「入門書」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 入門書とは

2022-11-01

anond:20221101233255

C#のカルチャとかあのへんがぜんぜんわかんない(入門書にも書いてない)

https://learn.microsoft.com/ja-jp/dotnet/standard/base-types/best-practices-strings

このへんやらないと文字の置換もできないじゃないか(※置換じゃなかったソートだった)

こんなとこで時間使いたくない

プログラミング言語の基礎文法と基礎的関数マニュアル記憶できるドリンク

みたいなのないの

ここで詰まりたくない

C#Kotlinのがほしい

C#入門書読むの飽きてきた

2022-10-19

anond:20221019142748

俺も急遽ヘルプに入ってくれって呼ばれた案件で「Java歴5年」を名乗らされたことある

実際には一文字も書いたことなかったのでアサインされた後に入門書買いに行った

まあ他言語経験はあるからなんとかなったわけだけれども

2022-10-04

エクセルワードができない」という勘違い

https://anond.hatelabo.jp/20221004022002

本筋とは全然ずれるんだけど、会社事務として入った女の子が 「入社前にエクセルワードを出来るようになるために勉強したんですがうまくいかなくて・・・」 みたいなことを言うのをよく目にしてきた。

ただ事務として求められるエクセルワードスキルなんて大したことないし、その子たちがそのスキルを持っていないとも思えず、言われるたびに 「???」 となっていた。

そんで最近彼女らが足りないと感じているスキルって、たぶんエクセルワードプロパースキルじゃなくて、 「WindowsPC基本的操作」 なんだなと気づいた。

Windows入門書に載っているような知識がごっそり抜けたまま、教室や本でエクセルワードプロパー知識を詰め込まれるもんだから、なんかふわふわした知識になってしまうんじゃないかな。

就職のためにPCを学びたいって人はエクセルワード入門書を買うよりも、まずはWindows入門書(「できるシリーズ」とか)を読んだ方が良いんじゃないかなと思う次第。

2022-09-26

息子を弱者男性にする

何が悲しくて子どもをわざわざ弱者男性に育てなきゃならんのだ。

からこの増田思考実験だよ。そもそも当たり前に俺自身パートナーはいないしね。家族は増え得ないしね。

小学校低学年向けの弱者男性入門書存在しない。

弱者男性に育つために必要なのは、ふたつの原体験だ。

女の子を慈しむ優しい心
女の子を傷つけたり、女の子が泣いているのを間近に見て、共感する体験彼女の苦しみが自分のことのように感じられて、胸を揺さぶられる強い衝撃を受ける必要がある。
林間学校フォークダンスで「キモっ」と言われて手を繋ぐのを拒絶されるトラウマ
女の子に心の底から不快気持ちを持たれる経験。その時には自分側には一切の非がなく、むしろ迷惑を掛けないように丁寧に手を取ろうとしていなければならない。

①②の記憶は、少年のその後の人生を強力に歪ませる。

女の子の、誰かの、笑顔をみたいと思っているのに、迷惑なんて絶対に掛けたくないと思っているのに、それでも積極的思い入れが、逆に、相手を傷つけてしまうこと。

負のフィードバックループ理解したときに、女性への自己効力感は完全に消滅する。

無力感となる。

優しい心を持っていないと、女性復讐するミソジニーになったり、粗雑に扱ってイキる強さを得て黒イケメンに育ったりする。弱者男性としての無力感を維持できない。

もちろん人生の展開上、途中でレールが切り替わったりもするが、首尾よく行けば彼は弱者男性になるだろう。

anond:20220925105332

2022-09-25

娘を腐女子にする

ううーむ。親のエゴとはいえ、何をするにしても大なり小なり子に影響を与えているのだから洗脳などと目くじらを立てず好きに子どもを育てて良い、って意見を見て、なるほどと思ってしまった。

ならば私は娘を腐女子にしようと思う。

腐女子とか活動家って普通は気づけばなっているものだけど、世界に一人くらいは純粋培養腐女子がいても良いでしょう。

個人的感触としても、まわりの伝聞でも、腐ること自体で何かを失なうことはない。むしろ人生がより豊かに充実していく高い効果があった。

子ども向け腐女子入門書ってなんだろう。

増田のみんなの意見を聞いてみたい。子どもでも親しめる、腐女子階段最初の一歩にふさわしい

ジャンルはどこ?

私の考えでは、一択なんだけどね。


anond:20220925105332

2022-09-21

タクティクスオウガと俺の半生

11月リメイク版が発売されるので思い出話を書いてみたい。

から25年前の1997年ののこと。当時小学生だった自分の1歳年上の従兄が、夏休みにお婆ちゃんの家にこのゲームを持ってきていたのが全ての始まりだった。

タクティクスオウガっていうゲームがあるんだ。すげーから一緒にやろうぜ。」

従兄に勧められるままゲームを始めたのだが、タクティクスオウガが『すげー』ことはすぐに分かった。

中世ヨーロッパ風の権謀術数渦巻く世界観重厚BGMの中で敵味方がターン関係なく立体的なマップで繰り広げるリアル戦闘

背中に翼の生えたキャラクターが民家の屋根の上に移動して弓を射ると放物線上に矢が飛んでいくわ、ふわふわと宙に浮かぶ幽霊魔法を唱え敵が炎に包まれると足元の草が焼けるわと細部までこだわったビジュアル

とにかく衝撃的なゲームだった。いてもたってもいられなくなり、従兄がお婆ちゃんの家から帰った直後にお小遣いを握りしめて町のゲーム屋さんに走った。

お店のレジ商品を買うときにすごくドキドキしたのを今でも覚えている。スーパーファミコン版のタクティクスオウガ商品パッケージ英語タイトルが書かれており、フォント英語旧字体みたいな形だったので、読み方があっているかな、間違って別のソフト買っちゃうんじゃないかなとすごく緊張したのだ。ぜんぜん自信が無かったが、店員さんにタイトル合ってるか確認して無事に買うことができた。

クワクしながら商品を持ち帰り、ゲームを始めたが小学生にとっては、難易度が高く難しいゲームだった。初回プレイ時にはキャラクターの強さを表すパラメータが多すぎてさっぱり分からなかった。

だけど作りこまれチュートリアルオンラインヘルプ等の親切な機能がたくさんついていたおかげで何とかゲームを進めることができた。一番助かったのは戦闘中の中断セーブ機能だ。小学生の時には、1日ゲームは30分までというルールがあったので非常に助かった。

