はてなキーワード: フィーリングとは
別に世の中は間違ってないと思うけど、友達になりたいな、と思った人が携帯持ってなくて困ったことがある。
結局友達にはなれなかったんだけど。
携帯ない当時を想像すれば、定期的に会える関係でいるか、定期的に連絡や逢瀬を重ねる積極性がなければ友達なんてあり得なかったはずだ。
1度あってフィーリングが会えば連絡先交換→連絡という現在はある意味特殊だ。
友達を増やす方法として、もう一つは友達のハードルを下げること。(1度あったら友達ってテンション)
年寄りの大物で異常にコミュニケーションのハードルが低い人がいる。俺の会社の社長はそれだ。
もちろん上っ面の建前で言っていることはわかってるし、ちょっとあきれる部分もある。
しかし月日を重ね使い続けたその言葉は何故か説得力があったりするし、交友関係は広いように見える。(社長なら当たり前か)
それを踏まえて言えば、メディアが普及したらコミュニケーションのハードルは逆に上がっていると言える。
「友達は選ぶもの」という考えが一般的になった。本音は言いやすくなったけど、建前は言いにくくなった。
結果、建前でつながる友達関係は減ったし、本音を言える友達は作れない。
(元投稿の方はコミュニケーションのハードルを更に上げようとしている。きっと苦しい人生が待っているに違いない。)
元投稿の方が言いたいのは、本音を話せる友達が欲しいってことなんだろう。
そのために建前の関係になりそうな友達はいらない、とのことなんだろう。
しかし本音で話せる友達を作るためには、建前でつながる友達も必要なのだ。
そんな俺も笑っていられない。よくよく思い返せば、去年増えた友達は皆無なのだ。ここ数年でも両手で数えられるだろう。
●最初に聞きたいCD(ベストアルバム+元増田の気に入ったマスターピース)
○「GRE@TEST BEST! -THE IDOLM@STER HISTORY-」
○「GRE@TEST BEST! -SWEET&SMILE!-」
○「GRE@TEST BEST! -COOL&BITTER!-」
○「GRE@TEST BEST! -LOVE&PEACE!-」
○「M@STERPIECE」
●次に聞きたいCD(気に入ったアイドル候補生のカバー曲+ベストアルバムに収録されてないぷちます曲とLTP曲+ベストアルバムに収録されてない曲がかなり多い「生っすかSPECIALカーテンコール」)
○気に入ったアイドル候補生のMASTER ARTISTシリーズ(真美、亜美は同じ)
○気に入ったアイドル候補生のMASTER ARTIST2シリーズ(真美、亜美は別)
○気に入ったアイドル候補生のPETIT IDOLM@STER Twelve Seasonsシリーズ(真美、亜美は同じ)
○気に入ったアイドル候補生のLIVE THE@TER PERFORMANCEシリーズ(真と真美のみ同じCDに収録されているので注意)
○「ANIM@TION MASTER 生っすかSPECIAL カーテンコール」(二回目以降はフリー枠として、フィーリングでいくか、後で紹介するシンデレラガールズのCDを借りましょう)
○THE IDOLM@STER MASTER ARTIST FINALE
○THE IDOLM@STER MASTER LIVE 00
○THE IDOLM@STER MASTER LIVE 02
○THE IDOLM@STER ANIM@TION MASTER 生っすかSPECIAL 05
でいきましょう。小鳥さんはCDが少ないのでこれと上記のベストアルバムでコンプのはずです。
●上記を何ループかして、お気に入りのアイドル候補生を抑え終わった後に聞きたい隠れ名曲シリーズ(他のCDに収録されてない「隠れ曲」を中心にピックアップ)
○SHINING STAR ★彡のSHINING STAR ★彡(ゆりしーVer)
○「アイドルマスター ミリオンラジオ!」テーマソングのU・N・M・E・I ライブ
○ラジオdeアイマCHU!!スペシャルCDのMon Chéri
○THE IDOLM@STER BEST OF 765+876=!! VOL.02 のDREAM
○THE IDOLM@STER 2 「SMOKY THRILL」の恋するミカタ
かなあ、とりあえず最初はGRE@TEST BESTを借りておけば問題ない。
かなり最近に出たベストアルバムで最初のHISTORY以外は二枚組だから、全部でCD7枚とかなりのボリューム。
まずはこれを聞いてお気に入りのアイドル候補生を見つけて、次はお気に入りの候補生の個人CDを聞くのがオススメの流れ。
ただ、この流れで抑えられるのは765オールスターと呼ばれる初期メンバーの曲とミリオンガールズと呼ばれる初期メンバーの後輩たちの曲ばかりなので、
モバゲーで配信中のシンデレラガールズたちの「CINDERELLA MASTERシリーズ」や
DSゲームのディアリスターズたちの「DREAM SYMPHONYシリーズ」や
モバゲーで配信中のサイドM勢のジュピターCDなんかも是非聞いてみて欲しい。
また、ラジオCDについてくるカバー曲(歌姫楽園と呼ばれてます)もいいのが多い。
毎週水曜日にニコニコ生放送でやってるラジオ番組「CINDERELLA PARTY!」を聞くのもいいかもしれない。
このラジオは毎週シンデレラ勢の曲を紹介するコーナーとパーソナリティーがアイマス楽曲や関係ない曲をカバーするコーナーと、二つも歌のコーナーがあるからオススメ。
それとアイマスのCDを語る上で欠かせないのが、CDに挿入されてるドラマパート。
自分が人事だったら、採る側だったらなんてシュミレーションは何度も繰り返してきて、
そのシステムを呑んで挑んでるわけで。
フィーリングとか、可愛いとかカッコイイとか、襟袖が汚れててなんか不衛生とか、髭が汚えとか、同郷だったとか、
たまたま自分の大学時代の専攻と同じで知識が身についてるヤツを残して、他のヤツの研究が良く判らなかったとか、
こういう、偶々論者が一番鼻につく。
50回も30回も同じことが起きるなら、それが偶々と思えなくなるのは当たり前じゃねーのか。
いくら企業側に主導権があろうとも、ES書くのも面接の準備すんのも課金しておわりじゃねーんだよ。
自分でもゴミだと思ってるものを人に勧めるほど厚顔無恥にはなれないけど、それしか残されてなくて死にたくなってるっていってんの。
その通りの気分になる。
「大学の新卒者が、主体的に行う求職活動」だと、世論は思うだろ。
実際は違う。
本来は、雇用契約に至るまでのネゴであってさ、雇用主と労働者とが一対一の契約関係になるんだろうけど、
実体的には「企業による、大学の新卒者を対象とした採用活動」なワケだろ。
本当に結構な割合で就職活動を通じて、人間性を否定されたと思って傷つく人間が居る。
気の持ちようで前向きになれると思うから書くんだけどさ、ちょっとまずは俺の仕事を想像してくれよ。
まずは、オマエさんは起業してそこそこ成功した実業家だとしよう。で、人手が足りないから新卒採用をしたい。
なんだかうまいことTVCMの効果もあってか名前だけは売れてたから、どっとエントリーシートや履歴書が来たとしよう。
まあ、ざっくり1000通の応募があった。採用したいのは10人ぐらいだ。
毎月給料払ったり保険料出したりするんだし、20人雇ったら会社が傾きかねない。
で、だ。
いやタダなんだが、オマエさんが雇ってる人事担当者であるオレに月給という形で給料を払ってる。
そうすると、書類審査をするわけだ。いやま、実際酷いのもある。
プリクラが貼ってあったって都市伝説から、写真が剥がれちゃってどれかわかんねえとか(写真の裏に名前を書かない)、
明らかにコピーな上に、別の会社の名前が書いてあって入りたい意気込み述べられちゃってるとか、
コピーなのは良いんだけど斜めってて端っこが欠けてるとか、まあ想像を絶する実話が結構ある。
そういう、「明らかな問題外」をハネる。
すると、まあ、だいたい900通ぐらいは普通の応募していただいた学生さん達が残る。
上司からはグループ面接からでも、できて100人だかんな、と言われてる。
で、こっから先は会社に寄るだろうけど、オマエならどうやって選ぶ?
