はてなキーワード: 山田悠介とは
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1295660082
100枚!
自分は山田悠介好きで読んでるけど他の作者だってあんまり変わらなくないですか?
どこが下手くそなのか例を挙げてください!
貴方もできてないみたいですけれど。
「あなたもできてないみたいですけれど」なんて言えたクチだろうか?そういう理屈で言っていいなら、お前だって全文は音便混じりの相当くだけた文体で書いてるくせに「けど」じゃなく「けれど」って言ってるのに対してすわりの悪さを俺は感じるけど。
掲示板に以下の引用文を書いたらいろいろ文句を言われてむかついた。
句読点や文の区切りを意識すると読みやすくなるといったって、お前らが書いてる文章と比べて読点の量やタイミングや文と区切り方と差なんてねーじゃねーかと大概的外れに感じたが、なにに比べても圧倒的にむかついたのが「頭の中と文字が上手く繋がらないんでしょ。よくある発達さん」というもの。まあとにかく引用する。
気象予報するには予報士受かった程度じゃ全く足りず大学で気象学なり地学専攻してないときついと前スレにあったけど、逆にそのあたりの学士どころか博士さえ予報士資格を確実に取れるかといえばかなり微妙なところあるんじゃないの?と思う
大学で学べば解析学なりテンソルなりの知識を授かるから物理現象の数式化によって数値予報モデルを作れるようになる、つまり機械に予報させるスキルは身に付くことになるだろうけど。
まあ衛星画像から雲の存在高度や厚さを答えろみたいな問題ならさすがにパターン化できるけど、時系列ごとに並べた予想図を使って予想を答えろ的な問題は全然無理。
この日時までの部分を含めていいのかとか、微妙にこの県も含まれてる気がするけど含むべきかとか、そのあたりかなり曖昧で、少なくとも私は解くごとに間違える
むしろ物理現象の数式化というスキルと比べても予想図の解釈とかいうのはチャート式みたいに言語化して教えられない主観的なセンスによるところが大きすぎる。たとえるなら株のチャートを見てこの株は上がるか下がるかみたいなデイトレのスキルに似てる。あれもだめなやつはどんなに練習しても次の一回で大損する選択をしかねない。
実技の参考書持ち込み可でも50点も取れる気がしないから、大学行ってりゃ受かるとかいうものじゃないと思うんだがどうだろう?真鍋叔郎氏でもある意味で落ちるんじゃね?
「頭の中と文字が上手く繋がってない」などと言うからには、批判先の文章が日本語として体をなしてないはずだ。
しかし別にそんなことなかろう。むしろ山田悠介より全然ましだと思う。これがたとえば日本語学びたての外国人が書いたかのような文章に見えるだろうか?
頭の中と文字がつながらないとはやや専門的に言えば、内言を同じ意味を持つ文法等がまともな日本語に変換できないということを意味するが、俺自身が発達だから知らんが別に字面からそんなふうなことが起こっているようには見受けられない。
難解な文章を読むのには言語能力の高さは必要だけど、ヘタクソな文章読むのには言語能力の高さは必要じゃない。というか、ヘタクソな文章なんか本当は読まなくていい。
ヘタクソな文章ってのは文章としての能力が低いので、高い言語能力があっても読み解くことは不可能。
山田悠介の初期の小説の文章なんかクソオブクソだけど、言語能力の低い若者層にはバカウケだったでしょ。
小説を読むにあたって
1.設定とシチュエーションを読む
の二つの目的が存在していて、まぁ、だいたいは入り混じってるんだけど
言語能力が低い人ほど前者を重視しがち、というか後者ができないからウエイトが前者に非常に偏る。
文章なんて大まかに意味が取れれば多少ヘタクソだろうが関係ない。
なぜなら文章の細かい文法とかねじれとかはそもそもよくわかんから深くは気にしてないから。
これがイキすぎるとどうなるかというと、匿名掲示板で一般的な「セリフだけのSS」みたいなことになる。地の文なんかいらんかったんや! 状況説明とキャラがいればそれでOK。
文章を書くという行為そのものの敗北であり、文章読むのが好きな身としては非常に原田大志ことではあるんだけど、それでも絵が描けないなりに何かを伝えたいというパッションを形にしたというところは評価でき。
!登場する人物、内容は架空のものです。山田悠介を引き合いに出していますが一番こういった対象になっている現状があるので例として使わせていただきました。応援してます。!