さて、ゲームを買ってから2週間くらいの時のこと。難しいながらも俺はどうにかChapter1の終わりまでシナリオを進めていた。このゲームプレーヤーが会話中の選択肢を選ぶことでシナリオ分岐するんだけど、途中で出てきた選択肢が衝撃的だったのは今でも忘れられない。ネタバレになるので詳細は伏せるが小学生には重たすぎる内容だった。無茶苦茶悩ましい選択だったが、片方を選んでゲームを先に進めてみた。だが、すぐにゲームに行き詰った。キャラクター育成をよくわからずに進めていたので自軍ユニットが弱く戦闘で勝てなくなったのだ。このまま先に進めないのも悔しかったので攻略本を買うことにした。

ここで話は少々脱線するのだが、俺の生まれ育ったのは日本海側の田舎町だ。町の本屋さんはあまり大きくない。なので、地元本屋さんの攻略本コーナーにはメジャー作品のものしか置いてないわけだ。ゼルダの伝説とか、ドラクエとかFFとかまあそれくらい。それらに比べるとタクティクスオウガマイナーだった。苦労を重ねて隣町の古本屋さんで偶然攻略本を見つけて手に入れるまで1か月かかった。その後は攻略本を熟読してゲームシステムの理解を深めて1から再挑戦したのだが、家の方針で1日のゲーム時間が30分に制限されていたので、クリアするまでにはさらに2ヶ月ほどの時間を要した。だけどその分クリアしたときの達成感は大きかった。興奮冷めやらぬ俺は、小学校同級生たちにタクティクスオウガのすごさを布教したが上手くいかなかった。俺がタクティクスオウガ出会った1997年当時、家庭用ゲーム機の主役はスーパーファミコンからプレイステーションに移行しつつあり、同級生たちはファイナルファンタジー7ファイナルファンタジータクティクスといったスクウェアの大作ゲームに夢中になっていたのだ。

同級生のN君に、「タクティクスオウガってファイナルファンタジータクティクスパクリでしょ?」と言われたのは傷ついたなあ。なんていうか、自分イケてると思ったゲームをディスられるという経験がなかったので。残念ながら、うちの地元では最初タクティクスオウガを紹介してくれた従兄以外に周りでタクティクスオウガファンを見つけることができなかった。

それから2年後の1999年。俺は中学生になり、田舎町の我が家でもインターネットが使えるようになった。ネットが使えるようになってすぐに、以前はまっていたゲームタクティクスオウガ攻略情報を調べてみた。地元田舎町にはいなかったタクティクスオウガファンは、ネットの向こうにはたくさんいるようだった。ファンの集めた情報は膨大で、攻略情報にとどまらゲーム舞台背景の考察クリエイター音楽趣味までカバーしていて、中学生の俺の知的好奇心ガンガン刺激された。ディレクター松野氏の名前もこの時に知った。余談だが、「タクティクスオウガファイナルファンタジータクティクスは主要な開発スタッフが同じ」というのも同時期に知ったので、小学生の時にパクリ呼ばわりしてきたN君に対して「両方同じ人が作ってんだよ、適当言うなざまあ」という気持ちが芽生えたのはここだけの話である

ネット情報から刺激を受けた俺はゲーム世界観もっと味わいたくなって、前作の「伝説のオウガバトル」もプレイしてみた。ディレクター松野氏が好んでいたらしいQueen楽曲を聞いてみたくなり、生まれてはじめて洋楽CDを買いにも行った。コーヒーを飲めるようになった時のように、背伸びして少し大人になった気分がした。

そのうち自分でも似たゲームを作りたくなって、おこづかいVisual Basicを購入したりもした。プログラミング入門書片手にそれらしい画面までは作ったが、しょせんは中学生。体系だったプログラミング言語の知識がないためサンプルコードコピペに終始し、1年くらいかかって紙芝居のようなものが出来て終わった。その後は、高校入試大学入試で忙しくなったのでしばらくゲームから遠ざかっていた。

そこからさらに時が流れて俺は社会人になった。中学生の時のゲーム作りの経験からソフトウェアエンジニアの適性は無いなと思ったのでハード系のエンジニアとして就職した。タクティクスオウガから受けた影響は俺の人生を変えたのであるゲームから遠ざかっていた俺だが、2010年タクティクスオウガの1度目のリメイクニュースを聞いて再び情報を集めだした。そこでたまたま開発者松野氏のプロフィールを見つけたのだが、なかなかの衝撃だった。

まずはスーパーファミコン版のタクティクスオウガ開発時の年齢。発売日の時点で29歳なのであるゲームの開発期間が2年くらいだとすると、開発開始時は27歳くらいだろうか。その若さであの革新的ゲームの開発指揮を執ってたのかよ!松野氏と面識のあるゲームクリエイターインタビュー記事天才という理由が分かった気がする。次に出身地新潟県妙高市となっている。地方出身であのゲーム重厚シナリオを描くだけの知識を身に着けたのか!というのがもう一つの驚きだ。

先に俺の出身地日本海側の田舎町だと書いた。地方で育ったからわかるのだが、地方ゲーム攻略本に限らずあらゆる情報が都会に比べて乏しい世界だ。タクティクスオウガ世界観形成している中世ヨーロッパ歴史文学知識松野氏はどこで得たのだろう?世代的にインターネットが無い時代なので、俺が田舎で育った時よりもさら情報は手に入れにくいはずである。これは今でも気になっているので、今度出る予定のリメイク版の開発者インタビューでだれか聞いてみてほしいところである

最後になったが、今回出る2回目のリメイク版もすごく楽しみにしている。なんていうか2回もリメイクが出るだけでもすごいのに、2回ともオリジナルの開発メンバーがかかわっているのがまた驚きなのだ

発売元スクウェア・エニックスはFFドラクエ等の過去作品をよくリメイクしているけど、オリジナルスタッフが何度もかかわるケースは珍しくないだろうか?しか開発者松野氏はリメイク前にスクウェアを退社しているのだ。それでも声がかかるのだから、本人のカリスマ性がメチャクチャ高いのだろう。過去会社を辞めた人が2回も開発現場に呼ばれるって相当なことだと思うんよね。

2022-09-13

書籍での、倍速消費に相当するのは何だろう?

書籍の種類は何でもOK漫画小説学習系の入門書漫画雑誌、ファッション誌、経済紙新聞など)として。

文字メインの場合一般的な速度以上の速読? 理解度が低い状態で読み進める?

画像メインの媒体場合は、画像だけつまみ食いして、文字情報は読まない?

