はてなキーワード: 一世とは
↑に色々お返事的な物書いておいたよ。はてな記法よくわからないので読みにくかったらごめんなさい🙇
一連の事件で、創価あたりと一緒に佼成会の名前もでてきてるのでさすがに一緒にされるのは厳しいなーと思ったので軽く。
俺本人は無神論者だが、祖母が一世母が二世。子供の頃や親と一緒に住んでた時は行事にたまに顔を出したくらい。
会員綱領の「立正佼成会会員は本物釈尊に帰依し、在家仏教の精神にのっとり云々」とかはうろ覚えかな。
基本熱心ではない会員として時々参加してただけなので、その範囲で。
大正生まれの祖母はまさに佼成会が拡大した昭和20年代からの信者で支部長とかもしてたらしい。会員ではない祖父の葬儀には100人以上の会員の人がきて、3間ふすま取り払ったぶち抜きにも収まらなかったくらいだったかな。
で、金と政治に関して。
まず会費は月100円。あと親は教会に行くたびにお布施袋という、なんか祝儀袋の簡素化したやつに100円入れてたな。団参といって本部へ行くときは1000円だったかな?まあ、身施ていってお金ではなく働くこともあるけど教会やらの当番やお役、あと本部に団参行ったときに婦人部で本部にある食堂の手伝いとかなので、フルタイムで働かせてとかはないよ。
お経やらのグッズも普通に売店で買う感じ。値段はむしろ安い感じで、実質販売なのに寄付扱いにするとかない。家の仏壇にご本尊をお迎えするとかも、まあ1万とか2万くらいとかかな?基本、金額はお気持ちということでいくら以上とか、教会関係者が献金を強く求めることはないよ。ましてや、家や土地、あるいは金を借りさせて寄付なんてありえない。まあ、会員数はそれなりいるから関係者すべてがそうだとはいわないが、会の方針としてはそうだよ。50年代とかは色々やらかしてたみたいだが、その後改善したみたい。
資産家の老人が高額な寄付をすることはあるだろうし、家族にとっては相続するはずの財産が目減りして悲しいとかはあるだろうけど、本人の意思に反して寄付を求めるような事はしてないよ。
政治に関しては自公政権成立前は自民べったりで選挙期間に教会へ行くと、これでもかと議員のポスターがはってあったよ。で、自公政権以降は野党に肩入れが強くなったよ。
自民支持だった親が、普通に立憲支持してて、今回の選挙では俺の所に白しんくんの選挙のはがき送ってきてもいいかきいてきたよ。
普通に検索すればでてきたけど会員専用のページだからほかの人には秘密ねってページなんでリンクははらないけど今回は比例は白真勲と藤末健三、選挙区は立憲候補を応援しますとかあるよ。
ただ、今回は本部レベルではなく、一部の地域だけだったみたいで、得票数はかなり減ってるね。そこあたりの判断はどうなされたかまでは知らないよ。
あと、佼成会=立憲と思っている人もいるみたいだけど、自民の議員も政治思想によって応援してるよ。
ボランティアや、応援演説の動員はするけどいやなら別に参加しなくてOKで、その結果退会させられたり、村八分にされたり、非難されるようなことはないよ。献金もそうだけど基本ゆるい。
投票所へ車で送るとかはやってるかもしれないけど、日常的に教会へ行くときに会員が自分の車に他の会員を載せてとかやってる延長で、つよく投票先を指示まではしないんじゃないかな?
そういえば一緒に住んでる時も特に選挙でどこに投票してと親にはいわれなかったな。
あと、教会の新年の行事に、管内の市長や隣の市長が挨拶に来てたりはしたな。
https://www.kosei-kai.or.jp/%e6%9c%ac%e4%bc%9a%e3%81%ae%e8%80%83%e3%81%88/
を見れば分かるけど、政治的立場は中道左派くらいかな?基本平和主義、人権尊重で、靖国問題も信徒個人が行くことは問題ないが、総理大臣の参拝は問題だという立場。
他の宗派やキリスト教やイスラームなどの他宗教とも、仲いい感じ。ただし、創価は敵。いや敵と言っても今はそこまで敵意を持つ人は多くないかもだが、「だが、てめーはダメだ」くらいかな?
共産党はソ連の手先だから絶対駄目だと言っていた祖母は、同じくらい公明党もダメだと言ってたな。まあ祖母の世代だとライバルとしてバチバチやりあってたからね。
間違い。
なんか、真に受けてる人が多いみたいなのでちゃんと書いておくけども。一部ブクマが指摘しているとおり、「公共の福祉」を人権相互の矛盾・衝突を調整するための実質的公平の原理であると解する立場は「一元的内在制約説」と呼ばれ、昭和30年代からわりと長らく憲法学の主流な学説とされてきた。
けれど、机上の空論に過ぎないことが既に広く知られている。
みんな大好き長谷部教授の「新法学ライブラリー2 憲法」(新世社。当増田の底本は第4版(2008年))から持ってきてみよう。
もっとも,一元的内在制約説については,より根底的な点で,その妥当性に疑問を呈することもできる。
第一に,人権を制約する根拠となるのは,かならず他の人権でなければならないとの前提は,「人権」という概念をよほど拡張的な意味で用いない限り理解が困難である。たとえば表現の自由を規制する根拠として持ち出される街の美観や静穏,性道徳の維持,電波の混信の防止などは,いずれも個々人の権利には還元されえないものであり,社会全体の利益(公共の福祉)としてしか観念しえない。一元的内在制約説のよって立つ前提は,政府がかならずしも個々人の権利には還元し得ない社会全体の利益としての公共の福祉の実現を任務としているという明白な事実をあいまいにするばかりでなく,現にある人権が制約されている以上,その制約根拠となっているのも人権であるという誤った思考を導く危険がある。
元増田は、一元的内在制約説という古い欠陥理論に依拠している点で誤っているのみならず、一元的内在制約説の解釈適用においてすら、「『人権』という概念をよほど拡張的な意味で用い」る必要があるにもかかわらず、表現の自由の対抗利益に置きうる「人権」を限定的にすることで「公共の福祉」概念を過小に設定している。
一元的内在制約説は1955年に登場した古い学説で、かつては一世を風靡したが、今じゃ(というか十数年前には既に)芦部憲法に高橋教授が個人の人権の間に損する矛盾の衝突の調整と、自由国家にとって最小限の任務とされる社会秩序の維持と危険の防止である
という定義を付記せざるを得なくなっている。すなわち、現代ではもはや維持されていない学説だ。
そもそも元増田自身が「最低限の性道徳」による制約を引っ張ってきた時点で気付かなかったのだろうか。
そして増田の論はその後、創作物規制・広告規制を行うとするならば、それは当然に『表現の自由』に対抗できるだけの権利・利益が無いといけない。
という独自の見解を開陳し、それを武器に、対抗利益の要保護性をお気持ちで断じてバッサバッサと巻藁切りを始める。
まぁこれは、一元的内在制約説の広く共有された欠陥である「制約の可否を判断する具体的な基準が導かれない」という弱点の犠牲になったものとみることもできるが、それにしても、トラバで指摘されている屋外広告物規制条例のように「そうはいっても結構規制されてるよな?」と気付かなかったのだろうか。今じゃ常識の三段階審査とまでは言わないまでも(交通事故が業務上過失致死だと書いているくらいだから、法律を学んだのは何十年も前のことなのだろう)、古来より伝わる二重の基準くらいは持ってきて欲しかったものである。
年貢の納め時がきた。次の年だ。
人生で初めて確定申告をした。凄まじい税額に衝撃を受けた。あれだけ必死で描いて稼いだというのに、国が四割近くも持っていくのはおかしいのではないか。お上の取り分が多すぎる。ずるい。
クリムゾン先生みたいに法人化すればいいのかもしれない――と、税務署まで確定申告の用紙を出しに行った帰りに考えていた。
二週間ほど経った頃だった。父から台所で声をかけられた。「確定申告したのか?」という、いたくシンプルな問いだった。なんで知ってるんだと思った。カチコチに固まってしまって、しどろもどろに声を出そうとしていたところ、父から助け舟が出た。
「税理士から電話があった。うちの確定申告の用紙を税務署に提出したところ、息子さんも確定申告をしているようだと。一世帯でひとつの申告になるから、お前のをこっちにくれ。やっておく」
という事情だった。
そうか、そうだったんだな。一世帯でひとつなんだな(追記:扶養家族が一定以上のお金を稼いだ場合はこうなるそうです)。父さんはずっと前から工場主で農場主だからな、と頭を真っ白にして……二階に昇って、申告用紙をもう一度プリンタで印刷して、父のところに持って行った。「はい、どうぞ」みたいなノリで手渡した。
それで風呂に入ろうとしたところ、「ちょっと待て、この金額は?」と当然の質問が飛んできた。嘘をつこうとしたが、やめておいた。
「漫画を描いてる。売って稼いだ」
それだけ言って風呂場に行った。父の、眉間にシワを寄せた顔が記憶に残っている。
「頼む、これで済んでくれ」と祈りながら風呂に入って、湯冷ましの散歩に行って、また二階に上がってペンタブをちょっとの間だけ握って、マットレスで寝た。
翌日だった。家族会議が開かれたのは。父が、母と妹の前で確定申告の用紙を出して、厳しい問いかけを続けた。
「なぜこんなにお金を?」
「どんなものを描いてる」
「どうして言わなかった」
おおよそこんな内容だったと思うが、正直に答えていった。将来が怖かったこと、何をやっているか恥ずかしいから言わなかったこと、でも漫画を描くのが好きなこと。
父は、手元にあった湯飲みを手に取った。グイっと飲み干した後、急に笑顔になって言うのだった。
「一人立ちできたんだな。おめでとう。どんな漫画を作ってるんだ、見せてくれ。父さんな。若い頃に読んだ三浦先生のベルセルクが好きなんだ」
自分の作品の主人公は、ある意味ベルセルクだ。性的な意味ではガッツもある。男らしさはあまりない。催眠アプリを使って、同じクラスのいたいけで可憐な女の子をセックス漬けにしたりする。
母も期待のまなざしを向けている。滅多に見せない、期待感で高揚している時のあのまなざし。気持ちが悪い。
さて。自分は電子書籍でコンテンツを売っていたのだが、たった1冊だけあった。紙の本が。以前、人生で一度くらいは紙の本を出してみたいなぁと考えていた。それで出版社の依頼を受けて、紙書籍で出させてもらった本があった。
それ(女戦士レイプ凌辱もの)を二階から持って降りて、あとは一番最初にDLsiteで出した電子書籍(妹ものライト強姦アンソロジー)を記念碑的に印刷しておいたものを、一緒に台所に持って行った。
「これ、俺が描いた作品!」
台所のテーブルの上に置いた瞬間、母と妹がのけ反った。明らかにビクッとなっていた。
そこに置かれた1冊(女戦士レイプ凌辱もの)を手に取った父は、まじまじと表紙を眺めていた。やがて、椅子から立ち上がると、クリップ留めの一綴り(妹ものライト強姦アンソロジー)を何枚か手に取って、また眺めた。首を微かに振っていたかもしれない。
沈黙があった。自分は瞬きをしていた。くしゃ、という音がした。クリップ留めの一綴り(妹もの~)にみしみしと皺が入った音だった。
「馬鹿野郎!!」
父の手元にあったはずの湯飲みが額にぶつかって、「やろう」まで聞こえなかった。痛みで聴覚が鈍ったあの感じ。二度と体験したくない。
あまりの痛みに膝を崩して、床に崩れ落ちたところで、父の蹴りが飛んできた。また頭に衝撃が走って、それから床の上から何十回も肉体を踏みつけられた。
母も妹も止める様子はなかった。ただずっと、父から暴力を受けていた。痛かった。苦しかった。呼吸ができなかった。息を吸うためのエネルギーを体が回復力に転化しているのだな、と感じた。
なんで、どうして自分はあんなものを家族に見せたのだろうか。認めてもらえるとでも思ったのだろうか。自分は愚かだ。父がぶっきらぼうに台所を出て、工場の方に向かうと、自分は立ち上がって妹の方を見た。母親の泣く声が聞こえたが、見ないことにする。
妹は、放心した様子でクリップが外れた一綴り(妹ものライト強姦アンソロジー)をじっと眺めていた。微動だにしていない。人は、本当に驚くとこうなってしまうらしい。
その場を離れて洗面台に行って自分の顔を見ると、額がパックリと割れて血が出ていた。後ろを向くと、床に血が滴り落ちている。
「馬鹿だなー、お前。アホが。ゴミかクズのどちらかだな。死ね」
タオルで傷を覆って、自分に対する悪口を連ねた。気分は暗かった。鼻水と涙が出てきて、そのまま二階に上がって、傷は痛いままだったけど、マットレスで寝た。
翌日は全くの無言だった。父とも母とも妹とも会話をしなかった。以後もほとんど話さなかった。
自分は、稼いだお金ですぐに引っ越しをした。引っ越しをしたことはなかったけど、インターネットとか、出版社の人に電話で相談したりしながら、どうにかやり遂げた。
自分が実家を出た日のことだ。あの時の二つの漫画を妹の部屋の前に置いていった。なぜかはわからないが、その方がいい気がした。
ワンルーム4.5万円の、都内にあるボロアパートに引っ越した。以後数年間、ひたすらに漫画を描いて、描いて、描きまくって、今ではこの界隈で一定の地位を築いている。
父とは最近、話ができるまでに関係が回復した。前よりも気持ちよく話ができる気がする。心が通じ合っているというか。
母親はまったくだめだ。何を言っても聞いてくれない。正月に実家に帰った時、「おせちできてる」「風呂が沸いた」くらいは言ってくれる。
妹には、今年の正月にようやく謝った。あの台所の四角い卓に座って、斜めの角度で一緒に食事をしている時だった。
「ごめんな。あんな作品を作ってて。本当にごめん」と謝罪をした後、妹からは、「もういいよ。兄ちゃん、お金持ちになれてよかったね。私もごめんね。ずっと辛く当たってた。本当にごめん」と返ってきた。
鼻をすすって、ちょっと涙目になっていた。肩をちょっと撫でてやると、涙が指に零れてきた。
実際、妹は許してくれたのだろうか。そこが気になっている。
あくまで想像なのだが、妹はショボい兄が許せなかったのではないか。不登校になって、社会的に低層にまで落っこちてしまって、それが許せなかったのではないか。その現実を受け入れるために、自分に対してひどい扱いをすることで一貫性を保っていたのではないか。
自分が実家を出た日、あの時二つの漫画を妹の部屋の前に置いていった理由、それは多分、妹に対する感謝の気持ちがあったからだ。
妹からはひどい仕打ちを受けた。通りすがりに悪口を言われたり、存在に耐えられない軽さの空気みたいに扱われたり、完全に下の存在として見下されたり。いろいろあった。
しかしだ。ムカつきはしたけど、ああいった体験がなかったとしたら自分は今の立場にはない。あの妹がいたから、あの作品が世に出ることになった。それで読者が喜んだ。
そうでなかったら、今でもフリーターとしてマックかどこかでアルバイトをして、ただ何となく若さを消費するだけの毎日を過ごしていた可能性が高い。父が、母が、特に妹が、自分という存在に手痛い一撃を加えてくれたから目覚めたのだ。
家族には感謝している。あの当時は畜生だと思ったけど、今では感謝の念が強い。最後になるけど、ありがとう。自分という存在をここまで高めてくれて。今の自分に暗い怨嗟の気持ちはない。午前八時の太陽のような、ほんのりと暖かい気持ちが込み上げている。
十年の時が経った。
満を持したペルシア軍の大遠征が始まる。十年前のマラトンの戦いの規模を遥かに上回る戦力(十五万人程度と言われている)を前に、ギリシア世界は当然のごとくパニックに陥った。
しかし、ギリシア軍は自国の陸軍の主体を成す重装歩兵に絶大な信頼を置いており、特に、ギリシア連合軍の雄たる都市国家スパルタは、強大な軍事力を背景にペルシア軍に対する陸上決戦を提案し、その決戦をスパルタ自身に主導させようと画策する。しかし、テミストクレスがそこで動いた。
テミストクレスは海上決戦以外に活路が無いことを、十年前から看破し、その準備を着々と進めていた。そのため、軍事力を背景に陸上決戦を主張するスパルタ陣営を確実に抑え込む必要があった。また、スパルタの主張する決戦案は、バルカン半島南方のコリントス地峡において、複数の都市国家を犠牲にすることによって最終的な決戦に持ち込む、一種の焦土作戦の体を成しており、当然ながらテミストクレスはそのようなスパルタの立案を容れることができなかった。そのため彼は当時ギリシア市民に信頼されていたデルフォイの神託を利用することに決める。
ギリシア諸侯の要請に対してデルフォイから下った神託は以下のようなものであった。『陸上決戦を避け、木の砦を頼れ』。
テミストクレスは、この『木の砦』こそが、アテナイが着々と準備を進めていた軍艦なのだと主張し、海軍によってペルシア軍を打倒する海上決戦案にギリシア諸侯の意識を誘導することに成功する。また、自軍の立案を妨害され立腹するスパルタに対しては、海上決戦の際の軍事的イニシアチブを譲ると確約することによって、何とか説き伏せることにも成功した。
(なお、艦船の保有数の関係上アテナイは海上決戦においてスパルタに対して大きな影響力を持っていたため、スパルタはあくまで形式的な海上決戦の総司令官に任命されたに過ぎなかった)
また、このデルフォイの神託は、恐らく事前にテミストクレスが賄賂を贈ることによって歪曲された結果であると、後世の歴史家たちによって推測されている。
以下は歴史の辿った事実の列挙である。ギリシア連合軍は、陸路においてスパルタ陸軍、また海路においてアテナイ海軍が主力をなす軍隊を、それぞれ沿岸の主要な陸路と海路に布陣させ、海峡と山際の隘路という大軍の利を発揮させにくい地形を戦場に選ぶことで、ペルシアの侵攻を食い止める作戦に出た。
しかし、要衝であるテルモピュレーにてスパルタ軍は味方の裏切りに遭い、精強を誇ったスパルタ陸軍は時のスパルタ王であるレオニダス一世の指揮の下で壮絶に奮戦したものの、全滅を遂げる。その情報を聞きつけたギリシア海軍は、実質的な指揮官であるテミストクレスの指示の元、南下、後退し、最終的にはアテナイに程近いサラミス海峡へと撤退することによって、当初の予定通り最終的な海上決戦にてペルシア海軍を撃滅することを画策していた。
テルモピュレーを突破したペルシア陸軍が急速に南下を続け、アテナイへと到達し、故郷が陥落したというニュースであった。
ギリシア諸侯において絶大な信頼を誇っていたアテナイの陥落に、周囲からテミストクレスに対して注がれる視線は冷ややかであった。しかし、テミストクレスは冷静であった。事前に彼はアテナイ市民をサラミス島やその他の土地に疎開させていたため、人的な被害が殆ど出なかったことが幸いした。テミストクレスは諸侯に対して、アテナイの保有するギリシア海軍の半数以上に及ぶ軍船の存在を主張し、未だアテナイはその国土を失っていないと説得すると、依然軍議における主導権を確保したままに、海軍を南下させ続けた。やがて、テミストクレス率いるギリシア海軍は、サラミス海峡の隘路に布陣し、静かにペルシア海軍の来襲を待った。
この際、テミストクレスはペルシャの首脳陣と使者を交わすことで内通していた。ギリシャ陣営の内部情報をペルシャへと流し続けていたのである。
テミストクレスは誰も信用していなかった。敵に対しても、味方に対しても、一切の信用を持たなかった。この内通が、ペルシア侵攻の初期の段階から行われていたという説さえ存在している。
テミストクレスは膠着状態が続く中で、ギリシャ陣営内において撤退論、転進論が巻き起こっていることをペルシャ王であるクセルクセスへと伝えると、さらにサラミス海峡の出口を塞ぐことができれば、艦隊は撤退も不可能となり、必ずやギリシア海軍は撃滅され、ペルシア軍は勝利の栄光に浴することができるだろう、とクセルクセスを焚き付けていた。また、テミストクレスはクセルクセスに対して、海上決戦の際にはアテナイはギリシア陣営を裏切り、ペルシアの勝利に手を貸すことを約束していた。テミストクレスの思惑通り、クセルクセスはサラミス海峡へと向かわせていた七百隻の主力艦隊を二つに分けると、二百隻に海峡の出口を包囲させ、また残りの五百隻を以てサラミス海峡に立て籠るギリシア海軍を撃滅しようとした。テミストクレスは謀略によって、まんまと敵艦隊を二つに分断したのである。
敵艦隊が二手に別れたことを知ったテミストクレスは、ギリシア諸将に対して海峡が包囲されていると伝えると、撤退や転進は不可能であり決戦のみが活路であると諸将を誘導した。そのようにして諸将の士気を奮起させたテミストクレスは、海峡へと侵入してくる五百のペルシア艦船を静かに待ち受けた。
当初、ペルシア海軍は海峡の奥深くで待ち受けるギリシア海軍を発見した際に、攻撃を急がず機を見計らっていた。内通者であるテミストクレスの情報通り、アテナイが離反しギリシア海軍が劣勢に立たされるのを待ったのである。
しかし、ペルシア軍の目に映ったのは異様な光景であった。ギリシア陣営の旗の上に、戦意を鼓舞するための戦場ラッパの音色が鳴り響き、そしてギリシア艦船が淀みなく戦陣を整え始めたのである。
それでもペルシア軍は攻撃を保留し続けた。ペルシア軍は最後までテミストクレスの情報に踊らされ続けた。
◇
テミストクレスの号令一下、突撃を開始したギリシア艦隊の前に、ペルシア軍には動揺が走った。テミストクレスが離反するという事前の情報との乖離も影響した。密集体形で海峡の奥深くへと侵入していたペルシア艦隊は、有効な機動を取ることができず見る見る間に壊走を始める。更には、後方から押し寄せたペルシア艦隊の援軍までもが、ペルシア前衛艦隊の撤退を妨げることとなった。
ペルシア海軍は大混乱へと陥り、急速に戦闘能力を喪っていった。ギリシア海軍の勝利が決定づけられたのである。
◇
主力艦隊の大部分を喪失したペルシア軍は、このサラミス海峡の戦いの敗戦を重く受け止め、海上部隊の撤退を決断する。テミストクレスが当初画策していた、海上兵站を寸断する計略は成功し、ペロポネソス半島への侵略を行っていたペルシア陸軍も急速にその影響力を喪っていった。最終的に、ギリシア連合軍の反撃によってペルシア陸軍もギリシア世界から追い出され、十年を費やしたペルシア帝国の大遠征は失敗に終わり、ギリシア世界の完全勝利となったのである。
当然、この勝利の立役者となったのは英雄テミストクレスであった。テミストクレスはまさしく英雄であり、一度は終わってしまった世界、喪われた故郷を彼は取り戻した。ペルシア戦争の勝利はひとえに彼の超人的な洞察力、長期的な戦略立案能力、謀略や陰謀を駆使し敵と味方をコントロールする政治力、それらの能力によって成し遂げられた勝利であった。
とは言え、テミストクレスはあまりにも優秀すぎ、また、あまりにも自分の能力を過信し過ぎていた。
最終的に、テミストクレスはギリシア世界にとっての危険人物であると判断され、政治的指導者の地位から失脚させられ、かつての仇敵であるペルシアへと亡命している(相変わらずペルシアと内通を行っていた)。その後、ペルシア軍によってギリシア再攻撃の責任者へと任命されるのだが、母国に弓引くことをよしとせず、毒を呷って自決したと言われている。
テミストクレスは間違いなく英雄であり、凡庸な人間とは違う視野を持って生きた人物であった。とは言え、狡兎死して走狗烹らるという言葉の例に漏れず、自国民から危険視された英雄の最期は、あまりにも物悲しい。
空前の規模を誇るペルシアの軍団は紀元前480年、テルモピュレーの戦いにおいてギリシア陸軍の主力であるスパルタ軍を激戦の末に破り、スパルタの王であるレオニダス一世を戦死させた。スパルタ軍という防波堤を失ったギリシア本土は容赦なく侵攻され、ギリシアの中心都市であるアテナイがペルシア陸軍によって陥落するに至り、アテナイの軍人テミストクレス率いるギリシア海軍は絶望していた。「帰る国が無いのに、このまま戦ったところで何になる?」と。
しかし、彼らのリーダーであるテミストクレスだけは絶望していなかった。
絶望に染まる軍人たちの中で、彼は唯一希望を手放していなかった。彼は言った。「さあ、世界を取り戻しにいこう」と。
◇
ペルシア戦争の戦乱の始まりをどこに求めるかは諸説あるが、紀元前480年以降のペルシア軍の大規模侵略より10年前、先駆けて起こったマラトンの戦いにおいて既に戦端は開いていた、とする説が有力である。
紀元前490年、マラトンの戦いにおいて沿岸に押し寄せたペルシア軍を、アテナイ軍を主力とするギリシャ連合軍は完膚なきまでに破った。二倍に比するペルシア軍に対して、旺盛な士気を原動力に戦ったギリシア連合軍は、5000人以上にものぼるペルシア軍の戦死者に対して、僅かに戦死者200人足らずに留まる圧倒的な戦果を以てペルシア軍を退けたのである。勝利に沸くギリシアの民衆は口々にギリシアの精強な陸軍を讃え、自らの勝利を誇った。それほどまでに完璧な勝利だったのである。
一方、自軍主力の三割を一挙に失ったペルシア軍は撤退を始める。ギリシア世界のアジアに対する完全な勝利であった。
しかしただ一人、アテナイの政治家であり軍人でもあるテミストクレスだけは絶望していた。
◇
アテナイはギリシアの中心都市であるが、しかしこの都市が円熟を迎えるまでに辿った経緯は涙を誘う。ギリシアにはいわゆる都市国家と呼ばれる、一つの都市が国家を成す統治形態で政治が行われていたのだが、これら都市国家が成立する以前の、ギリシアの暗黒時代においてはギリシア半島(ペロポネソス半島)には大量の異民族が流入しており、戦乱の嵐が吹き荒れていた。
そのような戦乱のさなか、開闢におけるアテナイがいかにして生き延びたのか?
アテナイは極めて痩せた厳しい土地であった。地中海性の気候の中、雨量は少なく、養えるだけの人口は決して多くない。要するに、戦乱の時代においては重要性の極めて低い土地だったのである。そのため、アテナイは暗黒時代における異民族の侵略において、常に見逃され続け、戦乱からは遠ざけられ、その地盤と地歩を少しずつ伸長させてきた。最終的には、ギリシアにおける最も優秀な文化都市としての地位を確立するに至ったのである。
さて、そのような経緯もあり、スパルタやアテナイ、あるいはテーベといったギリシアの主要都市は基本的に国力に乏しく、幾ら軍制を整えたところで養える軍隊には限界があった。当時のアテナイの人口については諸説あるが、最盛期における人口は十万人程度だったと言われ、まともな軍隊として機能する人員は精々一万人を上回る程度だったであろう。
一方、ペルシアは現在におけるアフリカ、中東、中央アジア、南アジアの北部にまで跨る大帝国であり、根本的な軍事力、そして人口においてはギリシアに対して天地の差があった。そのような地政学的要因をテミストクレスは紀元前480年以前から看破しており、このまま仮に戦争が継続すれば、最終的にギリシアが間違いなく敗北するという未来を予見していたのである。
しかし、テミストクレスは絶望してばかりではいなかった。来るべきペルシア本軍の大遠征に向けて、着々と準備を開始した。
彼が最初に行ったのは、海軍備の増強である。これは正に慧眼であり、ギリシアの絶望的な状況を打破する最善手にほかならなかった。
無論、軍事力が精強なペルシアの海軍備は相当なものであり、実際、ペルシア戦争が激化した際の艦船の保有数は、ギリシアが保有する400隻足らずの軍艦に比べ、ペルシア軍のそれは3倍から4倍の1500隻以上(輸送船を含む)に達していた。ギリシア軍は結局のところ、陸軍備においても劣り、海軍備においても劣っていたのである。そのため、不足している海軍備の増強に多少着手したところで、いずれ来る黄昏を打破する目覚ましい一手にはなり難い――そう目するギリシア市民や政治家も決して少なくはなかった。というか、そもそもギリシア軍は精強な陸軍を抱えているのだから、海軍備の増強は不要であると楽観論に耽るギリシア市民が圧倒的だった。テミストクレスは頭を抱えた。
テミストクレスは異常者であった。常に真実を見ることしかできない目を持ち、常に真実しか思考できぬ頭脳を持ち得ていた。
テミストクレスは十年に渡って、世界の終りをただ一人、真摯に見据えていた。やがてギリシアは滅びる。しかし、その寿命を一秒でも長く保つこと、その呼吸が、須臾の間なりとも長く伸びることを目指し続けていた。また、テミストクレスは軍人である前に政治家であった。そのため、テミストクレスは数多くの権謀術数を駆使することを厭わなかった。彼の謀略が活かされるのは、決して外敵に対してばかりではない。むしろ、同じくギリシアに属する味方勢力に対して、しばしばその陰謀は向けられていた。
ともかく、海軍備の増強に前向きでないアテナイ首脳部を説き伏せるためにテミストクレスは一計を案じる。海軍備の増強に消極的であったアテナイ首脳を説得するために、テミストクレスは同じくギリシアの海洋都市国家であるアイギナと呼ばれる都市国家の脅威を説いたのである。
アイギナはギリシア世界においては珍しく、海軍備を主体とする軍制を整えた都市国家であった。地理的にはアテナイの属する沿岸から僅かに南下した地点に位置しており、当時のアテナイ首脳や市民にとっては、遠くアジアの大国ペルシア帝国よりも、海洋国家アイギナはよほど身近な脅威に映っていた。テミストクレスはその心理を利用したのである。まずはこの手近なライバルとなり得るアイギナの脅威を喧伝することで、テミストクレスは徐々にアテナイ首脳の意識を海軍備の増強へと向けさせることに成功した。
さて、この時アテナイが新造した艦船の数は200隻程度で、かつて備えていた旧式の軍艦の凡そ十倍にあたる新型の艦船を建造しおおせたのである。とは言え、先述の通りそれでもなおペルシア軍の海軍備に比べれば、アテナイの所有していた軍艦の数は圧倒的に劣っていた。それでも、テミストクレスの企てた長期的な戦略は間違いなく最善のものであったと言えた。結果的に、海軍備の増強という手段以外にペルシアを打倒し得る勝ち筋は無かったのである。
何故か。
ペルシア軍は強大な軍事力を動員するだけの国力を備えていた。軍事力、インフラを整備する技術力、そして、兵士を養うために必要な兵糧を創出する農業力、それらの総合力において、ペルシアは明らかにギリシアの力を上回っていた。しかし、そのような強大な力は、反面ある種の脆弱性を抱えることにもなる。テミストクレスはそこに目を付けた。
テミストクレスが着目したのは、ペルシア軍における高度な兵站戦略である。ペルシア軍は圧倒的な数の軍隊を抱えるが故に、その大軍を支えるための兵站戦略を整備していた。中継都市や本国から創出した食料を、効率的に前線へと運び届けるインフラを整備し、兵の士気が低下しないための細心の注意を払っていた。
しかし、ギリシアが属するバルカン半島並びにペロポネソス半島の海岸線は長く、その補給路は長大に達し、沿岸の陸路は決して効率の良い輸送ルートとは言えなかった。陸路における兵站戦略が決して最善のものでないことを、ペルシア軍は理解していたのである。したがって、ペルシア軍の兵站は必然的に海路に依存していた。
艦船による食料の輸送は、陸上のそれに対して圧倒的に効率的である。大軍を支えるために行われる、ペルシア軍の必然的な兵站の形態を、実際にペルシア軍が襲来する十年前の段階で、テミストクレスは明察していた。更には、そのペルシア軍が抱える唯一の弱点を攻撃するための、唯一の手段を十年前から整備し続けていたのである。
つまり、海上の兵站を破壊し、ペルシア陸軍を機能不全にすること。それが、それだけがギリシアがペルシア軍を打倒するための唯一の方策であった。
◇
アニメ映画『犬王』を観たらなんだこれは宇宙猫が止まらない!! 訳がわからないよ!! これはいっそ原作を読んでみたい、と思って読んだ。
ネタバレはする。
平家が壇之浦で滅んでから百数十年あまり。海士(あま)の一族であるイオの友魚(ともな)は、京の都から来た貴人の依頼で、探し物のために父親とともに海に潜った。そして発見したのは一振りの剣。それは平家滅亡時に喪われた草薙の剣だった。剣の呪いに父親を殺され、自らの視力も奪われた友魚は、どうして自分がこのような目に遭わねばならなかったのかを突き止めるために旅に出た。
一方、京の都では一人の男の子が生まれた。彼は当世で一番人気の猿楽座である比叡座の棟梁の末息子だが、尋常ならざる醜形であったために両親から疎まれ、家畜同然に育った。名もない彼は自ら「犬王」と名乗る。そんな犬王は、稽古場の様子を覗き見ているうちに、比叡座伝来の歩行術を習得。すると彼の身に不思議なことが起こる。これが後に一世を風靡し足利義満の寵愛を受けることになる伝説の猿楽師・道阿弥の第一歩であった。
この物語は、イオの友魚と犬王が出会い、喪われた平家の物語を拾い上げた犬王の物語 、そして犬王の活躍を語り広めた琵琶法師・友魚の物語である。
ちょいとググれば出てくる評判通り、独特の疾走感溢れる文体の勢いが半端ないが、かといって面白いのかというと、うーん、微妙? そして、意外とアニメ版、さして印象が違わないことに驚いた。ある意味監督をはじめとするアニメスタッフ、超優秀だった。
文体の疾走感にあれよと巻き込まれて突っ走るように読んだけれど、疾走感のあるわりにダルい場面が長々とあった。それは、友一(友魚)が琵琶で弾き語る犬王の半生の物語の部分だ。そう、アニメ版でいうとあのロックフェスの部分である!
実はアニメ版の脚本にはロックフェスは無かったのに、監督が勝手に作っていたというロックフェスのシーン。あの場面は、何で同じ事の繰り返しをダラダラダラダラやるのだろう? と疑問だったのだが、原作からして犬王の物語は繰り返し語られるのだ。
前の文章をコピペしてちょっと弄ったくらいに見える文章が数回。これは一つのエピソードを視点を変えて語り直したものなのだけれど、ほんのちょっとしか変更点のない同じような文章なので、またぁ? と飽きてしまった。一つのトピックを複数人の視点で表現する……その最高峰にして最も有名なのは芥川龍之介の『藪の中』なんじゃないかなと思うけど、あれみたいに視る人が違えば見える世界も違うっていうんならともかく、神の目線(誰々寄り)くらいの俯瞰したような視点で何度も同じ事を書かれるのは、読んでて辛い。ちょっとだけ、今まで隠されていた真相が回を重ねるごとに徐々に明らかになっていく。そういう狙いで書かれた文章なのだろうと、意図は理解できるんだが、理解はできても別に面白くないのだった。
アニメ版の方も、何がやりたかったのかは解るのだが、かといって別に面白いとは感じなかった。なんかそこだけダレている。退屈だ。しかし他の部分については素晴らしい技巧で表現されており……全体的に見てつまらないとか駄作とかいうのもまた違うような気がする。中弛みがひどい。そんな中弛みの酷い部分が、原作小説とアニメ、文章と映像という違う表現技法によって造られたにも関わらず、物凄くシンクロしていた。ある意味すごいのかもしれない。面白いかと問われれば、別にそんなには……と私は言うけれど、いい語種にはなると思う、たぶん。
ところで、アニメではロックフェスの辺りで友一も犬王も一体何をやっていて何を歌い表現していたのか、私はさっぱり解らなかったのだが、この原作小説を読んでやっと理解。
ぶっちゃけ、友一のバンドは犬王の広報活動と前座を担当していたのかと私は勘違いしていたのだけど、そうではなかったのだ。友一の弾き語りが犬王の宣伝になる事は確かなのだが、だからといって彼は犬王の前座ではない。友一はただ琵琶法師としての仕事をしていただけであり、弾き語りの題材に犬王の半生を使っていただけなのだ。オレの事を歌えよと言ったのは犬王だけど。
犬王はといえば、当世最高の猿楽座の棟梁でナンバーワンの猿楽師として、新しい曲を書いては自ら舞台に立っていた。
私はアニメ版のロックフェスの場面を見ながら、何でこの人たち、橋の上と河原でそれぞれ別々の活動をしているのかなー? と疑問に思っていたのだが、何の事はない。友一は琵琶法師で、犬王は猿楽師で、彼らはそれぞれ自分の仕事をしていただけなのだった。同じバンドのメンバーでもなく、タイバン相手でもなく、似た者友達のバンドマン(兼作詞作曲家)とミュージカル俳優(兼戯曲作家)みたいなものだった。当然職場は、特別なイベントでもない限り別である。なーんだ。二人とも演者であるだけでなくクリエイターでもあるので、互いに影響を与え合っている。
映像では訳のわからなかった部分が小説ではスッと頭に入る。やっぱそういうとこは小説って強いよなぁと思いつつ、アニメ版のわかりづらさが異常だっただけでは? とも思う。
ところで、最強のバディもの的な言われ方もする本作(原作小説もアニメも)だけど、これってバディものなの? と首を傾げてしまうのは、原作もアニメも同じだった。アニメ版は尺の関係で色々削らずを得なかったのかな? と思ったら、わりと原作忠実だったんだなと。友魚と犬王の友情、とてもあっさり風味。一緒に楽しく過ごす時間もあったのかもしれないが……かもしれないだけで……まあ、二人とも自分のやるべき事をやっているのであり、業種が違うんだから当然一緒行動はしない。どこら辺が仲が良いのかわからないくらい、別々の道を歩んでいた。ので、ラストシーンにあんまり感動しなかったなぁ……。え? 犬王さらりと友魚を裏切ったよね、今更なぜ? みたいな。ここら辺はアニメ版のが膨らませていたので(足利義満により友魚を人質に脅迫された犬王。そんな事があったのも知らず、イオ座のメンバーが次々捕らえられる中で、最後まで抵抗し続けた友魚)、アニメの方が良かったような気もする。
……まあ、アニメと小説を比較しても仕方ないけど、どっちも微妙だし。というか、原作の微妙な部分をすごい精度で再現したアニメともいえるし。
先にアニメ版を見てそれがいまいちだったから原作小説の見方まで辛くなってしまっただけかもしれない。でも読まなければ良かったと思わないし、アニメ版も映画も見る・読む価値なしとまでは思わない。話のネタにはなるだろうし。
ひとつ、アニメ版を観る前に原作小説を読みたかったなと後悔した場面があった。犬王が面を外し素顔を見せる場面だ。凡人が見れば目が潰れ鼻血が止まらなくなるほどの美形……を想像するのを、ジョーカーともデーモン閣下とも獲物を追っている最中の奇術師ヒソカとも言われる厚塗りのフツメンがめちゃめちゃ邪魔してきてつらい!
1980~1982年頃の話だけど、ここのスポーツ少年団は宗教カルト組織勧誘の場として暗躍していた。
まず、剣道部はコーチに中島みゆきでおなじみ天理教の信者がいて、「こどもおぢばがえり」のパンフレットが部室に散乱してたし、
卓球部はコーチに天理教から分裂したカルト組織(宗教法人で無い実質宗教組織)公益財団法人モラロジー研究所の構成員(食料品店店主)で、
休日に「勉強会」と称して卓球部員やその両親達達に対して組織の勧誘やモラ研繋がりの自民党議員による実質的な選挙活動が行われていた。
ついでにバレーボール部のコーチには、戦前治安維持法で弾圧を受けた「ひとのみち教団」から生まれた倫理研究所(後に実践倫理宏正会に引継ぎw、もう一つは高校野球で一世を風靡したパーフェクトリバティー教団)メンバーがいたという噂もあって、その人は追放されたみたい。
ちなみに、卓球部の「勉強会」は流石に校内でも問題になって、部は崩壊寸前になったようだけど、この騒ぎ以降どうなったかは知らん。
ホント、小学生ながら「大人の欲望」に振り回されて腐敗した所には関わりたくないと思ったね。
このことがトラウマになったのか、中学高校と部活には絶対関わりたくないと誓った。中学は部活参加を強制されたけど、見事な幽霊部員を決めていたw
単純な話、当時自分が興味を持っていたことは、乱数放送を聴いて北朝鮮工作員の動向を知りたい、といったことなどの社会問題一般だったので、スポーツ文化問わずどの部も行きたくなんか無かった。
幸せとは何だろな。
子を持つ世帯は増えない気がするけど、一世帯当たりの子供の数は増えそうな気はする。ただ、出生率の低下は婚姻率の低下と相関が高いそうなので、費用対効果は悪そうよね。
でも、子持ちにとって、学費は一番大きな問題で、私学理系出身の自分を再生産しようと思うと、子供二人だととんでもない学費になる。
それを踏まえて生きているので、「その年収(仕事))で何でここに住んでるの?」っていうところに住み、生活レベルも質素だ。
結局良い暮らしはできないのだけれど、金があるから妻子持ちになれたわけで、金は人生の選択肢を増やしてくれるものではあるかな。
でも、それは高学歴を再生産したいという前提の場合であって、高卒就職を再生産し続ける出身地の人々は、それはそれで幸せそうだ。
彼らにとって子供を大学に行かせることは選択肢になく、でもそれは俺が子供達を海外の大学までは行かせるつもりがないのと同じで、知らない世界の選択肢を持たないのは誰だってそうでしょ。
超エリート層は職人的生き方はどうやればいいのかわからないだろうし。
学費が高騰しすぎているのに、その学費に見合った収入にならないので苦しくなっている。
日本国内ではかなり高い年収に分類される稼ぎがあって子供好きだけど、それでも自分の子供達が自分と同じように結婚して子供を持つことが果たして幸せなのだろうかと疑問に思う。
自分と同じように旧世代の普通の価値観に従って、結婚して子を持ってほしいなと素直には思えない。
結婚して子供を持つことが当たり前の普通だと、あまり深く考えずにそこに進んで行くので出生率も保たれるわけだけど、それが当たり前ではなく、一旦立ち止まってしっかり考えて選択するものになると、子供を持つ事でのメリットが大きくならないと出生率は改善しないわな。
俺は子供ができて良かったと思ってる。趣味もないし仕事も嫌いだし。
幸せって何だろうな。
日本を代表するアニメ監督たちが<音>に鈍感なの、悲劇だと思う。
湯浅監督の犬王みてきたけど、あの古臭くてパッとしないロックは何?
いやわかるよ、かの時代に一世を風靡した斬新で革命的な<音楽>を表現したかったのはわかる。
今の時代、最新の音楽理論とシンセサイザーを使えば風変わりで斬新な雅楽などいくらでも作れる。
まあ100歩譲ってロックにしたいならそれでもいい。
和楽器でロックをやるなら、それはそれで斬新な感じは伝わるだろうから。
もし洋楽器を使いたいなら、それっぽい何か(現実には存在しないけど、当時存在しててもおかしくなさそうな自作楽器的なやつとか)を画面に描けよ。
なんで、<絵>や<動き>に対してはあんな素晴らしく卓越したセンスを見せつけてくれるのに、<音>にこだわらないのだろう。
思えば宮崎駿もひどかった。
そう、風立ちぬ。
あの画面から唾が飛んできそうな効果音の酷さと言ったら、もう、言葉がない。
絵のこだわりに対して音へのこだわりのなさに、もうただただ悲しいよ。
この年寄りばかりの地区に引っ越して5年。今年自治会長に任命されてから色々とやっているのだが、昔から惰性でやってることが多くて辟易する。
神社の一角にある石室に丈六様というのが祀られていて、何の神様かもわからないまま例年自治会費から一括で一世帯300円を納めていた。
周辺地域の自治会からも同様に貰っているとするならば、1世帯300円とは言え、そこそこの金額が神社に入金されている。
返礼としてその神社から紙のお札と人型を頂戴するのだが、丈六様とやらの祭事も特に大きな告知も無く、神主と自治会長数名が参加するのみで正直お粗末な感じだ。
本殿での祭事ならいざ知らず、境内の麓にある小さな祠のイベント。
せめて由緒とか具体的にして回覧でもすればいいのに。
神主とかが神社を拠点に地域を盛り上げようとやる気があるんなら派手なイベントにするんだろうけど、供物も準備も自治会持ちで、ただの集金イベントだから細々適当にやって身銭を稼いでいるようにしか感じられない。
少し離れた地域の神社なんか結構(インスタ映えとかも取り込んで)地域を巻き込んだイベントを派手にやっているのを見て尚更そう思ってしまう。
そういった神社ほど境内も綺麗だし参拝客も多い。周辺自治体のパワーもあるんかな?
じゃあ、自治会長が太鼓持ちで派手にやれよって言われるのかもしれない。
よそ者・若者・馬鹿者ではないけどさ、せめてどんな由緒があってどんなことを祭事するのか神主に効いて調べて、回覧板にして人集めしてみるつもりではあるけど。
なんか、SNSとかで一発当てればいいんだろうけど。
正直個人的には辞めてもさしあたって問題ないんじゃないかとも想ってる。
地元のジジババに愚痴ったら、『罰当たりな新参者』とか言われそうなのでここで吐き出した。
そのジジババもろくに由緒なんか知る由もないだろうけど。
母親との距離感が近い、というのは切腹モノの”恥”という強烈な意識を私は抱くようになった。
その意識は思春期の到来によって引き起こされる内面的変化の表れで抱いたものではなく、別のきっかけによって植え付けられたものだった。
「〇〇君はなんとお母さんのことを『ママ』と呼んでま~す!!wwwwwwwwwwwwwwwww」
信じられない人もいるだろうが、少なくとも90年代まではこのレベルのキチガイ教師はザラにいた。
また、当時は『ママ』呼びする男は問答無用で気持ち悪い奴という認識が共有されていて(今どきの若い子で公然とママ呼びしている人は普通にいると大人になってから知って仰天した)、それこそロリコンに匹敵するくらいの扱いを受けていた。
だから、暴露されたクラスメートは卒業までかなりかわいそうな扱いを受けていた。
ちなみに私はこのショッキングな出来事が起きた日、家に帰ってすぐ母親に対して
と宣言した。
母親は「そうか、もう”ちゃん付け”は嫌だか!」と爆笑していたが、なんと本当にその日から私のことをを”ちゃん付け”で呼ぶことをきっぱりとやめた。
加えて、私はこの時期から約十年にも及ぶ長い間、母親との雑談を一切しなくなった。
担任の愚行一発で、私は母親との距離をもっと遠くしないといけない強烈な危機感を抱いてしまったのだ。
それまでは小学生の子供らしく母親とそれなりに会話をするほうだったと思う。
夜一緒にテレビを見ながら、かつて竹中直人がお笑いタレントで「笑いながら怒る男」の芸で一世を風靡したことや、
志村けんがドリフの初期メンバーでなかったことなどを母親から教わった記憶がある。
それから時は流れ、大学生になっていた私は運転免許の合宿のために地方で3週間ほど滞在した。
合宿中のある日、同日入校した男連中と休憩室でテレビの情報番組を見ていた時、
画面に映る女性タレントを見て私が「この子超可愛いなあ。こういう彼女いたらなあ」と口にすると、
男の一人が「俺、家じゃそんなこと口が裂けても絶対言えないわ……」と唸った。
どういうことかとその場の皆が不思議がっていると彼は
「母親の前でアイドルとか女子アナのこと可愛いなんて言うともう……『そんなにこの子がいいなら一緒になって家出て行けばいいじゃない!!』って大泣きして怒り狂うんだよね……」
となかなか衝撃的なカミングアウトをした。
周りが騒然としながら、そうなったときお前どうしてんの?キレ返すの?と尋ねると
「いや、もうずーっと『ごめんごめん、俺が悪かったから泣かないで』って泣き止むまで言って落ち着かせてる……」。
お前それもう彼氏やんけ、と皆から引き気味にかわれていたが、私はというと「あーここまで母親との距離が近い奴もいるんだなあ」と妙に安心していた。
合宿が終わって実家に帰ると、私は母親と再び雑談をするようになった(10年以上のブランクがあったので何を話していいのかわからない状態で半年くらいはぎくしゃくしていたが)。
それから、オッサンになった今に至るまで、他人とその母親との関係性がうかがえるエピソードを聞かされる機会が結構あったが、距離感が近い母子は結構いるもんなんだなあと思う場面は多かった。
配偶者の実家の近くに家を買うつもりであると母親に伝えると「あなたを取られちゃうみたいで凄く嫌なの」と不快感をあらわにされ最後の最後まで反対されたとか、
部活の引退試合を終えチームメイトや父兄が集合している場で「〇〇ちゃん、お母さんを抱きしめて~!!w」と強烈なハグをされて死ぬほど恥ずかしかったとか、
家では『お母さん』呼びをすると完全に無視を決め込まれて食事抜きにされるからついにママ呼びを脱却する機会を逃したまま大人になってしまったとか。