取り沙汰するものは少なかった。

(この物語フィクションであり、実在の人物、団体等とは一切関係はありません。)

2014-06-23

草野球チームにやってきた助っ人外国人

学生時代に仲が良かった連中と、週末に集まって草野球をやっていたことがある。

チーム創設当初は昔の仲間が中心だったんだけど、人伝てだったりブログ経由だったりで徐々に大所帯になっていった。

そうやって少しずつ人数を増やしながらワイワイ楽しくやっていたら、あるとき外国人青年がやってきた。

私たちが盛り上がっているのをブログで知って、仲間に入れてほしいとメールをくれたのだ。

監督兼任していた私は、とりあえず見学に来てくれないかと提案した。

チームとしてはそこそこの規模だったけど、外国人が入ってくるのは初めてだったので、みんな彼には興味津々だった。

もちろん事前に彼のプロフィールは知ってたんだけど、それでも見学当日はチーム全体がソワソワしていた。

結果から言うと、彼はあっさりとチームに溶け込んでしまった。

もちろん、みんなが歓迎ムードだったことや彼の人柄や優れていたことも大きかった。

でもそれと同時に、彼の技量がずば抜けていたことも大きかった。

彼は184センチ92キロというピッチャーとしては申し分のない体格だった。

母国いたころは、高校生全国大会ベスト8に輝いた実績もあるという。

体格と実績のとおり、彼の投球は本当に素晴らしいものだった。

まず、カーブシュートスライダーシンカーチェンジアップという豊富な球種を扱えた。

加えて、100球以上投げてもコントロールがほぼ一定であり、集中力乱れることがなかった。

球速自体はそこまでではなかったけど、それは問題にならなかった。

ピンチの場面でも出せばキッチリ抑えてくれたし、先発させても7回まで1~2失点という具合だった。

彼のお陰で草野球大会では常にベスト4以上に食い込むようになった。

本当に、うちのチームを選んでくれてありがとうという感謝の気持ちでいっぱいだった。

そんなことがあったんだけど、あるとき仕事の都合で、私は海外赴任をすることになった。

偶然にも、助っ人外国人である彼の母国に赴任することになったのだ。

どこぞの知らない国であれば辞退しようと思っていた私だったが、彼の母国に行けると知って嬉しくてたまらなかった。

からその国でのルールマナー野球事情などを教えてもらい、早く行きたいと思いながら過ごしていたのを覚えている。

それがだいたい7年ぐらい前の話。

現在の私はというと、甲子園というものにすっかり夢中になってしまった。

このぐらいの時期になると、どうしようもなくソワソワするぐらいハマっている。

毎年のことながら、高校球児たちの活躍の姿が見られるのが楽しみでしょうがない。

初めて観たとき日本高校生レベルの高さにビックリしたものだ。

それと同時に、彼のような人材が育ったのも頷けた。

ただ、甲子園を見ていると時々すこし辛くなる。

高校生だった彼と一緒に、甲子園でプレーができなかったことが悔やまれるからだ。

国が違うからしょうがないのはわかっているんだけど、どうしてもそんな事を考えずにはいられない。

彼と同じチームに入って、彼と喜びを分かち合いたかったと考えるたびに辛くなる。

から今でも甲子園球場に彼の姿を探してしまう。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん