はてなキーワード: 金枝篇とは
ジャニー◯でもタカラヅ◯でも、クリエイター集団でも甲子園でも劇団でも、サッカーでもアイドルでもオリンピックでもなんでも、問題はあるんだよ。みんな目を逸らしてるけど。
自分も世の中で「凄い」って言われる表現する集団にいたことある。めちゃくちゃ才能ある子が毎年湧いてきて、切磋琢磨と言えばいいが悪く言えば蠱毒で、そこにキャスティングボードを握ったカリスマ指導者がいたら、閉鎖的な独特の場所になる。どうしても一定の価値観による洗脳であったり、置き屋の女衒的な事も含め、一定のパワハラやセクハラや人権侵害は、起こる。そうしないと、そのくらいしないと、人を熱狂させるようなパフォーマンスをコンスタントにやれる集団にはならない。
誰もが何者かにならなきゃとキラキラした世界に憧れる。でも、才能ないからコロッセオの観客で居られるんだよ。消費されて交換される側にはならなくて済む。アイドルビジネスとかってむしろ競争を見て愉悦、まであるよね?推し活も、ただの自分からの逃避と紙一重の面があると報じられた。
キラキラの中で、競争とかパワハラセクハラで壊されていく子達の事、見ないフリして無邪気に楽しんでるんだよ、我々は凡人は。そしてフレイザーの金枝篇よろしく、才能を持つ王が弱体化すればそれを殺し新たな王を戴くわけだ。人類、いつまでやるんだろうな。いつまで才能ってものをありがたがり続けるんだろう。
神話っていわゆるあこがれや予言みたいな部分があって、バナナ型神話に出てくる「石」=「不変」「不老長寿」って実はAIやロボットのことなのよ。
AIやロボットのコアな部分である「CPU」の事を一部自作界隈で「石」って言うじゃろ、そういった石(シリコン)から成る珪素生物的な存在のことを我々有機生命体は無意識に憧れていて
神話のやり直しをしたいのよね。今の生活になくてはならないPCやスマホやなんかは神話のやり直し「石」への憧れの集大成なのよな。
君が代の「さざれ石の巌となりて」というのももちろん「石」への憧れ、シンギュラリティは有機生命体から珪素生命体への代替りなんよ。ただし、遺伝子は引き継がれないけど模倣子(ミーム)は引き継がれるよ
※タイトルと表紙だけ見て判断したので悪しからず。モノによってはキーワードだけ
私を食い止めて
水ってなんじゃ
かんどうかんくろう
僕僕先生
ニャン氏の事件簿
独りでできるもん
描かれた歯痛
前野ひろみち
あやかし算法帳
空き家課
あるかしら書店
海の百階建ての家
アルデラミン
闇と暮らす
365まいにちペンギン
オラクルブック
マツリカ・マハリタ
フェイブルの海
時間整理術
近松よろず始末処
包丁部
静おばあちゃんにおまかせ
陰陽課
ぴんとこなーす
べてるな人々
三人にせ金作り
怪盗レッド
ピカソになりきった男
ヤクーバとライオン
愛しき駄文具
一日昔話
動くな、死ね、よみがえれ!
おばけのパン屋さん
やだ!!(絵本)
グレッグの駄目日記
ドバラダ門
まどかは神かもしれない
押し絵と旅する男
明和義人
うそうそ(畠中)
ガタスタ屋の矜持
小道モコ
精霊の王
特上添乗員
ウチら特権
ボクらの消えた学校
焼き上がり五分前
いみちぇん!
変形菌図鑑
あやかし課
陰陽課
どこいったん(絵本)
岡本順
毛深い闇
薬売りの独り言
猫とエトワレ
元気に�なるシカ!
地図に無い駅
%(このはなさくら)
悪ガキ7(セブン)
一日なぞの生き物
入れ子の水
サノマリナ
みやたけ外骨
かわなべきょうさい
キルリスト
コンピューターのふしぎ
唯識の読み方
怪盗レッド
チームガリレオ
雑草ルデラル
幻都廻楼
ドルポ
聖なる怠け者
ひだごはん
ヒラマツオ
投書狂
ゴリラのけいこく
ヘッテルとフェーテル
ピカソになりきった男
こしょう息子
つ村きく子
リンカーンとさまよえる亡霊
江戸奇品解題
ヘンテコノミクス
ぽよぽよザウルス
のら犬とりで
十才までに平家物語
1年1組(DVD)
南河物語
築地の門出
ちび竜と魔法の家
うみの100かいだてのいえ
かまどねこ
就活の神さま
空から森が降ってくる
ファミアンドリー※1
夢もまた青し
でしょ115%
マガーク探偵団
ウナノハテノガタ
手話で生きたい
南の島※2
チオベン※3
絵でわかる感染症
やさしくわかるアサーション
ふしぎな出前
宇宙に期待しない
早朝始発の殺風景
くどうなおこ 「いる」じゃん
夏のうた
オシャレ泥棒
言葉のぷれぜんと
なんでも見てやろう
三枚のカード
戦う姫、働く少女
鬼の跫音
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※1詳細不明
※2島田紳助?
最近、なにかと話題のおけけパワー中島ですが、あの作中に出てくるキャラクターの実力は中堅以降クラスで私みたいな底辺から見ればクラス高カーストの奴らの内輪話じゃん、というような感想にしかなりませんでした。
勿論、主人公の七瀬、そして先日出てきた新キャラの友川においても最初は底辺だったのかもしれないですけど結局(努力もありますが)実力をメキメキと身につけ、ある一定の評価基準まで到達しています。
この真田さんの漫画において提示されているのは、『神に到達するなら自分も神同等の実力を身につける』という手法で、底辺は神へ接近・接触できるということです。同人界隈は特にこの傾向が強いと言ってもいいでしょう。
ですが、現実ではどうでしょうか。ここで、ジェームズ・フレーザーの金枝篇より王殺しを引用してみます。
森の王と呼ばれる祭司がいた。逃亡奴隷だけがこの職につく事ができるが、「森の王」になるには二つの条件を満たさねばならなかった。第一の条件は金枝を持ってくる事であり、第二の条件は現在の「森の王」を殺す事である。
このように、実際に神との原始的な宗教的体験というものを考えると、寧ろ神殺しは底辺な者にこそ与えられていたパワーでしょう。
しかし、同人界隈というのは、いいねやRTといった数的なものが良さに変換するプロテスタンティズム的な考えが主流であり、例のようなカトリック的な神それ自体が神聖だから神聖であるというような考えとは異なります。すると、ここで二つに考えが分裂します。
一つは、神絵師とはいいね・RTが多い人間であるというテーゼです。これはツイッター・pixivにおいても閲覧数が多い方が神(結局上手なのだから見られる)というような考えであり、主流なものです。しかし、(閲覧数が高いから・売れているから)素晴らしいというのは、権威主義ともはや同じです。
そして二つ目に、その絵それ自体が神聖であり作者は尊いのだという考えです。こちらもある程度支持する人はいるかもしれないですが、いいね1の絵を神なんだと言ったところでその当人にとってしか神でないというような話になってしまいます。それでは、神としての効力というのは非常に弱いです。
では底辺絵師持っている力とはなんでしょう。それは数字も神聖さもないということです。このようなペシミズムが、サドの遺言のように誰にも作品を見せずこのまま消えてしまいたいというような感情へと移行することができれば、その時ついぞ神絵師を殺すことができるでしょう。
ここでなぜ神絵師が神聖さを持つのかを理解することができます。すなわち神絵師とは、絵が上手い・閲覧数あるといったことではなく、多くの人間を創作活動へと導いてきた人間であるから神絵師なのです。
ですから底辺絵師は神絵師を殺す時がなければいけません。それは数的なものでなく神絵師の思想を乗り越えるといった形式において考えられるべきでしょう。
友川は毒マロという形式を用いましたが悪手でしょう。本来ならば創作という土俵で、つまりA×Bの作品で表すべきだったはずです。
そして神絵師が神である以上、神は気まぐれであり何をしても許されるからあなたが信じた神だったのです。それをもう許せないのならあなたにとってはもう神は死んだ状態であります。
我々底辺のペシミズムが神絵師を揺さぶる時、初めて神絵師との合一ができるのです。そしてそれを乗り越えて神を超越することができるというのが、底辺の強みです。神絵師になってしまったら神同士の馴れ合いでしかありません。
祭祀・祭礼の形は、世界各地で多様な形を示す。そして、原初の祭は、一つの信仰に基づいていたと考えられる。
