はてなキーワード: クリアとは
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https://anond.hatelabo.jp/20200904203318
ビジネス本を根拠として、娯楽を健全と不健全に分けるのは余計なお世話とか、「人間」と「作者という存在」を同一視するのは不健康とか、コンテンツを精神的に健康/不健康で断ずる行為はよくないなどの意見をいただいた。
特に、「私自身が敵意を持って何かを貶めたい意図を持っているので、記事そのものが精神的に不健康である」という意見には唸らされた。
一般に販売されているゲームで、自分がクリアしたことのあるものに該当はなかった。
やはり倫理基準があるので、人権侵害をメインに扱ったゲームは審査を通りにくいし、そもそも売れないのだろう。
それに、私がここに書かなくても、「グロ 残虐 ゲーム」などの単語でググってもらうと、有志がそういうコンテンツを紹介しているページに易々と辿り着くことができる。
なので、今回はフリーゲームを取り上げたい。フリゲは主に個人が制作するものなので、その人の心の健康がありありと現れる。考察にはうってつけだ。
以下に紹介する。できるだけネタバレはしない。
見た目はほんわかしているが、中身はエログロ(特にグロ)。見た目はMOTHER2のような暖かい印象を受ける。
プレイを初めて1時間以内に、このゲームの異常性に気が付くことだろう。気持ちが悪いタイプの異常性ではなくて、続きが気になるタイプの異常性だ。
ネーミングセンスが独特であり、作中の随所に現れる。
どこが精神的に不健康なのかといえば、ストーリーの救いのなさだ。特に2。1と3は、グロ展開を挟みつつも笑えて感動できる物語なのだが、2はとにかく救いようがない。
特にラストステージ。人によっては恐怖で進めなくなる。ニコニコ動画の実況プレイ動画にも、「怖すぎて〇〇さんの動画に来ましたwww」といったコメントが並んでいる。
私自身も当時は震えた。深夜1時頃にクリアしたのだが、翌日にあった英語の演習でミスを繰り返したのを覚えている。
あの時の私は、恐怖を感じていたんだろうか?
違うと思う。あのラストステージというのは、ぱりぱりうめというキャラクターの抱える苦痛や嫉妬や絶望や愛や夢が、画面を通じてプレイヤーを殴りつけるとしか言いようのない展開だったのだけど、その感情に心を揺さぶられたのだ。だから涙が止まらなかったのだと今では思う。
大学生4人(男2女2)が旅行に行く。そのうちの一人が入巣(いりす)京子。旅行先で楽しんでいる途中、事件が起こって1人ずつ行方不明になっていく。
パズルゲームでの得点によって物語が分岐する。バッドエンドだと、いりすが友人を したのを示唆するEDになる。高得点を取ると、行方不明は友人たちによる仕込みであったことがわかる。サプライズな誕生日パーティーをしたかっただけなのだ。
プレイを続けていると、ゲームフォルダ内のデータが少しずつ置き換わっていることに気が付く。テキストファイルや画像データが現れたり消えたりする。
最後までプレイすると、いりすのキャラクター性や、旅行について考えていたことや、男側の主人公であるうーじの抱える闇が明らかになっていく。
いったいどこが精神的に不健康なのかというと、〇〇と見せかけて、実は〇〇でした!みたいな展開の連続であり、特にその裏側に残虐性(しつこいようだがネタバレはしない)が潜んでいる。
以前の作品である「愛と勇気とかしわもち」でもそうなのだが、プレイヤーを悪い意味でビビらせることに全力を注いでいる。
プレイヤーの心臓に冷たい何かが突き刺さって、心臓が凍り付いて、血管が破裂するような恐怖を味わわせることに作者は快感を覚えているのでは?と邪推せざるを得ないほどに、このゲームはプレイヤーを驚かせてくれる。
数あるフリーゲームの中でも最大級の――精神的に不健康な作品だ。
ゲーム冒頭の説明にあるように、精神疾患の人や未成年は絶対にプレイしてはいけない。一般の人にもおすすめできない。やっていいのは恐怖を快感に変換できる人だけだ。
体調がおかしいと思ったら、プレイしている最中でも中止すべきだ。例えば、2周目に入ったあたりで、「ここで止めたら負けだ」とか、「モニカ、てめーは絶対○す」などの感想を抱くかもしれないが、それでも途中でやめるという選択はありだ。
作者、特に2周目の恐怖演出を担当した人間の悪意が突き刺さってくる。どのような理由でも説明できないほどに悪趣味な演出だった。
「このゲームを作った人たちは、学生時代に苛めや虐待などのひどい目に遭って、社会に恨みを持つようになったんじゃないか? だから、こんな残酷なゲームを作って社会に復讐しようとしたんじゃないか?」
私はそう推測した。
「違う。このゲームは高い評価じゃないか」という意見もあると思うが、典型的な確証バイアスだ。別の言葉で言えば、コミットメントと一貫性。
プレイヤーは、恐怖と戦いながら数時間~数日をかけてゲームをクリアする。敵だと思っていた存在は、自分のことを(以下略)。ハッピーエンドではなかったけど、恐怖に打ち勝ってこのゲームをクリアできた。俺はチキンじゃない!
