2024-06-25

文章を読む訓練の「矛盾

 読解力とは何か。

 それはひとつに「行間を読む力」だと言える。

 文章にできる表現は限りがある。限られた文字数で書かれた内容から、書かれた以上のものを読み取らなければいけないことが、コミュニケーションには往々にしてある。

 

 しかし一方で、「勝手行間を読まない力」も重要だったりする。

 これが問われるのは主に大学入試以上の学術的な文章読解だ。論文テクニカルレポートは「行間」を読んではいけない。

 曖昧に書かれた部分は曖昧なままに受けとり議論する能力をつけないと、高度な知的活動は行えない。

 学術的な訓練を受けていない人間は、これができないのが社会人としては問題だったりもする。

 

 ここで注目したいのは、人が「読む」ということを覚える過程は、どうしてもこの「行間を読む」→「読まない」という順番になると言うことだ。

 何となれば、そもそも「読む」ことを訓練しだす子供の頃には、最初から長い文章を読むということはできない。

 必然的に、「短い(文字数の少ない)」「内容の薄い」物語などから読む訓練を始める必要がある。

 となればまた必然的に、「行間をフルに読んでいかないといけない」のが読書訓練の最初になるわけだ。

 

 子供に本を読み聞かせときには、「このときどう思ったかな?」「どうなったと思う?」などと想像を膨らませるような問いかけを推奨される。

 これはつまりこの「行間を読む」能力を高めるためだ。行間を読む想像力を鍛えると、読書面白くなり、本を読むことに抵抗がなくなる。

 しかし、これが行き過ぎると、いい年して、業務文書にも「行間」ばかり読んで、ローコンテクスト文字通り)の厳密なやりとりが苦手な大人になってしま危険性を同時に孕んでいるのではないだろうか。

 

 これも一種の「アンラーン(必要忘却)」の問題なのではなかろうか。

 人は「行間を読む」こととともに文章に慣れ親しんでいかなければならないが、いつかそれを捨てて「行間を読まない」文字通りのコミュニケーションができるようにならないと社会では使い物にならない。

 この学習過程矛盾が、コミュニケーションに難を抱える現代大人問題を生んでいる元凶なのかも知れない。

 という気づきメモ

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