はてなキーワード: ライフスタイルとは
ジャンルはメンタルヘルス、心理学、ライフスタイル、それに関連した商品紹介
7:00
起床、朝食(卵かけご飯、プロテイン入り牛乳)、抗うつ剤をのむ
7:30~8:00
人気の少ないうちに散歩
8:00
8:30
ニュース、SNS、ブログや動画のコメント、再生数、アクセス数をチェック。前向きなツイートをする。
9:30~12:00
会社員や学生の昼休憩に合わせてTwitterとInstagram更新
12:30~16:00
16:00~18:00
ブログを書く。動画&ブログは18時までに投稿できるようにする。
18:00
ブログ&動画投稿。それに合わせてTwitterとInstagram更新
19:00
20:30
21:30
バズを狙ったツイートをする、Instagramのストーリー更新
22:00~24:00
ネットサーフィンで情報収集、翌日のブログの下書き、動画の構成考える
24:00
睡眠薬を飲んで寝る
当たり前のことを何をつらつらと書いているんだとツッコミを受けそうですが(笑)、
自分自身が自社や他社を見て感じたことを備忘録的に書いてみます。
中には理想論のように見えること、時にはそうせざるをえないこと、
ベンチャーだからこそ許されてしかるべきこと等もあるかもしれませんが、
組織の中にずっといるとその異常性に気付かないようなことや、
モヤモヤしつつも誰も異を唱えられなくなっていたりするようなことを、
改めて見つめ直してもらえたら幸いです。(もしくは、あるあるネタ的に捉えてください笑)
また、ベンチャー企業において、起業黎明期、拡大成長期、転換過渡期等のあらゆるフェーズを、
社員、中間管理職、役員、子会社社長等の様々な立場で見てきて感じたこと、
そして自分自身、下記のうちで実際に出来ていたことは決して多くないので、
その自責の念や悔恨の思いで書いたというのも正直なところでございます。
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→常にビジョンをぶらさず、口頭や文面等で全体に伝え続けるべき
→常に社内をしっかり見て、コミュニケーションにも時間を割くべき
→コスト部門という考え方を捨て、部毎の評価基準も別途作るべき
→重要な決断の際にはきちんと情報を収集し、しっかりと検討を行うべき
⑤派手な私生活、素行の悪さ、ワークライフバランスの崩れ等を見せてしまう
→私生活でも模範となり、そのライフスタイルも憧れられるようにすべき
→そういう時こそ早さとクオリティで手本にされるような対応を行うべき
⑦組織体制がころころ変わり、目標や計画の意味があまりなくなる
→組織としての在り方や評価基準を設け、目標や計画を意識させるべき
→任せる範囲をある程度絞り、個人の専門性も高められるようにすべき
⑨案件を選ばず、すぐにお金になりそうな案件や大型の案件に飛びつく
→短期的な売上に捉われるのではなく、しっかりと案件を選ぶ眼を持つべき
⑪採用に時間やお金をかけない、特にリファレルの場合は極端に人物評価が甘い
→少数精鋭だからこそ組織とのマッチングを重視して慎重に採用すべき
⑫社員に対して中途半端に隠し事をする、重要な情報の共有が遅れる
→できるだけオープンにし、小さなことでも即時共有できる仕組みを作るべき
⑬新規事業の結果が出るまでに待てずに、すぐに打ち切ってしまう
→やると決めた事業には、とことん人と時間を投資いて育てる覚悟を持つべき
→意思決定プロセスにも社員を巻き込み、腹落ち感や当事者意識を重要視すべき
⑮社員に対して心無い発言をしたり、無理やり経営者と同じ視点を求める
→社員の立場になって考えたり、社員に感謝やリスペクトの気持ちを持つべき
⑯働く場所や時間を無駄に縛ったり、細かいルールを作ってしまう
→成果を大事にし、性善説や個人の自主性を重んじたルール作りをすべき
→個人の抱えているタスク量を把握し、全体のバランスを考えて振るべき
⑱プロジェクト単位でのフィードバックをせず、反省を次に活かせない
→改善のための振り返り等を頻繁に行い、個々が成長できる仕組みを作るべき
→情報共有のためだけの会議はせず、人数も必要最低限に絞るべき
⑳クライアントやパートナーよりも自社の利益を一番に考えてしまう
→外に対しても嘘をつかず誠実に、長期的かつ良好な関係作りに努めるべき
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もちろん経営は綺麗ごとばかりでは成り立たないですし、
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1272519
事実誤認を含んだまま、無闇矢鱈とヘイトを撒き散らすのは止めないかい?
b:id:Dicer ヴィーガンって、フランス辺で肉食反対の暴力行為をしている集団だろ? ガン関係といい、ISと同列の扱いで良いのでは。
ヴィーガンは集団ではなく、完全菜食というライフスタイルの呼称です。
b:id:locust0138 トンデモさん全般に言えるけど、特にヴィーガンは自説に賛同しない人間を見下す傾向が強い。「肉食は残酷。動物を殺さない私は偉い」みたいな優越感が根底にあるから。
「肉食は残酷。動物を殺さない私は偉い」みたいな優越感については、エシカルヴィーガン(動物愛護の目的でヴィーガンになっている人)はともかく、純粋なダイエタリーヴィーガン(健康目的でヴィーガンになっている人)や宗教上の理由でヴィーガンになっている人などには存在しないと思いますが。
思うのは自由ですが、無実の人間を根拠もなく公然とテロリスト呼ばわりするのはどうかと思いますよ。
b:id:idea_glue ヴィーガンの人、バカは死ななきゃ治らないを地でいっている
ヴィーガンの人ってヴィーガン全般のことですか?それは主語が大きいのでは?
