はてなキーワード: 青春とは
ディズニープラスで独占配信されているドラマ「シコふんじゃった!」っていうのがおもしろかったので紹介したい
1992年に公開された映画「シコふんじゃった。」の30年後の教立大学相撲部を描いたドラマで
僕は今43歳なんだけど、映画「シコふんじゃった。」が公開された1992年は小学6年生だったんだけど、タイトルは知ってたけど今まで見たことはなく
他の作品目当てでディズニープラスに加入して、ドラマ「シコふんじゃった!」が気になって映画から見てみておもしろくて、ドラマも見始めたらこれまたおもしろい!
映画の方は今回始めてみたが90年代の雰囲気が懐かしくて、ストーリーも面白くてよかったんだけど
そこから一気に現代が舞台になって役者も一新されて、でも30年前の出演者もOBとして出てきて話に絡んできて
メインは現代の部員たちの話なんだけど、過去の部員たちの30年歳をとった今の姿も描かれるところも含めておもしろいというか
日本国技ともなっている相撲だがあまり知らない世界だけどその魅力を知れるというかそういう部分もあって面白いと思う
小学生の頃のある日、昼休みに珍しくクラスのT君と喋っていたら掃除の時間になった。私が教室に戻ろうとした折、彼は「そんなんサボっちゃえばいいんだよ」と言った。
それまで私の人生に「にげる」というコマンドはなかった。逃げて良いのはドラクエだけだった。掃除の時間中、彼と一緒に校舎内を練り歩いた。真面目に掃除している友達を訪ねおちょくるT君を横で見ていた。
同じ班の女子生徒に見つかり、サボってんの?と呆れられはしたが、チクられはしなかったのだろう。その後お咎めはなく、世の中自分が思うより結構緩く回っているのかもしれないと思った。これがサボりの原体験だった。
その後は逃げるという選択肢を大いに使った。
T君の誘いに流された時と違い、初めて自分の意志で塾をサボった。サボりすぎてバレて殴られ、それでもめげずにサボった。時間潰しにチャリで10km離れたイオンまで乗り付けて、エヴァを1巻ずつ買うのが当時何よりの楽しみだった。
中高は担任がハズレで、ついぞ学校をサボるという体験はできなかった。が、部活の気分じゃない日はサボって高尾山に登ったり、多摩川を延々と下ってみたりもした。春には桜が見える駅前のマックにコーヒー一杯で長々と入り浸った。
夜中の江ノ島を独り占めしたり、バルト9のミッドナイトショーへ行って、始発が来るまで中央公園で感想を書き留めたり。魚がいるかも分からない多摩川で一晩中釣り竿を振り回したり。終電も過ぎて遠出が出来ない日は、聖蹟のゆうひの丘まで行き、多摩の夜景を眺めながら物思いに耽った。静かな夜に動き回るのが好きだった。
傍から見れば取るに足らない思春期の現実逃避だろう。でも私の青春はいつも逃避の中にあった。逃げた先で大切なものを見つけようとした。憂鬱な帰り道すらも現実を考える時間になった。必要な時間だったと心から言える。
逃避という麻薬の如き選択肢を教えてくれたT君。育ての親や敬愛するバッハを差し置いて、私の人生に誰よりも影響を与えた人物かもしれない。
人生、機を見極めて逃げるべきタイミングもあろう。今までは少し逃げ過ぎたかもしれない。それも良かったが、青春も半ば終りかけた今や目の前の生活とも向き合わなければならない。世の中に蔓延るバカげたことから上手く逃げおおせながら生きたいものだ。
思春期にナンバガやゴイステを聴く陰気な少年をマジでかっこいいと思ってるし、自分もそうありたかった。
実際の所は姉の影響やミーハー心で事変やサカナクションを聴いていた。最近はそれもまた等身大の高校生といった感じで良いような気もしてきた。逆張りの申し子だったからそもそもオーケストラやジャズばっかり聴いていてロックはあんまりだったが……
夜の踊り子の焦らしは今でも高ぶるし、群青日和のギターソロは本当にかっこよくてクネクネせずにはいられない。
借り物の青春像ではなく、最大音量で1812年を聴きながら高尾山に登ってみたり、閃光少女のアウトロを何百回も繰り返しながら多摩川を延々下ってみたりした逃避行の原体験に誠実でありたい。
もういいやって思った。
もういいやって思った。
自分の答えが欲しくて大学院まで行った。なんとか生きていく意味を見つけたと思ったのもつかの間、うつ病を罹患してしまった。
けれどもよく考えれば、うつ病に罹らなくても、仕事は辞めていただろうと思う。ずっと昔から、働くことなんてクソだと思っていたし、案の定、クソそのものだった。
よく社会不適合者という言葉を聞くが、真に差し迫った社会不適合者というのは、子どももいるのにまともに働くことができず、つまりは、守るものがあるのに自分の力の無さのせいで仕事を続けることができないというのが、それだ。
うつ病は、治ったと思った。クリニックに通院してはいるが、およそ二年間事務のアルバイトを続けることができた。しかし今、辞めそうになっている。正社員になろうという話しを持ちかけられ、それを承諾してしまった。結果、責任のある業務が増え、後輩ができ、辛いと感じることが増えた。
仕事を辞めようにも、今年で30歳になる。転職歴は5回ほどある。どれも、数ヶ月働いては辞めてを繰り返していた。今の職場を辞めてしまえば、もう障害者雇用くらいしか残されていないだろう。
ただ今がつらいということだけで、逃げてしまっていいのだろうか。そのうち、つらい気持ちはなくなるだろうか。逃げ癖がついてしまっているから、逃げて逃げて逃げて、その結果が今だ。また繰り返してしまっていいのだろうか。向こう何十年、耐えるにはあまりにも苦しすぎる。
就職のタイミングで子どもを授かった。こんな人間が家庭を持ったのだから、最悪な結果しか招かない。自分のことで精一杯なのに、子どもを育てられるわけがなかった。もう4歳にもなる息子には、申し訳ない気持ちしかない。できることはしたいが、できることがあまりに少なすぎる。
息子には本当に幸せになってほしい。元嫁さんにも。
こんな奴を夫にしてしまったことを後悔しているだろう。本当に申し訳ない。自分の腕で幸せにできなかったことが、虚しくてたまらない。
そして今、過去を思い出して悲しくなった。青春は青春らしい、ちゃんとした青春だった。もうあそこには戻れない。あの淡い、駆け抜けるような熱情に包まれた生は、もう戻ってこない。