会社に関係のある研究してる院生が応募してきた?それは残しとこう。Fランで字が汚い、うーんじゃあ申し訳ないけど。
そうやってノリと勢いでざくざく切り落としていく。
会社によるよ。大学名で切ってると(飲み屋では)公言する企業も存在はする。逆に大学名を隠して面接してる所もある。
大手ならネットで試験をしたり、人海戦術で巨大会場でテストやったりね。
集中力を見る「大」を20コ書かせる試験とか、「誰かに常に監視されている気がする YES/NO」みたいなストレス耐性みるテストもある。
この辺はまだギリギリ「人の価値」でフルイワケしていると言える段階だったりはする。
んでだ、なんとかかんとか100人を選んで、5人のグループ面接x20回を通じて、まあ30人くらいに絞るわけだ。
よく考えてくれ。テストでもTOEICでも大学偏差値でも良いんだが、そこまでは定量的な基準で評価が出来る。
開示するわけにゃいかんが、それで「オレは他人に比べて実力が無かったんだ……」と落ち込むのは判る。
そこは、自己分析で自分の商品価値で身の丈を知るのにも意味はあるだろう。
TOEIC頑張るなり、院で学歴ロンダリングでもなんでもしてくれ。
お前の前に座ったオッサンは、通り一遍のレクチャーを受けてるか、下手するとタダの部長だったりする。
そうするとな、そこは定性評価だったり、フィーリングだったりするんだよ。
一緒に働きたいと思うような、価値観が合う相手を選ぶ、とかならまだ納得のしようもあるだろう。
面接の直前に部長の浮気が奥さんにバレて「説明して下さい」というメールを貰った直後だったりすると、
当然ソイツらの評価は悪くなる。人間、自分の状況で評価にぐらつきが出る。
愛人から「早く会いたい」ってメールが来た直後の面接だったから、キミは2次面接に残れたんだよ、とか説明できんだろ。
国勢調査のアンケートとかって、質問の順番もかなり慎重に調整されてるらしい。
なんでかっていうと、人間、前後の状況にかなり左右されるんだよね。
「アイドルとしては無しだなwww」とか2chで書いててもよ、実際に飲み会で出会ったら超可愛く見えるとかな。
だから、書類審査で撥ねたはずのトンデモねえ学生さんがやってきた後に、
可愛らしい女性が面接会場に入ってくると、そりゃオッサン共の点の付け方は甘くなるわな。
我が社を志望した理由を教えて下さいとか、まあ儀礼的に聞くわな。
学生さんだってうちのことはコマとしかみてねえだろうから、本気度を見たいわけだよ。
内定辞退されないと自惚れていない自覚がある人事が居るところほどそうだよ。
で、「本気度」とか別に数値化できるわけじゃないから、「オレ」のフィーリングだよ。
そして、オマエさんの目の前に、1000人から厳選された30人がやってくる。
オマエさんが社長だが、人事からはキツく、どんなに採っても内定辞退予定込みで15人までです、と言われている。
さあ、どう選ぶ?そして、選ばなかったヤツは、なぜ選ばなかった?
(一応書いとくと、不安で不眠になったり暴飲暴食するとか言うときは、心療内科行くと楽になるよ。ヤバイと周りから言われたら病院へ行こう)
良く言われるフレーズに「就活で問われるのは、社会人として最低限必要なマナーである」というのがある。履歴書の文体、形式、字の綺麗さ、面接での挨拶、服装、表情、声の大きさ、抑揚、etcetc....。それらが減点方式に評価されていく。
履歴書に書かれる内容も、「いかに自分が人間らしく、生き生きと過ごしてきたか」についてである。
今の就活で問われているのは「人として最低限のことができてますか?」ということである。つまり、就活に失敗するということは、最低限がクリアできていないことに他ならない。
こんなこと考えて、「落としたヤツは人として最低限が成ってない」とか思って落とした?
そうじゃないだろ。
フィーリングとか、可愛いとかカッコイイとか、襟袖が汚れててなんか不衛生とか、髭が汚えとか、同郷だったとか、
たまたま自分の大学時代の専攻と同じで知識が身についてるヤツを残して、他のヤツの研究が良く判らなかったとか、
その程度のモンだよ。面接の評価者は、別に定性評価者として訓練を受けてるわけじゃない。
就活に失敗したって言うのは、単に「企業側が感覚で選んだ中に残れなかった」ってダケ。
だから、主体的に就職活動をする学生さん側ができることって、ほとんど無い。
単純な話、バブルの頃より大卒が増えて、企業側の採用人数は絞ったり変わらなかったりだよ。どうやっても余りが出る。
コレは単純な算数の話で、誰が悪いわけでもない。
例えば、三菱商事にどんなに入りたくても、あそこ150人ぐらいしか採らないわけだよ。
転職先としても相当な実績がなきゃ無理だろ?
そうやって、「実績無し」状態の自分が、どこに転職する?と考えて動けば、ダメ元で応募してるわけだし、落ちて元々だと思えるだろ。
今なら就活特集で言われる「面接に落ちた時、自分を否定されたように感じた」という言葉が理解できる。売り出す商品も自分、プレゼンするのも自分。就活というコンペに負けた原因は、プレゼンの仕方が悪いだろうと、商品の質がわるいのだろうと、他の商品より魅力がない原因は、どうあがいても自分以外何物でもないのだ。
コンペに負けた原因は、面接担当官が前日に彼女にフられたからだよ。
もしくは、一回精神を病んだ上司に顔が似てたからだよ。うまくいかない同僚と仕草がそっくりだったからかも知れない。
コンビニのポテチだって、手にとって貰うところがスタートだけどよ、
のりしおを選んだオマエが手に取らなかったコンソメが「自分が選ばれなかったのは、自分が悪いからなんだ……」と病んでたら、どう思う?
就活側から見れば、単なる運だよ。対応するには、数こなすしかないよ。自衛隊とかすき屋は嫌なんだろう?
(まあ、一次面接で常に即嫌な顔をされるなら服装と清潔感を見直そう)
ざっくりいって今の日本の「就活」は、企業側の「ピックアップ作業」が主体だよ。正否はそっちで語るべき。
こういうふうに語りながらおすすめを決められるのってすごいと常々思う。
自分がいいと思ったからといって他人にもウケるという確証がもてないから、
自分の熱量とは別に客観的に理路整然と分析して機械的に聞くようになったらつまらないし。
両方切り替えられればいいんだろうけどそこまで器用じゃないし。
俺はそれでいい。
めっちゃ傲慢にあれもこれもとすすめちゃってドン引きされちゃいそうだし。
ちなみに俺はジュテーム?が好き。
男性と遊びに行った。
浴衣だった。
足元が悪くて、歩くの大変だった。
でも男性の足の速さに追いつこうと懸命になって歩いた。
周りのカップルは、彼女に「大丈夫?」「ぬかってるから気をつけて」とねぎらっていた。
彼女らは「全然平気」とぶっきらぼうに応える。ぶっきらぼうさの中に「やさしい〜」が聞こえてきそう。
その会話を聞いた男性が振り返り同じことを私に聞く。
「もう!今更そんなこと聞くなんて遅いよ!プンプン!」
と私は声に出して拗ねて見せる。
「あッ!メンゴメンゴ♪(ウィンクでシマッタ顔)子供のとき思い出して気持ちが浮足立っちゃってさ!テヘ♪」
とおどける男性。
と返し、一緒に歩けるように手をつなぐ。
まだ恋人つなぎができるほどの仲ではないが、熱く少し汗ばんだお互いの手を握り合うことで、心の距離も近づいた気がする。
席に着くと、トイレ行ってくると席を立ち、そのまま帰ってこない。
そのままぽつんと残される。
だいぶ経って帰ってくると手には食べ物。
これあげると渡される。
くれるのは嬉しい。
でも、
「ありがとー♪モグモグ・・・おいしーね!私りんごあめとわたがし食べたいんだ~。せっかく二人で来たんだから一緒に買いに行こうよ!」
と、お礼を言いつつ自分の気持ちをきちんと伝える。
「そっか!(下駄だと歩きまわるの大変かと思ったんだけど、そう言うなら・・・)じゃあこれ食べ終わったら行こう!勝手に買ってきちゃってごめんね!」
男性も先走りを謝罪してくれた上で理解を示してくれて、お互いにほどよい距離感で気遣い合えててすごく心地いい。
こんな人とお付き合いできたらいいな~なんて考えちゃう。
帰り道、カフェに寄る。
「そうだねー!私普段座ってばっかりだから、久しぶりにこんなに歩きまわった気がするー!慣れない下駄で足もすっごく今きついよ(笑)」
「あっそっか・・・楽しくてつい・・・たくさんひっぱりまわしちゃってごめんね・・・」
「ううん!私が一緒に歩きたかっただけだから全然ノープロブレム★だよ♪楽しかったし!」
駅前で別れて電車の中で今日のお祭りのハイライトをメールでお互いに延長戦♪
初期条件で相手に満足できていれば、その後の生活で生じるもろもろの問題にも我慢しやすいんじゃないでしょうか?