もしも、この人個人を指しているなら、あえてヴィーガンの人と属性を代名詞に使う必要なくないですか?
b:id:mouseion ヴィーガンが馬鹿だなと思うのはベジタリアンもだけど、生きとし生ける生物は野菜も水も例外ではなくそれは野菜や水を下に見てるからだから、こういう差別主義者はさっさと十穀絶って即身仏にでもなって死ねば良い。
ヴィーガンにも色々なバックボーンの人がいるので、そうやって一律でくくるのはとても雑で乱暴な考え方だと思います。例えばダイエタリーヴィーガンを志向している人たちにとっては流れ弾以外の何物でもないでしょう。
b:id:xevra ヴィーガンの有害具合は最悪だな。ナチュラルに癌患者を殺しにくる様はまさに死神。ヴィーガンの駆逐は急務だ。
もう完全に主語が大きすぎるし、言っていることも言葉のアヤとはいえ乱暴すぎます。
b:id:rameninngenn ヴィーガンのすることはいつも憐れな結果にしかならない.ヴィーガンベジソバな意識他界ラーメン店共々ヒューメンの敵だ.早くあっちの世界へ還ってほしい.
https://mainichi.jp/ch151138754i/%E3%82%B5%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%A0
会合後、遠藤氏は「20年五輪をきっかけにして低炭素社会をつくる。その一つとしてサマータイムがある」と記者団に語った。推進派は「五輪がなければこんなに話題にならなかった。議論していけば十分に五輪のレガシー(遺産)になる」と目標を軌道修正しつつある。
https://mainichi.jp/ch151138754i/%E3%82%B5%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%A0
研究会会長の河村建夫元文部科学相は会合後、「導入のための研究会だ。どのタイミングなら導入できるか、物理的にどうか、しっかり詰める必要がある」と記者団に語り、五輪後を見すえて議論を続ける考えを示した。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180928/k10011648431000.html
一方で、小池知事は「サマータイムで夕方の時間を活用するようになれば、別のライフスタイルで新たな需要ができる。オリンピックというデッドラインを外せば、検討してもいいのではないか」と述べ、東京大会と切り離して検討を続けるべきだという認識を示しました。
恋愛と生殖と共同生活と育児を全部セットで販売する戦略、色々不都合が多いのではないかと思うこの頃。
極端な話、女性を愛する女性が、女性Aと恋愛し男性Aと生殖し女性Bと同居して男性Bと育児するみたいな、そういうモデルもあっていいじゃないかと思うんだけど。
まあ育児と共同生活は切り離すのが難しいにせよ、恋愛・生殖・共同生活は割と簡単に切り離せるんだから、それぞれに相性が合う相手とやりゃいいと思うんだよな。
恋人としては最高だけど家庭人としては落第とか、同居人としては素晴らしいけど別に恋愛対象じゃないとか、
だったらそいつとは恋愛だけしてそいつとは同居だけしとけみたいな美味しいとこ取りができないもんかね。
まあ、そうしたいという人はとっくにそういうライフスタイルを選んでいるのだろうが。
なのかどうかは分からないけど、相対的にはそこそこ良いポジションで社会人に居ることができている。
もともと、教室の片隅でなんとか出席していただけの陰キャラが、他のメンバーの状況を勝手に判断しているだけにしか過ぎないけど。
本音を言えば、そう思うことでしか自己解決が出来ないだけだが。
小学生時代はそこそこイケイケ、中学生になるにつれ微妙に思春期を拗らせ、周囲とはうまく絡めず
休み時間は寝たフリをして机に突っ伏し、昼休みは自宅に戻ると言う鍵っ子だった。
なので、そもそもこの同窓会に参加したのもある種偶然というか、少なくとも当初の名簿には俺は存在して居なかったの無かったのだけど。
小学生時代の知り合いが名簿に俺を追加してくれたらしく、連絡が来て、同窓会に参加することになったわけだ。
ちょうど仕事で地元に戻る都合があったので、まぁついでなら、と思って参加した。
そこでは、昔の中高の青春について語るのがある主目的なのだから、そうなんだろう。
だけど、クラスでウェイウェイ系であった奴ほど、余りい良い現状には居ない。
明確には語りたがらないが、無職だったりフリーターだったり、ブラック派遣だったりする。
これらの境遇を差別的にみるわけではないが、ってここでそんな取り繕いに意味はないので、
まぁ、大変だな、って境遇にいるやつばかりだ。
中高と人と余り同級生と関わらず、無駄に勉強とかしていたからかどうかは別として
今だけを見れば、それでよかったんだ、
そう、あの時のつらさや青春を体験できなかったのは意味があったんだ
なんて、そう思う。思いたい。思わないとやっていられない。
結局、現状のステータスで、彼らよりも上だ、そう思わないと何というか、やりきれないんだ。
今はそこまでイケていないと勝手に思わざるを得ない彼らの語る青春は楽しそうだし、羨ましい、というのが結局の本音だ。
齢30を過ぎた今は周囲からある程度モテるような現状は認識している。
