はてなキーワード: 良かれ悪しかれとは
良かれ悪しかれ、お針子さんがいなくなってファストファッションが生まれるような変化はあるだろうね
仕事で言いたすぎる
この案件についてはもうポイントオブノーリターンを過ぎてしまってるんで、良かれ悪しかれやるしかないですよ、とかいってさあ
この企画、ここがポイントオブノーリターンだと思います。……どうします?とかいってさあ
カッコよすぎる
カッコよすぎるよ
ルビコン川とか、賽は投げられたとか、分水嶺とか、いろいろあるけど、響き的にはやっぱポイントオブノーリターンがいちばん好き
教養ある感じはしないし、ヒネリもないけどな
でもこう、やっぱ、ノーリターンとかノーフューチャーとか、そういう、ノーがついてんのってカッコいいよな
グッとくる
俺が店をつくるとしたら、ポイントオブノーリターン・カードっつうのをつくるね
これは、買い物をするとポイントがつくんだが、リターンは一切ないという画期的なカードだ
まさにノーリターンのポイントがつくから、ポイントオブノーリターンだ
素晴らしい 素晴らしすぎる
私は表現の自由戦士であり、共産党支持者(これまでは)である。
今回の件で何よりもがっかりしているのは、共産党が表現の自由を規制しようとしていることそれ自体よりも、そのために用いている理屈がきわめて雑なことである。
以下では、雑ではない規制の理屈というのはどのようなものがあり得るかを考えてみた。
【第468回】どうなる? 非実在児童ポルノ#表現の自由 #山田太郎 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=kIEuvc6kI8s
先日放送された山田太郎議員の番組から始めたい。一時間半の番組で多くの時間は、共産党が論拠として持ち出したブキッキオ氏の報告の問題点の指摘に費やされている。
私がこの番組を見た率直な感想は、「山田議員は自民党のくせに理知的でよく勉強しているな」というものと「うわダッセー、何自民党議員ごときに揚げ足取られてんの?」というものだった。
相手に喋るだけ喋らせて相手の土俵に乗った上で揚げ足を取る=相手の論理に内在する矛盾を突く、というのはほんらい共産党のお家芸であったはずである。そうした金田一やコナンのような鮮やかな議論に魅せられた人は、非共産党支持者においてさえ少なくなかったはずである。むろん私もその一人だ。
そうであるから逆に、ほんらい共産党の揚げ足を取るなんてことは相当に難しいはずであるし、なんならその揚げ足が罠である可能性も考えなければならないはずであった。意気揚々と共産党の矛盾を突きに行ったつもりが、逆に完璧に論破されて帰って行く人なんてよくいるだろう。
とは言え私は山田議員の意見が全て正しいとも思わない。特に危ういものとして、1:15:30ごろの図が挙げられる(https://youtu.be/kIEuvc6kI8s?t=4531)。ブキッキオ氏を説得するために作ったという、二次元が直接に虐待とわいせつに繋がるのではなく、あくまで性欲求を通してでしかないという図だ。
これは山田議員の「揚げ足」であると思う。なぜなら、「悪しき表現は犯罪を助長する」という「エビデンス出せよ」と突っ込まれている箇所を「欲求を通して結びつくことはあなたも認めていますよね?」とバイパスできる可能性があるからである。それのみならず、この図は後に述べるような理屈をつけて規制の論拠にできる可能性もある。
私の想像では山田議員がこの図を出したのは、「百歩譲ってあなたの主張が正しいとしても、それでも規制を行うべきではない」という主張のためだろうと思う。しかしそれを「今、譲りましたね?」と言って、自分に都合がいい理屈のために利用する、という戦術が共産党は良かれ悪しかれとても得意であったはずである。
さて、私はこの図を見て直観的に「まずいな」と思い、自分であればどのように規制が正しいという結論に持ち込むだろうかと考えてみた。そして大して労せずとも以下の三つの理屈を思いついた。
(1)欲求の規制というのはすべきではないしそもそも不可能であるから、その根本を規制すべきだ
日本には内心の自由があるし、法を通してコントロールできるものでもない。であるならば、保護法益のためには二次元のあり方をコントロールすべきではないか、という考え。
(2)欲求は機械的なものであるから、それを動作させる原因を規制すべきだ
はてならしくプログラマ向けに言えば、欲求を関数と見なした上で、間違ったアウトプットをまねくようなインプットを制限すべき、という考え。
(3)たとえば拳銃は人間を介さずそれ自体では悪を為しえないが、拳銃も規制すべきではないと考えるのか
これは読んだとおり。
むろん私はこれらの理屈に対する反論を用意しているが、今回はそうした議論が目的ではないのでわざわざ説明しない。ともかくもこれらは「反論」を必要とする程度にはありうる理屈であって、「それ~で議論として終わってるよ」と瞬間的に論破されるようなものではないと思う。
かつての共産党であれば、こうした私が一目で思いつくような理屈は当然考慮した上で、悪魔的に狡猾な政策を練り上げ、それに対する無数の想定反論と再反論もきっちり準備したはずである。
私が共産党を曲がりなりにも信用してきたのは、かれらがそうした過程での議論を、他のどの政党、あるいはもしかしたら地球上の誰よりも深く行っており、それが社会をよくする役に立つと考えてきたからである。
なのに今回の政策はなんだ。ちゃんと山田議員の揚げ足を取っておけば、もし仮にブキッキオ氏の報告を論拠に用いたとしても、山田議員は自分のための反論に追われてこんなに長々とブキッキオ氏の問題を扱うことはできなかったはずだ。
私は世の人々や自民党が知的に怠惰であったところで別に批判しようとも思わないが、共産党がそうであったら駄目だろうと思う。また共産党自身そこに誇りを持ってきたはずではないのか。本当に共産党にはがっかりした。
必ずしもそうだって話ではないし、俺は専門家でもないんでその辺注意して聞いてほしいのだが……
病的な嘘つきってのは結構発達障害だったりする。そして、発達障害は遺伝し得る。もしそうなら嘘つきを治すってのは非現実的だ。
一旦病院で診てもらった方がいい。
もし発達障害とは診断されないのであれば、あいにくと増田の接し方が悪いとも考えられる。
子供はストレスの影響によって嘘ばっかりつくことがある。嘘は良かれ悪しかれ注目を受けるからな。端的に言って愛情に飢えて嘘吐きになったりもする。
で、そのストレス要因としちゃ増田が父親に似て欲しくないが故に自分が思ってる以上にキツく当たりすぎてるとかが考えられる。
無論、他の要因かもしれんがな。
もしも「シェークスピア、バイロン、シェリー、ブレイク、コールリッジ、ワーズワース、テニスンの詩なんか学校教育で教えるのは無意味」とか言う英国人がいたとして、それを見たら、英国人じゃない自分でも「うわ……」と感じるだろう。上の例でピンとこない人は、ホメロスなり、ダンテなり、ゲーテなり何なり、適当な人名に入れ替えて下さい。
実際は、欧米の政府首脳や政治家は、演説で聖書の一節、ギリシャ/ローマの古典、有名な詩人の詩から引用することが珍しく無い。そういう場面を見ていると「風雪に耐えて残った古典」の価値を見抜ける/理解できるような頭の持ち主でなければ、国家百年の計と云う長期的なプランを建てる重職を任せられないと云うコンセンサスが、政治家や有権者の間に有るように見える。
また、古典は宗教その他の思想的バックボーンを反映しているものなので、良かれ悪しかれ国民性を反映している。政(まつりごと)をするには民の心を理解して掴まねばならない。したがって、為政者は和漢の古典を読み、よく人の心を学ぶべしと云う旨を、江戸の学者は説いていた。昔の中国でも、知識人は同じ旨を説いていたと思う。それらは理想論に過ぎなかったのかもしれないけれど、理想を失くしたら人間は御仕舞だと私は思う。
自民党の政治家もそうだし野党の政治家もそうだけど、日本の政治家は古典を引用した演説をしない(できない)。それを見ると、この人たちは、行き当たりばったりで長期的に物事を見る能力に欠けている、その場凌ぎ思考の人間ばかりなんだなと私は思う。五十年〜百年経ったら、後は野となれ山となれと云う考え方の持ち主なのだろう。
虚偽答弁をする政治家に対して、対立政治家が「いつはりの無き世なりせば如何ばかり人の言の葉嬉しからまし」とか知的で洒落た皮肉を言えたら、グッとくると思う。しかし、現実の日本の政治家は、バラエティ番組的な物言いをする人間ばかりである。
古典に関する教養は、即物的な意味で役立つ訳ではないのは確かである。けれども、頭の中身や心が貧しい人間か否かを見抜くためのバロメーターにはなり得ると思う。心が貧しい人間が政治家をすると、人間に対して酷薄な政治をすると思う。例えば、麻生太郎の言動を見ると、そう思わないだろうか?まあ、野党の政治家も五十歩百歩なのだけれども。
少なくとも、口先だけは愛国心を説くくせに日本の古典に対する教養を持たないような政治家を、私は信用できない。そして、それを国民が見抜ける状態でいるためには、やはり古典に対する教育は必要なのだと私は思う。
俺は長年の田中芳樹ファンだけど、残念ながらその頃と今回とでは「当たり前の批判」の社会的意味が違うんだよ。認識をアップデートしてよ。
タイトルの通り増田は20年来の銀英伝ファンですが、私が銀英伝を知りネットの掲示板や個人サイトなどを見始めた当時から、ファンによる「銀英伝の女性キャラはステレオタイプ過ぎる」とか「田中芳樹は女性を描くのが下手」みたいな批判は当たり前のものとしてありました。今回炎上した冒頭のツイートもそれと同系統のものであり、作品内の女性の扱いに対する感想としては見慣れた内容で特に違和感はありませんし、個人としての違和感を述べたうえでリメイクにあたってのアップデートを希望するものであって、それ自体問題があるものとは思えません(なお、「Die Neue These」はリメイクではなく「原作の再アニメ化」なので、その点は事実誤認なされているものと思います)
うん、銀英伝のファンのあいだでは「あいつ女を描けてねーよな」みたいな評は普通のものだったよね。そういう意味で、例の社会学者氏のツイートの認識はごくありふれた銀英伝認識を示したものだといえる。それだけを切り取ってみれば特に叩かれる要素はない。
でもさ、
ことと、
twitterという、簡単に支持者を社会運動に動員できるプラットフォームで、これまでさんざんコンテンツを燃やしてきた社会学者っていう属性の人が、表現の内容を変えるべきだと口を出したら、単なる批評の域を超えて作品へのバッシングを煽動してるようにしか見えないんだわ。
ジェンダーがどうこうというのも、そういうバッシングの際によく使われる常套句だからね。
「あっ、この状況、キズナアイバッシングで見たことある!」って思っちゃうんだよね。
実際にそれらの描写を変更すべきか否かはそれぞれで判断が異なるのは当然としても、こうした意見に対して「現代にそぐわないから変えろって言いだす社会学者やべえ」などと嘲笑するのは原作者のスタンスを含めて明らかに論点を見誤っていますし、「銀英伝を燃やしに来た」などと反応するのは過剰です。挙げ句に社会学者というツイート主の職業にフォーカスしてその職業全体を否定するような言説まで行うのははっきり言って異常だと思います。
もちろん、昨今のネットの社会学バッシングはどう考えてもおかしい。一部のおかしな社会学者の存在で以て学問としての存在意義まで否定されるべきではない。
ところで、「すべての男がそうじゃない」みたいな言い訳をする男に対してノットオールメンって言ってきたのってどういう人たちでしたっけ?
文系のはしくれとしてはノットオールソシオローグスと言いたいところなんだけど、フェミニズムに同調して社会問題に口を出してきた社会学者がそれを言うことは、まあ論理的一貫性の問題を惹起するよなあ。
本件もそうですが、ポリティカル・コレクトネスを巡る議論においては「過剰なポリコレを押し付けるな!」などと主張する批判側にも個人の意見に対して過剰かつ攻撃的な言動を繰り返す「反ポリコレを旗印に個人を抑圧するネット憂国騎士団」みたいな存在も目立ってきており、まともな議論が成立しづらい状況になっているように思います。
マトモな議論が成り立ちにくい環境を作ってきた責任を反ポリコレの側「だけ」に求められても困るんですが。
ポリコレが高邁な理想としての側面しか持ち合わせていなかったのであればともかく、実際には他の表現を抑圧する棒として使われてきていたという前史があった上での反ポリコレ側の過剰反応でしょう。
つい最近起きた騒動にだけ目を向けても、ジェンダーを専門とする社会学者によってキズナアイがバッシングされ、フェミニズムを掲げる弁護士や研究者によって献血ルームが攻撃され、「ミカンはお母さんが買うもの」などと宣うフェミ学者たちがラブライブの農協コラボを焼きに来た、といった話があって、その上で今回の社会学者氏の感想への過剰反応があるわけ。
ポリコレ棒でヒステリックに殴られてきた側がちょっとでもポリコレっぽく見えるものにヒステリックに反応するのは自明の理では?
悪いけど、ポリコレ棒を振り回して暴れ回ってきたポリコレ憂国騎士団の皆様にはもうウンザリしてるんだよ。
だからといってこちらも憂国騎士団ムーブをしていいことにはならないけど、ポリコレ側の憂国騎士団ムーブのことを棚に上げて反ポリコレ側だけを憂国騎士団と言われても困惑するほかないんだよね。トリューニヒトみたいな詭弁やめろ(憤怒)
実際問題、2013年の人工知能学会表紙事件以降、表現(特にオタクコンテンツ)をネットで叩いて社会問題化し、金と名声を得るというのは、社会学者の定番になってる。最も顕著だったのが宇崎ちゃん献血ポスター騒動
いや、ネットで表現を燃やしたところで影響力とか声望とか自尊感情とかはともかく金は得られんよ(少なくとも学者の世界では)。金目当てで彼らが動いているというのは被害妄想がすぎる。そりゃ有名どころのレーベルで新書とか書けばまとまった金は入ってくるかもしれんが、彼らは現段階ではtwitterで吠えてるだけで別に一般向けに売れそうな本を書いているというわけでもないし。
この界隈Twitterさえ見なきゃ起きてない論争多くない?ほぼネットそれもTwitterでしか「社会学者」を知らなそうな人多くない?
そりゃ、多くの人には表現を燃やしに来る「社会学者」の姿しか見えてませんし……
アカデミアあるいはそれと近いところにいれば、社会学といっても色々あって、ハマータウンの野郎どもを研究する人もいれば聖なる天蓋を論じる人もいて、ジェンダーやオタク文化に関心を持っているのは一部であり、表現を燃やしに来るのはさらにその限られた少数に過ぎず、もっと言えば社会学者といっても博士課程の院生から誰もが参照すべき大御所まで「権威」に勾配があることくらい理解しているだろうし「社会学者」を十把一絡げに論じるべきじゃないっていうのは自明の理なわけだけど、燃やされた被害者からはそのごくごく一部の姿しか見えないので。
アカデミアと縁のないそのへんのオタクにとって、哲学者や数学者や工学者や物理学者や言語学者や文化人類学者なんてろくずっぽ知らないのが「普通」でしょう。普通の人は良かれ悪しかれそんな学問について詳しい知識は持ってないんだよね(漠然としたイメージは持ってるかもだけど)。だからtwitterのオタクがロクに社会学者について知らないってのもある意味当然なのよ。
そんな学問についてよく知らない一般大衆は、まあ、自分たちの表現を燃やしに来た一部の社会学者の姿を見て「社会学者」のイメージを形成しちゃうよね。
もちろん「そんな社会学者ばかりじゃない」という異議申し立てはどんどんやればいいと思うよ。「そんな男ばかりじゃない」と同程度には正当性のある反論だろうし。
『ムーラン』と『銀河英雄伝説』が同時並行で話題になってホッテントリに出まくってるのに誰も『風よ、万里を翔けよ』の話してないのおかしくない!?
5年間勤めた前職を退職したのは自分にとってはどうしようもなかったからだ。
元々アフィリエイトの軍資金を稼ぐためだけに「半年くらい入れればいいや」と思って入った会社だったが
そこの創業者社長が面白い人だったのでついつい長くいてしまった。
こんな伝説がある。
まだ創業して間もない頃、ある営業がお客様を怒らせてしまったことがある。
お客様は電話越しに「お前じゃ話にならん!社長をだせ!」と息を巻いたそうだ。
そこで素直に社長に電話を取り次いだのだが、しばらくしたら「最初のやつに戻してくれ」と言われて結局最初の営業が対応したという。
年齢は若く、右翼的な思想の持ち主で、他の従業員には恐れらていた社長だったが、どこか愛嬌というかいい加減なところがあり
失敗しない人間より失敗する人間を評価する気質があったせいか居心地がよく、また会社も順調に成長していった。
退任の理由はいろいろと聞かされたが簡単にいうと「飽きた」というのが本音なのだと思う。
どこのベンチャー企業もそうだが、会社が成長するというのは一方的にいいことばかりではない。
顧客や従業員が増えれば厳密な資産運用も事業計画も必要になるし、そのためにはより優秀な従業員をいれなくてはいけない。
しかし創業メンバーの全てが組織の巨大化に耐えられるわけは決してない。
20人規模の会社のエースが必ずしも100人の従業員を抱える会社の取締役として勤まるとは限らない。
またオーナー社長独特の孤独さがそれに拍車をかけたのかも知れない。
結局会社は類似事業を展開する大手企業に全株売却による子会社化という形になった。社長は即退任したかったようだが
1年はいてくれと言われ、結果形だけ在籍してるが実際はほとんど会社にこなくなった。
その後社長職はNo2の役員が昇格する形で引き継がれたが、オーナーだった前社長とは違い100%子会社のサラリーマン社長である。
その後2年ほど在籍したが、やはり前社長に対する面白さで続けていた身としては「大手子会社の従業員」に変わることができなかった。
手続きが多くなり、前社長のようなリーダーシップが発揮される場面も少なくなり、安定の代わりに面白みがなくなってしまった。
また全株式売却以前からいた従業員に比べ、それ以降に入った従業員は良かれ悪しかれ「良い子」であり、そういう意味でも
世代交代の空気を感じてしまい、それが退職のきっかけとなった。
前社長は育てた会社を売却してお金と自由を手に入れ。その怖い前社長に必死についていった幹部たちは大手グループの幹部社員という肩書を手に入れ、
食い詰め浪人のような古参社員たちも収益と経営基盤の安定を手に入れ、新世代の従業員たちは大手グループ企業の従業員として相応しいキャリアや学歴をもつ若手社員たちだ。
そういうのに耐えられなかった。何の目的があるでもないが「良い子」として振る舞うことができなかった。
水清ければ魚住まずではないが、会社の創業期や発展期の勢いを楽しんでしまうと安定期というのはどこか白々しく「劇の終わり」を感じざるを得なかった。
以前、中途で入った会社に合わなくて後先考えずに辞めたことがある。
その時はもうITはやらないと誓ったものだったがさりとてやれることなんかない。
しばらく引きこもり状態で過ごしていたがで貯金はどんどんなくっていく。
そこでもうしょうがないから半年だけまとまったお金を稼ぐためにとある会社にエンジニアとして面接しにいった。
契約社員の募集だったが正規雇用として雇ってもらい以後5年間その会社に勤めた。
在職中はとにかく頑張った。お金を稼ぐというよりその会社そのものの勢いや空気がマッチしていたので
知らないことでやったことがないことでも挑戦し5年間の間に月収で8万円以上昇給し年収500万円ほどに到達した。
またいつしかアフィリエイトも下火になりその夢を追うことを考えなくなった。
現在はフリーエンジニアとして働いているが、良かれ悪しかれかつてのようなガッツはない。
前職では頑張った反面他人と対立することも多く、それが5年の間に重荷になっていたからだ。
また現在では最初から前職以上の賃金を頂いているので抜きん出る必要がなく、
逆にまわりとうまくやっていくほうが得策だったからだ。
自分の利益は追い求めなくてはいけない。それは全てではなくても豊かさの指標のひとつであるからだ。