はてなキーワード: 言葉の力とは
相手は今年初めて行った二十代のデリヘル嬢だった。こんなパッとしないKKOには彼女ができるとは思わなかったし、セックスがこんなに幸せだとは思わなかった。
私はいままで告白もされたことないし、したこともない典型的なKKOだった。
私は大学卒業後に子供部屋おじさんライフを謳歌しながら、とりあえず就職して働いて転職して食って寝て一人で酒飲みながらゲームやYouTube見てときどき増田見ながら生きてるって生活をしてた。
私と風俗嬢さんはシティヘブンネットで出会った。親しくなったキッカケは私がメッセージを送ったことだった。
一度も店に行かないまま「どこが感じるの?」「潮吹いたことある?」「アナル舐めはできるの?」などの質問を約1年に渡ってし続けたところで、そろそろ店に電話して私を指名したらと誘われた。
セックスのときの肌と肌が触れ合う感覚はまだ忘れていない。女の人の裸を生で見るのは初めてだったし、「あぁ、なんかAVで見るよりおっぱいすごい」って感想だった。
他人の肌の温度を感じるのも初めてですごいオドオドしてたと思う。彼女は「緊張しなくていいよ」って優しく言ってくれたけど、「あ、はい…」ってとりあえず返事しただけで、
この言葉を思い出したのもホテルから帰ってきてからお風呂に入ってたときだったし。
「あぁ、そっか、私ってそんなに緊張でカチカチだったんだ」って一人反省会してた。彼女は入店して3年くらいって言ってたから経験はそれなりにあるのだろう。
でも私は相手の経験はそんなに気にしないので別にどうも思ってなかった。
彼女から「ホテルに入ったらまずは2分間だけでいいからハミガキをしよう」と約束させられた。最初は「この人何考えてるんだろう」って思ったけど、今思えば私の口が本当に臭かったんだと理解した。
プレイが終わったときには「次はいつきてくれるの」とか「この後予約入ってないから延長も出来るよ」と言ってくれる。私はその一つ一つに「ありがとう」と言って、「今日のコスプレかわいいね」とか「香水のいい匂いするね」とか言う。
私は初めこそ褒められることも褒めることも慣れてなくて「今日は会ってくれてありがとう」とか意味不明なこと言ってたけど、彼女は「こちらこそありがとう」って優しく笑って言ってくれた。
こうすることで私のマイナス思考は少しずつ治っていった。足が臭いところだったり、デブだったり、髪が薄いところだったり、酷い歯並びだったり、声が低いところだったり。
でも、彼女はそんな私のコンプレックスを少しずつ褒めていってくれた。そして自分が思ってるより他人はそんなに思ってないことを教えてくれた。
セックスのときも同じだった。お互い裸で正座で向き合って、「なんか改まって言うのは恥ずかしいね」なんて笑って言いながら「指名料込みで90分22000円です」とか言われたり。
お互いに褒め合うことで相手を敬う精神やお礼を言う習慣を育んでいってたんだと思う。褒める言葉とお礼の言葉の力は大きいと思う。他人に認められるってこういうことだったんだと思った。
セックスのときに「好きだよ」と何度も言ってくれたし、キスもいっぱいしてくれた。すごい幸せだった。ほんとセックスってすごいと思う。なんだろう精神的に満たされる感じ。
理解力がないフリをして軽薄な煽り言葉でマウントを取り続ける人を増田ではしばしば見かける。
それは相手を諦めさせて言い負かしたように見せるには最善手かもしれない。
だがそのような表面上の格闘パフォーマンスより、「相手の心にどれだけ楔を打ち込めたか」のような見えないパラメータこそ重要だと俺は思っている。
その時に打ち込まれた楔が、ふとしたきっかけで気づきに繋がることもあるだろう。
人は言葉だけで直ちに物事を理解することはできない。だから人生経験が重要で、あとになってから「あの言葉には魂がこもっていた」と理解することが多々ある。
そういう場面で役立つのが、強く真っ直ぐな言葉の力で打ち込まれた楔だ。
楔は一見モノを2つに分かつもののように見えて、その実、打ち込まれたモノを強固に保持し繋ぎ止める役割も果たす。
いつ、どのような役立ち方をするか、あるいはしないのかは、器次第だ。俺はそれを読み手に委ねる。
だから、今理解力がないような露悪的振る舞いをしていても、本当はそうではない、最終的には理性的な判断ができる人が大多数であると俺は信じている。
そしてインターネットを見続ける限り、最終の段に至っていない人ばかりが目につくことになる事実も承知している。
だから得てしてインターネット上に溢れる言葉というのは、無知蒙昧に見える。それは仕方がない。
けれども何かを勘違いして、そこに安住し続ける者が出ないように、俺は楔を打ち込み続ける。