費用と手間をかけるなら確度の高い方法がねぇかなぁ とは考えています。
面倒でさーせん。素直に、良い結婚相手と出会いたい と言ってるつもりでしたが。
無条件で「俺と結婚してくれるなら誰でもいい」とは考えられなかったので。
でもこれって普通だと思うんですが、ずれてる?
出会い系の方が真剣に探されているのを否定する意図はありません。
ただ売れ残り、性格に問題のある方、高齢者が多いイメージはあります。
理論的には好意の返報性というやつですね。よかった探しはしてみようと思います。
近くにいる子がいないので、そこをどうするかですが。
趣味サークルに参加しての接点増加は検討してみようと思います。
真面目に活動している方に「出会い厨ウゼー」と申し訳ないことになる可能性はありますが。
人は色々考えて動いていると感じるのですが
配偶者選ぶだけ何も考えずフィーリングという方は少ないのではないでしょうか。
相手を搾取して幸せになってやろうというのではなく、相互に幸せな家庭を築きたいので打算的とは何か違うと思いますが。
良い相手と出会いたいという考えを捨てるだけでは、出会い自体は増えない気がしますが。
リアルじゃこんなエゴイスティックなことはなかなか言えんのです。
あと同種のこと考えてる人もいるはずなので、どうしているか知りたかった。
本好きの高じた結果、その購入物によって汚染された室内は、積読現象によって室内の壁際を、二周ほど周回したころから、家主は、危機意識をいだいた。購入欲求から出発した恒常的な床不足と家計破壊は、室内に家主の生息をゆるす状況ではなくなり、電子化は必然であった。
だからといって、本当に床が抜けてからでは、家主は、裁断機を運用し、自炊する力もなくなってしまうだろう。
電子書籍リーダーの導入は、家主は部屋とともに死にむかうのではないかという認識が、本好きからひろがった時に生まれて、電子書籍の購入が開始された。
電子化が開始されれば、すべての蔵書を均一に電子化させる、という家主の決意は、まちがいではない。
しかし、特例事項があったことが、その後の過ちをうんだ。家主が必要と認めた書籍は、部屋に蔵書できるという規定である。
条件はあった。
入手が困難な希少本と、画集のような今の形に意味がある書籍という規定である。
規定は、理想的にその理念を行使するということはないし、一般的な人びとの視点からみれば、床が、抜けていると見えないことが、この規定を拡大解釈して、運用されたのも当然である。
さらにいえば、本好きから産まれたビブリオマニアが、紙とインクのフィーリングを忘れることができるものではないからこそ、そこに、無条件に規定を無視したくなる思いがうまれた。
その欲求は、正しい。
しかし、ビブリオマニアのもっとも深い罪業は、積読の増殖が、室内環境と家計にとってもっとも危機的なものであるという認識を認知しないことにあった。
しかし、電子化は、その代償を家主みずから支払わなければならない時代であり、電子書籍時代とは、技術革新の時代でもなければ、祝福された時代でもないのである。
その認識から生まれたフラストレーションは、ますます本好きの人びと、ビブリオマニアたちに、物理本回帰の欲求に火をつけるのは、逆説的ではあるが、当然の帰結であった。
増殖した積読という本が、たえず回帰する形は、物理本でしかないという欲求は、ビブリオマニアの二重の罪業である。
しかし、床を完全に再生させるためには、千冊以上は処理しなければならないだろうし、千冊処理するあいだに、積読は、さらに増殖するだろう。
つまり家主は、すでに、蔵書全部が部屋におくことはできないと、覚悟をしなければならないのである。
これも、本好きには、容認できる認識ではないのだ。
しかし、現代は、すべての例外規定が排除されて、ビブリオマニアは、電子書籍リーダーに逼塞しなければならないのである。
『……でなければ、版元が起こした反乱も、あの時、死んでいったストアたちの霊もなぐさめられない……』
マスダは、そう思う。
要するに嫌だからやりたくない、ってだけじゃん。
問題意識を持つなら、なんで問題なのか言えよ。
それ言えないなら、単に「僕はやりたくないからやらない」っていうただの我侭じゃないか?
「答え」を求めてない、ってなんだ?
「問題だ」と思うっことはそこに何かしらのおかしなことがあってそこを改善できる可能性がある、ってことだろ?
それを示せよ。
出来ないなら単なるわがまま以外の何物でもないだろ。
私が思う問題はまず、「様々な場面での合理性の欠如」であって、
そこまではわかりますか?
要するに嫌だからやりたくない、ってだけじゃん。
問題意識を持つなら、なんで問題なのか言えよ。
とあなたは発言しているが、
なぜ問題なのかというと、「無理矢理やらせることで人を人として扱ってないからだ」、とも述べていた。
「答え」を求めてない、ってなんだ?
「問題だ」と思うっことはそこに何かしらのおかしなことがあってそこを改善できる可能性がある、ってことだろ?
それを示せよ。
それに関して言うと「なぜを答えられる必要がある」というのが回答である。
つまり、上司は部下に、それがなぜ必要か「問われたら返せる必要がある」とさんざん言ってきた。
部下は常に「なぜこの仕事をするか」疑問に思っている。
疑問に思うとやる気も出ないし、生産性もあがらないし、生産性があがらないと長期的に見ても不利益だ。
だから、部下がなぜか?と聞いたとき、「これはあの大事なプロジェクトで、こうこうで必要なんだ。それできみに任せている」
むしろ、それもわからず部下に仕事をさせているようでは、どうかと思う。
2〜3秒ですむ事だ。
そして、もし例えば何か上から下の者へやらせることが「伝統で続いているもの」であったとき、
そこには初めてその行儀なり行動をした人たちが考えた思想がある。はずだ。
もし、その思想がわからないまま、ただ闇雲にその行事を継承しても価値がないので、
即刻やめるべき。
私が言いたいのは「なぜかよくわからないけど、とりあえずやっている」とか「常識だからやっている」って言う事が、
それに一切役者は答えられなかったそうだ。
今やっている事はなんのためで、そのためにやらなくちゃいけないんだという
これまで似たような価値観の集まりだったから、そういう発想も出てこなかっただろう。
しかし、今後日本人だけで何かをするというわけにもいかなくなってきた。
だから価値観の違う人間には「論理」でコミニケーションをとる必要がある。
本当にそれでいいのか、フィーリングに頼っていいのか?
と私はこれまで主張してきた。
貴方のために書きました。
社会人になると合コン(あるいは余所の人との呑み会)に誘われることも増えてくる。
・参加者の年齢層がばらつく
・フィーリングが合わない相手でも後から社会人としてコンタクトを取る可能性がある
・狭い人間関係を元に合コンを繰り返すと同じ相手と当たる場合がある
といったところだろうか。
そんな社会人合コンでやっておくべきことを反省を踏まえて書く。
日時と参加者(最悪、名字だけでもよい。)を覚えている限り書き連ねておくこと。
行った店もメモしておくとなおよいだろう。
この蓄積が会話を生む場合もある。但しあまりしつこく絡まないこと。
地雷避け、もしくは事前の覚悟によるダメージ軽減効果が期待できる。
友人4人と、いつもは入らないおしゃれな雰囲気の居酒屋に入った。創作ダイニングバー的な?