ずっと若いままで居られると思っていた。いつまでも子どものままでいたかった。大人になんてなりたくなかった。さらには、うつ病になってからは記憶が曖昧で、気づけば5年ほども経過している。自分はあの頃から、同じ場所で足踏みしているだけだった。心も身体も、何ひとつ進歩していない事実のせいで、現実とのバランスが保てない。
やりたいことはある。やってみたいことが、けれど、生きていくために割かなければならない時間と心が、気持ちを前向きにはさせてくれない。
何にも煩わされず、喧騒に晒されず、生きていきたかった。楽しいことよりも辛いことのほうが多い。もう疲れた。
そんなわけだから、もういいや。
最後に海を見にいこう。
『世界の中心で、愛をさけぶ』は、片山恭一さんの青春恋愛小説です¹。主人公の坂本悠太と秋山莉子は幼なじみで、高校生になってから恋に落ちます。しかし、莉子は白血病で余命わずかだと知らされます。悠太は莉子のために奮闘しますが、最後には彼女を失ってしまいます²³。
ブラックジャックを登場させるとしたら、どんな役割がいいでしょうか?私は以下のような物語を考えてみました。
悠太は莉子の病気を治すためにあらゆる方法を探しますが、どこも手遅れだと言われます。そんな時、インターネットで噂されている天才外科医・ブラックジャックの存在を知ります。ブラックジャックは白血病も治せるという噂がありますが、その代償は高額な手術料です。悠太は必死にお金を集めようとしますが、時間がありません。
そこで悠太はブラックジャックに直接連絡を取ります。自分の身体や臓器を売ってでも莉子を救いたいと訴えます。ブラックジャックは悠太の想いに感動し、無償で手術を引き受けることにします。しかし、手術に成功するかどうかは神のみぞ知ることです。
手術当日、ブラックジャックは莉子の体内から白血病細胞を除去するために特殊なレーザー治療器を使います。しかし、レーザー治療器が故障してしまいます。ブラックジャックは冷静に対処しようとしますが、時間切れです。彼は最後の手段として自分の髪や爪から作った針で莉子の体内に刺します。これが奇跡的に白血病細胞を消滅させる効果があったのです。
手術後、ブラックジャックは悠太と莉子に笑顔で報告します。「君たちは幸せになりなさい」と言って去って行きます。悠太と莉子は涙しながら抱き合います。「ありがとう」と言います。「愛してる」と言います。「世界の中心で」と言います。
ブラックジャックの特殊能力と、最後の謎の「世界の中心で」というセリフにクスッとしました
かつては大学生だった。今から約20年前のことだ。地元の公立高校で必死に勉強して、勉強して、勉強して、青春のすべてを犠牲にして京都大学法学部に合格した。一浪だった。いわゆるイカ京みたいな京大生がたくさんいる中で、自分もその1人から脱出しようと頑張ってみたが、結局だめだった。
40歳が間近になった今では、没落というか、いや元々高い位置にはいなかったのだが……今は、普通に非正規労働者をやっている。契約社員みたいな仕事に就くこともあるが、あまり続かない。1年くらいで辞めることが多い。結局、学歴って大したことはないんだよなぁ、と実社会で働くようになった今では感じる。
これから、大学時代の話をさせてほしい。暗い話になる。みんなジメジメした話は嫌いだろう。だから、すぐに終わらすよ。頑張って五千字以内に収める。リアル一人称が僕なので、以降は僕でいくことにする。
入学式を終えて大学生になった僕は、どこかのマンガで見たようなサークル勧誘活動を眺めることになった。どういう風に勧誘があったか、さすがにまったく覚えていないが笑
でも、僕にはあまり声がかからなかった。ルックスはいまいちで、特にスポーツ系からは全く声がかからなかった。浪人生活がたたって不健康に見えたのだろうな。
文科系からは何度か勧誘された。漫画研究会とか、小説を書く倶楽部とか、山登りの会とかも見学に行ったっけ。結局、どこにも入らなかった。高校時代はバリボーをやっていたが、大学の部活はいわゆるガチめのところが多い。通用しないとわかっていた。
それで、大学1年生(※正しくは1回生)の時は、ごく普通に講義に出て、帰りに図書館に寄って、たまに帰り道にラーメン店を巡っていた。実家は美山町の貧しい農家だったが、親が優しかったので仕送りをたくさんくれていた。月に8万ほど自由に使えるお金があった。
アルバイトを始めたのは、かなり後になってからだ。大学2年生の春だった気がする。退屈に負けて繁華街にあるマクドに応募したんだっけ。
そんな時だった。1年生の秋頃、学内であるチラシを見かけた。『みやこ音楽祭』なるものの開催案内だった。京都の学生有志で集まる大学間サークルで、くるりとかの有名バンドを呼んで京都の音楽を発信しよう、みたいな団体だった。
チラシには第1回の文字はなかったけど、結局第8回まで行われることになった。僕の時は、西部講堂という古めかしい場所があるのだが、そこでライブをやっていた。
いろんな大学の学生が集まる、しかもライブイベントのスタッフなんて、こんな体験は二度とできないと思った。小学校も中学も高校も、文化祭でリーダーをやるタイプではなかった。下働きだった。
数年前のアニメだと、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』で、高校生だけでアメリカ風のプロムをやろうみたいな場面があって、ゆきのんが実行委員長で、八幡が陰の立役者で、いろはすが現場リーダーだったと思うんだが、僕はその現場の下働きだった。
それで、みやこ音楽産業みたいな名前の団体があって、そこに電話をかけて参加申し込みをした。もうほとんど覚えてないが、西部講堂付近のカフェで面接があったのかな、その場で誓約書みたいなやつを書いてスタッフとして登録した。
若い人達がやってるんだろうなぁ、と思っていたら、みやこ音楽祭を立ち上げたのは20代半ばの人達だった。とっくに卒業年齢だったのだが、京大にはあえて留年をして大学の看板を使っている人もいる。ハタチくらいの有志が集まって~みたいな団体ではなかった。
まあ、そうじゃないと、第1回目からくるりや向井秀徳や矢野顕子は呼べないはずだ。伝手があるのだろうなと察したのを覚えている。
もう想像できると思うけど、ここでも下働きだった。現場で机とか、椅子とかを運んだり、他大学へのチラシ配りとか、やはり音響機材を運んだりとか、ライブ中の警備とか、掃除とか、そういう下働きをしていた。
いろんな学生が集まるサークルなだけあって、多様性に富んでいた。僕は4年分すべて参加したけど、僕のような中核ではない臨時スタッフまで入れると軽く50名を超えていた。なんだかんだでマーケティング活動は抜群だった。もし、経営の才能がある大学生がここで活動したなら、きっといい経験になったと思う。
思えば僕は、アニメや漫画でいうところのモブキャラだった。その団体の中核メンバーはほとんど京大生だったけど、中には同志社とか、立命館とか、京都産業とか、龍谷とか、いろんな人が揃っていた。
僕は京大生だったけど、4年間活動してもずっと臨時スタッフだった。そういうところには潜り込めなかった。かと思えば、才覚のある大学1年生(仏みたいな名前の大学の女子だった)が入ると、次の年からは中核メンバーとしてスカウトされていた。
そういう光景を目にして、つくづく自分が嫌になった。自分は臨時スタッフなので、次の年も参加したいと思えば、またチラシを見つけて応募する必要があった。
それで、イベント初回の時は、その1ヶ月後には打ち上げ会があった。その会では、今の自分から見ても相当気持ちが悪い光景が繰り広げられていた。京大の近くにある居酒屋での開催で、和室の座席を貸し切っていた。席の配置は自由だったけど、大体男女が別々に固まる。40人ほどだった。
ただし、主催者の方で誘導して、男女がある程度向かい合わせになるようにする。それで、京都大学の学生のうち、女子と向かいになった人達が、飲み会が盛り上がっている半ばでこういうアピールを始める。※京都の方言は標準語に直している。
「俺、浪人して経済(学部)に行こうと思ってたけど、総合人間でもまあいっかと思って」
「高校の頃の模試は全国で二番だった。医学科行きたかったけど、キツそうだからやめて看護(保健学科)にした」
「お前らまだ若いからいいじゃん。俺こないだのTOEIC220点だったぞ。大学入ってから頭が悪くなっていく一方だよ」
(3/21追記)コメントを受けて。以上は飲み屋での会話だから、卑屈な謙遜がかなり混ざっていると思う。会話自体は確かにこのとおりだ。
こんなノリで会話を始めて、自分の財布から京都大学の学生証を取り出して、目の前の女子に見せびらかす。こんなことを彼らは四年間ずっと続けていた。見ていて情けなかったけど、かくいう自分も、隣の人に振られる格好で一度だけやったことがある。
「え、え、自分京大なん? リッツ(立命館大学)かと思ってた」
「法学部なんですね!! すごーい」
「機材を運んでる時、気遣いがすごかったですね。警備中もずっとお客さんの方を見てた。ほかの人はサボってライブ見てたのに」
今思えば、女子は気を遣ってくれていた。こんなに恥ずかしいことを、当時は若かったとはいえ、自尊心に負けてこんなアホみたいな、つまらない、人間として三級品にも等しい、救いようのない子どもじみたことをしていた。トイレの手洗器に張り付いたタンカスの方がまだ魅力的だった。
で、そんなことをしていると、向こうから中核メンバーが乾杯にやってきた。すると僕の周りにいた京大生は、借りてきた猫みたいに大人しくなる。それで、女子は彼らの方を眩しい視線で見つめるのだ。目のキラキラ感が違う。
……でも、当時の僕は受け入れていた。これが正しい形なんだって思っていた。強い人間がモテて、強い人間がいろいろ持っていくのは当然だと思っていた。僕だって、京都大学に合格した時は、中学校や高校の先生や後輩から神扱いだったし、親族からもすごく褒められたし、母親は泣いていた。
でも、違うのだ。大学が保証する個人の能力というのは、実社会で必要な力のせいぜい20〜30%だ。ほかの能力面がダメだと社会では通用しない。
結局、在学中に目立つことはできなかった。自信が持てるような体験はなかった。学業成績は中の中ほど、アルバイト先は今は亡きマクドナルド河原町三条店で、そこでは全スキルをほどほどに鍛えた。就職活動はコツコツとやって、結果は京都銀行に内定した。しかし、自分という存在に確信がもてないまま、あっという間に四年間が終わっていた。
銀行でのことは話したくない。嫌な思い出だし、気が付けばすごい文章量になっている。増田でこんなに書いたのは初めてだ。
掻い摘んで話すと、社会人一年目から地獄だった。地方支店からキャリアが始まったのだが、預金口座とか、金融商品の営業がまったくできなかった。
営業としての適性がなかった。ぜんぜんだめだった。当時の成績はゼロに近かった。ほかの同期は、月にひとつ以上は契約を取ってくる。高卒で入った男の子や女の子ですらそうだった。
同期に馬鹿にされて、上司には激詰めされて、居場所がなくなって、しかしクビにはならない。いっそクビにしてほしかった。京都の山間部に住んでいる親には「うまくやってる」と嘘をついていた。
三年目のある冬に、メンタルが完全にダメになって仕事中に交通事故を起こした。運転中に手が震えて、ハンドル操作ができなくなった。それで免許停止になってしまって、人事との面談では……もう雇い続けることは難しい、次やったら本当にだめだ、みたいなことを言われた。クビにはならなかった。
まだ次があるのかと思った。上司からは、「お前は京大だからな!! 地銀に入る京大なんか珍しいからな!! できる!! なんとかしてみろ」と何度も言われた。
結局、次の交通事故を起こす前に辞めた。退職手続きはあっさりだった。相応のレベルの会社らしく、有給消化や退職その他の手続きは出社しなくても全部やってくれた。今でも感謝している。
それからは坂道を転がるみたいだった。どの仕事でも2年以上続かなかった。期待していた仕事でも、やってみるとぜんぜんダメだった。先日は、市役所の会計年度任用職員をクビになった。現業の仕事をするポジション(剪定、伐木、廃棄物処分)で募集があったので応募した。