うざすぎるので一回見た。みんなは負けないでくれ。
盲目のホームレスが道端で「私は盲目です、お金を恵んでください」って書いて物乞いをしていたらだれもお金を恵んでくれなかったが
あるときに通りがかった女性が「It's a beatutiful day and I can't see it」と書いたらみんなが小銭を恵んでくれるようになった。
以上。
元ネタの動画は2300万再生されている話でこれも実はではなく創作CM。
言葉の力を教えてくれるショートフィルム「The Power of Words」を分析する | 戦略的プレゼンテーション講座
言葉の力ってすごいだろ? 言葉の力を教えるPDFを配ってるから読んでくれっていう情報商材のCMである。
CMをやってるのは元ネットワークビジネスをやっていて、
海外のダンケネディやヤニク・シルバーといった情報商材屋の情報商材を輸入・翻訳して販売代理店として情報商材ビジネスをやっていた小川という人人物。
現在ではダイレクト出版という情報商材専門の出版社をやっている。
一時期はてなでも互助会でアクセスを集めてダイレクト出版の情報商材をアフィしようとする人間がわんさかわいた時期があった。
今はこうやって堂々と出てくるんだな。
この小川という人物に限らず、あなたは百万人に一人の動画に当選しました。みたいな古典的詐欺動画が普通に流れたりするときもある。
kawangoのことは好きではないが、少なくともkawango時代はこういうことはなかった。
自分はかつて作家になることを志して夢破れた(そこそこ夢が叶いそうなところまでは行った)自分が、一昨日あたりに出版業界の増田たちが書いた文章を読んで思ったことを書く。
以下長々と書いたが、一言でまとめると、「あー、やめといてよかった」
https://anond.hatelabo.jp/20200716012131
まずライターをやってる増田の文章。これを読んで思ったのは、作家というのは自分が思っていた何百倍もくだらない仕事だったのだなということ。
作家を目指していた頃、自分でも「甘いよなあ」とは思いながら夢見ていたのは、筆一本で身を立てる職人的生活だ。しかし、今時はオンラインサロンやYouTubeをやらざるを得ないくらいに、儲からない仕事になっているらしい。
もちろん、当時から出版不況だとは言われていたし、作家になれば世情に媚びた文章を書いたり、執筆以外の仕事もやらざるを得ないことは分かっていた。しかし、オンライサロンだのYouTubeだの、ここまでくると、もはや作家というより「売文ネット芸人」だろう。
これからますます、作家は顔も私生活も晒して、芸人じみた生き方をしていかざるを得なくなるのだろう(専業でやる場合だが)。そこまでして数百数千の読者を抱えても、生活は並の会社員にも及ばない。ようやく文章を世に出せたと思ったら、Twitterだのブコメだので頭の足らない連中にゴミみたいな感想を書き散らされる。想像するだに身の毛がよだつ。
作家たるもの、自分の書いたもので少しでも世を変えたい、そしてあわよくば、歴史にわずかでも爪痕を残したい、という夢想をするものだと思う。程度は人それぞれだろうが、少しは作品を後世に残したいという思いは持つだろう。だが、今では作家の書く文章など、無数の娯楽の中の一つに過ぎず、ただただ消費されるだけのものだ。それも、一部の物好きが消費するだけで、ろくに金も産まない。断言するが、かつての大作家たちのように何十年何百年と読まれるものなど、現代の作家から生まれることはない。残ってせいぜい五年か十年か。
無数の駄文がネット上に書き捨てられ、毎日のように駄本が出版される現代。作家の書いたものが世を変えたり、歴史に残ったりすることはあり得ない。現代に書かれたもので、後世振り返られるものと言えば、おそらくドナルド・トランプのツイートくらいだろう。「作家の書くものには言葉の力がある」などと言われる。だとするなら、「言葉の力」で世界を一喜一憂させ、株価を動かし、世界情勢すら変えかねない、トランプこそ現代最高の作家だろう。業としての作家には、何の影響力もない。歴史にも残らない。何ならアルファツイッタラーの方が遥かに影響力がある。これが現実だ。
つまり、自分が夢見ていた作家像は、徳川埋蔵金と同じくらいの馬鹿げたものだったのだ。仮にこんな馬鹿げた夢を持ったまま業界に入っていたらと思うと背筋が寒くなる。絶望して生きていけなかっただろうな。
https://anond.hatelabo.jp/20200716203604
さて、次にこの編集者氏の文章だが、「いい本を多くの人に読んでもらう、それが編集者の仕事だ」という矜持が僅かでもあれば、意地でも言わないようなことを言っている時点で終わっている。