すなわち、豊穣への感謝・祈りであり、ジェームズ・フレイザーの『金枝篇』では、生命の死・再生を通して考察された。
そうした祭りの起源から、その地の歴史・文化を紐解くことが、文化人類学者としての私の仕事の一つだ。
世界中の祭りは樹形図のようにつながり、あるところで結びつき、あるところで消えたりする。
しかしながら、そうした系譜に属さず、あたかも以前からそこに存在していたかのように突如として実存する、そのような祭りが存在していたとしたら。
しかもそれが、長い歴史で見ればコンマ1秒にも満たない期間に、世界中で同時多発的に出現していたとしたら。
そのような悪夢とも天命とも思われる事態に、私は今直面している。
初開催は今から200年前の西暦2018年頃。内容は泥水の上にかけられた細い橋の上を自転車で渡るという、娯楽要素の強いものだ。
そのあたりの時期の情勢と照らし合わせて、少し違和感を覚えたが、まあ分からなくはない。
私はそれを持ち帰って、研究材料にしようと考えたのだが、どのような歴史書を辿ってもその祭りの起源が見当たらない。
まあ、起源不明の祭りに今まで出会わなかった訳でもない。この祭りもそれらの一例に過ぎない、とその時は考えていた。
これも良い機会か。と、私は今まで起源がわからず調査中であった祭り、それから歴史書などには載っていないが現地に行って新たに発見した祭り、などを改めてまとめていった。
一つ目はそれらの祭りがどれも2000年代の数年の間に発祥であること。
それからもう一つ。
どの祭りにも第1回大会にはダイスケミヤガワの記録があること。
これらの事実が想起させる、ある種馬鹿げた仮説はただひとつ。ダイスケミヤガワ、あるいは彼の属する組織がこれらの祭りを造ったのだ。
世界中の村々で。
突然に。
何のためにー。
ハロウィンは昔から日本の一大イベントだ。そこで生まれる経済効果はこの国だけでも数兆円と言われている。
ダイスケミヤガワも、そのような経済効果を目的として祭りを作った可能性を考えてみた。しかしながら、祭りの内容を鑑みるに、その可能性はほぼ無いに等しかった。
事実それらの祭りが何らかの経済効果を生んだという記録はない。
私は視点を変えて、ダイスケミヤガワの人物像を調査することにした。
これだけの短期間に、これだけ多くの祭りに参加しているとなれば、恐らく彼は祭りの賞金で生計を立てていたと考えるのが普通であろう。
もしくはー。
祭りを造り、それに参加することが彼の仕事であった、とでもいうのだろうか。
わたしにはダイスケミヤガワが全くの同一人物を指しているかどうか、確かめる術は残されていない。
そのため、以下ダイスケミヤガワとは、ある特定の人物もしくは組織の総称とする。
冒頭でも述べたように、祭りは、元を辿ると神々への信仰を目的としていることがほとんどである。ダイスケミヤガワは、これらの祭りに信仰の意味を込め、布教していた宣教師(達)だったのではないか。
つまるところ、ダイスケミヤガワの行くところに祭りができ、祭りのあるところに、ダイスケミヤガワがいたのだ。そうとしか説明仕様のない史実が、私の前に広がっている。
しかしともすると。
もしくは私の敵リスト。
やっぱ丑の刻参りが良いかな。名前入りてるてる坊主っていう手もあるかな。
思いついたらあとで足しとこうっと
足した忘れてた
書いてある教義から同じ宗教で育ったと思われるのをみて、どうにも見ているだけでいられなくて初めて書く。
私も自分が小さいころに母親がその宗教に入り、物心ついたときには誕生日の祝いもクリスマスもなかった。その宗教が定めている行事以外はすべて「いけないこと」であった。例えば母の日に学校で配られたカーネーションの造花に、手書きのカードをつけてプレゼントしたらひどく怒られたよ。それは神の定めたことではなく、人間が欲のためにつくった記念日だから。
元増田同様、学校で部活動はできなかった。週に何度か行われる集会に参加できなくなるし、週末の奉仕活動に差し障るからだ。門限も小学校のときは16:30だったな。クラスメイトと遊んでいても、ぜったい途中で先に帰ることになる。当然、遊んでくれる友達は減るし、そのうちいじめの対象にもなった。今でも友達は少ない。
部活、やりたかったなあーと、中高生が主人公の漫画なんか読んじゃうとすっごく思う。ああいう経験したかったー。
同宗教外の人と結婚するなんてとんでもないと言われていた。だが、集会に行って同世代の男の子をみても誰も魅力的には見えず、そもそも男子はほとんどいなかった。信仰を持たない男の子は好きになっちゃいけない、ということならば、「私は結婚しちゃいけなくて、ずっと奉仕活動をするのだ」と強く自分に暗示をかけてしまったらしい結果、りっぱなひとり身になっちゃった。……いや、たんに非モテなだけなんだけですかね。
さて元増田は、幸いにも辞めて、結婚もして、子どもにも恵まれている。
それはすてきなことだと思う!
でも誕生会や楽しい園の様子を憂鬱に思ったりするのは当然だとも思う。だってそう育って来ちゃったんだもん。私も子どもがいて、お誕生日会なんか開いちゃって、周囲がお祝いの言葉や品物をプレゼントしてくれたら複雑な気持ちになっちゃうだろうなー。嫉妬しちゃうなーー。
だけど育ちに関しては分かってもらえる方が特殊だと思うんだよ。元増田だって、だんなさんの「男子校だから〜」は意味わかんないんでしょ。そういうことだ。
でもさ元増田はそういう教義はよくないなーってことを知ってるから、その辺は他の人よりも上手に子どもたちを導いてあげられるんじゃないかな。宗教に限らず、狭い世界や思想はいけないってことを知ってるから。
あなたの授かった子どもたちは、そうしたことにならぬようにできる経験があなたにはある。
チームワークについても、これから学んだっていいじゃん。学べることがあるのはラッキーだと思うし、それに気づけてるのもいいことだと思う。
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さて、同じ宗教で育った子どもが、辞めてどういうおとなになるのか気になってはいたので、今日この文章が読めたことは私にとっては幸いだ。
ちなみに私は20歳ぐらいで辞めて、今はひとりで、人とのコミュニケーションが苦手で、子どもなんぞ望めない年齢になって、手も顔もしわしわで、世間的評価としてはダメな部類だろうけど、子どものころにできなかった夜更かしとか、夜の散歩とか、漫画を読むとか、映画を見るとかできて、今の方がしあわせだ。(でも老後は心配だー)
あと最近、宗教に関する本をちょいちょい読んで、子どもの頃のアレはなんだったのかなーって考えられるようになった。ベタだけど、ミルチア・エリアーデの「世界宗教史」は読んでよかった。J.G.フレイザーの「金枝篇」とか、末木文美士の「日本宗教史」とかも。
なんにせよ子どものころ受けたものって根が深い濃いし離れない。「三つ子の魂百まで」ってほんとだねー。また、宗教の話って日常でするのは難しいから、発散もしにくいよなーって思ってる。
そして長くてごめん。
やっぱりギブスンは初音ミクについて全然詳しくないまま最初のツイートをしたようだ。今になって「初音ミクは最初に思ってたより複雑な現象らしいわー。もっと勉強せにゃならんわー」とかつぶやいている。
http://twitter.com/greatdismal/status/5370144318558208
どうやら最初の発言は、最近の報道ラッシュで得た知識を元に気軽につぶやいただけの内容だった模様。Sankaku Complexで猛烈な反発が起きたが(一方でオタクの逆上ぶりを叩くコメントも登場して非常に盛り上がったが)、おそらく本人は初音ミクをdisるつもりすらなかったと思われる。で、Sankakuはギブスンの修正発言も素早く取り上げている。
http://www.sankakucomplex.com/2010/11/19/william-gibson-hatsune-miku-requires-further-study/
これでSankakuの連中も頭を冷やすかと思っていたら「複雑な現象ってのはギブスンが発見したミクのhentai画像のこと。もっと勉強するってのは…後は分かるな」「勉強する際にはぜひミクのfutanari同人誌にも目を通してくれ」「ウィリアム・ギブスンは俺が最初に思っていたより複雑な人間だった。もっと勉強が必要だ」「いやまてこれはツイッターのフォロワーを増やそうとする孔明の罠だ」などのネタ系反応が中心。らしいと言えばらしい。中には「初音ミクは彼のICEを突破したな」という年寄りくさいコメントもあったけど。
いずれにせよ、ギブスンの最初のツイートはわざわざ取り上げるほどのものではなかったということなんだろう。考えてみれば初音ミクに言及しているのに語っているのは外見だけだった。単に最近の報道を受けた反応に過ぎず、初音ミクを取り巻く現象について真面目に述べたものでないことは想像できたはず。
むしろ気になるのは「日本趣味のSF作家」ですら、最近の報道ラッシュが始まるまで初音ミクのことを知らなかったという事実。海外で初音ミクを(そしておそらくVocaloidを)知っていたのは、ごく最近までSankaku Complexのようなサイトに出入りする連中、つまりアニメオタや漫画オタが大半だったことが、はからずも明らかになってしまった訳だ。つまり、初音ミクを知っている外国人は、想像以上に少なかったということ。ましてVocaloidについてよく知っている外国人など、極めて珍しい存在なのだろう。
その意味で初音ミク英語版の発売は今回の報道ラッシュで高まった知名度をさらに上げるきっかけになるかもしれない。Facebookの登録増によって初音ミクの英語版が発売されるというニュースは、英語サイトでも見かけるし、いくつかのblogでも取り上げている。
http://nerdreactor.com/2010/11/15/internet-star-vocaloid-hatsune-miku-to-receive-english-voice/
http://www.animenewsnetwork.com/interest/2010-11-18/virtual-idol-hatsune-miku-to-sing-in-english
http://www.moetron.com/2010/11/17/hatsune-miku-eng-ver-facebook-campaign-reaches-39390/
http://www.vocaloidism.com/2010/11/19/hatsune-miku-is-one-step-closer-to-world-domination/
一方、英語のボイスバンクを持つVocaloidが既に多数あることもまた事実。クリプトン自身「めぐ・るいーね・るか」さんを販売している。にもかかわらずVocaloidの海外における知名度はこういう状態だったのだ。果たして初音ミクの英語版が出ただけで、それほど状況が変わるだろうか。キラーコンテンツとしての初音ミクの実力が問われるのはこれからだ。
それはそれとして足元のミク・バブルはかなり収まった。World is Mineの動画は現時点で185万再生を超えたところ。報道ラッシュが始まって以降、おそらく初めて1日10万超のペースを下回ることになる。
http://www.youtube.com/watch?v=DTXO7KGHtjI
ただTopsyのMikuツイート数は直近1日で600超と相変わらず減速していない。ギブスンの発言に対するRTなどもあって勢いが衰えないのだろう。
一方、日本でツイッターの反応が大きかったのは「初音ミク文化論」なるtogetter。
個人的には「上っ面の言葉遊びにしか見えない」という意見に賛成だが、言葉遊びでも何でも楽しく読めたので満足。特に「会場や観客がどれだけ熱くなろうと、ミク本人はまったく『動揺』せずに、規定通りのラインが淡々と進行する・・・。これが俺の言う『身体性のなさ故の、規定不能性のなさ』であります」→「それがたまんないんだろうな…とか思ったり。無視•無反応=究極のS」という部分は、フレイザー卿の「金枝篇」に描かれる女神ディアナを思わせて興味深い。
本当だ。消えないうちにグーグルキャッシュからサルベージしておこう。
パスカル『パンセ』
ライプニッツ『単子論』
ジェイムズ『宗教経験の諸相』
レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』
ブーバー『我と汝・対話』
ライル『心の概念』
デュルケム『自殺論』
キャンベル『千の顔をもつ英雄』
ポランニー『大転換』
オルテガ『大衆の反逆』
オング『声の文化と文字の文化』
ポパー『推測と反駁』
フロム『自由からの逃走』
デリダ『グラマトロジーについて』
ペンフィールド『脳と心の正体』
ソンタグ『反解釈』
フランシス・フクヤマ『歴史の終わり』
ラマチャンドラン『脳のなかの幽霊』
イーグルトン『文学とは何か』
ガダマー『真理と方法』
ダマシオ『生存する脳』
クワイン『ことばと対象』
マッキンタイア『美徳なき時代』
ツリー内主要エントリ
パリスとあたしの違いはカメラがついてきてるかどうかだけだ。そう叫んで自殺した少女も日本に生まれていれば、人生を謳歌できていたかもしれない。
確かに一歩目はブログだった。しかし、その次の飛躍はケータイ小説が成したものだ。ブログによって引き下げられた記述することに対する障壁を、情動のスイッチを押すことに特化した一群の物語が完膚なきまでに破壊した。ケータイ小説は赤潮のように繁殖した。その作り手であるケータイ小説家もまた。
いまやケータイ小説の消費者のほとんどが生産者であった。創作されたケータイ小説はまず周囲の友人達によって読まれ、そのほとんどがそこで停止するものの、稀に口コミで広まり一般文芸にはありえない形のヒット飛ばすこともあった。そして、ヒット作の周囲には多くの模倣が生まれ、そのミームは拡散し浸透した。この文化の担い手は主に少女達であったが、彼女達にとって今や物語はコミュニケーション上で通貨の役割を果たしていた。「泣ける」「感動した」等の賞賛の言葉は優れた物語に対する報酬ではなく、自分の物語を読んでもらうための対価となった。
このまま過飽和の状態が続くわけも無い。大方の識者と呼ばれる程度の文筆家達はそのように考えていた。事実、彼らのやり取りする物語は、劣化したミームのまとまりの無い堆積のようなもので、そこに生の声が塗りこめられていたとしてもそれを汲み取ることは、本人達にとっても容易なことではなかった。さらには、仲間内でしか判らないコード進行、バズワードなどによって共通言語が小集団に分断されていき、しまいには原宿の少女には渋谷で書かれたケータイ小説が読めないいうことも起こった。この緩やかなまとまりを持ちつつもタコツボ化していくケータイ小説界は、人文系、特に言語系学者のフィールドワークの対象として魅力的に見えたらしく、いくつかの論文を産んだ。中でも「ケータイ小説の系譜」はケータイ小説を神話の発生と絡めたこともあって現代の金枝篇との評価も高い。
さておき、浸透と拡散、特化した小集団の枯死といった経過をたどってブームとして消費されるかに見えたケータイ小説は突如として変貌する。あるケータイ小説家が「あなたの人生を小説にします」と宣言しサービスを始めた。既にケータイ小説市場に新奇の物語要素は存在せず、彼らは自分達の生活そのものをドラマチックな嘘と仲間内のコードで修飾して市場に流すようになっていた。そこにビジネスチャンスを見出したのだった。ゴーストライターである。熟年を対象とした自叙伝ビジネスとほぼ相似の関係であるが、このゴーストライターは雇用者に対して聞き取りをしない。雇用者の一切の創作の手間を省くためであるのだが、雇用者が若年であり語るべき過去を持たず現在進行形を小説としてほしがったためでもある。従ってゴーストライターは雇用者のあとをついていき、行動を小説に書き起こす。小説の頒布とそれに生じる利益の追求は雇用者が行う契約だった。1:1対応のビジネスモデルは多くの追随者を生み、ケータイ小説市場はモデルで消費者でもある雇用者とゴーストライターに二分された。
「書として街に出よう」
一番最初に組織化されたゴーストライター協会のキャッチフレーズだ。人々はゴーストライターという形でフィクションを身にまとうようになった。そしてゴーストライター達は昔の演劇要素を発掘してきて観察者たる立場を確固たるものにした。
日本人が外国人と街を歩くと説明に困る事態に遭遇する。外国人たちはあらぬほうを指差し「あれは何だ」と訊ねる。だが日本人には「あれ」が認識できない。認識しないことになっている。勿論「あれ」はゴールドライタンであり、認識しないのはそれが黒子の格好をしているからである。組織化され認知されたゴーストライターはその数を増し、街を行く人々の半数が黒づくめだった。この奇妙な習慣は海外に紹介され「KUROKO」は各国語に定着するほどになった。デートスポットなどでは男女のカップルの後ろに黒子が一人ないしは二人控え、次にささやく愛の言葉をインカムを通して伝えていた。人々はいつしか物語の後ろを歩くようになっていたのだった。このことは、よりドラマ性を求める人々によって多くのトラブルを産んだ。例えば暴行現場を取り押さえた警察官によって逮捕された三名の中に黒子が二人含まれていたことなどを軸に、主体の所在についての論争がしばしば起こされた。この事件は合意の有無を巡って最高裁小法廷に最終的に判断がゆだねられた。
そして、殺人教唆で逮捕されたカリスマ黒子「IA☆GO」がAIであったという暴露により、混乱はピークを迎える。ゴーストライターの慢性的不足から、ゴーストライター協会は自立AIをひそかに利用していたのだった。このスキャンダルで幹部数人が逮捕されることになりゴーストライター協会は解散した。
後を受けて設立されたゴーストライター連盟が、AI「IA☆GO」の基本構造を継承して作られた記述AIをPAB(ParsonalArtificialBrain)として公式に商品化し、それがやがて人類から機械知性に文明を禅譲する流れになっていくのである。