だけど、20代後半で初体験をした時に感じたそれは、なんか難しいな、と思うだけで喜びも驚きもなかった。
曰く、「青春なんて幻想だ、あんなものは実際無いんだ。」なんて。
だけど、同窓会で楽しそうに語る彼らの中には、実際あるように見えたし、少なくとも俺には無いということは分かった。
今こうやって、あこがれていた恋愛だのなんだのに遅れて参加しても、メンドクサイだけに思えてしまう。
それに、今はイケていないにせよ、彼らの多くは家庭持ちだ。
俺自身、家庭を持つということに対して自由を失うデメリットを引き算すると、あまり積極的になれない。
聞くに彼らは青春の勢いで恋愛し、結婚し、小作りし、家庭を持っているのだ。
価値観の多様化した現在において、その手のライフスタイルが必ずしも正道ではない、と言われていたりする。
これもネットを中心に。
まぁ、そうだよなと思う一方で、本当にそうかと思う。
結局のところ、青春を謳歌できなかった人間は人生において違うルートを歩まざるを得ないのではないか。
結婚した奴らが言うに
「この人と一緒に居続けたい、そう思ったから。」
というのが、その理由らしい。本当かどうかはさておいて。
今の俺には、恋愛というらしいことをする相手にそうは思えない、思えたことがない。
ただ、通れなかった道を振り返ると、思うんだ。
結局、青春を謳歌せずに、ジメジメした10代を過ごしたのが結局のところの原因だって。
分からないけど、あの勢いだけで走り抜けることのできた青春時代に走ることができれば
今がどうあれ、少なくとも大きな思い出という過去を持つことができるんじゃないかって。
結局俺は今のこの職業、そしてそこでそれなりにやれるという思い込みしかない。
過去には何もないんだ、今をすり減らして生きているだけなんだ、と思った同窓会。
そして俺は過去もなければ、未来に何かを今後残すこともないのであろう。
あぁ、あの時青春の道を通れなかったばかりに
と。
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20180910/1536574144
「地方の豊かな自然に親しむ子育て」って地方で子育てをするメリットとして語られるわけなんだけど、それってなんか有意の統計的な結果として現れてるものなのかなあ。たとえば、地方の方が都心部よりもいじめの発生率が低いとか、不登校が少ないとか、刑事事件が少ないとか。
寡聞にしてそういう統計を見たことはないのだけれど、印象論で言えば「豊かな自然に囲まれた子育て」って、彼らが喧伝するような「精神的な豊かさ」に、全く寄与してないように感じてる。マイナスの影響があるとまでは言わないけれど、いじめなんてどこでも同じように起きてるんじゃないかなあ。
「豊かな自然の中で子供を育てたい」って、それってたとえば「子供にピアノを習わせたい」なんかと似たような、ある種の親のエゴであって、きつい言い方で言えば、「親が他人にアピールしたいライフスタイルの小道具として子供を利用しているだけ」ってのはあるのじゃないか。もちろんそれはアーバンライフでタワーマンションで子育てをしたいってのも、全く同じような意味で、「田舎暮らし」とは別種の「アーバンライフ」っていうスタイルの誇示にすぎないわけだけど、だからこそその両者は、「そんなもの子供にしてみればどの親のもとに生まれるのか選択できないように、結局は生まれた親の趣味で育成される以外にない」という意味で等価でしょう。
なんかこう、最近の少子化につながる息苦しさの一端は、「子供を幸福に導かなければならない」「その意識がない親は害悪である」みたいな強迫観念にあると思うのだよね。いやあ、もちろん、親になったからには子供の幸せを願うし努力もするんだろうけれどさ、一方でその努力ってのはいつもどこか空回りで一方的であり、小児教育ってのは洗脳とほぼ同義であるってのは忘れちゃいけないと思うんだよ。
もちろん虐待はゆるされないわけだけど、じゃあどこまで子供に尽くせば合格なのか? みたいな競争を始めると、際限なく子育てのハードルが上がっていってしまう(そして実際自分でハードルを上げすぎて自滅して病んでしまう親もいる)。今回の件で言えば「子供を育てるために田舎に(あるいは都会に)引っ越すべきなのか?」みたいなのがそれ。正解を定義するってのは同時に正解以外、つまりは不正解を定義するに等しい。そこまでハードルを上げれば、ほとんどすべての親が失格になってしまわないかな。そして今生きてる殆どの日本人が「失敗した教育や環境で製造された人間」になってしまわないかなあ。
ネグレクト推奨という意味ではなくて、子供って(つまり人間という存在って)結局自分でかってに幸せになっていく生き物だよ。周囲の教育環境をキョロキョロ見回して、自分たちを減点主義で採点し、劣等感やら罪悪感をこじらせて結局子供にあたってしまう前に、「まあこんくらいでいいだろう」みたいな落とし所みつけるのが重要だと思う。
ネットを見ると、あらゆる疑問が大体解消される。
ここで言うのは学問的なことではなく、タコを柔らかく料亭のように煮る方法だったり、回るけれど抜けないネジをどうやってきれいに抜くか、美少女のイラストの色塗り方法はどうやったらあんなゲームみたいに描けるのか、鰹節の上手な削り方、みたいなこと。