もしも、作家になれていたとして、こんな人に偉そうなことを言われるのだと思ったら…こんな業界に身を置かなかった自分を賢明だと思う。
https://anond.hatelabo.jp/20200717110714
もしも自分が作家になって、それなりに自由にものを言える立場だったになれていたとしたら(無理に決まっているが)、こういう低い立場に置かれた人たちのことなど知りもせず、「搾取はいかん!」的なことを書いていただろう。自分も搾取構造の一部になっていることなど気づきもせず。
自分を顧みもせず、綺麗事を言う作家どもが如何に醜悪かは、皆さんよく知っていることと思う。Twitterを見れば、「よくもまあ、そんな偉そうなこと言えるよなあ」という腐れ作家どもが山ほど見れる。そんな人間にならなくてよかったと、心から思う。
いやあ、本当に、作家になることなど諦めてよかった。作家目指してあれこれ努力していた頃、「馬鹿言ってないで就職しろ」と言ってくれた両親に感謝したい。下手にチャンスが近づいていたため、当時は親を恨みもしたが、今では感謝の念しかない。
現在は、小さな会社のしがない社員だが、それなりに楽しくやっている。幸いコロナの影響も少なく、将来の不安は小さい。ステイホーム中は嫁と楽しく過ごすことができた。作家業なんてしていたら、この安心感は得られなかったろう。金もなければ、結婚もできていなかっただろうな。
「こんな文章書いて未練たらたらだな」と思われるかもしれない。確かに、未練が全くないとは言わない。一度は目指した夢だったのだから。だが、「やめといてよかった」もまた本音なのだ。
夢を追って叶えていたら、もちろん得るものも大きかっただろうが、失うものはそれよりも大きかっただろう。そこそこ安定した生活、家族のいる安心感、これらがないまま今の年齢になっていたら…。死んでただろうな、間違いなく。
腐すような書き方をしたが、作家諸氏には本当に頑張ってほしい。大変な時代と思うが、工夫して乗り切っていただきたい。乗り越えた先には、明るい時代が待っているだろう。知らんけど。
連休明け、職場のPCを開くと200件を超えるメールが届いている。その殆どの文中に、「お疲れ様です。」「大変恐縮ですが、」と、決まりきった文言が決まりきった個所に現れる。確かにうんざりする気持ちも理解できる。こんなものを是としている文化があるなら残念な話だが、おそらくこれは根付いた文化よりも言葉を扱う人間の問題であろう。
人間は言葉を操り、言葉は人間に操られる。そんな一方的な関係で人間と言葉は成り立っているわけではないはずだ。例えば人は、誰に頼まれたわけでもないのに自身の目標を書き起こして張り出したりする。書き起こす最中には目標へ至るまでの苦しい道のりや達成した自分をイメージしながら決意を新たにし、文字として形を持った言葉は以降も自身をことあるごとに奮わせるだろう。また、言葉を用いて他者の態度や思考、延いては行動を変化させることは、自身の言葉が相手を操っているとことと同義だ。他者を操りたいと考えるなら当然言葉が持つ意味と、そこに内在する想いが肝要になってくる。この世で初めてメールの文頭に「お疲れ様です。」と挨拶を加えた上司は強い好感を抱かれたのではないか。業務の指示がわんさと飛び交うなか、部下の心身を慮る上司の言葉には想いと力が宿っていたはずだ。「想い」というのは殊更にアピールしないと伝わりづらい。こうした文字だけの文章ではなおさらのことである。「お疲れ様です。」が当たり前の現代であるなら、「コロナの対応、連日お疲れ様です。」これだけでも良い。変化を加えて殊更さを出すことで、もしかすると相手は自分が頼んだ業務を優先的に、あるいは精密に取り組んでくれるかもしれない。何も難しいことはでなく、人間と言葉というのは互いに作用するのだ。言葉が変われば人間が変わり、人間が変われば言葉が変わる。こうした簡単な関係性もわからない人たちが、挨拶やクッション言葉をなくそうなどと的外れなムーブを起こすのだろう。
少々前置きが長くなった。
なぜなら女性にペニスを舐めてもらうと気持ちいいからだ。しかし女性にペニスを舐めてもらうには大き過ぎるハードルがある。そう、「密」である。ペニスを舐めるには「密」にならないといけないのは誰でもわかる。新型コロナウィルスの感染が拡大する今日の日本において、当然看過できる話ではない。こうなるともう私は言葉に頼るしかない。「ペニスを舐めてもらえませんか?」無論不可である。コロナの脅威は皆が知るところであり、それを打破するほどの力はこの文言にはない。今回私がお願いした人はとびきりの美人というわけではないが、愛嬌があり可愛らしい女性だ。仮に名前は松本さんとしておこう。年齢は1つ下だが、当然私は大学をストレートに卒業していないので、彼女のほうが職歴は1年長い。普段から仕事ではお世話になっている間柄だ。挨拶やクッション言葉を交えつつ、親しみも込めて丁寧にお願いをしていく。
