はてなキーワード: Yahoo!ジオシティーズとは
ゲッサンでどうやら同世代が当時を振り返る漫画を連載開始したようなので、別視点で語らせて貰おうか。
めぐり合わせが良かったのかパソコン通信終焉期に同世代としては比較的早期にパソコンを手に入れ、パソコン通信をやっているお兄さんたちからプログラミングを習うようになる。
このお兄さんたちは今の40代、公開されているプログラムの改造についてフォーラムで質問したことをきっかけに、会話の中で自分が小学生であることがバレてしまい、お兄さんたちは面白がって僕にBASICとCを二次関数も知らない小学生へかなり丁寧に教えてくれた。
お兄さんたちは次第に「これからはインターネットの時代だぞ」「大学にはJUNETがあって」などと教えてくれるようになり、インターネットやUUCP、TCP/IP、WWWなどの知識を小学生に詰め込むようになり、指導される言語にPerlやHTMLが増えたものの我が家にはまだインターネット環境がなかった。
Windows 95が我が家に導入されるタイミングでインターネット環境も敷かれ、ここでCGIゲームに出会いプログラミングへのめり込んでいくこととなる。
師匠たちの教えは素晴らしく当時のCGIゲームの主要開発言語はPerlであったため何も不自由なく改造がはかどり、負荷を高めても叱られが発生しにくいCGI対応ホームページスペースを提供してくれているプロバイダを探すこともよくやった。
その初頭(02年くらいから)にAdobe Flash方面で大きな動きがあり、いわゆる「FLASH黄金時代」を迎える。
Adobe Flashの派手に動くアニメーションと音楽に衝撃を受け、そして我が家のPCのビデオメモリの貧弱さに絶望をした(お年玉全額投資した上で親に拝み倒してビデオメモリいっぱい積んでるPCへ新替した)。
2000年代以前もMML(Z-MUSICなど)でDTMを軽く触る程度やっていたもののAdobe Flashの自由自在なマルチメディア感へ完全に影響され、本格的にDTMやCGへ手を出すようになる。
当時主に使っていたDAWはSinger Song Writerで、これは当時の師匠たちの主な環境がミュージ郎であったため影響を受けた弟子である自分はDAWにおいてSinger Song Writerしか知らなかったという意味合いが大きい。結局、手に馴染んでいたMMLを完全に排除するまではいっておらず併用する形でDTMをやっていた。
当時のインターネットと音楽事情を振り返れば今だから言えることだが、BOSSのエフェクターの回路図などがネット上に出回っており、おそらく電気関係を学んでいたであろう師匠たちの手によってミニ四駆改造を主とした電子工作の手ほどきを受けていた自分は師匠たちから渡されたエフェクターの回路図によって自作し、最終出力をMTRなどでレコーディングするという手法を取っていた。
当時のソフトエフェクターは音楽ド素人の自分でもわかるくらいに品質が悪く、何なら最終段をPCM音源出力するわけでなくFM音源でのみ仕上げるときは疑似ディレイや疑似デチューンなどの手法によってエフェクター表現するしかなく、ソフトエフェクターはハードエフェクターを超えられないことが常であった。
Adobe Flashでは主にMotionSWFとSodipodiを利用して作成しており、Sodipodiは後にInkscapeとして派生していくことになり今でも使用しているが、MotionSWFはSWiSH2が登場すると直ぐに乗り換えた。MotionSWFは連番画像を事前に生成する必要がありActionScriptの扱いにも難があったためだ。
Adobeが公式でLiveMotionというFlashアニメーションというのをリリースしていたものの学割が効くとは言え高価で、師匠世代の方々は学割が使えないのでSWiSHを使っていたこともあり影響された。
このあたりにTVアニメなどで使われる背景動画はモーショングラフィックスという技術の括りに入るものと知る。まぁつまりモーショングラフィックスとは静止画をアニメーションさせる技術の総称なのだ。