あらゆる知識と技術は、大体googleで検索すると、書籍のHowto本を買う必要がないレベルで情報が出回ってる。
この傾向にいちばん最初にダメージを受けたのがゲームの攻略本。いまから17年ぐらい前にはもうすでにその価値が失われ始めた。
むかしはゲーム専門誌がゲームの裏技や小ネタをゲーム会社と話し合って「この時期にはこの裏技を出そう」とか決めてて、週刊誌が「おきて破りの全召喚獣ゲット方法」をフライングで書いてたのがスキャンダルになった時代。
しかし、FF10の発売したころには、もうすでに雑誌の攻略記事なんて誰も読んでなかった。圧倒的にネットの方が早く、攻略班がほぼあらゆるやり込み要素を共有してしまった。高校生に攻略本の話をしたら「なんですかそれ?」といわれた。
存在自体知らないみたい。
そんで、今はあらゆる情報が娯楽に限らずいろいろネット検索で手に入る。玉石混交だけれど、それでも大体のトラブルは知識としてはすぐ手に入る。
自動車の整備方法はおろか違法改造の仕方、その他かなりの専門知識まで、調べれば出てくる。
しかし、同時に「こんな簡単なことなら自分でもできる」とか「原価はこれぐらいなんだからもっと安くしろよ」という原価厨が湧きやすくなった。
マックのハンバーガーは一個数十円とかはともかく、実際には技術と練度が必要なものにまで、安くできるはずだという素人さんからの圧力? 要望? が増えた。
特に中年以上の高齢者に。高齢者ほど、技術への経費の概念が薄い。特にyoutubeのおもしろ動画やライフスタイル動画を見てるタイプは要注意。
わざわざ呼びつけられて、youtubeでやってるのを見たけれどもっと簡単にやってるぞ、高いから安くしろ、と値切りにかかってくる人間が多い。
でも、そう思うんだったら自分でやってみたらいいのになあとおもう。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1011051225
街並みや建築に詳しくないが、現代の日本の景観問題を、海外の良いところを取り入れる日本文化だという論はさすがに苦しいと考える。
下記は疑問点。
・景観で問題となるのは住宅等の外観である。現代においてライフスタイル等がここに影響を及ぼすことは殆どないのでは。
・仮に海外の文化など良いところを取り入れた結果であるなら、日本国内でも地域ごとに住宅の外観が「合理的な形に」確定する筈ではないか。街並みに統一感がないと批判されるようになるのは辻褄が合わないと感じる。
歴史的でない現代の建築に風土による地域が見られるという論を私個人は聞いた記憶がないが存在するのだろうか。
「諸外国の文化やスタイルを巧みに取り入れ、それを自分のものとする能力は他国より抜きん出ています。つまり、「混合」されて培ってきたスタイルが、まさに「和風」なのです。」が景観問題についても当てはまっているという根拠が無い。
・海外の良いところを取り入れるスタイルならば、それが現代になって問題となったのは何故か。
例えば、住宅にエアコンを取り付けるとか、WIFIを設置するとか、掃除ロボットが自宅にある等のように技術面の成熟だったり普及が必要だったものは分かるのだが。海外の外観を取り入れるのであればもっと早い段階に進んでいかなかったのだろうか?
糞フェミはananも批判しろよと怒るよりも、ananだってやってんだから俺らだっていいだろがよ、と主張する方がポジティブだと思うんだけど。そうならないあたり結局のところ女憎いが原動力であって表現規制を許さないという高尚な話は後付けだったんですよね?と邪推しちゃうけども。
私は女だけど、水着グラビア表紙の男性向け雑誌やananセックス特集もSPA!とかと、明確におかずコンセプトの本やマンガと、それ以外、の3つのゾーニングがあれば一番快適かねとは思う。R12、R18、ノーゾーニングぐらいの。
そもそも男性はあんまり読まないだろうから知らないのかもだけど、ファッション誌とかでもananのようなライフスタイル誌でも、女性誌って下品で下世話な内容が何らか入ってるものが多いよ。多くの場合は読者体験談みたいなページとか。あとはanan的なものとか、医療的なものまであるけど、分量やエロ成分はその雑誌のコンセプトとか広告内容(CHANELの広告が表2に入るような雑誌では流石にやらない。それはまぁ男性誌でも同じだろう)。
ananセックス特集だめだろうと言うなら、それ以前に小学館の少コミとかBLとか、フェミ視点とは別に年齢ゾーニングが要るだろうよとは思う。BL、TLはリアル書店だと売り場分かれてたりするんかな、知らんけど。でも電子だと普通に読めちゃうしね。見えてなきゃいいってわけでもなかろう。
いまや日本の若者の大半がネットに接続してSNSのアカウントを持っている時代。つまり、SNSをしている若者が必ずあなたの近くにはあるわけだ。だから犯罪のツールにネットがあるというのは、その意味では当然だ。
もちろんそれが非行と直接関係しているわけではない。全国に張り巡らされたインターネット網とIT、それに伴う社会の膨大化によって、今までの日本の地域社会の流動化と不安定化が進み、非行を誘発しているのだ。かつ若者の高知能・所得のばらつき・欧米化により、市民が日常的に目の届かない地域で非行が拡大し、それにより初動が遅れる。
おそらく、暴走族の活動範囲も、昔であれば地方の幹線道路沿いに限られていたのが、都会のインナーシティや住宅街などにまで分散しているはずである。田舎だけを見回ればすむ時代ではなくなった。しかも暴走族そのもののゲリラ化が進んでいるために警察の対処がますます困難になる。こうした理由から、近年都市部を中心に暴走族が異常発生しているのであろう。
さらに、IT技術の高度化により、物的証拠などによる捜査が困難になっているという。特殊詐欺なんて昔から多いじゃないかと思うかも知れないが、インターネットを用いた詐欺事件の続発という状況は、この5年ほどに起きた現象だ。2017年に社会問題になったランサムウィルスも、手口が巧妙で何の手がかりにもならない。日本中の人間が、アメリカやヨーロッパなどと同じ環境に生きるようになったので、事件の手口がつかみにくくなったのである。
かつ、日本社会のテクノロジー化は、日本国内のコミュニケーションとコミュニティを消滅させた、あるいは衰弱させた。振込みでも銀行のATMを使わなくなるようになり、スマホやワンタイムパスワードの機械が重要になった。書店の仕事量は減り、定額で本読み放題という価値観が広がった。そうなると、メディアのビジネスも益々やりにくくなる。まして読書やメディアチェックすらパソコンやスマホで済ませる人がほとんどすべてになれば、新聞やテレビの収益も減る。休日の移動で満員電車を使わなくなれば、鉄道会社の収益が減る。都会の税収が減って益々不景気になるのだ。
YouTubeで立て続けに犯罪が多発したというのは、どういうことなのか?犯人の顔を知っている人が隣近所にもいなかったのか?まったく不思議だ。コミュニティが衰弱しているのは地方だけの問題ではなく日本全体の問題であると考えなければ理解できないであろう。
こうした日本全土の極端なファスト社会化の大きなメルクマールがアマゾンだ。ネット化が進めばアマゾンが台頭するし、アマゾンが便利になればますます個人化が進む。テクノロジー化による個人化が進んで、コミュニティが崩壊し、流動化した地域社会は犯罪を抑制する機能が低下している。あらぬところから道路や鉄道に乗って、どんな犯罪者が来るかも知れない。犯罪者も腹が減るから、たまには仮想通貨支払いで食事をするであろう。しかし周りに知る人はいない。そして駐車場で、たくさんあるアカウント情報のなかから気に入ったアカウントを盗めばよい。
最近のネットやテレビのニュースを見るとゲリラ化したヤンキーによる事件が毎日のように発生している。後から出てきたニュースもどれの関連ニュースなのかわからない。業務妨害事件といってもどの事件なのか、毎日のように起きているから分からない。しかもほとんどの事件が貧困層やマイルドヤンキーがうようよいるような地方ではなく、景気のいい大都市部で起きている。
ゲリラ暴走族が発生した道路を見ても、都心かと思えるような立派な地区も多い。だから地域的には申し分ない所なのに何故醜悪な事件が多発するのだろう。特に暴走族事案が目立つのは何故だろう。子供が荒廃しているとか家庭が荒廃しているとかは前から言われていたことだが、それ以外にも国民のコミュニティーが崩壊していることも原因の一つだろう。
もちろんネット社会が悪いわけではない。経済の合理化や近代化は時代の流れで避けて通る事が出来ない。ネットが便利なところは活性化するしネットそのものが雇用も創出する。外出せずに食品から生活用品まで全て買い揃える事が出来る。自宅から車で買いものに出かけて大量に物を買って車に積んで帰ってくるような生活が車無しでできる。まったくアメリカの田舎のような生活が日本社会に定着した。
私の若いころには便利なネット環境や高度なネット文化はない。用事のときは必ず外出していた。ところが現在ではネットが一人一台の時代が来て、買いものはネットショップで買いものするのが普通になっている。貧乏人がクレジットカードを持っていないのは過去の話だ。クレジットカードの審査はより甘くなり、手数料の無料かも進んでいる。
その結果、東京の都心で小銭やお札をお店で目にする機会は少なくなった。持っているのは地方からの観光客か未成年者ぐらいだ。だから日本でも現金を持ち歩く事がなく生活できる。もちろん地方都市は今でも現金が手放せないが、大都市部のチェーン店や富裕層が訪れる地域ではカードの普及が進んでいる。
このようにテクノロジー化した社会ではたとえば事件が起きても犯人の捜査もままならず、犯人もあらゆる手口を使って広範囲に移動するから警察も適応できない。今までは免許を持たずに生活していた階層が免許を取るようになった。オートバイを乗り回す高校生は現実になり、それに対する不満も生まれない。近所づきあいも薄くなったから事件の芽があっても近所も気がつかない。
このような環境が学生たちにも悪い影響を与えて、学生の非行の増加にもつながっているのだろう。戦後のアメリカで起きた青少年犯罪の多発が日本でも起きているのだ。一見歴史ある町並みの地域で青少年犯罪が発生するのはなぜか。そのような環境では家庭も個人も孤立してしまうからだろう。
小説や漫画やテレビドラマのような社会が現実に出現している。SNSを用いたゲリラ暴走族もアメリカ型少年犯罪の象徴だ。日本もテクノロジー社会がやってきたからそのようなライフスタイルが実現した。つまり日本も欧米のような犯罪多発社会になってもしかたがないのだろうか。チーマーやマフィアや極○も衰退し大人が子供を狙う犯罪も激減した。多くの人が未知の人間と寄せ合って生活している。日本にあったコミュニティーは崩壊した。
日本では欧米のような社会が理想であると教え込まれてきた。だからこそ誰もがネットに接続しそれで買いものや昔ではATMでしていたことをする。しかしその理想が実現したとたん青少年の非行化と犯罪が昔のように多発するようになった。凶悪な詐欺事件も増えた。日本はこれでいいのだろうか。コミュニティーを再建するにも社会そのものの流動化で無理だろう。
育児のリアリティを表現したいって言っておきながら、世帯収入が庶民からかけ離れすぎてて全く感情移入できなかった。
あんな家を建てておいて、土地の余ってる田舎かなって思ってたら横浜かよ。
完全オーダーメイドで木造以外の構造含めると建物だけで5~6000万、無駄に土地を広く使ってる分だけ設計除いても1億は堅い。
共働きしてた頃の世帯収入が1000万オーバーは確実で、あの若さを考えると2000万近くないと無理かもしれない。親の金だっけ?どっちにしても妬ましい。
そんな余裕のある生活の中で育児あるあるを見せつけられたって、お説教されている気分にしかならなかった。
証拠に、7歳と4歳の子供連れて夫婦で見に行ったけど、全員共通の感想は「なんかずっと怒られてるみたいだったね」だったからね。
そりゃあそんな裕福な生活してれば全員身勝手になりますよね以上の感想がない。
ついでにいうと家の作りが子育てに向いてなさすぎて、くんちゃんがなにかする度に気になってしまってストーリーに全然集中できなかった。
おもちゃの部屋に行くために玄関に続く急な階段の横を通らなきゃならないし、生活空間から子供部屋が離れてしまっているからいつ勝手に玄関を出ていってしまってもわからない。
玄関扉が子供には開けられない作りなのかと思ったらすんなり開けるシーンがでてくるし、この親育児向いてねーわ。
家の中に危険がいっぱいあるのは仕方のないことだけど、わざわざそういうデザインにしたっていうなら設計士としては無能の極み。
たまにいるよね。ライフスタイル変えたくなくて育児破綻している人。特に余計なお金持っている人に多い。
特に人文系において、大学や研究を取り巻く環境が厳しいので、少し愚痴を書かせていただきたくお邪魔します。
* * *
研究生活が実生活、ことに家庭生活に対し極度の不安定性を与えることは、今日に始まったことではない。
例えばかの有名なマックス・ウェーバーによる1919年の講演の中では、「大学に職を奉ずるものの生活はすべて僥倖の支配下にある」と語られており、「精神的に打撃を受けることなくこうした境遇に堪ええたためしは極めて少ない」とまで言われている。
このような状況は、100年の時と洋の東西とを超えた今日の日本においても、同様である。むしろ、人口減少と学問に対する軽蔑——それはおそらく、ウェーバーが講演の中で強調した、学問がなんの「救い」も「啓示」ももたらさないということを、多くの人々が正しく認識したからに他ならないが——に直面している極東の島国の方が、研究生活を取り巻く環境は過酷であるといえるだろう。
博士号を取ったとしても多くの人々には就職先がなく、あっても有期雇用で、しかも低賃金であり、長期的な研究生活の途を描くことは全く不可能である。
日本より恵まれた研究環境を有する国、例えば博士課程から給与が出るアメリカや、高等教育がほぼ無償であるフランスの例を持ち出すことは簡単である。しかし、研究生活はその研究者が根ざしている言語、文化、あるいは人的ネットワークにある程度は依存せざるをえない。また、他国の研究環境は、一部だけを切り出せば外面的には羨望の的になりえるが、実際は、給与と引き換えに研究テーマの選択が制限されたり、あるいは無償で得られる研究環境には限りがあったりするのである。
当然のことながら、研究者における研究成果はそれぞれのおかれた研究生活の諸条件に左右されるのであり、それは資本的な制約を大きく受ける理工学系のみならず、人文系についてもそうなのである。
ハンナ・アーレントのように、生地での生活を根こそぎ奪われ、新天地で大きな研究成果を挙げる例もないわけではない。大学や官職への道を閉ざされてから活躍したカール・マルクス、そもそも学歴のなかったピエール・プルードンなども、偉大な思想家としてのちに崇められる存在である。しかしながら、すべての人が偉大な人、指導者のような人、あるいは預言者になることを目指して研究に励んでいるわけではない。実態はむしろ逆であり、陽が当たらない部屋で日がな一日、誰も読まないような古雑誌の1ページをどう解釈するかについて考え、その謎を解けた時に無常の喜びを感じる、そういう人が研究生活に入るのである。そのような、全くつまらないことこそ重要な研究成果なのであり、むしろ大きな社会的反響を呼び起こす御宣託が科学的な研究成果とは全く呼べないようなものであることは、ウェーバーの指摘するところであり、歴史が度々証明してくれたところでもある。いずれにせよ、研究生活とは社会的名声や富と全く関係がないどころか、資本主義社会ではしばしばそれらは相反するものとなるのである。
尤も研究者も所詮人間であるからして、研究そのものの「客観性」や科学の位置付けとは無関係に、それぞれの求める研究生活上のあり方というのは存在する。名声や富を求めて研究に取り組む人もいるのかもしれない。しかしそれは明らかに悪手だ。羽生名人でも挽回できないぐらいの悪手だと思う。
* * *
さて、反面、家庭生活はまさに「経済」の必要に駆られるところのものであり、十分な収入、定住可能な住居、そして可能な限り多くの家事労働(自動化が進んだとはいえなお労働集約的だ)が投入されて、初めて成り立つものである。
収入がないなどもっての外であり、亡命や収監、失踪や放浪なども、家庭生活とは相容れないものである。
歴史を顧みれば、自死や発狂、子捨て、虐殺に至るまで研究に身を置いた人々の末路は様々であるが、なんとかしてそのような事態は避けたいと誰しもが願うところであろう。
できれば平穏無事に、昭和時代に理想とされたライフスタイル、すなわち夫婦円満で子供と共にマイホームに住み、安定した立場で働き定年後は年金生活という人生を歩みたいところである(これは皮肉である)。
しかし今日の若き研究者は、子供はおろか結婚もままならず、マイホームもマイカーも持たず、年金制度の破綻を前に怯えながら年老いるのである。
もしあなたが結婚したとすれば、それはパートナーの全く寛大な心によるものか、パートナーが無知蒙昧で完全に誤った選択をしたかのいずれかであろう。
さらに子供がいるとすれば、当然あなたは研究生活を放棄するか、あるいはなんらかの安定した不労所得に拠って研究生活と家庭生活の両立を試みねばなるまい。(あるいは、あなたが非常に体制と時代に順応的な研究をなしていたとすれば、すでに十分な収入に恵まれているかもしれない。これこそウェーバーの言った「僥倖」である。そういう人には心から祝福を送ろう。願わくば同じような僥倖が数多の迷える研究者たちにあらんことを。)
多くの研究者たちにとって、結婚と出産は研究生活の首にかけられた縄である。
女性研究者の研究生活は性別的役割分業的発想や家庭生活に対する支援をパートナーから十分に得られないなどの理由によりすぐに縛り首になってしまうが、男性研究者の研究生活も同様に性別的役割分業的発想や金銭的支援をパートナーから十分に得られないことですぐにギロチンにかけられてしまう。
いずれにしろ、他者にとって金にならず有用性のわからない行為としての研究は、家庭生活に直面すると挫折する公算が大きいのである。
だからといって、家庭生活を全く否定してしまうことも困難である。穂積陳重以来日本の身分法学者は、日本国民の位置付けを次の三つの身分のいずれかあるいは複数に属するものと定義した。すなわち、夫婦、親子、親族である。
しかし、親が死に、結婚もせず、親族との紐帯も弱いとなれば、その人は社会的にも法律的にも、全く孤立した存在となってしまう。
その人は十分な社会保障の対象にならないことはもちろん、社会生活上の様々な面で制約や不利益を受けることとなる。
実際上の問題として、社会的要請として家庭生活に入ることを我々は求められており、多くの人はその生活が全く不幸であり耐え難く絶望的なものだと感じていたとしてもなお、家庭生活に甘んじているのである。
当然、研究をしていなければ家庭生活が楽になるとは全く言うことができない。しかし、少なくとも研究生活が家庭生活と激しく対立することであることは自明であることのように思われる。
あるいは「家庭」という理想像の崩壊、高齢者二人世帯や単身世帯、シングルマザーの増加、生涯独身者の増加などによって、家庭生活という名付け自体が空虚なものになっているという批判があるかもしれない。
しかし反面で、なお結婚と出産を経験する人は半数を占めており、「家庭」に代わるほど普遍化された結婚と出産を前提とした私的領域の生活のモデルはいまだに存在しないわけだから、やはり家庭生活という呼称を用い、特に若い研究者たちにとってはそれを重視せざるを得ない現状もあるのだ。
* * *
収入、定住、家事労働を求める家庭生活は、無収入、度々の転職と転居をもたらし、にもかかわらず時間の余裕を求める研究生活とは、完全かつ深刻に対立する。
では、この間の解決はどのようにしてもたらされるのか。非研究者であるパートナーの忍耐によってであろうか。あるいは研究生活の適度な抑制によってであろうか。
前者はこれまでの男性研究者がしばしば採用した方法であり、女性に人権がない時代であればよかったが、21世紀にもなってこの方法を採用しようと思っている人がいるなら、その人は妻を見つけることができないであろう。
後者の方法は、実際には採用し得ないものであり、つまりそれは相撲レスラーが炭水化物の摂取を控えるとか、プログラマーが1日3時間しかモニターを見ないようにするとかいう話であって、研究生活を「適度に抑制する」などということは単に研究生活の否定でしかない。
研究者はその人をして全的に研究に没頭せしめなければ、素晴らしい「霊感」を得られないものである。そうでなければ、特に人文学の研究においては、それは単なるジャーナリズムに陥るであろう。
そして、これもウェーバーと同じく声を大にして言いたいところであるが、そのような素晴らしい「霊感」、今日の言葉であれば「イノベーション」などというものは、研究のみならず仕事や様々な形の労働の中でも、それに没頭し専心していなければつかむことの能わざるものであり、行政府が旗をふって労働時間の長短や職業訓練の有無をいくら弁じ扇動しようとも、生まれてこないものなのである。
家事労働、ワークライフバランス、長時間労働の問題は、まさにこの没頭の可能性にあるのであり、特に家事労働は時間を細切れにしてしまうために人をして何かに没頭させることを妨げること大である。ワークライフバランスも、結局その目的とすることが明らかでないから低賃金かつやることのない中途半端な余暇をもたらすだけである。長時間労働を改善しても、人々が自ら欲するところのものに取り組めるような労働時間の設定でなければ、それが長かろうが短かろうが、人々の不満は変わらない。いくら労働時間が短いとしても過労死は起こりうるし、長く労働していても過労死しない場合があるのは、この理由によるのである。
とにかく、家庭生活の求めるものを根本的に否定しなければ、研究生活は成り立たないのである。
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では、解決方法は何か。家庭生活の問題点は、それが夫婦という二者で成立するように想定されていることである。それゆえ、収入と定住を男性が支え、家事労働を女性が支えるという構図が出来上がった。
しかしこの想定は噴飯ものであり、シングルマザーは全て一人でやらざるを得ず、あるいは逆に親族からの支援で収入の不安が軽減されたり、実家を譲り受ければ定住も可能というように、家庭生活の諸条件の実現は夫婦という関係性の外部で決まっていることが多い。
もし家庭生活に関与してからも研究生活を継続するためには、家庭生活を成立するためのリソースを外部から調達することが最も望ましい。(逆にいえば、外部からのリソースが調達できなければ、ついにここで研究生活のお墓を立てるしかない。自分の研究というアイデンティティよ、さようなら、と。)
ただ、ここには二つの問題がある。一つは、リソースの調達先である。大川周明のように徳川家から調達したり、大杉栄のように政治家からぶんどってくることができれば最高だし、あるいは明治時代のように女中を置いたりできれば最高だが、なかなかそういうわけにはいかない。もう一つは、その調達が個人の能力に帰せられることで、研究の能力とは別にそれに取り組む環境が規定されてしまうということである。
この二つの問題を解決するためには、若い研究者同士で研究生活を支えるための生活ネットワークを構築するしかない。あるところには金がある人もいるだろう、あるところには手が余っている人もいるに違いない。
どうせ研究生活に勤しんでいる人以外に若い研究者に対して同情を寄せてくれる人はいないのである。
アカデメイアやリュケイオンがどうだったかはわからないが、古今東西大学に併設されている寮や大学街(カレッジ)では生活上でも学術上でも研究者のコミュニティが形成されていたはずだ。修道院のようなものである。
いま、若い研究者は官僚主義的な大学制度によって互いに分断され、地方に散住し、有能なものは国外へ出て行ってしまっている。もう最後のタイミングである。
いま我々若い研究者が団結して助け合わなければ、この国の研究はすぐになくなる。もし研究のなくなり方が緩やかであれば、日本語で達成された学術的成果を、多少なりとも国際的に、人類のために遺す時間的猶予が生まれるかもしれない。あるいは、国外から救いの手が差し伸べられるやもしれぬ。「タコツボ」を脱しなければならない。近くで助け合って生活し、なんなら雑誌なども出して(いまであればブログでいいのかもしれないが)、特に人文系では消え掛かっている研究の灯火を、なんとか引き継いでいかねばならぬ。ならぬと思う。
http://nozawa22.cocolog-nifty.com/nozawa22/2009/08/post-b8c3.html
D「ボクは戦争はしてもいいコトだと思っています。自分の家族が殺されそうになったら、自分は戦います。当たり前のコトです」
D「ええ、そうですね。それにそれも戦争です。それが戦争じゃないと言えるのですか。」
D「当然です。それは」
うじき「当然と言っていながら、戦争はしてもいいといっているじゃないか。
父親が戦争に行っているということは、ものすごく自分の人格、人生に大きな影響を与えている。
大きな影を落として、物凄く大きな影響を与えていつ。
人生の中のどこかで、もしかして勘違いして、何か突き進んでしまう瞬間があるのではないか。恐怖心がある。
やっぱり、怖くて聞いていなかったのかナ。
自分もウチの親父は息子にだけは伝えたくないというコトではなく、後世の人に伝えておきたいという意識はなかったからね。
D「(うじきのお父さんは)誰にも話したくないけれど、息子だから話すんだと言っていましたよ。それはどう思いますか」
うじき「そんなコト言っていたの?」
D「お父さんが話さなかっただけではなく、僕らの世代も聞かなかったことも、
まあ、うじきさんみたいにこうして真剣に聞かれる人もいるけれど、ほとんどの人は聞いていない。うじきさん、がんばってください。」
うじき「なんだ?それ. …ウーン」
楽しんで死体を運んでいるかの様に言っていたが、そうではないと思います。
うじきには、そういった部分も理解できない様でした。
その前に、自分のポリシーとして、ライフスタイルとして、国民、国家、世界を幸福に平安にするという事に日々活動しているべきです。