2021-07-23

性格とは他人が決めるもの

 たとえば、「私は優しい人間だ。何故なら私がそう思うから」というのは通用しない。他人に対して優しくない行動を繰り返していれば他人から「優しくない人」と決めつけられる。 

 それは現実だけではなく、創作においてもそうなのだが、現実とは違い、創作物の登場人物性格はたいていまず最初に作者が設定する。設定がまずあって、それからその登場人物の優しさを表現する小さいエピソードの積み重ねにより、登場人物のその性格証明してゆくのだ。

 ところが、プロアマわず登場人物性格を「この人は優しい人なの。何故なら私が優しいと決めたから」とでもいうような、設定とは異なる人物像を書いて平気な作家がけっこういる。

 私がとくに気になるのは、地の文主人公一人称モノローグになっている物語で、主人公性格設定・他の登場人物から主人公人物評が地の文から読み取れる主人公人物像と大きくかけ離れている場合である

 よくあるのが、主人公が何らかのポジティブ性格を有していると、作者も物語のその他の登場人物も認めているが、主人公モノローグが糞ひねくれていて物事他人を酷く意地悪で斜に構えた態度で見てはネガティブジャッジを繰り返している、というもの

 それは、根は腐れているが表面的にはいい人そうに見えるキャラクターだというのとは違っている。糞ひねくれた地の文に引き摺られるように、言動もやはり糞ひねくれており、しかし何か物語が動くポイントで形だけ良いことっぽいこと(これも深く考えてみるとなかなか怪しい)をしているだけなのだ

 物語を書くとき登場人物人物描写をするときというのは哲学時間だと私は思う。優しいとは何か、意地悪であるとは何か、残酷だというのは何か。そういうことを突き詰めて考える時間だ。

 と、思うんだけど、世の中には設定と実際の性格がちぐはぐの登場人物を書いて平気な作家はいくらでもいるし、そこらへんを一々つつく読者も滅多にいないので、「このキャラは優しいんです!」と言い切ったもん勝ちなのかな。

 ちなみに私は、『鬼滅の刃』の竈門炭治郎の「頭が固い」という性格と、鬼舞辻無惨の身勝手ワガママ性格が、徹底的に首尾一貫としていてすごく良かったと思う。

  • 追記  地の文が主人公の一人称モノローグ形式の物語で、主人公の内面と作者による主人公の性格設定・他の登場人物からの主人公に対する人物評価が解離していることの何が悪いのか...

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