料理も飲み物もおいしかったしお店の雰囲気も申し分なかったんだけど、コスパ悪いなって、ただそれだけ、でも一度そう考えたらもうぬぐえない類のことを思った。
結局、会計はいつもの倍くらいで2500円くらいだったんだけど。
おしゃれな店って、おしゃれな名前がついたメニューが1000円くらいでちんまり出てくる。その店は、炭水化物のものでも、どかっと出てくることはなくて、ちんまり。
そういう店はおいしい酒を飲みながらゆっくりおつまみ感覚でちんまりしたものをつまみながらおしゃべりするところって、そういうことはわかってる。
わかってるけど、友1が。友1が明らかに食い意地張ってる。
まあ、わかる。こんなちんまりだったら、おなかいっぱいにならない。ちょっとでも多く食べたいって、わかるけど。今日は飲んでないし。
私たちの集まりは、いつもノンアルだ。飲みたがりがいない。飲もう!ってならない。
だから今日も、まあここは居酒屋さん(ダイニングバー)だけど、まあたまにはいいじゃんソフトドリンクだけどみんなでちんまりしたものをつまもうよって感じが、雰囲気が、浸透するもんだと思ってた。だってみんな高校生じゃないんだから。大人になったんだから。
ちんまりしたものを、ゆっくり食べるのも食事のひとつだし、食事は量じゃないよね、と、「ああ困ったな、ここはいつも入るような店とは違って料理が少ないなぁ高いし」と思いながら、自分を納得させてた。私は。
(ちなみに私たちは社会人半分学生半分って感じの喪女グループです)
お店は、どんな料理も4人で分けられるように、わかりやすく切ってくれたものを出してくれた。いいお店ってちゃんと人数見て料理も切ってくれるんだっていう認識をわたしはしてたので、自分の分を取り皿にぜんぶとらなくても、わたしは安心して置いといた。だってその料理は、明らかに誰が見たって一人二切れでつまむように出てきてた。
今日は割り勘って決まってて、人数分きっちり平等に行き渡るように料理が出てくるのに、友1は、友1は、最後に残ったわたしが残しといたやつを、「はいこれ食べちゃうよ」つって、食べちゃった。
普通わかるだろ! こういうとこではさ! ただでさえ今日は(いつもよりは)高くてコジャレた料理食ってんだからさ! みんなにおなじだけそれを味わえるように食べるだろ普通!!
ああ、こいつはこういうとこ入り慣れてないんだな、空気読めよくそ、って思った。
ここまでで私が我慢して、ここまでのモヤッを忘れてればこのあと尾を引くことはなかったのに、このあともちまちま、なんか今日はフィーリングあわないな、なんか突っかかってくんなーこいつ・・・って感じで解散になっちゃった。少なくとも私は、友1と話して笑ってはいたけど、今日は合わないな、って思いながらモヤモヤしてた。
たぶん向こうもそうだっただろうと思う。
友1は本当にいいキャラしてて、大好きだし、こういうときに勝手にキレるのはいつも私のほうだ。
友1のいいキャラはその空気の読めなさにあるんだけど、たまに私が、この態度はあまりにも酷い、と受け取ってしまうと、私は勝手にキレてしまう。キレてしまう私。
でも、私は友2~3にキレたことは、ただの一度もない。ただの一度も。友1ほどには。
私が「この人は空気が読めない」と思うその人に、空気読めないね、というのはおかしいし酷だ。
ここではこうするものでしょ、というのは私の価値観だから。その人の価値観じゃない。金銭感覚だって違う。おなかの空きぐあいも。
だけど、だけど今日は久々に、モヤモヤから始まって、キレはしなかったけどイライラまでは到達した。
食い物の恨みは恐ろしいって言うのは本当だ。私は、自分が食べたこともないこじゃれた食べ物を、明らかな食い意地を見せられつつかっさらわれて、いいのよお食べなさいなとは言えない。私だってきっちり二切れ食べたかったもん。すげーおいしそうだったもん。一人二切れしかないけど。
「えっなんで! それ私のぶんじゃん!!」ってその場で言えばよかったんだけど、あまりにも私の価値観には合わない行動だったので、キレてその場を台無しにしそうだったので言わなかった。
言わなかったけど、今日は嘆きたい。
(いつもより)高い店で、食い意地をはられて、それゆえに不平等に扱われたことを、またそれをその場で友には指摘できなかったことを、ここで嘆きたい。
以前、話題に取り上げて貰った海運系船乗り。
主に6種類の方法が想定できる。
漁師とならずとも遊覧船や釣り船などで必ず要る資格であり、趣味で取得する人も多い。
区分は「1級」「2級」「特殊」に現在は別れており、業界人は「新1級」などと頭に「新」を付けることがよくある。
これは法改正で区分が変わったからであり、旧区分と混同しないためだ。
新区分ではいわゆる「水上バイク」が独立区分の「特殊」となった。これは水上バイクに関する海難 (海で発生する事故のことを指す業界用語)が頻発したからだ。
区分は新2級よりも新1級の方が大きな船に乗れるという認識で間違いないが、詳しく知りたいのならググると良いだろう。
ちなみに「コレもはやクルーザーだろ」とツッコミたくなるような高級プレジャーボートで無い限りは、たいてい新2級で事足りる。
ただし、新1級と新2級では水上バイクを運転することができないので、水上バイクを運転したいのなら「特殊」を取得しよう。
社会人であっても1ヶ月あれば取得できる。
ちなみにだが船舶系の運転免許資格は有資格者が同伴しているのならば無資格者が船舶を運転しても良い事になっている。
つまりお父さんが有資格者で同伴しているのならば子供に船を運転させても良いということだ。
子供にカッコイイ姿を見せたいお父さんは取得を検討してみたらどうか。
高卒の資格も得ようとする場合は「水産高校」「海上技術学校」「商船高等専門学校」へ進学しなければならない。
ただし実は各校とも得られる船舶系資格に微妙な差異があるので注意が必要だ。
基本的に漁業系の技術を習得するための文部科学省管轄の高校だ。
海運系に特化しているわけではないが、大まかな知識技術は「船舶」という枠組みにあるため共通点もあり就職先には海運系企業もある。
その水産高校によって取得できる海技士免状の等級に差異があるんだ。
当然、等級が低ければ法に定められた権限も違い、4級海技士より5級海技士は権限が限定的である。
4級海技士を取得できる水産高校の方が良いのか?という疑問もあるだろうが、4級海技士を取得できる水産高校は航海もしくは機関のどちらかしか取得できない。
5級海技士を取得できる水産高校の場合は航海も機関も双方を取得できるんだ。
個人的には4級海技士を取得できる水産高校の方が良いと感じる。
理由はより高い授業レベルが期待できるし、そもそも就職したら甲板部もしくは機関部のどちらかへ配属されるからである。
そして社会人になると昇級試験のために真面目に勉強する奴は少ないので早めに高い等級を取得しておくべきだ。
2年生になると遠洋へ出てマグロ漁を実際に行うことでも知られている。
マグロと共に小型のサメもかかるらしく、そのサメの頭を大ハンマーで殴って気絶させるそうだ。
筆者の友人にも水産高校の出の者が居り、彼の話では「女子が返り血を浴びながらサメの頭をハンマーで殴ってる光景は壮絶だ」とのこと。
詳しくは多分、水産高校を卒業した増田かTwitter民が語ってくれることだろう。
小型船舶操縦士と海技士の最も大きな違いは、小型船舶操縦士は航海も機関もカバーするが、海技士免状は航海士用の「海技士(航海)」と機関士用の「海技士(機関)」で別区分となっている。
これは海技士免状が必要なほど大規模化した大型船に対応するための区分だ。
危険物取扱者にも様々な種類があるが、それと同様に航海資格では機関士となれないし逆もまた然りだ。
海技士免状を取得するには「乗船履歴」「筆記試験合格」「口述試験合格」の3要素が必要だ。
先程から俺は「水産高校で海技士免状を取得できる」と言っているが、正確に言うと水産高校で取得できるのは「乗船履歴の特別短縮」「筆記試験の免除」のみである。
これは後述する海上技術学校や商船高等専門学校、海上技術短期大学校、海洋大学校を卒業しても同じである。
国も馬鹿ではないので、たかだか学校を出たくらいではポンッと海技士免状をくれたりはしないのだ。
学校を出ただけのそんなヒヨッコを広大な海原へ放ったりはしない。危険すぎるから。
海技士免状を取得しようとする者は、総じて口述試験の際に物凄く緊張する。
口述試験とはつまり面接による試験であり、学習した内容を試験官の出題に合わせソラで回答をしたり、時としてホワイトボードなどへ図解する試験だ。
それはおそらくこの日本で取得できる資格の中で唯一、試験官が受験生に対して、ブチ切れ、怒鳴り、叱る試験だからである。
受験生があまりにも回答へ窮したり、回答すら出来なかったりすると試験官はキレる。
それもそのはず、試験官の多くは引退した船乗りで構成されており、ヒヨッコの出来があまりにも悪いと現役の頃の感情が蘇って鬼と化すのだ。
試験時間丸々説教に当てられた事例も多数あり、受験生はそうはなるまいと必死になって受けるのだ。
当然、そうなると落とされるのは言うまでもないw
水産高校とは違い、国土交通省管轄の海運系へ特化した高校である。筆者の母校。
水産高校と比べて取得できる資格の差異は4級海技士(航海)と4級海技士(機関)の双方とも取得できる点。
海運系へ特化しているだけあり当然ながら漁法とかそういうのは一切学ばず、全て航海術や機関知識へ当てられる。
俺の経験では校舎の外壁を消防用ホースで洗ったり、屋上から「ジャコブスラダー」という空中ブランコで降りて校舎のペンキ塗りをしたり、やんちゃで破壊した校舎の板壁を修繕したり、グラウンドのフェンスを補修したり、ドアノブ直したり、電灯直したり、学園祭の野外ステージを作ったり、その他色々やらされた。
地域貢献ボランティアにも積極的であり、ごみ拾いに月一で参加させたり、近隣のジジババの家の植木の枝刈り草むしりさせたり、保育園児の相手をさせられたり、老人ホームの模様替えに派遣したりしている。
これらは「協調性」を育み、故郷を大切にする心を育むための教育らしい。
声を大にしては言えないが、海上技術学校の最初期である海員養成所は戦中からある組織なので、旧日本海軍の思想を今でも色濃く受け継いでおり「お国のため精神」が根強い。
何故、そんな旧体制的な思想が現代にも受け継がれるかと言えば、そもそも保護者が海上自衛官だったり海上保安官だったりするためだ。
教官((海上技術学校では先生ではなく教官と呼ぶ))から生徒、保護者に至るまで完全なる右巻きであり、そこへ通う非海洋系家庭の生徒も右巻きになる。
歴史の授業では勝海舟や日露戦争、大東亜・太平洋戦争の部分となると異様な盛り上がりを見せる。
件の中国監視船衝突問題では問答無用で一色氏を支持するといった雰囲気である。
卒業者に海上自衛隊士官候補生を多数輩出している(現在、尉官以上の卒業者がかなり多い)。
純粋培養でネトウヨが育つ環境なのでハテサの皆さんは気に食わない学校かも知れない。
文部科学省管轄の高校では無いためPTAとの関わりが非常に薄く、保護者も船乗りが多いため教官は普通に生徒へ体罰を下す。
俺自身、高校3年間で何度教官から殴られ、グラウンドを走らされ、罰作業を受けたかわからない。
「ウチのボウズがバカやったらブン殴って曲がった根性直してやってくれ」と親が言うので全く問題にならない。
むしろ体罰が「問題があるもの」という評価を学校に関わる者全てがしていない感じだ。体罰は必須であると。
生徒自身も「殴られて当たり前の行為をした」という認識があるため不満を持たない(殴られてマジムカつくという感情はもちろんあるが)。
一面から見ると厳しい校風であるため脱落者、つまり自主退学する者も少なくはなく入学者の1割程度は1年生の内に辞める。
これは海上技術学校自体が奨めていることで「合わないと思ったら早めに辞めて1年遅れで普通校に行った方が将来にも良い」という意見だ(俺の世代にも普通校へ1年遅れで行った者が居る)。
先輩は後輩の精神的フォローをしているが辞めてしまう者は結局辞めてしまう。
中学時代に軟弱な者が続けられないか?と言えばそうでもなく、3年勤め上げることで肉体的にも精神的にも成長していることが結構ある。
逆に番格をはっていた様な剛の者が直ぐに辞めてしまうこともあり、本当に適正はフィーリングでしかない。
水産高校のマグロ漁にあたる航海実習は日本全国を帆船などで周回する。
海があれば増田の地方にも帆船の日本丸や海王丸が入港してきたことがあると思うが、帆船に乗ってる一部の人間は海上技術学校の生徒だ。
そのためまともな修学旅行というものが存在せず、修学旅行先の定番である京都や奈良、北海道に学生時代に行ったという思い出の無い者が結構居る(どうせ就職したら行くけれども)。
こちらも海上技術学校と同様に海運系特化であるが、やはり微妙な差異がある。
管轄は文部科学省、5年制のいわゆる高専であり学歴としては海上技術学校より1段上である。
海上技術学校との違いは、海上技術学校が満遍なく海運のことを学べるのに対し、商船高等専門学校は「航海」もしくは「機関」のどちらかをより専門的に学べるようになっている。
取得できる資格も3級海技士(航海)、もしくは3級海技士(機関)のどちらかであり、資格としても海上技術学校より1段上だ。
入学するにも海上技術学校は良い言葉を使えば「来るもの拒まず」であるが、商船高等専門学校は一定以上の偏差値が必要である(進学校並ではない)。
海上技術学校は実践主義的なので「進学するまで何をしてきたか?」よりも「進学してから何をしたか?」が重視される。
文部科学省管轄である商船高等専門学校は前提としての偏差値があり、それ故に安心して一定以上のレベルの学習は保障されているという利点がある。
比較的新しい海洋系の学校なので海上技術学校のような右巻き偏重ということもなく結構自由な校風のようだ。
海上技術学校もそうではあるが、入寮している生徒が多く、その寮生活に不満を持つ生徒が少なくないらしい。
近年、海洋系以外の学部を創設し、より広い入学者を募集しているようだ。
当然ながら高校を卒業してからだって船乗りになるための道は用意されている。
高校の要素を持つ海上技術学校とは違い、基本5教科などは学ばず海運のことを集中して学ぶ2年制短大。
一般高校卒業から最短で船乗りになろうと思うのならこの選択となる。
海上技術学校では3年かけて取得する4級海技士を海上技術短期大学校では2年で取得できる。
ただやはり海上技術学校卒業と比べると1年間の周回遅れが発生するので、そのまま就職すると1つ年下の1年先輩が居る可能性があるので、そこを割り切る必要がある。
校風としては海上技術学校の生徒よりも意識が高いと言わざるを得ない。
普通高校から普通は選択しないだろう海運という道を選び、明確な目標を抱いて海上技術短期大学校へ来ているので資格の取得率が異様に高い。
海上技術学校や海上技術短期大学校ではボイラー技士資格や危険物取扱者資格なども取得できるのだが、海上技術学校と海上技術短期大学校を比べると海上技術短期大学校の方が取得しようとする者が多いのだ。
就職に対しての熱意もスゴイので、本気で学ぼうとしない人間が就職率だけ見て来ると単位が取れなくなり自主退学するそうだ。
しかも周囲は本気で学ぼうとしているので本気じゃない人間は邪魔者扱いされるらしい。
海洋系大学が統廃合された結果生まれたのが海洋大学である。筆者の母校。
海上技術学校や商船高等専門学校からの進学者も多く、入学時は一般高校出身者と海洋系学校出身者の知識量の差や海への適応力の差が激しい。
具体的にはロープやワイヤーを結んだりする実技(ロープワークという)の際に海洋系学校出身者は一瞬で終えるが、一般高校出身者はモタモタとしてしまい数十分かかってしまったりする。
更には実習船での海へ出ると海洋系学校出身者は活き活きとするのに対し、一般高校出身者は船酔いで実習どころじゃなくなるなどである。
半年間我慢して一般高校出身者でも真面目に学んでいれば海洋系学校出身者とのスキル差はそんなに開かなくなるのだが、それでもやはり実技で職人芸とも言える精度で物を完成させるのは海洋系学校出身者が一日の長もあり多い。
ただ必ずしも海洋系学校出身者が全てにおいて優っているかと言えばそうではなく、筆者の同期には金属加工で才能を開花させた一般高校出身者が居たりするので真面目にやってさえいれば問題はない。
資格は3級海技士(航海)または3級海技士(機関)のどちらかが取得可能。
商船高等専門学校と何が違うかといえば、そもそも大学なので例えば「高等学校教諭1種免許状(商船)」なども取得できる。商船の教諭免許なんてレアなのでたまたま何かのきっかけで現役教師と会話することがあると非常に盛り上がるw
学科や専攻の選択肢が幅広いので個人的には海上技術学校時代よりも楽しめたような気がする。大学時代が人生の春とはよく言ったものである。
ちなみにだが海洋大学は偏差値そこまで高くないくせに大学別平均年収ランキングでいつも上位にいる大学である(平均800万くらい)。
理由は簡単だ。船乗りは続けてると年収1,000万を余裕で超えるからだ。