「連日状況が変化する中で松本さんの業務は一際しんどいですよね。こんな時に密になっちゃって申し訳ないんですけど、ペニスを舐めていただけませんか?」
最初の試行は失敗に終わった。仕方ない側面はある。誰でも健康は害したくないし、何も言葉の力は万能というわけではない。言葉でコロナウィルスが根絶されるなら苦労はない。「密」であることの抵抗感はその先にあるコロナウィルス罹患からくるものなのだから、感染リスクを軽減する言葉がなければ成功しないのも自明である。再試行。
「こう来るたびに本部の意向が二転三転してるとやってらんないですよね。加えて密になっちゃって申し訳ないんですけど、ペニスを舐めていただけませんか?もちろん消毒済みですので」
失敗。他の課員がいるオフィスで頼んでいることが原因だと再度気付く。どこかの県ではコロナウィルス感染者の家に石が投げられたりもしているらしい。感染に繋がる行為を見られるという事態そのものが、今日の日本ではタブーなのだ。彼女がバックヤードに足を運ぶのを追いかけ、2人きりになったところでロックダウン。
「さっきは無配慮なお願いしちゃってすみませんでした。ちょっとだけ密なので重ねて心苦しいんですが、消毒済みのペニスを舐めていただけませんか?」
拒絶。コロナに言葉の力が奪われていることが証明された瞬間である。コロナは命だけなく人々の夢や娯楽、自由、経済力に加えて言葉の力までも奪おうというのか。
一人になったバックヤードで私ははたと涙を落とした。
いい力と悪い力があるとする、幸福につながるか不幸につながるか
言葉に力がないのならいったい人間は何によって学び、何によって何事かを成すのだろうな
伝言ゲームになりがちなら妄信と曲解の権化、自分に都合のいい事実の歪曲を止める能力もない
眼中にないそれらを目に入れていなかった故に理解も及ばなかった
思い上がり、自己の失敗や間違いを言葉を理解できない自分を棚に上げて他人のせいにする人種
間違えることの常態化によって恥を恥だとも思わなくなったくせに人一倍自分の愚かさだけは理解している
すべてを拒絶することで身を守っているのだから
懐疑とは思考し続けることではあるが、その真逆の拒絶という思考停止を処世術として使っている
痛ましい劣等感の塊
先日、30代になったばかりの方と会話をしていた時のことだ。
「私もうおばさんだから」正直な所、この人は何を言ってるんだ?と思った。急に何をオカルトめいたことを言い出すんだと。
「全然若いじゃないですか。あんまり自分のことおばさんとか言わない方がいいですよ」
「あっ、そうだよね。言霊ってあるもんね」
言葉の力や人の感情をなめてたんだろうな。ただのゲームだと思ってたんだろう。罵倒の先に実際の人間がいるという想像力がない。
ゲーム感覚で「悪いやつ」「馬鹿なやつ」とレッテルを貼り、晒しあげて、さあどうぞ! みんなで楽しく集団リンチ。げらげら嘲笑して楽しめればそれでよし。
「俺たちは論理的に間違ってないから」そんな思い上がった態度。もちろん反撃されるなんて思っていないし、反撃されることはあってはならないと傲慢に開き直ってすらいる。「お前は人の批判を受け入れられないのか」「お前は謝ったら死ぬ病だな」
「俺たちは論理的に間違っていないから、俺たちに反撃するのは間違っている」というスタンス。だから無敵。相手に反撃させず、一方的に蹴っ飛ばし、げらげら笑っている。これはゲームだ。そしてこの狂った世界ではこれが唯一の言論だ。
左寄りとされるはてなでなぜかこの残虐な集団リンチゲームはずっと支持されてきた。まるでこれが公平な「知の戦い」であるかのように集団リンチを肯定し続けた。「俺のは正しい批判だよ」
相手の人格を尊重しようという気も最初からない。対等な立場に立って真摯に言葉をやりとりしようという気もなく、いかに相手を見下すか、馬鹿にするか、みんなで指差してげらげら笑ってやるか、そういった幼稚な価値観しか持たないネットウォッチャーたちがずっとはてなに居座って強い影響力を持ってきた。
罵倒や嘲笑が基本の世界になってしまって、相手を人間として尊重するようなまともな人も少なくなってしまった。いかに素早くマウントを取るか。自分の方が上だぞと言い張るか。そういう世界になってしまった。
ここに倫理はない。他者に対する思いやりも配慮も何もない。良識も良心もない。相手はただの「情報」にすぎない。これはゲームだ。そして言論だ。他人を馬鹿にするのは楽しい。これは言論だ。
オタクは人間音痴だ。人間がわかっていない。人間音痴のオタクがインテリになってしまった結果、狂ったゲーム脳が出来上がった。「俺は論理的に正しい」そうかもしれない。きみはゲームの覇者かもしれない。
だけど、きみはわかっていない。この世はゲームではないということを。
父が認知症になったのは3年前のことだ。悪化したのが2年前の夏で、そこから2年で要介護の認定を受けた。70歳台前半でこの状態というのは平均よりも早く、進行も速いらしい。
2018年になり、私は実家に戻ることになった。親と同居するのは10年ぶりになる。認知症になってからの父と暮らすのは初めてだ。帰省で2、3日いるのとはわけが違う。
母は介護と家事と仕事で疲弊していた。介護士の人に母の外出中だけ父を見てもらっているが、彼らのいない朝や夜ほどやることは多い。私も仕事があるので、母のいない日中をカバーすることはできない。ワンオペから脱しただけでも御の字と母は言うが、どこまで力になれているかは疑問だ。
父は家族に対しては何処までも優しく、一度も怒鳴ることも手をあげることもなく、料理と日曜大工と植物の世話が好きで、グルメでワイン好きで、読書家で博識で、母が昔病気をした時は付きっきりで看病したり家事をこなす、こうやって並べるとちょっと信じられないくらい良き家庭人であり、知識人だった。それは今も変わらない。ただ本が読めなくなり、包丁が持てなくなり、服に頓着しなくなり、会話が成り立たなくなり、自分で服を着たり用を足したり風呂に入ったりできなくなった。前半は習慣から消え去り、後半は母が介助している。
認知症はタンパク質が変質し、脳が萎縮していく病気だ。萎縮する箇所や速度は人それぞれで、予測することはできない。萎縮による記憶や能力の衰退も、人格や活動の変化も顕出するまで分からない。もちろん治療法もない。ただ、いくつかの傾向はあるらしい。父の場合は次の2つが表れた。ひとつめは一日に独自のルーティーンを作ること、ふたつめは何に対しても否定から入り、気難しくなったことだ。どちらも典型的な認知症の症状だ。
父は毎日、カフェに朝食を買いに行く。毎日同じものを頼むが、ストローをもらえなかったり店員の態度が気に食わないと不機嫌になり、店に迷惑をかけたこともあるそうだ。だが母が一緒に行くとそういうことはないという。
父は毎日、昼食を同じ店に食べに行く。時計の進みが正確に把握できないので、毎日開店前に行っては入店を断られ、やはり不機嫌になって帰ってくる。でもしばらくするとそれを忘れてまた足を向け、食べて帰ってくる。
父は毎日、ケーブルテレビを見ている。大好きな洋ドラはおとなしく見ているが、CMに入ったり日本のドラマに切り替わると文句を言いはじめる。でもお手洗いに行っている間に録画しておいた洋ドラに変えておけば、けろりとそれを見ている。
父は白身の刺身を食べなくなった。鯛やかんぱちという魚が分からないからだ。風呂にひとりで入れなくなったのは身体を洗う順番が分からないから。文字は読めるが新しい知識は入らない。郵便受けに手紙を取りに行くことは覚えているが、その後どうすれば分からないからその場で捨ててしまう。食後には皿を片付けてくれるが、洗うことを忘れているのでそのまま戸棚にしまおうとする。
ルーティーンはある日突然変わったり、じわじわ増えたり減ったりする。そのタイミングは本人にも家族にも、医者にも分からない。毎日の観察が大切だが、一日中目を離さずにいるのは難しい。
父は会話というものが分からなくなった。人の話を遮って喋り出す。それを諌めても、話題を変えようと質問しても自分の話をやめない。記憶に残っていることを喋るから話題はいつも同じだ。機嫌のいい時は相手の話を聞いたり、上手くやりとりが進むこともあるが、都合が悪くなるとおどけて誤魔化そうとする。何故かアイシュタインの変顔の真似をするのだ。その無邪気な笑顔を見て、私は父が72歳の5歳児になったのだと思った。自我はあるが社会生活を営むには不十分で、言葉の力に無自覚で、物事の因果も感情の律し方も分からず、大人の監視と補助が必要な5歳児。それが私が今一緒に住んでいる、大好きな大好きな父だ。
実際の5歳児と違うのは、これから先、父が成長することはないということ。代わりに72年分の(穴抜けになった)記憶を抱えているが、その記憶も徐々に失われ、人格は変わり、最後には脳が不随意筋の動かし方を忘れて死ぬ。認知症とはそういう病気だ。
父が私を覚えているうちに、また一緒に暮らせて良かったと思う。
相手は今年初めてできた一つ上の彼氏だった。こんなパッとしない女にも彼氏ができるとは思わなかったし、セックスがこんなに幸せだとは思わなかった。私はいままで告白もされたことないし、したこともない典型的なモテない女だった。
私は大学卒業後に実家を出て一人暮らししながら、とりあえず就職して働いて転職して食って寝て一人で酒飲みながらゲームやYouTube見てときどき増田見ながら生きてるって生活をしてた。
私と彼氏さんは職場で出会った。部署は同じだったけど、お互い最初はそんなに気にしてなかった。親しくなったキッカケは去年の部署の忘年会でたまたま席が隣だった。どちらも洋楽が好きで、あるアーティストのファンだった。それからちょくちょく職場で話していくうちに連絡先交換をして食事に誘われた。
セックスのときの肌と肌が触れ合う感覚はまだ忘れていない。男の人の裸を生で見るのは初めてだったし、「あぁ、なんか女の人より筋肉すごい」って感想だった。他人の肌の温度を感じるのも初めてですごいオドオドしてたと思う。彼は「緊張しなくていいよ」って優しく言ってくれたけど、「あ、はい…」ってとりあえず返事しただけで、この言葉を思い出したのも帰ってきてからお風呂に入ってたときだったし。
「あぁ、そっか、私ってそんなに緊張でカチカチだったんだ」って一人反省会してた。彼はいままで2人ほどお付き合いしたことがあるって言ってたから経験はそれなりにあるのだろう。でも私は相手の経験はそんなに気にしないので別にどうも思ってなかった。
私はすごいマイナス思考で自己評価の低い人間なんだけど、こんな性格は他人からもめんどくさがられるとは分かってる。だけど、彼はそんな性格の私を受け入れてくれた。
初めてのセックスに至るまでは結構長かったと思う。裸になるのも怖かった。自分に自信がなかったから。ムダ毛の処理とか日頃からめっちゃ頑張ってた。剃刀も5枚刃買ったって言ったら腹抱えて笑われた。「女で5枚刃使ってるやつ初めて見たわ」って言ってたし。うるさいわ。
普段の自分を見せるのも怖かったから、彼から「会ったら毎回、2つだけでいいから褒め言葉を言い合おう」と約束させられた。最初は「この人何考えてるんだろう」って思ったけど、今思えば私に自信を持たせるためだったんだと理解した。
例えば、デートの待ち合わせ場所で会ったときには「今日も髪の毛がキレイだね」とか「ネイル変えた?かわいいね」と言ってくれる。私はその一つ一つに「ありがとう」と言って、「今日の服かっこいいね」とか「香水のいい匂いするね」とか言う。私は初めこそ褒められることも褒めることも慣れてなくて「今日は来てくれてありがとう」とか意味不明なこと言ってたけど、彼は「こちらこそありがとう」って優しく笑って言ってくれた。こうすることで私のマイナス思考は少しずつ治っていった。鼻が低いところだったり、一重だったり、唇が薄いところだったり、貧相な乳だったり、声が低いところだったり、おでこが広いところだったり。でも、彼はそんな私のコンプレックスを少しずつ褒めていってくれた。そして自分が思ってるより他人はそんなに思ってないことを教えてくれた。
セックスのときも同じだった。お互い裸で正座で向き合って、「なんか改まって言うのは恥ずかしいね」なんて笑って言いながら「肌が白くて綺麗だね」とか「その下着かわいいね」とか言われたり、私は「腕のスジや血管がかっこいいね」って言ってた。そしてお互いに「ありがとう」って言った。
お互いに褒め合うことで相手を敬う精神やお礼を言う習慣を育んでいってたんだと思う。褒める言葉とお礼の言葉の力は大きいと思う。他人に認められるってこういうことだったんだと思った。セックスのときに「好きだよ」と何度も言ってくれたし、キスもいっぱいしてくれた。すごい幸せだった。ほんとセックスってすごいと思う。なんだろう精神的に満たされる感じ。
記者2 ミヤネ屋のシカナイともうします。今回の騒動、そして引退ということでダブルでショックを受けられた方も本当に多いと思います。あらためて、引退とおっしゃっていましたが、実際さまざまなプロジェクトも始動していると思います。いつ頃、本格的にすべて音楽から携わるのを退くのでしょうか?
小室 先ほど申しましたとおり、自発的に「あれがやりたい」「これがやりたい」という音楽活動は今日から退こうと思っております。そして今の話のような、それでも責任があるじゃないかと、「やってくれ」というものの責任は果たしたいと思っておりますので、不快な思いをされる方の目にはかからないようなかたちで全うしたいと思います。
先ほども言いましたように、今、「まだやれよ」と期待をしていただいている方の制作に関しては、随時対応していこうと思っています。
記者15 今後もファンの方となにかしらのつながりという場は持つことを期待をしてもよろしいのでしょうか?