!()内の文章は、言葉として浮かんでいるのはなくこういう気持ちになっている的な抽象的な感覚のようなものでとらえてください。!
!どっかのまとめサイトにこういうスレがあってその中の1レスが僕とまったく一緒の発想を持っていたので日記を書く気になりました。!
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(全部が全部嫌いなわけじゃないけどこれに関しては自分は読み進めるのが苦痛だった。お金の無駄を感じる。自分の好みに当てはまらなかった。)
ぼく「山田悠介は発想だけ。」
(文章が現代チックすぎる。そんなに若くもない自分にとっては読みづらい。心理描写があまりないし、ストーリーは面白いから書く人変わったらどうなるかわかんない)
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とある人「じゃあお前が書いてみろ!」
(俺は山田悠介の本が好きでいろいろ読んできた!ハマったしいろんな人に薦めた!こんな面白いストーリーの本ない!)
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(それなのにこいつは俺が好きな山田悠介の本に対してマイナスな批判を皆が見えるところで書きやがった!なんだよ好きじゃないって!好きだろ普通!)
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(なんだか自分を否定されたような気がする!めっちゃ腹立つ!なんだこいつ!)
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(やり返したい!言い返したい!論破してやりたい!黙らせたい!けどどうすれば黙らせるかすぐには思いつかない!自分には説得力のある能力や知識はない!)
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(とりあえずこの気持ちだけでも鎮めたい!こいつをとりあえず論破したい!)
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ぼく「じゃあこんなものでどうでしょう」※ストーリーは突拍子のなさだけを追求して、文章は山田悠介の本の一部をいろいろ抜粋しつつちょっと難しい熟語とか使ってみる
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(なんだこいつ本当に書いてきやがったよ!生意気!むかつく!)※けど読む。
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(なんだよマジで糞じゃん!まぁでもこれで逆に論破の糸口見つけた!これを貶せばあいつは矛盾してしまう!はい論破!エンターキー、ターンッ)
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ぼく「じゃあお前が書いてみろ!」
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とある人(…もうめんどくさ。)※当然何も書かずに消滅
いきなり浅田次郎の『お腹召しませ』の跋から引用するんだけど「貴き母国語の司祭たる小説家は、その記す言葉の一句一行に責任を負わなければならぬ」って、これなかなかカッコイイこと言ってるけれども、浅田次郎の文章だってたいがいひどいときはある。語彙は豊富だけど脂っこすぎるから格調が損なわれちゃって、なんだか下品だなーって思っちゃう瞬間も多いよねってわりと共感してもらえると思うんだけどどう?
