はてなキーワード: 多種多様とは
VRChatはその名の通りVR空間でチャットをするゲームなのだが、最大の特徴として自分で作ったアバターを身に纏うことができる。
しかし、作るには技術も時間もかかるため、大半のユーザーはBOOTHで既に作られたアバターを購入し、髪の色や目の色、別売りで出る服や髪型を変えて利用している。
販売されているアバターは多岐に渡り、美少女やイケメンは勿論のこと、ケモノやロボットなど多種多様。
販売されているアバターには〇〇ちゃんといった名前を付けられているので、アバターそのもののファンも存在するような世界なのである。
商用利用を許可しているアバターもあるため、そのまま自作ゲームに利用したりVtuberになる人もいるくらいだ。
そんな中で楽しく遊んでいたが、ある日Twitterに販売されているアバターの〇〇ちゃんを丸々トレースし、〇〇ちゃんのファンアートです!という絵がRTされてきた。
線がフラフラなのに異様に整った顔や身体のバランス、整ったバランスに対してあまりにも稚拙な塗り、トレース絵の典型的なイラストだ。
最初に見た時はイラストが伸びなくてトレースしだしたんだろうな〜という印象だったが、日を追う事にRTやいいねの数がどんどん増えていく。
プロフィールを見たら、Skebやパトロンサービスもやっているという。トレースしたイラストでグッズを作成し、販売もしていた。
トレース元は商用利用OKなアバターなので、規約的には問題ないのかもしれない。(規約にクレジット表記必須と書いてあるのにクレジット表記どこにもないけど)
ただ、元々絵を描いていた自分からしたら、この上なく面白くない。
なんならものすごくムカつく。
たくさんRTをされるようになって、フォロワーも増えて、さもクリエイター側ですよみたいなツイートも増えていく。
持て囃す周りにもイラついてくる。
でもトレース元の〇〇ちゃんは商用利用OKだし(クレジット表記ないけど)多分悪いことはしていないんだと思う。
ただこんなトレース絵なんかより評価が低い自分とか、トレース絵だと知ってか知らずか持て囃す周りとか、日々RTが増え調子に乗ってるトレースしてる人とかそういう色んなものにイライラしてムカつくっていう愚痴でした。
※ちなみにポーマニとかクリスタの3D素材を使うことはなんとも思わないです。それはトレースなり参考なりにするためのものなので。
もちろん練習でトレースするのもいいと思う。でもトレースしたものを公言もせず作品として出されるとそれは…どうなの……って思う。
支援サイトにその支援サイトで設定できる上限のプランを用意している人がいたんだけど、閲覧できる作品が月500のやつと同じと書いてあって、見つけた当時は月10万とか馬鹿げてるなとしか思わなくてスルーしてしまった。
それが後になってみて気になり始めた。「ぜひリクエストしてください!丁重に描かせていただきます。」みたいなことが書いてあったのを思い出し、それが後になって貴重な条件にみえてきたのだ。
skebとかで数万円の単価で絵を描く人はよく見るが、プランとして10万円とかいう価格で用意して好きなように酷使できるにしてる人って今まで見たことなかったから、そういう人は一体どんな絵を描くと気になって仕方がなくなってきたのだ。逃がした魚は大きい的なやつかもしれない。
それからはもう他のエロ絵で抜けなくなってしまった。一旦関心がそっちに向いてその絵をひと目見るまでは何も性的に興奮できなくなってしまったのだ。
広汎性発達障害と診断されてるのでその気質が影響してるのかもしれない。
何につけてもその絵師のサイトをもう一度見つけることに興味が向き、資格試験に勉強にも集中できなくなった。
性依存症だろうか。とにかく今の俺の状態は昆虫並みなんじゃないか。
障害診断されてるのでそれ用のかかりつけ医もいるが、しかし性依存症ではないかということはカミングアウトできないから根が深い。
特に男が陰でそれなりの頻度でオナニーとかしてるのは当たり前の話だが、だからといって誰かに対峙するたびに「この人も自慰してるんだろう」とかいちいち思ったりはしないだろう。医者であってもだ。
それが一旦カミングアウトしまうと常識でありながらそれゆえに意識されてこなかった事実が、その瞬間から前面に押し出される。その瞬間からきっと医者に俺は「エロいことしてる人」と診察を受けるたびに思われるようになるわけだ。そうなることがどうしても嫌だ。それをすれば治療を前進させることができるんだとしても嫌なのだ。
漫画とかテレビなどオタクについて公共の媒体で語られるとき、こういうことについては触れられてないと思う。
なにかのはずみで無惨様よろしくな昆虫並みの行動傾向になってしまうオタクがいることを。
それはそういう発表力、記者であるという社会的な立場とか単純に文章力がある人に、こういう実感を持ちうるほどそこまでR18オタク界隈にどっぷり浸かっている人がいないからかもしれない。ある程度知識を揃えようとしたところで知識として得られるものはうわべにとどまり、あとはイメージで補うということをしている結果メディアに描かれるオタク像はどうしても似たり寄ったりになるのだろう。もっと多種多様な症例があるだろうにそれは記述されないのだ。
逆に俺みたいな当事者もまた、文章力とかないので緻密に事実の細部を伝えきれず結局は四捨五入するようにかなり「丸められた」状態でしか伝えることができてないと思う。表現力などがないから結局メディアが語るステレオタイプと大差ないことしか伝えられずに終わってしまうということだ。
ジャニーズの宮下?だかはラブライブとかエヴァとかあくまで地上波アニメの範疇でオタクであると印象づけたいようだが、そこを対馬忍のゆきかぜのちっぱい最高ですとか言うようになったら俺も好感持てる。ハマってる18禁絵師がいるとか言ってほしいものだ。
だって俺個人の感性としては「可愛いということ」単体には価値がないから。可愛い子がエロかったりときにはパンスト被せられたりがに股ポージングさせられてるような絵や動画にはじめて魅力を感じる。下手なたとえなのは自覚してるがたとえるならば、自転車のボディーだけ与えられてもタイヤだけ与えられてもそれ自体には使用価値がなくて、自転車ごと与えられてはじめて使用価値が出てくるようなものだろう。
そして地上波アニメにエロいことを求めるのは非効率だから結局地上波アニメやその感想だけを連ねるだけの人には好感が持てないということになるわけだ。可愛い子が可愛いことしてるだけの絵面の何がいいの?としか思えん。