適当イメージが思い浮かばないけれど、どれにせよ、好きによみゃええじゃん、と思うだけな感じがした。

2022-09-11

プログラミング初心者なんだが作るべきもの教えろ

仕事が終わった後にPythonちょっとずつ勉強して数ヶ月になる。入門書の内容は一通り勉強した。

お前らが「作るものがないとプログラミング挫折するぞw」とかウエメセで言うから簡単コードプログラムをいくつか書いたんだが技術力が上がってる気がしない

なにかちょっとしたプログラムを作りたいけどあまり難しいと挫折するし簡単すぎると勉強にならないかバランスが難しい

初心者でもそれなりにサクっと作れて、なおかつ勉強になって、作っていて楽しくて、それなりに達成感があるプログラムを教えて欲しい

わがまま言うな」って言うかもしれんがお前らは俺みたいな初心者上から目線で物を教えるのが大好きだろ?win-winだと思うからぜひ教えてくれ

俺が作ったゴミプログラムの一例・・・

電卓(Tkinterで作ったGUI付き。ググりまくって作ったからもう一度作れるかというと微妙四則演算しかできない。)

化学シミュレーションプログラム(詳しいことは言えないが化学物質製造する装置発熱のアレコレを計算するプログラム一見難しそうだけど実際は既存計算モデル再現するように四則演算をwhileで繰り返しているだけの100行くらいのチンパンコード。でも仕事にはそこそこ役に立った)

リストに並んだ数字を小さい順にソートするプログラム( 例:[1,5,3,2]を[1,2,3,5]に並べ替えPython謹製メソッドで実現可能プログラムだけどあえて自分で長ったらしいコードを書いて自作した。意外と難しくてそこそこ楽しかったけどすぐに終わってしまった)

原始的大富豪(yamahudasからランダムに手札を配ってプレイヤーAとBが交互にカードを出して手札が無くなったほうの勝ち。階段ペア機能を作ってるうちに、あ、これ複雑なだけであんまり勉強にはならないし完成しても既存ソフトに勝てないな、と思って飽きて途中でやめた。俺IUPACかもしれん...)

このくらいのごく初歩的なことはできるけど難しいことはなにも出来ない。NumPyとかPandasとかもほとんど使えない。

ちなスペック地方国立大学卒の工学修士中堅企業化学エンジニア3年目。化学物質を作る際の装置製造工程の設計をやっている。

しかし俺が入社する直前に社内でいろいろあったらしく技術に詳しい先輩が部署に1人もおらず、会社技術力が終わってる。既存商品脳死で作りまくることで成立している会社だ。

この会社でこのまま言われたことだけやっていたらダメだと思っているので転職するなり独学で技術に詳しくなるなりしようと考えていて、ひとまずPython勉強している。ただ仕事のためだけの勉強だと考えると続かないだろうからゲームを作るなどして遊び方面に持っていきたい気持ちもある。

将来的にITエンジニア転向するかどうかは自分の中でも決まってない。化学知識修士号がもったいないから転向しないほうがいい気がするけど個人的現場仕事が超嫌いだし上司倫理観も終わっていて働くのが少し辛いか転向したいかもしれん。①今の会社で頑張る②同業種に転職ITエンジニア転向 の3つの選択肢がある。

趣味WordPressブログをやっているからそっち方向にも活かしたいけどPythonWebとそんなに相性良くないんだろ?しらんけど。

どうぶつしょうぎ作ってみろ」「Sympy無しで方程式を数値的に解くプログラムを作ってみろ」などの表題通りの回答をお待ちしています。それ以外でも、

Pythonじゃなくてコレ勉強してみろ」「このライブラリ使えるようになると捗るぞ」「お前ならこういうキャリアもいいと思うぞ」などのあまり関係ない意見でも構わん。教えてくれ。

レッツマンスプ!

2022-09-01

○○の話題に興味はありますか?

→その分野の論文を追いかけるほどの興味はない。

入門書を読むほどの興味もない。

Wikipediaを読むほどの興味もない。

タイトルだけ見た記事脊髄反射ブコメする程度の興味ならある。

2022-08-24

「男もそうだ」が反論になってない話(論理学入門)

■女オタクって顔の良い悪役を偏愛する傾向にあるよな

「男もそうだ」という反論反論になってないので潰しておく


こんな記事を読んだ。なんとなく嫌な予感がしてブクマコメントを読んでみたのだが…

案の定、「男もそうだ」が連呼されていた。いわく、反論になってるだろ、らしい。

…いや、あなたたち、論理の初歩も知らんのかい

「女はそうだ」は男に対しては何も言及していない。

「男もそう」かも知れないし「男はそうでない」のかも知れない。筆者は男性について何ら主張していないんだよ。

「女はそう」の否定は「女はそうでない」だ。これを直接証明できないなら対偶「そうでないなら女でない」の否定「そうでないなら女だ」を言わなくちゃならない。何にせよ「男もそう」は無関係の主張ですよ。

こうした知識理系大学なら論理学の講義最初に習う。興味のある人は調べてみてほしい。図書館でよい入門書が借りられるはずだ。

私は常々、論理学を義務教育の授業に追加したほうがいいんじゃないかと思っている。

現代は、ネット赤の他人同士が出会い頭に議論をはじめる、ソクラテスが生きてたら感動するのは間違いなしの、知的交流が盛んな時代だ。会話をスムーズにするためにも皆んなが論理学を知っておいたほうがいいのではないか

追記

・・・一部には閉口してしまったのだが、まさしくシンプルにこれでいい。

人は死ぬ

ソクラテス人間

「 いやプラトン人間だ」

あんたは一体、なんなんだ

2022-08-11

anond:20220811160052

python, javascript, rubyあたりを初めての言語に勧める人いるけど、やめた方がいいね

上級者向け。

これらの言語簡単と感じるのは、入門書に載ってる数行程度のコードの時だけ。

数十行、数百行程度でもすぐ難易度上がってくる。

初心者C#Javaで、次点VBくらいがおすすめ

2022-08-06

anond:20220806101755

ビジュルアル付きの入門書から始め、歴史的名著を最低20冊は読むこと

100時間を25から30冊で割ったら、1冊あたり4時間も取れないじゃないか

教養人間がその程度の時間で本を読み切れるわけないだろ

宗教についてムダな議論を避けたいなら100時間は本を読むべき

日本人であれば、

・最低でも仏教について50時間キリスト教について30時間は本を読むべきである

・残りの20時間自分が気に入った哲学なり倫理の本を読めばいい。共産主義の本でもOKアンチテーゼになる)

・ビジュルアル付きの入門書から始め、歴史的名著を最低20冊は読むこと

・ただし、戦後新興宗教の本は絶対に読まないこと

たったこれだけで驚くほど宗教観が変わる。

まり100時間人間歴史を学ぶということである

50時間かけて仏教の基本を知ったら、あとは自然に他の学問への目が行く。

武士道だとか神道だとか、日本人のあらゆる精神への理解が深まる。

キリスト教勉強重要で、世界に目を向けるために必要である

トータル100時間でムダな議論を避けられ、人生の観方が好転するであれば、とてもコスパがいい。

100時間を惜しむと、政治ツールとしての新興宗教ばかりに目がいき、現象論で終わる。

なぜならそれしか知らないかである

若い人には「盲信の対象」ではなく、「教養としての宗教」としての付き合い方を強くお勧めする。

2022-07-29

anond:20220729222849

名著と呼ばれる書籍でも、デバッグ方法デバッグツールの使い方、(簡単な)テストコードの書き方とそれを用いた開発方法とか書いてないもんなあ。

あれは一体何なの。

プロを目指すRubyぐらいの内容は全ての入門書に書くべきだわ。

2022-07-27

国が支援し難いかもしれないけど、きちんと産業育成に耐えられる書籍出版できるかって、国力支えてると思う

表現の自由との兼ね合いで、国が出版に対して支援はし難いのかもしれないが、

これこれの書籍を読んでおけば、ひとまず食っていけるって状況を作れるのは重要

例えば半導体はそういう書籍が無いかCPU/GPUも作れない(ソフトエンジニア視点ハード解説はあるが)


