はてなキーワード: 先入観とは
数年前、自分の居住しているド田舎県の中の、これまた見渡す限り田畑が広がるような農村地帯を通る道を車で通った時、のどかな田んぼの中を流れる川の河川敷に、スケートボードのトリックを行なうための、木箱で作った斜面やハーフパイプ、金属製の手スリのような物(あれ、何て呼ぶのだろう?)が設置されているのを発見した。暑い夏の日だったが、そこでは若い男の子二三人が熱心にスケートボードを楽しんでいた。
何となくスケートボードは都市部の文化だと先入観が有ったので「うちみたいな田舎でも、あんなスケートボードをするための施設が有るんだな。スケートボードをする子たちがいるんだな」と、軽く驚いた記憶がある。
自分も田舎出身の人間だから、若い頃の自分の思い出を重ねて「あのスケートボードに熱中している男の子たちも、保護者や教師から『そんな不良の真似事をして』とか何とか、無理解な偏見を持たれて困ったりしているのだろうか」と勝手に想像したりもした。
今回の東京五輪でメダルを獲得した少年少女たちは、自分の貧弱な先入観や偏見とは全く異なる、普通の子供たちだった。何となく五輪に対しては、マラソンの円谷幸吉のような悲壮でネガティブなイメージが私の中には有るのだけれど、東京五輪のスケートボード選手たちは、それとは全然ちがっていた。
自分の技(トリックと言うんだっけ?)が成功した時も失敗した時も笑顔だし、順位を争うライバルであるはずなのに、他の選手が技を成功させると自分が成功したように歓声を上げるし、仮に他の選手が技を失敗してガッカリしていたらハグして励ましているし、解説の人も難しそうな技に果敢に挑戦する選手たちを「攻めるねえ」と楽しそうに賞賛しているし、本当に素直に「これがスケートボードという文化なのか。何だか良いなあ」と思った。
ジャンプしたり、スケートボードをクルクル回転させたりすることは、運動全般が苦手な私には想像も出来ない離れ技に見えるのだけれど、その技よりも何よりも、彼らの態度や振る舞いこそが何よりも軽やかに見えた。
あの日、田んぼの風景の中に有るスケートパーク(と呼ぶのだろうか?)で一所懸命にスケートボードをしていた男の子たちが、今回の東京五輪の話題で親や教師と話が盛り上がって打ち解けていたら良いな、少しでも生き易くなっていたら良いなと、そんなことを思った。
オリジナルの日本語版が出て時間が経ってからのリリースだから、流出避けのために資料を絞ってるわけではないだろうになぜこんなに誤訳が多い……
(引用はすべてスーパーダンガンロンパ2とdanganronpa2より)
"(前略)vigorously slammed the button more times than he needed to."
砂漠のオアシスのようなさわやかな誤訳。しかし日本一ソフトウェアが免罪されるわけではない。
「斬新なローションプレイだね!じゃ、脱いでおいたほうがいいかな?」
"Ooooh, fresh coconut lotion! Would it be better if I take off my clothes first?"
ココナッツの汁をローションとして使うことが斬新だと言ってるのに英語版ではココナッツ汁が新鮮ということになっている。
確かに採りたて新鮮だがそういうことを言ってるんじゃない。
「嫌な手だな…」
彼の言葉は手に対するものに見えるが実質は直前の相手の発言への呆れというかツッコミというかだろう。
しかし英語版ではその発言に同意or黙認していることになり意味が違ってくる。
「ほら、醜い顔だよね… 」
"Look, he has such a horrible expression on his face, don'tcha think...?"
心をぞわぞわさせるどぎつくて悪意あるセリフがごく普通の描写になっている。
直訳してくれてればよかったのに。
"Tch! Nosy bitch...!"
細かいヤロー呼ばわりされているのは彼の会話相手(男)でありbitch(女)ではない。
確かに女子の話題は出てくるが、このシーンで細かいといえるとしたら男の方である。
この二つによりこのbitchはほぼ間違いなく話題に出た女キャラを指すと思われているだろう。
ちなみにbitchは性的な意味を含まないことが多いのは知っている。というかこのゲーム内でのbitchはすべてただのクソ女か意味のない悪態として使われていた。
再追記終わり
"But...it's an academy that recruits only exceptional students from around the world, right?"
辞書を引かないのだろうか。
全体的に日本語がよくわかっていない訳が多い。
「おいっ、何をしているっ!」「やめろっ!!」
有能で状況を正しく把握していた彼だが英語版ではとろい間抜け。
「なんだよ…オメーもあの窓が気になんのか?」
なにをどうやったらこんな訳になってしまうのか見当もつかない。
「なんだぁ…使えない…」
"Aww...how useless..."
原文は話し相手を無能呼ばわりしているが、英語版ではそれ(物)は壊れているから使用できないという意味のようだ。
「このふとどき者っ!わたくしはそんなに膝の軽い女ではありません!」
"Imbecile! I am not some woman with flexible legs!"
「惜しい!もう少し上です。」
"O-O-Of course you're not! You're much classier than
「けど…速く走れそうだな。」
"With legs like those, I could prolly do the splits real easy."
英語版はflexible legsなるドンピシャな言い回しがありながら活用(ancleでもhipでもいいだろうに)しないでつまらない訳をあてた。
「目覚めたぞ!」
"I have awoken!"
クラスメイトの変態化を目撃した驚きが英語版では起床報告になっている。
本筋と関係ないのが救い。
「わからないんだったらいいよ…わからないまま終わればいいよ…」
"It's fine if you don't understand... You can just see the end without knowing."
危うく見逃すところだった。感じたモヤモヤに従って立ち止まってみてよかった。
日本語版では「謎が解けないまま終了」だが英語版では「終了することに気づかない」。
「ボクらは昔から、そういう風に教わってきたはずだよ。」
「直接的に言葉で言われなくたって、ボクらを取り巻く世界を見ればわかるよね。」
「テレビやネットや新聞から垂れ流される“希望溢れるメッセージ”がそう言ってるもん…」
「勝てない人間も…頑張らない人間も…頑張っても勝てない人間も…」
"For a long time, humans have been taught that if you try hard enough, you can accomplish anything."
"Even if we weren't told this directly, you'd know it just by looking at the world around us."
"The Internet, TV, and newspapers are overflowing with hopeful messages that say exactly that..."
"But people who can't win...people who don't try to win...people who try their best and still can't win..."
気づいた瞬間血の気が引いた、個人的に最低最悪の誤訳。機械翻訳にかけてもこうはならない。
元の文章にありもしない"if you try hard enough, you can accomplish anything"と"But"を入れようとした時点でおかしいと思わなかったのだろうか。
また英語版だと彼は"Internet, TV, and newspapers"に賛同していないことになるが、それなら"hopeful messages"と形容するのは不可解だと気づいてくれよ。
訳者は単純に読み違えたのか勝手に自分の主義主張を入れ込んだのか。
個人的には中間をとって、先入観に惑わされて誤読したのだろうと思っている。
確かに英語版は敵役とかちょっと厨二かひねくれものの主人公とかライバルが言いそうな、または苦い現実を地道に描くような物語によく出てきそうな言葉だ。
でも彼はそうじゃない。
彼を、ちょっと幼げで熱情的で小物っぽい狂信者を表したセリフをよくもこんな訳にしてくれたものだ。
"It's like the smug feeling you get when you explain something
同時通訳者の逸話で、どこかに招かれてスピーチした人が日本語に訳しにくいジョークを言ったときに
「この方は面白いジョークを言いました。みなさん笑ってください」と言って
その場を丸く収めたという話を思い出すが、ゲームの訳者は客に笑えと頼む仕事ではない。
確かに英語版もどことなく彼女がいいそうなセリフだが日本一ソフトウェアの罪が軽くなるわけではない。
「オメーがオレを殴んだよ。」
「だってお前…いつも俺を信じてなかったろ?」
良いシーンで誤訳。二つも誤訳。どうしてそうなるのか意味不明すぎて恐怖すら感じる誤訳。
詳細は伏せるが日本語版ではあるキャラの口調が一時変わる。それはいいけど英語版で微妙に追従してるのが困る。
英語に口調の違いなどほとんどないのに無駄に一部だけ変更してるから違和感しかない。誤字脱字だと思った人が多いだろうなあ、あれ。
ささいなことだとは思ったがここはあえて日本語版に背きその変更は削っていつもと同じ口調にしてもらった。
「そうか? 栄養ドリンクに見えなくもないけど…」
"Really? It looks like some kind of dietary supplement to me...Protein powder, maybe...?"
