はてなキーワード: 実践とは
男性たちが明かした性被害 https://www.nhk.or.jp/gendai/comment/0026/topic072.html の記事を読んで高校生の頃(20年以上前)の女性から受けた嫌な記憶がよみがえった。
高校生の頃、プロの世界でも95%は女性が占める、とある習い事をはじめた。
平日は学校が終わったあとに1時間くらいかけて通って帰りは22時過ぎ、週末はバイトをしてその交通費と受講料を稼いだ。
私が通った教室も、私がはじめての男性生徒で内向的だった自分にはなかなかハードルが高かった
(内向的な奴がいきなりそういう業界に飛び込むのも我ながら謎の勢いがあるが、それはさておき。まー若さよね)。
更衣室も無くてトイレで着替えて、気持ち的にも窮屈な思いをしながら頑張っていたけどあるとき女性講師(当時30歳くらい)が、休憩時間に生徒の女の子たちと
と雑談をはじめた。私がいることわかっているはずなんだけど。
女性同士ならそういう会話も普通なんだろうけど、男1人で居づらい環境でそういう話をされるのは、(今振り返ると)ハラスメントだった。
(セクハラおじさんなんてそこらにいるので、多くの女性が当時の私と似たような思いをしているんだろうな)
この経験はその後しばらく自分の中で呪いになっていて、それなりに苦労した気がする。
※フラッシュバックした記憶を書き留めようと思ったのだけど、セクハラに遭う女性のストレスを少しだけ想像できた
実際自分が50歳に近い年齢になって、歳をとっても思慮の無い人間なんていくらでもいるし、あの講師が特別では無かった。
ただ全体から見れば特別ではなかったとしても、1人の子供に与える影響は特別な力をもっている。
その講師とは15年以上会わないで、40歳を過ぎてからたまたま再会して少し関わったけど結論としては、思慮の浅いヒスな人だった。
(お世話になったんだけどね。。)
最近はかなり減ったけど、それでもイメージか半可通の知識で煽る奴がいるから困る。
甘みを足すのに砂糖、塩味だったら塩を足す流れで、旨味を足してるだけじゃん。
実際、自分が料理する場合は備えておく基本的な調味料の一つというか、ないと困る場面が普通にある。
TKGに入れるのはオリーブオイル、味の素、醤油、黒胡椒(挽きたて)だけど、俺はこれ以上に旨いTKGを知らない。
そしてこのレシピは、味の素がないとオリーブオイルの苦味と醤油の塩味と黒胡椒の辛味ばっかりで、絶対に美味しくならない。
というかTKGに味の素使ったことがない人は人生損してると言っても過言じゃないので、必ず一度は試してみるべき。
それから即席味噌汁は鰹節+味の素+信州味噌+乾燥わけぎをお椀に入れてお湯を注ぐだけ。
でもこれだけで、そこらのコンビニに売ってるようなインスタント味噌汁なんかよりも遥かに美味しい味噌汁が出来上がる。
もし上述のレシピを味の素抜きで美味しくできるなら是非とも教えてほしいわ。
絶対無理だと思うけど。
身近なスーパーに置いてあるような豆板醤を使う限り、味の素で旨味を補わないと辛味が立ち過ぎてしまい、食べる人を選ぶ、トゲのある味になってしまう。
ちなみに豚ひき肉100g・豆腐300gに対し豆板醤は大さじ1、つまりこれ以上は減らせない最低量。
そして豆板醤と並ぶ旨味供給源である豆鼓は既に20粒くらい入れているので、これ以上入れたら多分しょっぱくなる。
甜麺醤で甘くしようにもこれまた既に大さじ1入れているので、ここからの増量は味が重くなってボケそう。
というわけで、中華もまた味の素を使わないと調理の難易度が一気に上がってしまう。
てか、使わないで済むレシピなんてある?
とにかく、こっちは実際色々作って味の素の必要性を経験的に知ってるんだよ。
そして実践主義の料理人の最右翼だった北大路魯山人だって、味の素をディスりつつも実際は適量使っていたという歴史的事実もある。
「じゃあ、やってみろ」
と言いたくなるのだ。
あと、そう。いわゆるトランスジェンダリズムの理論と実践があまりに常軌を逸しているために、事実を指摘すると陰謀論に見えてしまうということがアイデンティティポリティクスをめぐる問題としてあるな、というのを山内雁琳論文を読んで考えたのを思い出しました。— 栗原裕一郎 (@y_kurihara) August 5, 2022
SESや多重下請け構造だと、基本的にスキルというよりは単純労働力が求められる。
新しい技術を使って100時間で開発するより、Excel作業で2000時間かけたほうが20倍もうかる。
よって、多重中抜きの元請けには、IT技術というより「人売り」「奴隷商人」のスキルが求められる。
異業種のトップ人材のほうが確実にITツールを使いこなしていると感じるレベル。
「それで肩書がエンジニアなの?」という失望感から怒りに変わることも多いので、
根っからのエンジニア気質の人間は、内製の会社に行った方がいい。技術で社会貢献できるだろう。
あと人売りのポンコツの多くは、あまり自分のレベルアップに興味がなく、
会社にしがみついて人生を平凡に逃げ切るプランを実践してるので、人間的に合わないことが多い。
悪い腐り方をして、腐葉土になりきれず、滞留して社会という森を腐らせてしまうような生き方である。
SESや多重下請け構造以外ではあまりお目にかからない人材たちである。
あと彼らに共通するのは、徹底して自信がなく、ビクついていることである。
おそらくその中間点で、心地いいポジションを見つけた結果の滞留物・腐敗物なのだろう。
ただ、みずから望んで人権侵害に魂を売り払った以上、簡単には逃げられず、深刻度は高い。
ヤ〇ザを利用してメリットを享受したら抜けられないのと同じである。
しいてメリットを挙げるとすれば、タイトルの通り、ポンコツは反面教師として学びがあるということである。
臆病な卑怯者になってはいけないというサンプルを提供してくれている。
YouTubeでコバンザメの動画を見てみると、どうしても滑稽に見えてしまう。
https://www.youtube.com/watch?v=BtE2NNzxpvw
anond:20220805225632 Part1 〜学問の自由とその濫用〜
anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略〜
anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜
anond:20220805230307 Part4 〜キャンセル・カルチャー批判〜
anond:20220805230534 Part5 〜Ahmedが見立てたキャンセル・カルチャー批判のメカニズム〜
anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答〜
https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI&t=3428s
57:08~1:05:19
抑圧側と被抑圧側との逆転の構図
抑圧側と被抑圧側とのこのような逆転の構図というのは、2010年代にはオルト・ライトと呼ばれる新興右派、
あるいはそれとも重なるミソジニーに満ちたオンラインの男性主義の主張などにおいて、幅広く利用されるようになっていきます。
もちろんマイノリティを、かぎかっこ付きの「私たち」の外部にある敵というふうに認定する、
その敵の攻撃から身を守らなくてはいけないという形で、当該のマイノリティへの抑圧や暴力を正当化していくっていう、
その形というのはもちろんその以前から、
例えば排外主義において、あるいはモラル・パニックにおいて広く見られてきたものではあります。
9.11の同時多発テロの後、対テロ戦争期の欧米各国におけるイスラムフォビアの暴力っていうのはこういうものだったわけですし、
あるいは70年代80年代に、同性愛者とりわけゲイ・バイセクシャル男性というのを、
当時は性的捕食者、セクシャル・プレデターっていうんですけれども、性的捕食者あるいはHIVウイルスの拡散元として、
非常に激しくバッシングしたのが英米のモラル・パニックっていうのになるんですが、これなんかがすぐ念頭に浮かぶと。
じゃあそのオルト・ライト勢力やオンライン・ミソジニー・アカウント群を巻き込んだ、2010年代の特徴っていうのは何かっていうと、
これ単にマイノリティ側を、自分たちを脅かす敵なんだというふうに認定するだけではなくって、
マジョリティ側が力のある側が、自分たちを「差別されている」「抑圧されている」、あるいは「自由を侵害されている」という形で、
はっきりと、私たちこそが「被害者である」「被抑圧者である」という形で、語り始める点にあると言えるかもしれません。
そういう語りのこの後もいろいろ出てくると思うんですが、
今のところ最新の形がいわゆる「キャンセル・カルチャー批判」というものになります。
- CAMBRIDGE DICTIONARY
- MERRIAM-WEBSTER
キャンセル・カルチャーという語が急激に知られるようになってきたのは、
2010年代後半のことで、したがってだから、数年なんですよね、
キャンセル・カルチャーの意味とか語法も、現時点で完全に固まってるとは言い難いところがあります。
実際、例えば辞書の定義を見ても、Cambridge Dictionaryだと、
「社会あるいは集団、とりわけソーシャルメディアにおいて、自分を傷つけ侮辱すること」、offendという言葉ですが、
「自分を傷つけたり侮辱したりするようなことを言った人を完全に拒絶したりとか、
あるいはその人への支持をやめたりする振る舞い方」、いうふうに定義している。
それに対して、もう一つ別の有名な辞書でMerriam-Websterなんかを見ると、
「不同意を表明したり社会的に圧力をかけたりする手段として、集団でキャンセル行為」、
このキャンセル行為というのは「公に、とりわけソーシャルメディアにおいて、特定の人や組織への支持を撤回すること」なんですが、
「集団でキャンセル行為を行う実践」っていうふうにしていて、だから重点がちょっと異なってるんですね。
またピュー・リサーチ・センターによる2020年時点の調査では、
リベラル寄りの人々は、
キャンセル・カルチャーというのは、ある人に自分の言動に対する責任を取らせるためのアクションと捉える傾向が強い。
それに対して保守派に寄っていく人ほど、
同じキャンセル・カルチャーを検閲であるというふうに捉える傾向があるということが明らかになってます。
つまりある人々が、差別的だったり暴力的だったりするなど社会的・文化的に問題があると思われる言動を、
放置しないために取るアクションだ、ってふうに考えているものが、
より保守的な別の人々にとっては、これがつまり「キャンセル・カルチャー批判」の文脈になるわけですけど、
そちらの人々にとっては、それが集団での圧力とか検閲とかっていう形で理解されている。
言い換えれば、「キャンセル・カルチャー批判」という形でのキャンセル・カルチャーってのは、そもそもの最初から、
しばしば多数派である鉤括弧付きの「私たち」の言動を、差別的とか抑圧的などと非難することで、
「私たち」の言動を検閲する抑圧する、あるいは「私たち」を差別する圧力というふうに定義することができる。
だから先ほどからお話ししている逆転の構図を含み込んだ用語っていうのが、キャンセル・カルチャーだと言えると思います。
「正義と開かれた議論についての書簡」(通称「ハーパーズ・レター」2020)
153の署名: ノーム・チョムスキー、サルマン・ラシュディ、マーガレット・アトウッドなど
「人種的、社会的正義を求める強力な抗議運動」や「とりわけ高等教育、報道、慈善事業、そして芸術活動など、社会におけるより一層の平等と包摂を求める声」というような「必要な過去の清算(reckoning)が、同時に、開かれた討議と差異に対する寛容さという規範を弱体化させ、それよりもイデオロギーの一致を求めるような、一連の新しい道徳的態度と政治的コミットメントを強化してしまっている」
保守派による「キャンセル・カルチャー批判」の事例というのは、とりわけ2020年代になってからはほとんど枚挙にいとまがない。
毎月のように何か出てくるんですが、ただ時間がないので、
ここでは学問の自由に関わる、そして最も知られた例の一つを挙げておきたいと思います。
何かというと、2020年に公開された「正義と開かれた議論についての書簡」というものです。
一般的にはハーパーズ・レターと呼ばれるんですが、その公開書簡なんですけども、
この公開書簡は、当時のトランプ大統領に代表される右派の動きというのは民主主義の脅威であるというふうに位置付ける一方で、
同時に右派はまずいと、だけど同時に左派の間にも異なる見解に対する不寛容がまん延しつつあるというふうにして、
ここの何か不寛容とかそういう表現が、先ほどちょっとお示ししたブッシュ・シニアのポリコレ評価と、
用語としてこう微妙に近似しているのは非常に興味深いところなんですが、
とにかくただこれだけ見ると何でもない主張に見えるんですけれども、
この公開書簡、例えばノーム・チョムスキーとか、サルマン・ラシュディ、マーガレット・アトウッドなど、
非常に有名な人たちを含む153名の研究者・作家・ジャーナリストが署名しているんですけども、