終わり良ければ総て良しという言葉がある。悪趣味な演出にどれだけイライラしたとして、最後までクリアしてしまった後で、このゲームをプレイした時間が無駄だったと認めることはできない。
そんなことをすると自分は愚か者だったことになる。だからこそ、個性的なゲームだったね、just monicaだったねと高い評価を与えることで、自分の考え方と行動に一貫性をもたせようとする。それがこのゲームが高く評価される理由のひとつだ。
今までにないタイプのゲームだったのは間違いない。ホラーゲームが好きな人にとっては珠玉の一品だったと思う。私も、このドキドキ文学部!に評価を投じた。★4つだったと記憶している。
名前だけは聞いたことがあると思う。エログロかと言われればそのとおりだ。
この作品は、上下巻の約700ページ(しかも行間がほとんどない)に渡って以下のような展開が続く。
①ジュリエット(とその仲間たち)が乱痴気騒ぎを起こして一般人を強姦したり殺したりする
②騒ぎの最中かその前後のパートで、ジュリエット(とその仲間たち)による哲学論議が行われる
③ジュリエット(とその仲間たち)が不仲になって仲間を殺す。あるいは新しい仲間を作る
エログロ小説と世間では見られているが、実は哲学小説だ。作者であるマルキ・ド・サドは貴族出身でありながら、変態行為が露わになって逮捕→投獄というパターンで小説を書き始めたタイプの人だ。
この小説が有名になった理由のひとつは、サド自身が社会に対して抱いていた恨み(今でいう反社会性障害?)から生じるエログロ描写の反面、その知性や教養から精緻に描かれる人間社会に対する哲学的な理解の鮮やかさが奇妙なほどマッチしていることによる。
哲学的な描写の例として以下の例を挙げる。主人公であるジュリエットの序盤の師匠であるデルベーヌ夫人の科白だ。この小説のキャラクターは喋りの量が半端ない。ドストエフスキー並みだ。
※一部のみを抜き出した。この場面の文字数は引用箇所の軽く数倍はある。
「まあ!」とあたしはデルベーヌ夫人に申しました、「それではあなたは、御自分の評判などどうなったってかまわないほど、無頓着でいられるというのですか?」
「そのとおりよ、あなた。本当のことを言うとね、あたしは自分の評判がわるいという確信をもてば、ますます内心で愉快を覚えるの。そして評判がよいと知れば、まあそんなことはないでしょうけれど、きっとがっかりするでしょうね。いいこと、ジュリエット、このことをよく覚えといてちょうだい、評判なんてものは、何の役にも立たない財産なのよ。あたしたちが評判のために、どんな犠牲を払っても、けっして償われはしないのよ。名声を得ようと躍起になっている者も、評判のことなど気にかけない者も、苦労の多い点ではどちらも同じよ。前者はこの貴重な財産が失われはすまいかといつもびくびくしているし、後者は自分の無関心をいつも気に病んでいるの。そんなわけで、もしも美徳の道に生えている茨が、悪徳の道に生えている茨と同じほどの量だとしたなら、いったいなぜこの二つの道の選択にあたしたちは頭を悩ますのでしょう、あたしたちは自然のままを、思いつくままを、そのまま素直に信用していればよかりそうなものじゃありませんか? P.16
今時の心理学の本に載っていそうな感じではある。アドラーの『嫌われる勇気』に通じるものがある。
悪徳の栄えで論じられている思想はニーチェやハイデガーに通じるものがある。この世に存在し続けるものに重きを置いている。
私にとっては面白い小説ではなかった。万人にお勧めできるものではない。というのも、哲学的な論考はあるものの、残虐な場面や、人間的に醜い描写が多く登場するからだ。
今のコンテンツでいえば、『ダイナー』が一番近い。ダイナーを哲学的な内容にすると現代版の悪徳の栄えになる。
私が読むのをやめようと思いかけた場面のひとつを挙げる。ジュリエットが、師匠の一人であるノアルスイユという金持ちに気持ちを打ち明けるところだ。
※上を含めて、引用箇所を探して打ち込むのに2時間半もかかってしまった…いずれにしても引用が多すぎる。これで最後にする。
「おお、 ジュリエット、おまえはまだ全部を知ってはいないからそう言うが……」
「なら全部すっかり話してください!」
「おまえの父御さんや母御さんのことだがな……」
「どうしたと言うんです?」
「生かしておいてはおれのために都合が悪かった……息の根を止めてしまう必要があったのだ。で、二人ともばたばたと死んでしまったのは、おれが彼らを自分の家に招いて、ある飲物を飲ませたからだ……」
ぞっとあたしの総身に冷たいものが走りました。だがすぐに、自然があたしの心の奥底に刻みつけた、極悪人にふさわしいあの無感動な冷静さで、あたしはノアルスイユを正面からじっと見据えながら、「人非人! 何度でもこの名を繰り返してやりたい」と叫んでおりました、「あなたは見るも怖ろしい男です、でもあたしは、そういうあなたをやっぱり愛しております」
「ああ、そんなことあたしに何の関係があるのでしょう? あたしはすべてを感動によって判断します。あなたの兇行の犠牲となったあたしの家族は、あたしに何の感動も生ぜしめてはくれませんでした。けれどあなたがあたしにしてくれたあの犯罪の告白は、あたしを熱狂させ、何とお伝えしていいか分らないほどな興奮の中へ、あたしを投げこんでくれました」 P.57~P.58
ノアルスイユはジュリエットの父母を殺している。そのせいで、裕福だったジュリエットは修道院に送られて貧しい生活を送り、やがては売春宿で働くことになった。
その原因を作った張本人であるノアルスイユに対してこのような言葉を出してくるところに、この悪徳の栄えの醜悪さを感じた。読者をダークサイドに送り込もうとしている。
物語の中で悪事を働く人間の基本になっている考え方のひとつに、「悪事をする人間は自然に有益である」というものがある。考え方自体はとんでもないのだが、文学者が翻訳を務めている関係でやたらと格調高い文章になっており、それが読者の心に響いてしまう。
年末年始を使って上下巻を読んだのを覚えている。今では読むべきではなかったと後悔している。
いわゆる鬱小説というやつだ。心が痛くなるコンテンツ。とにかく痛い。この本も読むんじゃなかった。アマゾンで高評価がついていたので出来心で買ってしまった。