書籍ではなく、ネットでも良いのではという意見もあるだろうが、

簡略化し過ぎた入門書ばかりで役に立たなかったり、内容よりもSEOした方が上に出たりと、

必ずしも長期的に恩恵があるような知識体系はネットでは作れなかった。


鶏がさきか卵がさきかわからないが、書籍電子書籍含む)がまともな物がなくなっているから衰退してるのでは。

2022-07-24

Unityはじめたんやけど

C#入門書おすすめある?

当方、ある程度使ったことのある言語VBとかn88basicってレベルです。あとFORTRAN(笑)

スクリプトの書き方の基礎の基礎と例題が載ってるようなやつがあるとうれしい。詳しい方教えてくれるとうれしい。

2022-07-21

占いそこそこ好きな女によるヨッピー発言への感想

占星術オタクコンテンツ経由で興味を持って、

ネット上の無料コンテンツから

占星術に関する本を何冊か買ったりして、

占い師さんに見てもらったことも何度かあり、

一度だけ有料の教室にも行ってみた程度の占い好き。

派生としてタロットちょっと好き。

https://twitter.com/yoppymodel/status/1548848031826870272

ヨッピー氏の発言には特に賛同しないんだが

それ以上にこの話題で噴出する「占い」というものへのコメント群が

占い全然知らんし興味もない人がイメージで言ってるな〜」と思ってちょいイラッとしたので

自分から見た「占い」というものについて書く。

増田はどの程度の占い好きか

分かる人向けに書けば

ホロスコープの読解は自分や友人のネイタルを中心に何度か試したことがあるがアスペクトを絡めて読むのは難しく勉強中。

 トランジットにはあまり興味がなくて心理占星術関係に偏り」です。

わからん人向けに書くと入門書の内容を舐めた程度で占い実践としては素人

未来を知りたいとか隠された真実を知りたいとかいう願望はない。

友達自分のことを星を通して見て、キャッキャしてる程度。

なので以下間違ってる可能性は大いにあり、詳しい人から異論は歓迎です。


そもそも占星術ってなんなのか

朝の星座占いランキング代表される12星座占いというのは、その人の持つ「代表的な星座」だけを見ている占星術の簡易版に過ぎない。

国に例えれば、ある国を首相だけで評価しているイメージ

本来はその人が生まれ落ちた瞬間の惑星位置惑星同士の配置から読み取る。

占いなんて根拠なく適当言っているだけだろう、という人もいるが、

この「生まれた瞬間の星の配置」については誰が計算しても同じものが出る。

(※正確にはハウスの分割方法とか小惑星とか読み取り方に流派はあるけどめんどくさいか割愛

ゆえに、占星術とはみんなが同じ星の配置を見て、それをそれぞれが言語翻訳して伝えているものである

星の配置から何を読み取るか、というのも、ある程度セオリーがある。

たとえば月※や金星水星火星といった地球に近い星は、地球から見たとき位置の移り変わりが激しく、感情気質といったパーソナルなもの象徴として扱われる。

対して冥王星※※、海王星天王星といった遠い星は、移動する周期が数年〜数十年単位なので、例えば世相の変化や世代意識のようなより大きなもの象徴として扱われる。

そういったそれぞれの要素が、相互に影響したり、人生のどこかで強調されたりするのを、星の配置――位置や星同士の角度から読み解いていくのが、占星術といわれるものだ。

ネット無料占い範囲でも、少し詳しいサイトを見ればバーナム効果で片付けきれない結果を見ることができると思う。

(※占星術天動説世界なので太陽や月も「惑星」と呼ばれる。チ。)

(※※冥王星占星術世界では今のところまだ惑星いである。)

占い師によって言うこと違う問題

前述のとおり占星術とは「惑星それぞれが象徴するものと、その位置関係」を読み解き言葉翻訳して伝えるものだ。

そこには、図を見て言葉で伝えるような、翻訳段階のズレが生じる。

また、どの星を読み取るか?も個人資質に左右されるところだ。

恋愛運を見てください、といったとして、その占い師が「恋愛」が何から構成されていると考えているか、で伝え方は変わってくる。

例えば、

月は〜7歳までの象徴感情を司る、

水星は〜15歳までの象徴、(実用的な)知性を司る、

金星は〜25歳までの象徴感受性を司る、

……なんて言われ方をする。

では恋愛関係するのはどの星なのか?

あるいは火星(挑戦や戦闘象徴)が関係するのか?

それは、占い師恋愛というもの構成要素をどう考えているか、に左右されてしまう。

少し昔の本ならば、

女性にとっての男性の好みは火星

 男性にとっての女性の好みは金星に現れる」

なんて断言していた本も多かったが、

そういう一律な読み方を支持する占い師ももう少なくなっている気がする。

占い師適当を言ってるから結果がぶれるとは一概には言えない。

占い師の考え方自体が、「読み取り」「翻訳」に影響を与えるのだ。

よく話題に上る「朝の星占いランキング」も、

「運がいい」とは星がどういう配置にあることか?という占い師解釈によって順位が異なるから、結果が異なる。適当に並べているからでは、ないことのほうがおおいだろう。

(余談だが、少し占いをかじるとそのへんのアルゴリズムがなんとなく見えることがある。順位予測など可能である


「当たるか」「当たらないか」を気にするのは

ここまでつらつら書いたとおり、私の知る限り、占いとは「象徴の読解」という営みそのものである

なので占いに関して「当たる」「当たらない」という言い方自体個人的には違和感があったりする。

乱暴に言えば占いとは、

人の性格や世の中の動きといった、混沌として一概には言い切れない茫漠として掴みどころのないものを、

占星術様式に沿って分類し、その関係性を図に表されていると仮定し、それを解釈したもの

だと私は思う。


いやでも結局科学エビデンスはないんでしょ

とここまで説明されたところで、

そもそも星の位置が、人の性格だの世の中だの象徴してるわけなくね???

