はてなキーワード: 過程とは
作者やテレビ会社をネットリンチしてた奴らが何を言ってんねんと言うツッコミは一旦置いておくとして、
AIと人間の区別がますます困難になるなら、それは人間が絵を描く必要がなくなる、
つまりは労働からの解放を意味するので、基本的には喜ばしいことじゃないかとは思う
職人の手による逸品は金持ちの道楽やステータスの為にだけ消費され、
庶民による実用用途の需要は機械による大量生産の規格品で賄う。
それでいいじゃない。
COPAINTERのAIペン入れ機能が話題になって、またぞろ反AIがバカみたいな「COPAINTER対策」を始めてるから、そんなものに意味は全くないということを根本的な仕組みから説明をするよ。
あれほんとマジで竹槍でB29を落とそうとするくらい無意味な行為なので、そこのムカッときた反AIも謙虚になって読むことを勧めるよ。
この記事でわかることは以下のことだよ。
イラスト生成AIの基本的なアルゴリズムは大雑把に言えば「ノイズから逆算して元画像を想像する」だよ。
画像にぼかしをかけていくと、最終的にどんな絵も何が描いてあったかわからないようなノイズになるよね?
それを逆算して、最初のノイズからありそうな元画像を想像してでっち上げるのが画像生成AIだ。
つまり、
↓
↓
生成画像
反AIは「画像を使う」という言葉をすべて「学習」とイコールで考えてるけど、すでにリリースされたサービスのほとんどはその時点で学習を終えていて、チューニングを済ませてる。そうしないと品質が安定しないからね。
反AIの恐れてる「画像使用」のほとんどは、学習ではなく「i2iの下地にされる」ことを意味してるんだ。これは上の図だと、②で使われる学習モデルではなく、学習の絡まない①の過程に使われるということだ。
i2iとは一言で言えば、①のランダムノイズに参考にしてほしい画像を混ぜること。
そうすると、完全なランダムのノイズから「元画像」を想像するよりも、こちらの意図通りに完成品をイメージしてくれるんだ。当たり前だけどね。
さて、ではこの違いが「COPAINTER対策」の無意味さにどう繋がるのかを次の項目では説明していくよ。
COPAINTERのペン入れAIは、上の説明でいうなら何をしているんだろう?
もうわかると思うけど、i2iだよね。
つまり、
さらにいうと、
i2iによる画像の不正利用はあくまで悪意のある人の手によって行われるものだ。極端な話、元画像を人の手で雑にトレスした後に、ペン入れAIのようなものにかければ、画像に透かしを入れようがなにしようがなんの意味もないってことくらいは誰でも想像つくんじゃない?
学習対策はそもそもオートでクロールする大量学習を妨害するためのもので、人力で多少の手間をかけられたらあっさり意味をなくすものだ。
猫画像なんかを混ぜた、ペン入れAIがうまく機能しなかった、それが何? 悪い人はそんなのさっさと塗りつぶしてからトレスして終わりだよ。その程度の切り貼りはきれいに補正してくれるのがAIなんだから。
さらに酷なことを言うなら、
ということもよく考えればわかるよね。
既存のサービスはすでに学習を終えてるんだから、そこで何をやっても学習対策効果の検証にはならない。
それができるとすれば唯一、ローカルの学習環境を整えて追加学習などをわざわざ自分でさせてみたときだけだ。
それだって、何をもってして「うまく学習できなかった」のかなんて確実な評価は誰にもわからない。
そもそも「うまく学習できたか」だって、曖昧で難しいんだから。
まとめると、イ、ロ、ハにより、「画像加工による学習対策はCOPAINTERには効果がないし、COPAINTERを使ったラフ画像の盗用に対する対策なんてことは不可能、さらに画像対策自体が本当にうまくできるのか検証できない(最低でもローカル学習環境を構築しない限り)」というのが現実ということ。
そんなことを試そうとするよりは、例え一人でだろうととにかくAI禁止のデモで一秒でも多く外に出る方がなんぼか効果があるよ。少なくとも科学的に不可能な方法ではないんだから。
確かに二枚舌を使っているうちに全く関係のない文章に関連があるかのように勘違いし、歪んだ人間が出来上がった、
そういうストーリーはあるかと思いますが、ちょっと関連性が低いですね。
こういう時はAIに模範解答をしてもらいましょう。
増田さんが詭弁を弄するようになった背景には、彼の独特な思考のスタイルと、注目されたいという深い願望があります。
彼はもともと好奇心旺盛で、物事の関連性を見出すことに長けていたため、若い頃から珍しい意見や異質な結び付けを提示することで、周囲からの注目を集めることが多かったです。成人後、増田さんはこの才能をさらに磨き、自分のアイデンティティとして「異端な思考者」としての地位を確立しようとしました。
しかし、その過程で真実や論理的な整合性を度々犠牲にしてしまうこともあり、詭弁や無理な結び付けを用いることが多くなりました。このスタイルは彼の個性として一部からは評価されましたが、信頼や尊敬を失う原因ともなり、孤立を深めることにもつながりました。増田さんの行動は、承認と注目を求める彼の深い欲求から来ており、彼の人生は自分の意見がどう受け入れられるかに大きく影響されています。
彼は独自のアプローチで注目を集めようとし続けているものの、その結果としての孤独や批判とも向き合う必要があるでしょう。
神経逆撫でするような人や、心無い言葉をかける人、自分が普段生活していると見かけることがないので気になってしまう。
プロフを見るとまずフォロワーが少ないし、過去まで遡ると一応人とコミュニケーションを取ろうとしている時期もある。
けど思ったより反応が良くなかったり無視されてたり。
そういうのをきっかけにだんだん発言が過激になってくるが、それでも反応は薄い。フォロワー少ないし。
たいていこのパターン。
正しさで殴りつけてくる麗奈にめっちゃムカついてたので、(滝にフラれるとかして)コイツ1回ボコボコに心折られねーかなと思ってたら、自らの手で久美子をソリ落ちさせて死ぬほど凹むという、まさにそんな展開が飛んできたので麗奈を赦す気になれたの良かった(結論)。
色んな意味で話題になったシリーズ第3期12話で久美子と滝は以下の会話をかわす。
滝「そうですね。正しい人でしょうか。本当の意味での正しさは、皆に平等ですから」
滝「黄前さんは、どんな大人になりたいですか」
久「私は…。私も、そんな人になりたいです」
以下、アニメ『響け! ユーフォニアム』シリーズの感想を、物語が提示した“正しさ”に沿って述べる。
正しさを他人に押し付けるとき、そこには暴力性が宿る。久美子と麗奈はむしろそれを行使してきた側で、実力が上だからという理由で3年生の中世古香織をソリから追い落としたことや、家庭の事情で全国大会前に引退しようとしていた田中あすかを強引に引っ張り出したことは、まさにその典型だ。その時、久美子たちはまだ1年生で、責任を負わない立場だから好き勝手やって良かったし、正しさで相手をねじ伏せることは快感を伴うので、作劇上それらはむしろ肯定的に扱われていた。ゆえに正しさの中に潜む暴力性はこれまで適切に隠蔽されていたのだが、3期になってブーメランとして返ってきたことで、その問題点が一気に噴出した。そして久美子と麗奈では反応が違った。
久美子は下級生を指導する過程で黄前相談所という二つ名を得るほど面倒見が良く、そして部長になったこともあって精神的に成熟し、融和的なスタンスを取るようになった。一方の麗奈はなんら変わることなく正しさの信奉者であった。ふたりとも「北宇治は実力至上主義」というイズムを共有していたし、強豪校からの転校生である黒江真由が「(ソリを奪うことになるから)オーディション辞退しようか?」と何度も何度も何度も本当にしつこく何度言ってきても久美子は「上手い人が吹くべき」というスタンスを一度も崩さなかった。
ただ、全国大会金賞を目指すべくオーディションを大会ごとにしたことで緊張がずっと続いたことや、大幅に変わった編成への疑問、そして精神的支柱である久美子が本当にソリから陥落するに至って部の混乱はピークに達する。これに関しては仲の良い者の間でも意見が別れており、たとえば強豪校出身の川島緑輝が「実力は同じなのだし、それだったら部が落ち着く方が」と久美子を支持する一方で、高校から吹奏楽を始めた加藤葉月は「それだとオーディションが成り立たない」という意見だった。葉月は本当に素人からスタートしており、3年生になってようやく大会メンバーに選ばれた。しかしだからオーディションを肯定しているわけではなく、落ちていたとしてもおそらく同じことを言っただろう。彼女の言葉は真っ直ぐで、積み重ねてきた努力に支えられていることは明白だった。一方の緑輝も、強豪校でやってきた経験から、おそらくは部の空気が合奏に与える影響を理解しており、だから部がまとまることを重視していたのだと思われる。つまりどちらも「正しい」。しかしそうやって意見が分かれ、「正しさ」が衝突しあう只中で、久美子と麗奈は袂を分かつ。
久美子は、部の混乱を収めるには顧問の滝が編成の変更やオーディション結果に対する意図を説明することでみんなが納得することだとしてその道を模索するが、しかし麗奈は「そこに疑問を抱くと全てが崩れる。指導者の方針に従うのは大前提」と否定、さらにはソリ落ちした直後の久美子に「自分の努力不足を棚に上げて思い通りにならないってそんな言い訳か文句が大半」という正論を浴びせ、「部長失格」の烙印を押す。
このシーンに対する感想を言わせてもらえれば、「安全地帯から正論ぶってんじゃねえよ麗奈ァアッッッ!」である。心底ムカついたね。
高坂麗奈はサラブレッドなトランペッターである。父がプロの奏者で、家に防音スタジオを作れる程度には裕福で、幼い頃から音楽指導も受けてきた。彼女は学生離れした実力者で、当然のように大会メンバーはおろかソリストに選ばれる。環境だけが彼女をそうしたとはもちろん言わない。それに見合うだけの努力をしてきたのだろう。だから彼女が「自分の努力不足を棚に上げて指導者に楯突くなんて!」と言うのは“正しい”。目標を全国大会金賞に設定したのは部員たちだし、それに向けて合奏を作り上げるという意味で滝の指導力に疑う余地はないのだから、従うのは当然。麗奈が言うことは常に“正しい”。そして久美子も視聴者も、その麗奈の“正しさ”に一度は与したはずである。“正しさ”でもって中世古香織を追い落とし、田中あすかを大会に引きずり出し、劇的に描かれたそれらのシーンに感動してきたのだから。そこに潜む暴力性に気づこうともせず。だからいざその暴力性が自らに向けられたとき慌てふためくのは滑稽な話である。しかし感情は偽れない。“正しさ”で殴りつけてくる麗奈はやっぱりムカつくのだ。そのムカつくという感情がベースにあることは認めつつ、その上で言いたい。正しさは万能薬じゃない、と。
麗奈の正しさは(構造的に)滝の影響を強く受けている。北宇治吹奏楽部顧問の滝昇は若手ながら実力のある音楽指導者で、部員たちに「全国を目指す」か「楽しく過ごす部にする」かを選ばせた人物である。生徒の自主性を重んじると言えば聞こえはいいが、自分たちで選んだからには妥協を許さないという暴力性がそこにはある。確かに滝の指導力は本物で、北宇治はメキメキと実力をつけ、就任1年目にして全国大会に進出するほどの成長を見せた。しかし実力が上がれば目標が上がる。目標が上がれば部員たちにより負荷が掛かる。そうして発生したのが関西大会直前に発生した部の混乱であり、滝にはそれを鎮める力もその気もなかった。それは合宿中のやり取りに現れている。
滝「楽しむ、と書いて音楽、ですね」
橋「本当に分かってる?」
滝「(虚を突かれたような顔をした後)分かっていますよ」
場面としては関西大会直前の合宿で、部のピリピリした空気を感じ取った橋本(滝の音大時代からの友人で、北宇治の外部指導者)がジョークで和ませた後、軽く訓示しようとした時のことである。橋本に言わせれば、音を楽しむことが音楽だと本当に分かっていれば、こんな空気を放置しておくはずがない、といったところだろう。滝の、合奏を作り上げるという意味での実力は確かなのだろうが、その指導力が及ぶのは正しさが通用するところまでであり、それで解決できない問題にぶち当たったときは無力である。そして滝自身に解決する気がない。ただの外部指導者に過ぎない橋本が一瞬にして感じ取った「ピリピリした空気」を滝はただの一度も解消しようとしなかったのだから。滝には解決する能力がなく、その気もない。滝に無理なのだから、ミニ滝にすぎない麗奈にはもっと無理である。
そんな部のピリピリした空気を解消したのは久美子だった。思っていることを素直に打ち明け、解決したのだった。
「1年生も3年生も同じ土俵で競ってひとつの目標に向かえる北宇治が好き」 「その北宇治で全国金を取りたい。でも届かなかった」 「何かを変える必要があって、だから大会ごとのオーディション形式にした」 「間違っていたとは思わないけど、でも戸惑わせたことも事実。すみませんでした」と部長として謝ったあと、「納得できない人もいると思う。でも私は北宇治で全国金を取りたい」そう訴えた。「1年間みんなを見ていて思いました。こんなに練習してるのに上手くならないはずない。こんなに真剣に向き合ってるのに響かないはずない。北宇治なら出来る。私たちなら出来るはず」と。
この久美子の真剣な訴えが部員たちの心に響き、部は急速にひとつにまとまった。
さて、久美子は部長失格だっただろうか。その答えは言うまでもなく明らかで、失格なのは正しさを押し付けることしかできない顧問とドラムメジャーであろう。
このあと、久美子と麗奈は仲直りをするのだが、ハッキリ言って納得できるものでは到底なかった。久美子はあっさりと赦していたが、一視聴者としては、「ああ、麗奈を赦すことは絶対にできないな」と思った。物語としては、このあと黒江からソリを奪還し、全国大会金賞を取って大団円を迎えるだろうが、それはそれとして高坂麗奈というキャラクタを心底嫌いになったことだけは動かせないだろう、という結論に至り、そしてそうなるはずであった。
のだが、物語は急展開を迎える。
ここからは原作改変としてすでに話題になっている、ユーフォニアムのソリ奏者を決める公開オーディションについて、私が受けた衝撃を述べる。ちなみに原作未読である。
久美子にとって憧れである田中あすかを思わせる銀のユーフォニアムを携えた強豪校からの転校生で、実力は高い。つまり久美子を脅かすポジションを与えられたキャラなのだろう、ということはすぐに分かった。実際その通りの役回りで、「(私のせいで大会に出られなくなる人がでるから)オーディション辞退しようか?」 「(ソリを奪うことになるから)オーディション辞退しようか?」と本当にしつこいぐらい繰り返し久美子に訊ねるうっとうしいキャラでもあった。それはさておき実力は本物で、いち早く警戒感を露わにした麗奈は、当初「久美子の方が上手い」と言っていたのに、途中から「久美子の方が好き」とトーンダウン。さらにソリの練習に久美子を付き合わせて「私は全国も久美子と吹くつもりでいるから」と激励している。しかし関西大会でソリの座から久美子は陥落する。その際、麗奈は「やっぱり…」という表情を見せるため、滝の求める音を出せるという点で、黒江は明らかに上だったと思われる。
ただこの段階でのソリ落ちは明らかにそういう流れであったし、物語的には全国大会でソリ奪還して金賞の方が盛り上がるため衝撃は全くなかった。物語がそのラインに乗ったことで、そうなることはもはや確定的に明らかだとさえ思った。
関西大会は滝の一存で決まったが、全国大会は甲乙つけがたいとの判断で、部員投票による公開オーディションをすることが決まった。2年前、当時1年生だった麗奈と3年の中世古が競い合ったアレのリフレインである。しかし当時と違ったのは、奏者を幔幕で隠し、音だけで判断してもらうということ。奏者は視聴者にも隠されており、これには第四の壁みを感じた。つまり視聴者であるあなたたちも、音だけで判断してくださいね、という制作者たちの声が聞こえたのである。
音楽的素養は0で、細かいことなんて何も分からないが、確かに2つの音は違った。
1番目の奏者は音が小さく、2番目の奏者は大きく聞こえた。自分が部員なら2番目に投票しようと思った。
投票シーンに移り、2番目の奏者には緑輝、塚本、奏の手が上がる。やはり2番目が久美子だったんだと確信した。同時に勝利も確信した。しかし同票であるという。
滝「奇数のはずですが…」
麗「私が、まだです」
ここで2年前のトランペットのソリオーディションの回想が入る。「裏切らない?」 「もしも裏切ったら、殺していい」のやつである。そして――
麗「……1番です」
え、ちょ、待って。2番が久美子やろ、1番????????????
滝「分かりました。では1番の方は、前へ」
黒江の脚が前に出て、麗奈の顔がくしゃりと歪む。久美子が目を伏せる。
マジかよなんだこれふざけんなよ。
客席からざわめきが広がり、部員たちの困惑した表情が映される。
また正しさの暴力かよ! 誰が得するんだよ、この展開!
困惑と怒りの感情でないまぜになったが、まっさきに動いた久美子の言葉に背筋が伸びた。
久「これが! 今の北宇治のベストメンバーです! ここにいる全員で決めた、言い逃れのできない最強メンバーです! これで全国へ行きましょう。そして、一致団結して! 必ず金を! 全国大会金賞を、取りましょう!」
3年間やってきたことがある意味で潰えた直後にこれを言える久美子は本当に立派だと思ったが、脱力した。訳が分からないと思った。
呆然としたまま画面を見続ける。
場面は進んで行き、久美子が麗奈を探している。しかし先に帰ったという。大吉山で待ってるというラインの画面が映され、登りきった先にいた麗奈は背中で泣いていた。
それを見た瞬間、(上からで申し訳ないが)「赦せる」と思った。麗奈は分かってて久美子に引導を渡したんだと理解し、麗奈に対する怒りが氷解した。
正しさは暴力性を孕む。しかしその正しさが自らに向かうときのみフェアネスになる。日本語に直すなら公正さだが、ここは敢えて“正々堂々”という言葉を使いたい。
麗奈は黒江を選んだんじゃない。久美子より音楽を取ったんでもない。久美子との約束を果たしたのだ。
2年前。中世古香織をソリから追い落としたとき、そうけしかけたのは久美子だった。麗奈は「裏切らない?」と聞き、「もしも裏切ったら、殺していい」と久美子は答えた。ここで彼女が言いたかったのは、「自分の音楽に正直であれ」ということだったろう。そういうセリフがあるわけじゃない。しかし含意は明らかなように思われる。迷いを振り切った麗奈は実力を発揮し、ソリの座につく。
麗奈はその時の同じように、正々堂々と、胸を張った。
たとえそれが自らの心臓に刃を突き立てるほど辛いことであっても。
久美子は音大に行かない。公式大会でソリを吹くチャンスは最後だろう。海外の音大に留学する麗奈からすれば、肩を並べて吹ける最後のチャンスでもある。
でもそれを分かった上で、どちらが久美子でどちらが黒江か分かった上で、久美子を切って捨て、そのかわりに約束を、果たしたのだ。
久美子は言った。「私は、それが何よりうれしい。それを誇らしいと思う自分に胸を張りたい」
もし仮に、麗奈が久美子との約束ではなく、久美子を選んでいたら。麗奈はもちろんのこと、久美子も胸を張れなかったはずだ。最後の全国大会で一緒にソリを吹けたかもしれない。高校時代のいい思い出として残せたかもしれない。しかしあのときかわした約束を裏切り、その時の自分たちを殺すことになる。だから“正しさ”に傷つくことが分かっていても、麗奈は己を曲げなかったし、久美子はそんな麗奈を誇りに思うと胸を張ったのだ。
原作改変で賛否両論の展開であるが、私にとってはアニメ『響け! ユーフォニアム』が描いてきた物語の結末として、これ以上のものはないし、これ以外のものもないように思われる。私は私の感想が正しいとは思っていない。久美子と麗奈がソリを務める全国大会が見たかったし、今もまだ見たい。久美子がソリを吹けないなんて嘘だろう、とまだ思っている。だから原作改変に怒っている人たちを否定する気には一切なれない。それもまたひとつのあり方だと思う。でもだからこそ、正々堂々と胸を張る道を選んだ久美子と麗奈を、いち視聴者として誇りに思う。
余談。滝は「どちらも充分ソリが務まると考えています」と言って部員投票に委ねたが、ある意味で嘘だろうと思う。というのは久美子と黒江の音に明確な違いがあったからだ。どちらが上か下は分からない。でも違いがあった。久美子の音は大きく、黒江は小さかった。麗奈が選んだ今なら分かる。久美子のユーフォニアムは主張が強かった、ということなのだろう。あくまでユーフォニアムは影だ。スポットライトがあたるべきはトランペットであって、黒江のユーフォニアムは影に徹することでペットを際立たせる演奏だった(黒江の楽譜には「支える!」という書き込みが何度も現れる)。合奏で求められるのは、つまり滝が求める音を出せたのは黒江だった。
ではなぜ滝はソリオーディションを開いたのか。責任を投げたとは思わない。頑張ってきた久美子にチャンスを上げたとも思わない。本人が述べているように、久美子が部員からの信頼篤き部長であるがゆえに、部がまとまるにはそれが最善と考えたのだろう。
「私は、今の北宇治を高められるところまで高めたと、自負しています」。つまり本当に、久美子と黒江で大きな差はないのだ。どちらで臨んでも、金に届きうる。そのために必要なのはむしろ部のまとまり。そういうことなんだろうと思う。
余談その2。12話の放送直後、シナリオライターが原作改変を主導したのは自分だと告白していた。
https://x.com/oitan125/status/1804807383018795391
賛否両論になるのは間違いなかったから、その責任を一手に引き受ける、とそういうことだろう。アニメの中で、麗奈がやったのと同じ立ち回りである。これが正しい結末だと、原作を改変してまでそれを押し付けた。しかし同時にそれに納得のいかない視聴者からボコボコにされることを引き受けた。正々堂々と、胸を張ったのだ。いち視聴者として、制作スタッフの決断とそれを支持した原作者を誇りに思いたい。
読解力とは何か。
文章にできる表現は限りがある。限られた文字数で書かれた内容から、書かれた以上のものを読み取らなければいけないことが、コミュニケーションには往々にしてある。
しかし一方で、「勝手に行間を読まない力」も重要だったりする。
これが問われるのは主に大学入試以上の学術的な文章読解だ。論文やテクニカルなレポートは「行間」を読んではいけない。
曖昧に書かれた部分は曖昧なままに受けとり議論する能力をつけないと、高度な知的活動は行えない。
学術的な訓練を受けていない人間は、これができないのが社会人としては問題だったりもする。
ここで注目したいのは、人が「読む」ということを覚える過程は、どうしてもこの「行間を読む」→「読まない」という順番になると言うことだ。
何となれば、そもそも「読む」ことを訓練しだす子供の頃には、最初から長い文章を読むということはできない。
必然的に、「短い(文字数の少ない)」「内容の薄い」物語などから読む訓練を始める必要がある。
となればまた必然的に、「行間をフルに読んでいかないといけない」のが読書訓練の最初になるわけだ。
子供に本を読み聞かせるときには、「このときどう思ったかな?」「どうなったと思う?」などと想像を膨らませるような問いかけを推奨される。
これはつまりこの「行間を読む」能力を高めるためだ。行間を読む想像力を鍛えると、読書が面白くなり、本を読むことに抵抗がなくなる。
しかし、これが行き過ぎると、いい年して、業務文書にも「行間」ばかり読んで、ローコンテクスト(文字通り)の厳密なやりとりが苦手な大人になってしまう危険性を同時に孕んでいるのではないだろうか。
これも一種の「アンラーン(必要な忘却)」の問題なのではなかろうか。
人は「行間を読む」こととともに文章に慣れ親しんでいかなければならないが、いつかそれを捨てて「行間を読まない」文字通りのコミュニケーションができるようにならないと社会では使い物にならない。
日記を読んでくれてありがとうございます。
だけど、あくまで現時点の認識では、女性とのコミュニケーションって如何にコントロールを確立するかのまでの過程にしか思えなくて。
本家が40巻かけても描ききれなかった「憧れと現実、師弟愛と守破離、変わる決意と変わらぬ決意」の要素を半分以下の15巻で綺麗に描ききってしまった。
本家が下地を整えてくれた上にジャンプ+という打ち切りプレッシャーの少ない場所でのびのびとやれたおかげもあるのでしょうが、それにしたって物凄いことです。
日本中を飛び回るスーパーヒーローとしての決め台詞「私が来た」に対しての、地域密着型ヒーローとしての決め台詞「俺がいる」。この2つのヒーロー像が一人の少年の中で渦巻くことにより、世界を救う戦いと最愛を守る戦いに同時に挑ませることになっているのも面白いですね。
憧れの人に近づきたいというキラキラした雲を掴むような願いではなく、すぐ側にいる誰かを助けたいという気持ちの小さな積み重ねが光り輝く未来へつながるというストーリーも実に少年漫画として気持ちが良かった。
なにより私が評価しているのは、「俺がいる」がただの狂人の言葉で終わらないことです。
最初こそ迷惑なオッサンの決め台詞だった「俺がいる」は、次第に頼もしいヒーローの言葉となり、素朴なる祈りともなり、そして何よりも熱い誓いともなっていく、この過程の中で航一と読者の中でヒーローのあり方に対するステレオタイプな憧れが姿を変え、「何を守りたくて力を振るうのか」というかより本質的な問へと変わっていく構成が本当に巧みだ。
ヒーローとはなにか、どういったヒーローになりたいのか、なぜヒーローになりたいのか、なぜヒーローが必要なのか、ヒーロー社会の根源に流れる問が一人の少年の背中越しに一つの道として描かれる。
「個性社会におけるヒーローのあり方とはなにか」という難問に、ヴィジランテ(非合法ヒーロー)というタイトルを冠するにふさわしいだけの完璧な解答をしてみせたとても素晴らしい作品でした。
物凄い売れている。
そもそもヒロアカが売れていたからヴィジランテが生まれたわけですから。
ですが、一つの漫画として、少なくとも「ヒーローとはなにかへの回答」としては、ヴィジランテの方が一枚上手だったと私は思います。
エッグ矢沢氏のnoteの内容に疑問があるとか、ツッコミ所があるとか、そういう話では一切無いのでそういうのを期待してこれを開いたなら閉じてくれ。
俺が疑問に思うのはブコメによくある「こんな酷いことをした藤井健太郎は断罪されるべき、関わった番組は放送されないべき」みたいな論調に対してだ。
俺としてはそれマジで言ってんの?って感じ。
エッグ矢沢氏に起こった事は間違いなく酷いことだし、藤井健太郎氏との間で何かしらの折り合いは付けた方が今後の人生としても良いだろうと思う。
noteに関してもよくもまあ過去の辛い出来事をここまで文章として起こしてくれたな…と尊敬の念を抱く。
これは大前提な。
その一方で思うのが、何か事を成す過程で人がぶっ壊れる事自体はあり触れてると言うこと。
それこそお前らの大好きなシステム開発の失敗プロジェクト(今だとホットなのはグリコの件)なんかでも確実に何人かぶっ壊れてるだろ。
じゃあそれに対して「グリコ許せん!デロイトの関わる商品は買わないしグリコの商品も買わない!」なんて奴見たこと無いぞ。
道路をみれば車はアホほど走ってて、毎日交通事故で人は死ぬ。じゃあ皆で車を使うのをやめるか?それは無理だろう。
スイッチを入れれば電気が点く。でも電機業界なんて人の怪我や死は日常的だよね。でも電気を使うのを止めることは出来ないよね。
結局はわかりやすく可視化された事象に刹那的な感傷を覚えて義憤に狩られてコメントで藤井健太郎氏を叩いてるだけだ。
そんな連中に藤井健太郎氏がボコボコにされて彼のプロデュースする面白い番組を観ることが出来なくなるなら、マジで最悪だからそうはならないで欲しい。
関わる人達にあと少しでも状況を改善する意志があればこうはならなかっただろう。
ただ、それと同じくらいに悲劇的な出来事はあり触れていて、この件で喧喧囂囂に藤井健太郎氏やテレビやらなんやらを叩いてる人らは普段そういう現実とどう折り合いを付けて生きているのか、疑問に思う。
見て見ぬふりをしているのか?
仕事柄、人の死をよく見る。
大往生だったと少し涙ぐみながらも笑うご家族を見る。それより十歳くらい年上の方が亡くなったときに泣き崩れる家族もいた。
そんなとき、いつも思う。
死んでもいいと周りが、本人が思えるのはいくつなんだろう。
幼い頃にずいぶん若い人が立て続けに亡くなった年があった。全員40を迎えることなく亡くなったはずだ。仏壇にランドセルが供えられているような歳の子まで。
別に何か災害があったわけでもなく、本当にその年だけ若い人が立て続けに。理由もバラバラだった。
私自身も幼く、曽祖母の葬式に幼稚園の頃に出たのが最初で最後くらいお葬式と無縁の年齢だった。曾祖母のお葬式は記憶にないが、100歳だかで亡くなった大往生だったので割と明るい雰囲気のお式だったらしい。
そういうわけで、記憶にあるお葬式はずいぶんと若い方が亡くなるものが最初だった。棺に故人のご母堂がすがりつき大泣きし、周りも早すぎる、どうして、と啜り泣いた。ご友人だかがたくさんいらっしゃって皆さん泣いていた。私もとてもよくしてもらってた方なのでもう会えないのだとわんわん泣いた。
だから、お葬式とはこれほどに苦しくて悲しくて辛いものなのだと思った。
次のお葬式はほんの一、二カ月後。
まだ十歳にもなってない友人のお葬式。
正直もっと悲惨だった。理解ができない年齢の子もいっぱいいた。家族ぐるみのお付き合いがあったので控室に母や他の友人の母たちが集まって、なんとかお式には出れるようにとその子の母親を立たせていた。
逆に少しも涙が出なかったのを覚えている。受容できていなかったのだと思う。
お葬式後、まだ幼かった下の兄弟に「明日になったら○○と遊べる?」と聞かれて、もう出来ないんだよと言ったときに初めて涙が出た。
その後も若い人が年内に亡くなった。どれも苦しいお式だった。
知り合いが若くして死に続けた年は後にも先にもこの年だけだ。あとはもう寿命だねと笑い合えるようなお式にしか行っていない。
がんで亡くなった祖父は闘病も長かったので家族も覚悟していたから、お疲れ様とみんなで話すことができた。
突然ぽっくりと、朝起きてこなかった方のお式はちょっと戸惑いが見受けられた。
いくつ、ではなく受容過程があったか、なのかもしれないと考えられるようになったのは今の職についてから。
でも、やっぱりそれだけでもない。若くしてがんなんかで長い間闘病の末の死ではやっぱり死を惜しむ。受容する期間はあったはずだけど。
だからいつも、いくつなのかなあ、と考えながら人の死を看取る。
世の整形美人は俺みたいな男が「チェンジ!」と言わずに頑張って行為に及んだ挙句金まで取られるという悲惨な過程あって、その顔を手に入れた人もいるんやなぁ
感動もんやなぁ🥺
問題の解明過程、 証明過程はテクニックで、どのような技術、テクノロジーによって解かれているのかが一般的に判明した場合、一般人が、日常的に困っている特定の問題に関して
独自にその、解決技を編み出し、その知見を利用されるおそれがある。
人工知能や電磁場を用いて、 妖怪の中身を変えてしまうということは、そういうことが出来るのではないか、ということは、科学的に予見できても、実現するためには、様々な道具を集めて、
精緻なテクニックにより間違いなく作っていく必要がある。予見するだけなら誰でもできても、実際に作るとなったら至難の技である。
人工知能と電磁場に関する教科書を書いて、様々な定理を発見し、中には、完全無欠な定理と評価されるものまで何でもかき集めて、より難しい問題に届くのではないかということである。
例えば、 幾何学の、 PowerThorem(方べきの定理)というものは、点Pが、円の中、円の外のどこにあっても成立するので、一見完全無欠なようにみえるが、幾何の世界では、あくまで
つねに道具として使用されているだけで、出現的技術とまでは評価されていない。
最近の小学生は、 建造物に人が住んでいることが技術であるとは理解していない。 安室奈美恵が、マンションに住んでいて、そこで光っている場合には、そういう住み方の技術である。
『マイ・インターン』観た
定年退職したおじさんが会社員生活と人生を通じた経験を駆使して、新興企業で人気者!っていうプロットにちょっとなろうラノベみがある
スマートな気遣いなんかも所々で描かれる訳だけど、それ以上に基本的に善人しか出てこないから人望を集める過程がなんかあっさりしてるというか……
なんというか、天才キャラをその思考過程じゃなく名門大卒とか難関資格保有みたいな肩書だけで描くやつに近い
でもまあそれでいいと思う
会社で上手い事立ち回る具体的な過程を見たいんだったら大企業の創業者の自伝でも読んでればいい
人間関係の描き方が過不足ない感じだし、ワチャワチャしたメール削除ミッションもあったりして飽きないテンポ感
でもやっぱおれはスコセッシ映画の寄る辺ない鬱屈を抱えていたり、掴み所のないようでもありただ中身のないだけのようでもある青年を演じるデニーロが好きだぜ
143条以下を見ると様式については制限があるけど、内容については制限がない
すると公職選挙法は候補者間の公正なルールと方法による弊害(勝手に道路とか乱立させて貼ったりするとか)を防止するための規定なんじゃないかな
内容について規制しないのは政策の主張が選挙の根幹であるし、これを制限すべきでないって考慮もあるのかも
その辺は全体の構造や立法過程、事例判断とか観てないからなんともいえないけど
ただその場合はやっぱり選挙ポスターについては内容が大事で規制すべきでないって元の話と整合的な気がする
その上で猥褻物陳列罪は内容についての規制だけど選挙ポスターの内容とは無関係で、いわゆる間接的付随的制約として及びうるとは思う
ただその場合も選挙ポスターだと猥褻な政策を訴える候補者はけしからんだとかの可能性もあるし、表現の価値も高いと考えると合憲化のハードルは低くないと思う
あと確かに地方の選挙で碌でもない手法のようにも思えるけど、性道徳による規制っていう刑法でも疑問視される行為についてカウンターとして過激な表現によらなきゃいけないのも事実なんじゃないかな
公民権運動では過激な表現が用いられてて、それと同視するわけではないけど、多数派が少数派の表現について見るときには簡単に考えずに規制を行う側は慎重さが求められるんじゃないかな
これ表現規制って法律問題だとかなり難しい問題なんじゃないかな。
たしかに単なる猥褻物は判例上においても規制が可能とされてる。
まず表現行為の価値について考えると、選挙において政策として猥褻表現の価値を訴える場合はチャタレイ夫人なんかを例とする個人の表現としてのされる行為が猥褻表現を含むのではなく、政治的意見表明としてされており表現に政治的な価値が乗る。
従って価値が高くなる。
その場合、民主制の過程において何が政治的に正しいか討論するための情報を事前に行政が規制することはかなり厳しく判断される。
これは例えば外国人による犯罪の予防のために議論するときに結果的に差別的ですあったとしてもまずは行わせた上で妥当性を判断するような場合なんかと同じ。
議論の土台となる主張については議論によって妥当性が判断されるべきで、事前の規制は権力による恣意的な濫用の危険性が大きいからできるだけ抑制されるべき。
次に目的、すなわち対抗価値の重要歳について考えると、猥褻表現については上に挙げた目的以外に未成年保護って理由も考えられるし、選挙ポスターはこれに当たりうることがら正当化の余地がたしかにある。
これに関しては猥褻な出版と青少年保護が対立する岐阜県青少年保護育成条例事件の判決があるけど、これは政治的表現じゃないから判例の射程外の可能性もある。
そうすると今回の事件は単なる低価値で、性道徳や青少年への害悪の疑われる猥褻表現の規制ではなく、政治的な主張に必要な表現が猥褻性を有するっていう事案であって、価値が認められる余地があるんじゃないかな。
同志諸君、
今日、我々は歴史の転換点に立っています。古の思想家たちが夢見た理想社会の実現が、今まさに我々の手にかかっています。ヘーゲルが言うように、「歴史は理性の進歩の記録である」。我々の革命は、その理性の進歩を具現化する一歩であります。
プラトンは『国家』において、正義の実現が国家の理想であると説きました。我々の闘争もまた、この正義の実現を目指すものであり、そのために我々は一つの共同体として団結しています。正義の実現なくして真の自由はありません。ルソーが『社会契約論』で説いたように、「人は自由なものとして生まれたが、至る所で鎖につながれている」。我々はその鎖を断ち切り、真の自由を取り戻さなければなりません。
マルクスとエンゲルスが『共産党宣言』で示した通り、「すべての歴史は階級闘争の歴史である」。我々の闘いは、抑圧された労働者階級が立ち上がり、搾取と不正義に終止符を打つための闘争です。ブルジョワジーによる支配を終わらせ、プロレタリアートのための新たな秩序を築くのです。
ニーチェが『ツァラトゥストラはこう語った』で唱えたように、「超人とは、自らの限界を超え、新たな価値を創造する者である」。我々は今、自らの限界を超え、新たな社会の価値を創造する時です。既存の価値観に囚われることなく、新たな時代を切り開く勇気を持たなければなりません。
同志諸君、我々の使命は崇高です。我々は単なる反乱者ではなく、理性と正義に基づく新たな秩序を築く革命家です。革命は困難と犠牲を伴うでしょう。しかし、我々が掲げる理想が真実である限り、我々の闘いは必ずや勝利へと導かれるでしょう。
ヘーゲルの弁証法的進歩のように、我々の革命もまた、対立と統合を経て進化する過程です。この過程において、我々は決して恐れることなく、勇気を持って前進し続けるのです。
同志諸君、今こそ歴史を動かす時です。我々の手で、新たな社会を築き上げましょう。自由と平等、そして正義のために立ち上がり、未来を切り開くのです!
イラスト生成aiについて、普段使っている絵のアカウントでは言うと燃えかねないのでここで吐き出し
<お前は誰だ?>
趣味絵師。FANBOXやskebで多少のお小遣いを頂けることもあるが企業案件の経験は無し。
自分はアナログはてんで描けず、デジタル作画ソフトが進化することである程度の絵が描けるようになった人間。
イラストaiだってツールとして使う分には問題ないと思っているし、使えるもんなら使いたい。
仕上がったものが他人のパクリになってないのが重要なのであって、その過程って割とどうでもよいと思う。
<無断で自分の絵を使われることについて>
個人的には、自分が描いた絵を無断で使われることにそこまでの忌避感は無い。
画像検索で資料を探すし、気に入った絵の描き方・塗り方は参考にする。
もっと言うと、他人の著作物を用いたR18画像は描いてるし、ニコニコ動画の著作権物が大量に使われたMADも楽しんできたし、漫画の一コマを無断転載した大喜利にも爆笑してきたし、ユーチューブで無断転載されてる作業用BGMを聞いてきた。
なので、なりすまし等の明らかに悪意を持った使い方でなければ、一度webに上げた絵はどうぞ好きにしてくれというスタンスでいる。
(danbooruは勝手に自分の絵を保存してくれるからある意味助かっている。)
生成物がパクリになる?i2iで直接読み込まない限りはパクリレベルの絵は生まれないよ。
ai派に対しては、成りすましとか、特定の絵師に粘着するのはやめれ。
それはaiでなくてもアウトなことだ。
aiを嫌うのは自由だけど、それで所構わず他人の絵にai疑惑をかけたりするのは違うよ。
今回はタイトルの通りハプニングバーの話をするよ。みなさんに未知なるすけべの世界をお届けできれば幸いだ。
ちなみに今回はリアタイレポではないのであんまり臨場感あるエロい話は出てこないぞ。すまんの。
「ハプニングバーとは、性的にいろいろな嗜好を持つ男女が集まり客同士で突発的行為を楽しむ、バー。ハプバーなどと略される。」 (wikipediaより)
なんか小難しい言い方をしているが、まぁ端的に言ってしまえば店の中にいる男女同士でワンチャンすけべが狙えるなんとも素晴らしいバーである。ある程度のお酒やソフドリが飲み放題で、普通のバーと違い、お酒を飲んだり会話をするのがメインのバースペースと、すけべするためのプレイスペースが併設されている。あとシャワースペースもあるぞ。
完全会員制となっており、利用料金は男性が1万~1万5千円が平均と非常に高額な反面、女性は無料~1,000円とタダ同然の料金となっている。なんなら無料の店の方が若干多かったりする。ちなみに男女セットで入店した場合は男性のみの料金より若干下がり8,000~1万円が平均といったところ。あと初回はこれとは別に1,000~5,000円の会員登録料がついてくるぞ!(こちらも女性は無料~1,000円だ。お得だね。)
とまぁかなり理不尽な料金設計なのだが、そんな料金設定を呑んで楽しめる紳士のための遊び場なのである。
また、営業内容が特殊すぎるゆえに入店時のチェックが非常に厳しく、初回の会員登録のときは身分証明書が2種類求められるのと、2回目以降の来店時も会員証が必須だ。ちなみに忘れた場合は基本的に入れてもらえないので、登録料を再度払って会員証を再発行するか、家まで取りに戻る必要があるぞ!ゴリ押しで入ろうとすると最悪出禁になる可能性もあるから気を付けよう!
さてさて、肝心の遊び方なのだが、基本的にはその場のノリで好みの相手を見つけ、口説いてプレイスペースに行こう!っていう実力プレイになる。初めてで気後れしちゃうかも……って時は、場所によってはスタッフさんがちょっとサポートしてくれたりもするので、まずはスタッフさんと話してみるのもアリかも。しかしまぁどこまで行ってもコミュニケーションありきの場所なので、積極的に他人と会話するのが苦手な人にはあんまり向かない遊び場である。
しかしコミュニケーションなしで全く楽しめないわけでもなく、貸出用の備品としてセクシーコスチュームが置いてあるお店がほとんどなので、運がよければ(今日はコスプレをした女性に有料ドリンクサービス!みたいなイベントをやってるお店もある)エッチなコスプレをした女性を肴に酒を飲むことができるぞ。
そしてプレイルームなのだが、基本的にはどの店もスタッフさんに、部屋に入りたい二人が一声かけてから向かう必要がある。店によりけりだが、そもそも部屋の鍵がスタッフ管理になっていたり、スタッフから渡される何かしらのアイテムを持ってないと入れなかったりとこちらも徹底されている。なので、相手を酒で潰してしまったり同意が取れていないのに無理矢理連れて行ってやろう、なんてことは考えちゃダメだぞ。しつこいかもしれないが、何よりもコミュニケーションだ!無理強い厳禁!
他にもプレイルームに関する細かいルールはお店によっていろいろあるが、どんなところでも避妊具の着用は絶対だ。お店から無料でもらえるのでしっかり使おう。
ちなみにスタッフさんの役目はお酒を提供したり監視役のみとなっており性的サービスは一切行っていないので、どんなに見た目が好みの人がいても粉をかけるのはやめよう。業務妨害になっちゃうよ。(さっき書いた通り、店の状況にもよるが話すくらいなら全然対応してくれるよ。)
また、店内では男女のハプニングを推奨する一方、連絡先の交換や店以外での交流は厳禁となっている。基本的にどの店でもスマホはロッカーに預けメインフロアに持ち込み禁止、もちろん連絡先の交換も禁止、個人客の退店タイミングが被った場合は、たとえ同性だとしてもスタッフさんが片方を止めて時間差で帰すなどこちらも徹底している。それと、これは明文化されたルールという訳ではないのだが、客同士の会話でもプライベートに踏み込むような話題は避ける暗黙の了解がある。あくまでもその場限り、一夜の出逢いを楽しむための大人の社交場、ということだ。
さて、大まかな共通点はこんな感じで店によって特色はさまざまだが、大まかに「わいわい系」 「しっとり系」の2流派に分かれており、
わいわい系:プレイスペース以外でも脱衣やすけべ行為がOKなことが多い。店内の雰囲気がにぎやかで、複数人で交流しやすい。様子のおかしいイベントをやっている店もある。
しっとり系:プレイスペース以外での脱衣が制限されていたり、すけべ行為はNGになっていることが多い。バースペースの雰囲気が普通のバーっぽくなっており、一対一、あるいは少人数の交流がしやすい。全員参加型の大きいイベントは少ない印象。
みないな傾向の違いがあったりする。あとわいわい系と呼ばれる店舗はプレイスペースが遮断されていないことが多く、他人のプレイを堂々と見ることができるよ!やったね!
というのも、当時体力と性欲が有り余っていた私はとにもかくにも出会いを求めていた。既にマッチングアプリが一般的になっていた世代の人間なので、最初は複数のアプリに登録して顔が好みだった人にいいねを送って……みたいなことをチマチマやっていたのだが、もうあまりにもまだるっこしい。好みの人にいいね送ってマッチする可能性も半々くらいだし、マッチしたらしたでチャットで会話して会う日決めて待ち合わせして、更にそこから食事してホテル探して、みたいな過程が面倒になってしまった。私も人のことを言えた義理じゃあないが実際会ってみたら写真と違くない?みたいな人も全然いるし、待ち合わせすっぽかされることも数度あったし、こっちがその気でも相手の気が乗らなければ適当に茶しばいて解散になることもあるし。
そもそも私は別に今からセックスする相手の性格とかそんなに興味ないんだ。性癖と、シャワー浴びてる最中とかに財布から金抜かない程度の倫理観があるかだけわかればいいんだ。わざわざカフェとか入んなくていいよコンビニで何か適当に買ってさっさとホテル行こうよ、とか言うとちょっと引いた顔されるし。いやそういった倫理観をお持ちなのは大変素晴らしいことなんだが。そもそも週末に予定を入れるからホテル空いてないし。大都会東京の皆さんはさすがお盛んでいらっしゃいますなぁ!てなもんである。いや私もそのお盛んなヤツの中の一人なんだが。
あとはまぁどうしても肉体的な相性ってあるので、上手い下手とかの話じゃなくて。なーんかお互いイマイチだったなーって感じで解散して不完全燃焼なまま終わることもあって勿体ないし。
じゃあ同じ日に何人かと会ったらいいと思うかもしれないが、基本的に私は社不なため初対面の人間と会って話すことにめちゃめちゃ気力を消耗するので、1日に複数人との予定を入れるのは性の快楽よりメンタルのストレスが強くなってしまうため数打ちゃ当たる戦法は取りたくないし。
いい感じに手っ取り早く、ストレスを避けつつ遊べる場所がないものかと思ってインターネッツの海をさまよっていた時に見つけたのがハプニングバーという存在。
女性は格安、酒も飲み放題、その空間にいるだけでいろんな人が出入りする、なにより行ったことがない未知の場所!こんなに面白そうな場所があるなんて、東京に住んでてよかったと初めて感謝したくらいだ。
成人映画館の記事を読んでくれた人はご存知かもしれないが、私はそういう、なんか面白そうな行ったことがない場所が大好物だったので思い立ったが吉日、見つけたその日に行ってみることにしたのであった。
え、今?今はもう通ってないかな……夜通し酒飲んでセックスする体力もう無いし……。だいたい一番のピークって終電間際~深夜2時くらいまでなんだけど、前日から睡眠時間を調整しておかないともうその時間になると眠くて活動できなくなってしまった。今でもたまに行く分には楽しいんだけどね。
さて、ここからはハプニングバーで体験した印象深い出来事をいくつか紹介するよ!
あくまでも私の記憶に残っているお話なので、おもしろいかそうじゃないかは諸君の物差しに任せる!
ハプニングバーは場所柄、男性も女性も性にオープンな人が集まりやすい。中には同性もイケるよ!なんて人もいる。かういう私も両方いける人間だ。
その日同席していたお客さん数人とそういった話になり、まぁあんまり人には言わないよね~女同士だとキスくらいしかしたことなくって~いろいろしてみたいんだけどね~みたいな話をしていたら、ひとりの女性が「じゃあ私としてみる?」と言ってくれた。小柄でかわいらしい女性にそんなことを言われてしまったらもうやるしかない。いや是非ともやらせていただきたい。
と、いうわけでシャワーなどもろもろ準備をして、人生で初めてのレズプレイである。
正直めちゃめちゃ興奮しました。にこにこしながら「女の子の指って男の人よりやわらかくて気持ちい~」って言われて鼻血出すかと思った。痛い思いや不快な思いをさせたら申し訳ないので目を皿のようにして様子を見ながら触ったり舐めたりしたのだが、喘ぎ声とか表情がエロすぎてぜんぜん何もわからなかった。感じている様子がかわいいことしかわからない。女性は気持ち良くなくても演技をすることもあるし、正直そんなにわからないものか?とか思ってたけど、初めてこちら側の視点になってわかった。もしあれが演技でも私は見抜けない。だってかわいい。あれが演技だったなんて思いたくない。
書いてて悲しくなってしまったのでこの話はここで終了としよう。
その日はあまりお客さんが多くなく、また常連さんばかりだったらしくプレイが始まることもなくバースペースの片隅で全員で最近あったすけべエピソードや性癖を語らっていた。
それはそれで平和で楽しいのだが、やはりハプニングバーはすけべな遊びがあってこそ……みたいな思いがあったのかは不明だが、スタッフさんが「暇だしみんなでゲームしよう!はい、男性は服脱いでこっち集まって!」と男性を集めた。そしてどこからか巨大な毛布を持ってきて、全裸の男性たちを横に並べてその前に毛布で目隠しを作る。ちょうど上半身だけ隠れるような形になったところで女性たちに「よし、皆さんにはこれからAさんのチン〇ンを当ててもらいます!」と、AVの導入みたいなことを言い出した。
訳がわからないけど爆笑する女性たちと、そんなカオスな状態なのにいつの間にかビンビンの臨戦態勢になっている男性たち。さすが紳士の遊び場に長年通い続けている猛者たちである。いやAさんどれだよ知らんが??となる私を置いて「Aさんこれじゃない?大きさ的に」 「え~形的にこっちだと思う~」と盛り上がる女性たち。なんでみんなわかるの???通い始めて間もない小娘には荷が重いゲームだった。
判定方法はフェラとのことで、女性たちが端から順番にいきり立ったそれを口に含んでいく。自分も参加しながら本当に意味がわからなくて面白かった。AVでもなかなか見ない状況だった。
最後、女性が一通り舐めた後に一人ずつ回答するのだが、やはり他の女性はみんなわかったようで満場一致で同じ人を指していたので私も同じ人を答えておいた。正解だった。すごい。
どんな道も究めることができるんだなぁ。この場合はなんて称号が付くんだろう。チ〇コソムリエだろうか。いらねーなこんな称号。
私はNTR系は大地雷なので、パートナーがいると明言した人とはハプニングバーの中であろうとヤらない主義の人間なのだが、「実は彼女いるんだけどね~こういうとこ来てみたくて~」と話していた人にいたく気に入られてしまい、お前とはやらんと言っているのにかなりしつこく誘われてしまった。既に終電はない時刻、この狭い店の中でどうにかやり過ごすしかないと思っていたのだが、断ってもまぁガンガン酒を飲ませてくる。さすがに気分が悪くなって隅の方で横になって休んでいたら、寝ていると思ったのか私の近くで何やら喋っている。どうやら、私が目を覚ましたらなんとかしてプレイルームに引っ張ってってマワしてやろうってことらしい。なんちゅーやつらだ。これエロ漫画とかである輪姦って書いてマワすって読むタイプのやつだろ。やめろ。
これはやり過ごすとかぬるいこと言ってる場合じゃねぇ、と身の危険を感じた私は酔って終電の存在を忘れてしまったような感じを装って深夜の繁華街に飛び出した。もう電車もないし危ないよ、と引き止めてくれたスタッフさんありがとう。でも店の中も危険だったんだ……。
まぁしかし終電もないしタクシーで帰ろうにも高くつくし、近隣のネカフェは全滅だったので結局始発が動く時間まで夜の東京を数時間歩いた。壮大な散歩だと思えば楽しいもんである。
今思えばスタッフさんに言うとか他のお客さん(何故かだいたいどの店にも女の子を守る常連のおじさんがいる)の近くに行くとかやりようはあったはずなのだが、酒で判断力が鈍った頭は恐ろしい。酒は飲んでも吞まれるな!
女性には共感してもらえる方も多いかもしれないが、ヒゲが豊かな男性はキスをすると口周りの柔らかい皮膚にヒゲが刺さるのでかなり痛い。あと生えかけの青髭とかもそう。ヒゲの質感にもよるんだけど私はこれがかなり気になるタイプである。
……という話で同席していた美女(仮にAさんとしよう)と盛り上がっていたのだが、もう一人同席していた男性(Bさんと呼ぶ)がちょうどヒゲを伸ばしている最中の人だった。Bさんはファッションの一環として最近伸ばし始めたらしいが、まぁ伸ばしてる人とはキスできないよね~なんなら密着した時に気になるからセックスも厳しいかも~などとAさんと話していたところ、Bさんは「じゃあこのヒゲ剃ってくるよ!」と言ってこちらが口を挟む間もなく席を立ってしまった。
まぁこの話、Aさんと二人で喋っていたところにBさんが加わって「3人でどう?」と言われたから始まったのでさもありなんというか。
そして綺麗さっぱりヒゲを剃ったBさんが帰ってきて、これでどう?いける?ちょっと確認して?と言われキスをしてみたら確かにつるつるに剃られている。……けど、そもそもBさんは私の好みのタイプではなかったので(美醜とかじゃない。見た目は精悍でかっこいい人だったが、私の好みは細身の中性的な人なのだ)、ヒゲまで剃ってもらっておいて非常に心苦しいのだがお断りした。
……いやだってなんか言う前に行っちゃったし……最初誘われた時はどストレートに「タイプじゃないです」って断るよりは丸いかなって思ったんだよ……ヒゲがいい感じに伸びるように整えてるって言ってたから……そんなあっさり剃るとは思わなくて……。
ちなみにAさんからはキスすら断られていた。しょうがない、Aさんは本当に美人で高嶺の花だったし、基本気に入った特定の人としかプレイしない人だったからね。
2人にすげなく断られ、ちょっと他のとこで飲むね…と去っていく、ヒゲを失ったBさんのしょんぼりした背中は他人事ながら哀愁を感じた。すまんの。
バーで働いているという美少年(たしか当時の私より年下だった)がいて、喋ってるうちに口の中が妙にキラキラ光るなーと思ったらピアスだった。
顔が好みだったのと舌ピってキスした時どんな感触なんだろう?と興味があったので隅っこに連れてってめちゃめちゃキスした。最高だった。
私がハプニングバーに遊びに行くときはだいたい夜~翌朝まで一晩中いることが多かったんだけど(基本的に長くいるだけお得な場所だし)、朝方は結構泥酔してふらふらの人も多い。
その日も悪い酔い方をした人がいたらしく、なんか店内が騒がしいと思ったらその悪酔いした人が嘔吐していた。私のすぐ後ろで。
ぎょっとして立ち上がったけど一足遅く、私のスカートにはゲロの飛沫が……。スタッフさんが濡らしたタオルを持ってきてくれたので一旦拭き取ったり他にかかった場所がないかとかバタバタしている一方で、吐いた人はスタッフさん(リーダー)から懇々と説教されていた。大人が大人に説教されている場面をまさかハプニングバーで見るとは思わなくてちょっと面白かった。
そしてその後、その泥酔野郎は出禁にされたらしい。以前から泥酔して何度かトラブルを起こしてたみたいで、ゲロが決定打だったとかなんとか。
ハプニングバー、ルールを守って節度よく遊べばめちゃめちゃ楽しい場所だよ!
一期一会の出会いを楽しむ場所でもあるので、行った日に理想通りの遊び方ができる保証はないから、心身と金銭に余裕があればぜひ行ってみて欲しい。
注意が必要なのは、店の中で「性行為すること」自体は大丈夫なんだけど、人から見える場所でやるのは違法だぞ!公然わいせつとかそういうやつに該当しちゃうので、心配な人は、プレイルームがしっかり遮断されてるところで遊んだり、許されているからといって店内でむやみやたらと脱衣しないようにしよう!摘発にかち合ったら最悪わいせつで前科がつくのでね……。
(そこまでコンスタントに警察のカチコミがあるわけではないよ!1年に一回あるかないかくらい。)
前に行った成人映画館より安全性にかなり配慮された施設なので、ちょっと性に開放的になってみたい、って人にはおすすめだ!
アファーマティブアクション主張する女性研究者の経歴見ると、都内ご出身で、私立の中高をご卒業後、大学を博士過程まで進まれたのち、結婚してお子様も設けながら、若くして教授になると言う傍目からすると順風満帆なアカデミックキャリアお進みになっていた。
地方公立高校出身で働きながら博士を取って、なんとかアカデミアで食い繋いでいる男性研究者である自分からすると、女性用アカデミックポスト作るなら、地方出身勤労学生ポストも作ってくれよと思った。
個人的には昨今進むアカデミア理工系でのアファーマティブアクションには面従腹背の態度なんだけど、それくらいは許していただきたい。