この時点で自分は中学生、自分の肌感覚だがこの時点でがまだ「オタク」へ対する風当たりは強く、中学校でもイジメと殆ど変わらないであろう扱いは散見されており、自分の姉たちからもオタクっぽい趣味は良くないよみたいなことをよく言われたものだった。
まぁ姉たちも思春期だし、部屋にこもってパソコンへ向かってフヒヒとか言ってたり、電子工作で謎の機械作ってたり、Marshallのジャンクなアンプをどこからか拾って来て修理してる弟は気持ち悪かったんだろう。
ただ運良くも両親が身体デカく産んでくれたおかげで、自分自身はイジメられた経験がほぼ無く、というか面白いものを生み出すオタク友達をイジメる不良が大嫌いだったので思春期だったこともありやり合っていたというのが実情だった。
なにせ一次産業家庭の生まれだったので早朝は実家の手伝い、親父の男子たるものスポーツくらい出来なければという保守的な思想によって野球部へ所属し、帰宅後も実家の手伝いをしていたため身体が鍛え上げられる環境だったのだ。ツルんで威張り散らかし調子に乗ってタバコや酒をやるようなナヨナヨした不良に喧嘩で負ける道理は無い。
親父や教師たちは自分を正義感溢れる少年だと思って度々喧嘩をしても大目に見てもらっていたが、実際のところはオタク友達が「イジり」に遭ったことに腹を立てて「俺たちに構うんじゃねぇ!」と思春期の自分が怒っていただけだ。
ただこの不良たちとも仲直りをした。時代はビジュアル系バンドとインディーズバンドが流行り、そして青春パンクが注目され始めるとき。そんなときにエフェクターやアンプを自作修理し軽音楽部の部室へ持ち込んでいたので軽音楽部にたむろする不良たちが「えっ増田ってアンプ作れんの!?」となるのは別におかしな話じゃない。
不良たちもそのような状況でオタクグループをイジるのがバカバカしくなったのか次第に何かやるとき絡むようになり自分の通う中学校からはイジメが無くなった。
イジメという娯楽はモノ作りという娯楽に勝てない。
イジメを根絶する力をボクは師匠たちから学んだ。今の世を見れば不良の一部はオタク側へ吸収されてしまっているし、そのような流れを作ったのは自分の世代へ憧れを抱かせた40代になった今のアナタたち師匠だ。
Flashの影響が落ち着いてきたあたりでインターネットには新しいコンテンツ配信システムが注目される。インターネットラジオだ。
これは爆発的に普及し、当初個人サイトだった「らじちゃんねる」は「ねとらじ」となりつつも個人運営では負荷処理が追いつかずlivedoorへ譲渡されlivedoorねとらじになる。
奇しくもほぼ同時期に2ちゃんねるでは若年層が新しく設置されたニュー速VIP板へ集うようになりVIPPERもインターネットラジオ配信をほそぼそと始めるようになった。
この頃のニュー速VIP板は明らかに自分と同年代が集っており、Flash黄金期の影響を如実に受けておりクリエイティビティの発露が著しく様々なネタスレが生み出され安価スレはその代表格で、更には涼宮ハルヒの憂鬱を発端とする深夜アニメブームからクリエイティビティは極限まで達しSSスレやゲーム製作スレなどが大いに賑わうようになった。
そして負の側面も表に出るようになり女神スレや女VIPPERによるインターネットラジオ配信が定番化すると、ニュー速VIP板内でのパートスレによるスレdat落ちが問題視されるようになり、女VIPPERはヘイトを集めるようになった。
それ以前から2ちゃんねるでは主に801板住民による板違いスレ違いや同性愛サロン板での荒らしが問題視されており、女VIPPERによるインターネットラジオ配信によってBLファンであることが多いことが明らかとなっていたため、ニュー速VIP板内でも女VIPPER、特に腐女子に対して風当たりが著しく悪くなった。
そこでパートスレを嫌うVIPPERは腐女子へのカウンターとしてふたば☆ちゃんねるから2ちゃんねるへ輸入されたくそみそテクニックから作られたAAを使って女VIPPERによるインターネットラジオ配信スレを埋めるという連投荒らしをするようになる。