と思う人はいるだろう。

だってそう思う。

太陽も月も冥王星惑星で、地球宇宙の中心にあるという仮定で導き出された図が世の中の何かを「象徴」してるだなんて、

それが「科学的」に「正確」なわけはない。

けれど大昔の人たちはそう思ったのだ。大真面目に。

そして、世の中の物事を観察し、分類し、星星に振り分けて、関係を考え抜いてきた。

私にとって面白いのはその歴史である

「人の性格」とかい多面的ものを、占星術世界ではどのように分類してきたのか。

「世の中の動き」とかいう無数の歯車の噛み合った膨大な機械を、占星術はどのように分割してきたのか。

その、この世に向ける眼差しの果てない努力痕跡が私は好きだし、

それはときどき、現代の日々を生きる私のことを励ましてくれたりもするのだ。


北京の蝶がニューヨークで嵐を起こす、その間には無数の細かな歯車が噛み合っていることだろう。

カムチャツカの若者がきりんの夢を見たりする理由は、若者自身も知らないところにあるんだろう。

そういう、茫漠とした、人間個人では把握しきれない物事を、なんとか星に仮託して把握しようとするのを、馬鹿馬鹿しい振るまいとは私は思わない。

そういう「考えたってわからないこと」「人間の力では及ばないこと」を忘れ、目の前の物事だけに没頭して生きるのはあまりに荒涼としていないかと私は思う。

ヨッピー氏は七五三でお子さんの健康を願わないのだろうか。

結婚とき、「かみさま」に愛を誓わなかったのだろうか。

そういう、「向こう側」をみんなシャットアウトして生きるほうが、私には特殊に思える。

眼の前にいる人間だけを見て生きるのはいかにも息苦しい。

ときどき星を見るとかして、その中の一つとして自分位置づけられているのだとおもうくらい、正常な人間の営みではないかと、私は思う。



とはいえ占いゲートウェイオカルトでは?

なんかえらく感傷的な書き方になってしまった。

星の話をしてるから仕方ないな。ゆるしてほしい。

さて、ヨッピー氏の主張は

とはいえ占いみたいな非科学的なもの電波に乗せて、カルトへの忌避感を下げるのはどうなの?」

というところだと思うのだが、私はこれについては明確におかしくないか? と思う。

そもそも科学的な話」「論文などのエビデンスがある話」ならいいのかというと、

たとえば驚異の納豆パワー!血液サラサラ!だとか

ナントカカントカ成分で座っていても脂肪を燃焼!だとか

エビデンスとなりうる論文はあっても効果としては現実的ではない話」はいくらでも電波に乗っている。

あれらは健康食品詐欺ゲートウェイになっていないと言えるのか?

あるいは私は反ワクチン的な思考に全く賛同しないけれど、

彼らはおそらく自分たちのことを「科学的に」思考していると思っているのではないか

あるいは散々指摘されている「サウナでととのう」なんて明らかに医学的に警鐘が鳴らされてもいるが、「自律神経がととのう」とかいうよくわからんゴリ押しがなされているだろう。

そもそも科学」とは絶え間なく検証と訂正が繰り返されるものだが、

その大部分は電波に乗ることなく、どこかの商品に都合の良いところ、テレビ視聴率の取れそうなところだけが編集されつまみ食いみたいに放送されるのが現実だ。

でも、それがない放送大学オンリーみたいなテレビを望むかといえば望んでいないだろう。

私が何を言いたいかというと、

情報がどれほど科学的か」という点では、電波に乗っているものはさほどの差がないのだ。

結局我々はそれを選んで、検証し、学び、考え、実践して自分なりの判断力を養っていくしかない。

結局重要なのは自分で知り、考え、判断することであり、

すべての情報自分判断のための「材料」だと割り切ることだ。

それを放棄して、自分以外の誰かに判断を委ねきってしまったとき

その道の行く先にカルト詐欺が待っている…という点では

占いだろうが「科学」だろうが、少なくともテレビに乗っている情報という土俵においては変わらないのではないか




自分で考えること、専門家に任せること

……と締めようと思ったが、

カルトの怖いところは

自分で考えろ 自分で考えて私達と同じ結論になれ」なところだし

たとえば反ワクチンカルト宗教による輸血拒否だって当人たちにとっては自分で考えた結果なわけで

自分で考える」が絶対解決策とも思われないのが難しいところではある。


不安を煽って高額な金を出させる占い

価値観世間と断絶させて金を出させるカルト宗教は糞だが、

健康診断で医師不安を煽られないと運動不足の解消に向かうのは難しいし、

ならば医師になら全権委任していいかというとアカ医師ツイッターからいくらでも引っ張ってこれてしまう。

あるいは、飛行機が飛ぶ原理って科学的に立証されてないらしいよ……という情報の正誤を私は確かめられていないが、移動したいときはその判断をすべて棚上げにし、自分の命を航空会社委任して飛行機に乗る。



委ねるべきときはあるけど、その相手は見極めなければならない。

というなんとも煮えきらない結論で終わる。

2022-07-20

教養」とは何か

教養を身に付けられる本を教えて欲しい。

anond:20220720124155


この問いに答えるには先に「『教養』とは何か」ということをクリアにしないといけないと思うが、これを抽象的に論じ始めると喧々諤々の議論となって、増田の「本を教えて」という望みにたどり着かない。

ブクマトラバがもうそんな状態になりつつある)

しかし、日本の「教養人」と言われる人/自称している人たちの中で「教養」の範囲は割と共通していて、だいたい以下のラインナップに自分の専門や好みを付け加えたものになるのではないかと思う。

ほぼ全員が「教養」と認めるであろう分野

(1) キリスト教

 これはもう間違いない。およそ西洋で発展した学問は深掘りすればすぐにキリスト教にぶち当たる。

ただ日本キリスト教について知識を身に付けようとしてもなかなか良い本が無いのが現状。(その辺で売ってる入門書は表面をなぞってるものばっかりなので読んでも誤解して終わりだと思う)

個人的には内村鑑三の一連の著作から入るのが分かりやすくて良いと思うが、古くて読みづらいかも。田川建三から入るのも面白いかもしれないけどどうかなぁ。

なお、「教養人」といえど聖書は誰も通読していないので、上記の本で引用されたところを拾い読みしておけばよい。

(2) マルクス主義

 ひと昔前までマルクス主義はすべての学問を包括する「グランドセオリー」と言われていて、どんな問題でも切れる便利なナイフのように活躍していた。

その残滓が今でもあって、社会科学においては今でも学生が知らず知らずのうちにマル経用語を覚えさせられていたりする。

むかしは手に入りやすくてわかりやす入門書不破哲三のものしかなかったが、数年前のマルクスブームでたくさん良い本が出ており、個人的にはデヴィッド・ハーヴェイ入門書お勧めしたい。(ただ抵抗が無ければ不破哲三著作は今でも分かりやすくてよい)