まあでもそういうことを平気でいうような芸能人もたくさんいるのだが気持ち悪いと思われるだけだから売れないというだけのことなのかもしれない。
芸能界を生き抜くにはアルコピース平子がスマホ見せてと言われたときに「これ見せたら社会人としても人間としても芸人としても終わる」とか言うぐらいの慎みは必要なのだろう。俺はそれがないからこそ障害者なのだろう。
横です。
厳格なポリティカル・コレクトネスでは、個人が持つ多種多様な弱者性を加算し、最終的に一人一人の弱者性を比較します。
また、女性である時点で、黒人である時点で、克服が困難なレベルの大きな弱者性があると考えます。
幼少期の被虐待経験とトゥレット障害も弱者性として計上できますが、ジョーカーの場合は白人男性という圧倒的な強者性が邪魔をしてしまいます。
被虐待経験を加算してもなお、女性や黒人の弱者性を持つ人物と比較するなら、ジョーカーは社会的に有利な立場と見なされてしまうのです。
冒頭のaquatofanaさんのコメントは、このようなポリティカル・コレクトネスの考え方に立脚すれば自然と導き出されるものなのです。
被虐待経験も深刻な問題ですが、厳格なポリティカル・コレクトネスでは、他の弱者性との比較を行わざるをえません。
弱者性を計算して厳格に比較するポリティカル・コレクトネスには、「血も涙もない」「人の心が通っていない」との批判が向けられることも少なくありません。
しかし、このような手続きを踏まない限り、社会的公正を具体的な政策に落とし込むことは不可能です。
ご理解いただけるでしょうか。
5年間一緒にいたねこを手放すことになりそうなので、自分の気持ちの整理のためにつらつらと書く。
5年間一緒にいたねこは私がはじめて選んだ家族であるし、人生のパートナーである。
私がこのねこと出会ったのは運命的でもなんでもない、保健所で一緒に暮らすねこを探していたときだ。
当時の私は自堕落的で、アルバイトとして働いてはいるものの、なんの目的もなくただダラダラと呼吸をしていた。働くということがまま苦痛であったし、大きなトラブルはないのに人といることに疲れていて、未来なんてどうでもよかった。死ぬほどでなくとも積極的に生きることもできない、そういった自分が嫌ではあったものの、特に変えるための努力もする気になれなかった。
ふと、自分が猫を飼ってみたかったことを思い出した。昔は無理だったが、今ならそれを実行できる環境にいる。短絡的ではあるが、働くことも人と付き合うことも生きることも、私だけの猫がいればできそうだった。
すぐに保健所に電話をして、引き取れそうな猫はいるか確認をし、年明け後にすぐ猫を見に行った。私の数少ないいいところはすぐ行動に移せることである。
保健所には十数匹の猫がいた。仔猫もいたし、成猫もたくさんいた。
仔猫はきっと他の誰かが選んでくれるだろうと、私は成猫を引き取るつもりでいた。それも誰も引きとらなさそうな猫を。
成猫を探しているというと、職員さんは1番奥のケージを見せてくれた。ハチワレ猫と黒猫の2匹の兄弟が目を丸くしてこちらをみていた。ハチワレの方は怯えていなかったが、黒猫の方はすごかった。私を確認するなりケージの隅へ避難し丸くなり、全神経をこちらに集中させていた。
誰も引きとらなさそうな猫と決めていたが、その様子を見て少し怖気付いた。なにしろ私は猫を飼ったことがないのである。
職員さんにどちらかを引き取ることにしますと伝え、一週間後に迎えに行くことになった。
一週間結構悩んだ。いっそのこと2匹一緒に引き取ろうかとも思った。そうしなかったことは今でも悔やんでいる。
受渡日当日、私はまだ決められずにいた。
もう一度直接みて決めるしかできなかった。
私たち人間の緊張を感じ取ったのか、一週間前はリラックスしていたハチワレも、その日は警戒心をむき出しにしていた。黒猫はそもそも初対面の時から私を警戒していた。
黒猫がキャリーケースに入れられている間、私は飼育に関する誓約書や、外飼いされる猫の悲惨さ等の書類と対峙していた。余談ではあるが、この保健所は非常にいい保健所で、職員さんたちはみんな動物に対して愛情を持っていた。私がカウンターで待っている間、少し離れたところにいた職員さんが業務を止めてさみしそうに、でも本当にうれしそうに、飼い主さんがきまってよかった〜〜よろしくお願いしますと伝えにきてくれた。
少しして、遠くの方からアオ〜〜と悲しげな大声が聞こえはじめ、キャリー片手に職員さんがやってきた。
では、よろしくお願いしますのひと声とともに黒猫の入ったキャリーが渡されて引き渡しが完了した。
大きな黒猫は怒り混じりにずっと鳴いていて、施設内の人たちは物珍しそうに少し笑いながらこちらをみていた。
黒猫は1年ぐらいは慣れないかもと職員さんから伝えられていたが、1月ほどで私に腹を見せ、擦り寄ってきた。
毛はふわふわでの長毛で、声は高く、ずんぐりとした樽のような胴体に、ポンポンのような短い鍵尻尾を持つ大きな黒猫。
食べることがすきで、度々勝手に餌袋を破り思う存分腹を満たした困った黒猫。よく私のお腹や膝の上に乗っては機嫌良く撫でられていた。
本猫の努力もあり、ちょっとしたダイエットに成功した後は歩くたびに伸びたお腹の皮が左右にたゆたゆと揺れる。水のように柔らかい。目が合うと短くンニャと鳴く。寝てる私の気を引きたいときはゆっくりと私の顔に爪を立てる。歩くときは爪を出さず。
前歯がすきっ歯で、獣医さんに相談するまで、自分の不注意で歯を一本無くさせてしまったのかと思っていた。
はじめて黒猫を洗った時、シャワーをかけ続ける張本人である私に、震えながら縋りつくようにして膝に乗り、その日から度々、私がシャワーを浴びている間は心配そうに浴室の外から私を見守ってくれる。目が合うと小さくニャッと短く鳴く。
もう1匹の新猫を迎えた日、大いに不満もストレスも抱えただろうに、一週間後には新入りを舐めてくれた。
その新入りした仔猫は多種多様なアレルギーと喘息を持ち、ご飯に対して気難しかった。
歩くときは爪を出さない大きい猫と、歩くときも爪を出す小さな猫。
視線だけで訴える甘え下手な大きい猫と、鳴いて物事を要求する甘え上手は小さな猫。
どちらも私がそばに行くだけでゴロゴロと喉を鳴らす気前のいい猫。小さな猫は尻尾を震えるほど立たせるので分かりやすい。
車に乗せると怒鳴るように鳴いて不満をぶつける小さな猫。以前はほぼ毎日のようにしていた喘息も、最近は全くといっていいほど出なくなり、落ち着いてきて本当によかった。
間違いなく私の人生は救われたし、大袈裟でもなんでもなく、今の私がいるのもすべてこの猫たちのお陰だ。
たまに、猫の死について考える。そのときは必ず火葬や仏具について泣きながら検索する。それは今から心の準備をしておかないと、駄目だからだと思う。
いつか私は猫たちを看取って、小さな骨を拾い、猫の思い出が残る家で生きていくものだと思っていた。
まわりは、配偶者が猫アレルギーで喘息であるなら猫を手放すのが当然だという。それが極端だといってくれる人もいる。
私は、猫をペットとして飼っていない。家族として接し一緒に生活してきた。
ひとりは、猫に依存すること自体間違っていると言う。自分のことしか考えていない、今が変わるときとも。きっとその通りなんだろう。
猫と別れる選択をした場合、おそらく妹夫婦が猫を預かってくれることになる。
それは逃げだと言われたけど、一軒家でも同じ建物内に猫といたくないと言われたら、私は離婚以外この選択肢しか選べない。選べないことに絶望する。
今までの薄給をほぼすべて猫に関することに費やしてきた。観葉植物も空気清浄機も、Amazon Echoもデジイチも、オイルヒーターも除湿機も。他の人には一見関係ないものも、すべて猫に関係している。
一緒に暮らしてきた猫と完全に人生を絶たれれば、私には働く理由も欲しい未来もほとんどがなくなる。と思っている一方で、人生を救ってくれたこの猫たちと別れたあと、意外と平気で生活できそうな気もする。私はそれが怖い。
配偶者は、私が猫を選んだとしてもだれも責めないと言ってくれる。
かといって、本当に我儘に生きてきた私に怒ることなく辛抱強く優しく誘導してくれる配偶者を捨てることも私にはできない。惚気になるが、この人は少し鈍感なところもあるけど、本当にできた人間で、こんなウジウジとして怒りっぽく自己中心的な私にはもったいないくらい良い人だ。猫も人も、私には本当にどちらかを完全に切り捨てることが怖くてできない。
だからせめて、妹夫婦に一時的に猫を預けるということに今はさせてほしい。この先、絶対にまた一緒に暮らせる時がくるという希望がほしい。気兼ねなく会いに行くことができる人に預け、猫に関する費用を払うことで、私を関わらせてほしい。
猫にも配偶者にもどちらにも誠実でなく、妹夫婦にも負担を強いるという選択を取ろうとしている。猶予はまだある。もしかしたらもっと違う選択をとるかもしれない。
なんか立憲支持者のこういう他野党を『立憲が自民に挑むゲームの駒』みたいに語る見方って凄く気持ち悪い。
一見、国民民主の価値を認めているようで、本音はあくまで立憲が主で、自民を倒すための従属戦力として国民民主を使うみたいな意識が透けて見える感じ。
確かに立憲は安定の野党第一党だけど、今回の維新大躍進みたいな流れもあるし、いつでも自分たちが中心になって野党の政局を決められると思うなよと。
それなりに国民民主に期待してる身からすると、安易に立憲の生み出す流れに迎合せずに自分たちの路線で足元を固めていってほしいと思うなぁ。
これを書いているのは衆議院選挙の投票が締め切られて4時間くらいに過ぎないが、自公で安定多数は確保されたようなので、そろそろ総括したい。
定量的な分析についてはこれから明らかになると思うので、それは別の方にお任せするとして、ここでは選挙戦の報道とSNSでの反応を通して、なるべく主観を排除したうえで(といいつつどうせ主観は残っているんだろうが)、野党共闘について語ってみたい。
与野党一騎打ちで小選挙区を戦う、これ自体は選挙戦略として間違っていない。選択肢としてわかりやすいし、なにより仲間割れ選挙になって漁夫の利とならずに済むから。しかしながら、野党からの視点からすると、そもそも共産党が勝てる見込みがありそうな選挙区(具体的に言えば沖縄1区くらいか)以外は出馬しなければいい話なのである。比例票を伸ばすために小選挙区で多くの候補者が討ち死にしていくわけである。今回のように取りやめをしていても、比例議席は大して減っているわけではなさそうだ。であれば、共産党がでしゃばるのではなく、敵は誰かを見据えて、空気を読んで取り下げればいいだけではないだろうか。
2009年の総選挙は共産党が出馬していても民主党の圧勝だった。無党派層が投票した「風が吹いた」選挙ともいえるのではあるが、今回は共産党に依存している以上、2009年と比べればそれだけ地盤が弱いとも言える。「ボトムアップ」というのであれば、そもそも地盤を固めることに徹するべきであったのに、弱者のパワーゲームに飛びついたことが、今回の負け(自公に負けた時点で負けですよ、ええ)につながったと思う。
これだけ風がそこまで吹いていないのはなぜか。それは共産党は日本人のマジョリティとして受け入れられないのである。個々でやっていることは是々非々あるものの、共産党とは一緒になりたくないのが多くの日本人の本音なのではないだろうか。連合や国民民主党がこれだけ毛嫌いしているのもうなずける。
旧民主党は多種多様な議員が揃っていたと思う。旧社会党系なリベラルな人もいれば、旧自民党系の保守系な人もいた。しかし、新しい立憲民主党では保守系の人が逃げてしまった。細野豪志氏や長島昭久氏のように自民党に「裏切る」人もいれば、自民党には行きたくないけど立憲民主党にも行きたくないとして「国民民主党」としてとどまる保守系議員もいる。なぜこうも分裂してしまったかを猛烈に猛烈に猛省してほしい。「右でも左でもない」と前回の選挙の政見放送で主張した結果がただの旧日本社会党のカーボンコピーにしかなっていないのではないか、というのは個人的な見解だ。細野氏や長島氏を失ったのは正直大きすぎるし、なにより管元首相と長島氏を選挙区で争わせたのは悲しい。今すぐにでも、枝野幸男は細野氏や長島氏、さらに国民民主党に土下座してでも、多種多様な第二勢力として信頼を取り戻す努力をしてほしい。
乱文申し訳ない。
中高一貫男子校から、そこそこの大学の医学部にいって人生で二度目の好きな人ができた。気まぐれで猫みたいで、感情がすぐに顔に出て、子供っぽいかと思ったらどこか達観したような一面をもつ笑顔が素敵な人だった。
一時期は私の家(ひとりぐらし)に来てわずかな時間ではあるが一緒に勉強することもあった。その時に、彼女がとあるアーティストの代表曲を「何この曲初めて聞いた〜」と言っていたのを覚えているが現在はそのアーティストが大好きらしい。彼女は初めて聞いた場所を覚えてくれているだろうか?
しかし結局は嫌われてしまったらしく、今では口も聞いてくれない。原因は幾つか思い当たるが、1番はやはり私が俗に言うメンヘラ気質であったことだろう。
彼女は歯に衣着せぬ物言いをするので、その子のことが好きな私はそれなりにダメージを負い、態度かなんかに出てしまっていたようなのだ。それが彼女の気に障ったのだろう。
初めに述べたように医学部というものはムラ社会で、ここまでのエネルギーを持って恋愛に臨んだ以上別の人で再チャレンジ、ということも難しく、また私が同じ熱量をその新しい子に傾けることもできないだろう。
幸運にも私は学部内で孤立することはなく、それどころか女の子が軒並み優しくしてくれるのだが、カップルを見るたびに死にたくなり、今では縄を買って結び方までマスターしてしまった。
医学生のちっぽけなプライドとして絶対に失敗は嫌なのでドアノブ(テディベアスタイル)ではなくぶら下がり健康器(ハングドマン)に括り付けるつもりであるが、そちらの方は家に来られた時の言い訳を考えてまだ購入していない。
私は周囲の人に恵まれていて、先日迎えた誕生日でも多種多様なプレゼントを頂けたり、先輩方にはサプライズを用意していただいたりと幸せな1週間を過ごすことができた。どうやら後一回誕生日パーティーを何人か合同でやってもらえるらしい。そういう時は本当にありがたいし楽しいのだが、家で一人の瞬間に「今頃カップルは同じ部屋で過ごしているんだろうな」などと考えると死にたくなるのである。
私は童貞であるが、なにもセックスするのが羨ましいというわけではなく(もちろん普通に羨ましいが)、夜寝る前に、朝起きる時に、すぐそこに好きな人がいるというそれ自体が焦がれるほどに羨ましいのである。
きっと私はその幸せを永遠に噛み締めることができないと思うと、死んだ方がマシ、という結論に至るのである。
ここまで読んでくださった方は相当根気強い方だと思う。勢いで書いてしまったためまとまりがないが気が向いたら推敲するかもしれない。あるいは13段目を踏みしめるのが先かもしれない。
コロナ対策や、経済対策、ジェンダー系の問題とか、消費税とか言ってるけど、
どこの政党がやっても、だいたい現状に合わせてやっていく所だと思うので、
あんまり気にしてなくて、個人的には、表現規制の問題と、デジタル庁の所をもっと取り上げて欲しい。
表現規制については、日本って一番表現規制が緩いから漫画、アニメでの表現が多種多様になっていて、
それがあるからこそ、世界とも戦える所なんだと思っているので、本当に表現の自由は守って欲しいと思ってる。
デジタル庁は、やっと本腰を入れて国として IT を進めていく段階で、
それに伴って構造改革もやって欲しくて、ここが失敗すると行政から企業まで全部人海戦術とか、手作業でやることが増えると思う。
我々の会社ではバズとは?マーケティングとは?パブリックリレーションとは?という事を常に考え、
最新動向にキャッチアップし、そのノウハウおよびナレッジを蓄積しております。
人々を「熱狂」させるためにはどういった仕掛けづくりが必要であるかということに強い関心があり、
日本ひいては世界を興奮させるコンテンツ作りに日々いそしんでおります。
我々はまさにSNSバズマーケティングのスペシャリストなのです。
昨今ではTikTokやInstagramをはじめとする若者に主流のSNSにおいて我々の確固たるプレゼンスが示されておりますが、
我々はさらなる挑戦として、我々自身がプラットフォーマーとなるべく
我々のもつ高水準のクリエイティブナレッジおよびテクノロジーを集結させ、2021年に新感覚コミュニティアプリ「ドリアン」をリリース致しました。
ドリアンのコンセプトは多岐にわたりますが、今回はその中でも最も重要な要素である「一人一人がクリエイターである」ことについて解説していきます。
およそ四半世紀ほど前まで「クリエイター」「アーティスト」という存在はある種の特権階級にあり、アートは一部の人間にのみ扱えるものでした。
しかしながら90年代後半インターネットの普及により、自己表現の場が解放され、ウェブという市井のミュージアムが誕生しました。
一方でその時分は未だ黎明期にあり、参入障壁は以前として高く、「クリエイティブの完全なデモクラシー」が実現されたとまでは言えない状況でした。
ところが2010年代より、スマートフォンの急速な普及によって、その壁はどんどん取り壊されていきました。
「アート」「クリエイティブ」はさらに民衆に開放されていったのです。
この移り変わりを象徴するものとして「インフルエンサー」という言葉があります。
原義は「影響力のある人間」ですが、今では「クリエイター」「アーティスト」とほとんど同じ意味として用いられ、「アート」「クリエイティブ」を委ねられた者として、尊敬を集めています。
インフルエンサーはその勢力をどんどん拡大しており、現在では全人口のおよそ5人に1人が何らかのインフルエンサーとして活躍しています。
年齢やバックグラウンドも多種多様で、一見すると「クリエイティブの完全なデモクラシー」が果たされたかのようにも見えます。
我々は残りの人間の悲痛な叫びに耳を傾けなければなりません。その叫びはインフルエンサーのSNSのコメント欄で聞く事ができます。
2020年、我々は「クリエイティブ」「アート」のスペシャリストとして改革を迫られました。
「クリエイティブの完全なデモクラシー」の実現に向け、そのソリューションの初手として「クリエイティブ」の「再定義」に取り組みます。
――――誰もが生み出せる、あるいは生み出しているクリエイティブとは何か?
「クリエイティブ」を「再定義」するためにはこの大いなる問題に立ち向かわなければなりません。
スフィンクスを倒し、一部の特権階級に与えられている王冠を奪取するのです。
この問題の解を求めるにあたって、私は自分自身の日々の生活を振り返りました。
もしその中で「クリエイティブ」の片鱗を認める事ができれば、それは我々の進むべき道を照らす大いなる光となるはずだと考えたからです。
日々の生活を振り返ったところで日中はパソコンをただひたすらいじるか、会議でしゃべる事を考えるかのいずれの行為しかしておらず、
私は一度ならず、自慰によって産み出される精液を「クリエイティブなのではないか?」「精液こそクリエイティブを『再定義』するものなのではないか?」と考えました。
しかしながら精液を創出する瞬間は類い稀な恍惚と快感を味わうものの、出してしまうと後には倦怠が残るだけで精液それ自体にはいずれの「クリエイティビティ」を認めることもできませんでした。
「何かの間違いではないか?」と思い、より良い創出に向けさらにFanzaに課金しましたが、やはり結果は変わることがありませんでした。
精液は、我々の「再定義」の道を照らす光ではなくいつも白濁とした光を我々に投げかけます。
(一方で、精液はクリエイティブではないとも言い切れないので、精液の放出については持続的に取り組んでいきたいと考えています。)
私は暗い日々を幾日も過ごしました。
マジックミラー号の室内くらい明るく、開放的な気持ちになりたいと願わない日はありませんでした。
そんな時です。
私は、お昼ごはんのあとに、便所で排便する習慣がありますが、その日私は余りにも見事な一本糞をひりだしました。
存在感のある太さで、長さにいたっては折り返さないと便器に収まりきらないほどでした。
まるで大蛇のように威風堂々としており、私は自分自身が産み出した一本糞に圧倒されました。
そして私ははっとしました。とうとう「クリエイティブ」の「再定義」を見つけた事に気が付いたのです!
他でもなく「大便」ことまさに人類の至上の「クリエイティブ」だったのです!
なんぴとも排便を独占することはできません。排便こそ真に開かれた創造です。
私は、自分の日々の生活を振り返ったとき、その大半をデスクワークに費やしている事に気づかされますが、
長時間この体勢を維持する事によってはじめて我々は形の良い大便をひりだせるのです。
喜びに打ちひしがれている私にその大蛇のような一本糞が語りかけました。
「あなた方が知恵の実を食べる事を禁じられているのは、その実はあなた方に智慧(クリエイティビティ)を与えるものだからです。智慧の実を解放しなさい。」
この啓示を受け、我々は「クリエイティブの完全なデモクラシー」の実現を果たす智慧の実「ドリアン」の開発を急ぎます。
そして一本糞の黒々とした光に導かれ、2021年に「ドリアン」というアプリを遂にリリースします。
――――2021年10月現在、リリースからしばらくたち、今ではドリアンには多くの「クリエイター」が切磋琢磨する場として広く認知されています。日本発のアプリとしてはまさに快挙といえるでしょう。
ドリアンではユーザー発のイベントである「一本糞グランプリ」の開催や、「今トイレでうんこしてまーす」といった報告により空前絶後の盛り上がりを見せています。
もし、この文章をお読みの皆様の中で、未だクリエイター、アーティスト、インフルエンサーではない方がいらっしゃいましたら、ぜひドリアンを訪れてみてください。
我々の会社ではバズとは?マーケティングとは?パブリックリレーションとは?という事を常に考え、
最新動向にキャッチアップし、そのノウハウおよびナレッジを蓄積しております。
人々を「熱狂」させるためにはどういった仕掛けづくりが必要であるかということに強い関心があり、
日本ひいては世界を興奮させるコンテンツ作りに日々いそしんでおります。
我々はまさにSNSバズマーケティングのスペシャリストなのです。
昨今ではTikTokやInstagramをはじめとする若者に主流のSNSにおいて我々の確固たるプレゼンスが示されておりますが、
我々はさらなる挑戦として、我々自身がプラットフォーマーとなるべく
我々のもつ高水準のクリエイティブナレッジおよびテクノロジーを集結させ、2021年に新感覚コミュニティアプリ「ドリアン」をリリース致しました。
ドリアンのコンセプトは多岐にわたりますが、今回はその中でも最も重要な要素である「一人一人がクリエイターである」ことについて解説していきます。
およそ四半世紀ほど前まで「クリエイター」「アーティスト」という存在はある種の特権階級にあり、アートは一部の人間にのみ扱えるものでした。
しかしながら90年代後半インターネットの普及により、自己表現の場が解放され、ウェブという市井のミュージアムが誕生しました。
一方でその時分は未だ黎明期にあり、参入障壁は以前として高く、「クリエイティブの完全なデモクラシー」が実現されたとまでは言えない状況でした。
ところが2010年代より、スマートフォンの急速な普及によって、その壁はどんどん取り壊されていきました。
「アート」「クリエイティブ」はさらに民衆に開放されていったのです。
この移り変わりを象徴するものとして「インフルエンサー」という言葉があります。
原義は「影響力のある人間」ですが、今では「クリエイター」「アーティスト」とほとんど同じ意味として用いられ、「アート」「クリエイティブ」を委ねられた者として、尊敬を集めています。
インフルエンサーはその勢力をどんどん拡大しており、現在では全人口のおよそ5人に1人が何らかのインフルエンサーとして活躍しています。
年齢やバックグラウンドも多種多様で、一見すると「クリエイティブの完全なデモクラシー」が果たされたかのようにも見えます。
我々は残りの人間の悲痛な叫びに耳を傾けなければなりません。その叫びはインフルエンサーのSNSのコメント欄で聞く事ができます。
2020年、我々は「クリエイティブ」「アート」のスペシャリストとして改革を迫られました。
「クリエイティブの完全なデモクラシー」の実現に向け、そのソリューションの初手として「クリエイティブ」の「再定義」に取り組みます。
――――誰もが生み出せる、あるいは生み出しているクリエイティブとは何か?
「クリエイティブ」を「再定義」するためにはこの大いなる問題に立ち向かわなければなりません。
スフィンクスを倒し、一部の特権階級に与えられている王冠を奪取するのです。
この問題の解を求めるにあたって、私は自分自身の日々の生活を振り返りました。
もしその中で「クリエイティブ」の片鱗を認める事ができれば、それは我々の進むべき道を照らす大いなる光となるはずだと考えたからです。
日々の生活を振り返ったところで日中はパソコンをただひたすらいじるか、会議でしゃべる事を考えるかのいずれの行為しかしておらず、
私は一度ならず、自慰によって産み出される精液を「クリエイティブなのではないか?」「精液こそクリエイティブを『再定義』するものなのではないか?」と考えました。
しかしながら精液を創出する瞬間は類い稀な恍惚と快感を味わうものの、出してしまうと後には倦怠が残るだけで精液それ自体にはいずれの「クリエイティビティ」を認めることもできませんでした。
「何かの間違いではないか?」と思い、より良い創出に向けさらにFanzaに課金しましたが、やはり結果は変わることがありませんでした。
精液は、我々の「再定義」の道を照らす光ではなくいつも白濁とした光を我々に投げかけます。
(一方で、精液はクリエイティブではないとも言い切れないので、精液の放出については持続的に取り組んでいきたいと考えています。)
私は暗い日々を幾日も過ごしました。
マジックミラー号の室内くらい明るく、開放的な気持ちになりたいと願わない日はありませんでした。
そんな時です。
私は、お昼ごはんのあとに、便所で排便する習慣がありますが、その日私は余りにも見事な一本糞をひりだしました。
存在感のある太さで、長さにいたっては折り返さないと便器に収まりきらないほどでした。
まるで大蛇のように威風堂々としており、私は自分自身が産み出した一本糞に圧倒されました。
そして私ははっとしました。とうとう「クリエイティブ」の「再定義」を見つけた事に気が付いたのです!
他でもなく「大便」ことまさに人類の至上の「クリエイティブ」だったのです!
なんぴとも排便を独占することはできません。排便こそ真に開かれた創造です。
私は、自分の日々の生活を振り返ったとき、その大半をデスクワークに費やしている事に気づかされますが、
長時間この体勢を維持する事によってはじめて我々は形の良い大便をひりだせるのです。
喜びに打ちひしがれている私にその大蛇のような一本糞が語りかけました。
「あなた方が知恵の実を食べる事を禁じられているのは、その実はあなた方に智慧(クリエイティビティ)を与えるものだからです。智慧の実を解放しなさい。」
この啓示を受け、我々は「クリエイティブの完全なデモクラシー」の実現を果たす智慧の実「ドリアン」の開発を急ぎます。
そして一本糞の黒々とした光に導かれ、2021年に「ドリアン」というアプリを遂にリリースします。
――――2021年10月現在、リリースからしばらくたち、今ではドリアンには多くの「クリエイター」が切磋琢磨する場として広く認知されています。日本発のアプリとしてはまさに快挙といえるでしょう。
ドリアンではユーザー発のイベントである「一本糞グランプリ」の開催や、「今トイレでうんこしてまーす」といった報告により空前絶後の盛り上がりを見せています。
もし、この文章をお読みの皆様の中で、未だクリエイター、アーティスト、インフルエンサーではない方がいらっしゃいましたら、ぜひドリアンを訪れてみてください。
自然にそこにあるものになりたいのに、必要以上に尊ばれて、センシティブで、触りにくくて、不自然に特別なものになってしまう。
自分にとって慣れてないものを「自然にそこにあるもの」として認識するのは殆どの人にとって難しい物なんです
じゃなきゃわざわざ哲学や宗教でその「自然にそこにあるもの」として認識する事について沢山語られたりする訳が無いんです
そういう訳で残念ながら「自然にそこにあるものになりたい」という望みはかなり厳しい願いと思われます
これが叶えられるような時ってのは多種多様な性愛が認められた社会どころか
「多種多様なもので占められている性愛」全体が多種多様な存在の一種に過ぎないってくらいの多様性に満ちた社会にならないと厳しいと思われます
あらゆる対象に対して使われる「Kawaii」は差別用語だとは思わないけれど
そうじゃなくて人間の女に対してだけ用いられる時の「可愛い」は差別用語だと思っている。
他の用法では多種多様な「可愛い」があるのに、この用法の時だけ何故か純粋に容姿に対する品評となり、中身は一切考慮されなくなる。
犬猫や雑貨や人間の男に対しての「可愛い」は造形以外の要素も考慮されるのに、人間の女に対する「可愛い」だけが異様。
特に20歳以上の女に対してとか、「美人」でいいのに昨今は、絶対に「可愛い」としか言わないから
日本社会が如何に女に対してだけ幼さに価値を置く、異常なロリコン社会なのかを思い知らされる…
昔は美人とか美女とか綺麗とかって言ってたんだよ…それがいつの間にか「可愛い」一辺倒に。
昔だと小学生くらいでも同級生間では「美人」という言い方だったと記憶しているし、容姿の美しさは造形が整っているという意味しかなかったが
今は「可愛い」一辺倒なので、単に整っているのではなく幼い造形である事が評価の対象となっている。
男に対する「イケメン」と違いすぎるし、この男女の容姿に求められる不均等さが気持ち悪い
そして女の容姿に幼さ「だけ」を求める一方で、中身については都合良く成熟しわきまえた大人である事を求めているから本当に気持ち悪い
服も女の方が種類が豊富
顔も女の方が多種多様に着飾れる
体型も女はムチムチ豊満やスレンダー美脚やムキムキ筋肉娘や小柄ロリ体型と色々なタイプに需要があるが男はまあせいぜい筋肉つけるくらい
肉体的価値において男が女に対してハンデがあるのは、そもそも「正答」とされるゾーンが女に比べて圧倒的に狭いのよ
話がズレてるようだが別に「女の方が男より美しい」みたいな話をしてる訳じゃないよ
女の方が男より「正答」が幅広いって話をしてんの
意味わかる?
子供が出来るため今より少し広めのアパートに引越します。嫁さんの体調と生活の利便性を考えて、今のところから少し離れただけのアパートなので作業自体はそんなでもない。ただ、一人暮らしの頃より物が多くなった上に嫁や子供のことを考えて家具の安全性や動線をこれまで以上に気にするようになりました。
これがとても大変だけど楽しい。
いま一番頑張っているのがキッチン関係。嫁が動けないのに加え、食事担当は基本自分が担っていましたからキッチン周りは全面的に自分のやりたいようにやってます。
たとえば食洗機に関しては、どこにどうやって設置しようかとこの数週間くらいかなり考えていました。今のアパートだとシンク奥のカウンターに設置してますが、次のアパートで同じようにすると蛇口と干渉する可能性がわかりました。最初の内見時は別に棚を作ってそこに食洗機を乗せる予定だったけど、地震で倒壊する危険性を考えてキッチン内部に置くのがベストだと考えました。キッチン内部の正確な寸法を計り直してどうすれば取り回しがよく安全におけるか考えることとします。食洗機に占領されて作業がしづらくなるのは本末転倒なのでどうバランスを取るか試行錯誤が必要です。
食器入れに関しても悩みました。今のアパートは小さなパントリーがあるのでそこを食器棚代わりにしていましたが、次の所はそういう設備がないためキッチン下を使うか食器棚を置く必要があります。でも既成の食器棚はあまりに重い上に高価。もしも子供が成長してまた引越すことになればそういう食器棚がネックになることは間違いない。なのでニトリやカインズのワイヤーシェルフにスタックボックス付けて対応することとします。
冷蔵庫の場所も奥まったところではなく入口に近い部分にするのが良いと思いますが、そこはもうすこし正確に寸法を測った上で決めます。
LDK部分には当初クッションフロアかジョイントマットを敷き詰める予定でしたが。子供や嫁の怪我防止や汚れ防止のために。ただDIYでクッションフロアを全体に敷いても4~5万かかる上に原状復帰時の手間も考えるとメリットがあまりないという結論に達しました。そもそもクッションフロアは決して足さわりがよいとは言えないので一部だけジョイントにしてこまめに掃除することで対処する予定です。
そのほかの家具家電も色々と悩みました。一人暮らし用の冷蔵庫を買い換えるときはひたすら多種多様な冷蔵庫を開け閉めしました。主寝室のエアコンはスペック表とにらめっこしましたし、自転車を保管するために初めてラブリコを使ったDIYにチャレンジするのでワクワクです。入居時だからこそできる掃除もいっぱいあるため、掃除用具や方法をひたすらググりました。youtubeはためになりますね。デスクトップPCのネットワークは悩みましたが、無線LANだと他と干渉したりして安定しないなと思い有線ケーブルを取り回すこととします。
今のアパートに関しても退去前に可能な限り清掃して原状回復を努めるようにしています。次のアパートでも役立つと思って思い切って風呂場のエプロンまで開けました。だんだん掃除の腕が上がってます。引越しの荷物も徐々に揃ってきていますし不要な物もこれを機にどんどん捨てています。数年ぶりにクローゼットを整理すると本当に要らない物が多いなって。
こうやって考えて行動に移すのは、もてる知識と技量を試されているようで本当に楽しいです。努力した分だけ自分の生活レベルが上がるし今までの生活に反省点も見えてきます。こういう機会が無いとDIYにも挑戦できませんでした。なので引越しは予想以上にメリットが多い行事だと思えます。一度生活をリセットして考えると見えてくる物が多々あるんですね。
ただ、相変わらず行政関係の書類は大変。住民票や免許証だけなら日曜を潰せばなんとかなるけど、自動車関係はそうも言えない。車庫証明を警察に申請した上で受け取って、さらにそれを基に車検証の住所変更をする必要があります。15日以内ってあるけど承諾証明書の時点を貰う事から考えれば車庫証明自体まで結構時間かかるので逆算してやらないと無理でしょ。まあ車庫証明が1ヶ月しか有効ではないのが地味にいたい。
前回の引越しでは譲り受けた車の移転登録やナンバーの変更も全て独力でしました。業者も使わずに委任状から申請書類まで全て揃えたうえで陸運局まで行ったのは良い思い出だけど、大変なだけで学びはあまり無かったですね。そしてこれはまだ1人だったから出来たこと。今回は嫁さんの車もあるし長時間家を空けるのが怖いから業者にやって貰おうと思ったけど、これが1台3万もかかるってのがびっくりです。いや確かにあの書類をもってあんなごった返している陸運局とかにいくのは大変ですけど。2台分で少なくとも6万はちょっと厳しい。たぶんどちらかは自力で行くことになるでしょう。
ワンストップサービスもありますが結局は車検証を取りに行かないと駄目らしい。郵送サービスは来年からスタートとのことでつくづく間が悪い。ちょうど自分の車検も更新したばかりなので引越しタイミングって大事だなって思います。
昨日初めて村本の独演会に行ってきた。
きっかけはBSでやってたドキュメンタリー「村本大輔はなぜテレビから消えたのか?」を見たこと。
(https://www.twellv.co.jp/program/documentary/bs12-sp/archive-bs12-sp/bs12-sp_06/)
ザマンザイで優勝した頃のウーマンラッシュアワーのネタは好きだったが、最近のTwitterでの振る舞いなどはなんとなくあまり好感も持てないでいた。
が、ドキュメンタリーを見て一度生で見てみたくなった。
妻に村本独演会に行ってくると告げると「洗脳されてはダメだよ」と言われ、苦笑した。
会場は大阪の定員40名のバー。メディアでの印象から、カルト的な雰囲気だったらどうやって逃げようか、などと謎の不安と緊張とともに入店するが、至って普通のお店だった。簡単なステージの上にはイスとマイクのみ。たまたま開演前に少し話した隣の席の方は、ウーマンラッシュアワーのファン歴10年以上の方だった。開演予定時刻ほぼちょうどに、特に派手な演出もなくサラッと村本は現れた。
延々と政権批判でもされたらどうしようと構えていたが全くの杞憂だった。ただただ単純におもしろかった。圧倒的な才能を感じた。1時間村本はひとりで喋り続け、ずっと笑いを取り続けた。こんなに笑った1時間は初めてだった。
内容については書かないが、ポップな話題から風刺のきいた話題まで多種多様であった。正直、その考えは違うんじゃないのと感じる箇所もあったが、あまりそこは気にならなかった。ただただおもしろかった。
終わった直後の感想は、こんなにお笑いの才能があって、こんなにお笑いを好きでいる人がテレビにもラジオにも出ないなんてもったいないな、だった。でもそれを隣の古参ファンの方に言ったら「村本さんはテレビよりライブで輝くタイプだから」と言われた。テレビが頂点な訳じゃないなと反省した。
帰宅後家族に感想を聞かれ、「村本さんは間違いなく天才だ。メディアのせいで世間は彼を誤解している。一度君もライブに行くべきだ。そしたら彼のすごさが分かるから。」と熱弁した。
「しっかり洗脳されてるね」と妻には笑われた。
なんか一部で時代に乗れない消えるべき店とか書いてあったからなんか書く。ちなみに読取り型で対応していた。リーダー型導入は個人店ではキツい。クレカは代行経由で対応している
止める理由は中途半端だから。利用率はバーコード決済全てでクレカとトントン。PayPay単独はその半分くらい。この時点で旨味は少ない。もちろん現金が一番多いので釣り銭は発生する。どういう事かと言うと釣り銭のコストが別に減らないなら現状の利用率と手数料を鑑みれば何一つ楽になっていないのだ
お客様から直接聞いた訳ではないが「バーコード決済あるから買い物しよう」という客はほんの一握りだろう。大半はどの支払い方法でも良いか現金希望だ。ほんとオペレーションだけが増えて店に大した利点どころかクーポン要求と大して使えないデータだけ寄越したサービスだった。そもそもコンビニとかスーパーみたいな多種多様な商品扱う場所ならともかく、専門店のビックデータなんて何となく店主が感じてた事の裏付け程度だし、それは業界で昔から言われていた事そのままだ。足りない部分は業界紙とニュースで補える
使う側も大幅還元とかでしか使わないだろうし、恐らく近いうちにチャージ上限とか上がって使わざる得ない状態になると思うよ。それくらい個人店は止めるし、残る店は別に覚悟決めたわけじゃなく年内様子見だと思うよ。
4ヶ月前、僕は合同誌の誘いを受けた。
内容はSさん原作のアンソロジー本、ようは「うちの子二次創作合同」だ。少しイヤミっぽい書き方だが作品名をボカす為、何卒容赦いただきたい。
「うちの子」とは大抵の場合その人が創った一次創作キャラクターの事である。それの二次創作本を原作者主催で作るのだから公式アンソロジーと呼べるかも知れない。
かなり内輪ネタ感はあるがSさんとリプライを交わしたこともない自分に声がかかったのは意外だったし嬉しかった。
数年前にHPにあったイラスト、ショートストーリーに強く惹かれ何枚かファンアートを書いたことがある。それを見て招待してくれたのだという。
自分の作品が見られ評価されるというのは創作者にとって一種の麻薬である。僕は気分が高揚するのを感じながら了承の旨を伝えた。
自分で言うのは変だが僕は二次創作が得意だ。真骨頂と言ってもいい。
映画、小説、漫画、動画、あらゆるコンテンツを見ても一番最初に考えるのは「自分ならどんなストーリーを作るか」だ。
原作者が組み上げた土台の上で自分の思うがままにストーリーを展開させるという楽しみ方。オリキャラを出すわけではないのでメアリースーとは違うと思う。
子供の頃から日常的にやっていた事だが、多種多様な作品を見てネタの引き出しもバラエティに富んだ今、考え出すと止まらなくなる。
久しぶりに物語を読み返し、設定を思い出したところで僕の頭の中では無数のアイデアが浮かんでいた。
シリアス系、ギャグ系、まったり系……どれも捨てがたいが一番得意としているギャグで行く事にした。
構成を整える為、メモ帳に思いついたネタを書き出していったのだが珍しく指が止まった。
僕はネタ出しの際、とにかく頭の中のものを全て出し切ってから取捨選択を行うので何故この段階で固まっているのか自分でも分からなかった。
最後に入力した行を見返した時、自分の異常さに無意識のうちに反応したのだと理解した。
ニュアンス的には銀河鉄道999のメーテルが「行くわよネジ!」と言っているようなネタだった。
Sさんの作品は人の生き死にが関わってくるシリアス系の作品だ。こういった作風に対する二次創作ではブラックユーモアや軽いノリを入れるのが僕の好みだった。
商業で展開してる作品(同人だが東方Projectも含む)の二次創作を行っていたときは気にしていなかったが、ここで初めて原作者の存在を思い出した。
このネタを見たとき、Sさんはどう思うのだろう。怒るだろうか悲しむだろうか。
自分が原作で主催の合同誌だ。載っている作品は全て見るだろうし、第三者からしても「Sさんはこの人の作品を認知している」という事になる。
それは僕にとって非常に不都合だ。
今までやってきた二次創作は原作が手の届かない大手だったからこそ自由にやれていたのだ。
少々グレーではあるが二次創作者は同人即売会などでひっそりと本を出し、原作サイドは見て見ぬふりをする。この暗黙のルールに僕は守られていた。
だが今回は違う。原作者に認知され、認知されたことも認知される。同人であって同人ではないのだ。
二次創作ということに変わりはないが僕がやっていた二次創作とは全く異なるものである。
咲の天江衣が手足を折られている絵も描いた。東方のミスティアローレライが呪歌を歌う本も描いた。
原作ファンから嫌悪感を抱いたコメントをもらった際は「嫌なら見るな」のAAと同じポーズをして全く気に留めなかった。
何故なら悪意を持って絵を描いているわけではないからだ。後ろめたさや罪悪感は微塵も無い。
ただ思いついたから描いただけ。絵のメッセージ性を考察するだけ無駄だ。何も考えてなどいないのだから。
思い返すと僕は一次創作をやった事がない。だから一次創作者、原作者の考えが分からない。
以前エヴァンゲリオンの最終章を観に行ったが映画館を出て考えたのは二次創作のことだ。
作品が織り成す表現、意図、メッセージは頭になかった。ただボケっと観ていただけで精々CGのクオリティにビックリしただけだ。
その後暫くするとYouTubeに考察動画がアップされ、それを観て理解した気になった。作品の深みが分からないまま。
一次創作において一番大変なのは世界観、キャラクターの設定だと思う。優れた設定さえあればほぼ自動的に物語が出来ていくというのを作家の誰かが言っていた気がする。
Twitterで見たのは複数のキャラクターを何もない部屋に閉じ込めた時、どういった反応を示すかが瞬間的に思いつく作品は優れているというものだ。
自分の好きな作品をいくつか試してみたところ面白いようにキャラクターが動き出す。個性豊かで磐石な設定が築かれている証拠だ。
個人の感性が関わってくるので同じ作品でも結果が異なるのは当然だがキャラクターの性格上ありそうなアクションを起こすはずだ。
何もない部屋ですらちょっとした物語が始まるのだから二次創作というバーリトゥードでは無限に話を広げられるだろう。
二次創作しかしてこなかった僕は一次創作における土台の作り方を知らない。コツなどではなく根本的なものから知らなかった。
やっと絞り出した設定を見返しても有名作品の劣化コピーか、足して割ったような歪なキメラで作品としてのまとまりが無い。
他人の作品を利用して楽な工程だけやっていたから至極当然の結果と言える。
僕は感受性、0から創りだす発想力に乏しいのかもしれない。曲がりなりにも長いこと創作活動を行っていた人間が創作に向いていないとは皮肉なものだ。
つい最近ニコニコ動画で面白い作品を見つけた。『【クッキー☆ボイスドラマ】魔理沙とアリスの自己矛盾☆』という動画だ。
https://www.nicovideo.jp/watch/sm36353098
例のアレ、と呼ばれるジャンルのクッキー✩という作品をテーマにしているらしい。
時が流れるにつれ変化していく界隈や情勢を風刺したドラマ、だと思う。
元ネタの名前こそ聞いたことはあるものの、詳細は知らないので内容に関してはあまり理解できなかった。
ただ主人公の女の子が二次創作ならではの悩みと葛藤するシーンに少し共感を覚えた。
元々一次創作を行っていた女の子が、甘い誘惑に誘われ二次創作に手を出すところから物語は始まる。
作品の看板を借りるだけで今まで伸び悩んでいた絵の閲覧数が増えたことに気を良くした主人公はどんどんと沼に嵌っていき、二次創作に依存していく。
ある日描いた絵を見返すのだが「本当の自分が描いた絵」が一つも無いことに絶望し二次創作からの脱却を図る…という話。
特に主人公が序盤で一次創作をしていた時は左利き(ペンを左手で持っている)だったのに、二次創作を行うようになってからは右利きになり、
クライマックスでの本当の自分を取り戻したシーンでは左利き(マイクを左手で持っている)に戻ったりと主人公の心情が視覚的な対比として描かれていたのが印象的だった。
動画は立ち絵を手や足などの細かいパーツに分割し動かす切り絵アニメーションをメインで使っているようだ。
小規模の制作グループで45分以上あるアニメを作るなら確かに合理的である。それでも膨大な手間暇がかかっていることに違いはないが。
今まで見てきた作品とは違い、鑑賞後は何も考えられなかった。ある意味生まれて初めて心の底から作品を楽しめたのかもしれない。
コメントを見る限り様々な小ネタが含まれているようで理解できなかったことが一層悔しく思う。知っていれば多角的に楽しめるのかもしれないが今の僕には十分面白かった。
作品の表現、演出一挙一動に注目し、感想が出てきた事に自分でも驚いたのを覚えている。僕にとってそれくらい強烈な体験だった。
これまで僕がやってきたのは作中の言葉を借りるならば「安易な二次創作」に該当するだろう。中身がなくハリボテみたいな創作だ。
話を戻すがSさんの合同誌の誘いは断ることにした。昨日謝罪のメッセージを送信し納得してもらった。自分の無責任さと幼稚さで迷惑をかけてしまったこの事は二度と忘れないだろう。
僕なりに考えたが健全な創作には感情が必要なのだと思う。嫉妬、欲望、勿論熱意でもいい。プラスでもマイナスでも構わないから感情という名の原動力がいる。
問題はそれが狂気的でなければならないことだ。中途半端な嫉妬心、欲、熱意では筆を折ってしまうだろう。イカれてるくらいがちょうどいいかも知れない。
そして健全な二次創作には矛盾が付きまとう。原作設定との矛盾、創作においての矛盾、先程挙げたコミケの暗黙のルールだって本来は矛盾している。
その矛盾を上手くコントロールしバランスを取らなければ良い結果には繋がらない。狂気がエンジンで矛盾がアクセルブレーキ、どちらも故障したらダメだ。
狂気と矛盾、この二つを安定させられる人間はほんの一部しかいないと思う。筆を置いて時間が経たないとやる気が出ない人がほとんどだ。
僕はRTやいいね数はどうでもいいと思っているし、フォロワー数が数万人の絵師に対して特に何も思わない。原作は二次創作のツールとしか思ってないし考えなしに描きまくった。
だから失敗した。こうなってしまった。自分が創作活動で過ごした日々は空白だったのだ。
あなたの二次創作はコピーペーストを繰り返したパロディまみれになってませんか?成人向けなら自分が好きな性癖を詰め込めていますか?本当に創りたいものが創れていますか?
二次創作には二次創作だけにしか味わえない面白さ、奥深さがある。創作に携わる人間なら知っているはずだ。
ただ楽しいからといって自分を見失ってはいけない。思考を止めてはいけない。創作者としての軸を保ち続けなければならない。