この公開書簡、何でもない、割とこう、どうでもいいというか普通のこと言ってるように見えるにもかかわらず、
公開されるとすぐに「キャンセル・カルチャー自体をキャンセルしようとする公開書簡である」っていう形で、
人種的・性的マイノリティを中心とする若い左派層から大きな批判を受けることになります。
キャンセル・カルチャーという用語は、それどころかキャンセルっていう用語も1回も使われてないんですね。
じゃ何で批判が来るのかっていうと、ここ(=スライド)にあるんですけども、
「とりわけ高等教育、報道、慈善事業、そして芸術活動など、社会におけるより一層の平等と包摂を求める声」というような
「必要な過去の清算」、この清算というのはReckoningという言葉を使うんですが、これが同時にそれは必要だと、
だけど同時にそれが「開かれた討議と差異に対する寛容さという規範を弱体化させ、それよりもイデオロギーの一致を求めるような、
一連の新しい道徳的態度と政治的コミットメントを強化してしまっている」というふうに言うと、
この表現が、とりわけBlack Lives Matterを通じて、
Racial Reckoningって人種的な過去の清算の盛り上がりを迎えていた英米両国においては、
人種主義への批判そのものを不寛容だと見なす「キャンセル・カルチャー批判」の文脈につながる書簡だというふうに受け止められた。
同時に、キャンパスにおけるポリティカル・コレクトネスの批判者として知られていた、
ハーヴェイ・ワインスタインの弁護を引き受けたことで、学生から抗議を受けてハーバード・ロースクールの学部長職を退くことになった、
この公開書簡の公開時にはトランス排除言説の支持者として知られていて、その言動に批判が集まっていた、
この公開書簡が「キャンセル・カルチャー批判」の一翼をなすものと受け取られた一因ではあったと思います。
この書簡は、先ほどもちょっと申し上げたように、例えば左派の代表的知識人と見られてきたチョムスキーが署名をしている。
同時に、ネオコンサバティブの論者である、例えばフランシス・フクヤマみたいな人も署名してるんですね。
つまり従来の分け方で言えば、まさに右も左もなく同意できる原則を語っているように見える。
にもかかわらず先ほどから申し上げているように、
実際には、より若手のマイノリティのライターとか研究者から強い批判が出る結果になった。何でか。
恐らくこれは、後者に当たるより若いマイノリティの人たちというのは、
近年では力のある地位にある人々が、自分たちの差別的・抑圧的な言説の責任を問われたときに、
その批判や糾弾を振り払うために使う枠組みになってしまっている、ということを感じ取っているのに対して、
フクヤマにしてもチョムスキーにしても、ある程度は地位が固まった偉い人たちっていうのは、
その事実をあまりきちんと把握できてなかった、いうことではないかと思います。
【追記 なるほど……アタシの嫌いなものは投稿するな!と言っているように見えたんですね
投稿するなとは思ってませんよ!ただ「カプとして」だけでなく「腐向け作品として」ワンクッションや検索避けをきちんとつけてほしいということです。それだけだと納得してもらえないかと思ったので色々付け足してたらこんなに長く……】
お気持ちを表明したすぎてついにアカウントを作ってしまったので、お気持ち表明したいと思います。なるべくトゲトゲしくならないように努めるから、たくさんの人に見てほしい。
これネットで公言するとなんて言われるか、皆さん分かりますかね?
このあたりです。コイツ盛ってるやろと思われるかもだけど、実際に言われたことあります。
先に断言すると、少なくとも私はBLや腐が苦手なのとLGBTの人たちが苦手・嫌いなのかどうかは完全に別問題です。
そもそもBL・GLとは、男性同士・女性同士の恋愛模様を「題材とした作品の総称」です。「同性に恋愛感情を抱く人そのもの」のことではありません。余計なことかもしれませんが、言っちゃえばBLGL作品は必ずしも本当に同性愛を知る人が書いているとも限らないです。あくまで想像上の産物なんです。
分からない方々に向けてご説明すると、バ●やバ●ロマンとかで皆さん一度は嗅いだことがあるであろう「森林の香り」と、ガチの森林の匂い。全然違うけど、表面上同じようなもんに見せてますよね?これでなんとなくニュアンス掴んでいただけると嬉しいです。
私はBLで描かれる男性同士の恋愛描写を見るのが生理的に苦手なんです。見てしまった時には、テレビのチャンネル変えてたら恋愛ドラマのベッドシーンに遭遇した時みたいな……そんな感じの気持ちになります。でも、実際のLGBTの方々やその恋愛を軽蔑も差別もしていないです。むしろ、認められる世の中になったら素敵だと思います!
ただ、BLが苦手だと言うとすぐ差別者扱いされることの繰り返しなので、最近は段々あまり関わりたくないとは思い始めた日々です。
ここで若干気づいた方もおられるかもですが、BLと腐向けって、同じじゃね?って人。いますよね。腐女子さんの中にすらいると思います。「腐女子って呼び方嫌い。BL愛好家って呼んでほしい」って人見かけたことありますし。
私も昔はそうでした。なので総称して、BLが苦手と話していたんです。もちろん、誰かれ構わず話してたわけじゃありませんよ?
そんなある日……一次創作BL、いわゆる商業BLにお詳しい方にアドバイスを頂きました。
「BLが苦手と一括りにすると、オリジナルのBL作品と版権作品のキャラクターのBL創作が混同しちゃうから気をつけて」とのこと。目から鱗でしたね……
確かに、腐っているという表現は今のBLの受け入れられつつある現代には不快な表現かもしれません。しかし、商業BLもひっくるめてお好きな方でなければ「BL愛好家」とは言えないのかもしれません。まあ、このことについては後ほど。
私はBL自体どちらもNGですが、商業の方はそもそも見に行かなければ見かけることも少ない、配慮をなさっておられる界隈です。ただ、昨今の腐向け界隈は違います。長すぎましたがここからがやっと本題です。
先ほども書きましたが、ここ数年は腐女子への理解が進み、受け入れられつつあるからか、オープンに腐ァンアートを発信する人が増えています。昔は影の存在でしたから、世の中から受け入れられたのは喜ばしいことなんでしょう。
しかし、BLや腐向けが好きな人、好きでも苦手でもない人、苦手な人の3種類がいるとします。好きな人が自由を手に入れることのできた今、苦手な人が陰に追いやられつつあると思うのです。
腐女子もとい、二次創作BLのお好きな皆さん。胸に手を当てて思い出してみてください。オープンになりすぎていませんか?
腐向けイラストのサムネイルに、ワンクッション入れていますか?入れなくとも、腐注意の一言を添えずに投稿していませんか?後述しますが、カプではなく、腐向け創作自体を苦手とする人も存在します。
検索避けされた腐向けイラストに、キャラクターの名前をリプライしてしまっていませんか?検索やトレンドには、リプライでも出てきます。トレンド入りしたキャラクター名から、モブ男に組み敷かれる推しを見せつけられたこともあるので、おそらくそうだと思います。
ここから、あらゆる反…意見を想定して考えまくった自論を展開させていただきます。
1つは、散々言ってきた通りBL自体が苦手だからです。言うまでもなかったですかね?
「なんでBLだけクッション入れないといけないの?もう立派な王道ジャンルなんだから、他のものと混ぜてもいいと思う!」
と思った人もいるでしょう。
BLは、大好きな人もいれば、私のように受け入れられない人もいます。なので例えばパクチーだと思ってください。
「パクチーはなんで『この料理はパクチーが入っています』って書かないといけないの?もう話題の野菜なんだから、にんじんとか玉ねぎと同じ扱いして!」
と言われているような心境です。世の中には残念ながら「人を選ぶもの」は存在するのです。
もちろん私の言う「人を選ぶもの」は「同性愛者さん自体」ではなく「BLや腐向け創作」のことです。
そして2つ目の理由。これに該当する仲間がいればとても嬉しいので是非教えてほしいのですが、
「既存のキャラクターの性的指向・セクシュアリティを改変される」ことがめちゃくちゃに嫌なんです。自分の知るキャラクターの大切な部分を侵され、弄られてしまったような、表しようのない喪失感とショックを受けます。私の場合、推しているジャンルじゃなくても見られません。
ここで「でもそのキャラが異性愛者だとは限らないでしょ!もとから同性が好きな可能性もあるじゃん!」と言いたい人は少なからずいると思います。
まずはあえて勘違いされるであろう言い方をしますが、全ての版権キャラクターは公式からの言及がない限り、異性愛が普通だと思います。
「普通って何?普通とか普通じゃないとか差別だ!」と思うでしょう。
この「普通」とは、「ノーマル」ではなく「デフォルト」です。人間という生き物のデフォルト設定、と私は思ってます。
分かりますよね?お手元のスマホの着信音やら何やら、全部デフォルトの状態が決まっています。デフォルトのままでなければならない理由はありません。けど、何もない限りはデフォルトのままなんです……伝わりますかね?
よって、何の言及もないキャラクターは原則的に同性愛者ではない、と考えることは、何もおかしくもないですし、差別や否定でもないと分かってほしい。
その方が、とある国際的に人気のあるジャンルの公式タグを見て回っていた時のこと。
「海外の腐女子は公式タグつけて腐イラスト出してんだし、私たちだって公式タグで腐イラスト出さない?」
( Д ) ゚ ゚
その方は思わず「腐向けが苦手な人もいるのでやめてほしいです」とやんわりコメントしたそう。すると
そ う い う 『 感 情 論 』
お分かりでしょうか?もはや腐女子の皆さんにとって、腐が苦手という意見は「感情論」でしかないのです。
「私だって苦手なカプありますし、見るとキレることもありますよ」
ここで問題なのは、その方の注意を「キレている」と認識しておられることもまあまあなのですが、その方の言う苦手は『誰と誰の創作BLが苦手だ』という意味ではなく『創作BLが苦手だ』という意味だという本質が伝わっていない点です。
例えると、「パスタ」と「スパゲティ」の違いみたいなもんですね。
ただ、この二人目の腐女子さんがいうことも事実。NL厨の皆さんも、きちんと検索避けやワンクッションをしましょう!カプ名はミュートしやすくなるので◎ですが、キャラクターの正式名称を付けるのはご法度ですよ!
腐向け創作が苦手と言えない世の中。苦手な人が黙って耐えるしかない世の中。このまま完全に確立していくのを止めたいです。
嫌なら見るな?はい。嫌だから見ないようにしてます。それでもたくさん見かける、嫌でも目に飛び込んでくるものには、せめてカーテンくらいつけてください。
それは同性愛にフタをするのかって?違います。「BL」「腐向け」という大きなジャンルの特殊性を、どうか自覚してください。
エロが苦手な人もいれば、グロが苦手な人もいる。なら、BLやGLが苦手な人がいて何が悪いのか?
LGBTとBL・GLを同化しないでほしい。それこそ偏見なんじゃないかと思います。自分達が差別されているのではなく、ましてや同性愛の方々が差別されているわけでもない。そもそも自分達が同性愛者さんと同じ視点にいると思わないでください。
この文章を読んで少しでも何かを感じてくださったなら、イラストのワンクッション、または「腐」と「カプ名」の二つの明記、そしてキャラクターの名称を添付やリプライしないこと……どうか実践してみてほしい。あなたの配慮で救われるオタクが確かに存在します。
あっ、でも一つ!
腐向けや腐女子さんを嫌っていることを公言し、過激で攻撃的な誹謗中傷をする、いわゆる「嫌腐」の人たち。この投稿は"決して"あなた方の味方をした文章ではありません。どんな理由であれ、人を侮辱し、自分の感情を投げつける行為はしてはいけないことです。あなた方の存在も、私や他の腐向けを苦手とする人々への偏見を生んでいる。暴れたいなら鍵をかけて、仲間内で暴れていてください。OK?