みんなの憧れ『資本論』も上記入門書の傍らに置いてちびちび読んでみると良い。そこらの難解な哲学書に比べればぜんぜん読める。

だいたいの人が「教養」と認めるであろう分野

(1) 歴史

 マルクスをやればみんな歴史がやりたくなる。マルクス主義史観学校で習った日本史/世界史に当てはめて、その切れ味を試したくなるからだ。

好きな時代や分野をやれば良いと思うが、「教養人」はみんな網野善彦と遅塚忠躬の著作が大好き(偏見)なので、ぺらぺらめくっておくと良いだろう(マルクス主義史観の多少の解毒剤にもなる)。

ウォーラーステインも読みたくなるが、長すぎて誰も通読していないので、川北稔のアンチョコを読んで、読んだふりをしておくと良い。

なお、第二次世界大戦については最近川田稔昭和陸軍全史』という誰でも読めるすばらしい本が出たので、知ったかぶりができなくなった。

(2) 文学

 文学となると何を読むか、ということになるが、サマセット・モーム先生が『世界の十大小説』というすばらしいアンチョコを出しているのでまずはこれを読むと良い。

そこで採り上げられている小説のうち、『カラマーゾフの兄弟』と『戦争と平和』は「読まなければ人ではない」という風潮があるので、せめて読んだふりはできるように。キリスト教知識がここで生きてくる。

日本小説では、夏目漱石についての柄谷行人の論考を読んで、日本近代について一席ぶてるようにしておこう。

それと『失われた時を求めて』はとりあえず買って挫折するのが大事

(3) 哲学

 わが国では哲学について昔からデカンショデカンショ半年暮らす、あとの半年寝て暮らす」という有名な言葉があり、デカルトカントショーペンハウアーが昔の「教養人」の必須科目となっていたらしい。

ただショーペンハウアーがここに入っているのは少し不思議で、今ならニーチェが入るのではないかと思う。

どうせ正確な理解なんて無理なのだから適当アンチョコを読んで知ったかぶりができるようにしておくと良い。

なお、なんか知らんが日本人はヘーゲルが大好き(な割に誰も理解していない)なので、一応挨拶だけしておこう。

教養」として挙げる人が一定数いる分野

(1) 法律学

 「教養」として名前が挙がることが多い一方で、まともに条文を運用できる人がほとんどいない分野。

上述してきた分野と違って、本を読むだけではだめで、指導教官のもとで実際の事例にぶち当たってトレーニングを積まなければならないので難しいのだろう。

下手に基本書を読んでも本職に知ったかぶりをすぐ見抜かれるので、時折ネットで話題になる法律問題について法曹解説を読んで都度勉強すると良いだろう。

(2) 中国思想インド思想(仏教含む)

 ここまで挙げた学問はいずれも西洋で発展したものなので、「日本にはなんもねぇのか」という気分になってくる。

こうした「教養人」が抱えるコンプレックスについて内田樹が『日本辺境論』という本で書いているので、ちょろっと見ておくと良いだろう(Amazonで1円で売っている)。

ここらで本居宣長とか丸山真男とかを読み出す人も多いのだが、どうせ不毛作業になるので、視野を広げて中国思想インド思想辺りに目を向けるのが良い。

個人的には森三樹三郎の著作が分かりやすくて良い。

(3) 自然科学

 「教養人」というのは大概文系であり、自然科学についてはからっきしな奴が多い。

自然科学話題になると、トーマスクーン科学革命構造』をそれらしく引用して逃げ切りを図る人が多いのだが、本職に馬鹿を見抜かれるので素直に勉強しましょう。

ヨビノリをはじめとした学習コンテンツYouTubeに転がっているので、せめて高校数学物理ぐらいはやっておかないといけない。

人によっては「教養」として挙げる分野

(1) 詩

 上述してきたような分野をやっていると、唐突に詩が登場したりして困惑する場面が多々出てくる。

論理的(笑)な「教養人」の中にはこれを不得手として敬遠する人が多いのだが、どこかで対決しなければならない。

幸いなことに最近詩人渡邊十絲子という人が『今を生きるための現代詩』という詩についての分かりやすい概論を出したので、一読した上で適当な詩のアンソロジーでも買ってくれ。

(2) 映画

 なんか知らんが「教養人」は映画好きな人が多いので、ある程度は観ておかないといけない。

イギリスエンパイアという雑誌が「史上最高の映画500本」という特集をやっているので、上から適当に観ておけば良い。


 とりあえずこの辺を押さえておけば周囲からは「教養がある」という認定を受けるのではないかと思う。

ただ教養があったとしても「教養人」からマウントを取られる可能性が低くなるだけであり、「他人との会話が盛り上が」るなんてことはまず無いから気を付けて呉れ給へ。

2022-07-18

anond:20220512075428

入門書に時々見られる、「一生使わないようなものをくどくど説明する」あれは一体何なんだろうな。

UNIX 哲学」についていくつか

名著「UNIXという考え方 - UNIX哲学」は本当に名著なのか? 〜 著者のガンカーズは何者なのかとことん調べてみた - Qiita

この記事はよく調べてあるなぁと思う反面,事実関係の間違いも多く当時の空気感など欠けていると思う部分がいくつかある。事実関係に関しては追い切れないので参考文献を挙げるにとどめておくが,空気感のほうはいくつか書いておく。なお当該記事の「当時と今では状況が全然違うんだから安易に『UNIX 哲学』とかいうな」という主旨には大賛成である

参考文献

初期の UNIX歴史について興味がある向きには次の書籍お薦めする。

Peter H. Salus『A Quarter Century of UNIX』(1994, Addison-Wesley Publishing)

和訳の『UNIXの1/4世紀』(Peter H. Salus, QUIPU LLC 訳, 2000, アスキー) は絶版のうえ訳も微妙なので薦めづらいが,原書The Unix Heritage Society (tuhs) で PDF が無償公開されているので,英語が苦にならないのなら読んでみるといい。

また同じく tuhs で無償公開されている Don Libes and Sandy Ressler『Life with UNIX』(1989, Prentice Hall)を読めば80年代終りの UNIX の状況(XENIX についてもしっかり言及されている)や利用者目線での雰囲気もある程度判るだろう。

哲学

記事で一番気になるのが「哲学」という語の捉え方。この言葉の強さに引きずられているように読める。でもこれ,当時は設計基本的な考え方くらいの意味でわりとよく使われていた言葉なんだよね。たとえば米 BYTE 誌のアーカイブを “philosophy” で全文検索するとこんな感じ。

https://archive.org/details/byte-magazine?query=philosophy&sin=TXT&sort=date

ほぼ毎号のように出現していたのが判るだろう。

もっとも猫も杓子も「哲学」を振りかざしていたわけではないし,UNIX開発者たちが「哲学」の語を好んで使っていたのも間違いないように思う。傍証の一つが AT&T定期刊行物『The Bell System Technical Journal』の1978年7, 8月号だ。元記事言及されているマキルロイの Forword の初出がこれで,ネットのアーカイブから PDF が入手できる。

