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2024-04-20

街を練り歩きたいんだけど何から練ればいいかわかんない

やっぱ、「納豆」?でもニオイがねぇ。スメハラっていうか?

それとも定番の、「とろろ」?でもやっぱ被るよねぇ円谷幸吉と。

変化球で、「パン生地」?うーん、それはもう、「捏ね」、なんだよなぁ。攻めすぎ?

「ねるじぇら」は死んだし……。

やっぱここは、「ドンドゥルマ」?











追記

テーレッテレー!!おもいのほかトラバブクマ集まったな。みんなサンキュー

行列ゆっくり進むことらしいので街歩きに付き合ってくれる友達4〜5人誘う声掛けから始めるとよい

おいおいマジかよーそんなハードル高いのかよー!体育館とか借りて練習しなきゃいけない「規模感」じゃん!

そうなるとねるじぇらのCM運動やすブルマだったのは理に適ってたんだなあ・・・

うーん仲間あつめもさることながらあのキレのある動きを今から習得すんのムリゲーすぎんぞ!。

そしてブルマも人数分用意するのつらい!さすがに1人分しか手元にないって!

ブルマ増田に言っても歴史のことしか教えてくれなそうだしさあ・・・

ん、ちょっとまてよ・・・!?・・・ってってっていうかサア!!いま気付いたんだけどねるじぇらのCMがいっぱい人がいたのってサア「行列ゆっくり歩く」っていう意味もかかってたのか!?

おいおい深すぎじゃね!?あのCM深すぎじゃね!?手持ちブルマカウント1のワイより闇深じゃね!?


「街を」と言っているのだから「街」だろう。「街を練り、歩く」。牛乳を飲んで大きくなろう、グリーンジャイアント

えーそんなに!?そんなにいるんか「規模感」!?

むりゲーだってそんなんーその条件だと日ハム伊藤くらいしか満たせなくない!?

きょうびそんなサア大艦巨砲主義みたいなの無理だって!やっぱねるじぇらで確実に面制圧を具申ージャイアントしとくわ!


納豆のわけないだろ。気を練るんだよ!街は危険だらけだ。

おいおいそんな物騒なことになってんのかよ、「街」!!

それはもう部隊招集せねばならんなあ!人数分のブルマを!疾く!!


ゆらゆらと振りながら進みます。その様子を「ねりねり」という擬態語で表し、後に変化して生まれ言葉が“練り歩く”だと言われています。” 練りは擬態語だったhttps://omatsurijapan.com/blog/innovation-for-float-1/#i-3

あーたしか山車ゆらゆらしとるな。

それはそうとさあ祭りのお練りってたまに山車の手前とかでゆらゆらしとるだけのひといない?

それFF10戦闘中ティーダかい!みたいな揺れ方のひとおるよな

あれみてて神輿の人と労働格差がエグwって密かに毎回おもってるのは内緒

2022-09-15

ヤフコメ

子供の頃見た東京オリンピックでの円谷幸吉が…」

ってあってうわっと思ったけど

俺も60年後同じようなこと書いてんのかな

2021-07-27

スケートボードをしていた少年たち

数年前、自分居住しているド田舎県の中の、これまた見渡す限り田畑が広がるような農村地帯を通る道を車で通った時、のどか田んぼの中を流れる川の河川敷に、スケートボードトリックを行なうための、木箱で作った斜面やハーフパイプ金属製の手スリのような物(あれ、何て呼ぶのだろう?)が設置されているのを発見した。暑い夏の日だったが、そこでは若い男の子二三人が熱心にスケートボードを楽しんでいた。

何となくスケートボード都市部文化だと先入観が有ったので「うちみたいな田舎でも、あんスケートボードをするための施設が有るんだな。スケートボードをする子たちがいるんだな」と、軽く驚いた記憶がある。

自分田舎出身人間から若い頃の自分の思い出を重ねて「あのスケートボードに熱中している男の子たちも、保護者教師から『そんな不良の真似事をして』とか何とか、無理解偏見を持たれて困ったりしているのだろうか」と勝手想像したりもした。

今回の東京五輪メダルを獲得した少年少女たちは、自分の貧弱な先入観偏見とは全く異なる、普通の子供たちだった。何となく五輪に対しては、マラソン円谷幸吉のような悲壮ネガティブイメージが私の中には有るのだけれど、東京五輪スケートボード選手たちは、それとは全然ちがっていた。

自分の技(トリックと言うんだっけ?)が成功した時も失敗した時も笑顔だし、順位を争うライバルであるはずなのに、他の選手が技を成功させると自分成功したように歓声を上げるし、仮に他の選手が技を失敗してガッカリしていたらハグして励ましているし、解説の人も難しそうな技に果敢に挑戦する選手たちを「攻めるねえ」と楽しそうに賞賛しているし、本当に素直に「これがスケートボードという文化なのか。何だか良いなあ」と思った。

ジャンプしたり、スケートボードクルクル回転させたりすることは、運動全般が苦手な私には想像も出来ない離れ技に見えるのだけれど、その技よりも何よりも、彼らの態度や振る舞いこそが何よりも軽やかに見えた。

あの日田んぼ風景の中に有るスケートパーク(と呼ぶのだろうか?)で一所懸命スケートボードをしていた男の子たちが、今回の東京五輪話題で親や教師と話が盛り上がって打ち解けていたら良いな、少しでも生き易くなっていたら良いなと、そんなことを思った。

2020-03-29

遺言が有名になること

自分の死んだあとに最後一言が有名になるのって、本人的にはどんな感じなのだろう。カエサルの「ブルータスお前もか」とか板垣退助の「板垣死すとも自由は死せず」とか、後世に知られるとは全く思ってはいないだろうけど期せずして今日まで名言と伝わってしまった。恥ずかしいのか誇らしいのか。死んでるから答えが返って来ることはないのだけれど。

辞世の句ならまだわかるのだ。有名人からね。かっこつけるためにわざわざそのために前もって考えていた人もいるだろうし、伝わって満足しているのがほとんどだろう。でも地味な人の遺書、たとえば円谷幸吉の「美味しうございました」や藤村操の「不可解」、あるいは名も無きオジサンの「お馬人生アウト」とか、後世に伝わるとは、まさか、だろう。伝わってしまたことについてどんな気持ちでいるのだろうね。

2019-01-07

anond:20190107124854

言われてるけど根拠特にない。

単に犯人探しのなかで箱根駅伝槍玉に挙がっただけ。

というか円谷幸吉の昔から日本人は男女問わず駅伝に精を出しているしな。

2017-05-02

円谷幸吉本名

つむらやこうきちって初めて知った。円谷英明の「ウルトラマンが泣いている」にそう書いてあった。

2013-01-24

桜宮高校体罰事件と、「いい人」の体罰と、ダブルスタンダード日本

http://anond.hatelabo.jp/20130122033549

元増田です。

トラバブクマありがとう。いろいろ考えさせられて思い出すことも多かったです。

それでちょっと重要なことをいくつか書き忘れていたので、以下に補足します。

前にも増して読みづらいかもです。そして、前のエントリと印象違うかもしれないので「用心深く」読んでください。お願いします。



前のエントリ毎日体罰を受けていたような書き方をしてしまったが、何日かたって思い返すに、そんなに頻繁には殴られていなかった。ことに私に対してはそれほどむけられることはなかった。

私は心身ともにヘタレだったので、こいつを叩くとつぶれる、と思われていたのだろう。先生も人を見て叩いていたのだ。

全般にそんなにヒステリック指導はされなかった。

ただ、エースセッターに対してはやはり厳しかった。

バレーボールというスポーツ構造上、エースは「トスが上がったら必ず打たなければならない」宿命を担っている。

セッターはその時点のアタッカーの状態、あちらのチームのブロックの状態、ゲームの流れなどを考慮して、その時点で一番点が取れるアタッカートスを上げる。エースはレフトから、補助アタッカーライトセンターから

補助アタッカーにはクイック攻撃もあるが、エースほとんど高いトスを打つオープン攻撃。どっかん大砲を撃つ役目だ。

ゲームの中盤くらいまではクイック攻撃なども使えるが、ラリーが続くと必ずボールエースに上がる。

上がったら打たなければならない。どんなに疲れていても飛んで、打たなければならない。ラリーが続く限り、なん10発でも。打って、決めなければならない。それができるからエースなのだ

もちろんほかのアタッカーを使うこともできるのだが、ゲームの流れで、「どうしてもエースしか通用しない場面」ってあるのだ。

からエースってきつい。昔は後衛に回れば休めたが、いまはバックアタックも打つから休みなし。本人が自覚しなくても、構造上チームを引っ張らなければならない。それが「エース」だ。

チーム全員で拾って拾って拾いまくって、粘って敵失を誘うというチームもあるけど、身体能力に優れた選手が一人いればやはりその選手に集中する構造になるだろうと思う。

「キャプテン」もそうだ。

精神的、戦略的にチームが依存する度合いは大きい。

ゲームで、チームの期待が集中したときにそれを受けて結果を出さなければならない。

から、「エース」や「キャプテン」を練習でいじめぬく指導者は多い。ほかのメンバーミスしても怒られないような場面でエースが気のないプレイをしたりするとそれはもう怒られる。「自覚」をたたき込むことが練習でのかなりのウエイトを占めているのではないかと思う。

そこにはかなりの不公平感が漂う。不公平であるのはほかの部員もよくわかっている。あるいは、自分たちのミスをかわりに怒られることもある。そんなときメンバー

「ああ申し訳ない、自分たちがふがいないせいで、自分たちがミスしたせいで、エースキャプテン)が怒られている。次は絶対にエース負担をかけないようにしなくては」

と考える。こうやってチームのつながりは少しずつ強くなっていく。

体罰が起きていたときに、なぜほかの部員が止めに入らなかったか、といわれている。他ではわからないが、うちではこうだった。

そしてまた、体罰というのはたいていが理由がある。

記事でもあったが、「怒られるのは気のないプレイをしたとき」。理由はちゃんとあるし、その理由は常に筋が通っている。

うちのチームでは、エースラリーで相手に拾われた、あるいはブロックで止められたときは怒られることはなかった。打ち損ねたとかタッチネットしたとかで、相手にポイントが行ってしまったときでも怒られることはなかった。

でも、苦しくてフェイントでごまかそうとしたり、ただ相手コートに入れるだけだったりするとものすごい勢いで怒られた。「そういう姑息なことをするな」と言われた。

力一杯ぶつかってだめだったらそれは仕方ない。が小手先でごまかしたり逃げたりすることに対しては非常に厳しかった。

大人になって働くようになってから、その意味ちょっと分かる。苦しい中ごまかさず、妥協せず頑張りとおす、みたいなことだった。

いい指導だった、と思う。



これって、どう感じられるだろうか。

やっぱり勝利至上主義じゃないか、と思われるだろうか。

ゲームでは、時に一人が重責を担わなくてはならないときがある。それに耐えるためにはどうするか。支える周りの人間はどうするか。

試合に負けたっていいのだ。大切なのはそれに立ち向かうことだ。

与えられた役割を担うこと。そして彼/彼女を信頼してサポートし、最後ボールをゆだねること。

たぶん、それが最終目標なのだと思う。


それは悪いことではない。

しろ、それが「教育」というもの本質ひとつだろう。

多くの体育系経験者が、その経験を肯定するのはこのためだ。



だけど。

それじゃあ身体能力に優れて、夢を持って入学してきた生徒が自殺するのはなぜなんだろう。

東京オリンピック円谷幸吉選手はなぜ自殺したんだろう。

彼らは人格的にものすごく劣っていたんだろうか。

だめな人だったんだろうか。



私の先生はいろいろとトラップを仕掛けて私たちの自主性を試していた。見捨てられても食いついてくるか。先生意図を乗り越えて、自分意志を通すか。

しかヘタレであるところの私たちは、その意図を知りつつ、演技をした。自主性をもって動いているかのような演技。だから空気を読むことは大変うまくなった。先生が望んでいるものを演じるようになった。表面は大変「スポーツマンらしく」なった。が、内面ではもう気力はつき、早くやめたいと思っていた。

今考えると、ため息が出る。

でも、これが現実だ。

子供は、ずるい。かつまっすぐで、傷つきやすく、純真だ。

もし、このとき先生が「善意」で、どこまでも私たちの演技を許さず、追及していたら

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

理想と、現実

私たちは克己の物語を「美しい」と感じる文化の中に住んでいる。一方、頑張れ頑張れと強いられたあげく、追い詰められた末の死というもの悲惨さもよく知っている。

からこそその双方を知る人々は口ごもる。

目指していたものを知っているから。

そして追い詰められたとき絶望感も。

この矛盾は多分、誰でも持っている。そして明確に解決できていない。

から、思う。

一人を責めても解決しない。

 



チームメイトがなぜ止めなかったかという人がいる。

教師と生徒が一緒になったいじめを受けていたという増田もいる。

http://anond.hatelabo.jp/20130123190802

でも、桜宮高校場合はそうじゃなかった、と思う。

朝日新聞自殺前日のやり取りの詳細を記事にしている。

http://www.asahi.com/national/update/0124/OSK201301230152.html

生徒はミーティング部員に「覚悟を決めて、頑張るわ」と話した。  部員から「チームのために怒られているんやから、全員でカバーだ」「助けてやろう」と、励ましの声があがった




いい、チームではないだろうか。

「いいチーム」なのになぜ死んだのか。

法律で禁じられているのに、なぜ顧問体罰を繰り返したのか。

「いい人」だからだ。

本気で生徒を伸ばしてあげたいと思い、「本気で」体罰が彼らをよくすると思い込んでいるからだ。困難を克服することが、彼らにどうしても必要だと思っているからだ。

体罰を「誰かをスケープゴートのようにして恐怖の支配をする」という記者もいる。

http://mainichi.jp/opinion/news/20130118k0000e070251000c.html

私はこれに強い違和感を覚える。

異常者だから体罰を行うのではない。「いい人」だからだ。

「いい人」だから善意にあふれているから、何回注意しても体罰を繰り返すのだ。自分のことではなく、相手のことしか考えていないからだ。相手がよくなればそれでいい、と考えているからだ。それがチームの結束を強め、自分考える力自分で解決する力をつけると思っているからだ。実際は、そうじゃないのに。

ここが理解されない限り、世間は「体罰いけない」と「現場では体罰あっても仕方ない。頑張れば克服できるはず」のダブルスタンダードを繰り返す。

体罰法律で禁じられていることは、建前だと思っている。生徒にわからせるには体罰が一番通じると思っている。だから、殴る。善意で。

から、異常者を切っても解決しない。桜宮高校だけではない。日本全国に法律違反をしてでも生徒を指導しようという「熱くて」「いい先生はいるのだから

「いい先生」と、「いいチーム」。

生徒は、「部員の信頼を失うので『キャプテンを辞めたい』とは言い出せない」と言っていたそうだ。

http://mainichi.jp/feature/news/20130110ddm041040111000c.html

信頼を裏切ることは、ときに侮られるよりつらいことだ。

教師もきつそうだと、キャプテンを辞めさせようかと何回か提案していたが、そのたびに「やります」というやり取りを繰り返していたらしい。

折れそうなところを起き上がって、また折れて、起き上がって。

生徒が弱かったのではない。

休まなければならなかっただけだ。

全員部活参加の体育科で、進路に非常に重要な影響を持つ部活動、そして迫っている新人戦。練習試合のたびの詰問、体罰

スポーツではありうる光景。だが、大人でもきつい。




体罰は、やらない方がいい」という結論は同じなのだけど、それは誰かに責任を覆いかぶせるとか、ましてや一つの学校を潰してすむことではないと思う。

だって、この国の誰もが「頑張る」ことに対する矛盾した物語を抱えているんだから

そのダブルスタンダードを解決しない限り、追い詰められて自殺する人は、絶対に減らない。

2010-10-16

もし1年後自分が死ぬなら

ほめられてみたいなー

凄くくだらないかもしれないけれども

毎日1つだけでもほんの小さなことでも人に毎日別のことを褒められたらどれだけ自分幸福だろう。

なんか自分自分を褒めても、私はそれがいいところって思えない。

生まれてこの方、褒められたこと無いんだよなー。リアルヴァーチャル

甘えって笑うかもしれないけれども、自殺に当たって円谷幸吉のような遺書を書いてみようと振り返ったら

褒めてくれた人誰も居ないんでやんの

10台にまで中身の無い人間揶揄された30台を褒めるような馬鹿もいねーか(笑)

 
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