就活は多くの学生に現実を見せてくれる悪夢だが、海洋系学生にとっては実はそこまで大きな問題ではない。
何故かといえば海洋系学生の就職先の8割は教官や教授、現役船乗りである親のコネだからだw
少しだけ経済の話をするのならば日本の経済は海運に依存しており、最も速く経済の動向の煽りを良い意味でも悪い意味でも受けるのが海運業界だ。
ただ好景気だから採用枠が増えるかと言ったらそうでもなく、どちらかと言えば人材の過不足によって増減すると言って良い。
現在はベビーブーム世代引退の最中にあるため人材不足を起こしており採用枠は多めだと言って良い。
その2へ続く
最近、フェイスブック等を使って「ソーシャルランチ斡旋サイト」とか
「飲み会斡旋サイト」「コーヒーミーティング斡旋サイト」が流行っている。
いわゆる「ソーシャルマッチングサービス」だが、これをうまく「男女の出会い」に生かして、
「出会いサービス」というと、「結婚まで至らない、お遊び・いかがわしい不純交際」的響きがあるが、
恐らくフェイスブック系マッチングサービスでも、「真剣男女交際系」なサービスはあるとは思うが、
フェイスブック自体が、偽名でも登録可能なザルサービスであり、あまり期待できない。
※フェイスブックに某有名「男子校」出身の「女性」登録があって、思わず吹いた。
ところで、航空会社は搭乗する際に、乗客の氏名・年齢・性別情報を要求する。
国内線の場合は、身分証明を要求していないので、偽名での搭乗を100%阻止できないが、
比較的、「本当の氏名年齢性別」を乗客の皆さんは記入しているようである。
そして、クレジットカード決済搭乗の場合は、実名・実年齢・実性別確率はほぼ100%となる。
しかし、航空会社は、せっかくの個人情報を、航空保安以外の面では、あまり「活用」していない。
そして、伝統的航空会社(レガシーキャリア)は、格安航空会社(LCC)に価格で押され、
サービス面でなかなか対抗策を打ち出せない。
ということで、レガシーキャリアの活性化と、少子化対策の一石二鳥策。
「マッチングシートを希望する、(20歳~34歳)女性には、マッチングシート窓側を指定させ」
「マッチングシートを希望する、(20歳~34歳)男性には、マッチングシート窓側の隣の席を指定させる」
これによって、「マッチングシートを希望する女性」と「マッチングシートを希望する男性」は、見事「隣同士」に着席することになる。
隣に座っている人は、「多少は出会いを期待している異性」なんだろうから、勇気を持って声掛けしやすい。
マッチングシートを希望する場合はクレジットカード利用に限定することにより、
性別・年齢の虚偽申告をほぼ0%にすることができる。
つまり、「マッチングシートを希望すれば、かなりの確度で、20~35歳の異性が座ってくれる」ことになる。
※もっとも、残念ながらマッチングを希望する異性が現れない可能性も、あるにはある。
その際は「マッチング不成立でした」と伝えることになる。
フィーリングが合えば、お互いにメアドやケータイ番号を交換すればいい。
或いは、「お互い一緒に北海道旅行」なんて発展系も、あるかもしれない。
※そもそも、同じ方面の航空機に搭乗している、ということは、「趣味が一致する」可能性が高い訳であり、
フィーリングが合わなければ、そのまま別れればいい。
時間として「たったの2時間弱」なのだから、「合ってる時間が勿体無い」なんてことはない。
※そもそも、何もしなければ「退屈な機内のムダ時間」でしかない。
「ムダ時間の有効活用」と考えれば、得することはあっても、損することはあまりない。
「関係を深める」のにも2時間弱は適切な長さだし、「別れても後腐れない」と言う点でも、2時間弱は絶妙な長さである。
「北海道に行くのに、LCCじゃなく、レガシーキャリアを利用するだけの経済力の持ち主」なんだから、
いかがわしい出会い系サイトの場合、参加のハードルが低いが為に、「真剣じゃない」参加者が質を下げている。
レガシーキャリアの航空券代を要求することで、「マッチングシート参加者の選別」が図れる。
そして、このサービスは「レガシーキャリアならではのサービス」であり、LCCとの差別化が図れる点でも、ポイントが高い。
なぜなら、LCCの場合、座席指定が効かないケースが多いからである。
シートマッチングサービス参加希望者からしても、これは「そんなに気恥ずかしくない」サービスである。
どうしても「結婚相談所」とか「お見合いサービス」というと、「気恥ずかしい」「気後れしてしまう」キライがあるが、
このサービスの場合は、「レガシーキャリアの航空券購入時に、サービス付帯を申告するだけ」なので、気が楽である。
あと、細かい配慮として、「どの席がマッチングシートなのか?」は、他の乗客には「バレないよう」にする。
マッチングシートを固定してしまうと、「ああ、あの席に座っている男女、マッチングシートに座ってやがる」と好奇の目で見られてしまう。
「10時のフライトでは、マッチングシートを7組設定」とフレキシブルにするのがいいだろう。
このようなマッチングシートフライトサービスが成立するには、一定以上のフライト時間が前提となろだろう。
やはり、羽田~北海道、羽田~九州・沖縄、中部・伊丹・関西~北海道程度のフライト時間は必要になってくると思う。
国際線でも設定してもいいが、日本~アメリカ、欧州のような長時間フライトだと、
http://anond.hatelabo.jp/20130903115235
http://d.hatena.ne.jp/potato_gnocchi/20130903/p1
これに関連して
互いを尊重し尽くし合う愛を得られなかった人達がなんか言ってるって感想。id:kongariknow
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20130903115235
「学歴とか家柄とかそんなことのために、愛を犠牲にするのは間違っている」とか言うのが、マスコミや文学、あるいは人権や平等といった制度的な理由で作られた幻想かもしれないということは、もうちょっと考慮されても良いのではないかと思う。
「真実の美しい愛」と「家柄や学歴、金やセックスを目的とした汚い愛」の2種類があり、前者が高貴なもので、後者が汚いものだ・・・なんて、そんな水戸黄門みたいに分かりやすい状況は現実にはそうそうない。人の心はもっと複線的で、矛盾する複数のストーリーがひしめき合う中でさまざまな決定がされる。平たく言えば、恋愛なんてフィーリングなわけで、学歴がどうのこうのというのは、フィーリングを無理やり言葉にして出てくる無数の説明の一つに過ぎない。
学歴だけでなく、お金ととか、セックスの相性とか、パートナーの容姿を友人に自慢できるかとか・・・。恋愛には、そういうあまりロマティックじゃないじゃない構成要素がある。たまに、それを口にして言ってしまう人もいるし、創作の分野ではあえて言語化することも多いけれど、大部分の人はそういうことは言語化せず、「フィーリング」の一部としておくわけだ。こういうものを全部排除して、金もセックスも排除した、純粋な恋愛を考えると、おそらくそれはすでに恋愛ではない。かと言って、恋愛は金でも学歴でもセックスでもない。そういった形で言語化できない「何か」が恋愛だからだ。
さて、重要なことに、学歴とか人種とかで、結婚相手を決めると公言することは、社会的に非難されるか、少なくとも格好悪いとされる。「結婚なんて金のためだ」と言っても多少は非難されるだろうが、学歴とか人種についての発言ほどではないだろう。それは、権利とか平等とか言う、現代社会を支える価値観と反しているからだ。だから、ある程度以上の教育を受けた人間なら、「低学歴だから別れる」とか「人種的に嫌いだから別れる」とか言うことは言葉にして言わないし、場合によっては、自分の心の中ですら、そのようには言語化されない。「うまく言葉にはできないけど、彼女と結婚することには、なんとなく現実味が持てないんだよね」っていう形になる。テレビドラマや小説として消費され続けている「家柄/学歴/障害・・・・を乗り越えて成立した純粋な恋愛」というストーリーは、こういう背景を持って生まれたものだということを忘れてはいけない。
でも、通常は言語化されないからといって、そういう判断が存在しないわけではなく、「学歴が低いから結婚するのをやめよう」という心の動きはある種の人にとっては厳然としてあるそれは他人に強制したり、広めたりする性質のものではなく、単に「そういう心の動きがある」ということを指摘することができるだけだ。そして、そういう言葉にならない心の動きがあるということは、「権利」とか「平等」とか言う価値観によって妨げることはできないし、妨げるべきでもないものだ。