この号は二部構成になっていて第一部が Atlanta Fiber System に関する論文12本(全172ページ),第二部が UNIX に関する(Preface や Foreword を含む)論文22本(全416ページ)となっている。さて前述の PDFOCR されているので “philosophy” で全文検索してみると8箇所見つかる。これが見事に全部 UNIX論文なのだ。もちろん論文性質もページ数も違うからこれだけで確定的なことはいえないが「日常的に使っていたんだろうなぁ」という推測は成り立つだろう。じつはマキルロイ哲学とされている部分は “Style” であり “philosophy” の語は一切使われていないというのもちょっと面白いUNIX開発者たちがなぜ「哲学」という語を好んだか正確なところは判らないが,それまでにない新しい考え方に基づいた OS を開発しているという意識があれば,そういう言葉を選ぶのが自然時代だったことは間違いない。

UNIX認知され拡がっていく過程で「哲学」も知られるようになっていった。自分が好むものの良さを他人にも識ってもらいたい,あわよくば他人もそれを好むようになって欲しいという布教活動は今も昔を変らないわけで「哲学」はその便利なツールとなったわけだ。元記事ではガンカースの著作を「外部の人間が後から打ち立てた哲学」と表現しているが,そんなたいしたものではない。マキルロイ論文に影響を受けた布教のためのああい説教は到るところにあった。たとえば前掲の『Life with UNIX』にもしっかり Philosophy の項がある。また日本最初期の UNIX 解説本のひとつである村井純井上尚司・砂原秀樹『プロフェッショナル UNIX』(1986,アスキー)には冒頭次のような一節がある。

オペレーティングシステムは,コンピュータを使うものにとっての環境形成する基盤であるから,そのうえで生活する者の個性尊重し,より良い環境へと作り上げて行く課程を支援するような素材を提供するソフトウェアでなければならない。この主張こそが,UNIXオペレーティングシステムとしての個性ではないだろうか。

 

    プロフェッショナル UNIX村井純井上尚司・砂原秀樹,1986,アスキー)p 3.

「より良い環境へと作り上げて行く課程を支援するような素材を提供するソフトウェア」とはテキストを入出力フォーマットとする単機能コマンド群のことで,これらをパイプでつなげたりシェルスクリプトでまとめたりすることで「そのうえで生活する者の個性尊重し」た「より良い環境へと作り上げて行く」ということだ。こういった説教はありふれたものであった。たんにそれを「哲学」の語を用いて書籍にまとめたのが,たまたまガンカースだったというだけのことである

そしてじつは UNIX場合布教活動とはべつに「哲学」を広めなければならない切実な理由があった。これを説明するのは非常に面倒くさい。当時と今ではあまりにも環境が違うのだが,その違いが判らないと切実さが伝わらないからだ。マア頑張ってみよう。

UNIX の利用環境

UNIXPDP というミニコンピュータミニコン)上に開発された。このミニコンを使うためには専用の部屋に行く必要がある。その部屋は,もちろん場所によって違うわけだが,マアおおよそ学校教室くらいの大きさだ。長机が何列か並んでおり,そのうえにはブラウン管ディスプレイキーボードを備えた機器が等間隔に置かれている。壁際にはプリンタが何台かあるだろう。通っていた学校コンピュータ室などと呼ばれる部屋があったならそれを思い浮かべればだいたい合ってる。ただし置かれている機器コンピュータではなくコンピュータ接続するための端末装置ターミナル)だ。端末装置キーボードで打った文字コンピュータに送られコンピュータが表示した文字がそのディスプレイに表示される。現在 UnixOSCLI を使うときターミナルとか xterm という名のアプリケーションを用いるがこれらは端末装置エミュレータで,もともとは実体のある装置だったわけだ。

さてコンピュータ室にたいていは隣接するかたちでマシンルームなどと呼ばれる六畳くらいの部屋がある。窓ガラスで仕切られたこの部屋には箪笥洗濯機くらいの大きさの装置が何台か置かれている。これがコンピュータ本体だ。もっとコンピュータが何台もあるわけではない。この箪笥CPU でそっちの洗濯機ハードディスク,あの机に置かれているタイプライタ管理コンソールといった具合に何台かある装置全部で一台のコンピュータになる。どこが〝ミニ〟だと突っ込みたくなるかもしれないが「六畳で収まるなんて,なんてミニ!」という時代お話だ。

端末装置それぞれからUSB のご先祖様の)RS-232 という規格のアオダイショウみたいなケーブルが伸び,マシンルームに置かれたターミナルマルチプレクサと呼ばれるスーツケースに台数分のアオダイショウが刺さってコンピュータとの通信を行う。コンピュータと多数の端末装置を含めたこれら全体をサイトと呼び,root 権限を持って管理業務を行う人をシステム管理者あるいはスーパーユーザと呼んだ。

結構上手に説明できたと思うのだが雰囲気は伝わっただろうか。ここで重要なのは一台のコンピュータを数十人が一斉に使っていたという事実だ。洗濯機とかアオダイショウとかは,マアどうでもいい。

自由不安定OS

当時の UNIX評価一言で表すと〝自由不安定OS〟となる。メーカお仕着せではなく自分好みの「より良い環境」を作りあげる自由さらに他のメインフレームミニコンOS に比べると一般ユーザ権限でできることが圧倒的に多かった。そしてその代償が不安定さ。今では考えられないが UNIX のその不安定さゆえにプロOS ではないと考える向きは多かったし「でも UNIX ってすぐ落ちるじゃん」というのは UNIX アンチ定番ディスりだった。UNIX の落とし方,みたいな情報がなんとなく廻ってきたものだ。

こういった雰囲気を鮮やかに伝えてくれるのが,高野豊『root から / へのメッセージ』(1991,アスキー)だ。当時アスキーが発行していた雑誌UNIX MAGAZINE』に連載されていた氏のエッセイ1986年11月から1988年10月掲載分までをまとめた書籍である。著者の高野氏は勤務先の松下電器1980年ごろから UNIX サイトスーパーユーザを務めており,日本では最古参の一人である。この本の中で高野氏は繰返し UNIX自由さと不安定さに言及している。すこし長くなるが,その中の一つを引用しよう。