で、こういう話をしてると必ず横から口を出してくる手合いがいて、言うことには「最近の小説家は文章のレベルが低すぎる」。こういうやつには気をつけなきゃいけない、なにしろこいつはそんな侮蔑的なことを言いながらむかしの小説をあんまり読んでないからだ。たしかに百田尚樹はおそろしいくらい下手な文章を書くし、現在まで残ってるむかしの小説家の作品の多くはたしかに文章が上手くて、そのうえたとえば川端とか百閒とかの異常な怪物がぐーんと平均値を上げちゃってるもんだから勘違いする。ひどい文章を書く作家の作品は当然のように消費されただけで現在まで読み継がれてるものは本当に少ないってことくらい考えればわかるんじゃないの? 面白いことは否定しないけど、三十年後の子供が『永遠の0』とか『ビブリア古書堂の事件手帖』とか『容疑者Xの献身』とか読んでるわけないじゃん。だいたい残ってるひとでいってもひどい文章の作家ってのは残念ながらちゃんと存在していて、ほら太宰治とか田山花袋とか小林秀雄とか超ひどいじゃん。あ、でも内容は面白いと思うよ、田山花袋以外の2人はね。
まあ浅田次郎は「小説家なら上手な文章を書け!」とは言ってなくて、素直にちゃんと読むと「小説家の文章は日本語を使うひとにとってはお手本なんだから、せめて間違いのないように書かなきゃいけないなあ」って意味でしかないんだよね。だから話はもうとっくに逸れてるんだけど、なんか言いたいこと思い付いたから文章のうまいへたの話を続ける。
そもそも無機的な文章と小説の文章のうまいへたってぜんぜん別問題で、都市伝説レベルの話で好きなんだけどさ、三島由紀夫ってもともと官僚だったんだけどすぐ辞めたのね。ちゃんと東大出てたくせにぜんぜん仕事できなかったんだって。なんでかっていうと三島の書く文章がかっちりしすぎてて、官僚にとっての必須スキルである「余地を残す」文章を書くってことがまったくできなくて、まあ言ってみれば文章がうますぎて向いてなかったんだってさ。これはさすがに誰かが作った伝説というかいたずら話だと思うんだけど、三島の文章って異常に人工的でみっちりしてるから何となる「あーわかるー」ってなっちゃう。改めてなかなか好きな作り話だ。
たとえば誰だろう、最近でいうと朝吹真理子って年齢のわりに文章がうますぎてサラブレットってこういうことかあって感心するんだけど、このひとがふだんの小説やエッセイで使ってる文章で書いた報告書ってたぶん読みにくいよね。いや、なんでそこでひらがなつかうんだよって苦笑いしてる上司の図ってめっちゃ想像できてかなり笑える。だいたい文章(文学)ってのは芸術なんだから美しくなければ嘘でしょう? ってみんな大好き古井由吉先生も松浦寿輝との往復書簡でさらって書いてたけれど、まあそこまで大上段からカッコイイことは言えないけれども、まあ言ってることはわかるじゃん?
芸術なんだから判断は割れちゃうんだよ。日本人はフェルメールが好きってよく言われるし、高校生はなぜか「はしか」のようにラッセンを好きになっちゃう時期を迎えるものだけど、美醜の基準なんてひとによって違って当たり前なのよ。モーツァルトとサリエリの格付けは「アマデウス」がしちゃったけど、ヴェートーベンとシューベルトのどっちが上って難しくない? って書くと「おまえさっき太宰が下手だって言ってたじゃん!」とかひどいのになると「山田悠介! 山田悠介!」なんて連呼されちゃうんだけど、山田悠介はうまいへたじゃなくて「間違ってる」からダメだよ。とかいうと「保坂和志! 保坂和志!」って返ってきそうでキリがないのでいいわけをやめる。
何が言いたいかって実はまったくの逆で、それでも文章のうまいへたって、きっと存在してるんだよね。いや少なくとも自分のなかでは間違いなくあるんだよ。同じことを何回も言わないで済ませられるかとかね。何気ない言葉の選び方とか、リズムとか句読点の位置とか改行のタイミングとか語順とかセンテンスの長さとかほんといろーんな要素が絡み合いすぎてて、たとえばリーダビリティって文章のうまさに入るのって言われちゃうともう答えはまったく出ない。でも個人的には入らないと思ってるって結論だけはちゃんとあるんだ。
そろそろみんな気付いてると思うけれども自分なりにうまい文章を書きたくて書きたくて、読み返して「わあ、おれって文章うめーじゃん!」って思いたくて自分なりに努力してきたんだけどまったくダメで、下手でどうしようもない文章なんだけど文章を書くのは好きで、だから深夜にこんな下らない長文を書いてストレスを発散しているんだけど、まーまず間違いなくこの文章は読み返さないよね。ひどいから。
文章書くのってなんていうか心地よい行為だと思うし、こんなところに文章書いてるくらいだからみんなもきっと文章を書くことが好きで、だからさー、なんていうのかな、小説家とか関係なくってこうやって日常的に文章を書いているおれたちなんかはさ、上手な文章を書きたいなっていう欲求を誰しも持っているんじゃないかって思うし、その欲求には忠実になってもいいと思うんだよね。
あー、文章うまくなりてーなー。