ぷっwwぷろていんwww
リアルで吹いた訳。その人がプロテインなんて持ってると思ったか?
ここで出てくるのは茶色で小さめの瓶。彼にはオロナミンcやデカビタのようなものに見えたのだろう。
しかし他の人に尋ねたところ、海外にはそのような容器に入ったエナドリはないらしいからプロテインにされてても仕方がない。
ちなみにこの訳の違いによる実害はない。
田中のセリフはなぜか軒並み高品質だった。ソニアのほとんどのネタが再現されていないのと鮮やかなコントラストを成していた。
左右田の口癖は「メンドクセー」というものだが、残念なことに英語版ではこれが毎回違う単語で訳されており口癖になっていない。
彼が手間や時間がかかる作業についてそう表現したことは一度(あいまいなのを含めれば二度)しかない。
あとは全て、怖い・不安という気持ちのときにのみメンドクセーと言っている。
臆病だったり地味に泥臭くこつこつ努力したりする左右田が恐怖を面倒という言葉に変えることでのんきで軽薄なパリピを装っている描写だと思っている。
ちなみに、一度だけの純粋に手間がかかることをメンドクセーと呼ぶシーンは
みんなの手間を省こうと努力して成功したがそれでも手間が残ってしまったときの
「メンドクセーけどヨロシク(意訳)」だからむしろ上の思いを強化している。
友達と仲間はそこそこ区別して使われているが英語版では全てfriendになっている。
なんとかしようと思ったが仲間をうまく表せる言葉は英語にはないようだ。
他の人に聞いたところそこの言語には仲間にあたる言葉があるようで一度は喜んだ……が
実際のところとあるきっかけからその言葉は廃れて今ではほぼ皮肉にしか使われないと言われ不意に
その人はゴッド・オブ・ウォーに戻しておいたそうだ。
それを英語版では円をそのままドルだったり"you don't speak English"だったりして違和感しかない。
ありがたいことに他の人はこれもyenに直したり"Don't you understand in human terms?"という意味の訳文にしたりしてくれた。
ネタバレと他の人の感想で先入観を持ちたくなかったのでなるべく早く見ようと土曜日の朝一に行きました。
一番好きな作品はぼくらのウォーゲーム、次点が時かけ、その次がサマーウォーズ。
サマーウォーズは昨日の金曜ロードショーで久しぶりに見たのですが、12年前というだけあって今見ると結構キツイ部分もあって少ししょんぼりしました。
好きなシーンはいっぱいあるんですけどね。
典型的な細田監督が脚本を手がけるようになってからの作品があまり好きではない人間です。
おおかみこどもで「う〜ん」となり、バケモノの子で盛大にがっかりしました。
それはわたしが作品のターゲットから外れてしまったということなので、それ以降は少し寂しく思いながら劇場に見に行くことはありませんでした。
それなのに何故、今回劇場に足を運んだか。
一つは、描きたいと思っている作品の題材被る可能性があり、それがないかチェックしたいと思ったこと。
もう一つは、主人公のアバターであるベルのデザインをディズニーのジン・キムが手がけたという情報を目にしたからです。
細田作品でよく言われている「ヒロインへの興味の無さ」が、一部他者に委ねることで、もしかしたら今回は解消されて好きになれるかもしれないと期待したのです。
それ以外は流れてくるCMくらいで、ほぼ事前情報なしで見に行きました。
前置きが長くなりましたが、決してアンチがアラを探しに行った訳ではなく、むしろ「おもしろかった!」と思いたい気持ちで見に行きました。
がっつりネタバレしていくのでご注意ください。
仮想空間という3Dと相性のよい舞台設定もあり、2Dと3Dの違和感も少ないです。
映画の一つの見どころでもある竜の正体探しなんですが、これは細田作品今まで見てきた人はすぐわかっちゃうんじゃないでしょうか。
わたしも早々にわかってしまって、もうちょい誰なんだろうって楽しみたかったのが正直なところです。
それはさておき、主人公すずのAsの名前「ベル」からも分かる通り竜そばは美女と野獣のオマージュが多く登場します。
オマージュ自体は別にいいのですが、ただ単に竜と女の子の二人が美女と野獣っぽいから表層的になぞっただけいう印象を受けました。
同じ美女と野獣をオマージュしたシェイプ・オブ・ウォーターは、野獣がハンサムな王子にはならず最後まで野獣のまま二人が結ばれ、本家を踏襲した上で独自のストーリーになっていました。
ですが、竜そばはそれが出来ていません。
そもそも竜が作中で醜いと言われてますけどかっこよくないですか?
怖いかもしれないけど醜くはないでしょう……。
人間だらけの中なら浮くかもしれないですけどUの世界みんな色んな格好ですし。
竜の野獣である要素が薄く、本家でも言われているルッキズムの助長がむしろ強化されてしまっているようにも感じられました。
Uならまったく別の人生を生きることができると謳っているのに、アバターは生体情報から自動生成で自分の意思では自由に出来ない。
そして見た目で差別を受ける。
仮想空間は理想の世界ではなく現実の地続きで、ある意味リアリティはあるのかもしれません。
竜のあざやベルのそばかすが現実とリンクし、すずに竜の正体を気にさせ、探せるようにするために必要だっただけではないでしょうか。
細田監督はこういったシーンを描きたい!といったところからストーリーを膨らませていくタイプに見えます。
その手法は全然アリだと思うんですが、キャラクターやストーリーがそれを実現するための駒に収まってしまっています。
特に脇役はひどいです。
ルカちゃんはすずとベルとのギャップが際立つよう、現実での立ち位置を対比で表すため。
ヒロちゃんはすずをUの世界でスムーズに活躍させるための便利屋。
しのぶくんに手を握られて学校中の女子から叩かれ炎上する際のゲームのような演出も力が入っていましたが、あまり必要性を感じずやりたかっただけのように見えました。
敵役の魅力も乏しいです。
明らかな噛ませ犬だと竜の強さが伝わらず、バトルシーンにも緊張感が生まれません。
自警団とのバトルはストーリーの本筋ではないですが、アンベイルという重要な能力を持っています。
そんなキャラクターの作りが蔑ろなのはマイナスでしかありません。
何故Uの管理者でもない彼らが、キックやブロックや削除ではなくAsのオリジンを暴く能力を持っているのか。
権威がある印象をつけるためスポンサーが多数いる描写がありましたが、それでは説明になっていません。
おそらくストーリーが進めるため、ベルがすずになって歌うシーンを作るために作られたのだと思います。
それでも説得力のある設定を付随してあげればいいのですが、それがなされていません。
描きたいシーンとシーンの間をとりあえず大きな齟齬が出ないように埋めているだけのストーリー。
とりあえずでは見せ場に行く前に気持ちが躓き、せっかく力を入れて描かれたシーンが空虚に感じられてしまいます。
メインストーリーであるはずのすずの成長はこれでもかと言うほど分かりやすく描かれています。
母が死んで歌えなくなった
↓
Uの世界なら歌えるようになった
↓
↓
母のように他者を救えるようになった
他者との関わりから閉ざされていた心が開いていく王道のストーリーを美女と野獣でオマージュし、今までやってきた得意なものを詰め込んだ今回の作品。
新しい試みは何かあったのでしょうか?
でもそれ以外は既視感のあるものがほとんどで驚きがありませんでした。
唯一あるとすれば音楽へのこだわりでしょうか。
それもライブシーンに至るまでのストーリーで白けてしまうのがあまりにも勿体ない。
わたしにはケモとショタとクジラと電脳世界でのライブが描きたかったことしか分からなかったです。
結論としては前置きで書いたものと変わらず、細田監督は脚本を他者に任せるか、共同にした方がいいと言うものになってしまいました。
残念ながら今回もやはりわたしはターゲットにはなれなかったようです。
あくまでわたしのものさしがストーリーに重きを置くのでこういった評価になってしまうだけで、他の評価軸で見れば全然楽しめる作品であると思います。
まだ他の方の感想を読んでないので、どれくらい自分との感じ方どれくらい差があるのかちょっと楽しみです。
書き慣れていないので読みづらかったかと思いますが、最後まで読んでくださりありがとうございます。
この体験を経て、私はある理解を得た。「正しい戦略は、その時々の環境、文脈、空気によって異なる」ということだ。世の中にはいろんなルールや常識、慣習があるけれども、それらをストレートに適用すべき場合もあるし、必要ならばかなぐり捨てないといけないこともある。
アブラハム・マズロー(欲求の五段階ピラミッドの人)の『完全なる経営』にこんなことが書いてある。
‟彼らの心理学によると、最善の思考や最善の問題解決ができるかどうかは、問題を含んだ状況を、期待や予想、憶測などを交えることなく、この上なく客観的な態度――先入観や恐怖、願望、個人的な利害などを交えない、神のような態度――で見ることができるかどうかにかかっている。…(中略)…解決すべき問題とは目の前に存在する問題であって、経験によって頭の中に蓄えられた問題ではない。頭の中に蓄えられた問題は、昨日の問題であって今日の問題ではなく、また、両者は必ずしも一致するものではない‟ p.129-130
‟さらに範囲を広げれば、家庭生活、すなわち妻や夫や友人たちとの関係についても、この方法を当てはめることができる。各状況における最善の管理方法とは、各状況において最もよく機能する管理方法のことだ。どの方法が最善であるかを見きわめるためには、予断や宗教的な期待を排した、完全な客観性が求められる。現実的な知覚は現実的に行動するための必要条件であり、現実的な行動は望ましい結果を生むための必要条件なのだ。‟ p.132
マズローは、物事をありのままに見つめて、現実的に考え、行動することが成功への鍵だと言っている――と私は解釈した。
イケメン先輩は結局、条件付きの免職処分になった。黒服が嬢と付き合った場合の店への罰金50万円と、Tちゃんの彼氏への慰謝料として50万円、計100万円を返済したら辞めるという処分だ。店長は、翌日のミーティングの席において、みんなの前でイケメンに公言した。「約束を破ったら組に売る」と。店に対する裏切り行為は許さないという態度を明白にしたのだった。
これと、上の引用文がどう関係あるのかというと……この後すぐ、私と同学年のアルバイトの子が、S店の備品を盗んでいたのが判明した(立命館大学に通っていたので、以下リッツとする)。定期的に、ヘネシーなどの高級酒(そのうち廃棄される飲みかけ。キッチンに置いてある)や、午後の紅茶や炭酸水やチーズその他をくすねていたらしい。その犯行を見つけたのは、皮肉にもイケメン先輩だった。
そのリッツは、イケメン先輩の時と同じく、閉店後に一番奥の席につかされた。最初の数分は、あの時と一緒だった。坦々とした、もの静かな事情聴取だ。その近くにM主任が座っていたのも同じだ。
違ったのは、私も主任と一緒に丸椅子に腰かけていたことだ。リッツの普段の行動に関する参考意見を述べることになっていた。
別にリッツは、良くも悪くもない、普通の奴だった。口数は少なかったけど、まあ真面目かなという印象だった。サボっている様子はないし、店の女の子に声をかけるなどの御法度もないし、当日遅刻や欠勤もなかった。
でも、人間とはそういうものなのだ。裏で何をしているかわからない。人間は言葉ではなく行動で判断すべきという金言があるが、それでも不十分だ。どんな人間にも裏がある。
10分ちょっとが経過した。私の供述も上の通り述べていた。その間、盗んだ物の確認と弁償代の話をしていたように思う。お店で無くなったとわかっているものが時価8万円相当(私の個人的計算では3万円~4万円相当)とされて、ほかにも盗まれた物があると仮定して、倍額の16万円を1か月以内に弁償すれば警察に被害届は出さないという内容で決着した。
最後に店長は言った。「リッツ君。今日が最後の勤務日だ。もう来なくていい。けど、ほかのお店に情報共有とかしないから、働きたかったら別のキャバで働いてもいいよ。今回は残念だったけど、また成長したあなたの姿を見たい。それで、いつかまたお客さんとしてうちに来てくれたら嬉しい」という言葉でお開きになった。
当時の私は、「おかしいのではないか!?」と思った。当時のS店の黒服に課せられる罰金額は、記憶の限りでは以下のとおりだ。
・当日遅刻 5,000円
・当日欠勤 10,000円
・店の売上に影響するトラブルを起こした場合 時価(これが上記の慰謝料)
リッツは規定どおりの罰金を科されなかった。被害額のみだ。しかし、イケメン先輩は規定どおりの罰金のうえボコボコにされている。
当時の私は腑に落ちなかった。後に推測したことだが、店長には以下のような思考順序があったのではないか。
①リッツを殴って、25万円+16万円を請求したうえで脅す(イケメンと同じ対応)
②リッツが立命館大学の学生課もしくは先輩もしくは親に相談する
④罰金は減殺される可能性が高い。警察に通報されたら逮捕リスクあり。
上記①~④が成り立つならば、リッツに対して甘い対応をするのが正しい。そう読んだのではないか。
店長は、自他の権益に対してストレートな人だった。取れるモノはきっちり取っていく。悪く言えばがめつくて、善く言えば組織のことを考えている。
今回の件だと、警察に被害届を出してもS店には一銭も入らないし、リッツが問題行動を起こしたことをほかの店に情報共有するメリットはないし、彼がほかの店で問題を起こしても当店には関係がないし、リッツが負い目を感じていれば社会人になってからS店でお金を使うかもしれない。
※社会人になった今では、このような考え方は極めて短期的かつ自己本位的なものだと感じる。木屋町で風俗営業を行うすべての店の利益を考えれば、リッツは警察に突き出すべきだったし、他店にも情報を共有すべきだった。こうした当たり前のことができないほどに、風俗業界というのは生存が厳しい世界なのだ。
憶測だが、店長には過去に痛い経験があったのかもしれない。16万円でも十分に得をしているからそれで済ませる。そういうことだ。
一方で、イケメン先輩は、いわゆる「身分がない」タイプの社会人だった。だから、ルールに則った対応を採る(暴力のうえ正規の罰金を課す)のが正しかった。
私は今、地元の広島で地方公務員をしている。この仕事は、公平とか中立とか平等が叫ばれる業界ではあるが、確かに、市民や企業を公平に扱わないことが正しいケースがあるのだ。例えば、地元を盛り上げる活動をする部署が大きいイベントを開催する折には、成功のキーパーソン及びその所属団体に対して相応の便宜を図る。近年の例だと、「全国菓子大博覧会」や「広島てっぱんグランプリ」といったものだ。
上記の「成功のキーパーソン及びその所属団体」について、関係者を良好な立地に出店させたり、相応の額の契約を用意したり、行政内組織で要職に就けたりする(教育委員など)。
一般市民や企業を不公平に扱いたいからやっているのではない。公平に扱うのが長期的には一番正しい戦略なのはわかっている。これは、組織目的を達成するために必要不可欠な過程であると上の人間も下の人間も判断したからそうなっている。
反対に、戸籍課や税務課や医療課などの住民対応を行う部署においては、「融通が利かない」などのクレームをどれだけ食らっても、ひらすらに法律や要領に従って仕事をやり続けるのが正しい戦略ということになる。特定の人をひいきしても自治体にとってのメリットは薄いし、逆に訴訟リスクがあるからだ。
キャバクラでの仕事は正直キツかった。嫌なお客さんには絡まれるし、たまに一気飲みを要求されるし、人が殴られるのを見ることがあるし、ホールに立ちっぱなしで足の裏が痛いし、キッチンはものすごく忙しいうえに鼠とゴキブリだらけだ。
でも、勉強になった。夜の歓楽街での仕事が、今の地方公務員としての自分の糧になっている。あの時、求人情報誌を開いてよかったと今では思える。
この春から時給は1,800円になった。昇給の際、店長からは、「お前以上の時間給をもらっている大学生は木屋町にも祇園にもいない。お前を評価している。就職活動中もシフトに入ってくれ」と言われた。※多分これが目的で時給を上げたのだと思う。これまでと違い、昨年比で増えた仕事もないからだ。
この辺りから、シフトに入ることが少なくなった。これまでは、週に4日、たまに5日という具合だった。でも、公務員試験の勉強もしないといけないので週に3日の勤務になっていた。
時間はあっという間に過ぎていって、夏が終わる頃に内定を得た私は、「自由だあああぁぁ!」とばかり、夜の街で遊びまわるようになった。
私には小さい名誉があった。木屋町や先斗町のいろんなバーに行ったが、S店で黒服をしています、付け回しの仕事を任されていますと言うと、大抵の店員さんや夜の街の常連の顔つきが変わるのだ。「こいつはやばい奴だ」という顔をする人もいれば、軽蔑した視線を向ける人もいれば、逆にすり寄ってくる人もいた。
バーにはよく行ったが、キャバクラにはほとんど行かなかった。S店で働いているとわかったら追い出されるリスクがあったからだ。それに、私はKFJ(京都風俗情報掲示板)のお水板において、当時木屋町で№1とされていたS店で何年も働いている。お客さんに「おごってやるから来いよ」と誘われて他店に行ったことはあるが、なかなか満足がいかなかった。S店の子に接客されたことはないが、それでもわかる。歴然とした『差』があった。
今思えば、承認欲求というやつが足りていなかったのだろう。シロクマさんの本で言うと、「認められたい」というやつだ。当時は、自分をスゴい奴なんだと思いたかった。実際はぜんぜんそうではなかったし、逆に、本当にスゴい奴ほど自分を大きく見せたがらない。
そういう人は飽きているのだ。ちやほやされることに。褒められることに。子どもの頃から、自分のパフォーマンスの高さを周りに認められるのが当たり前だった。だから、調子に乗ったり、偉ぶったりしない。それだけのことだ。
11月になった頃だった。M主任が退職することになった。時期は来年の3月。田舎に帰るらしい。
トラブルを起こしたわけではない。円満退職だ。夜の業界で7年も働けば、体はボロボロになる。普通は3年もてばいい方だが、M主任はそこまで働いて、十分すぎるほどの結果を出していた。私は「今までありがとうございました」と、お店の終わりに2人だけになったところで伝えた。
この時のM主任の言葉は脳裏に刻んであるし、忘れた時のために日記にも取っている。重ねて言うが、この記事でところどころの描写がやたらと詳細なのは、大学生当時の日記をベースにしていることによる。
「おう。〇〇ちゃん、お前もな、元気でな。ええけ?(※方言が入っている。いいか?の意味)〇〇ちゃん、仕事ができる奴になれよ。仕事ができんかったらな、人間は終わりやぞ。どこに行っても生きてかれんようになる。仕事だけはな、ちゃんとやって一流になれよ。お前もこの店で何人も見てきたんやないけ、どうしようもない根性なしの連中を。ええけ? お前は悪い奴じゃない。でもな、どっか気が抜けて、間抜けなところがある。そこが好きなんやけどな。とにかく、仕事ができるって言われるようになれ。俺からお前に言えるんはそれだけや」
呑みに行きましょう、と誘うつもりだった。でも、誘えなかった。私の中で、M主任はそれだけ偉大な存在だった。神だった。神を呑みに誘うことはできないのだ。
その翌日。営業時間中の夜10時くらいだったか。店長ともう1人、灰色のスーツを来た人が紙袋を携えてS店にやってきた。「ちょっと今時間あるか」と、上の階にある事務所に連れて行かれ、その人から名刺を渡された。
このS店の母体である芸能事務所の人だった。取締役ナントカ部長だった。ソファに座らされてからの話の内容は端的で、「私を社員として採用したい」という話だった。
部長の話には説得力があった。説得力の要諦とは、ロジックにあるのではない。本人が持つ、その考えや判断への自信や信仰、そして意見を伝える際の胆力や粘りの強さが、本人の口を通して迫力となり、相手に伝わることで説得力が生まれる。
・公務員はこれから厳しい時代になる。お金の問題ではない。本質的な意味で割に合わなくなる。
・あなたが就職する自治体の初任給は16万円だ。うちは基本給だけで26万円出す。
・S店での働き次第では本社に来てもらう
・日本の芸能界を盛り上げる一員になってほしい。それだけの才がある。
・お客さんも仲間もあなたを支持している
今思えば典型的なリップトークだ。なぜかといえば、上の内容の半分以上は私をほかの人に置き換えても、ちょっと修正するだけで通用するからだ。
でも、当時の私は大学生だった。この時すっかり、S店で働こうか、それとも地元で公務員になろうか迷い始めていた。もし、これが公務員試験を志す前であれば、この会社で働いていたかもしれない。
特に最後にやつ。あれにはやられた。部長はソファの脇に置いていた紙袋から手紙を取り出した。十枚ほどの。小封筒に入った、そのひとつひとつを私の前にゆっくり差し出すと、それが――すべて嬢からの手紙であることがわかった。
「〇〇君。試しにひとつ開けてみて」
ある嬢からの簡潔なメッセージが入っていた。「これからも〇〇さんと働きたい」「〇〇さんに店長になってほしい」「卒業してもいなくならないで」。こんな言葉が認められていた。
「もうわかるね。〇〇君はみんなに慕われている。社会があなたを認めている。こんな大学生、ほかにいないよ」
『雇用契約書』とあった。裏面には雇用条件的なものが書いてある。これを片手に取って私は、ボールペンを握りしめた。
右上に日付を書いて、ずっと下の方にある住所欄に個人情報を書き始めようとする。ボールペンをあてどなく前後に振って、書くのを静止しようとする脳と、書くのをやめたがらない右手が小さいラリーを繰り返していた。
私は思い切って、ボールペンを紙面に押し付けた。そして、インクが紙に付いた途端――心臓から流れ出た血が、冷たい何かとともに押し戻されて、再び心臓へと逆流するのを感じた。私の指先は動くのをやめた。
その場で立ち上がって私は、「残りを読んでから決めます」と告げて、手紙を抱きかかえてS店に帰ろうとしていた。事務所の扉を開けて出る時、舌打ちのような音が響いた。
手紙のほとんどはテンプレートだった。ひな形がきっとあって、嬢はそれらを真似ている。そういう罠だった。手紙はぜんぶで11枚あって、その中でテンプレでないのは3通だった。そのうちひとつを挙げると、ヘタクソな文章で、私のこれまで4年間の行動や仕草がつらつらと書いてあった。
私に対するポジティブな言葉も、ネガティブな言葉もあったけど、この3通の手紙には共通していることがあった。「地元に帰っても頑張って」。そんな内容だったかな……? 初めに読んだ1通はTちゃんからだった。
彼女はハーフで、日本語がそこまで上手くはないのだが、それでも一生懸命な筆跡だった。何度かミスって修正液で消した跡があった。Tちゃんらしくて、不器用だけど愛が籠った手紙だった。
一昨日それを読み返した時、ふいに涙が零れた。
あの部長の姑息な手を見抜いてから一週間後、私は2月末でS店を辞める旨を店長に告げた。残念そうにしていたけど、これは当然の結果なのだ。
私は地元で公務員として働く道を選んだし、芸能事務所だって私が本当に欲しかったわけではなく、おそらくはM主任の代わりとしてだった。もし本気ならば、大学4年生の春までには声をかけている。
最後の勤務日は静かだった。普通の職場だと、辞める人には花束贈呈とかがあるんだろうけど、S店にそういった慣習はない。ただ普通に、最後の客が帰って、照明の光度を上げて、ホールとキッチンを片付け始めて、嬢がみんな帰って……。
最後に、このS店に初めて来た時に見た、この分厚い扉を閉める際に、「お疲れ様です」と小さく呟いた。私は、夜が明けてほんのりと水色の空が見える河原町通りへと歩みを進めていった。
(次が最後です)
東京に4度目の緊急事態宣言が発令されると聞いて皆さん、非常にウンザリしていることでしょう。
私もそうです。もはや何のためにやるのかわからなくなっています。
政府のサイトにはお問い合わせフォームがあると思います。それで良いので行政にどんな対応を必要としているのか、どんな懸念を持っているのかをきちんと伝える必要があります。
意見を言っても動いてくれないのではないか?と言う先入観もわかります。
ですがなんにせよ人間はきちんと言うべきことを伝えなければわかるはずがない。これだけは間違いなく言えます。
どう動いてくれるかそもそも動いてくれるのか、それを保証することはできませんがまず伝えないことには何も始まりません。
誠意を持って丁寧にお伝えしましょう。
一部のオーディオマニアは、電源タップやケーブルを「良いもの」に変えると音質が向上すると信じている。
常識で考えて、そんなわけはないのだが、なぜ彼らはそんな荒唐無稽な妄想を抱いてしまうのか。(たとえばケーブルによって変わる電気的な特性は、導線の抵抗値くらいしかないが、それは部屋の温度が数度変わるのと同じ程度の影響しかない)
ここでは、そんな彼らの多くが共通して信じている理論の紹介と、なぜ人はそういうニセ科学を信じてしまうのかについて説明する。
オーディオに関する非科学を信じる人の多くが共通して持っている考えは、電気には「きれいな電気」と「そうでない電気」があるというものだ。これはちょうど、飲料水に「きれいな水」と「そうでない水」があり、きれいな水を飲むと健康に良いと言うようなものだ。電気の場合は当然、「きれいな電気」で駆動したスピーカーからは「良い音」が発せられると彼らは主張する。
彼らによれば、家庭用の電源や大衆向けオーディオ機器に流れる電気は「きれいな電気」ではない。それをオーディオマニア向けの高額製品を使って変換したり、「不純物」の少ないケーブルを通すことで、スピーカーに「きれいな電気」が流れるらしい。
この理論の秀逸なところは、その単純さにある。本来、音質を決定づける要因は無数にあり、それらは複雑に影響しあっている。それらをすべて把握することは容易ではない。しかし、「きれいな電気理論」なら、
「高額オーディオ製品を通す→きれいな電気が流れる→音質がよくなる」
となり、単純明快だ。水質と健康のアナロジーで理解しやすいのもポイントだ。
オーディオオカルトに限らず、多くのニセ科学に共通するのが、問題を過度に単純化して説明を試みる点だ。マイナスイオンは身体に良くてプラスイオンは身体に悪いし、血液型性格判断診断なら人間の性格は4種類に分類できるし、波動測定装置を使えばあらゆる食品が身体にいいかどうかたった1つの指標で判定可能だ。
もちろん、「問題を単純化して説明する」というアプローチ自体は間違っていない。たとえば、力学で摩擦や空気抵抗が非常に小さいならば、それらは無いものとして考える。疑似科学の問題は、その理論を立証する過程で実験者の主観を排除するしくみが備わっていなかったり、そもそも理論中の概念が適切に定義されていなかったりする点だ。オーディオの場合で言えば、音質の評価は聴者の主観や対象製品への先入観に大きく依存するし、そもそも「よい音」とか「きれいな電気」の実態も正確に定義されていない。
だから、この種の「きれいな電気を流せば音質がよくなる論」は疑似科学である。
なぜ、オーディオマニアはこのような疑似科学を信じるのか?結局、人は安易な理屈がつけられるものを信じるということだ。オーディオ機器の内部構造やそれらの音質に与える影響を正確に理解するには、どうしたって大学レベルの物理や工学の知識が要る。一方、オーディオマニアの理論なら
これだけの理解で済む。一部の人達にとっては、小難しい数式を出されるよりも、こちらの方が説得力があるのだろう。
ただ、事実はこの説明の通りにはなっていない。ケーブルや電源タップの変化をブラインドテストで聴き分けられた人は、この世に存在しない。結論としては、音質の向上を期待してそんなところに金をかけるのは、馬鹿げていると言える。
最近、日本語ができるできない。読解ができるできない。この解釈で合っている、間違っているという増田がホッテントリに上がってきていたので、読解ができていないとされる要因ってこれじゃね?っという話を、いきおいで書いてみた。
個人的に読解力の問題よりも、自分が信じていることの正しさを証明したい人ばかりというのが問題かなと。
自分と同じ意見であれば正しくて、違うなら間違ってる。そういう先入観があるから内容を受け取れてないし、こうに決まっているというバイアスがかかって、同じ意見でない箇所を見落とす。
さらに言うなら、自分の意見=自分の人格、そいつの意見=そいつの人格くらいになっていて、意見が食い違っただけで人格を攻撃した、されたかのように反論する過激なコメントが多い。
ちょっと異論が出ようものなら、自分の正しさを毀損された。攻撃された。反撃してやる!ってなる。
異論や反論って攻撃じゃないし、ちょっとずつ擦り合わせたり、少しずつ取り入れたりすることもできるはずなのに。違う意見を攻撃認定している人が、はてなに限らずネットにあふれていて、あっちもこっちもギスギスしてるな~と。
日本はディベートを学ばないから~とかも聞くけど、海外も先入観バリバリで敵味方分かれて言い争っているから、ネット上はどこも似たようなもんかな。
ということで、読解できていないとされる要因1は、自分が信じる正しさにこだわり過ぎている。
主語が大きいとか小さいとか言うけど、問題は大小だけじゃないなと。
たとえばさ、こういう記事があるっしょ。
(たとえだから、実際にこういうブコメが書かれているって話じゃないんだ。念のため)
テレワークで浮いた通勤時間の使い方 女性は「家事」が1位、男性は?
テレワークによって浮いた通勤時間の使い方」に関する調査を実施したところ、男性は「仕事」と「SNS・ネットサーフィン」が22.76%で同率1位、女性は「家事」が40.46%で1位となった。
https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2106/17/news130.html
こういうのに「女だからって家事させられるとか…」とか「はぁ、また男disか…」みたいなコメントがついたら、さすがに曲解かなと感じる。
で、個人的に気になっているのは「私、女だけど仕事ばっかりしてるよ?」「俺、めちゃくちゃ料理しているけど?」って感じのコメント。いやいまさ、集団の傾向の話をしてるんだよね、個人の話をしてないよねって思う。
アンケートでも何でも、その集団の傾向を示しているだけで、その属性の人すべてがそうだって言ってない。特定の集団の情報を、こんな風に集計した結果、もしくは平均を割り出した結果、この集団には特徴的な傾向がありましたってだけ。同じ属性を持ったあなたもこの傾向があるはずです、とかは誰も言っていない。
こんな感じで、集団の傾向の話を、属性全員がそうだという話と受け取り、その傾向を持っていない一個人や少数を例に出して反論としてしまう。そんな無理矢理な感じのコメントが散見される。これは前からすごく気になってる。
それぞれ、男とか女を主語として認識して、表面上ズレていないけど、中身を見てみるとまったく違う内容で話をしている。
これってどう表現すればいいんだろうか?主語の大きさって言葉じゃおさまらないと思うんだ。
主語のゆらぎ?変形?
言葉自体は合っているけど、イメージしている対象や姿がうまく共有されていない。
てな感じで、読解ができていないとされる要因2は、そもそも主語のイメージや語るべきポイントがズレている。
文章になっていない。論理になっていない何かばかりで、コミュニケーションコストが非常に高い。
文章として必要なパーツが揃っていないせいで、何について語っているのか、これは感想なのか、意見なのか、ただの罵声なのかもわからない文章。
反論したいことだけはわかるけど、何がどう違うのか?どこが間違っていると思っているのか?を指摘せずにいる文章。間違っているという指摘はいいけど、何故そう思うのかという意見や根拠を出さない文章。誰かがひどいと訴えているけど、何がどうひどいのか書いていない文章。さっきとかぶるけど、集団の平均や傾向の話なのに、個人の例や、少数の例、やたら特殊な例を出して論破した風になっている文章。
まず、文章パーツが揃っていなければ、相手側がイメージして埋めるしかない。埋めるしかないけど、それが相手が思っているのと同じであるかはわからない。ここでまたズレる。
で、そういう欠けた文章でも、自分と違う意見だなというのは伝わる。イメージが正確でなくても、そういうのだけはきちんと伝わる。伝わった結果、正しさ証明スイッチが入った誰かが、文章未満、論理未満をもとに、また文章未満、論理未満のコミュニケーションコスト高めな文章で返す。
繰り返していくうちに、話がズレまくって理解の及ばないところまで行き着いて、間違っている奴に反論されたという思いだけが双方に残る。えらく不毛な感じだなと思う。
というわけで、要因3はコミュニケーションコストが高いコメントと文章が、さらにイメージをズラしている。
で、結論。
まず文章や論理って読み込むのに時間がかかる。で、そこから自分の意見を出すのにも時間がかかる。しっかりしたコミュニケーションコストの低い文章を書こうとすると、もっともっと時間がかかる。
でもさ、ブコメや増田ってそんなに時間かけてないから。ブコメなんてとくに、早く書き込んだ人がスターをもらいやすかったりするし。Twitterもたぶん一緒。先行者利益が高い媒体だと思う。だから正確さより速度優先になっているわけ。
本来なら、読んで、内容を吟味して、意見をまとめて、コメントをするまでって、けっこう時間ってかかるものだと思うんだよ。ちゃんとした意見を出そうとすれば、あれこれ探したり読み直したり、書いたものを一日寝かせたりするはず。
もちろん読解が苦手な人もいるだろうし、荒らすためにわざと捻じ曲げたコメント書いてる人もいるだろうけどさ。
いまのネット上の議論が荒れやすく炎上しやすいのは、コメントをするのにかける時間の少なさによるものな気がしている。
反論がズレているのもだいたい時間が問題なのかなと。人って怒ると早く早くと急ぎたがると言うし。とんちんかんな反論をしている人も、時間をかければ違うブコメになったりするかも。
あとさ、時間をかけると怒りっておさまるよね。衝動もおさまるよね。だから時間をかければかけるほど、殺伐としたコメントが消えていくと思うんよ。
ホッテントリやトレンドみたいな、いま乗らないといけないという雰囲気を消した、ひとつのことをじっくりゆっくり議論するSNSがあれば、人はもっと穏やかに話し合えるかもしれない。無理かもしれない。
で、正しさについてが一番むずかしいかな。
どうして人は、自分が信じているものの正しさを証明したがるんだろうか?
時代が違ったり、国が違ったりするだけで、正しさなんてクルクル変わるのに。
ブコメだってさ、3年前、5年前のものを見返すと、だいぶ様変わりしている。いま書いたら絶対に炎上するようなブコメがトップブコメなってたりする。
絶対的な正しさなんて無いのに、自分が信じるものの正しさを証明しようと躍起になるのって、意味があるんだろうか?
いまの自分はこういう意見だよ。いまのあなたはこういう意見だね。今日は、この意見が多いんだね、ではダメなんだろうか?
正しい、間違っているというジャッジをするのって、何か意味があるんだろうか?
そんなことを考えてたけど、腹が減ってきたので終わるわ。半端でスマン。上手くまとまんなかった。
ま、こんなことを考えてる奴もいるよってことで。
最近、日本語ができるできない。読解ができるできない。この解釈で合っている、間違っているという増田がホッテントリに上がってきていた。
色々読んだけど、せっかくなので読解ができていない、内容が上手く伝わっていない要因について書いておきたいと思った。
個人的に読解力の問題よりも、自分が信じていることの正しさを証明したい人ばかりというのが問題かなと。
自分と同じ意見であれば正しくて、違うなら間違ってる。そういう先入観があるから内容を受け取れてないし、こうに決まっているというバイアスがかかって、同じ意見でない箇所を見落とす。
さらに言うなら、自分の意見=自分の人格、そいつの意見=そいつの人格くらいになっていて、意見が食い違っただけで人格を攻撃した、されたかのように反論する過激なコメントが多い。
ちょっと異論が出ようものなら、自分の正しさを毀損された。攻撃された。反撃してやる!ってなる。
異論や反論って攻撃じゃないし、ちょっとずつ擦り合わせたり、少しずつ取り入れたりすることもできるはずなのに。違う意見を攻撃認定している人が、はてなに限らずネットにあふれていて、あっちもこっちもギスギスしてるな~と。
日本はディベートを学ばないから~とかも聞くけど、海外も先入観バリバリで敵味方分かれて言い争っているから、ネット上はどこも似たようなもんかな。
ということで、読解できていない要因1は、自分が信じる正しさにこだわり過ぎている。
主語が大きいとか小さいとか言うけど、問題は大小だけじゃないなと。
たとえば、ちょっと前まで、やたら男が批判されていると嘆いているブクマカがいたよね?
ネガティブな記事のタイトルに男と入っているだけで、男だというだけでこんなに批判されるなんて…的なブコメばかりしてた人。あそこまでだと、たぶん釣りか工作かなと思うけど、似たようなことで怒ったり悲しんだりしてる人は他にもいる。
たとえばさ、こういう記事があるっしょ。
(たとえだから、実際にこういうブコメが書かれているって話じゃないんだ。念のため)
テレワークで浮いた通勤時間の使い方 女性は「家事」が1位、男性は?
テレワークによって浮いた通勤時間の使い方」に関する調査を実施したところ、男性は「仕事」と「SNS・ネットサーフィン」が22.76%で同率1位、女性は「家事」が40.46%で1位となった。
https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2106/17/news130.html
こういうのに「女だからって家事させられるとか…」とか「はぁ、また男disか…」みたいなブコメがついたら、さすがに曲解かなと感じる。
で、さらに首を傾げるのは「私、女だけど仕事ばっかりしてるよ?」「俺、めちゃくちゃ料理しているけど?」って感じのブコメがついた時。いやいまさ、集団の傾向の話をしてるんだよね、個人の話をしてないよねって思う。
アンケートでも何でも、その集団の傾向を示しているだけで、その属性の人すべてがそうだって言ってない。特定の集団の情報を、こんな風に集計した結果、もしくは平均を割り出した結果、この集団には特徴的な傾向がありましたってだけ。同じ属性を持ったあなたもこの傾向があるはずです、とか誰も言っていない。
こんな感じで、集団の傾向の話を、属性全員がそうだという話と受け取ったり。集団の傾向についての話を、その傾向を持っていない一個人を例に出して反論としてしまう。そんな無理矢理な感じの議論が散見される。これは前からすごく気になってる。
それぞれ、男とか女を主語として認識して、表面上ずれていないけど、中身を見てみるとまったく違う内容で話をしている。これってどう表現すればいいんだろうか?主語の大きさって言葉じゃおさまらないと思うんだ。
主語のゆらぎ?変形?
言葉自体は合っているけど、イメージしている対象や姿がうまく共有されていない。
てな感じで、読解ができていない要因2は、そもそも主語のイメージがズレている。
文章未満、論理未満があふれていてコミュニケーションコストが高い問題
文章になっていない。論理になっていない何かばかりで、コミュニケーションコストが非常に高い。
文章として必要なパーツが揃っていないせいで、何について語っているのか、これは感想なのか、意見なのか、ただの罵声なのかもわからない文章。
反論したいことだけはわかるけど、何がどう違うのか?どこが間違っていると思っているのか?を指摘せずにいる文章。間違っているという指摘はいいけど、何故そう思うのかという意見や根拠を出さない文章。誰かがひどいと訴えているけど、何がどうひどいのか書いていない文章。さっきとかぶるけど、集団の平均や傾向の話なのに、個人の例や、少数の例、やたら特殊な例を出して論破した風になっている文章。
まず、文章パーツが揃っていなければ、相手側がイメージして埋めるしかない。埋めるしかないけど、それが相手が思っているのと同じであるかはわからない。ここでまたズレる。
で、そういう欠けた文章でも、自分と違う意見だなというのは伝わる。イメージが正確でなくても、そういうのだけはきちんと伝わる。伝わった結果、正しさ証明スイッチが入った誰かが、文章未満、論理未満をもとに、また文章未満、論理未満のコミュニケーションコスト高めな文章で返す。
繰り返していくうちに、話がズレまくって理解の及ばないところまで行き着いて、間違っている奴に反論されたという思いだけが双方に残る。えらく不毛な感じだなと思う。
というわけで、要因3はコミュニケーションコストが高いコメントと文章が、さらにイメージをズラしている。
個人的結論
で、結論。
まず文章や論理って読み込むのに時間がかかる。で、そこから自分の意見を出すのにも時間がかかる。しっかりしたコミュニケーションコストの低い文章を書こうとすると、もっともっと時間がかかる。
でもさ、ブコメや増田ってそんなに時間かけてないから。ブコメなんてとくに、早く書き込んだ人がスターをもらいやすかったりするし。Twitterもたぶん一緒。先行者利益が高い媒体だと思う。だから正確さより速度優先になっているわけ。
本来なら、読んで、内容を吟味して、意見をまとめて、コメントをするまでって、けっこう時間ってかかるものだと思うんだよ。ちゃんとした意見を出そうとすれば、あれこれ探したり読み直したり、書いたものを一日寝かせたりするはず。
もちろん読解が苦手な人もいるだろうし、荒らすためにわざと捻じ曲げたコメント書いてる人もいるだろうけどさ。
いまのネット上の議論が荒れやすく炎上しやすいのは、コメントをするのにかける時間の少なさによるものな気がしている。
反論がズレているのもだいたい時間が問題なのかなと。人って怒ると早く早くと急ぎたがると言うし。とんちんかんな反論をしている人も、時間をかければ違うブコメになったりするかも。
あとさ、時間をかけると怒りっておさまるよね。衝動もおさまるよね。だから時間をかければかけるほど、殺伐としたコメントが消えていくと思うんよ。
ホッテントリやトレンドみたいな、いま乗らないといけないという雰囲気を消した、ひとつのことをじっくりゆっくり議論するSNSがあれば、人はもっと穏やかに話し合えるかもしれない。
で、正しさについてが一番むずかしいかな。
どうして人は、自分の信じているものの正しさを証明したがるんだろうか?
時代が違ったり、国が違ったりするだけで、正しさなんてクルクル変わるのに。
ブコメだってさ、3年前、5年前のものを見返すと、だいぶ様変わりしている。いま書いたら絶対に炎上するようなブコメがトップブコメなってたりする。
絶対的な正しさなんて無いのに、自分が信じるものの正しさを証明しようと躍起になるのって、意味があるんだろうか?
いまの自分はこういう意見ですよ。いまのあなたはこういう意見だね。今日は、この意見が多いんだね、ではダメなんだろうか?
正しい、間違っているというジャッジをするのって、何か意味があるんだろうか?
そんなことを考えてたけど、腹が減ってきたので終わるわ。半端でスマン。上手くまとまんなかった。
ま、こんなことを考えてる奴もいるよってことで。
朝雨音が聞こえて、
凄い雨かと思ったら外に出たら案外そうじゃない弱い雨の時とか、
ご近所さんのガレージに当たる雨音がすごく大きく聞こえるから、
朝雨音で起きると大概大雨なのかな?って思うけど、
だいたいはそんなに小雨だったりするのよね。
嘘です。
なんかさー、
雨降るかなと思って長い傘持って行くも、
降らなかったらなんかそれはそれでいいんだけど、
雨が降り出したら降り出したで
目的地まであともうちょっとの距離で傘さすかささないかのチキンレースみたいに
もう目前と言うところで傘さすと、
なんか負けちゃったような気がするし、
大雨なんじゃない?って勝手に思うあのなんて言っていいのかしら。
降水確率と降水量って比例してる感じがして、
100パーセントの時で小雨だったりすると
100パーセントじゃないのかよ!って雨の強さの割合に勘違いしてしまうこと、
分かっていてもなかなかその先入観は拭い去れないわ。
最近はものすごく天気予報の精度が上がってきたみたいなんだけど、
見るところでまちまちな違う予想が出てるときは
何を信じたらいいのかしらって
結局人は雨雲を見るのよね。
開けて閉めて開けて閉めたら入れなーい!って
要はドアトゥードアを地で行くような、
家に帰り着くまでが遠足のように
家に帰り着くまでは雨やんでて欲しいし降らないで欲しいわ。
実際アイパッドで何に使って良いか全く分からない暗中模索の和洋折衷案もいいところよね。
普通にポインティングデバイスとしては使えるけど、
そんな居酒屋のようで
外に出たら雨だったってオチ。
まったくよね。
それで街を歩いていて、
まあはっぴはいいとして、
三度笠って言うチョイスはなかなか渋いわねって
感心したところよ。
でも雨対策としては今やっぱり再注目して欲しくべく
三度笠と蓑って言うのも案外東京オリンピックで手放しで使える頭に付ける日傘よりはカッコいいと思うんだけど、
やっぱりあの三度笠の渋さがいいのよ。
三度笠と蓑やると
まあいろんな人に使ってもらいたいわね。
実は売れ残った三度笠が重たくて横着してお地蔵さんに被せて手軽にして帰りたかったのが裏目に出て、
恩返しを喰らうという、
もうおじいさんは婆さまに横着したことを言い出せなくなっちゃって
あの絵図らだけは
アルプスの少女ハイジの谷地の父を煮込んでいる何かあの美味しそうな食べ物に匹敵する
でもバッ様は
ジッ様が横着してお地蔵さんに笠被せて帰ってきたことはもういつものことで見破っているから
あとでバッ様が回収しに行っているというところまでが恩返しみたいよ。
みんな不思議に思わないけど
桃太郎の桃がなんで流れてきたことだけに関しては当たり前のように
誰も突っ込まないそこの伏線は全く回収されていない謎だけが桃に入っているワケなのよね。
そういえば、
あの桃誰が流したんだろう?って
そうじゃないかも知れないわね。
うふふ。
今日は真面目に
いいレモンがあったので、
皮まで使えるレモンだったので躊躇せずに輪切りにして
なんか気の効いた良い喫茶店の様なテイストにはまだまだほど遠いけど
そんなレモン水を目指したいわね。
あれはあれで
なかなか喫茶店の味をめざすとなると難しいのよ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
増田見てても、ブクマカ見てても、ヤフコメ民を見てても学校の勉強で一番大事なのは国語、現代国語だというのがよくわかる。
当時は筆者のお気持ち問題とか本人じゃないとわからんやろと思っていたが、子供の中学受験の解答集を見ていると「ここにこう書いてあって、ここにこう書いてあって、ここにこう書いてあるからこうなる」ということが論理的に説明されている。また、選択問題などでは「提示されている文章内容からそこまで読み取ることができない=そこまで書いてない」という理由で×になるような問題も用意されていたりする。
つまり、現代国語をきちんと正しく学んでいれば「書かれてある文章を整理して読み解く能力」そしてその先の「書かれていない文章を勝手に読み解かない能力」をきちんと獲得できるはずなのだが、増田もブクマカもヤフコメ民も多くの人間にそれが足りていないように見える。
これはちょっと前に流行った「誰でもよかった」の解釈といった「言外に提示されている文脈」といったハイコンテクストな問題以前の、「書かれていることをそのまま受け取る」能力の欠如の話だ。
うちの息子も解答が正解にならない理由を「そんなこと書いてないよね」と説明するが「だってそうじゃん」と「独自の解釈=先入観」を理由に拒むことがある。ここで「書いてあるものは書いてある」と「自分の主張」を切り分けられる能力を獲得してほしいと俺は考えている。
自分の主張は当然大切だがそれは「書いてあるもの」を捻じ曲げていいということにはならない。
現代国語が苦手と主張する人の中には「文章表現に正解はないから学校で学ぶ現代国語など意味がない」などと豪語する人間がいるが、それでも「書いてあるものは書いてある」し「書いてないものは書いてない」のだ。
もちろん問題の中には「出題者の思想が反映されすぎている」問題もあることにはあるので、そういうのはしょうもないなとは思うが本当にごくわずかだ。ほとんどの問題が書いてあることを書いてある通りに理解しなさいということを問うている。
食事中にげっぷをしたり、食器を叩いて音を出したりするのはマナー違反です。それと同様に、麺を音を立てて啜る行為もマナー違反です。「食事中に不必要な音を立てない」というのは、普遍的なマナーであり、麺を啜る行為も当然この範疇に属します。
この「普遍的」というのは、単に多くの地域で習慣化しているということではありません。普遍的というのは、「その背後に覆しがたい道理がある」ということです。たとえば、世界には非民主主義国家の方が多いのですが、それでも、人権や民主主義といった概念は政治の普遍的な理念なのです。「麺を啜るのがマナー違反」というのもそれと同様です。
ところが、世の中にはこの「麺を啜って食べる」という行為に、先入観無しに考えれば異常としか言いようのない執着を持つ人たちがいます。一体彼らは、なぜそんなつまらないことに拘るのでしょうか。
そもそも、「麺を啜るのはマナー違反」という意識がなくとも、他人から「それ(麺を音を立てて啜ること)不快に思う人もいるからやめなよ」と言われれば、普通の大人ならば素直に改めるでしょう。それを、あれこれと屁理屈をこねて自分の行為を正当化しようとするのは、大変みっともないです。
もし、「ごみは分別して捨てて下さい」とか「靴を脱いだら揃えて置いてください」などと言われたら、あえて反抗する大人はいないでしょう。それに対して、「リサイクルは余分にエネルギーを使うから無意味」とか「結局、収集業者が分別するんだから俺がする必要は無い」とか言って周囲に合わせない人がいたら、相当非常識です。
他人に注意されても麺を啜るのをやめない、それどころか屁理屈をこねて自分の行為を正当化することは、客観的に見れば子供っぽいと思われるだけです。やめましょう。
麺を啜る行為を正当化する一部の人の中には、「麺を啜るのは日本の文化だ」という主張をする人がいます。
常識で考えて、そんな「文化」があるわけがありません。落語などで麺を食べるときに音を立てる表現をするのは、単なる「演出」のためです。もし、これを「文化」だと本気で思い込む人がいたら、言い方は悪いですが、相当頭が悪いです。
第一、マナー違反を指摘されて、「それは日本の文化だ」と言うのも、冷静に考えて情けない話だと思います。
麺を啜ることを正当化する理由の一つに、「啜ることで風味がよくなる」というものがあります。
食べ物を空気と一緒に口に含むことで、その空気が鼻から抜けることにより、食べ物の風味をより一層感じることができると言われています。ソムリエがワインを鑑定する際に、ワインを口に含みながら空気を吸うのはこのためです。この例は、麺などを啜るのを正当化するためによく引き合いに出されます。
この理屈は一見説得力があるように見えますが、根本的に間違っています。何が間違ってるかと言えば、「あなたが食べ物を最大限美味しく味わう食べ方」と「マナー」は別の問題だということです。たとえば、「動きやすいから」といって、葬式や結婚式にジャージやスウェットで行っていい理由にはなりません。そもそも、例に挙がったソムリエも、品評の場以外の公の席で、ワインを口に含みながらジュルジュルと音を立てたりはしません。