CPU は,システムにとって重要な共有資源であるが,この CPU実質的に停めてしまうことが UNIXはいとも簡単にできる。たとえば,cc コマンド10個くらい同時に走らせてみたらよい。VAX-11/780 といえども,同時に実行できるコンパイルはせいぜい3つか4つである。それ以上実行することも当然可能ではあるが,他に与える影響が無視できなくなる。つまり,てきめんに viカーソルが動かなくなる。あるいは,すこし大きめなディレクトリ上での ls コマンドの出力が表示されるまでに煙草を1本吸い終えてしまったり,タイムアウトログインが撥ねつけられたりといったバカげた現象が起きだすのである。こういった状態になると,UNIX破壊されたに等しい。真夜中,独りで VAX を占有して使っているのなら何をやろうとかまわない。しかし,20人30人と多数の人間が使っているとき勝手をやられると非常に困るのである当人仕事が遅れるのは自業自得だとしても,そのとばっちりで他のエディタまで止まってしまうと,もはやどの仕事も進行しなくなる。

ディスクについても同様なことがいえる。UNIX では,ファイルシステムを使いはたすまで大きなファイル自由に作ることができる。したがって,自分プロセスがいったいどのくらいの容量のファイルを作り出すのか見当もつけられないようなアマチュアが使うと悲惨なことになる。ディスクを使いはたすと,コンソールタイプライターにエラーメッセージが出力されるが,夜中にそれが発生して,コンソールタイプライターが一晩中エラーメッセージを打ち続け,朝マシンルームに行ってみると紙を一箱打ち尽くしてしまい,ピーピーと悲しげな声を上げて人を呼んでいた光景を私は何度も見てきた。こうなると,それをしでかした本人のプロセスは当然のこととしても,同じディスクで走っている他のプロセスも先に進めなくなってしまう。すこしでも負荷を夜間にまわそうとする善意は逆転してしまい,わずかでも仕事を先に進めようとする意図完璧に打ち砕かれてしまうのである

 

    root から / へのメッセージ高野豊,1991,アスキー)pp16-17.

そして,こうした不安定さが「哲学」を必要としたのだ。自分が利用しているサイトに「cc コマンド10個くらい同時に走らせ」たり「自分プロセスがいったいどのくらいの容量のファイルを作り出すのか見当もつけられないようなアマチュア」がいるとその累は自分にも及んでしまう。だからサイト利用者全員に UNIX設計基本的な考え方を理解してもらうことが,自分のために必要だった。UNIX伝道がより苛烈だった理由ひとつがここにあるのだ。

ミニコン UNIX終焉

ミニコン上で誕生した UNIX は 4.3BSD(1986)で最高潮を迎える。注意したいのはミニコン時代UNIX は Research UNIXCSRG BSD みたいな区別をせずにまとめて UNIX として扱われていたことだ。実際『プロフェッショナル UNIX』も『root から〜』も UNIX記述されてはいるが実際には BSD を扱っている。べつに当時の人が無知だったわけではない。なにしろ BSD を利用するためにはまず AT&T から UNIXライセンスを購入し,そのうえでカリフォルニア大学バークレー校(UCB)から BSD を入手しなければならなかったからその関係は当然広く知られていた。ベル研発明された UNIX を外部の人たちも含めみんなで改良し,それら全体が UNIX であるという考え方が自然だっただけである。『Life with UNIX』のような英語の文献によく登場する “Berkeley UNIX” という言い回しが当時の気分をよく表している。UNIX vs BSD みたいな捉え方は法廷闘争を経た90年代以降の感覚だ。

もっともそういう70年代風味の牧歌的風景ミニコン世界限定の話であった。BSDのものミニコンのものしかなかったが,そのコードを受け継いだ BSDUnixAT&T推し進める System V などがワークステーション市場舞台80年代中盤から激しく覇権を争うようになる。いわゆる Unix 戦争で,PCUnix であるマイクロソフトXENIX も当然参戦した。ミニコン世界牧歌的だったのは,ぶっちゃけていえば先のない技術だったからだ。ただ Unix 戦争あくまでも標準という聖杯を争う戦いであり,AT&TBSDUnixSun Microsystems が共同で System V Release 4.0 (SVR4) を作りあげたように後の法廷闘争とは趣が違う。

こうしたミニコン UNIX からワークステーション Unix への転変は Unixのもの文化にも変化をもたらした。まず激しい競争Unix の高機能化を加速した。商品として判りやす惹句が「あれもできます,これもできますなのは誰もが知っている。もちろん安定性を増すために quota のような利用者自由制限する機能も含まれていた。またワークステーション Unix現在UnixOS と同様同時に一人が使うものであり前述の布教必要性は大幅に減じた。達人たちのみの楽園から万人に開かれた道具に変ったのだ。こういった変化を体感したければ『root から〜』と水越賢治『スーパーユーザの日々』(1993,オーム社)を読み比べてみるといい。『スーパーユーザの日々』はワークステーション Unixシステム管理入門書だ。この本ではたんに知識を羅列するかわりに架空ソフトウェアハウス(開発会社)を舞台新卒社員が先輩社員からシステム管理を学ぶという体裁をとっており,そのおかげで架空の話とはいえ90年代前半の雰囲気が堪能できる。出版年でいえば『root から〜』と二年しか違わない『スーパーユーザの日々』の落差は “dog year” と称された当時の激烈な変化まで体感できるだろう。

UNIX 哲学背骨

当時はよくいわれたのに今やほとんど聞かれなくなったものがある。マキルロイ論文結論部分に書かれたそれは,1973年出版されたイギリス経済学者エルンストシューマッハー著作題名で,中学生英語力があれば十分に理解できる平明な一文だ。

Small is beautiful.

マキルロイは『人月神話』を引いて一定留保をつけてはいものの,これが UNIX 哲学背骨であることに違いはない。機能をありったけ詰め込もうとして失敗した “kitchen-in-a-sink” な MULTI•csアンチテーゼである UNI•x にとって,これ以上のスローガンがあるだろうか?

ひるがえって現在UnixOS をみれば,ブクブクと肥え太ったシステムコール,全容を俯瞰するだけでも一苦労するライブラリインターフェイス,一生使うことのないオプションスイッチまみれのコマンド群。UNIX仮想敵とした OSのものだ。そのことについてとくになにも思わない。ハードウェアは長足の進歩を遂げ,コンピュータの応用範囲は途方もなく拡がった。UNIX が変らなければたんに打ち棄てられ,歴史書を飾る一項目になっただけだ。ただ現在UNIX 哲学」を語るならそうした背景は理解していなければならないし,どれだけ繊細な注意を払ったところで〝つまみ食い〟になってしまうことは自覚すべきだ。

2022-07-06

父が麻雀入門にふりがなを書いてくれた

俺が小2の時、父親テレビゲーム麻雀やってるのを見て、

「僕もしたい、覚えたい」と言ったら、

家にあった麻雀入門書漢字ふりがなを書いてくれた。

結局それでも覚えきれなかったけど、

父親手書きふりがなを振ってくれたのは嬉しかったなぁ。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん