はてなキーワード: 大公とは
!謎の女は通訳役だったの⁈天才すぎる上田先生。謎の女無駄に歌うまいなぁ。ふた言ほど通訳した後はハミングに切り替えて実際は通訳していることを表現しつつ、劇中のゲーテとベートーヴェンは普通に会話をする。
実際はベタ褒めだったようだけど、なるほど。
有名なエピソードきました。劇中では皇帝皇后カール大公ルドルフ大公メッテルニヒもいたけれど、史実で目にしたのは皇后マリア・ルドヴィカとその取り巻き。
皇后は史実では1807年に2番目の妻マリア・テレジアが亡くなって、1808年にマリア・ルドヴィカになっているけど、劇中では千風さんが通しで演じている。だからこそ配役の名前も「オーストリア皇后」でぼかしてるんだな。
謎の女「過激なことを言わないで」
青木やよひ氏の著書によると、ゲーテはベートーヴェンを直接諌めるようなことはしていなかった。
ベートーヴェン「奴は、負けない」
ナポレオンを完全に否定しきれていないというのは、かげはらさんの記事と同じ。
実際はその後和解してた模様。
1812、1814。
葬送行進曲は、若干不吉さを増すオリジナルパートが加えられているか。
百日天下飛ばされたけどウィーン会議きたなあ1814年、退団の煌羽さんがメッテルニヒだしな。
青木やよひ氏の著書では、ゲーテはナポレオンの後継者をメッテルニヒに見出したとも言われるらしいが、イェナ大学監督官の職を固辞。それは事実上の監視役であることを察知したからでは、と書かれている。これや。
ふむ、ベートーヴェンの2歳下。彼の窮状を救うようメッテルニヒに訴えたという話を見かけたからそれ絡みかなあとも思ったけど、単純に宮廷側。(なおサリエリ も、ベートーヴェンの《ウェリントンの戦い》1813の演奏会で打楽器だかで出演という話もあったけど、単純に宮廷側の模様。)実際ロッシーニはウィーン会議にはいなかった、かな。ウィーンでロッシーニ人気が吹き荒れるのはウィーン会議後か。
されど進まず。
監視社会。
史実ではゲーテはテプリッツの時点でベートーヴェンの耳のことを知っていたよう。
メッテルニヒ「彼らはただ腹を満たし、あたたかいベッドで眠りたい。そのためなら革命の大義も唱え、それでも不満なら変節して皇帝を支持する。彼らにとっては、革命でも、皇帝でも、音楽でもいいのだ、楽になれたら。さあ曲を書きたまえ、国民が日々の憂さを忘れるような」
痛烈。
謎の女「イギリスへ行きましょうよ」
お?
うん。家政婦と通訳するうちに情が湧いたのかな。
「ほんとうに、聞こえてないのか」
「彼は終わりですな」
映画『不滅の恋』ではピアノ協奏曲第5番が崩壊し、アンナ・マリー・エルデーディが助けるシーンがあるけど、曲がなんだったにせよこんなことあったのかな。
去っちゃうのー⁈最後まで援助してたルドルフ大公も。とことん追い込むやつね。
夢白さん美しい。耳が聞こえない怖さを感じたシーンはこっちだったかな。
おう、帰るんか。ほんとは一回も帰ってないらしいけど。
3拍子かと思ったら4拍子。オリジナルか。
おおーー、うーん、これもとことんベートーヴェンを追い込む設定か。実際はベートーヴェンより後に亡くなってる。じゃあさっきベートーヴェンに話しかけたエレオノーレは過去の幻影というよりも天国に行く前だったか。
小さな炎の健気さ、好き。
テプリッツから戻った1812年の秋から6年ほど、"傑作の森"期を抜けたベートーヴェンはまた孤独期に入る。《ウェリントンの戦い》やウィーン会議での成功も彼にとってはなんでもなかった模様。交響曲については1812年7番、8番ときて、次の9番1824年完成までは10年以上開く。
不滅の恋人Aとの破局、ナポレオン失脚、急激に悪化する耳(1812年時点ではまだ道具に頼らずとも会話ができていた)、パトロンたちが亡くなり経済的に困窮。甥カールの親権問題なども。これが劇中では、ナポレオン失脚は同じとして、ゲーテとの決別、難聴を暴かれ演奏会で失敗、ルドルフ大公も去り(パトロンがいなくなるという点では一致)、そしてロールヘンの死(不滅の恋人との破局にあたるか)、になってる。
野外コンサートだったのかぁ。歌詞で言ってるのね。うんもうちょっとがんばってほしいぞ。いや素人っぽさがよいのか。
ベートーヴェン野外コンサートなんてしてたのかな。チラッと調べた限りでは見つけられず。
できましたか(1808)。かっこよいアレンジ。冒頭ヴェルディの《運命の力》かと思った。あ、運命つながり?
ルドルフ大公(歌)「奇跡のスピード 次々生み出す 交響曲 協奏曲 未知の大きさ 新しい音 今こそ 目覚めた かく めい かー」
モーツァルト「どれも傑作だぁー」
ハイリゲンシュタットの遺書を書いた後10年間ほど(1802-12)はベートーヴェン中間の充実期とされている(傑作の森)。実際は交響曲第3番《英雄》が皮切り。《運命》は"傑作の森"期の後半に入るころの作品で、ここまでにヴァイオリンソナタ《クロイツェル》、ヴァイオリン協奏曲、ピアノソナタ第23番《熱情》、交響曲は第5番《運命》と同時に作られた第6番《田園》までかな。
かわいすぎる。
あらま!改訂中?それともまだ完成前だった?あらま!望海氏弾いてる!生観劇時も配信も同じところでミスタッチ?わざと?
げー、無声口唇破裂音(p)ってあんなに速く出せるものなの?そして望海氏はダブルタンギング要らずの人か(t)。うーむ、滑舌の訓練のたまものなのかな。管楽器かじった人間として恐れ入る。
ヴェーゲラー夫妻は1807年からコブレンツに移り住んでたようだけど、まあボンとそれほど離れてないか。
「もし対位法と同じぐらい戦術に精通していたら、目に物を見せてくれように」
ナポレオンウィーン侵攻中、謎の女が《運命》を献呈されつつ家政婦としてがんばっててかわいい。
ナポレオンとゲーテの場面きた。史実では1808年の諸侯会議の場で、日を接して3度会っているとのこと。ちょっと遡ってるのか。ナポレオンはウェルテルの愛読者で、エジプト遠征中(1798-9)に7回読み返ししたという。
「これこそ人間だ」「ここに人有り!」ナポレオンがゲーテを見るなり言った。
ゲーテはナポレオンに傾倒していたとのことで、ほんとはこんなこと言ってないと思われるけど、なるほど。
ナポレオンの理想を認めつつあくまでその達成手段には否定的な本作のゲーテ。主人公ベートーヴェンとの現実の関わり度合いからしてなぜゲーテが2番ではなく3番なのかと思っていたけど、ゲーテがナポレオンの心の代弁者の役割か。まあゲーテとは年齢も開きすぎか。
ナポレオン「余を毎夜さいなむ問いは、進むべきか、否か」
ベートーヴェン「否ー!」
再び盆が回っての見事な場面転換。あれ部屋きれいだ。
かいがいしく世話してる笑。家事からきしダメだったけどがんばったのか、掃除も食事も。なんでがんばってんだ笑。
ベートーヴェンの部屋はずっと汚かったっぽいけどな。ごはんも食べずに、とかはどうだったかなあ。食事に招いても現れずに作曲に夢中になっていたというのはNHKのプロファイラーでやってたか。
ベートーヴェン「なんだその格好は」
ツッコんでくれてありがとう気になってた気になってた!
謎の女「これ?すてきでしょう?あたしを見てどう感じる?」
なんかここ、市原悦子みがあった笑。家政婦だけに?
ほう!
ベートーヴェン「お前は、俺の才能なのでは⁈ もしそうだとしたら、まさにお前という才能こそが、俺の、恋人ということになる」
配役になかったしベッティーナは飛ばしますわね。そしてゲーテとベートーヴェンがテプリッツで会ったのはまあ一応偶然だった模様。
1812年きてる!
《悲愴》1798が今きた。難聴に苦しみ出したころの作品、と思うと、エレオノーレの語ることばとシンクロする。
ナポレオンのウィーン侵攻から3年経ってるから、エレオノーレは2人目の懐妊?
なお3楽章はショーで使われるのでした。
エレオノーレ「耳のことを隠して」
ベートーヴェンっていつまで難聴を秘密にしてたんだっけか、少なくともハイリゲンシュタットの遺書まではそうだとして。
謎の女「いいの?帰らなくて」
外出が自粛できない中、誕生日パーティーなどはどう行なえばよいのか。実は秘策がある。皆、誰かの家に集まればよい。自宅内であれば自粛令は及ばず、自由かつ任意にパーティーができる。
不要不急の祭事は自粛すべきであるが、誕生日は各人年一回、一日だけでありその日でなければならない年中行事である。コロナ禍由来の穏健なムードを絶ち勝利ムードに転じるには、市民レベルでかような努力がなされるべきなのだ。
近日、若者諸氏による俺たちは自粛しねえぞデモなる活動が見られたが、自分はこれをCOVID-19ウイルスに屈する老者諸兄に対する反逆の狼煙と捉えている。「ゆとり、ロスジェネ、団塊」などと虐げられてきた若者世代がコロナショックにほだされて今、立ち上がったのであると。
健康的な最低限の生活は憲法で定められている国民の義務であり、国家が保障すべき努めである。
国民生活が自粛を求められる現在、せめて自宅の中では最大限に楽しもうではないか。自宅内であれば外出自粛令という律法を犯すこともなく、個人々々の発奮的利益を最大公約化できる。そして何より他者に迷惑をかけずに済む。自他双方にWin-Winがもたらされる名案だ。
政府はこのようなWin-Win事例を考えるのが不得手だ。ゆえに我々市民が政府公報を適切に創意工夫しなければ真のWin-Winは発生しない。今この拙文をお読み頂いている諸兄もどうか自分なりの工夫をして、外出自粛令をハックし、ひいてはCOVID-19ウイルスをもハックし日本の未来を切り拓いて頂きたい。
とりまなんだろうとおもって3日で盾の分は全部読んだ(槍がループしはじめる外伝はまだ読み切れてないよ)
・動詞の助詞に、「口語だろう」と考えてもどうしてもおかしい部分がたくさんある。ま、地の文も頭悪い主人公の一人称という体裁だから、「主人公がそう考えたんだよ!作者のテクニックの一つだ」って言い抜けはできるけど。
・長い動詞をなぜかわざわざ当用でないしIMEにもでないような漢字にしてしまう部分がたくさんある(拱く=こまねくはまあいいが、捩る=ネジると読む場合のほうが多いがモジるのつもりつかってるらしい。接続詞もなんかあった)
・のわりに誤変換による誤字が多い(「適正がない」って本来「適性がない」だろ)
まあそのままでも読めるから読んだけど、さすがに出版する時は校正つけるだろうし自分が金もらって校正するわけでもないからいちいちメモはとってない。2話に1個ペースで900話だったら450くらいありそうだ。ま、古いから若書きしてるだけで最近は気づいたかなと思って日付をみても、2012年ごろから2019年9月まで更新がつづけられていて、最近まで読んでも大して悪い部分が治ってないんだよなあ・・ネット小説書籍化のときって編集者ゲラはあげないの?
豚だのビッチだのカネ目当てだの増田ミソジニー仕草の元になったようなエピソードばっか。
でも、結局最後までよむとこの世の憎悪を都合よく集めたビッチさん、人外だったんですけどね。都合よすぎる悪役なんだけど前半だけ読んで「だから女は」やってる増田いそうね。
カタルシスシーンに拷問つかうのもあんまうけいれられなさそう。
拷問対象は男性女性混じってるけど女性のほうが処罰対象男性を信じたという理由だけで拷問されて処罰対象男性へのみせつけ、苦しませネタにつかいましたという、よく考えると理不尽な話。
あと、主人公は事実上ハーレム村(多数の村人が主人公と寝たいと狙っている村)をつくっているが、後日、おもってくれた子ほぼ全員と子孫をつくるらしい(最終話1話手前で伝承の形で記載)。うごかせない浮気(いまさらだが)。ちゃんと結婚とか離婚とかしろよ。
なまなましく寝る寝ないの話をくりかえすわりに女性側の生理時期や妊娠時期なんか一言もでてこない。
念じれば子供ができるプラトニック繁殖なら最初からそう設定したほうが楽なのに。
同じようなラノベでも老舗はやっぱりそういう部分鼻につかないように処理されてるし、アニメではだいぶ拷問とかなくしたらしいし、まあアニメスタッフの良識に期待ですわ。
あと、誤字抜いてもシステムウィンドウの画面遷移みたいなのを口で説明されるのがものすごく口幅ったくて「強化1、2、3」と3話つづいてそればっかりだったところは半分以上飛ばし読みした。そこもアニメでは秒で説明が済む(またはいい感じにかいつまんで省略)のではないかと期待している。
フィロリアンとかいう鳥の毛色について槍の勇者が語りだしたのでわかったのだが、盾の勇者は人物の髪色ふくめ容姿で盾に女が取り入るような表現はほぼしてない。ビッチ呼ばわりする女も美人だけど着衣の色で呼ばれたりする。そこはまあえらい。けど語彙があまりないだけかもしれない。それは他の短編よんだほうがいいのかもしれないけど。
ま、語彙にかかわらず長いストーリーこれだけ書けるというのはすごいことだ。たまにわからない作品もあるけど「隣の(トトロ)」とかのメタ現代作品ネタもまあおもしろかった。楽しいとか万人におすすめといえる作品ではないがおつかれ。槍編がんばれ。
追記:
あと日数圧縮されすぎ。900話でようやく半年たちました、村は立派な都会になり主人公は伯爵、公爵から大公になりました。ん?
なにが加速されようとも人の心やら認識ってそんなに加速されないよ。
やってることが多すぎて一日に余裕がなさそう。
ミュージカル好きな母や友人、ツイッターに思いの丈を吐き出してもまだ足りない。一月前くらいからずっと抱えていた怒りやモヤモヤ。
推しの写真を見ても癒されず、むしろ雑誌のインタビューを読むたびに虚無感が増す。
あまりにも虚無だった。
まだしばらく虚無を引きずってしまう自分が見える。よってこんなところに吐き出しています。
暫く前に2.5の舞台界隈で虚無リンピックというものが流行っていた。
わたしは幸運なことに、舞台を見たことを後悔するほどの虚無にぶつかったことはなかった。
いや正確には一度あったが、すっかり忘れていたそれまで思い出されてしまうほどの衝撃だった。
先日、ミュージカル ロミオ&ジュリエットが個人的虚無リンピックの堂々たる一位に君臨した。
他のミュージカル音楽を垂れ流して聴かないと癒されないほどの虚無である。とにかく虚無だった。
演者さんは悪くない。歌も別に悪くない。というかむしろ良かったんではないかと思う。エメ大好き。
演出がとにかくクソだった。
わたしは演出の小池修一郎先生のことを凄い人だと陰ながら尊敬していたし、本当にすごいひとだし(なんせ第一線で活躍し続けている演出家である)しかしこのたった一公演でその印象が逆転するほどのクソさだった。
わたしは、これからミュージカルを観に行こう、チケットを買おう、という方々に、このロミオ&ジュリエットは絶対にお勧めしない。これがミュージカルだと思われたら困る。もっと素晴らしいミュージカルは山ほどある。なんならあの空耳ミュージカルテニスの王子様の方がずっと面白い。
そしてシェイクスピアに謝罪したくなってしまった。2019年の日本にこのようなミュージカルがあることを。ホント、ごめんシェイクスピア。
ミュージカル ロミオ&ジュリエット を知っていますか。今年は東京から三都市を巡り公演し、先日千秋楽を迎えたミュージカルです。
様々な国で上演されており、日本では今回のミュージカルの他に宝塚でも公演していました。宝塚のもののほうが有名だと思います。
そして多分、今回のものでなければ演出はかなり普通だと思う。多分。
ですがもし、この前そのミュージカルを見て感動した!という方は下の文を読まないで下さい。読んだらだめです。批判しかしていません。気分を害すだけです。道端のウンコに好き好んで足を突っ込むようなものです。
前書き、経緯を説明しますと、わたしはシェイクスピアに興味があるわけではありません。シェイクスピアと友達なわけでもない。
ロミオ&ジュリエットを観に行ったのは、推しの俳優が出ていたからです。
小池先生の演出だし、あまりにも有名な作品だし、履修しておくか、という軽い気持ちだった。
歌は城田優が俺たちが王になる〜みたいな曲をどっかの番組で歌っていたのを聞いたことがあるかな、ぐらいの印象。
原作を読んだことがないのは失礼かと思い観劇前、本屋にロミオとジュリエットの日本語訳を買いに行った。読んだ。結果は撃沈だった。
原文がどうなってるのか知らないが、難解だ難解だと聞くので原文も難しいんだろう。日本語訳も下手くそなのか、その辺はわからないのだがたった数十ページ読んだだけで読み進める気はなくなってしまった。シェイクスピアさんごめんなさい。わたしには無理でした。
ただ、ロミオとジュリエットの内容はよく高校の演劇でもやっているくらいとても有名だし、Wikipediaに載っている内容を改めて見ても理解の難しいものではない。
だから言い回しの問題さえ解決できれば、みんなシェイクスピアに興味が持てると思うし、読みやすくなると思う。
自分のことを棚に上げてなんだけど、もっと誰か理解しやすくしてくれないだろうかとミュージカルに行く前にひっそり思っていた。
歌舞伎だって言い回しが小難しくて投げてしまったのだが、現代語訳されたものはとても面白くて楽しめたのと一緒で。
だからロミジュリの歌唱披露をYoutubeで見たときに、不安を感じつつも期待があった。演者たちはジーンズを履いていて、ジュリエットも可愛い感じのドレスを着ている。若者向けっぽかった。内容をわかりやすくしてくれてるんだろうなと思ってしまった。
あとミュージカルロミジュリは今まで何公演も重ねてきたミュージカルで、支持する人が多くいたようなのでそういう意味でも安心していた。
はじまると、ダンサーたちのダンスと衣装と髪色に度肝を抜かれてしまった。緑、青、グレー、赤。
モンタギュー家の旗とキャピュレット家の旗を鉄格子の上で振り回す若者。いかにも安そうな、場末のバンドマンが持っていそうなロゴ入りの旗である。
え、安いテリトリー争い?なんだこれ。
どう見てもみんなパリピみたいな、ストリート系の格好をしている。めっちゃかっこいいダンスで抗争してる。
これ両家の深い確執と恋の話じゃなかったっけ?わたしHiGH&LOW見てるもしかして?縄張り争いするヤンキーたちの話?懐かしの魔法のiらんどの実写?映画館きた?
衣装のデザイナーさんとセンスが、破滅的なほどセンスが合わない。これなに?ほんとにシェイクスピア???
べつにテニスウェアを着てようが貴族のカツラ被ってようがどちらもミュージカルなので格好はぶっちゃけどうでもいいのだが、これは原作シェイクスピアである。何度も言う。
ティボルトが颯爽と出てきて歌い出す、モンタギュー家の若者と喧嘩をしている、しかし彼らがしているのは地方のヤンキーの領土争いにしか見えない。あるはずのない改造バイクの幻影までもが見えそうだ。
しょっぱなからこんな演出で、キャピュレット夫人やモンタギュー夫人が、争いは不毛で我々は生まれた時からあの家への敵意を植え付けられ教育されるの〜もうやめて〜と歌っても、たとえ歌がうまかろうが虚無である。演出が安いからだ。悲壮感ゼロ。確執とは。
この確執が安くなると、なんでロミオとジュリエットが結婚できないのか、そこらへんの理由づけたる物語の根幹がぺらっっぺらのコピー用紙のような薄さになってしまう。つまり全部が虚無と化す。
いなくなったロミオを森に探しに行くシーンがあるのだが、ここで携帯電話初出である。え、シェイクスピアの登場人物がスマホ持ってるんですけど。
ロミオいないから探して、送信!っと!とマーキューシオ?が言うのだが、そこでもええ‥と虚無に陥った。
ツイッターかラインのグループか知らないが、ここは一体どこの時代設定なんですか。ロミオ探しってインスタのハッシュタグだったりしてね。あとからモンタギューのポラロイド写真も出てきたし。
#ロミオをさがして #大切な仲間 とかつけてたら想像だけで虚無。わたしの心が死んだ。泣きたい。でもそんくらい時代設定がグズグズだった。
その後ロミオが、俺のために生まれてきた女の子を探しているんだ‥と夢見がちなことを言うのだが、携帯電話を持ち合わせているのだから何も街の女の子から運命を探さず出会い系サイトでも登録して女漁りをすればいいのである。どこにでもナンパにいきたまえよ。なんでそこだけ昭和なの。
ちなみに一番最初に出てきたジュリエットも、ドレスにスカジャンを着ていました。スカジャン。
これ魔法のiらんどで履修した内容に沿って解説しますと、彼女は敵対してるヤンキーグループのリーダーの美少女妹ですね。
ティボルトはずっとジュリエットのことが好きだったと歌うのだが、不憫萌えのジャンルを開拓しにきているので魔法のiらんどの履修内容だとSSが一本書けるタイプの登場人物です。
そのあともヤンキーたちの集団がお前どっかのロッカーかよ、と言ったり、走れメロスかよ〜と突っ込んだり、些細なセリフでここはどこの国でしたっけ?これ、どこの時代でしたっけ?と虚無に陥る。
現代っぽくわかりやすくしてくれるのはいいんだけど、全てに一貫性を持たせないと全体の印象がぐちゃぐちゃになる。やりたいことがわからない。
そのくせロミオとジュリエットが出会うのはやはり仮面舞踏会である。婚活パーティーで出会ったほうがよほどわかりやすいのに。
きらきらのネオンと安そうな膝丈ドレス。なんでこの衣装とセットにしたんだ。やっぱ婚活パーティーだろここ。
こんな頭の悪そうな、品性のかけらもなさそうな坊やたちの仮面舞踏会。虚無。
チェーンメールを回してみたり、ロミオとジュリエットの結婚の噂も携帯から回ったり。挙げ句の果てにはロミオがジュリエットに君の番号教えて?と聞く。
この2人の場合は両一目惚れなので当てはまらないかもしれないが、一目惚れした〜かわいい〜きみの番号教えて、と迫る謎のナンパ師は今でも池袋に存在する。
目眩。まじで。
ジュリエットには時間がないとはいえ、わたしが彼女の乳母ならそんなバカそうな男は絶対にダメだと忠告している。家柄とかじゃない。バカだからだ。
こんな感じで、登場人物の知能指数が全体的に低すぎる。賢い人間が存在しない。
こんなやつらから世界が展開しているのだから、いがみ合って殺されようが感動なんてゼロだ。地方のヤンキーの抗争に世間の目が冷たいのと同じである。
お前らが馬鹿だからベンヴォーリオもティボルトもロミオもジュリエットも死にます。
おお神よ〜運命よ〜ってわかるじゃん。お前らがバカだからじゃん。
司教お前もだよ。大事なことはちゃんと電話しろってママに教わらなかったの。
ジュリエットが仮死状態になることロミオにメールしとくね〜迎えきてねって!あれ返事ないなぁ〜!ロミオ〜?じゃねえんだよ馬鹿愚か。電話しろ早く。
街を追放された時に既存の連絡先全部消してたらあんな衝撃的な顔をしないので、人を1人殺してもロミオは今までの交友関係を携帯電話に残して大事にするつもりだったということである。いつか街戻る気満々じゃねえか。携帯処分させなかった大公やっぱり処分甘すぎるんとちゃいますか?!
ツッコミが追いつかない
死体の前で泣いてないで全員並べ。泣きたいのはわたしのほうだよ。
推しの知能指数も30になっているので見ていて虚無である。推しがバカになっている。
どうして。
ロミオ&ジュリエットの演出がクソだからです。こんな内容でDVDとか、推しが出ていても買いたくない。
多分、あの携帯電話がないだけで随分マシになる。
もしくはもうロミジュリって名前をつけないでほしい。懐かしの魔法のiらんどのミュージカルですって言われたら何も文句はない。そのわりには歌もダンスも上手いですけど。
ロミジュリの言い回し簡単にしてほしいって思ってたよ、思ってました!だけどここまで中学生向けにしろって、誰が求めてたわけ。
わたしはシェイクスピアと友達じゃない、ろくに読んだことすらない。でもシェイクスピアが可哀想。こんなに安くされて。シェイクスピアの叩き売りかよ。
学芸会じゃないんだからもっとちゃんとシェイクスピアにしてほしい。これじゃ登場人物みんなチンパン。
ファッキンクソ。2.5でも原作をここまで蔑ろにしているのではと思ってしまう作品に出会ったことはない。モーツァルト!やマリーアントワネットだって、過去の実在の人物へのリスペクトあってこそのミュージカルなのである。
シェイクスピアの原作はもっとマトモであり感動できるはず、でなければここまで名作扱いされていないと思うので、シェイクスピアの原作を理解しようとこれからきちんとつとめようと思います。とにかくこれを吐き出したかった
ただそれだけです
女性を恋愛対象だと思うから緊張してない?同性の友人とおんなじように接するところから始めたら楽になれないかな。女性はピンクとお花と甘いものが好きでスポーツや政治経済やアニメに興味ない、とかはメディアが最大公約して作った分かりやすいイメージに過ぎないから、目の前の個人が興味がありそうな話題を考えるの。同性の友人が新しくできるときもそうするじゃんね。男女ともに友人が多い人は、分け隔てない接し方特徴だよ。いい友達になれる人だといいね!
あ、でも、物理的な性差への配慮は最初からしたほうがいいかも。ヒール履いてたら長くは歩けないとか、油っぽいものを大量には食べられる胃じゃないとか。
https://www.ebookjapan.jp/ebj/free/campaign/tezuka/
おいおい2日目の今日(11/3)きづいたよ。誰か早く言ってくれたら良かったのに!
ってわけで色々読んだ。
人が獣人になってしまう奇病「モンモウ病」。青年医師の小山内桐人はそれを風土病と考え、同僚の占部とともに研究を進めていた。一方、日本医師会会長への選出を目指す竜ヶ浦教授は伝染病と考え、対立する小山内の排除を目論んでいた。竜ヶ浦の指示によりモンモウ病患者の出身地に赴任することになった小山内はその奇病の餌食となってしまい……。
獣人という差別から逃れられない存在になった主人公を通し、中身ではなく外見ですべて判断される虚しさ、あるいは判断する愚かさを力強く訴える。医者として確かな腕を振るっても、ただ犬の顔というだけで結果が信頼されないのはまー辛い。
ヒロインは3人いるが、行動にいちいち生々しさがある麗花ちゃんがお気に入り。拾った赤ちゃんに対するスタンスには彼女の生き様を感じた。
悪役に対してはわりと因果応報。モンモウ病を受け入れる層に囲まれるシーンもあって小気味よさは感じるが、その分、ヌルい結末だなーという感じ。
見た目だけでなく、生肉をガツガツ食わずにいられないことによって人間の尊厳を奪われてしまうのがモンモウ病の特徴であり作品の中でも重きをなしていたと思うのだが、中盤以降そういうのがなくなってしまったのもヌルさに拍車をかける。
第二次世界大戦におけるナチスドイツの興亡を背景に、「ヒットラーにユダヤ人の血が流れているという(ナチスにとっての)大スキャンダル」を巡って世界が、そしてふたりのアドルフ少年の稀有な友情が翻弄される様を描く。
めっちゃ面白かったー。物語の展開のさせかたがチビるほど上手い。もうひとりの主人公である峠草平の弟がドイツで殺された理由はなんなのか、何を草平にたくそうとしていたのか、なぜ草平はなぞの組織や特高から襲われ続けるのかーといった感じで話がグイグイ進む。ヒットラーの秘密を軸に、いろんな人物が入り乱れ、運命が捻じ曲げられていく。
特に、アドルフ・カミルをユダヤ人と見下すことなくむしろ尊敬を持って接していたアドルフ・カウフマンが、ドイツ本国の学校に入ったあとナチズムに染まっていく描写が圧巻。無垢な魂も環境が容易に堕落させえることを、手塚先生は容赦のない筆致でえぐり出していく。
そして訪れるふたりのアドルフの友情の結末とタイトル回収。どこを切り取っても隙なし。文句なしの傑作。
ちなエリザちゃん初登場時の顔面偏差値の高さすごい。あれは一目惚れするわ。手塚先生が描く美少女は2018年でも十分通用すると思う(そしてその子が老婆になった姿もしっかり描くところが手塚先生エゲツない)。
復員後、GHQの秘密工作員として働く天外仁朗。久しぶりに戻った実家では、父親が兄嫁と不義の娘・奇子(あやこ)をもうけるなど、人間関係が汚れきっていた。仁朗はGHQから命令で、殺しの後始末を手伝うが、返り血を浴びたシャツの始末を奇子に目撃される。一族から犯罪者が出ることを恐れた天外家は奇子を地下牢に幽閉するが……。
タイトルの割に、戦後直後の地主一家の腐りっぷりが話の中心。肉欲に金欲、そして一族の体面最優先な感じがキツい。一見まともに見える人物も後々おかしくなったりするのでそういった家の宿痾を巧みに描いているとは言える。
タイトルになっている奇子も、幼少時は純粋で可愛らしいと言えるが、幽閉され常識やモラルがないまま長じてしまった後は性的に成長した外見と非常識な内面のギャップがかなりキツいキャラになってる。外見も童顔なのに高身長&グラマラスでグロテスク、という感じがこう……(たぶんわざと)。
というわけでヒロインにゐば(仁朗の母)で決定。夫が息子の嫁に手を出すのを止められなかったとはいえ、作品の良心ともいえる存在(息子の嫁は純粋な被害者)で、話が進むにつれだいたいおかしくなっていく面々に対し最後までまともかつたまに元気な姿を見せてくれる一服の清涼剤であった。かーちゃんかわいいよかーちゃん。
幾人もの男と関係を持つふしだらな母に虐待されて育った近石昭吾。彼は愛し合う生き物を見ると衝動的に殺してしまう性格に成長した。ある時、警察に現場を見られ、彼は精神病院に送致される。催眠治療の過程で女神像に「女性を愛するが、結ばれる前に女性か自分が死ぬ」という悲劇を体験し続けろと宣告されるが……。
重たいテーマを扱った手塚作品は緻密かつ重厚な世界観になりがちで、話を把握するのが大変。だけど、これは主人公のトラウマも設定も最初にぜんぶ開示されるため非常にわかりやすい。かつ、それらの体験を重ねていくと大きな物語が浮かび上がる仕組みにもなっていて、かんたんなわりに厚みもあって楽しめた。
ある女性を愛するけど毎回悲劇的な結末を迎えるという構造に関しては『ゼノギアス』を思い出した。フェイとエリィに幸せな結末が訪れたように、いつかこのふたりにも……と期待してやまない。
漁師の息子・矢崎和也はトリトン族の赤ん坊「トリトン」を拾う。直後に津波が漁村を襲い、和也の父は死亡。トリトンを忌み子と見た祖母に捨てるよう言われるが、和也は母を説得し、トリトンを含めた3人で東京へ。長じたトリトンは、己が人間でなくトリトン族であり、一族の大半はポセイドン族に殺されたことを知る。トリトンはポセイドン大王を倒すために海へと出るが……。
今まで読んだことはなかったけど、いわゆる衝撃のラストについては知っていた。けどそういう展開にならずアレーと思ってwikipedia見るとそれは富野が監督をしたアニメ版のオリジナル展開だったという……。
衝撃のラストに比べれば、漫画版はひどく平凡な出来って感じかなー(それでも冒険活劇としては読めるけど)。テーマとして憎い敵であっても許すの大事ってのがあると思うんだけど、けっきょくそうならないしね。
あと今の感覚で言うのはアレだけど、今まで子ども扱いしていたピピ子が美少女に成長したとたん「洋子ちゃんよりずーっときれいだよ」とか平気で言ってしまうトリトンは普通にない。
おしゃまな天使チンクのいたずらで男の子と女の子の心を持って生まれた王女サファイア。出生のとき王子と誤って発表されたことにより、一日の半分を王子、もう半分を王女として育てられることに。サファイアを排除して息子に王位を継がせたいジェラルミン大公や、サファイアの女の子の心を奪おうとする魔女の魔の手が迫る。
戦闘美少女、男装令嬢、女装少年(「亜麻色の髪の乙女」に変装するため)など今現在おおきな勢力を誇る萌え要素の先駆けであり、実際それらの要素に期待して読んだけどとても楽しめた。
お話的にはピンチピンチの連続で、けっこうハラハラドキドキ。ただ、ヒーロー役であるフランツ王子に中身がないせいで、こいつと結ばれるためにサファイアは頑張ってるのかと思うとかなりしらけるものが……。
キャラとしては魔女の娘であるヘケートが魅力的。奔放な性格ながら自分というものを持ち、それに反することなら母ですら出し抜いてみせるところが小気味いい。フランツに好意を抱きながらもそれを黙ったまま迎えるラストは心が動いた。ヘケート→フランツの逆でサファイアに好意を抱く海賊のブラッドというキャラがいるけどこいつも同様の魅力がある。
脇キャラはいいのに主役ふたりの中身がしょぼいのは本当になんなのか……。
あと魔女はいい悪役だったけど、後釜のビーナスは微妙すぎる。魔女とポジションがまったくいっしょだった上にキャラの厚みがゼロ。
いいところと悪いところが極端という印象。
ちななかよし版のあと少女クラブ版をちらっと読んでみたけど、コマ割りのレベルが低すぎてさすがに読めなかった。漫画の神様も昔はこうだったのかと思うと妙に安心する。
※続き
ウクライナ | ボフダン・フメリニツキー(1595-1657) | ウクライナ・コサックを率いてポーランド・リトアニア共和国に反乱を起こし、ウクライナの自治権を勝ち取った。その後、単独での防衛は難しかったことからロシアの保護下に入ったことで、後のロシアによる支配を招いたとも言われる。ユダヤ人の虐殺をしたこともあり、毀誉褒貶が激しい。 |
ベラルーシ | タデウシュ・コシチュシュコ(1746-1817) | 現在のベラルーシ、当時のリトアニア大公領に生まれ、アメリカ独立戦争に参加し、ポーランド独立のためにロシアと戦った英雄。なにがなんだか。一般には「ポーランド・リトアニアの英雄」とされるが、ベラルーシも「うちの出身やで」と主張している。ベラルーシ人は特に民族意識が希薄なため、他に民族的英雄があまりいないようだ。 |
モルドバ | シュテファン三世(1433-1504) | モルドバ公国の公。その統治はモルドバの歴史上で最も繁栄した時代だとされる。またフニャディ、スカンデルベグ、ヴラドらと並ぶ「反オスマン」の英雄であり、特に「ヴァスルイの戦い」での大勝が名高い。ヴラド・ツェペシュとは従兄弟同士で、親友だったとも言う。 |
ロシア | アレクサンドル・ネフスキー(1220-1263) | ウラジーミル大公国の大公。モンゴル帝国に臣従しつつ直接的な被害を免れ、むしろ敵対していたスウェーデンを「ネヴァ河畔の戦い」で、ドイツ騎士団を「氷上の戦い」で打ち破って勇名を轟かせた。スターリンが独ソ戦の際に「かつてドイツを打ち破った」アレクサンドルを英雄として持ち上げたために有名になったとも。 |
アルバニア | スカンデルベグ(1405-1468) | オスマン帝国の支配下にあったアルバニアの軍司令官だったが、フニャディ・ヤーノシュの反乱を鎮圧するために差し向けられると、逆にフニャディに同調して造反し、オスマン軍をアルバニアから追い払って独立を達成した。 |
ギリシャ | アレクサンドロス三世 | 言わずと知れたアレクサンダー大王。大王の出生地が現在のギリシャにあるなど、古代マケドニア王国の大半はギリシャ領に含まれており、ギリシャは「マケドニア共和国はマケドニアと名乗るべきではない」と主張している。しかし地域としての「マケドニア」にマケドニア共和国が含まれるのも事実である。 |
マケドニア | アレクサンドロス三世 | 言わずと知れたアレクサンダー大王。現在、マケドニア共和国に住んでいるのはスラブ民族であり、古代ギリシャ人との血統的繋がりは無いとされる。しかし古代マケドニア王国はギリシャ人の国家だったものの、都市国家を形成せず、政治体制も異なるなど、アテネやスパルタにとっては「辺境」「蛮族」の感が強かった。 |
クロアチア | ヨシップ・イェラチッチ(1801-1859) | オーストリア帝国の支配下にあったハンガリーの、さらに支配下にあったクロアチアにおいて、クロアチア人たちの総督として独立を志向し、オーストリア皇帝の命でハンガリーの独立運動を鎮圧するなどした結果、一定の自治権を獲得した。独立運動の先駆者と評価されている。 |
セルビア | ミロシュ・オビリッチ(?-1389) | セルビア王国の騎士。セルビアがオスマン帝国に惨敗したコソボの戦いの後、オビリッチは寝返ったふりをしてオスマン帝国の皇帝・ムラト一世に近づき、そして刺殺した。コソボの戦いで戦死した王や騎士たちは後世英雄とされ、多く叙事詩の題材となったが、オビリッチもまたさまざまな伝説の主人公となった。そらこんなんおったらオーストリアの皇太子も暗殺するわな。 |
ブルガリア | ワシル・レフスキ(1837-1873) | 革命家。オスマン帝国の統治下にあったブルガリアの独立を目指して、国内に革命組織のネットワークを作り、外国の武力によらない独立を構想したが、オスマン帝国によって拘束され、処刑された。 |
ボスニア・ヘルツェゴビナ | クリン(?-1204) | ボスニアの「バン(首長)」。もとは東ローマ帝国に属していたが、セルビアのステファン・ネマニャと共に離反し、ハンガリー王国の庇護を得つつ、実質的な独立を果たした。彼の統治のもと、ボスニアの文化・民族の土台が築かれ、いまなおボスニアの歴史上で最も平和で繁栄した時代と称される。 |
モンテネグロ | ペタル二世ペトロビッチ・ニェゴシュ(1813-1851) | モンテネグロの君主。国家の近代化に貢献し、オスマン帝国との軍事衝突を凌いだ。しかしそれよりも大きいのは詩人としての名声で、彼がものした叙事詩はモンテネグロの文学史上の傑作と目されている。いくつかは日本語訳もされているらしい。 |
ルーマニア | ミハイ勇敢公(1558-1601) | ワラキア公。オスマン帝国と敵対し、「カルガレニの戦い」でこれに大勝した。また、トランシルヴァニア、モルダヴィアを併合し、ルーマニアの統一を一時的にでも成し遂げたが、その翌年に暗殺されてしまった。 |
アルメニア | ヴァルダン・マミコニアン(387-451) | アルメニアの貴族。アルメニアを支配していたササン朝ペルシャによるゾロアスター教の強制改宗に反発し、寡兵ながらササン朝の大軍に立ち向かった。戦いには敗れ、ヴァルダンも戦死したものの、ササン朝は譲歩してアルメニアに宗教の自由を認めた。 |
アゼルバイジャン | イスマーイール一世(1487-1524) | サファヴィー朝の建国者。サファヴィーとは教団の名前で、その狂信者を兵士としたイスマーイールの神憑り的な軍事能力によって勢力を拡大したが、「チャルディラーンの戦い」でオスマン帝国に敗れ、意気消沈して晩年を過ごした。ちなみに当時のアゼルバイジャンと現在のアゼルバイジャン共和国の領土はけっこうズレているらしい。 |
ジョージア | タマル(1160-1213) | ジョージア王国の女王。セルジューク朝の影響を排除して、ジョージア王国の最大版図を築き、文化的にも黄金期を現出した。中世グルジア文学の最高傑作『豹皮の騎士』はタマル女王に捧げられた長編叙事詩である。 |
いつの頃からか分からないけれど、物語(特に異世界転生系)の中でスキルという概念が確立されてきた。最大公約的に説明すると、スキルというのはその世界に存在する剣技とか魔法とか料理の腕前とか、なんらかの特別な能力のことだ。そして重要な特徴として、
というものがある。例えばスキル 絶対結界であれば、このスキルを持つ相手と対峙したキャラクタは「ふむ、"絶対結界"か。これはちとやっかいじゃ」なんて相手を評価したりする。
どうにも、このパッケージングされた能力としてのスキルが物語中に出てくると、キャラクタにリアルを感じない。キャラクタがそのスキルを使える理由が納得できない。
逆に、ちゃんと一般人キャラクタが魔法を使える理由があるのはいい。例をあげると、マンガ図書館Zで読むことができる「轟世剣ダイ・ソード」(http://www.mangaz.com/book/detail/74251)は普通の学校が、校舎もろとも剣と魔法のファンタジー世界に転移してしまう物語だ。この中で、魔法は、才能があるもののみ使える精神力のようなもので、主人公を含む何人かの生徒が使い手になる。注目して欲しいのは主人公が魔法を使えるようにある理由だ。もともと主人公は超強いトランスフォーマみたいなロボットの搭乗者に選ばれていて、魔法の才能もあるはずだと周りから思われていた。しかしそれに反してなかなか魔法を使うことができなかった。そして、物語も佳境に入ってきた時このセリフがあった。
「会長・・・ぼくはゆうべ夢を見ました 元の世界で普通に学校に通っている夢・・・ぼくが魔力を使えないのはどこかでそれを使いたがっていないから 怖がっているから それがあまりに強大であったから 自分が望まないのに与えられた力だったから どこかでダイソードと自分を区別したがっているからです 魔力を自分のものだと認めてしまったら 自分が自分でなくなりそうな気がして」
このセリフを読んだ時、この魔法は主人公だから使えるようになったんだと深く納得できた。ただの中学生だった主人公が、異世界で冒険して、命をかけて戦って、誰かを守って、だから力を使えるようになったんだと。翻って、このようにキャラクタとその特殊能力が密接に結びつくことには全く問題を感じず、すんなりと納得することができるのだけど、特殊能力がパッケージングされたスキルとしてキャラクタから分離され、単なる普遍的なキャラクタパラメタとなってしまうとどうにも無味無臭に思えてしまう。スキルがあるから強いとかって書かれると、絵の才能がある人だって、絵の練習しないと安定していい絵はかけないだろうって思う。もっと言ってしまえば、スキルシステムがある時点で、どうにもゲームみたいに、定義されきった世界に思えてしまうのだ。誰がスキルシステムを用意して、スキルを確認できるような仕組みを作って、新しいスキルとかを管理しているんだよと。デザイナでもいるのかって思う。