この動きは当の801板住民へも影響を与えたのか、801板では同人サイトの作成を奨励されるようになり、それ以前から評価の高かったYahoo!ジオシティーズや携帯勝手サイトの魔法のiらんどが同人界隈で注目され同人サイトの開設が爆発的に増えた。
しかしながらこの動きにも負の側面があり、同人サイト運営を行っている主に学生内で無断転載やホームページ素材サイトからの直リンク問題が発生。Web系の技術者やホームページ素材サイト運営者からのヘイトを加熱させるという現象が起きてしまった。
特に怒り狂っていたのはいわゆるツクール系のゲーム製作者・ゲーム素材サイト運営者であり、当時のゲーム素材はまだGIFなどのドット絵素材が多かったため当時の携帯電話と相性がよく、同人サイトを運営する学生が無断転載や直リンクするという行為に走ったのだった。
当時のHTML/CSSにも問題があった。携帯電話各社でHTML/CSSの仕様が違い、自身の同人サイトを彩りたい学生からすると携帯電話によって表示にバラつきが起きることは悩ましいことであり、画像素材はそのバラつきを最小限に留めることが可能である。
さらに言えば魔法のiらんどなどで利用者が使えるストレージサイズが小さいという問題もあり、装飾にストレージ容量を消費すると自分のイラストやSSを投稿できる量が減るといった悩みがあって直リンクへ手を染めていた。
もっと言えば当時の学生はあまりにも送信量が多いとプロバイダやレンタルサーバ、レンタルホームページ事業者からホームページ運営者が怒られたり、送信従量課金制契約の場合は実際にホームページ運営者が実費を負担していたという事実を知らなかったのも無断転載や直リンクへの拍車をかけていたと思われる。
現在は社会人となっっているであろう同人サイト運営していた学生だった者はおそらく今まさに素材サイトの管理人へ金銭負担させていた事実を知って驚いていると思うが、何故あんなにも注意され、素材差し替えなどで当時は嫌がらせと思うようなことをされたのか?を理解していることだろう。管理人は怒って当然なのだ。
そのような状況を傍目から見ていた自分は2ちゃんねる内の様々な製作系板やスレなどへ常駐し、HTML/CSSスレなどで素材提供などをし、更にはCGIゲーム罪と罰++ 二律背反のホスティングをしていたが、当時のDTM雑誌であるDTM magazineで1つの告知記事を見る。それが「プロ歌手デビューのオーディション(VOCALOID中の人採用特典付き)」だ。
そうつまりこれKAITOとMEIKOがデビューしたオーディションであり、当時の2ちゃんねるDTM板でVOCALOID評価はそこまで高くなく、たいていは「ボコーダ/ボーカルシンセの代わりにはなるのではないか?」程度の評価だったのだ。
様々な音楽制作系雑誌でもVOCALOIDの扱いは非常に小さく、例えば当時のPC系雑誌で定番の特集だったフリーソフト100選みたいなノリでVSTプラグイン100選の中にVOCALOIDがボコーダ枠で入ってるくらいの極々小さな扱いであった。むしろ登場時に言及していた名無しが評価の仕方は別としてVOCALOIDに触れているだけでもスゴイまである。
地元の高校を卒業した男性従業員が20人ほどと、事務の中年女性が1人居た。
実家に隣接した工場の車庫には祖父が乗る国産の高級車が4台と、父のランクルが並んでいた。
祖父から工場を継いだ父は高校を卒業した一人っ子の俺に会社を継がせようとした。
就活や受験に焦る中、工場の跡継ぎを任された俺は余裕をかまして残りの高校生活を消化していた。
中学校は友人に誘われ野球部に入ったが、運動神経の悪い俺は試合で活躍した経験はほぼなく、
祖父と父に似ず文科系に育った私は工場の体育会系の風土に馴染めず、
工業高校の機械科を卒業し、ExcelなんてSUMくらいしか知らなかった俺でさえ
20人程度の会社の事務職は慣れてしまえばあまりにも簡単な作業で、
パソコンに疎いおじさんばかりで俺が何をしているのか分かっていなかった様子だった。
工場の隅に置かれた、機械油の臭いが漂う事務室でネットサーフィンをするうち
Yahoo!ジオシティーズを使い、漫画の登場人物のプロフィールをまとめ、
興味本位でHTMLとCSSに再度手を出し、WordPressの使い方を覚えた。
サーバーに上げたページを事務所のパソコンでも自分のスマホでも自宅のパソコンでも開いて
何度も上下にスクロールした。架空の地図も拡大して見たりした。
夕食の場で父に話があると切り出し、
「やりたいことを見つけた、俺に工場を継がせることを諦めてほしい」と伝えた。
最初は驚き、複雑な表情をしていたが、
「工場のことはもう気にするな、ただしやりたいことを全力でやれ」と言われた。
しかし田園風景の広がる田舎町、WEB制作の仕事なんて転がっていなかった。
転職サイトで見つけた求人に応募し、何度か片道5時間ほどのバスに揺られ、
たった5人の小さな制作会社だった。給料は19万円スタート。嬉しかった。
「まだ若いし、気合があれば入ってからいくらでも覚えられるから頑張ろう。」と励まされた。
俺は貯金をほぼ全て使い果たし東武沿線で6万5千円の狭い1Kを借りた。
5歳年上のS先輩と、一回りほど上のT先輩と社長が3人でWEB制作をしていたが
T先輩は俺に付き合って毎日遅くまで、日によっては朝まで指導してくれた。
それなのに毎朝俺よりも早く出勤していた。
どれだけ頑張って早起きしてもT先輩の方が早かった。
眠そうな表情は全く見せなかった。東京には化け物が住んでいると思った。
残り二人の先輩は社長の昔の同僚らしいが何をしているか分からなかった。
眠気と分からないコードと戦い、もがきながらしがみつくうちどうにかS先輩と同じくらいのクオリティの作業はこなせるようになった。
jQueryもPHPもフォトショの使い方も覚えた。イラレを使って簡単なチラシも作ったりもした。
お客さんとの打ち合わせもメールもそれなりにできる。
27歳になっていた。給料は25万円に増えた。後輩は2人できて、S先輩は会社を辞めた。
あるアニメイベントがきっかけで2歳年上の同じ趣味の彼女が出来た。偶然にも同郷だった。
ある日退勤中になんとなくメールを開いた。
目ぼしい求人は無かった。
なんとなく、ドロップダウンリストから勤務地の地元の県を選択し、年収欄に400万円と打ち込み、求人を検索する。
「株式会社〇〇 〇〇営業所 システムエンジニア 年収400万円~」
今年31歳になる。
彼女は嫁になった。
地元の駅徒歩18分の場所に駐車場込み9万円で3DKを借りて、駐車場にアクアとN-ONEを並べて一緒に暮らしている。
月に1、2回は父の顔を見に実家に帰っている。
この町の郊外に工場があり、そこから5キロほど離れた営業所でSEをしている。
SEは俺1人で、本社と連携を取りながら工場のシステム周りを担当している。
今扱っている言語は転職前はほぼ扱ったことのないものだったが、
研修制度のおかげもあり、JSやPHPを覚えたあとなら、さほど抵抗なく覚えることができた。
工場のシステム管理とは言え、大枠の部分は東京本社のSEがやってくれている。
俺のやっていることを分かる人間は誰も居ない。
俺のことはみんな「東京から帰ってきて、真っ黒な画面に何かを打ち込んでいるすごいやつ」だと思っている。
こうして業務中にはてなに文章を打ち込みながら転職サイトを眺めている。
それなりに幸せではあるが、今でもTwitterで繋がっているS先輩の仕事を楽しんでいるツイートを見ると複雑な気持ちになる。
俺はこういう働き方しかできないのかと思う。
1万程度ではまだまだです
お前もナンバーワンだ!
途中に「しの(77.0kg)」さんの名前を見つけて悲しくなった…
このコメ見るまで有名な人だと知らんかった
ブクマカとしてそりゃ当然
そのうちIDも消すよ、せっかくなので振り返り的に見返してなんとなく消したくなったからブクマ消した。
なぜどこぞのニュースサイトのようにページを分割しまくるのか。
助けてワンページマン!