この小説のいったいどこが精神的に不健康かといえば、「いたいけな少女をいたぶること」を主眼に置いているからだ。
アメリカの田舎町に暮らす主人公のデイヴィッド(12)。ある日、隣の家に住んでいるルースのところに、両親を亡くしたという快活な美少女メグ(13才以上)が妹のスーザンと一緒に引っ越してくる。デイヴィッドはメグに心を奪われる。ザリガニ釣りから始まって、次第に仲を深めて、お祭りの観覧車に一緒に乗る。花火が綺麗、みたいな描写だったのを覚えている。
という言葉が脳裏をよぎった。まだ未成年だった頃、某動画サイトにアップされていた『true tears』というアニメを見ていた。眞一郎と乃絵が仲睦まじくしている様子を見て、ほかのみんなが一斉にこのコメントを打ち込んでいたのを思い出した。
この小説は、読者に精神的な苦痛を与えることを目的として、メグに対してありとあらゆることをやってのける。
メグは何でもされる。肉体的な苦痛から精神的な苦痛まで、何でも揃っている。
巧妙なのは、このメグというのが優秀設定のキャラクターであることだ。
運動神経は抜群で頭がよく、そのうえ美少女ときている。いわゆる利発キャラ。例えば、虐待が始まってすぐの段階で地元の警察に相談に行っている。普通の子どもはこういう行動を取ることはできないだろう。
実際、一度はルースの家から脱出に成功しかけるのだが、障害持ちのスーザンを気に掛けるあまり失敗してしまう。
ルースやその子ども達からの虐待はさらに苛烈になるが、デイヴィッドはただ観ているだけだ。傍から虐待されるのを眺めるばかりで何もできない。親に相談しようとするも、恐ろしくてできない…
この小説を読んでいる間に心が相当削られた。品性下劣という感想を抱きながらも、最後まで読まないといけない気分になっていた。悔しいが作者の勝利だ。
今回の記事を書くにあたり、隣の家の少女について調べたところ、ネットフリックスに映画があるらしい。今度見てみることにする。
作者である上原善広の父を主人公に据えたノンフィクション小説。ということになっている。物語というよりは、作者が精神的に不健康な例だ。
あらすじとしては、牛の解体場で働く上原龍造が、自らの腕だけを頼りに食肉業界の経営者として成り上がっていくというもの。
昭和の時代の話なので、解放同盟や共産党や右翼にヤクザが出てくる。彼らと渡り合いながら、少年だった龍造は成長を遂げてゆく。
問題なのは、ノンフィクションと謳っておきながら創作であることだ。
作中では、実際に存在した人物の名前や経歴が書き換えられている(ex 作者の父の名前は龍造ではない)のみならず、解放同盟支部の結成年や支部名その他、多くの事実に誤りがある。
作者と新潮社は解放同盟から怒られた。出版元である新潮社はHPで謝罪文を出している。作者である上原氏もnoteで反省文を書いているが、はっきりいって反省していない。
巻末のところで実父に関連して、自分の来歴や、元嫁や兄について語っているのだが、なんというかもう、ツッコミどころが満載なのだ。本編を読む前にこれを読んでいたら、一生読むことはなかったと思う。
モラハラハイスペ男はよく、最初から専業主婦希望の女は寄生虫で、共働き希望の女は無能な働き者と考える。
このどちらにも当てはまらないのは、共働き希望だが夫の頼みであえて専業主婦になる女だ。
モラハラハイスペ男がこの条件をクリアした女と結婚するとこんなにいいことがある。
デメリットがあるとしたら自分より有能な女とは結婚しないから子供の才能が自分を超える見込みがないことだろうか。それも支配欲を満たすものかもしれないが。
一方で女の方はメリットといえば仕事をしなくても生活が安定することだ。
その代わり専業主婦としての努めを完璧にこなさなければならない。そうしないと「誰の稼ぎで飯を食っているんだ?」と反論不可能な絶対的正論で間違いなく詰められる。札束で頬を叩かれる。これがモラハラ男の得意技だ。
専業主婦になることでキャリアに穴が空くからいきなり夫に捨てられたら終わりだ。
夫はそれによって何も変える必要がないから愛着がなくなればためらいなく妻を捨てることができる。生殺与奪の権を持っている。これもまた夫の支配欲を満たすものである。
多数の女とヤリまくってあちこちに子供を作って養育費だけポンと出してあとは知らぬ存ぜぬ完全放置のヤリチンハイスペ男の方がまだ温情があるといえる。
まあ件のモラハラ外資系男の彼女はあそこまで言われてもそいつと結婚するだろうと私は思うね。ちょっと心をえぐるようなことをたった一言言われた程度では安定した生活の甘い誘惑に抗うことは難しい。
作品を受け取るとき、どのような経緯でその作品に出会うかは作品の中身より大事だと思います。
例えば、本屋が選んだベスト1の本と、親しい友人からおすすめされた本。
僕なら後者です。
しかし、できるだけ人から勧められて読むのではなく、自分が新しい畑を開拓したい。
何をするにしても人から勧められて始めるのではなく、自分が第一人者になり、人にすすめる側になりたい。
自分が読んで人に勧めた結果面白かったと言われたら自分まで肯定されている気がする。
たぶん僕がこじられて性格が曲がっているだけなのですが、自分が知らないうちに流行って自分がまるで取り残されているように感じてから聞いた曲はいくら聞いても好きになれません。
なんでこれが?って斜めから見てしまうのは自分が変な生き方をしているからだと思います。
例を上げていいものかわかりませんが、ドルチェ&ガッバーナの香水の曲も、自分が知らない間にみるみる流行してどこのどいつかもよく知りません。
ちゃんと聞いてみましたが、良さがわかりません。万人受けするから流行っているはずなのに自分には刺さりません。
対して、Official髭男dismはついこの間まで全く興味をそそられませんでした。流行っっているのは知っていたので手を出さないようにしてました。
しかし、コンフィデンスマンJPを見てから180°変わりました。やたら好きになったのです。
流行っているから聞く。みたいな曖昧な理由は自分の中ではNGが出ているのです。