小室 世の中の世論の比率によるかなと思います。51対49みたいなことがありますけれども。その割合が「なんでもいいから、生き恥晒してでもいいから音楽つくれよ」という意見が何割あるのかというところで。
ファンというすごく不特定多数の微妙な表現よりは、この時代ですから数字に如実に全部出てきますので。その数字に従いたいかなぁと今漠然と思っています。
引用は全部 https://logmi.jp/259338 から(3 ページ目と 4 ページ目から引用してます)
これは「引退しない」ということですよね。
ということを宣言しているわけです。
俺はこれまで小室哲哉の「音楽」については結構いろいろはてなで鬱陶しい評論を読んだことがあったのだが、「作詞家」としての彼の評価について読んだことはなかったし、また彼の作る曲の歌詞をじっくりと鑑賞してみたこともなかった(あらためて検索してみると結構彼の作詞家としての魅力を論じている人は多い、俺のインターネットへの向き合い方は怠慢であった)。
しかし、俺は今回この「引退」によって彼が圧倒的な言葉の力を持っていることを知った。この論点ずらしとごまかししかない「引退しない宣言」を人々に受け入れさせ、そして世論のほぼ全てを一瞬にして味方にすることができた。彼はこの世論をもって、見事に「復活」を遂げることだろう。
思えば、彼はもはや持ってもいない原盤権を売りつけるという詐欺をやった人物である。詐欺とはまさに言葉による戦闘の極北であろう。彼は、本当に圧倒的な言葉の力を持っている。そして、それを自分自身の利益のためだけに悪用することをなんら躊躇しない、第一級の危険人物だ。
そのような魅力的な人物が作る歌詞に注目してこなかったというのは、随分もったいないことをしてきたと思うし、そういう点に注意してあらためて彼の提供楽曲を鑑賞してみようと思っている。
諸君の中には「喘ぎ声をだすのは、男の沽券にかかわる」なんて思っている人も少なくないだろう。
「男の子なんだから我慢しなさい」と言われて育ってきた我々日本男児
我慢もせずにあられの無い声をだすなんてとんでもないと思っても仕方がないだろう。
「ベットではあんなに喘いでいたくせに」などと罵られようものなら、切腹ものだ。
しかしだ。
私の矮小な人生経験からで申し訳ないが、男でも喘ぎ声を出した方がいいという結論に至った。
■自分の声に興奮する。
日本では古来から言葉には力が宿っていると信じられてきた。いわゆる言霊だ。
「俺はBIGになる」と毎日言っていた青年が、将来人気ミュージシャンになったなんて話もある。
モノは試だ。これを呼んでいる諸君
「はぁはぁ、気持ちいい、ああ、気持ちいい」と繰り返し言ってみて欲しい。
これと同じように喘ぎ声を出すことによって、喘ぎ声を出すくらい気持ちいい気がしてくるのだ。
最初は演技でもいい、ワザとらしいと思えるくらい喘いでみよう。
「なんで私の気持ちをわかってくれないの!」なんて女がいたら、張った押したくなるだろう。
相手が気持ちをくみ取ってくれるなんていうのは怠慢で烏滸がましい。
結局のところ自分の気持ちを伝えるには、相手と向き合って話しかないのだ。
それと同じように、自分が攻めれれて気持ちいところを相手に分かってもらうためには、
きちんと口に出して伝えるしかない。
しかし「あ、耳弱いんで、耳攻めてもらえます」なんて言い方は無粋だろう。
恥ずかしがらずに「ああ、だめ!耳は弱いんだ。あ、ああ、あああ~」
■なんだかんだでパートナーもノリノリ
性の違いこそあれ、結局のところ同じ人間だ。
若干の違いこそあれ、同じように喜びを感じ、同じように怒りを感じ、同じように哀しみを感じ、同じように幸せを感じるのだ。
* 政治的主張
の2つがあって、この2つがセットで行われる暴力行為を我々はテロと呼んでいる。
不特定多数への攻撃はなるべくインパクトのある方がいいのでアルカイダは飛行機を貿易センタービルにぶつけたりしたが、
日本では爆殺や無差別殺人は難しいので「日本死ね」と脅すぐらいしか出来ないけど平和な国ではそれでもインパクトはある。
そういうインパクトに載せて自分の主張を通そうとする行為はまぎれもなくテロである。
https://twitter.com/tawara_machi?ref_src=twsrc%5Etfw
「死ね」が、いい言葉だなんて私も思わない。でも、その毒が、ハチの一刺しのように効いて、 待機児童問題の深刻さを投げかけた。世の中を動かした。 そこには言葉の力がありました。お母さんが、こんな言葉を遣わなくていい社会になってほしいし、 日本という国も日本語も、心から愛しています。
少し前からオタクアカウントのほうに、同人やめました系の記事がいくつかRTされてくる。
当方オタク歴はそれなりに長く、どちらかといえば一人で考察と妄想を繰り返しのめり込む内向き型。キャラに対してキャーキャー言ったり、流行のネットスラングを羅列するような交流は苦手なので、RTされてきた記事を読んで、うんうんそこは昔のほうがよかったよね、と思うこともある。
近頃はまったジャンルにて、私はようやく同人活動やイベントの醍醐味みたいなものが分かってきて、今とても楽しい。
過去色々なジャンルにはまったものの、今まではネット上で見たり書いたり、昔からのオタク友達に話を聞いてもらうくらいで満足していた。
twitterで交流しよう、オンリーに行ってみよう、自分でも本作ってみようか、というところまで手を出すほどになった作品はこれが初めてだ。
なんでなのか?ちょっと振り返り5点。
ハマるのと同時期くらいに生活環境が変わり、時間に余裕ができた。これが一番大きいかも。元々面倒くさがりなので、寸暇を惜しんでまではきっとここまでやってない。忙殺されて余暇がほとんどなかった時期にハマっていた別ジャンルは、それはそれで生きる支えになったものだが、交流や創作にかけられる時間は少なく、落書きで欲求を消化するのみだった。
学生時代はサイトにこもってたので、オフ活動にもっと早く興味持ってたら違ってたかも。
ハマったのは息が長くファンの多い作品で、ファンの年齢も傾向も幅広い。キャラ萌えしてる人からひたすら原作の考察する人まで色々。流行のピークは過ぎて久しく、今や大手さんの解釈が公式扱いされているような風潮は薄いし、個々の解釈も否定されにくい気がする。が、これは体感なので単に私が鈍感なだけかも。
もちろん作品自体の素晴らしさが第一にある。それに加えてこの界隈の自由な雰囲気がいいなと思う。
そういう雰囲気に浸かってると、同士さんたちの詳しい活動や語りを追いたいという欲求がわいてくる。
そこで主にtwitterを利用するわけだけど、様々なファンがいるのと自身が万人ウケするタイプではないので、交流する際には特別注意をはらう。元々アカウントを取ったのは同士さんアカの鑑賞兼独り言用だぞ、それが第一だぞと常に言い聞かせる。それを曲げて交流しまくれば承認欲求が加速して本来やりたい創作や考察ができなくなる。だからいくらいいねやRTがほしいと思っても決めた期間以外鍵は開けないし、フォローフォロワーの関係には気持ち悪いぐらい用心する。最近のやめました系記事にもSNS疲れがよく言及されてるし、対人関係が原因で作品を好きでいられなくなるみたいな本末転倒な事態は絶対に避けたいので、慎重すぎるくらい慎重に。
結構経ったがまだそれなりに守れている…と思うし、この前提があるからこそ色々割り切ることができているんだと思う。
具体的な自分ルールもまとめてたんだけど、すごい長くなってしまったのでカット。
で、いろんな自分ルールを遵守しつつ厳選したTLは、自分と波長の合う人たちと情報アカ程度で構成され、とても穏やか。交流相手を絞ることで私のような面倒くさがりでも続けることができ、時々リプをし合ったり、タグ系の遊びを一緒にやったりしてくれる存在ができた。そしてその信頼できる方々のご好意により、イベントやオフ会に足を運ぶきっかけをいただいた。
年齢層が幅広いためか、息が長いからか、他と比べ空気がゆったりしているように感じた。(といってもこれまで全ジャンル合わせて片手で数えるほどしか参加したことがないんだけど)
一番安心したのが、エロの公開度が低いこと。前にハマっていたジャンルもそれなりの規模・年数で、以前オールジャンルの際にそのエリアに立ち寄ってみたのだが、カッコイイ男性キャラがたいへん色っぽい感じになってる大きいポスターがたくさん並んでいていたたまれず、なんかもう本を買うどころではなかった。エロは全く、BLもほとんど嗜まない者なので、あの空間は耐えられなかった…
今回もそんなだったらどうしよう、とドキドキしながら参加してみたところ、主流はBLでR指定ものも多数あるが、過激な掲示はさほど目に付かなかったので安心した。男女CPやコメディ傾向の作品もそれなりにあり、買い物も楽しめた。サークルの皆さんは、うろうろと挙動不審な私にもよかったら見ていってください、とやさしく声をかけてくれた。またネットで見知っていた方や、既刊を拝読させていただいた方に感想を伝えたり、少しお話をしたりもできた。作家さんとのお話ってこんな普通にできるんだ、これが話に聞くイベントの醍醐味か…!!と感動してしまった。(今まで買い物の会話以外交わしたことがなかった)見れば他にも立ち話をしている人たちは結構いる。このジャンルではいわゆる古き良き(?)即売会の姿が面影を残しているのかもしれない。いやしらんけど。
そしてイベントでこんなに居心地がよかったのは初めてで自分でも驚いている。今まで一般だと落ち着ける場所がなくて何となく居づらかったのだが、今回はそういうこともなく。また行きたいと思った。
自身の二次創作は、基本的に自己満足だ。いいねやブクマなどはもちろんうれしいが、それを得るためだけの創作はしないのだと心に決めている。なので本をつくりたい!となったのも最初は「皆さんの本素敵だな。私もここまでのめり込んだ作品は初めてだから、記念に自分なりの解釈をこういう形にしてみたいな」というのがきっかけだった。
どこへ出す予定もなく書き始めたのだが、少しその話をした際に思いがけず、ほしい、見てみたいというお声をいただいた。
ものすごいエネルギーを与えられた気分だった。この自己満足の塊を、まさか楽しみにしてくれている人がいるなんて!
さらに、4のイベントでお話させていただいた方にも「本は出されないんですか」とお言葉をいただいた。嬉しすぎた。本を作るというのは大変な作業で、もし本当に一人きりで進めていたら、延び延びになって結局頓挫、みたいなことになりかねないなと思った。ここまでに散々他人に主体をおかない的なことを書いておきながらなんだけど、それでもやっぱり、こういう身に余る挑戦をするときには、3で得た信じられる人の言葉の力を少しお借りしてもいいかな、と思った。
自己分析のつもりが途中から感想文みたいになってしまった。分けて書こうかとも思ったけど、その良い思い出とかもひっくるめて要因だし、まあいいや。
今のジャンルじゃなくても、これまでもこういう体験ができる機会はあったのかもしれない。
でもこの引きこもりで、心配性で、人見知りな私をここまで連れ出してくれたのは、いろんなタイミングの重なり、そして魅力的な作品と素敵なファンの皆様だろうと思う。