そうですあなたです。
最近の女性向けゲームは「原作でBLじゃないキャラクターをカップリングしたい」という腐女子さんの特性を狙って「BLとは断言しないが限りなくBLを意識した展開をしておきながら女性向けゲームを謳う」現象が非常に多いと思っています。多分勘違いじゃないです。某ゲームアプリはうっかり漏らしちゃいましたし。
あなた方には何の違いもないかもしれませんが、腐女子さんとそうでない人、ましてや苦手な人は大きすぎるほど違います。
お金をよりたくさん儲けたいのも分かりますが、あなた方がターゲットを欲張ることで、このトラップにひっかかり「好きなのに嫌い」の無限スパイラルに陥る女オタクもこの世で生きているのです。(私)
『推す』という感情は、苦手ならすぐ捨てて失くせるものではありません。オタクを舐めないでください。
ここまで書かせていただきましたが、話題になるならない限らず「これ私が書きました」と出ていくことは絶対しないつもりなので、なんかそんな感じの人が出てきたとしたら昨日の夕飯でも教えてあげといてください。
批判もたくさん出てくると思いますし、傷つくのもすごく怖いです。でも、人として悪いことを言っているわけではないと思いますし、伝わってほしいです。
とここで、腐女子腐女子言うなや!という方も多いことでしょうとも。まあ、最近は腐カプ化させることを『腐らせる』とも聞きますし、こっちからしたら腐らせられてる気持……失礼。何もありません。
私は実業高校出身なのですが、とある先生に教わったことがあります。
『人間に害をなす変化が「腐敗」で、逆に益をもたらすものを「発酵」と呼ぶ』
害は言い過ぎだと思いま……す…が、せめて歩み寄ってくださる方がいれば……
アルファオス、ベータオスのn=1、女から見た恋愛経験がネット上に記載
(https://anond.hatelabo.jp/20220805003819 など)される
↓
と突き放すことによって精神的安定を得ようとする。
なぜなら、非モテ男が非モテである理由が公正でないとストレスを感じてしまうため。
いわゆる公正世界仮説ですね。
恋愛経験談を見る度に条件反射で非モテ男を叩くようになっていく。
そう、PUAですね。
教義の内容が日本人から金と女をだまし取って海外に送る内容だったとしてそれ自体は自由かもしれないけど
【オレオレFC】止まらない負の連鎖…相田監督コロナ感染に、再開初戦敗戦で、リーグ戦8試合未勝利 迫る残留争い 急遽代行の野牧監督「申し訳無い」
オレオレFCは30日、ホームで浦和レッズに1ー3で敗れ、リーグ戦8試合未勝利となった。相田満博監督とトップチーム2名、コーチングスタッフ1名が同日、新型コロナウイルスに感染した事が発覚し、野牧憲広ヘッドコーチが急遽、監督代行を努めた試合は前半4分にセットプレーから失点すると、17分にも追加点を献上した。後半は攻め込むシーンも増え、38分にMFジュシエのゴールで差を縮めたが、43分に再び失点して力尽きた。次節は6日、ホームで名古屋グランパスと対戦する。
無念のホイッスルが鳴るとオレスタのピッチでロイブル軍団はピッチに立ち尽くした。1―3。相田満博監督が新型コロナウイルスに感染し、急遽、監督代行を努めた野牧憲広ヘッドコーチは「非常に残念ですし、サポーターに申し訳無いです」。MF山本主将も「キャンプでやってきた事は出せたけど、結果に結び着かなければ…」。中断期間中、静岡・伊東でキャンプを張るなど、再起を期してリーグ戦再開初戦に臨んだだけに、敗戦が悔しかった。
「様々なシステムをキャンプでやってきた中でこの布陣がしっくり来ていた」(野牧監督代行)4ー1ー4ー1の新システムで臨んだ試合だったが、いきなり劣勢に立たされた。前半4分にセットプレーから先制点を献上。同17分には相手選手の猛烈なプレッシャーに自陣でインターセプトされ、そのままシュートを放たれて追加点を献上した。「前半の20分くらいまでは中盤がバラバラで、間延びしていて、そこを突かれて2失点したのは痛かった」と指揮官は前半の2失点を悔やんだ。
それでも飲水タイム中にポジショニングを修正すると、危ない場面が減り、逆にポゼッションが出来るようになり、浦和ゴールに襲いかかった。前半33分には加入後初スタメンのDFリシャルソンの深い位置から右足で狙うも相手GK西川の好セーブに阻まれ、同38分の山本のミドルもネットを揺らせなかった。後半はシステムを3ー3ー2ー2にし、さらに猛反撃。サイドからも中央からも仕掛けると、後半38分。中盤の早いパス回しから途中出場のMFジュシエがオフサイドぎりぎりで飛び出し、冷静に今季初ゴールを決めて1点差に詰め寄った。
だが、後半43分再びカウンターからダメ押しの3失点目を喫した。野牧監督代行は「ゴール前に迫る場面はあったけど、結局、中を固められて、こじ開けるまでには至らなかった。目的は勝つことだったので、相田監督が感染したりと様々なアクシデントがありましたけど、選手達は集中して入れたし、キャンプでやってきた事は実践してくれた。ただ結果は残念です」と表情を曇らせた。
次節はホームで名古屋と対戦する。山本は「アクシデントもありましたけど、僕達は勝つことに集中するだけだったので、負けたのは悔しい。だけど得点シーンは自分達のやりたい形だった。前回よりは良かった部分もあったので、あとは結果が出せるようにしたい」と前を向いた。相田監督の次節復帰は未定で残留争いの足音も聞こえつつあるが、総力戦で乗り切る。
集金が実践??
仮にそうだとして、集金の末の最終目的は何なの?
世界征服っすか?
そうなると軍隊とか持たないと行けないけど、
持ってなかったからそうとは考えづらいよ
大体、集金が目的なら
金集めてそれで終わりだから、50とか60でとっくにやめてる
シンプルに、共産主義は理想を描いて実践しようとした(かつ実践はことごとく失敗した)、反共は共産主義に対抗したが、共産主義の自滅によりその役割を終えた。だと思ってる。
https://anond.hatelabo.jp/20220730101026
正直ここまで悪い意味で有名になってしまった統一教会で皆さんを救うのはなかなか厳しいと思った。
疑われてもしょうがない、李下で冠を正しまくった統一教会も悪いと思ってる。
俺も山上母のように献金しまくって、家族を省みないのは違うと思ってる。
(統一教会内部にも献金を食い物にする、サタン的な人間がいるのかもね。)
現在は統一教会はコンプライアンスができて、そこまで激しくやってないんだけど、
こうやって過去から糾弾されているのは意味があると真摯にとらえ、
自浄作用というか、行き過ぎた政治との癒着はやめるべきだと思う。
でも宗教の信仰の自由を弾圧したり、韓国と仲悪くなったりするのは、暴走だと思うから
そうはならないように願ってる。
原理講論は一度、虚心坦懐な心で読んでみて欲しいと思う。
個人的にはあそこに書いてあることは本当だと思ってる。
アマゾンにも売ってるから、ネタでもなんでもいいから買ってみてほしい。
今の皆さんは観てない映画をやばいらしいっていう理由で叩いているようなもの
で、僕は統一教会の信者であるけれど、正直教祖がどうのこうのとか政治うんぬんとかも興味はあるけど、
本当に興味あるのは真理と、愛の世界の探求、自分自身が神のもとに戻ること、神との関係、
いかにこの世界のために善行をなしていくかということなんだよね。
神がいて、神が僕らを復帰させようとしてて、
そのツールとして宗教を使っているのであれば、正直ツールは何でもいい。
Webサイトを作るのに、どの言語とフレームワークを使うかっていう
話であり、正直今一番作りやすい言語やフレームワークとか自分にあった言語やフレームワークならそれでいいと思ってる。
自分は真理・人間の道というのは球体をしてて、あらゆる哲学や宗教がそれぞれ一面を切ってると思うので、
それらを勉強することにより、球体すなわち真理・人間の道がようやく見えてくるものだと考えている。
なので色々勉強してる。
例えば日本の近代思想、儒教、仏教、神道、アドラー心理学、キリスト教、イスラム教、新興宗教など
(ちなみに実家はお寺)
で、思ったのは
この世界で避けるべき考えは一つで
「自分(達)さえよければそれでいい」という考え。
これを避けるために宗教・哲学が存在してると言っても過言ではない。
全員がそう思えたら、この世界はマジで天国になる。(まあすぐには絶対ムリだけど)
これを何も言われずにできる人もいるけど、
多くの人はこのような自己中な考えに陥りがちで、それを避けるために
今まで勉強した中では統一教会が真理の球体を鮮明にしてくれたし、
僕に啓蒙の光をくれたからオススメしたいけど、このようなご時世なので厳しい。
なので何かしら他の宗教や哲学を勉強することをオススメしたい。
真理をいい感じに切ってるけど、宗教臭くなく非常に良い。
ただあそこに書いてあることの真意を理解して、実践に移せる人間が果たしてどのくらいいるかということではあるが
知らないよりかマシということでオススメしたい。
大学を卒業してから仕事が楽しくて、気づけば休日にデートする女性もいなかった。非モテになっていた。
そんな折、社内異動で1年間閑職に飛ばされることになった。
初めは趣味や友人付き合いに勤しんだが、少しすると、アラサー特有の旺盛な性欲に悩まされる時間が増えた。
適当に自慰で済ませるのもアレだし、せっかくだからモテてみたいと思った。
いろいろ(アプリとか、相席とか、合コンとか)チャレンジした。
どれもそれなりに出会えたけど、どうしても課金ゲーの要素が強く、「モテる」を実感するには程遠かった。
そこでナンパに興味を持った。見知らぬ女性に声をかけるのは難易度が高そうで、やりがいもありそうだと予想した。
約束の1年が過ぎて、無事に元の部署に戻ることが決まった。引退する。
ナンパをしてきたこと、周囲の誰にも話さなかった。記録代わりに増田に書く。
アラサーのリーマン。理系。ナンパ始める前の経験人数は一桁後半くらい。
元の自己評価は中の下だったが、スキンケアや身だしなみに気を使ってから褒められる機会が増えた。嬉しい。
週3〜4回、仕事終わりに街(新宿、池袋とか)に出て、多い日だと100人/日くらい声をかけた。
連絡先を交換して、後日デート。気が合えばイチャイチャする感じ。
経験人数は50〜60人増えた。お付き合いしたのは1人。
零時レイさんとかゴッホさんの本、あとは藤沢数希さんのメルマガも。
ただ、一番役に立ったのは古い本。リーマンナンパマスターさんの『もう合コンに行くな』。シンプルに読み物としても面白かった。
ナンパの難関の9割は「どうやって声をかける勇気を振り絞るか」に帰着するので、
その勇気をくれるツールであれば何でも良いんじゃないかと思っている。
ナンパ講習とか有料noteは全く使ってない。調べた限り、8割くらい情報商材か詐欺。
今もTwitterで騙される人々を見かける。弱者男性ってナンパでも搾取されるんだなと思うと、悲しくなる。
ほかに、Twitterのオフ会(合流)は数回行ったけど、すぐ止めた。
「どうやって口説くか」とか意見交換したいのに、「女はクソ」みたいな話ばっかり出るのでつまらなかった。
ナンパは周りとつるまず、こそこそ隠れてやるのが一番だと思う。
知らない人と話すのはシンプルに楽しい。口説き落としたときももちろん楽しい。
自分は今でもナンパの成功率は低くて、声をかけた女性の7〜8割には無視される。
でも、反応をくれたとき、自分の冗談で笑ってもらえたとき、素直に嬉しいなと思える。
あとシンプルに女性のことが好きになった。共感できるようになった。
昔は非モテだったのでネットのミソジニー投稿に共感してたけど、
たくさんの女の子と話すうち、彼女たちにはそれぞれ個性的な魅力があって、男性には分からない苦しみを抱いているんだなって思った。
ナンパは基本的に迷惑行為なので、その中で続けるのは正直きつかった。
自分の場合、明確な合意を取るまで絶対に関係を持たないなど、かなり気をつけていたけど、
連れ出した女性に対して強引に関係を迫ったり、どう見ても未成年の女の子に声をかけまくったり。
「貢がせ」として、口説いた女性たちに金銭をせびることを奨励する文化もある。最悪だ。
万能感に包まれて無茶なナンパをして、逮捕されてしまった人も居た。
10年続けてる人も居たが、少し喋っただけでヤバさが伝わる感じだった。
ナンパは独特の高揚感と、普通に生きている限り到底得られないほどの経験人数を与えてくれた。
ただ、それが今後の人生に役立つわけではないと思う。むしろマイナスだ。
引退後は元の部署で普段どおり仕事をしているし、プライベートが特段充実したわけでもない。
多くの女性と関係を持つことで身についてしまったものもある。中途半端な万能感と、身分不相応な勇気だ。
仕事して、趣味に打ち込んで、友達付き合いをする中で出会った女性を「口説ける」ことなんて、
日常のコミュニケーションにおいては害悪でしかない。できるかぎり、周りを色眼鏡で見ないよう努める毎日だ。
新しいことに挑戦するのは楽しかった。
飲む。これだ。
こんなにも合理的で、どこでも、誰にもバレない方法が未だかつてあっただろうか……と。
なぜこの方法に至ったのかを、振り返っていこう。
寮生活で、寝るところが共同だと、果たす場所としてはほとんどの人がトイレを選ぶ。が、このトイレも意外とバレやすい。
「明らかにオタマジャクシが着水する音がしたんだが」とかたびたび噂になる。
ここで、トイレとは個室の洋式トイレであるという認識の統一をはかっておく。
ド変態でない限り、くちゅくちゅ音は防げるとして、こくまろみるくの処理をどうするかは、ひとつ問題となってくる。
方法はおよそ3つ思いつく。
2、トイレットペーパーを束にして、その上にクリームをトッピングする。
3、てのひらに手水をいただき、それをトイレットペーパーで拭き取る。
しかし、どの選択肢にも課題があることに、私は気づいたのだ。(ちなみに序文の解決策が思いつくまでは、1の方法を改良し、腰を落としてほとんど着水音が出ないようにしていた)
それぞれの課題についてまとめる。
こちらの方法の良い部分としては、事故が少ないことである。トイレ本来の動線に沿っているため、子羊たちが道に迷いあわや散開するという事故にはなりにくい。
(真性包〇でないという前提のもとではあるが)
私の寮には「音姫」は着いていなかったため、トイレとはすなわち無音の空間であり、わずかな音でさえ波を打つようにトイレ全体に響き渡る。
ここまで読んだ方は、いや、別に音で分かったところで個室なんだから誰かわからないだろう。と思っているかもしれない。
しかし、このトイレの無音という特性ゆえにそれも間違いであると言わざるを得ない。
トイレが無音であるため、ちょっとした咳払いや、下手すると呼吸音でさえ、聞こえてくる。
咳払いなどはわ一緒に暮らしている仲であれば、意外と個人を特定するのに十分であったりする。
また、個室でフィーバーした後に、友達がトイレに入ってきて、個室から出たタイミングでばったり会うこともよくある。その際は、ふつうは「よう」などといって挨拶するだろう。
この声が聞こえることで、「絶対に隣のヤツやってるやろ……」と思っていた大便勢にとっては二択にまで絞れてしまうわけだ。そして、次、その2人のうちのどちらかが個室に入っていくのをみると、「こいつまたおっ始めるつもりだろ」と思われてしまう。
この時点で非常に残念なバイアスがかかってしまっていることになる上、本当におっ始めて、その音が聞こえるようなら、大便ニキにとってそれはもう確信となってしまうのである。
以上のことから、バレない、いや疑われないことに越したことはないのである。
これを踏まえて、立ちションの姿勢でフィニッシュする方法について考えてみよう。怪しいのは本当に着水音だけだろうか?実は着水音に加えて、この立ちションの姿勢で果たすという方法にはもうひとつ致命的な音が伴う。
それは、座っている状態から、立って向きをかけるという動きに係わる、足音や服の擦れる音などである。
まず、トイレットペーパーを捲る音なく立ち上がるというのはこの上なく怪しい(用を足していない人間)上、体の向きを変えるという動きに伴う音は、実際にやってみると分かるがかなり大きい。
ならば初めから立姿の状態で立姿になればよいと思うかもしれない。しかし便座に座った音は体重を預けているため、毎回聞こえてくるものである。それが聞こえてこない時点で、「あれ?今隣に人が入ったよな?人が便座に座ってる気配がないのだが」と、別に疑う姿勢を持っていなくとも、ちょっと不思議に感じるものである。
実際に私が初めて「あ、やったんだな」と分かったパターンがこの事例である。
私は自家発電してる奴を積極的に特定しようなどと、そんなイヤなこと思うやつではなかった。しかし、個室に入ってきたはずなのに便座に座った気配がないというので、「?」と純粋に疑問に思っただけなのである。
そうして隣の個室に少し意識が向いていたところ、あの「ぽちょん」というオタマジャクシが着水する音が1度だけ聞こえてきたのである。
その後、水が流される音がして、咳払いをして出ていった。
2、トイレットペーパーを束にして、その上にクリームをトッピングする。
これも、実際にやってみるとわかる。
スティックがトイレットペーパーにふさふさ当たる音を立てずにクリームを乗せるのは至難の業であると。
一度や二度、この方法に可能性を見出したことは私にもあった。しかしその期待はすぐに裏切られることとなったのだ。
1の方法でも書いたように、立つ音は立てたくないので、座った状態でフィニッシュすることを想定しているが、そのとき、勢いがいい場合は真上に、スティックのうねりによってはドアやズボン方向に、勢いがない場合はほとんどスティックを伝って、零れるようにクリームが発射される可能性がある。その範囲をトイレットペーパーによって囲うのは物理的に難しい。
そうなると、トイレットペーパーに確実にトッピングする方法はひとつしかない。
まず発射直前、スティックとトイレットペーパーが擦れてベタっベタっと音を立てる。この時点で、ダメだ。
そして発射。トイレットペーパーで拭き取る……
拭き取……
あ……トイレットペーパーが……
トイレットペーパーが、スティックに固定されてしまうのである。そう、トッピングクリームはまさに文字通りスティックのりへと変貌してしまうのである。
3、てのひらに手水をいただき、それをトイレットペーパーで拭き取る。
この方法の時点で、すでに嫌気がさす男性諸君も多いかもしれない。
一般的な認識でいえば、手水も「排泄物」に変わりなく、できれば手でなど触りたくないものであると思うからだ。
しかしこの方法は、今まで紹介した中では、最も秘匿性の高く、合理的な技術である。
てのひらに乗っける分には、音はほとんど立たず、さらに最後にトイレットペーパーで拭き取る音が響くわけであるが、これは順番としてはふつうの大便と変わらない。そのため、あたかも通常と同じような音しか響かないのである。
ただし、少し問題となるのが、トイレットペーパーをどのように用意するかである。
上記の手順であれば、トイレットペーパーを巻きとるのはフィニッシュの後である。
しかし、左手に今にもこぼれそうな手水をいただいている状態で、はたして片手でトイレットペーパーを巻きとることができるのだろうか?
少なくとも私にはかなり難易度が高かった。
そしててのひらから手水が零れなどしたときには、ズボンなどに付着し大事故となる可能性もある。
では、予めトイレットペーパーを巻き取っておいて、トイレットペーパーの蓋の上に乗せておくのはどうだろうか?
これはもうほとんど、正解に等しい。
トイレに入ってまず、便座をトイレットペーパーで拭くという人も多いだろうから、トイレットペーパーを最初に巻きとることもそれほど変ではない。
参拝を果たしたあとは、乗せてあるトイレットペーパーの束を片手で持ち上げ、手水を拭き取り、それを便器にお賽銭すると。
そう。
トイレにおいては。
この文のタイトルを思い出して欲しい。
そんなもの、あるのだろうか?
結論は得られた。
しかし、トイレットペーパーを毎回蓋から落ちないように畳むことは、正直めんどくさい……
正直、トイレだけじゃなく、ベッドという本来の戦場で射撃したい……
そうだ。
分かった……
分かったぞ……!唯一無二の解……それは……!
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最近何かと話題になっていることとして、発達障害というものがある。
かくいう僕も、元々持っている脳の構造や仕事、日常生活での人間関係等々のストレスが祟って、不眠に陥り、脳がオーバーヒートして、日常生活を送ることが困難になったことがある。親に協力してもらいながら、必死になって心療内科を探して、お薬ガチャをして、色んな方に助けてもらいながら、何とか1日1日生きる時期があった。心療内科の先生に客観的に自分の性格等を分析した紙を持って行ったところ、「おそらくそれは発達障害でしょう」と言われた。
自分含め、学力が高い人や、真面目な人、繊細な人がそういう病気にかかりやすい傾向にある何となく知識として知っていて、自分は「発達障害だ」とか「うつ病っぽいだろうな」とかは思っていたが、いざ専門の医者からそう言われると、「やっぱり自分は社会不適合者だったんだな」と思って、少し救われた気持ちになったのを覚えている。
会社の判断としては、まぁ、一旦長期療養をしましょうとのことだった。まぁ日常生活送れなくなるまで体調が悪化した人間に仕事をさせるわけにもいかないので、当然の結果だ。発達障害は法律上病気とは認められないので、一旦「まぁ、発達障害から二次障害的に起こったうつ病ということにしますか」ということで、うつ病の診断書をもらい、休職。晴れて、僕は傷病手当金で2/3の給料をもらうためだけのニートになったわけである。
ただ、正直メンタルはボロボロだったので、毎日「思い返せば、よくここまで頑張って生きたよ。やり残したこともないし、死にたい」と思う機械になっていた。それでも、何とか「これは病気だから」と言い聞かせながら、1日1日を生きていく日々。うつ病を治すにはどうしたらいいんだろうと色々と調べて、行ける時はジムに行ってみたりした。中高で一番仲よかった知り合いは統合失調症でニートしながら、小説を書いているっぽかったから、その子に色々話しながら、今まで自分が書いてみたかった小説をネットに投稿して賞に応募したみたり、前から興味があったパチンコに初めて行って、1万円が秒でなくなったり、新しくリリースされた遊戯王マスターデュエルに手を出してみたり、仕事のリハビリとして少しpythonを触ったり等々して何とか生きながらえてきた。
そんな生活をしつつ徐々に症状は改善していった。「もう一生このままが良い。働きたくない。」と思いながらも、「仕事はしないといけないからな」と上司と相談して復職をした。まずは、時短勤務で様子をみつつという一般的な企業のやり方で、最初は普通に働けていた。しかし、だんだんと振られる仕事が増え、難しいものになってくると気づかないうちに無理をしてしまう。そうして、4ヶ月も経たないうちにまたうつ病再発寸前のところまでに体調が悪化してしまった。今も体調はそこまで良くないが、何とか時短勤務を続けている。
ここまで話してて、「やっぱ、うつ病とか精神病って良くないし、ならない方がいいじゃん!」と思う人もいるかもしれない。しかし、今の僕はそうは思わない。うつ病や他の精神疾患はどんな人でもなりうる病気だ。繊細な人や、真面目な人、頭の良い人に多い傾向にはあるが、それ以外の人でもふとしたきっかけでなってしまうことがある。
しかし、何か失敗をしてメンタルを病んでしまうという経験は失うものも大きいが、それによって得られるものも大きいと僕は思う。僕がもし休職していなかったら、多分小説を書いて賞に応募することはしなかっただろう。ジムに行って筋トレをするなんてこともなかっただろう。心療内科の先生に話を聞きながら、精神疾患についての知識を身につけて、自分なりに対処してみるという経験もできなかっただろう。母親と色々と深い話をする機会もなかっただろう。
今も僕はいわゆる発達障害に分類されるものに振り回されながら、世の中の人たちや会社で上手くやっていく方法を模索し続けている。
この世の中には、答えがないもの、そもそも問題・課題すら決まっていないものがたくさんあって、そういうものにどう向き合って行くかというのは障害を持っているいないに関わらず、どんな人にとっても重要なことだと僕は思う。僕自身もそういうものを経験しながら、色々と実践して試して、失敗して、色んなことを知っていきながら、何とか社会での自分の居心地の良い居場所を見つけて行きたい。
最後になるが、精神疾患になったからといって、人生が終わるわけではない。むしろ、自分がそういう病気を抱えているということに気づくことは自分の人生を見直す重要な機会でもある。精神疾患は決して全部が全部悪いというわけではなく、精神疾患になった人間にしか得られないもの、見えない景色もあるということを、色んな人に理解してほしいというのが僕の切なる願いである。