コンフィデンスマンJPが面白いから、その主題歌だからという理由では自分の中でOKが出ます。
コンフィデンスマンJPを見た後に聞くOfficial髭男dismはコンフィデンスマンJPを見たことがないのに「ヒゲダンサイコー」とのたまっているミーハーどもを下に見ることができる気がします。
そもそもミーハーなやつが嫌いなのかもしれません。いや、ミーハーになるのが怖くて流行りものを避けているのかもしれません。
コンフィデンスマンJPを見るきっかけはミーハーの友人から勧められたのがありますが、結果的にとても良かったです。
いや、違うな。勧められてもしばらく見なかったのですが、テレビでやっているのを知り、映画版を録画していたのがきっかけでした。
そもそも好きな映画や音楽、漫画や本を人にすすめるという行為は自己開示だと思っています。
自分はこういう作品が好きだと人に伝えることは自分はこういう人間だと言っていることと同義なのではないでしょうか。
その作品を受け取り、摂取するとその人の感性が伺えます。少なくとも作品を受け取る前、後はおすすめしてくれた友人の顔が浮かびます。
好きな人が聞いていた音楽を久しぶりに聞くとその人を思い出すように。
対して、自分が新しく開拓した作品ならば自分のものになります。
人に勧められた作品をこれは自分も好きなどど言えるだろうか。果たして本当に自分が好きな作品なのだろうか。人に勧められたからその作品を見たのであって、内容が良いから好きなのだろうか。
一番ダメだと思っているのが世間的に「一番」流行っている曲、映画を自己紹介で書く行為は自分をあえて殺しているのだと思っています。
今、「一番」流行っているとされている物を自分が一番好きなものと言った時点で自分はそこにいないのです。
流行りものが好きな自分。つまり大勢の中に紛れてしまうただの人に成り下がる。
お笑いで言うなら、「EXIT」など第7世代と言われている芸人や「ミルクボーイ」がそれに当たると思います。
音楽で言うなら「米津玄師」「瑛人」「RADWIMPS」などがそう。
よく売れてない頃は好きで売れたら好きじゃなくなる心理がありますが、あれはまんまこのことだと思っていて、ボカロPの「ハチ」は好きだけど「米津玄師」はそうでもないがこれにあたります。
米津玄師も「MADHEADLOVE」あたりまでは好きでした。
アニソン総選挙があったみたいですが、LiSAが紅蓮華で2位だそうです。
LiSAは好きですが、流行っている紅蓮華はそうでもない。さらに鬼滅の刃も流行っているからという理由で見ましたが、全く楽しめませんでした。
流行っている流行っていないをさしおこうとして見ましたが、内容だけみても僕の感想は「面白くない」でした。(アニメ11話まで視聴しましたが、つまらなすぎて視聴をやめた)
僕にとってアニソン総選挙などと言うものは心底つまらなくて、アニメ好きが選んだアニソンには興味はないのです。
自分が好きなアニソンが好きなので順位をつけられて初めて知る曲でも自分は好きになれないと思います。
逆に自分が好きな曲がランクインしていないとなんでや!になるのでわざわざランキングしてしまうことは悪いことしか生まないと思ってしまいました。
AppleMusicが選んだウィークリーベストは全く信用していません。
自分の中では、得意分野と言うものがありその分野は譲れないというものがあると思います。僕は比較的映画には疎くて大した映画を見てこない人生でした。
そこでこれ面白いよ、と言われ見てみてもああ、これが面白い映画なのか。と思うだけで映画を得意分野とする人が勧めて自分はこれが面白いということか、と納得するのでWinWinです。
ところが得意分野同士ならどうでしょう。
自分よりもアニソンを聞いてこなかったであろう人からアニソンを勧められても刺さるでしょうか。しかも自分が知っているアニソンを勧められたらどうでしょうか。
自分が知っている好きなアニソンがどっかのランキングで上位に上がっているのをみると抱くこの気持ち、親元を離れる小鳥のようではないでしょうか。
Dアニメストアというオンデマンドサービスを利用しているのですが、そこで今日のアニメのランキングがあります。そこにあるアニメはすべて自分の好きなアニメではなく、不特定多数の一般が好きなアニメなのです。
見てみて面白いな、と思ってもそれは自分が選んだアニメではなく、人気のあるアニメなのです。
数ある中からいかにだれも見てないようなマイナーな中から自分好みなアニメを見つけられるかが自分さがしになるのではないでしょうか。
最近三月のパンタシアというグループの音楽をよく聞いています。
その中でも「街路、ライトの灯りだけ」という今日が異様に気に入りました。そんなこと言っている人は今の所周りにいません。これが良いのです。
検索すれば、同じようにこの曲が好きな人もいるかも知れませんが、それではだめなのです。自分じゃなくなってしまいます。
中学生の頃、好きな食べ物を書く欄に「みたらしだんご」と書いたことがあります。
その後、クラスに同じように「みたらしだんご」を書いた女子がいました。
その時点で僕の負けを感じました。今後「好きな食べ物はみたらしだんご」はそのクラスメイトのものです。
これを好きと公言できるラインが自分の中に知らぬうちに決められています。
ギャルと恐竜は漫画が連載されていた頃から読んでいたので好きと公言できます。アニメが始まった今も好きと堂々と言えます。
流行ってから見たソードアート・オンラインは好きと言えません。実際好きじゃないです。
LiSAはライブに言ったので好きと言えます。幻影ヲ駆ケル太陽を見ていた頃からLiSAが好きだったので好きと言えます。紅蓮華は言えません。
幻影ヲ駆ケル太陽はテレビで録画してみていたので好きです。ダエモル。
流行っているからと言って見たもので内容がよく感じたものはほぼない
最近SEKIROというPS4のゲームをしています。これはゲームオブザイヤーという名誉ある賞をとったすごいゲームだそうです。
ダクソライクというジャンルのゲームらしいのですが、全く触れたことがありませんでした。つまり専門分野外のゲーム。結果めっちゃおもしろい。
ただ、僕がこれおもしろゲームだよと布教するのは違います。僕の好きなゲームじゃないから。発売日に買ってないから。