書類選考が通って、市役所の役職者が面接をしてくれた時に、「え……京大なんですか……?」と愕然としていた。自分以外に応募者が10人以上いたけど、現場仕事未経験の自分でも内定を取ることができた。
もうわかっていると思うが、結果は散々だった。口頭での指示を理解できず、とんちんかんな行動を繰り返して、何度も怒られて、1ヶ月も経つ頃には役職の人に呼ばれて三行半を付きつけられた。
「すんません……こないな自分が言うのもなんですけど、事務職やったら……」
「事務職はもうパートさんがおるさかい。あんたには任せれへん」
「すんません」
会計年度任用職員の試用期間は1ヶ月だった。こういうわけで、先日見事にクビを切られた。情けない限りだ。いや、もう僕はこういう状態に慣れてしまった。これでいいのかもしれない。
これからも、アルバイトで日銭を稼いで、スーパーで閉店近くに八割引きになっている惣菜を買って、コンビニでストロング無糖ドライを買って、二級品の梅干しを入れて、ウィルキンソンで割って飲み続けるんだと思う。
最後に知っておいてほしい。学歴は仕事の結果には関係がない。最近読んだ『科学的な適職』という本で、アメリカの研究で学歴と仕事の結果の相関係数が0.1とあった、との記述を見た。つまり、ほとんど関係ないのだ。マイナス相関でないところは皮肉に感じる。
そろそろ仕舞いにしよう。こんなおっさんの愚痴を聞いてくれてありがとう。適度なところで死ぬようにする。いつも布団に入る時に思う、「目が覚めた時に死んでいればいいのに」って、本当にそう思う。
――ああ! 誰かがあの肉體からあの魂を取除いてくれないかなあ!――「造物主」が何かのはずみで手違ひをしたとしか思へませんからね!
未來のイヴ ヴィリエ・ド・リラダン (著), 齋藤 磯雄 (翻訳) P.99
3/21追記 この本の引用が上の言葉の元です。こんなところまで自分の言葉じゃなくて申し訳ありません。
もし若い人がこの日記を読んでいるのだとすれば、学歴と仕事能力は関係ないって、それだけでも心に刻み付けてほしい。そうすれば、僕のような人間を少しは減らせるかもしれない。
ゲッサンでどうやら同世代が当時を振り返る漫画を連載開始したようなので、別視点で語らせて貰おうか。
めぐり合わせが良かったのかパソコン通信終焉期に同世代としては比較的早期にパソコンを手に入れ、パソコン通信をやっているお兄さんたちからプログラミングを習うようになる。
このお兄さんたちは今の40代、公開されているプログラムの改造についてフォーラムで質問したことをきっかけに、会話の中で自分が小学生であることがバレてしまい、お兄さんたちは面白がって僕にBASICとCを二次関数も知らない小学生へかなり丁寧に教えてくれた。
お兄さんたちは次第に「これからはインターネットの時代だぞ」「大学にはJUNETがあって」などと教えてくれるようになり、インターネットやUUCP、TCP/IP、WWWなどの知識を小学生に詰め込むようになり、指導される言語にPerlやHTMLが増えたものの我が家にはまだインターネット環境がなかった。
Windows 95が我が家に導入されるタイミングでインターネット環境も敷かれ、ここでCGIゲームに出会いプログラミングへのめり込んでいくこととなる。
師匠たちの教えは素晴らしく当時のCGIゲームの主要開発言語はPerlであったため何も不自由なく改造がはかどり、負荷を高めても叱られが発生しにくいCGI対応ホームページスペースを提供してくれているプロバイダを探すこともよくやった。
その初頭(02年くらいから)にAdobe Flash方面で大きな動きがあり、いわゆる「FLASH黄金時代」を迎える。
Adobe Flashの派手に動くアニメーションと音楽に衝撃を受け、そして我が家のPCのビデオメモリの貧弱さに絶望をした(お年玉全額投資した上で親に拝み倒してビデオメモリいっぱい積んでるPCへ新替した)。
2000年代以前もMML(Z-MUSICなど)でDTMを軽く触る程度やっていたもののAdobe Flashの自由自在なマルチメディア感へ完全に影響され、本格的にDTMやCGへ手を出すようになる。
当時主に使っていたDAWはSinger Song Writerで、これは当時の師匠たちの主な環境がミュージ郎であったため影響を受けた弟子である自分はDAWにおいてSinger Song Writerしか知らなかったという意味合いが大きい。結局、手に馴染んでいたMMLを完全に排除するまではいっておらず併用する形でDTMをやっていた。
当時のインターネットと音楽事情を振り返れば今だから言えることだが、BOSSのエフェクターの回路図などがネット上に出回っており、おそらく電気関係を学んでいたであろう師匠たちの手によってミニ四駆改造を主とした電子工作の手ほどきを受けていた自分は師匠たちから渡されたエフェクターの回路図によって自作し、最終出力をMTRなどでレコーディングするという手法を取っていた。
当時のソフトエフェクターは音楽ド素人の自分でもわかるくらいに品質が悪く、何なら最終段をPCM音源出力するわけでなくFM音源でのみ仕上げるときは疑似ディレイや疑似デチューンなどの手法によってエフェクター表現するしかなく、ソフトエフェクターはハードエフェクターを超えられないことが常であった。
Adobe Flashでは主にMotionSWFとSodipodiを利用して作成しており、Sodipodiは後にInkscapeとして派生していくことになり今でも使用しているが、MotionSWFはSWiSH2が登場すると直ぐに乗り換えた。MotionSWFは連番画像を事前に生成する必要がありActionScriptの扱いにも難があったためだ。
Adobeが公式でLiveMotionというFlashアニメーションというのをリリースしていたものの学割が効くとは言え高価で、師匠世代の方々は学割が使えないのでSWiSHを使っていたこともあり影響された。
このあたりにTVアニメなどで使われる背景動画はモーショングラフィックスという技術の括りに入るものと知る。まぁつまりモーショングラフィックスとは静止画をアニメーションさせる技術の総称なのだ。
この時点で自分は中学生、自分の肌感覚だがこの時点でがまだ「オタク」へ対する風当たりは強く、中学校でもイジメと殆ど変わらないであろう扱いは散見されており、自分の姉たちからもオタクっぽい趣味は良くないよみたいなことをよく言われたものだった。
まぁ姉たちも思春期だし、部屋にこもってパソコンへ向かってフヒヒとか言ってたり、電子工作で謎の機械作ってたり、Marshallのジャンクなアンプをどこからか拾って来て修理してる弟は気持ち悪かったんだろう。
ただ運良くも両親が身体デカく産んでくれたおかげで、自分自身はイジメられた経験がほぼ無く、というか面白いものを生み出すオタク友達をイジメる不良が大嫌いだったので思春期だったこともありやり合っていたというのが実情だった。
なにせ一次産業家庭の生まれだったので早朝は実家の手伝い、親父の男子たるものスポーツくらい出来なければという保守的な思想によって野球部へ所属し、帰宅後も実家の手伝いをしていたため身体が鍛え上げられる環境だったのだ。ツルんで威張り散らかし調子に乗ってタバコや酒をやるようなナヨナヨした不良に喧嘩で負ける道理は無い。
親父や教師たちは自分を正義感溢れる少年だと思って度々喧嘩をしても大目に見てもらっていたが、実際のところはオタク友達が「イジり」に遭ったことに腹を立てて「俺たちに構うんじゃねぇ!」と思春期の自分が怒っていただけだ。
ただこの不良たちとも仲直りをした。時代はビジュアル系バンドとインディーズバンドが流行り、そして青春パンクが注目され始めるとき。そんなときにエフェクターやアンプを自作修理し軽音楽部の部室へ持ち込んでいたので軽音楽部にたむろする不良たちが「えっ増田ってアンプ作れんの!?」となるのは別におかしな話じゃない。
不良たちもそのような状況でオタクグループをイジるのがバカバカしくなったのか次第に何かやるとき絡むようになり自分の通う中学校からはイジメが無くなった。
イジメという娯楽はモノ作りという娯楽に勝てない。
イジメを根絶する力をボクは師匠たちから学んだ。今の世を見れば不良の一部はオタク側へ吸収されてしまっているし、そのような流れを作ったのは自分の世代へ憧れを抱かせた40代になった今のアナタたち師匠だ。
Flashの影響が落ち着いてきたあたりでインターネットには新しいコンテンツ配信システムが注目される。インターネットラジオだ。
これは爆発的に普及し、当初個人サイトだった「らじちゃんねる」は「ねとらじ」となりつつも個人運営では負荷処理が追いつかずlivedoorへ譲渡されlivedoorねとらじになる。
奇しくもほぼ同時期に2ちゃんねるでは若年層が新しく設置されたニュー速VIP板へ集うようになりVIPPERもインターネットラジオ配信をほそぼそと始めるようになった。
この頃のニュー速VIP板は明らかに自分と同年代が集っており、Flash黄金期の影響を如実に受けておりクリエイティビティの発露が著しく様々なネタスレが生み出され安価スレはその代表格で、更には涼宮ハルヒの憂鬱を発端とする深夜アニメブームからクリエイティビティは極限まで達しSSスレやゲーム製作スレなどが大いに賑わうようになった。
そして負の側面も表に出るようになり女神スレや女VIPPERによるインターネットラジオ配信が定番化すると、ニュー速VIP板内でのパートスレによるスレdat落ちが問題視されるようになり、女VIPPERはヘイトを集めるようになった。
それ以前から2ちゃんねるでは主に801板住民による板違いスレ違いや同性愛サロン板での荒らしが問題視されており、女VIPPERによるインターネットラジオ配信によってBLファンであることが多いことが明らかとなっていたため、ニュー速VIP板内でも女VIPPER、特に腐女子に対して風当たりが著しく悪くなった。
そこでパートスレを嫌うVIPPERは腐女子へのカウンターとしてふたば☆ちゃんねるから2ちゃんねるへ輸入されたくそみそテクニックから作られたAAを使って女VIPPERによるインターネットラジオ配信スレを埋めるという連投荒らしをするようになる。
この動きは当の801板住民へも影響を与えたのか、801板では同人サイトの作成を奨励されるようになり、それ以前から評価の高かったYahoo!ジオシティーズや携帯勝手サイトの魔法のiらんどが同人界隈で注目され同人サイトの開設が爆発的に増えた。
しかしながらこの動きにも負の側面があり、同人サイト運営を行っている主に学生内で無断転載やホームページ素材サイトからの直リンク問題が発生。Web系の技術者やホームページ素材サイト運営者からのヘイトを加熱させるという現象が起きてしまった。
特に怒り狂っていたのはいわゆるツクール系のゲーム製作者・ゲーム素材サイト運営者であり、当時のゲーム素材はまだGIFなどのドット絵素材が多かったため当時の携帯電話と相性がよく、同人サイトを運営する学生が無断転載や直リンクするという行為に走ったのだった。
当時のHTML/CSSにも問題があった。携帯電話各社でHTML/CSSの仕様が違い、自身の同人サイトを彩りたい学生からすると携帯電話によって表示にバラつきが起きることは悩ましいことであり、画像素材はそのバラつきを最小限に留めることが可能である。
さらに言えば魔法のiらんどなどで利用者が使えるストレージサイズが小さいという問題もあり、装飾にストレージ容量を消費すると自分のイラストやSSを投稿できる量が減るといった悩みがあって直リンクへ手を染めていた。
もっと言えば当時の学生はあまりにも送信量が多いとプロバイダやレンタルサーバ、レンタルホームページ事業者からホームページ運営者が怒られたり、送信従量課金制契約の場合は実際にホームページ運営者が実費を負担していたという事実を知らなかったのも無断転載や直リンクへの拍車をかけていたと思われる。
現在は社会人となっっているであろう同人サイト運営していた学生だった者はおそらく今まさに素材サイトの管理人へ金銭負担させていた事実を知って驚いていると思うが、何故あんなにも注意され、素材差し替えなどで当時は嫌がらせと思うようなことをされたのか?を理解していることだろう。管理人は怒って当然なのだ。
そのような状況を傍目から見ていた自分は2ちゃんねる内の様々な製作系板やスレなどへ常駐し、HTML/CSSスレなどで素材提供などをし、更にはCGIゲーム罪と罰++ 二律背反のホスティングをしていたが、当時のDTM雑誌であるDTM magazineで1つの告知記事を見る。それが「プロ歌手デビューのオーディション(VOCALOID中の人採用特典付き)」だ。
そうつまりこれKAITOとMEIKOがデビューしたオーディションであり、当時の2ちゃんねるDTM板でVOCALOID評価はそこまで高くなく、たいていは「ボコーダ/ボーカルシンセの代わりにはなるのではないか?」程度の評価だったのだ。
様々な音楽制作系雑誌でもVOCALOIDの扱いは非常に小さく、例えば当時のPC系雑誌で定番の特集だったフリーソフト100選みたいなノリでVSTプラグイン100選の中にVOCALOIDがボコーダ枠で入ってるくらいの極々小さな扱いであった。むしろ登場時に言及していた名無しが評価の仕方は別としてVOCALOIDに触れているだけでもスゴイまである。
子供がいることで子育てのプラス面もマイナス面もひしひしと感じているので
子供を持たないという選択をしている人達が子供を持たないことで得られる幸せを得ているのをみると「なるほどな~」とか子なしはフッ軽で生活にも気持ちにも余裕があるし幸せだよなと思う
子供がほしいのに子供を持てなかったこと自体はその人にとって不幸だが、子なしは子なしで幸せな生活をすることは可能だし
最初から子供がほしくなくて、実際子なしの生活ができているなら幸せだと思う
子供を作るとき「自分は子育てで不幸になるかもしれない」と思って作らない
だいたいの人が「自分に子供がいたらもっと自分は幸せになれる」と親のエゴで子供を作る
その結果「こんなはずじゃなかったのに」と子育てのマイナス面をつよく受け取ってしまった人もいれば
彼女がいた。
愛嬌があってたくさん甘えてくれる優しい子だった。
決して怒ることもなく、暴力もヒステリックもない、いい子だった。
俺は俺自身に多くの問題があるから、それを助けようとメモを残していったり、いつも連絡をくれたりしてくれる子だった。
いつも愛していると伝えてくれて、俺を褒めてくれる子だった。
太っていたけど、気にしない。本人も気にしないと決めていたから、俺も気にしない。
でも、その体にはいくつもの肉割れがあって、痛々しいものだった。彼女の過去にはあまり触れた記憶はないが、何か多くの問題があったのだと思う。
彼女は日本で一人で生きている。その前は精神病院に通い、自分のメンタルヘルスと戦っていた。だから俺の痛みを理解し、寄り添ってくれた。
付き合うきっかけは初めて会った時に、「あなたと会えて本当に嬉しい。これはデートだよね?それともただの友達?」と言われた時
その笑顔を崩したくなくて、デートと言ってしまったことから始まった。
本当に俺のことが好きだったんだろう。俺は、その彼女が喜ぶ姿が好きで、色んな贈り物やサプライズをしてきたつもりだった。
いつも寂しい、恋しいと言うから、自分の匂いを思い出せるような香水をあげたり、体型が大きくてなかなか手に入らない好きな歌手のTシャツをあげたり
自分の好きな靴や、好きなにおいのハンドクリーム。喜んでくれてたなぁ。
贈り物は、自分がいつも相手のことを考えて、喜ぶ姿を想像していくものだから、過程にも意味がある。
そして、相手の生活を彩るすべてのものが、自分の存在であることを示す重要なものだと思う。
だからプレゼントをした。物質主義的な考えかもしれない。彼女は逆に愛や言葉、スキンシップで愛を伝えてくれた。
俺は薬のせいなのか、病気のせいなのか記憶が悪い。だから、家に帰ると彼女のことをどんどん忘れていく。辛かった。家に思い出がないのが。
だから彼女からプレゼントが欲しかった。そこで少し喧嘩してしまったと思う。でも十分に修復が可能なものだと思う。
俺は将来一人で生きていきたい。誰かを好きになって、徐々に嫌いになっていって、好きだった頃の記憶を自分自身が否定していくのが嫌だから。
両親を見てそれを強く思った。だから、どれだけ告白されても、貴重な青春だったとしても、誰一人彼女を作らなかった。
無責任な決断で、首を縦に振ってしまったせいで、人の幸せを作り、それを自分の手で破壊してしまった。
まだ、それが数ヶ月だから大丈夫だと思いたい。もっと時間が経てば、相手にとって、もっと不幸だから。
自分をサポートしてくれる他の人のためにも、やっぱり自分は独り身である必要がある。誰かのものになるのは、自分を得られなかった人に重い傷を負わせてしまうから。
彼女の献身的なサポートは本当に感謝でいっぱいだ。別れた今も、手元に残る彼女のメモが、自分の心を温め、そしてヤスリのように傷つけていく。
自分は努力ができず、不真面目だ。お金に困っている。計画的に物事を進められない。
自分の問題は自分でしか解決できない。人の精神的な支えを得て解決できるのなら、それは最初から自分一人で解決できる問題なのだから。
自分は、結局のところ、自分の問題を肩代わりしてくれる相手が欲しいだけなのではないだろうか。
献身的で愛嬌のある、幸せになるべき彼女を、俺は幸せにすることができない。他の誰かに嫌われても、愛し続けることができるほどの器量がない。
二次創作では斬新な解釈でめちゃくちゃ面白い漫画を描いていた人が、いかにも一般受けしそうなリーマンBLや、どこかで見たような青春群像劇、キャラが空回りしているギャグ漫画を商業で描くようになるの本当に悲しい。
実際、そういう商業作を何冊か買って読んだことあるけど、全然面白くないんだよ……。
絵は丁寧で綺麗だし、コマ割りもセリフも見やすくなっているのに、まったく心に響かない。
その作家さんの人生だから私に止める権利はないし、その方の商業で頑張ってみたいという気持ちはすごいと思うけど、星が一つ消えたような気持ちになる。
「私は、あなたの、これまでみたいな二次創作の作品が読みたいのであって、商業作は特に読みたくない」とも言えないし。
「商業デビューが決まりました!」というツイートが、商業アカウントのRTと一緒に回ってくると「あー、またか……」と喪失感にさいなまれる。
「商業デビューおめでとうございます!」みたいなリプつけたり、「商業作品も楽しみ」というツイートしたりしてる人って、本当にみんな心の底からお祝いしてるんだろうか?