では、「学歴を考慮した恋愛は汚く、学歴を考慮しない恋愛は美しい」のだろうか。あるいは前者はお互いを尊重していなくて、後者はお互いを尊重しているのだろうか。それこそ価値観の問題だが、自分はそんなこと議論することには意味が無いと思う。あるのは好きという感情であって、学歴がどうのこうのというのは後付けの話だからだ。
というわけで一本何か書いてみようという安易な意識からキーボードを叩き始めました。名も無きはてな民です。よろしく。
さて、今回は巷でネット民の熱い羨望を浴びながら、同時にドス黒い憎悪と嫉妬とを育み続ける孤高のネットライター、ドリー氏の行う書評について、何か適当に書いていこうと思います。正直言って資料を用いながらの適確で分析的な記事とかは書く気がしないんで、フィーリングで書いていくことにします。
さて、ドリー氏については説明不要だと思います。あの村上春樹の新作『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』をamazonレビューにてけちょんけちょんに叩き、その軽快でユーモラスな批評において人気を博した、ネットの出身の新鋭ライター・ブロガーでございます。あ、ちなみにこんな風に書くとまるで私自身がドリー氏のモグリか何かのように見えるでしょうが、その心配には及びません。この記事は売名を目的にしてはおりません。
ドリーさんには、今回のamazonレビューを切掛にして、何と出版社からのライターとしての依頼が飛び込んできたようです。何ともまあ、驚くべきことです。ネットからの躍進というものが、こんなに身近な部分で行われているなんて……と、些かめまいのようなものを覚えてしまう塩梅でございます。そんなこんなで、今更になってドリーさんの名前を広める為に誰かが努力をしたりステマをしたりする必要は、今の時点ではおよそ皆無だと言えるでしょう。何たって既にその名前が広がっていく余地が取られているわけですからね。
さてまず、彼の批評について述べる上で、彼の書く批評文においては幾つかのポイントがあるわけですが、それについて紹介していきたいと思います。
自分をアッパークラスならぬダウナークラスに位置付け、そしてそのような低きからの視点において、批判対象(アッパーな雰囲気を纏うものや、ハイソな雰囲気を纏う書物)を叩いていく、というのがドリーさんの基本スタイルとなっております。
こういう風な「ダメ人間」としてのキャラ付けで文章を書くのは、ドリーさんの特徴でもあります。ちなみに、これまで「ダメ人間」としてのキャラでエッセイを書いてきた著名な作家を挙げるとすれば、例えば滝本竜彦とか、あるいは穂村弘などが該当するんではないでしょうか。ともかく彼のレビューは低い視点から行われます。そして必然、そのような視点が読者からの親しみを呼んだり、あるいは共感にまでこぎつけることも当然起こります。こういったことで、ドリー氏はネット層のナイーヴで、どちらかと言えばハイ・カルチャーには属していない人々の人気を勝ち取ってきたというわけです。
ドリー氏がamazonにて村上春樹を批評した手段はまだはてな民の皆さんには記憶に新しいと思うのですが、ドリーさんの真骨頂は、この「形而下ツッコミ」にあります。
ときに、今年の四月中旬に発売された、『色彩を持たない~~』という小説。これは村上春樹の発売した新作なのですが、この小説にはこれまで村上春樹が取り組んできた様々なエッセンスというものが生かされており、また、その他にも新奇な取り組み、挑戦的なメッセージなどが込められた作品でありました。
そのような『色彩を持たない~~』ですが、特にこの作品に込められたメッセージの中で重要なものを上げるとすれば、それは次のようなものになると思います。つまり、「我々の見る〈夢〉と、現実に起きている様々な事象の間には、ある種の相関関係があり、そして我々は夢というものを通じて現実の事象における幾らかのレスポンシビリティー(責任)を共有している」というものです、こうやって一文に纏めると分かりにくいんですが、もう少し分り易くまとめると、要するに「我々は社会的責任や個人としての責任というものを、夢という通路を介して確認することになる」、ということです。このようなメッセージは、恐らく村上春樹氏がこれまで取り組んできた、ユング研究者との間のやりとりや、あるいは彼の人生経験というものを基立ちにして書かれているものだと思われます。そのような点において、村上春樹の主張している文学性というものが光っているのです。
ドリー氏の批評のやり方は、そういった〈文学性〉。いわば、〈形而上学的〉な分野においては、全くタッチしないという、そういう方法論を使ったものだったのです。
これは、私が主観的な立場において評している事柄ではありません。
というのは、こういう「形而下的ツッコミ」とか、あるいは別名「表層ツッコミ」という言葉は、誰でもない、他ならぬドリー氏自身によって発された言葉であるからです。正に彼自身が、彼のレビューのやり方を評して、「表層ツッコミ」。あるいは、「形而下的ツッコミ」と呼び習わしていたのです。
つまり、彼の特徴を一言で述べるならば、その作品の奥深さというものに関してはできるだけ発言を控える。というものなのです。そして、そういった「奥深さ」に関しての発言よりも、もっと身近で物質的な、そういった部分に関して照明を当てる、というのが、ドリー氏の批評術なのでした。
アレ、ちょっと待てよ? という意見が、そろそろ出てきてもいいのではないでしょうか。
というか、若干キレ気味な方というのが、現れてきてもいいんじゃないか、という風に僕は思ってます。なんなんだそれは! と声を荒げてもおかしくない方法論じゃないのかこれは? と、むしろ僕自身がそんな風に思ってきているところです。
ドリーさんのやり方は、例えば以下のようなものです。
『色彩を持たない~~』にて、以下、主人公とその友人「アカ」とのやりとり。
アカは笑った。「嘘偽りはない。あのままだ。しかしもちろんいちばん大事な部分は書かれていない。それはここの中にしかない」、アカは自分のこめかみを指先でとんとんと叩いた。「シェフと同じだ。肝心なところはレシピには書かない」
「あるいはそういうこともあるかもしれない」とアカは言った。それから愉快そうに笑って、指をぱちんと鳴らした。「するどいサーブだ。多崎つくるくんにアドヴァンテージ」
アカは言った。「俺は思うんだが、事実というのは砂に埋もれた都市のようなものだ・・・」
こういった、ちょっとオサレというか、まあそれらしい描写に関して、ドリーさんは以下のように述べています。
なるほど……。と思えるようなツッコミです。確かに、アカの言い方からは、極普通の社会生活を営んでいる方々から見れば、少し苦笑いをしてしまうような、あるいは軽く眉を顰めてしまうような、そういう素振りが端々から匂わされています。
これが、いわゆる「形而下ツッコミ」というものなのです。読者にとって、距離の近い何か、つまり、作中の人間における特徴的な発言とか、あるいは、そのキャラクターが行なっているファッション、あるいはスタイルというもの、そういった身近な位置に存在するものに関して、一つ一つツッコミを入れていく、という技術。これが、ドリーさんが主に自称しているところの、「表層ツッコミ」という技術なのでございます。確かに、このツッコミは面白い(笑)
ぶっちゃけ僕も何度か読み直して笑ったくらいのものです。それくらいに、この「形而下ツッコミ」には効果があります。
しかしです。
実際に、この『色彩を持たない~~』を読み込んでいくと、このようなツッコミに果たして正当性を認めてよいものなのだろうか? というようなメッセージが改めて浮かび上がってきています。
と言いますのは、まず、このアカという人物。なんと、未読の方にはネタバレになってしまうのですが――
――ですから、この先の部分に関しては未読の方は注意して読んで下さい、お願いします――
――同性愛者なのです。しかも、そのような事実に関して、何と自身が女性と結婚関係を持ち、暫くしてから気付いてしまった、というかなり不幸な人物でもあるのです。彼は、結婚後自分の性癖について自覚してしまい、かなりの苦悩を感じていた模様です。
その辺りは、『色彩を持たない~~』本編においてかなり描写が尽くされております。
ところで、ここで、「アレ?」と思われる方はいらっしゃいませんでしょうか?