こんなに細かく分ける必要はないのでは
もともと2万字ぐらいのひとまとめで作ってたけど何故か50行ぐらいを超えると増田に投稿しても反映されなかったので泣きながら分割投稿した。増田のバグなのか仕様なのか知らんけど誰か調べて
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Q.いつ辞めるの?
A.来月ぐらいにはアカウント消す予定。既にはてなのサービスのデータ全部消しているので問題なし。
Q.移行するなら下書きしてた方が良くない?
A.インターネットの塵と化すので移行する準備は問題なし。一応txtに下書きはしてた。欲しいなら上げることは可能。
A.めんどくさいので代わりにやってほしい
Q.やめるなら記法について書いといてほしい。枠とか線とか見やすいから参考にしたい
A.枠内はこんな感じ(大なり小なりが勝手にlt;gt;になってるけど記号ね)
>> ブコメ - id: <a href="https://www.hatena.ne.jp/">ブコメページ</a> - <a>ページタイトル</a> <<
Q.インフォシーク はまだあるぞ
A.infoseek iswebのことをインフォシークと書いてたわ
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Q.なんでやめるの?
A.別増田にid名指しでアホやろって言われてなんかもうどうでもいいやって思ったから。匿名で卑怯だぞという気持ちがないではないが、どうでもいいや感のほうが大きかったため。
2009年からブクマ始めて気が付けば約10000ブクマしてた。もともとはてなに来たのはうごメモはてなからで、ブクマ始めた当時(12年前)は中2。ブクマの機能すらよくわからず使ってた。
初期はちきりんのサイトとかライフハックの記事をよくブクマしてた、若い。
hagexさんとかcyberglassさんのブログとかもブクマしてて懐かしさを感じた。
全体的に感じたのは、インターネットのコンテンツ(記事)は永遠ではないということ。本当に必要なものがあるのならオフラインに保存必須。それとブクマページがコンテンツの墓標のようになっていたこと。webコンテンツの存在を残すために、ブクマカはこれからも色んなページをブクマしてほしいと思う。
どうでもいいけどブクマ全部見返して削除するのめちゃくちゃ時間がかかった。とても大変だった…
ブクマカはこれが見たいんでしょ、わかるよ。
確認したらブコメが消えていたものはid省略して記載。なんで消えてるブコメを把握してるかって?ブコメページをブクマしてたからだよ。
ページを「ブクマ」しようとするって事は、逆にブコメページを「ブクマ」されるかもしれないという危険を常に『覚悟して来ている人』ってわけですよね…
ランクイン(?)したブクマカはおめでとう。ランクインしてないブコメも別に悲しむ必要はないと思う。
そいつらって「ただ学校が一緒だった」だけで、友達じゃないよ。友達って、年齢関係なく、横並びだから。 - id:privates
これが教員側または親の側からの心構えとしては、失敗する権利を奪うなとなる。老婆心やお節介で能動的に手伝いたくなるがそれは自己満足。教育とは自ら学ぶ人間に育てること。そしてそこから学ぶことなのである - id:Miroc
ブコメページ - 大学の恩師に教わった、「なにがわからないか、わからない」ときの質問のしかた。 | Books&Apps
え、勉強や努力って誰かの結果と比較する為にやる事じゃなくて、自分の伸び代を最大限に伸ばす為にやるものでしょ?勝つとか負けるとか言ってる時点で自分人生の主導権を他人に委ねてる。精神が負けてるよ。 - id:kanagawakama
人格に問題あり。 そもそも食糧のありがたみを感じるのは満腹の人ではなく空腹の人だろう。 金のありがたみがわかるのは金欠の人だろう。 国のありがたみがわかるのは、国を失った人だろう。 - id:osakana110
SNSは人を折れるまで先鋭化させる。大勢からの肯定と大勢からの否定に曝され続けて前者に寄って行かないことは難しいんだろうな。自主的洗脳装置 - id:mame_3
ブコメページ - キクマコ先生「河野大臣が質問を4連続で無視したことを非難した立憲民主党は外交能力がない」 - Togetter
ここ数年考え続けている「SNSは人を壊す」という問題の端的な例だったのかも。情報を発信して承認される繰り返しの中で、書き手はだんだん視野が狭まり、平衡感覚を失い、狂っていく。 - id:muchonov
今のツイッターからは離れた方がいい。自分が本来関わってはいけない話題に軽率に関わり始めて、結果的に精神を磨耗することになる。弱くてちっぽけな人間が世界中の不幸にわざわざ付き合うことはない。 - ブコメ削除
SNSの暗黒面に落ちるな。反応を求めると誰が見込み客で何のために投稿しているかを忘れてしまう。いいね欲しさに道を誤り、反応してくれたのはエロい男のみだったと。見込み客に向けた投稿をしないと。 - ブコメ削除
インターネットでは、自分が他人にとって「何の反応も示す価値のない、特別ではない他人」であることを知るのはかなり初期段階だと思う。「自分が特別でないことを知る」のは全く特別なことではない。 - id:kuzudokuzu
ジオシティーズが消えるらしいのでやべえと思ってブコメしてたやつ全部アーカイブ取ろうと思ったが、全部普通にアーカイブ取られていたわw
せっかくなのでブコメしてたやつ晒してノスタルジーに浸ろうと思う
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Kaede/9677/read.htm
http://www.geocities.jp/m_hiroi/light/pyalgo01.html
http://www.geocities.jp/restingspace2/GateToScientist/Presentation/Presentation01.html
http://www.geocities.jp/sugachan1973/doc/funto104.html
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley/5656/
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-PaloAlto/2038/fat.html
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-SanJose/8165/winmerge.html
流石にどこかに移行するだろうけど
当時はYahoo!ジオシティーズが全盛で、自分もやってみたかったのがきっかけだった。
幸いにして父のPCには Photoshop 5.5 があり、マウスで描いた絵を投稿したり、日記を書いたりした。あとは当時流行っていた RPGツクール 2003 で簡単なゲームを作ったりしていた。絵は下手だったしゲームは何度もエターナったが、それでも本当に楽しかった。やるたびに世界が広がっていくような実感があった。
当時の自分はあまり版権モノに頓着しておらず、二次創作文化にはあまり触れることがなかった。
ただ、描く習慣はつけたかったので、日記では鉛筆の落書きをアップし、カラーの絵は毎月必ず更新されるトップ絵という形で描くようにしていた。今考えると大したペースではないが、年に必ず12枚は本気のカラー絵を投稿する習慣があったのは良かったと思っている。
しかし3年が経って高校生になり、いよいよ絵に注力したいと思った僕は、漫画研究部に入った。思ったよりもちゃんと描いてるサークルで、僕は安心した。ここなら楽しく創作できそうだ、と思った。
しかし漫研に入った最初の夏に、僕は3年続いたイラストサイトをいきなり閉鎖した。
高1の期末試験が終わり、明日から夏休みが始まろうという日だった。
部誌に描くマンガのネタに悩みながら、自分は帰り道ゲオで漫画を買い、長い道草を食った後に最寄り駅についた。
最寄り駅と言ってもそれなりに家までは歩くので、母親との都合があう日は車で迎えに来てもらって買い物しながら帰るということが多かった。その日もそんなつもりで家に電話をした。
母が電話に出た。電話口の母親は、力のない声で「今日は歩いて帰ってきて」…と言ってきた。具合でも悪いのか、聞いてもよく分からなかった。僕はそのまま歩いて帰った。
家のドアを開けると、同じく早く帰ってきてたらしい妹の泣く声が聞こえた。また母親と喧嘩でもしたのかと思ってリビングに上がると、母親がなぜか正座をして迎えてきた。なんだなんだと思っていたときだった。
援助交際だった。いわく相手が未成年であることは知らずに行為に及んだようだが、相手方の少女が家族にバレたらしく、その相手だった父が捕まった。僕の高1の夏休みはこうして始まったのだった。
いきなりのことで不安なことはいろいろあったが、まず気になっていたのは、こういう事件がどのくらいニュースとして広まるものなのか分からない、というものだった。
もし地方局レベルでもTVで流れてしまった場合、あっという間にいろんな人にバレるだろう。大げさな話、名前を変えて隠れて生きなければいけないんじゃないか?とか当時は本当に心配してた。今思うと無知だったとも思う。
結局、幸いにして(?)、事件そのものは地方紙の三面に小さく載った程度だった。父の名前は出ていたが、何気なく新聞を見ていて気づく確率はそんなに大きくないだろうと安心した(母はそれでもダメージを受けているようだった)。
父も一ヶ月拘置所に入る程度で済み、一旦家族はもとに戻った。8月の後半だった。7月のトップ絵は更新できなかった。
イラストサイトの方では、自分の個人情報はそれほど晒していなかった。住んでる地域ぐらいなら日記を見てれば分かるだろうが、管理人の本名と紐付けること、ましてやそれが地方紙の三面に報道された事件の容疑者の息子だと知ることなど、到底できそうには思えなかった(もし当時Twitterがあったらどうなっていたか分からない)。
にもかかわらず、報道に怯えている間、インターネットで自分を晒しているということが次第に怖くなっていった。隠れて生きなければならないかもしれないのに、どうして自分のサイトを運営などできようか?
そうして僕は、父が逮捕された日にサイトを閉じた。一ヶ月後、新聞の小さな記事を見て後悔した。この程度なら続けていても良かったじゃないかって。
しかしこれは家族にぶつけてもしょうがない怒りだった。父が捕まったことは家族以外には内緒だったので、結局誰にもこれを相談することはできなかった。
サイトを閉じた後に一人Skypeで心配して声を掛けてくる人がいたのは嬉しかった。サイトのバックアップを取らずにジオシティーズのアカウントを消したのでそのまま復活させることはできなかった。しょうがなくブログという形で活動を再開していたが、その時にはもう色んな気力が萎えていた。
貧困の本質とはモノやお金がないことではなく、先行きが見えないことだと言われることがある。僕の実家は別に貧乏でもなかったが、それでも先行きがずーっと見えなかった。
三年間続けてきたコミュニティとの縁を何も言わずに切ってしまった。下手でも続けていた絵を投稿する習慣が途切れた。漫研にいたので絵そのものは続けていたが、よほど張り合いがなかった。インターネットで活動する場所がなくなり、やることがあまりなくなっていった。
pixiv に登録したり、mixi でかつてのサイト仲間とマイミクになったり、なんとかやり直そうとしていたが、そもそもあの時サイトを消すことなんて無かったんじゃないか、という気持ちがずーっと消えなかった。そんなこんなの間に受験が来て進学した。
大学入学前後の時期、僕は人生で一番絵を描いていた。とにかく遅れを取り戻したかった。が、二ヶ月もするとすべてが辛くなってしまった。入学後に始めたTwitterアカウントはどんどん病んでいき、またインターネットをやめた。
もうおしまいだと思った。
創作自体はしているが、もう誰も知らない、ずっと細々としたものになっていた。
あの時サイトをやめていなければ、自分はそのまま楽しく創作を続けていたのだろうか。
きっと順調に進んでいたとしても何らかの挫折はあっただろう。
創作にはそもそも挫折はつきものだし、反応がなくてやめてしまうケースなど珍しくはないと思う。
しかし、それはまだ「正しい挫折」じゃないか、とつい思ってしまうのだ。
幸福な人生とは、つらいことがない人生ではなく、つらい出来事があってもそれにちゃんと意味のある人生のことだ。それが努力の結果の挫折なら、それはちゃんと存在意義のあるつらさだ。自分が一番不幸だとは考えないが、自分の不幸が一番無意味だと考えてしまうのはいかんともしがたい。
自分の当時の苦しみにはまったく何の意味もなかった。そもそも創作とは何の関係もない出来事をきっかけに、まったくの非合理な思い違いから、ただ間違ったつらさだけが残った。どうせ理想がかなわない人生になるとしても、せめて後者の意味では幸福でいたかった。つらいことがあるにしても、存在意義のある苦痛だけを背負って生きたかった。