最近、映画好きの友人からジョン・ウィックがおもしろいよと言われ見ました。面白かったです。洋画は全く専門外なのでおすすめを見ることに抵抗はありませんでした。
結果これが洋画の面白さなのか。と思ったくらいでちゃんと楽しめました。
ゲームでいうとFallGuysが流行っていますが、すでに遅いので出来ません。
PUBGは流行り始めのころやってましたが、Fortnite、荒野行動、APEXあたりはもうダメです。流行りすぎたから。
今度発売される3Dマリオコレクションは全部原作でクリア済みなので堂々と発売日に買おうと思います。
僕の生きにくそうなこだわりわかっていただけたでしょうか。
最後にもう一つ変な考え
流行りのワードを検索するとき、他にもたくさんの人が検索しているであろうからその中のひとりになるのが嫌なので検索を躊躇う。
周りと違うことをしたいことがすでに普通。
以上です。
秋葉原通り魔事件。宮崎勤の事件。ああいう事件で「抑圧されて育った人間の歪み」を見聞きするたびに、他人事ではないなと感じる。
母親は教育関係の仕事をしており、子どもを立派な大学に入れたスーパーマザーである。
しかし、その子どもは、無事に無い内定引きこもり無職(一応学生)となっている。社会性が育つ場面で極端に制限をかけられた子どもがどうなるか。20年をかけた壮大な人体実験の記録を一つ読んで欲しい。
1.恐怖で抑圧させて勉強させられてきた幼少期
私は物心つく3歳の頃から、毎日「ノルマ」を課せられ、やりたくもない勉強と向き合い続けてきた。母親が帰ってくる前までに母親の決めた「ノルマ」を仕上げないといけない。このノルマが終わっていないと、「指導」が始まるのである。例えば、「なぜ今日は出来なかったのか」について一時間、二時間、と向き合う。答えられず無言でいると「そうやって私を無視するのか」と詰められ、「バカだったからです」と答えれば「勉強が出来ないバカは家から追い出す」、「離婚したダメ父親の元に送る」、などが提案される。この「話し合い」は深夜にまで及び、「なぜできなかったのか」答えさせられる「自己批判」の時間では「どのように答えればこの人は納得して寝かせてくれるのだろうか」をパニック状態の頭で考えることとなるが、どれを答えても地雷。最後には不甲斐ない自分に関する悔し涙を流す。すると「反省しているポーズをとるな」と詰められる。涙を拭けとティッシュを渡され、鼻水を拭いたティッシュを丸めて置いておく。
「今日のノルマをやってから寝るよ」。勉強をしていて情けなさに涙をこぼすと、「泣くな!」と怒られ、鼻水を拭いたティッシュを口に入れられることもあった。彼女自身、子どもを支配するのに必死だったように思う。子どもの一日というのは大変長く、誘惑に満ちているので、ついつい遊んでしまうのだが、昨晩課された、あるいはノルマ棚に置かれたプリントを見て勉強をするほど私は賢くはなく、この「指導」の時間が辛く無駄な時間だったと感じる。
そんな物理的な圧で勉強に向かわせてくる母親であったから、うちはゲームが禁止だった。周りの友達が全員「たまごっち」を持っている中、買ってもらえずに輪に入れないということもあった。何度かお願いをしてみたのだが、ダメだったし、この人には何を言ってもダメだと分かっていたから、諦めた。現在、「スーパーマリオ」や「ポケモン」は基礎教養だと思うが、私はそれらで遊んだことが無く、アクセスできなかったため、それらに関する話題が出た時に全くついていけないのがかなり困っている。一生困ると思う。「ポケモンの金銀並みだな~」とかいう比喩表現を聞いたとき、「そうですね」とへらへらと笑って合わせていくスキルを20過ぎに身に着けたが、付け焼刃感というか、相手の言っていることが何も分からないので悲しい。
友達の家でやればいいというお声もあるだろうが、「母の目の敵にしているゲームを触ること」は私にとっては「大麻にトライすること」くらいハードルが高かったのである。今でもゲームをしている人を見ると謎の居心地の悪さを覚えてしまう。
漫画は、年の離れた兄弟が大量に所持しており、そこからこっそりと借りることが出来た。捨てられたジャンプから、好きな漫画をカッターで切り抜いて、単行本を作っていた。ただし見つかると「私刑」である。生命活動を勉強時間に全振りすることで東大に合格できると思い込んでいた母親は、勉強以外の活動をしていると烈火のごとく怒った。弟の気に入って隠し読んでいた「純情パイン」は八つ裂きにされて捨てられてしまった。
幸いにして私は小説を読む方にはまっており、私のメインの趣味である読書は「推奨」される行為だった。(ただしノルマをやった後、寝る時間を惜しんで読書を優先すると叩かれる)図書館のお気に入りの本は読みつくしたし、母親の検閲(中身には興味がなく、文字かそうじゃないかが重要だった)をクリアする「涼宮ハルヒの憂鬱」等ライトノベルには大変お世話になった。グロ系や耽美、18禁のものも、「本」なので良かった。ここに関しては寛大な処置を頂いたと思っている。
そんな読書少女に育った私は、頭でっかちの、言語性だけが身に付いた、悲しいモンスターだった。小学生の頃、女子特有のクラスのトラブルに悩んだ時、最高指導者である母に相談してみた。すると「増田ちゃんはそんなレベルの低い子と無理して仲良くしたいの?」と一刀両断。そうか。周りの子はレベルが低いから、関わらなくていいのか。誤解した増田ちゃんは「基本的に物腰は柔らかいが、トラブルにすら巻き込まれないように一歩身をひく付き合い」を心がけるようになる。また、友達と遊ぶことは制限されており、家に友だちを呼んではいけなかった。新しい友達も「どこの、誰で、何をしている親の、どういう子」かを説明するという責任があり、母親に認められない子と遊ぶことは良い顔をされなかった。そんな中でも文通をしたり、こっそり会うといった方法で仲良くしてくれた友人には頭が上がらないのだが、やはり「友人と遊ぶ」ことがダメなので、せっかく仲良くなったクラスメイトとお祭りや、ショッピングなど楽しいイベントに出かけることは出来なかった。(そもそも自由なお金がなかったし、バスにも乗れなった)
高校では、最初は素敵な友人グループに属させてもらった。友人たちと仲良くしてもらって感謝しているが、その中でも「この間のショッピングモールで~」のような会話にはついていけないことが増えていく。ついに深い交流をすることは出来なかった。今でも交友関係を続けている同級生同士がとても羨ましい。
そういった抑圧の下で生きてきた結果、やはり20代半ばで実感しているのが、「勉強だけ出来てもダメ」ということだ。
最近の教育分野では「非認知能力(社交性とかもろもろ)」が重視されているが、詰め込みノルマ型の勉強の成果をどうにか形にしたり、就職して社会に還元したりする上ではこの能力が必須である。元々ASD傾向がある上に、社交の一切合切を無駄と切り捨てられて育ったことは大変大きな損失だった。そもそも母親も社交スキルが低く、同級生のママを見下しながら、自分が適応できないことの憂さ晴らしをしていた。母親も、社交スキルをどう教えて良いか分からなかったのだと思う。その結果、「コミュ強を見下す」という戦略に走ってしまった。結果はどうか。増田で長文を投稿し、コロナもあって友人関係が更に狭まり、就活で全滅の、「無敵の人」予備軍の出来上がりである。
母親は上記のようなことをほぼ忘れ、「でも〇大に受かったから、よくママ頑張ったでしょ」と承認を求めてくる。〇大に受かっていなかったら、今よりも肩身が狭い、バカのコミュ障が出来上がっていたかもしれない。
ただ、〇大に受かった後、うつになり、頭の良さがかなり下がったので、結局「何もできないコミュ障」が完成してしまった。
20年をかけ、社会的なコミュニケーション能力を切り捨てて詰め込み教育をするとどうなるか??うつになり、頭も悪くなる。
「アルジャーノンに花束を」のチャーリィよろしく、どんどん阿呆になっていく様を記録して後世に残すことが私の役目なのかもしれない。
何されてるの?継がないの?みたいな質問な質問めっっちゃされるけど、若干鬱陶しいと思い続けて出した対処法を書く。
親は会社員です、というと何されてるの?同じ業界に入るの?って聞く人ってそんなにいないのに、自営だとめっちゃ聞かれるのって変じゃね?と思ってるんですよ。
最初のアイドリングトークというやつや!と言われるとそうなんだろうけど、言われる側は飽きてるし、親の職業で「へーすごい」だの「えー意外」だのってアイドリングトークにしたらツッコミ過ぎてない?と感じていたのでずっとうまいこと回避したいと思っていたのだ。
ちなみにすげぇくだらない。でもまぁ今のところ有効だから書いていく。
家業に誇りをもっている人は普通にありのままを言いたいだけ言えばいいが、ちょっと偏見を持たれやすいとか、ほんとはそうでもないのに過大評価されやすい仕事だったりでうんざりしている人が参考にしてくださればうれしい。
最終的に内容をぼかしたまま終わり、継ぐかとかそういう話に持っていかせないようにするのがゴールと定める。ではスタート!
「何されてるの?」と聞かれれば
①店舗型をとっていれば「店です」
芸術系、第二次生産業、農業なら「自分で作ったものを売ってます」という。
町のどうぶつのお医者さんという感じでやらせていただいている。
だいたい「獣医です/動物病院です」と言うと「すごーい!実家お金持ちなんだね!」みたいになりがちだが、べつに金持ちでもなんでもない。貧乏でもないが普通の家である。この文章ですでにイラついた人もいるだろうが本当なのだ。父は現在64歳だが同世代の大卒おじさんがもらう平均金額をちょっと下回ってるくらいである。
継げる可能性も継ぐ気もないのであまり詳しくないが6年制の大学に行き国家試験にパスして2.3年インターン修行が必要な職なので、脳がバグって急に試験にパスできるほど勉強ができるようになっても私は継ごうとは思わない。単純にだけ考えたとしても時間がかかりすぎる。
このようにマジレスすると、今読んでいるあなたのように大体の人がイラッとする。結局自慢やんけ的な。いや、親の職業だぜ?私の人生じゃないんだぜ?
まだまだ自営のデメリットはあるがとりあえず進める。
店ですというと大体なにかの小売り業を想像してくれる(人が多い)。
「自分で作ったものを売ってます」というと何らかの生産業なんだなと思ってくれる(はずだ)。
結局このエントリでいいたいことでもあるがステレオタイプすぎる、もしくは思っていたものじゃない(ステレオタイプではない)仕事に異物感、特別感を感じて言及されることにうんざりしていると近いニュアンスを持つので、相手のほどよい想像力に任せるのがいい。
進めていく。
「どんなお店?」「何を売ってるの」ときかれたら
②店の形状を言う。販売経路を言う。
私の場合、「店舗があって、その二階に住居がある、よくあるような店です」と答える。
何かを作ってる場合は「作ったものをうってくれるお店(場所)があって、そこに置いてもらって…って感じです」とか
どんなお店って質問には答えているが意図的にはずしていく。何を売ってるのって質問にはちょっと外しすぎかもしれないがどうやって売っているのか答える。
この辺で親切な人は「あ、あんまり聞かない方がいいのかな」と思ってくれる。こうなるとミッション成功である。60~70%くらいの人はこれ以上聞いてこない。
それでもなお「パンとか?」「野菜とか?」アキネーターになる人には、そのジャンルだけ言う。
ここまで来るともうあんまりぼやかせてないがジャンルが当てられた場合は「そんな感じです」と言っておく。あくまで笑顔で言っておく。
私の場合は「サービス業というか…まぁそんな感じです」というと相手は何らかのサービス業系個人商店を想像してもらえてると思う。居酒屋とか用品店とかだろうか…
ここまでくるとよほどの首突っ込みたがりじゃない限り家業に言及されることはないと思う。ここまでぼかしてさらに知りたがる人はそれはそれで厄介な人なので今後も色々な個人情報をぼかしていた方が無難とも言える。
ぶっちゃけ別に知られてもいいけど、その後の儲かってるんでっか?継ぎはらへんの?というようなトークはほんとうに反感やら誤解やらネガティブなものしかもたらさないので話さないのが吉なのだ。
人間の医者とかじゃなきゃ自営でめちゃめちゃ儲かってるとこなんてほんとに稀なんじゃないか…?
自分のことが一番信用ならないし、自分のことに精一杯だから、恋愛や結婚のことは考えられないし、当然ながら子供のことも考えられない。そこまでは理解してもらえるのに、同じ理由でペットは飼えない、というとあまり理解してもらえない気がする。
人間だってお互いに何を考えているかわからないのに、言葉を発しない動物なんてもっての他で、ひどく恐ろしいものに思えてならない。
言葉を発しないから自分のそばにおいていても構わないというなら、エゴなのではないかと思ってしまう。命をあまりに軽々しく考えすぎなのではないか。
知人からペットの話や、またペットを飼いたいとか、そういう話を聞くたびに、気持ち悪いなぁと思ってしまう。こちらもこちらで、大人しく「そうだね」とか「かわいいね」と言って黙っていれば良いものを、下手に自分の考えを口に出してしまうものだから、微妙な空気が流れてしまう。
動物は美しいと思う。動物園も水族館も好きだし、ナショナルジオグラフィックも好きだし、BBCの野生動物に関する番組も好きだ。でも飼いたいとは思わない。こちら側と向こう側の間にはアクリル板や金網があるくらいの距離感でいい。その距離以上は近づきたくないので、猫カフェや猫のいる温泉に行こうと誘われた時は、丁重にお断りした。見るのはいいが触りたくはない。
そもそもあまりペットを飼っている人間が好きではないのも影響している。NHKでも民放でもペットとその飼い主についての番組を放送しているが、そういうものが本当に苦手なのだ。赤ちゃん言葉でペットに話しかける飼い主や、人間が映像の上からアテレコを行った映像が苦手だ。あの手の映像をペットを飼っている人間は可愛いと思って見ているのだろうか。
仕事として動物を飼っている人間は素晴らしいと思う。経済動物や実験動物を飼育している方々や、動物園や水族館の職員の方々は尊敬に値する。ただ本当に一般家庭にいるようなペットと、その飼い主が苦手だ。
最近気づいたが、猫を飼っている人間と小さな犬を飼っている人間が最も苦手だ。大型犬はデカいなとは思うが、大きい分だけ飼い主も経済的にも経験値的にもしっかりしているだろうからあまり何も思わない。ただ、猫と小型犬は経済的にクリアするハードルが低く、その分飼い主は「こんなに小さくて可愛い動物が嫌いなんて」みたいな顔をする。結局ペットじゃなくて、ペットを飼っている人間が嫌いだ。それがわかっただけでクソみたいな文を書いてよかった。
小学校低学年の頃、温泉旅館のゲームコーナーで遊んだゲームと、つい最近再会した。
当時、私の家族は年に一度、伊豆の温泉旅館に2泊3日で旅行をすることになっていた。
毎年行くその温泉旅館のゲームコーナーに、それは置いてあった。
男がどこかの施設の階段を猛烈な勢いで駆け下りる姿、海が干上がって砂漠となった地球の風景、3Dステージで自機にロックオンされて轟音とともに撃ち落とされていく敵。いつも微妙なゲームしかなかったゲームコーナーにあって、一際目立つシューティングだった。
デモを見ていて心を動かされたのは、私ではなくて当時中学生だった兄のようだった。
普段まったくゲームセンターに出入りしない2人にとって、ゲームそのものはとても難しく、兄の力をもってしても2面までしか進むことができなかった。
兄はなにより曲に感動したようだった。後日、サントラを購入して一緒に聴いた。
数年後、それはセガサターンに移植されることになる。かつての感動をもう一度、と始めたゲームは、「覚えゲー」であり、家庭用シューティングはたくさんプレイしていたので、ラスボスにたどり着くまでに時間はかからなかった。
だが、ラストに衝撃的な演出が待ち構えていた。ラスボスの背景は、宇宙の創生から人類の誕生、戦闘機や戦車、ゴミの山とそこに埋もれる日本人形、こちらを見つめる猫、と目まぐるしく変わり、倒すと地球が真っ二つに割れて終わるーー。
2人ともこれを「真のエンディング」とは思えず、ラスボスの倒し方を巡って話し合い、色々と試してみたが、どうしても地球は滅亡した。
結局なにがなんだか分からないまま、ゲームからは離れていった。
やがて自分が中学生になる頃には、兄は大学生になり、一緒にゲームをすることもなくなった。毎年の家族旅行もなくなった。複雑な事情で父親は最後の数年間は一緒に行くこともなかった。
思い出の旅館も、負債を抱え込んだ挙句、事業再生の名のもと、名前も経営者もコンセプトも変わり、跡形もなくなった。
そのまま忘れ去れるはずだったが、高校生になる頃、ゲームの別の側面を知ることになっていく。
あるとき、何気なくネットでゲームの名前を検索してみると、演出が高く評価されており、カルト的な人気があることを知った。2chでは主人公になりきったマニアの書き込みが人気を博していた。
自分も引きずられてのめり込んでいった。兄が買ったのとは別に出たアレンジのサントラを買い、ライナーノーツに書いてあるストーリーを読み込み、曲を聴き込んだ。
絶望的としかいいようのない世界観、それに比して明るい1面の曲。
人類の侵略者を叩く反撃作戦は停戦交渉を前に永久に凍結された。それを拒否して暴走し、一人立ち向かう主人公。
作戦名には「純然たる自由」とあった。主人公を操るプレイヤーが1面で聴く曲は「born to be free」だ。しかし、自由をもぎとろうと行動した結果、最後に地球は割れる。なにが自由で、なにが不自由なのか。
地球が割れるのが実は心象風景なら、そうならないで済む未来は、どうしたら実現できるのだろうか。何が正しくて、何が正しくないのか。
大学受験に失敗したときも、つきあっていた彼女と別れたときも、サントラを聴いた。
社会人になってしばらく離れていたが、一年ほど前から、なんとかしてまた実機をプレイしたいと思うようになっていた。なにぶん古い上にマニアックで、なかなか見つからない。レトロゲームを扱うゲームセンターが、基板を所持していることも知ったが、同じ会社が作った名作シューティングが稼働していても、このゲームが稼働しているのは見たことがなかった。
と思っていたが、先日ついにゲームセンターで稼働しているのを見つけた。温泉旅館で実機に触れてから、28年ぶりの対面だった。
当時のままのゲームがそこにあった。完全にステージと同調するサウンドも、真っ二つに割れる地球も、そのままだった。サターン版では正確に移植できていなかった部分も、当たり前だがちゃんと表現されていた。
サターン版をやり込んでいた記憶が蘇ってきて、2回目にはワンコインでクリアすることができた。
しかし、懐かしいと感じるのは、2面までだった。
2面終盤の難所で撃墜されながら、自分は何を求めてこのゲームをしているのだろうと自問し、答が出ないので、今日もそのゲームセンターに通っている。
学校行きながらプライド捨てる方法を見つけて、それがクリアできたらリトライするのがいいんじゃね。最終審査まで行けたのは普通にすごいから。才能もあって努力もできるんじゃん、またやればいいだろうに。
・歌
単発の「歌ってみた」動画を上げることも、「歌枠」「カラオケ枠」として長時間配信で複数の曲を歌っていくこともある。
企業勢であれば、収益多角化としてCD販売や音楽ライブに力を入れているので、歌手活動がメインではないVtuberにしても、ある程度の歌唱力が求められることが多い。
大手レーベルと契約してメジャーデビューするVtuberもいる。
・ゲーム
「一人でゲームクリアまでひたすらプレイする」「何人かで集まって対戦や協力プレイで遊ぶ」「企画を立てて大人数を集める」といったいくつかのパターンがある。
何十人ものVtuberを集めての大型企画は非常に盛り上がるが、それだけの参加者を切り回す企画者の運営手腕が問われることになる。
個人配信ではゲームの上手さはあまり売りにならない気がするが(もっと上手い人がV以外にいるので)、複数人が集まる企画だと上手いプレイヤーは注目されて爪痕を残しやすいと思う。
「芸能人格付けチェック」や「恋のから騒ぎ」といったテレビ番組のパロディも多い。
どんな企画を立案するかはVtuberの腕の見せどころで、出演交渉や配信での見せ方なども含め、ゲームの企画以上に難しいかもしれない。
雑談との境界は曖昧だが、定期配信の「ラジオ」として、視聴者からのお便りを募集するものもある。
「凸待ち」という形態もあり、これは本来「Skype IDなどを公開して凸=突撃してきた視聴者と会話をする」というものだが、企業勢のVtuberにおいては「あらかじめ声をかけておいた他のVtuberたちがひとりずつやってきてトークする」ような形式が多い。
・雑談
コメントを拾ったり、スパチャを読んだり、マシュマロを消化したりなど。
・ASMR
バイノーラルマイクを使って、耳かきをしたり、ビーズを混ぜ合わせたりなどの、どことなく心地良い「音」を配信するもの。
本来的には必ずしもエロ目的というわけではないのだが、女性Vtuberの吐息や心音を聴かせたりするのは、まあエロだよね…。
2年前くらいにFGOをDLしてから最近までろくにプレイしていなかった。
マギレコ民なので戦闘システムには馴染みがあり、気まぐれに遊んでみると楽しかったりするのだが、それがなかなか続かなかった。
理由としては、
1.強いサーバントを引けない
2.フレンドのマーリンや孔明でゴリ押しが出来なくなりメインを進めるのをさぼるようになる
3.そもそも弱いため育成のための周回が重い
4.終局特異点をクリアしていないのでイベントに参加できない、参加できても育成が追いついていないので途中で詰む
5.剣スロを初星5と勘違いして特別再臨を使い、ガン萎え(自業自得)
主にこの5つだ。
無課金の穀潰しなので文句は言えないが、石がたまった頃合いを見計らってログインしガチャを回すも爆死爆死&爆死というのは中々辛いものがある。
そんな私にもようやく運が回ってきた。5周年ガチャでキャストリア二枚引き、さらにロリンチまで引き当てるという謎の業運を発揮。テンションが上がり、それまで全クラス満遍なく使っていた種火をぶち込んだ。
この二人はべらぼうに強かった。編成しておけばバフは盛れるわ、NPはすぐ溜まって宝具は連射できるわ、敵の攻撃は無効化できるわで今までとは一転し無双できるようになった。加えて前述の剣スロが上手いことかみ合うため、滞っていたメインも進むようになりロンドンから一気にキャメロットまで行けた。ガウェイン戦あたりから辛勝が増えてきたので、また育成を進めないといけないが。
強いサーバント、弱いサーバント、そんなのはマスターの勝手なのかもしれない。しかし、強いサーバントは使っていて楽しい。
周りのオタク友達が楽しくプレイしているのにどうして自分はいまいちハマることができないのか。その理由は、強いサーバントが居ないからだった。
女ばかりの職場のおっさんは若禿多いし若白髪多いし綺麗とはほど遠いと思う
けどまぁメンヘラや美容・ファッションに比重を置いている人の言うところの
そういや高級カーディーラーの営業になろうって言ってた増田は面接は受けたのだろうか
かっこいいよな