つまり、ドリーさんのツッコミの内容が、果たして本当に妥当なものなのだろうか? という感想を抱いた方が、ここまでの文章を読んでいて幾らかいるんじゃないかということなのです。
ドリーさんのツッコミの内容は、以下の通りでした。
「『アカ』の臭わせている『自分大好き』臭がひどい、彼の自己陶酔的な態度がヤバい」
しかし、上のような本文の描写を読む限りで、そのようなツッコミはぶっちゃけ間違っていることが、明らかになっています。つまり、むしろ「アカ」の根底には、「自分大好き臭」などではなく、徹底的な自己嫌悪が存在しているということなのです。
付け加えるならば
この「アカ」は、その父親が何と名古屋大学の経済学部で教授職を務めている人物であったりするのですが、そのような父親に対してアカは名状しがたい反感のようなものを抱えて青年時代以降を生きてきていた、ということが本文にて言われています。しかし、多崎つくるが生きている現代の世界、彼が36歳になっている時点において、アカは一般企業向けのサラリーマン育成サービス会社の代表を務めているのですが、何と彼は、自分が忌み嫌っていた父のような、尊大で狭量な振る舞いを、そっくりそのままその会社経営やスピーチにおいて行なってしまっているのを作中で嘆いているのです。つまり、繰り返すように彼の中にあるのは、「自己嫌悪」というべき以上の何物でもない感情なのです。そしてそれを無視したまま、ドリーさんは「自分大好き臭がすごい」、などなどと形而下的ツッコミに終始してしまっているということなのです。
ドリー氏は他にも、レビュー中で多崎つくるのファッションについて言及しており、彼の終盤におけるファッション、「オリーブ・グリーンのバスローブ」について批判しております。
曰く、その色は「クソ緑」とのこと(笑) なんともまあユーモラスな表現ではありませんか。
しかしです。このような緑の色、というのは、西洋においてはいわば「嫉妬」というものを表す象徴的な色でもまたあるのでした。
主人公の多崎つくるは、本編の終盤において、交際相手の女性の浮気現場を目撃してしまい、そのことで苦悩します。そして本作は、作中において何か特定のスタイルや生き方、つまり「色彩」を持てなかった彼が、最終的に嫉妬の感情を表す「オリーブ・グリーン」のバスローブを着込む、ということを最後に、幕が降りることになります。結局のところ、この『色彩を持たない~~』という物語は、多崎つくるというプレーンで如才ない特徴の無かった男が、嫉妬という、これまで無色だった彼にとってあまりにも大きすぎる感情を背負うことになってしまうという作品なのです。そんなテーマが描かれた小説なのでした。
しかし、ドリー氏はこの「オリーブ・グリーン」の比喩に関して、「クソ緑」とただ一言切り捨てたのみなのです。それ以上の言及を、彼は避けております。
これが、いわゆる「形而下ツッコミ」の正体なのです。その、暗喩や文学的比喩といった奥深さに関しては常に除外し、表面的な部分にのみ視点をおいて俗っぽい言葉によって吐き捨てる、というのが、結局のところドリー氏の行っている批評の正体と言えるでしょう。
ドリー氏は、これは個人的な意見になってしまうのですが、はっきり言ってそういった「奥深い部分」に対する想像力、というものを発揮しない(あるいは表立って発言しない)といった批評のやり口に、あまりにも慣れきってしまっている感があります。何というか、そういった相手の表現したい奥深い分野については言及せず、大体において「表層的」あるいは「形而下的」な部分に対してのツッコミだけを行う、というのが彼のスタイルになってしまっているのです。
さて、ここまで長々と書いてきて、結論としては、ドリーさんの批評(クリティーク)においては、あまりにも想像力や文学的表現に対する理解というものが欠けてしまっている、ということが言いたいわけなのです。そんなこんなで、ドリーさんの書籍批評に関しては、以下の言葉でまとめることができるでしょう。やはり、ドリーさんの書籍批評はまちがっている、と
子供の頃から高校くらいまで習っていた楽器を、中年に差し掛かった最近になって習い直すことになったら、大学以来演奏で苦しんでいたことの大半が解決してしまった。
何に苦しんでいたかというと、大きく言って2つ。
それでも楽器のことをあまりよく知らない素人さん相手ならまだ誤魔化せたけど、同じジャンルの音楽経験者からは高確率でツッコまれてきた。
ちなみに再入門のきっかけは上述の悩みのためではなく、弾きたくなった曲が、独学では絶対にマスターできなさそうだからというものだった。
しかし最初のレッスンで、僅か数分の演奏を聞かせた直後、指導者から長年の問題とその原因をズバリ指摘されてしまった。
即ち、とにかく力み過ぎ、無駄な力が入りまくっていると。
というか西洋の楽器は、基本的に手首も肩も全く力を入れる必要はないらしい。
指を使う場合も基本軽く押せば事足りるものであり、少なくとも押せなくなるまでいちいち力を込めて押すものではないと。
そこまで色んな所が力んでいると、音はガッチンゴッチンした硬い音がデフォで、その音を荒っぽいとか汚いとか感じる人が絶対出てくるし、曲によっては力任せにやっつけたみたいな演奏になるわけで。
更に、素早いパッセージではまず指も腕も回らない→焦る→頭に血が上って我を忘れる→走る→ますます弾けなくなるという悪循環。
そもそも熱い演奏というのは胸が熱くなるのであって、頭が熱くなるもんじゃないし。
それで基本に立ち返り、言われた通りに力を抜くようフォームを直したら、腕は素早く動くし、指はスルスル回るし、より楽器は鳴るし、頭が常に冷静なので他の楽器の音もよく聞こえてきて殆ど走らないと、自分でもびっくりするほど改善してしまった。
えーそういうことだったのかー。力の効率的な使い方って一番大事で一番基本なのか。
まあ、力抜けというのは色んな所で目にしてはいたけど、自分がそれに該当するとは思えなかったし、「じゃあどう抜くのか」を懇切丁寧に教えてくれる人も全然いなかったよ。
世の中の上手な奏者は、どこらへんでこの真実に気付くものなのだろう。
これはもう早く理解したほうが絶対にいいことだけど、子供のうちから理解できるとも思えないし。
それと、知り合いにこのことを話したら「弾けてる人にそんな基礎からやらせるレッスンとか嫌味な先生だね。もっと色々な曲をやって楽しくやるのが普通じゃない?」と返されて驚いてしまった。
自分の場合は経験上、そういうフィーリング重視のなんとなく系レッスンでは何一つ身につかないので、これくらい実利的なレッスンのが好みなんだけどなあ。
テーマストアが公開されたので、週末の時間を使ってちょっと作ってみたんだけど、想像以上に手間がかかったのでまだ完成してない。
手引きに「オリジナルテーマの作成は、CSSの知識がある方を対象にしています。」なんて逃げを打ってるけどさ。プロ向けにしたってちょっと投げっぱなしじゃないの?
そのため、気合いで解析する必要がある。保守するプログラムに設計書もコメントもないなんて常識だよねー、的な? まあ頑張ってFirebugするわけですが、当然、解析できるのはCSSの構造までであり、そのスタイルの意図などはわかるはずもないわけで。もしかしてアレですか。Webデザイナであればフィーリングで伝わるようなレベルの問題なんでしょうか。私のような卑しいSIerのエンジニアはWeb業界に転職してから出直した方がいいのでしょうか。
テスト用に別ブログを自分で開設し(!)、自分であらゆる表示パターンを網羅するテストページを作成(!!)し、カスタムCSSを記述しては保存、各種確認URLを開いて回る、ということを公式に求める始末。なんではてな様のテーマ作成コスト削減にそんな苦労をしてまで貢献しないといかんのですか。ちなみに手引きで紹介されているサンプルエントリーでは何かと不十分。脚注とかないし。シンタックスハイライトじゃないPREないし。コメントとかスターとか自分でつけないとだし。複数ページないとPagerでてこないし。つーか、はてなの公式テーマとか作ったときに使ったテスト用HTMLやテストケースを公開してくれればいいんでないの。・・・あるよね?
この前のトップページデザイン変更もそうだけど((自分の場合、横方向の視線移動を求められるようになったのが苦痛で仕方が無い))。使う人のこと、基本的にあんまり考えてないよね、はてな。とにかく、はやりの技術やデザインを使ってみたいんだろうね。それがユーザーにとっていいかどうかは二の次なんだろうね。個人の趣味じゃないんだからさ。ねえ。お願いしますよ。こんなんで月980円(だっけ?)もとろうだなんてどうかしてるよ。
公式でも投稿でもいいからはてなダイアリー並にテーマがたくさん使えるようになるのはいつなんでしょう。
あと全然別の話だけどついでに文句書いておくと、スマホ用はてブのWebはなんでわざわざAjaxでPager実装しているの? だって最新ホットエントリー一覧なんて、前のページのコンテンツ保持しておく必要性も薄いじゃない。何が困るって、次ページ読み込み中(■がくるくるしてる状態)に電波切れると(地下鉄とかね)、ボタン押せなくなってるから電波復帰してもどうにもならなくなるのよね。リロードすると1ページ目に戻るし。普通にリンクで次ページ遷移じゃダメなの?