一旦商業デビューしちゃうと、二次創作同人を辞めちゃう人が大半なのも辛い。
鍵になったり、日常生活のことやソシャゲのスクショしかアップされなくなったりした二次創作アカウントで「また同人も出したいですね~」みたいなツイートを見て、期待させられるのも疲れた。
商業デビューが二次創作同人の一つ上の段階、みたいな風潮も嫌。
「二次創作同人はステップアップになった」みたいな、「踏み台にしました」発言を堂々とする人もいる。
美術の授業で油絵か何かを描いていたときに、カンバスに乗っている絵の具の色を指して誰かがどどめ色と言った。
どどめ色ってなんですかと先生に聞くと、少しバツの悪そうな顔をして
あまりいい言葉じゃないから使わないようにねとだけ言っていた。
帰宅して調べると、女性の性器の色、しかも黒ずんで汚いというニュアンスを含んだ色をどどめ色と呼ぶとあった。
当時うぶだったので、酷い語源だなと思って堂々と使う言葉ではないんだなと理解した。
ところで最近藤井風にハマっておりシャッフル再生で聴いていたら
NGワードじゃないのかと思い、びっくりしてWikipediaを見に行くと、
どどめ色というのは上に書いたような意味はないようで、青紫色であるとか、濁った色くらいの意味らしい。
さらに調べると古い意味ではやはり侮蔑的表現の意味があったようだが
自分が知らないうちに言葉の意味が移り変わって、侮蔑的な意味合いがなくなったようだ。
唐突だった。会から離れていても、人生に大きな影響を及ぼした人が亡くなったという事実は、衝撃がそこそこあった。
と同時に、これからは多分、自分と幸福の科学についての話は、本当に「過去の話」になる気がした。
語れなくなる前に、幸福の科学が影響する自分の人生を整理しておこうと思う。
- 幸福の科学が運営する塾や学校に通っていて、学生時代はそこそこ熱心な信者だったが、社会人になってからはゆるゆると遠ざかり、今は特に活動や勉強などしていない。「わざわざ脱会までしなくていいかなー」と思って特に脱会はしていない。
- でも幸福の科学ではないスピリチュアルなものに関係がある様子で、その辺りは昔も今も聞きたくないから適当にあしらっている。
- 家に幸福の科学の本がたくさん置いてあったので、なんだかたまに読んでいた記憶。置いてあったら単純に興味が出る
- 神棚(幸福の科学では「ご本尊」と言う)も家に飾ってあって、たまにお祈りしてた
たまーに母親の活動についていって、街頭演説とか、パンフレットの配布を手伝っていた記憶
「外で伝道活動するの偉い!積極的にやっていこう!」って教えられる。特に子どもが活動していると、会の中では「超優秀な素晴らしい子!」として扱われる
大きめの講演会もちょくちょく行ってた。
- 今調べて初めて知ったんだけど、サイトあるんだね
- https://success-no1.happy-science.jp/
- そもそも親と一緒に何かするのが恥ずかしい、みたいなとこもあったな。
- みなさんも「親と一緒に家でお祈りするの恥ずかしい!」って思ったことありませんか?
- 自分の家庭や前述した塾では幸福の科学の教えを前提にした会話が繰り広げられる。
- 「守護霊が〜」「過去世が〜」「 最近の教えで総裁先生(信者の間では大川隆法のことを「総裁先生」と言うことが多かった)はこんなことを言っていて〜」とかとか。
- ただ、そうやって普通に会話することが周りの子には通じないし、そんなこと言ったら変な目で見られてしまいそうなので、「幸福の科学用語」が表に出ないように気をつけて生活していた
- サイトはこれ
- https://happy-science.ac.jp/
- その辺りの役回りをこなすと、自然と大勢の前で「幸福の科学の教えを広げるために、自分達に何ができるか?」「信仰心は大事だ!(バーン)」といったように、他の生徒を鼓舞して、信仰心が高まるような演説をする機会が非常に多かった。
- 当時はそれが素晴らしいことだと思ってたんだ。
- 母親だけが熱心な信者で、父親の反対を振り切って入学しました!って子、自分は行きたくなかったけど両親に強引に入学させられちゃった・・・って子とか、色々いた
- 幸福の科学に対する対する考えは人それぞれ。大人になった今でも熱心に信者やってるは、3割くらいじゃないかな・・・?って感じ。
- ただそういった会との関係を抜きにして、自分にとっては「青春を過ごした同級生」なわけで、たまに会ったり、飲んだりする人が結構いる。
- 部活や夜ご飯の時間が終わったら大講堂に集まって夜の祈り。これがちゃんとするやつで、たまにフォーマットは変わっていたのだけど、御法話聴くタイム10分+お祈り20分、みたいな感じだった
- 寝ちゃう人たくさんいて、生徒会などでは結構問題になって有志で色々話し合ったり対策を考えていた記憶・・・。
- ド田舎の寮で最寄のコンビニまでも30分かかるくらいだったので、生徒の間ではこの環境のことを「那須プリズン」と呼んでましたw
- たまに、「実は名前だけ会員になってただけで、幸福の科学の本とか全然読んでなんだよね〜w」って先生もいたな
- 自分は映画アンチで、「つまらないストーリーが全てを台無しにしている」「最後はどうせ信仰心で何もかもうまくいくだけの薄い映画」などなど、猛烈に批判していたが、「映画が面白くないのは信仰心たりないから」って感じであしらられていた記憶。
- しかも同じ人が何回も見に行ってるからな。まじで何やってんだ本当に。今でもそうだよな。作品のクオリティに真面目に向き合っていあたら、10年やってれば普通に面白い映画作れる可能性あったんじゃないのかな。
- 映画に限らず、会の流れにそぐわない意見は良くないものとする雰囲気がただよっていた。これは幸福の科学全体に言えることで、熱心な信者ほどそんな意見を持っている人が多かった。
- 自分は映画がクソすぎたのが、幸福の科学の考えに違和感を持つ原点だったのかな。今思うと。
- ただ、「総裁先生のために」と言ってとりあえず頑張っていれば結果関係なく褒められる、みたいな空気があったのもわりと嫌だったな。
大学生活は普通にやったし、バイトもしていた。その面は普通。ただそれ以外の時間で幸福の科学の活動を頑張ってた感じ。忙しい大学生だった。
- ただ卒業生の半分くらいは、大学に行った時点でゆるゆると会から離れていき、学生部にも顔を出さなくなってた
- 自分は学生部にわりと頻繁に行ってて、学生部長とかもやったし、合宿も割と行ってた。運営もちょっとした。
- 知り合いのうち何人かを、総裁先生(大川隆法)の講演会に誘って一緒に行ったりした。
- 1人くらいは会員にもなった。その人はもしかしたら、今でも熱心に活動してるかもしれない。
- その人の人生にめちゃくちゃ大きな影響を及ぼしちゃったと考えると、なんとも言えない気持ちになります・・・。
- 口には出さなかったが、偉い人の話を聞きながら冷静に「いや、そうはならんやろ。」ってツッコミを心の中で言ってたこともある
- 理想と信仰だけを語り、現実を見ない会員の姿を見れば見るほど、なんだか嫌になっていたんだ。
- だから、大学3年生くらいの時から、自分がおかしいと思うことは断固活動を拒否していた。そうなってくると学生部長をやるのが苦しかったので、割と早めにその役を降りた。
- その地区を担当していた職員さんから、「本当に後悔しないんだね?」と何度も聞かれたが、「後悔しません!」と何度も答えてやっと役を降りれた記憶。
- その人も悪気はなさそうで、単純に純粋な"信仰心"で何度も引き止めてくれていたと思う。
- 通っても本を読んだり、瞑想したりするくらいだった。社会人になってからは「研修(総裁先生の説法をもとに作られた、教えについて深く学んで悟りを追求するためのプログラムみたいなやつ)」も受けてないし、合宿にも行ってないかな。
- 一瞬、若者が集まる青年部に顔を出したりしたけど、2,3回参加して肌にあわず行かなくなった。
- なんかやはり、一般社会との考えとか違いすぎて・・・。あんまり頭良くなくても、とりあえず信仰心高い行動している人の声が大きなり、現実と向き合わないような雰囲気があったね・・・。
- でも映画はやっぱり、いつまでたってもクソなので数年前から全く見に行ってない。
- クソな映画なのに、「動員数ランキングに入るために頑張りましょう!」と言って同じ人が何回も観に行ってるのも嫌い
- 「ランキングに入るために頑張りましょう!」と言って映画評価サイトに星5つけまくる活動も嫌い
- 2023年の法シリーズは、地獄の法!Amazonでも買えるぞ!興味があったら買ってみてくれよな👊
- https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=2888
- ワクチンに対するスタンスが、ネットの陰謀論レベルになっちゃってるんだよね
- ワクチン打つとDNAが書き変わる!とか、ワクチンで病気になりやすくなる!とか・・・。
- 自分がちょっと調べた感じ、総裁先生は「信仰の力があれば大丈夫」とか、「新しく開発されたワクチンなので長い目で見た効果が心配ですね」くらいのことしか言ってなかったと思うのだが、それが会員の思考レベルになるとなぜかワクチン陰謀論になってしまっていて。
- 幸福実現党(幸福の科学が立ち上げた政党)も、なんか陰謀論っぽいこと言ってたりして。
- 幸福の科学の職員が、ワクチン陰謀論に関して本書いてる人と対談するイベントもあったりした記憶。
- 「こりゃあ、おしまいだあ🙌」と思った。もうなんか、熱心な会員さんほど普通に社会を生きるレベルの常識を麻痺させなくちゃいけないんだなーと。「大川隆法から離れたい」というより、「幸福の科学という組織から離れたい」と思ったんだ。
自分と同じような2世会員はそんな葛藤を持って生きている人が多そうなのだけど、自分はわりと、自分の人生と幸福の科学/大川隆法に関する整理が冷静にできており、うまく生きてるなーって思うのでそのことを書こうと思ったのだけれど・・・。
「今、幸福の科学に対してどう思っているのか」とか、
「大川隆法(総裁先生)が亡くなって感じていること」を書きたかったのに時間がなくなってしまった・・・。
長文乱文失礼🙏